五
三度目の戦場。
同じ荒野。同じ土埃。同じ恐怖の匂い。
パン屋の青年は何も知らずに剣を構えている。リザードマンは何も知らずに大剣を掲げている。
どちらも傷つけたくないスピカは、どうすれば戦いを収められるかわからない。あわあわしながら、ただいたずらに奇跡を消耗していった。
二人がかつて兄弟だった世界線があったことも、二度やり直していることも。
知っているのは、スピカだけ。
「プロデューサー」
「なんだ」
「信仰ポイント、あとどれくらい残ってますか」
ズーPがスマホを確認する。
「……さっきの半分くらいの奇跡なら、もう一回飛ばせるか飛ばせないか、ってところだな」
「半分の、奇跡」
スピカは自分の手のひらを見つめた。
小さな手だ。パンを捏ねるにはちょうどいいけれど、剣を握ったことはない。炎を出したこともない。嵐を起こしたことも、敵を打ち倒したこともない。
この手にできるのは、パンが美味しく焼けるように祈ること。赤ちゃんが泣き止むように祈ること。隣の人がそっと消しゴムを貸してくれるように祈ること。
そんな——ちいさな、ちいさなこと。
(でも)
モニターの中で、パン屋の青年がお守りを握りしめていた。
(この人は、その小さなことを喜んで、私に祈ってくれた人だ)
パンが美味しく焼けますように。それだけの祈りを、毎朝欠かさず捧げてくれた。
この世界がどんなに荒れても、窯に火を入れて、パンを焼いて、常連さんに渡すことをやめなかった人。
スピカは——涙を拭いた。
今度は泣かない。泣いている場合じゃない。
「プロデューサー」
「ああ」
「私、神託を使います」
「内容は?」
スピカは一度だけ深呼吸した。それから、真っすぐにモニターを見据えて言った。
「——パン屋さんに、『私に祈ってください』って伝えます」
ズーPの眉が、わずかに動いた。
「……戦場の真っ只中で、祈れと言うのか」
「はい」
「戦え、じゃなく。逃げろ、でもなく」
「はい。——祈ってくださいって、お願いします。今ならまだ間に合うかもしれない。もう一度信仰ポイントを貯めて、最後に私にできる、最大の奇跡を起こします」
ズーPはスピカの目を見た。
泣き虫の目。おろおろした目。だが——そこに一本だけ、折れない芯が通っていた。
「……お前の信者だ。お前が決めろ」
スピカは頷いた。
残りわずかな信仰ポイントを——最後の一滴まで込めて、神託を放った。
戦場。
リザードマンが大剣を振りかぶった瞬間。
青年の首のお守りが——温かくなった。
温かいなんてものじゃなかった。窯に火を入れた朝の、あの最初のひと息のような。小麦が焼ける匂いが立ちのぼる、あの一瞬のような。
そして——声が聞こえた。
小さな声。震えている。泣きそうな声。だけど——必死な声。
『——青年よ。私に、祈るのです』
青年は目を見開いた。
女神の声だ。お守りの。あの——パンが美味しく焼けるようにしてくれる、あの女神の声。
『私を信じて、祈ってください。——お願いです』
声は震えていた。今にも消えそうだった。
でも。
青年は神託を聞くと、剣を鞘におさめ、その場にひざまずいた。
青年はすべてを信じて両手を合わせた。
お守りを包んで、目を閉じた。
「——女神さま」
リザードマンの動きが、止まった。
裂けた瞳孔が、青年の姿を凝視している。
敵対する人間が、戦場のまんなかで、手を合わせて祈っている。
果たして、リザードマンに祈りは理解できたのか。
奇跡が起きた。
リザードマンの大剣が——ゆっくりと、下がった。
「……ふん」
リザードマンは低く唸った。
「祈りの最中に攻撃するなど、戦士の恥よ」
そして、大剣を地面に突き立て、自らも目を閉じた。
巨体が静かになる。鱗に覆われた手が、腰の巾着袋——邪神のお守りを握っていた。
人間が人間の神に祈り、魔物が魔物の神に祈っている。
剣を交えていた二人が、並んで祈っている。
スピカの半分の奇跡は、戦場にほんのつかの間の日常を取り戻すものだった。
周囲には砂煙が立ちこめ、聞こえていた兵士たちの声は、どこかに遠のいていった。
しばらくの間、その場所だけが、嘘のように静かだった。
ズーPの目は、リザードマンの手元で止まっていた。
鱗に覆われた手が握っているのは——邪神のお守り。
「……そうか、こいつにも神がいるのか」




