四
夜明け前の魔物の集落は、人間の村とそう変わらない。
土を固めた家々の煙突からは炊事の煙が立ち上り、子供たちが水汲みに走り、老いたオーガが咳をしながら薪を割っている。戦争は魔物の側にも等しく日常を強いていた。
その集落のはずれ、岩壁に背をつけて眠っていたリザードマンの脳裏に、甲高い声が響いた。
『——おーい、起きるのでおじゃ! 神託でおじゃるよ、神・託!』
リザードマンは片目を開けた。瞼の裏に浮かぶのは、豪華な玉座に胡坐をかいた小さな邪神——自分が信仰する下級邪神1号の姿である。
『本日の神託を伝えるのでおじゃ。心して聞くがよい』
リザードマンは黙って頷いた。神託とは神の言葉である。それが推し活の買い出し指示であっても、信仰とは従うものだ。
『人間どもの街に赴き、フレマル——赤のアクスタ、ならびにスピカ——白のアクスタを購入し、わしに奉納せよ。代金は干し肉で支払え。グッズ屋の裏口から入れば物々交換に応じる店がある。くれぐれも正面から入るでないぞ、騒ぎになるのでおじゃ』
いつもの指示だった。リザードマンは装備の確認を始めた。フード付きの外套、干し肉の入った革袋、念のための短剣。
——だが。
邪神1号の声が、一拍の間を置いて続いた。
『……それと。月の女神ツクナ——紫のアクスタも加えるのでおじゃ』
リザードマンの手が止まった。
月の女神。これまでの神託に一度も登場したことのない名前だった。
『三体を紐で繋ぎ、胸に下げて持ち帰れ。赤、紫、白の順でおじゃ。順番を間違えるでないぞ。間違えたら奉納を受理せんからな』
「……なぜ、月の女神を」
『質問は受け付けんのでおじゃ! いいから買ってくるのでおじゃ! 以上! 神託終わり!』
声は唐突に途切れた。
リザードマンは外套のフードを深く被り、集落の門をくぐった。背後で子供のリザードマンたちが「いってらっしゃい」と尾を振っている。
東の空が白み始めていた。
停戦期間の人間の街まで、徒歩で半日。
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人間の街は、フェスの余韻でまだ華やいでいた。
通りには色とりどりの旗が残り、女神たちのイメージカラーを模した飴や焼き菓子を売る露店が並んでいる。子供たちが赤いリボンを振り回して走り、老婆が白いお守りを胸に祈りを捧げている。
停戦期間特有の、束の間の平和だった。
リザードマンは外套のフードを目深に被り、人混みの隙間を縫うように進んだ。鱗に覆われた手は外套の袖に隠し、尾は腰布の下に巻きつけている。それでも背丈は人間よりひと回り大きく、すれ違う者たちが怪訝な目を向けた。
(早く済ませて帰る)
裏路地に入り、邪神1号に教わった通り、グッズ屋の裏口を叩いた。
「——物々交換で」
木戸の向こうから、太った店主が顔を出した。リザードマンを見ても驚かない。停戦期間中、こうした客は珍しくないのだろう。
「何がいる」
「アクスタを三体。フレマルの赤、スピカの白、ツクナの紫」
「渋いな」
店主は棚を漁り、三体のアクリルスタンドを並べた。
赤い炎を纏った戦士の女神——フレマル。
白いローブに柔らかな微笑みを浮かべる小さな女神——スピカ。
三日月を背負い、紫の衣をまとった静謐な女神——ツクナ。
リザードマンは干し肉の束を差し出し、店主が重さを確かめて頷いた。
「毎度」
三体を受け取ったリザードマンは、神託の通りに細い革紐で三体を繋いだ。赤、紫、白。順番を間違えないよう、慎重に。
革紐を首にかけ、外套の内側に収めた。胸元で三つの小さなアクスタが、歩くたびにかすかに揺れた。
裏口から表通りに出た——その瞬間だった。
「——あ」
目の前に、パン屋の青年が立っていた。
パン屋の手には買い物籠。中には小麦粉の袋と、塩の包みが見える。袖は小麦粉で白くなっていて、首には——スピカの白いお守り。
二人の目が合った。
リザードマンの黄色い瞳孔が、フードの奥で収縮した。
パン屋の青年の目が見開かれた。
「——お前」
魔物だ、と。その認識が青年の目に浮かんだ。
リザードマンの手が反射的に短剣の柄に触れた。だが——ここは街中だ。停戦期間中だ。抜けば自分が終わる。
パン屋の青年も同じことを考えたのだろう。買い物籠を握りしめたまま、一歩後ずさった。
フードの隙間から覗くリザードマンの鱗。黄色い目。人間ではありえない体格。
パン屋は唾を飲んだ。視線がリザードマンの胸元に落ちた。
外套の合わせ目から、革紐に繋がれた三体のアクスタが覗いていた。
一番手前——白い小さな女神。
スピカ。
「…………」
パン屋の青年の表情が、警戒から困惑に変わった。
お前も——スピカの。
その言葉は声にならなかった。だが、意味は伝わった。
沈黙が数秒続いた。
街の喧噪が遠い。二人の間を、フェスの残り香を含んだ風が通り過ぎた。
「——あ」
第三の声が、背後から飛んできた。
リザードマンが振り返る。パン屋の青年が目を逸らす。
路地の入り口に、一人の青年が立っていた。
痩せぎすの体躯。神経質そうな目。腰に帯びた剣。そして、古びた白いマントの下に覗く——白いフレマルのグッズで埋め尽くされた革鎧。
レオンだった。
フレマルの過激派古参信者。先日のフェスで邪神2号に唆されナイフを振るい、フレマルの光で正気に戻った男。頬にはまだ、自分で自分を殴った痣が残っている。
レオンの目は、リザードマンの全身をなめるように見ていた。
魔物だ。
フードの下の鱗。人間離れした体格。腰に巻きつけた尾の膨らみ。
レオンの手が、剣の柄にかかった。
「魔物が——この街に何の用だ」
声は低く、危険な響きを帯びていた。
リザードマンは答えなかった。答える義理がない。フードを深く被り直し、その場を離れようとした。
だが、レオンは道を塞いだ。
「聞いてんだよ。何しに来た」
レオンの目が、リザードマンの胸元に吸い寄せられた。
外套の合わせ目。革紐。
三つの色。
赤。紫。白。
「…………」
レオンの手が、剣の柄から離れた。
彼の目が見開かれ、食い入るようにアクスタを凝視した。
赤いフレマル。
白いスピカ。
その二体の間に——紫の月の女神。
レオンの脳裏に、自分がこの何年も抱え続けてきた信仰の形が走馬灯のように駆け巡った。
白い太陽神だったフレマル。その傍らにいつも寄り添っていた月の女神。フレマルが赤く変わっても離れなかった紫の影。そしてフレマルがかつて纏っていた白を今は継いでいる、小さな新人女神。
赤は今のフレマル。白はフレマルの魂を継ぐスピカ。そして紫は、太陽が赤く燃え変わっても離れなかった月——。
三色が語る物語を、レオンは読み取った。
古参だからこそ、わかった。
この三体の並びは——白いフレマルの否定ではない。
白いフレマルを愛した月の女神が、赤いフレマルにも、白を継いだスピカにも寄り添い続けている。それはつまり——フレマルの「白」は消えたのではなく、形を変えて生き続けているということだ。
レオンの唇が震えた。
「——こいつ」
声がかすれた。
「こいつ……わかってやがる」
リザードマンは首を傾げた。何がわかっているのか、自分ではまるでわからなかった。邪神1号に言われた通りの順番で並べただけだ。
だが、レオンの目にはもう敵意はなかった。
そこにあったのは——同じものを信じる者だけが共有できる、奇妙な敬意だった




