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18/21

——夕方。


フェスの片付け会場。


人々がステージの解体作業をしながら笑い合っている。「いやー、スピカちゃんの白よかったなぁ」「フレマルさまの赤もかっこよかった」「来年も来ようぜ」。穏やかな声。穏やかな顔。穏やかな夕陽。


何も、起きていない。


まだ。


神界の片隅で、スピカは両膝を抱えて座り込んでいた。巻き戻しの前の記憶がすべて残っている。あの光景が——リザードマンの黄金の目が、パン屋の青年の震える手が、血に染まったアクスタが——瞼の裏に焼きついて消えない。


明日。


明日、あれが起きる。


スピカの視界がぐらりと揺れた。色が薄くなっていく。音が遠ざかっていく。


「——スピカ」


ズーPの声が聞こえた気がしたが、その声すら水の底から聞こえるようで、スピカはそのまま意識を手放した。


---


目を開けると、窓の外が暗かった。


車の振動。革張りのシートの匂い。エンジンの低い唸り。


「……ぷろでゅーさー……?」


「起きたか」


ズーPが運転席にいた。サングラスはかけていない。バックミラー越しに一瞬だけスピカを見て、すぐに前に戻した。


「どこに……」


「お前が倒れてから三時間。聞きたいことがあるなら聞け」


スピカはぼんやりと後部座席に座ったまま、巻き戻る前の光景を思い出そうとした。思い出したくなかった。でも忘れることもできなかった。


「……私」


声が震えた。


「私、フレマルちゃんのこと、何も知らなかったです」


ズーPは何も言わなかった。


「あの人が……太陽から、戦争に変わったとき、どんな気持ちだったのか。あの人を白だって信じてた人たちが、どれだけ苦しかったのか。全然、わかってなかった」


「それで?」


「月の女神さまに……ツクナさまに、会わせてください」


バックミラーの中のズーPの目が、ほんの少しだけ細まった。


「……いいだろう」


ハンドルを切る。車が山道に入った。


---


山奥の、古びた温泉旅館。


木造の建物は傾きかけているが、湯気だけは盛大に立ちのぼっている。玄関には「本日貸切」の札。ズーPが車を停め、「俺はここで待つ」とだけ言ってエンジンを切った。


スピカが玄関の引き戸を開けると、廊下の奥から微かな灯りが漏れていた。


導かれるように歩いていくと、縁側に出た。


ツクナがいた。


紫の浴衣。長い銀髪を一つに束ね、湯上がりの頬をほんのり染めて、縁側に腰かけている。膝の上には湯呑み。庭の向こうに月が出ていた。まん丸の月ではなく——三日月。


「……来ると思っていたわ」


振り返りもせずに、ツクナは言った。


「座りなさい」


スピカは隣に座った。縁側の板が冷たかった。ツクナが黙って自分の羽織を肩にかけてくれた。温かかった。


「……ツクナさま」


「なあに」


「フレマルちゃんのこと、教えてください」


ツクナは湯呑みに口をつけ、少しだけ間を置いてから、静かに話し始めた。


「——あの子は、太陽だった」


庭の虫の声が、言葉の隙間を埋めていく。


「まぶしくて、まっすぐで。私が夜を守り、あの子が昼を照らす。そういう関係だった。人間たちはあの子の白い光を浴びて畑を耕し、パンを焼き、子供を育てた。あの子のイメージカラーが白だった頃、世界は穏やかだった」


ツクナは湯呑みを膝の上に降ろした。


「でも、人は争い始めた。小さな諍いが戦争になった。戦争には火が要る。人々はあの子に——太陽ではなく、戦争の炎を求めた」


「フレマルちゃんは……」


「断れると思う?」


スピカは黙った。


「信仰が女神を作るの。人々が求めるものが変われば、女神も変わる。あの子は白を失って赤に染まった。

太陽神から戦争神へ。イメージカラーが変わるとはそういうことよ。色が変わるんじゃない——存在の意味が書き換えられるの」


ツクナの声は淡々としていたが、湯呑みを持つ指先だけが、かすかに白くなっていた。


「あの子が太陽を降りたとき、私は代わりに白を張ったわ。昼の光は私には重すぎたけれど、誰かがやらなければ、人間たちは闇の中で暮らすことになる」


「……それで、ツクナさまはずっと——」


「ずっとよ」


それだけだった。


ずっと。太陽の代わりを務め、戦争神に変わっていくフレマルのそばに立ち、何も言わず、何も変えようとせず——ただ、寄り添ってきた。


「ツクナさま」


スピカの声が震えた。


「どうして……紫を選んだんですか?」


あの日、フレマル、ポメル、デディーナに続いてツクナが「紫」と宣言したとき、スピカはただ「白が余った」としか思わなかった。でも今は——。


ツクナは、三日月を見上げた。


「私はただ、あの子に寄り添うだけ」


静かな声だった。


「今の赤いフレマルを、私は認めている。あの子が太陽であっても、戦争の炎であっても、私の居場所はあの子の隣にしかないの。だから——白が必要なわけじゃなかった」


ツクナがスピカに視線を移した。銀色の瞳が、月光そのもののように澄んでいた。


「でも、あなたは違う」


「え……」


「あなたは今でもフレマルの火のお守りに祈って、パンを焼いているでしょう?」


スピカは、うなずいた。


ツクナは三日月から視線をおろし、スピカの顔を真正面から見つめた。


「あなたにとってのフレマルは、今でも人々が太陽の光でパンを焼いていたころの、熱い光。

本当に白いフレマルの代わりになれるのは、あの頃のあの子を今も見ているあなたにしかできないと思った。——それだけよ」


スピカは浴衣の袖で何度も目元をぬぐったが、涙は拭うそばからこぼれた。嬉しいのではなかった。悲しいのでもなかった。ツクナがどれだけ長い時間をかけてそこに辿り着いたのかを思うと、重すぎて、抱えきれなかった。


「ツクナさま……」


「なあに」


「……それ、フレマルちゃんには言ったんですか」


ツクナは一拍だけ間を置いた。


「言わないわ」


「どうして」


「言ったら、あの子は泣くもの」


ツクナはそう言って、空になった湯呑みを縁側に置いた。指先はもう震えていなかった。全部言い終えたからかもしれないし、最初から震えてなどいなかったのかもしれない。この人のことは、一緒にいてもわからない。きっとフレマルでさえ、全部はわからない。


けれど。


「……私」


スピカは涙の合間に、ぎゅっと拳を握った。


「白、大事にします」


ツクナは答えなかった。ただ、紫の浴衣の袖でスピカの頬を一度だけ拭って、視線を庭に戻した。


三日月が薄い雲に隠れかかっていた。


「今夜は冷えるわ。お風呂に入りなさい」


「……はい」


「あと、ズーPに言って。『露天風呂を覗いたらサマ=アルトムンに言いつける』と」


「ぜったい言います」


---


夜が更けた。


布団を二組並べて敷いた和室。古い木の天井に、月明かりが格子窓の影を落としている。


スピカは布団の中で目を開けていた。


閉じると見える。血に染まった石畳。崩れ落ちるパン屋の青年。リザードマンの黄金の瞳が光を失っていく瞬間。自分の名前を叫びながら殺し合う人々。上がっていく信仰ポイント。


巻き戻ったから、あれは「なかったこと」になった。


でもスピカは覚えている。


あれは確かに起きた。起きて、消された。でも消えたのは世界のほうで、スピカの中ではまだ——。


「……眠れないの?」


隣の布団から、ツクナの声が聞こえた。暗闇の中で、銀色の髪だけがかすかに光っている。


「……はい」


「怖い?」


「……はい」


沈黙。


それからスピカは、ずっと言おうか迷っていたことを口にした。


「あの……ツクナさま」


「なあに」


「じつは私——」


スピカは布団の中で、三日月の形をしたお守りをぎゅっと握りしめた。フレマルの火のお守りとは反対側の、もう一つの古いお守り。


「夜眠るときはいつも……ツクナさまに祈っていたんです。『怖い夢を見ませんように』って」


布団を握る指に力が入った。


「朝はフレマルちゃんのお守りに『パンがおいしく焼けますように』って祈って、夜はツクナさまのお守りに『怖い夢を見ませんように』って祈って……一日が丸ごと、お二人のおかげで安心できたんです」


声がまた震え始めた。


「女神になってからも……捨てられなくて……ずっと持ってて……」


隣の布団から衣擦れの音がした。


ツクナが身を起こし、スピカの布団に手を伸ばした。


「おいで」


囁くような声だった。


スピカがのろのろと身を起こすと、ツクナは銀色の腕をそっと伸ばし、スピカの頭を自分の胸元に引き寄せた。長い銀髪がスピカの頬に触れた。冷たいのかと思ったら、温かかった。お湯の匂いがまだ残っていた。


「……ツクナさま」


「しっ」


ツクナの手が、スピカの髪をゆっくりと撫でた。


「怖い夢は見せないわ。それくらいは——私の領分だもの」


スピカの瞼が重くなった。さっきまであれほど怖くて閉じられなかった目が、嘘みたいに閉じていく。ツクナの心音が耳に届く。ゆっくりとした、静かな鼓動。月の満ち欠けみたいに穏やかなリズム。


「……ツクナ、さま……」


「なあに」


「……あり、がとう……ございます……」


ツクナは答えなかった。


ただ、腕の中の小さな女神の髪を撫で続けた。


やがてスピカの呼吸が規則正しくなり、小さな寝息に変わった。


---


ツクナは、腕の中で眠るスピカをそっと布団に降ろした。


白い髪が枕に広がる。安らかな寝顔。怖い夢は——見せない。約束した。約束は、守る。


月の女神はスピカの傍らに正座した。しばらく寝顔を見つめてから、視線をスピカの胸元に移した。


三日月の形をしたお守り。


古い銀細工。人間だった頃のスピカが、夜ごと「怖い夢を見ませんように」と祈り続けたお守り。その中に——小さな、本当に小さな信仰ポイントが灯っていた。大した量ではない。スピカが人間だった頃に毎晩少しずつ積み上げた祈りの残滓。小さな女の子が眠る前に手を合わせるような、ささやかな祈り。


それが全部、ここに残っていた。


ツクナはそっと手を伸ばし、三日月のお守りに触れた。


——明日、この街で何が起きるか。


ツクナは知っている。知っていた。夜の空からすべてを見てきた者は、人の世の歪みが限界に達していることを、とうに感じ取っていた。


巻き戻しで「なかったこと」にはなった。でも原因は消えていない。人々の中の怒りも、悲しみも、解釈の違いも——何ひとつ消えていない。同じ火種は明日もそこにある。


巻き戻しは対処であって解決ではない。


スピカの白い髪に、格子窓の月影が落ちている。


この子は明日、また泣くだろう。もう一度あの惨劇を見ることになれば、今度こそ壊れるかもしれない。ズーPが何度巻き戻したところで——アウネラにだって限界はある。あの子の声は、電話のたびに掠れていた。


なら。


巻き戻す前に——巻き戻さなくて済むように。


ツクナの指先に、淡い紫の光が灯った。三日月のお守りの中の信仰ポイントが、かすかに震えた。


スピカが人間だった頃の、幼い夜の祈り。その一つ一つに込められていた「怖い夢を見ませんように」という小さな願い。その小さな光を——ツクナは、すべて引き出した。


何をしたのか。


具体的には——ツクナ自身にもわからない。自分の領分でできることをしただけだ。夜を司る者として、明日の夜明けまでの時間に、ほんの少しだけ手を加えた。光の角度を。影の落ち方を。人々が目覚めたときに見る朝焼けの色を。


それが明日の惨劇を止められるかどうかはわからない。


でも——ほんの少しだけ、可能性の流れが変わった気がした。


月の女神は空になったお守りを、スピカの胸元にそっと戻した。


「ごめんね」


声は、蚊の鳴くほどの小ささだった。


「勝手に使わせてもらったわ」


スピカは何も聞いていない。安らかに眠り続けている。


ツクナは立ち上がり、格子窓の前に歩いた。三日月が雲の切れ間から覗いている。自分の象徴。半分が欠けた、不完全な光。


——私はただ、寄り添うだけ。


フレマルにも。この子にも。


変えようとは思わない。代わりに立とうとも思わない。ただ——夜が怖くないように。朝が来るまで、そばにいる。


それだけしかできない。


それだけを——ずっと、している。


---


月の女神が窓辺に立つその姿を。


はるか遠く——神界の最も暗い底、地獄の一番深い層から。


見ている者がいた。


邪神1号。


フェスで買ったスピカ&フレマルのコラボTシャツをまだ着たまま、祭壇の炎を通じて神界の映像を覗き見している。どうやって結界を破っているのかは本人にもわかっていない。


炎の中に映る映像。


月の女神がスピカを抱きしめる場面。三日月のお守りに手を触れる場面。空になったお守りをそっと戻す場面。そして——格子窓の前に立ち、三日月を見上げる横顔。


「…………」


邪神1号の丸い目が、ゆっくりと見開かれた。


祭壇の横に転がしていた羊皮紙——明日リザードマンに出す予定の神託の下書き——に、視線を落とす。


そこには**『フレマル(赤)×スピカ(白)の限定アクスタを買ってくるのでおじゃ』**と書いてあった。


邪神1号は羊皮紙を手に取った。


炎の中の映像をもう一度見た。月の女神が、スピカの白い髪を撫でている残像。紫と白が寄り添う影。


インクの瓶に、震える小さな爪先を浸した。


羊皮紙の上の「フレマル(赤)×スピカ(白)」の横に——一体分の追記を書き加えた。


『フレマル(赤)×スピカ(白)×ツクナ(紫)の三色限定アクスタを買ってくるのでおじゃ』


明日。


この神託を受け取ったリザードマンが、三色のアクスタを手にグッズ屋に現れるとき。


巻き戻された世界の歯車が——ほんの少しだけ、違う方向に回り始める。


邪神1号は羊皮紙を丸め、祭壇の炎に近づけた。炎が羊皮紙を舐め、神託の文字が光り始める。


明日の朝、リザードマンの洞窟に届く。


「……のでおじゃ」


邪神1号はぽつりと呟いた。


何を思ってそうしたのか、本人にもわかっていない。尊いカップリングが増えただけだ。ツクナが綺麗だったから、入れたかっただけだ。——きっと、それだけだ。


祭壇の炎が一際大きく揺らめき、やがて元の大きさに戻った。


洞窟に静寂が満ちる。


遠くで、夜明け前の鳥が一羽だけ鳴いた。

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