六
同じ頃——神界。
「——起きろ! いつまで寝てんだ!」
バン、と扉が蹴り開けられる音で、スピカは飛び起きた。
寝台の上で毛布にくるまっていたスピカの目の前に、腰に手を当てたフレマルが仁王立ちしていた。赤い髪が逆光で燃えるように見える。
「フ、フレマルちゃん……? おはようございます……」
「おはようじゃないっての! もう昼過ぎだよ!」
昼過ぎ。
スピカの意識が一気に覚醒した。
昨夜——月の女神に抱きしめられて、泣きながら眠りについた。温泉旅館の縁側の記憶。巻き戻された世界。明日——いや、今日起きるはずだった惨劇。
血に染まったアクスタ。パン屋の青年の震える手。リザードマンの最後の言葉。
「寝坊した……! パンの女神なのに……!」
朝の早いパン屋を見守る女神が寝坊するなど、彼女の存在意義に関わる大問題だった。
スピカは蒼白になって寝台から転がり落ちた。毛布が足に絡まり、床に肘を打った。痛みなど感じなかった。
「ちょ、大丈夫!? なに、そんな顔してんの——」
「フレマルちゃん! 人間界は!? 今、人間界はどうなって——!」
「はぁ? 何って、別に……停戦期間で平和そのものだけど」
「本当に!? 内紛とか、血とか、アクスタとか——」
「アクスタがどうしたってのよ……寝ぼけてんの?」
フレマルが怪訝な顔で腕を組んでいる。その顔に血飛沫はない。赤い髪はいつも通り赤い。戦争の赤ではなく、ただのフレマルの赤。
スピカは転がるように部屋を飛び出した。
裸足のまま神界の回廊を走り、展望台——人間界を見下ろせる水鏡の前に辿り着いた。息が上がっている。寝癖だらけの白い髪が頬に張りついている。
モニターに手を触れた。冷たい水面が波紋を立て、映像が浮かび上がる。
映ったのは——。
燃える街ではなかった。
血に染まった路地ではなかった。
刃を向け合う群衆ではなかった。
街外れの麦畑。
夕陽が麦の穂を黄金色に染めている。
そこに二つの影があった。
片方は——リザードマンだった。緑の鱗。外套のフードが脱げ、黄色い目が夕陽を受けて琥珀色に光っている。胸元に、三つのアクスタが揺れている。
もう片方は——パン屋の青年だった。包帯の巻かれた右腕。首に白いお守り。買い物籠は途中でどこかに落としてきたらしく、手ぶらだった。
二人は向かい合って立っていた。
リザードマンが片手を上げた。パン屋の青年も片手を上げた。
ただそれだけの——別れの仕草だった。
リザードマンが踵を返し、魔物の領域へ続く獣道に歩き始めた。パン屋の青年は街の方へ歩き出した。二つの影が離れていく。夕陽が長い影を引いて、麦の穂の間に溶けていく。
「…………え?」
スピカは目を丸くした。
モニターの映像をもう一度確認した。街は無事だった。通りにはまだフェスの旗がはためいている。子供たちが走り回っている。露店の親父が焼き菓子を売っている。血の一滴も流れていない。
後ろから、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「ちょっと、いきなり走り出さないでよ!」
フレマルが追いついてきた。その後ろから、ポメルとデディーナも顔を覗かせている。
「何の騒ぎやの〜?」
ポメルがのんびりと首を傾げた。青い髪を耳にかけ、モニターを覗き込む。
「あら、パン屋さんと……リザードマン? 珍しい組み合わせですわね」
デディーナが少し驚いた様子で口元に手を当てた。だがすぐにいつもの穏やかな微笑みに戻り、「停戦期間中ですもの、こういうこともありますわ」と頷いた。
フレマルがモニターを覗き込み、眉を寄せた。
「何よ、パン屋と魔物が手ぇ振ってるだけじゃん。平和なもんね」
「…………」
スピカはモニターから顔を上げた。
何があったのか、わからなかった。自分が眠っている間に——前の世界線で血に染まったあの街が、どうしてこんなに穏やかなのか。巻き戻したのは昨日だ。同じ日が、違う結末を迎えている。
誰が、何を変えたのか。
スピカはゆっくりと振り返り、集まった女神たちの顔を見渡した。
フレマルが腕を組んで立っている。何も知らない顔。
ポメルが「スピカちゃん寝ぼけてるんちゃう?」と笑っている。
デディーナが「お寝坊さんですわね」と困ったように首を傾げている。
——そしてその一番後ろに。
ツクナが立っていた。
紫の衣をまとい、廊下の壁に肩をもたせかけ、腕を組んでいる。いつもの場所。いつもの佇まい。目を閉じていて、水鏡を覗こうともしない。
「……何があったの?」
スピカの声は小さかった。問いは全員に向けたものだった。だが、答えを持っている者が誰なのか——スピカには何となくわかっていた。
フレマルが「知らないわよ。あんたが寝てる間に何かあったの?」と眉を寄せた。
ポメルが「平和やったで〜。わたし海でずっとPV撮ってたし」と両手を広げた。
デディーナが「私は……少し散歩をしておりましたわ」と、目を泳がせた。
そしてツクナは——。
目を開けた。
紫の瞳がスピカを見た。
何も言わなかった。
ただ——静かに、微笑んだ。
すべてを知っている目だった。
スピカはその微笑みの意味がわからなかった。
わからなかったけれど——昨夜、温泉旅館の縁側で抱きしめてもらった温もりを思い出して、鼻の奥がつんと熱くなった。
泣くな、と思った。まだ何もわかっていないのに泣くな。
でも少しだけ——ほんの少しだけ、目の縁が滲んだ。
---
——後日。神界の最下層。地獄。
灼熱の岩盤と硫黄の靄が立ち込める空間に、場違いなほど快適な応接間が設えられていた。
黒檀のテーブル。革張りの椅子。氷の入ったグラス。そしてテーブルの上に並べられた、海辺のバカンス映像を記録した水晶球の数々。
「——ほんなら、このアングルのやつはセットで銀貨50枚」
ポメルが水晶球を指で弾きながら、商談を進めていた。青い髪をかきあげ、関西弁の口調で次々と値段を読み上げていく。
「PV撮影のメイキングが銀貨30枚。フレマルの着替えシーン——これは女神の加護で謎の光が入っとるから減額して20枚。デディーナが波打ち際で転んだやつは希少価値込みで80枚。どや?」
テーブルの向かい側には、邪神1号と2号が座っていた。
邪神1号は水晶球に顔をくっつけ、瞳孔が最大まで開いている。「すばら……すばらしいのでおじゃ……」
邪神2号はフレマルのストロベリー味シェイク(2杯目)をずるずると啜りながら、「着替えシーンの謎の光を外す方法はございませぬか」と真顔で聞いていた。
「ないない。女神の加護なめんな」
ポメルがけらけらと笑った。商売は順調だった。
水辺は彼女の領域だ。水の精霊ニンフたちを使って撮影すれば、神々の結界を突破して女神たちのお宝映像を取る事など、造作もない。
先日、スピカがツクナのいる温泉旅館に行ったと聞き、「これは何かあるでー」という勘が働いてニンフたちを総動員し、ゲットしたお泊り映像を、試供品として邪神1号に見せていたのも彼女だった。
その結果として人間界で戦争が回避されていたことなど、ポメル自身は知る由もなかった。
とにかく停戦期間中にしか手に入らない女神たちのオフショット映像は、地獄では金に糸目をつけない超プレミアム商品なのだ。
「ほな、まとめて全部買いでええか? 今なら特典でツクナの温泉映像も——」
海の女神の声が途切れた。
空気が変わった。
灼熱だった部屋の温度が、一瞬で氷点下に落ちた。
邪神1号の歯がカチカチと鳴り始めた。邪神2号のシェイクが凍りついた。
応接間の奥——暗闇の中から、足音が近づいてきた。
靴音ではなかった。蹄の音だった。硬い爪が岩盤を叩く、規則正しい四拍子。
暗闇から最初に見えたのは、二つの目だった。濁った赤。溶岩のように脈動する虹彩。瞳孔は縦に裂け、その奥に底なしの憎悪が渦巻いている。
「——ほぅ」
声が響いた。低く、粘つくような、地の底から這い上がってくる声。
暗闘から巨大な影が姿を現した。
山羊の角。漆黒の鎧。裂けた口元に浮かぶ、三日月型の笑み。
上級邪神は、ゆっくりとテーブルに近づいた。巨大な体躯が椅子に収まると、黒檀のテーブルが軋みを上げた。
濁った赤い目が、テーブルの上の水晶球を一つ一つ眺めた。
「ビジネスパートナー、か……」
上級邪神が呟いた。
ポメルは動けなかった。
商売人の直感が叫んでいた。逃げろ。今すぐこの場を離れろ。この相手は銀貨で買えるような存在ではない。
だが足が凍りついたように動かない。
(あかん……あかん、あかん、あかん……こいつはとんでもない大物が出てきよった……
『冥王』や……!)
——冥王。
地獄を統べる者。邪神たちの王。そして——ズーPが「ズース」と呼ばれていた時代からの、宿敵。
冥王の視線が、海の女神に向いた。
「——いいねぇ」
笑っていた。口元だけが。目は笑っていなかった。




