三
戦場には風の匂いがある。
血と鉄と、焦げた土。それから——恐怖の匂い。人間も魔物も、恐怖だけは同じ匂いがする。
パン屋の青年は、呼吸を整えようとした。整わなかった。
目の前のリザードマンは、先ほどの一撃を外したことに苛立っているようだった。裂けた瞳孔がぎょろりと動き、青年を捉える。
(死ぬのか、俺は)
思った。思ってしまった。思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
だから青年は、お守りを握った。
(女神さま。俺はまだパンを焼きたい。あの窯にもう一度火を入れたい。
村娘の常連さんに三個、無愛想なお客さんに一個、焼きたてのパンを渡したい。——だから)
祈りは言葉にならなかった。ただ、握りしめた木彫りのお守りが——ほんのわずかに、温かくなった。
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神界。
スピカはモニターの前で拳を握っていた。
お守りに届いた祈りが、スピカの胸の奥にそのまま流れ込んでくる。パンを焼きたい。窯に火を入れたい。常連さんにパンを渡したい。
なんて小さな祈りだろう。
なんて——温かい祈りだろう。
「プロデューサー」
「なんだ」
「この人の祈り、聞こえました。でも——やっぱり、私にはどうすればいいか分かりません」
「……」
ズーPはスピカの横顔を見た。
泣き虫で、おろおろしていて、戦う力なんか欠片もない。だが——その目だけは、信者の祈りから逸らさなかった。
ズーPは、ひとつ息を吐いた。
「——一回だけだぞ」
「え?」
「一回だけ、俺が力を貸してやる。お前の信仰ポイントを俺が運用して、最大効率の奇跡を起こす。プロの仕事を見せてやるから、よく見ておけ」
スピカの目がぱっと輝いた。
「本当ですか!?」
「ただし、これはデモンストレーションだ。次からは自分でやれ。——いくぞ」
ズーPがスマホを操作する。画面には青年のお守りの信仰ポイント残量がリアルタイムで表示されている。
「今だ、力を解放しろ」
「はい!」
ズーPの指がスマホの画面を弾いた。
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戦場に、光が降った。
柔らかい、金色の光。太陽でも月でもない、名前のつかない温もり。
パン屋の青年は目を瞬いた。身体の震えが止まっている。
リザードマンも大剣を下ろし、困惑したように光を見上げた。
光の中で、二人の間に——何かが起こった。
青年の首のお守りが淡く発光し、リザードマンの腰に下げられた小さな巾着袋——邪神のお守りだ——が、同じように光を放った。
二つの光が呼応するように震え、そして。
記憶が流れ込んだ。
パン屋の青年が、リザードマンの姿に、はっと何かに気づいたように声を上げた。
「兄さん!?」
リザードマンも、パン屋の青年の姿に、驚きを隠せない表情で声を上げた。
「弟よ!」
二人は剣を落とし、抱き合って泣いた。
戦場の真ん中で、人間と魔物が号泣している。周囲の兵士たちは困惑し、戦いの手を止めた。
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神界。
スピカは感動のあまり号泣していた。
「うわぁぁぁん! よかったぁ! 兄弟だったんですねぇ! プロデューサーすごいですぅ!」
「泣くな。結果を見ろ」
ズーPはスマホの画面を突きつけた。
【信仰ポイント:0】
完全にゼロだった。
「ふぇ?」
「全消費だ。感動的な奇跡だったが、信仰ポイントを全部使い切った。これじゃ次の奇跡が一切起こせない。
お守りも空っぽだ。信者の祈りがまたゼロから溜まるまで、お前は何もできなくなる」
「え、えぇぇぇ……!?」
「これが『力任せの奇跡』の末路だ。一回の感動のために全財産を使う馬鹿がどこにいる」
「で、でも、二人が兄弟だって分かって——」
「いや、普通に考えてリザードマンと人間が兄弟なわけないだろ。たぶん事実改変もいくつか複合的に使ってるな。2人が兄弟だと分かったところで戦争は終わらねえ。魔物と人間が一緒にいられるわけがないから板挟みになるだろう。その時お前に2人を助ける力は残ってない。分かるか? 持続不可能なんだよ」
スピカは顔面蒼白になった。
ズーPは頭を掻き、スマホで電話をかけた。
コール音。三回。四回。五回——。
『——はい、時空管理局、アウネラっす』
気だるい声が応答した。受話器の向こうからはキーボードを叩く音とエナジードリンクの缶を開ける音が同時に聞こえてくる。
「アウネラ。巻き戻しを頼む」
『……はぁ?』
「人間界の時間を、戦闘開始前まで巻き戻せ」
沈黙が流れた。キーボードの音が止まった。
『ズーさん。むちゃ言わないでくださいっすよ。人間界の時間巻き戻しは上位権限案件っすよ? 他の神々への影響は? 申請書は? ていうか私いま締め切り三本抱えてるんすけど?』
「頼む」
『一言で済ませないでくださいっす!』
「……頼む。一回だけだ」
アウネラは盛大にため息をついた。エナジードリンクを一気に飲み干す音が聞こえた。
『……一回だけっすよ。絶対。一回だけ』
水晶モニターの映像が——ぶれた。
キュルキュルキュルキュル。
巻き戻しの音。テープを逆回転させたような、どこかコミカルな効果音とともに、戦場の映像が逆再生されていく。
抱き合って泣いていた二人が離れ、剣が地面から手に戻り、光が空に吸い込まれ——
すべてが、戦闘開始の瞬間に戻った。
パン屋の青年がリザードマンと対峙している。兄弟だった記憶は消えている。何も知らない二人が、また殺し合おうとしている。
スピカだけが、すべてを覚えていた。
「あの二人が兄弟だって、もう本人たちは知らないんですね……」
「いや、だから事実改変が起ったんだって。だが——ちゃんと大きい奇跡の起こし方も分かっているようだな。今の感覚を忘れずに、今度はお前自身の力でやれ」
スピカは拳を握った。涙を拭いた。
「……やります」




