六
スピカは祈っていた。
神界のモニターに映る戦場は、まだ完全には静まっていない。テイク3で青年に授けた神託――「私に祈るのです」――は確かに届いた。青年は剣を置き、膝をついて祈りの姿勢を取った。それを見たリザードマンも動きを止めた。けれど、それだけだ。二人の間に横たわる殺意は消えていない。停まっているだけで、終わっていない。
「日常が続きますように」
スピカは両手を組んで、声が枯れるまで繰り返した。信仰ポイントの残量表示はほとんど光を失っていて、数字が読めないほど薄い。戦場に日常の領域を展開する事が、これほどまで負荷の高い奇跡だとは思わなかった。まだ奇跡を起こすに足りる信仰ポイントはない。神託をもう一度送る余裕もない。できることは、ただ祈ることだけだった。
女神が、祈っている。
信者に祈られる側の存在が、信者のために祈っている。その矛盾に気づく者は、この時点では誰もいなかった。
スピカの隣には誰もいない。
いつもなら椅子の背もたれに腕を乗せて、「何点だ」と冷静に採点してくるプロデューサーの姿がなかった。
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ズーPは、真っ当な神々が足を踏み入れない場所にいた。
神界と冥界の境界。光も届かない裏路地は腐った果実と安酒の臭いが混じり合い、まともな神格なら鼻を押さえて引き返す。石畳は苔むし、壁にはかつて誰かが刻んだ呪詛の落書きが風化しかけている。
その奥に、悪趣味な金の輿があった。
輿の上で、下級邪神1号がだらしなく寝そべっていた。左手に安物の杯、右手には読みかけの巻物――いや、読みかけですらない。足元には信者からの祈りが記された巻物が未開封のまま山と積まれ、その山の上に空の杯がいくつも転がっている。
「……おい」
ズーPの声は低かった。
邪神1号は杯を傾けたまま、片目だけ開けた。
「あぁ? なんでおじゃ、こんな裏路地まで……ひっ」
胸倉を掴まれていた。
輿から引きずり出され、壁に押しつけられた邪神1号の足は地面についていない。目の前にあるのは、一切の温度を失ったズーPの顔だった。
「おたくの信者が、うちの女神の信者と戦争してるんだが」
「せ、戦争……? いや知らんでおじゃ、わらわは何も」
「知らない?」
ズーPは邪神1号の足元に積まれた巻物の山を一瞥した。
「こいつはお前の信者の祈りだろ……一つも読んでないのか?」
「だ、だって読んでも面白くないでおじゃ! 『敵を滅ぼしたまえ』だの『勝利をお与えください』だの、そんなのばっかりで……ぐえっ」
「それがお前の仕事だろうが」
声の温度がさらに一段下がった。邪神1号の背筋に、冷たいものが走る。
ズーさんの目に、蒼い光が灯った。
雷――ではない。雷の、もっと手前にあるもの。空気中の水分が一瞬で蒸発し、裏路地の腐った臭いが焼き切れて消えた。壁に刻まれた呪詛の落書きが、光に炙られて薄くなる。
「今度うちの女神を泣かせてみろ」
蒼い光が邪神1号の瞳に映り込んだ。
「おたくの信者ごと、消し炭にしてやる」
邪神1号は生まれて初めて、自分の心臓がどこにあるかを正確に理解した。そこが凍っていたからだ。
「い、いますぐ撤退させるでおじゃ! 撤退! 即撤退でおじゃ!」
「神託を出せ。いま、ここで」
「し、神託……」
邪神1号の顔が歪んだ。泣きそうな、というより、泣いていた。
「わらわ、神託なんて出したことないでおじゃ……!」
ズーさんの指が胸倉から離れた。邪神1号はずるずると壁を滑り落ち、地面に尻餅をつく。
「…………出し方は」
「知ってるでおじゃ! 知識としては! 実技がないだけで……」
「やれ」
一言だった。
邪神1号は震える両手を持ち上げた。信者に語りかけるための術式。神であれば生まれながらに備わっているはずの、最も基本的な能力。それを一度も使ったことがないという事実が、この邪神の本質をすべて物語っていた。
紫色の光が、邪神1号の掌に弱々しく灯った。
戦場のリザードマンの脳内に、声が響いた。
初めて聞く声だった。
生まれてから一度も、祈りに応えてくれたことのない神の声。それは威厳とは程遠い、裏返った悲鳴のような響きだった。
『り、理由は聞くな! いますぐ退くのでおじゃ! いますぐ! 死にたくなかったら走るでおじゃぁぁぁ!』
リザードマンは動きを止めた。
目の前では人間の青年が膝をつき、首のお守りを握りしめて祈っている。殺すなら今だ。これほど無防備な敵を見逃す理由は、戦場の論理にはない。
だが、頭の中に響いた声は「絶対」だった。
リザードマンにとって、神託とは教義の中だけに存在する概念だった。「神は語りかけてくださる」と伝承にはあったが、自分が生まれてからただの一度も、その声を聞いたことはなかった。祈っても応えはなく、自分の判断で戦い、自分の足で生き延びてきた。神は沈黙するものだと、いつしか思い込んでいた。
それが――来た。
初めて届いた神の言葉。
内容は情けなかった。威厳もなければ指針もない。ただの悲鳴だ。けれど、それは確かに、自分だけに向けられた声だった。
「……運のいい人間だ」
リザードマンは大剣を鞘に収めた。
青年が顔を上げた。鱗に覆われた巨躯が背を向けるのを、信じられないという目で見ている。
「……次はないぞ」
リザードマンはそれだけ言って、戦場を去った。
振り返らなかった。
困惑する青年。だが——生きている。傷はあるが、命はある。
首のお守りがまだ温かかった。青年はそれを握りしめて、ぽつりと呟いた。
「……女神さま、ありがとうございます」
小さな祈りが、お守りに染み込んでいく。
信仰ポイントが——ほんの少しだけ、回復した。




