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 神界というのは、人間が思い描くほど荘厳な場所ではない。


 もちろん神殿はある。白い柱が並び、天井画には世界の創造が描かれ、

噴水には清らかな水が湧いている。だが柱の裏にはグッズの在庫が積まれているし、

天井画の一部は予算不足で未完成だし、噴水の水はしょっちゅう止まる。


 そんな神界の目抜き通りに、ひとつの巨大なビルがそびえていた。


 ——『ズーP事務所』。


 見上げれば首が痛くなるほど高い白亜の建物だ。エントランスには磨き上げられた大理石の柱が左右に並び、吹き抜けのロビーには季節ごとに絵柄が変わるステンドグラスが天井いっぱいにはめ込まれている。今の時期は麦の穂を抱いた女神が描かれていて、

金色の光を床に落としていた。誰の絵かは知らない。たぶん偉い女神さまだ。


 壁一面を埋めるのは、所属女神たちのポスターだった。

 炎を背負って腕を組むフレマルのメインビジュアル。

 波しぶきの中でウインクするポメルのグラビアカット。

 花畑で微笑むデディーナの清楚なアーティスト写真。

 そして——月を背にして、ただこちらを見ているツクナの一枚。

 どれもイメージカラーに合わせたフレームに収められ、

ロビーそのものがひとつの展示会場のようだった。


 受付カウンターの向こうでは、ニンフたちがひっきりなしに水晶端末を操作している。

フェスの会場押さえ、グッズの発注確認、地方神殿への巡業スケジュール調整。

飛び交う声と書類の束が、ここが信仰ビジネスの最前線であることを物語っていた。


 廊下を歩けば、左右にレッスンルームが並んでいる。防音結界の向こうから若い女神たちの歌声や振り付けの号令がくぐもって聞こえてくる。すれ違う女神たちはみな華やかで、自信に満ちていて、サイリウムの残光みたいに輝いていた。


 ——で。


 その巨大ビルの四階、廊下のいちばん奥。

 給湯室と資料倉庫に挟まれた、ドアプレートすら外れかけている小部屋が、

新人女神スピカに与えられた「専用ルーム」だった。


 中には古びた机がひとつ、折りたたみ椅子が二脚、壁に貼られた信者数推移のグラフがあるだけ。グラフは右肩下がりの崖である。隣の給湯室からは誰かがお茶を淹れる音がして、ときどきポットが沸く蒸気が壁越しに伝わってきて、

微妙にじめじめしている。


 下の階からは大物女神たちのレッスン曲が床を通じてずんずん響いてくる。

華やかな重低音が、この小部屋の惨めさをいっそう引き立てた。


 そんな部屋の隅で、新人女神スピカは泣いていた。


「う、うぅぅぅ……」


 膝を抱えて、ぽろぽろと涙をこぼしている。目の前のテーブルには、今期の信者数ランキングが印刷された紙が置かれていた。

 スピカの名前は——ランキングの最下位圏に、かろうじて載っている。


 信者数:三名。


 たった三人。


 廊下を通りかかったニンフが、ドアの隙間からちらりと中を覗いて、

そっと目をそらして足早に去っていった。この部屋に新人がいることを、

ビルの大半の住人は知らない。知っていても、覚えていない。


「なんでぇ……なんでみんな、戦争の女神さまのところに行っちゃうの……」


 スピカの司る領域は「パン・日常の小さな幸せ」である。平和な時代には、

そこそこ信仰を集めていた。パンがうまく焼ける。洗濯物がよく乾く。

赤ちゃんが泣き止む。隣の席の人がそっと消しゴムを貸してくれる。

そういう、ささやかで、温かくて、本当は一番大切なはずの奇跡たち。


 だが——時代が変わった。


 大陸の均衡が崩れ、戦国の世が始まった。人々が求めるのは、敵を打ち倒す炎の力、嵐を呼ぶ雷の加護、戦場で生き延びるための鉄壁の守り。勝利と生存。

それだけが祈りの中身になった。


 信仰の奔流は戦争神フレマルのもとへ殺到し、マイナー女神たちは次々と信者を失い、消滅していった。


 信仰ポイントが枯渇すれば、女神は存在ごと消える。

 それが——この世界のルール。


 スピカのお守りに蓄積された信仰ポイントは、もう残りわずかだった。


「パンがうまく焼けたって、戦争には勝てないもんね……わかってるもん……でもぉ……」


 ずび、と鼻をすする。


「パンが美味しいのだって、すっごく大事なことなのにぃ……!」


 その声は、小部屋の薄い壁の向こうにすら届かない。

いや、隣は給湯室だから、ポットの蒸気が聞いてるかもしれないけど、ポットに信仰心はない。届いたところで、今の神界は戦争特需の好景気に沸いている。派手な奇跡を売りにするトップ女神たちのコンサートチケットは即完売、グッズは飛ぶように売れ、信仰ポイントは天文学的な数字を記録している。


 この同じビルの、ほんの二階下で。


 パンの女神の小さな泣き声など、誰も聞いていなかった。


 ——誰も、と言いたいところだが。


「おい」


 ドアが蹴り開けられた。

 もともと外れかけていたドアプレートが、今度こそ床に落ちた。


「いつまで泣いてるんだ。仕事の時間だぞ」


 スピカは顔を上げた。

 涙でぐしゃぐしゃの顔の向こうに、背の高い男が立っている。


 黒いロングコートに、無造作に撫でつけた銀髪。切れ長の目は冷たいが、

どこか——ほんのどこかに、面倒くさそうな優しさが潜んでいる。右手にはスマホ、

左手にはコーヒーの紙カップ。


 ズーP。


 本名不詳。経歴不詳。しかし神界では知らぬ者のいないカリスマプロデューサー。

過去には数多くの女神をトップアイドルに育て上げた伝説を持ち、

このビルに名を冠する男。大物女神グループをはじめ、百を超える女神のキャリアがこの男の手を通っている。


 ——のだが。


 最上階のプロデューサー室は、マネージャーのヘミラが「必要な書類以外持ち込み禁止」と管理しているせいで居心地が悪いらしく、最近のズーさんはもっぱらこの四階の小部屋に入り浸っている。折りたたみ椅子の座り心地が気に入ったとかなんとか。理由は不明。ヘミラは毎回ため息をついている。


 スピカは涙を拭いて立ち上がった——が、勢いよく立ちすぎて椅子の脚に引っかかり、

盛大につんのめった。


「ひゃっ——!」


 べしゃ、と床に突っ伏す。

 隣の給湯室で、誰かがお茶を吹いた音がした。


 ズーPはコーヒーを一口飲んだ。


「……信者数は見たな」


「み、見ましたぁ……三人ですぅ……」


 床に突っ伏したまま、くぐもった声で答える。


「三人。全盛期の百二十分の一だ。来期これ以上減ったら、お前は消滅する」


「消滅ぅ!?」


 スピカが弾かれたように顔を上げた。


「消滅って、あの、存在ごと消えちゃうやつですか!?」


「他にどんな消滅がある」


「い、いやです! 消えたくないです! プロデューサー、助けてぇ~!」


「助けるのは俺じゃない。お前自身だ」


 ズーPはスピカの前にしゃがみ込んで、冷たい目で真っすぐに見つめた。


「いいか。お前を信仰している人間が何を欲しているか——よく見て、奇跡を起こすんだ。的外れな奇跡は信仰ポイントの無駄遣いだ。相手が何を祈っているのか、

まず聞け」


「で、でも、三人しかいないんですよ……?」


「三人いりゃ十分だ。三人の祈りに全力で応えろ。話はそれからだ」


 ズーPはスマホを操作し、壁際の水晶モニターに映像を映し出した。

 水晶モニターだけはやたら最新型だった。スピカの部屋の備品で唯一まともなのがこれだという事実が、ズーPの優先順位をよく表している。


 人間界の映像だ。


 どこかの荒野。土埃が舞い、地面は赤黒く染まっている。

 戦場だった。


 その真ん中で、一人の青年が剣を構えていた。ぼろぼろの革鎧。頬に泥と血がこびりついている。息は荒く、足は震え、それでも剣を握る手だけは離さない。


 首に——白い紐のお守りが揺れていた。


「あ」


 スピカが目を見開いた。


「パン屋さん……!」


 青年の正面に、巨大な影が立ちはだかっていた。

 鱗に覆われた身体。裂けた瞳孔。二メートルを超える体躯に、

錆びた大剣を片手でぶら下げている。


 リザードマン。


 魔物と人間の戦争。大陸の東から押し寄せた魔物の軍勢と、人間の王国軍の前線が、まさにここで衝突していた。


 パン屋の青年は徴兵された一般兵だ。剣など握ったこともない、

パンを捏ねるための手で、今まさに命を削っている。


「プロデューサー! パン屋さんが、パン屋さんが戦ってます!」


「見りゃ分かる」


「助けなきゃ! 奇跡を起こさなきゃ!」


 スピカは水晶モニターに駆け寄った。青年のお守りに蓄積された信仰ポイントを確認する。

 数値は——心許ないほど少なかった。


「……これだけしかないの?」


「毎朝パンを焼く前に一回祈ってる。それだけの蓄積だ。派手な奇跡は無理だな」


「そんな……」


 水晶の中では、リザードマンが大剣を振りかぶっていた。


「ひっ——!」


 スピカは両手で顔を覆った。しかし指の隙間から目を離せない。


 青年は辛うじて横に転がって斬撃をかわした。大剣が地面を割り、土砂が吹き上がる。青年はよろめきながら立ち上がる。膝が笑っている。

それでも、お守りを握りしめて、前を向いた。


 スピカの胸が締めつけられた。


 あの手は、パンを捏ねるための手なのに。


「プロデューサー……! 私、あの人を助けたいです!」


 ズーPはコーヒーの紙カップをゴミ箱に投げ入れた。


「やり方は自分で考えろ。ただし——信仰ポイントの残量と相談しながらな。

使い切ったら、お前も、あいつのお守りも、おしまいだ」


 スピカは唇を噛んだ。泣いている場合じゃない。

 考えろ。考えろ。自分にできること。パンの女神に、この戦場でできること。


「——あの」


「なんだ」


「私、パンが美味しく焼ける奇跡しか起こせません。赤ちゃんを泣き止ませるくらいしかできません。戦場で、こんな小さな力で、何ができるんですか……?」


 ズーPは黙ってスピカを見た。


 長い沈黙。


 そして——低い声で言った。


「それを見つけるのが、お前の仕事だ」

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