一
フェスの興奮がまだ耳の奥に残っている。
あの夜、白いサイリウムの海を見下ろしたとき、スピカは生まれて初めて「女神でよかった」と思えた。信仰ポイントの残高はまだ心許ないけれど、ゼロではない。ゼロでないということは、まだ誰かが自分に祈ってくれているということだ。
それだけで十分だった——はずなのに。
「スピカちゃーん! こっちこっち!」
ポメルが関西弁でまくし立てながら、青く透き通った入り江の浅瀬でぶんぶんと手を振っている。その向こうでは水辺の精霊たちが甲斐甲斐しくカメラを構え、PV用の映像を撮影する準備を進めていた。
「バカンスPVなんて撮っとる場合か、って顔しとるな? ちゃうで。休みすらコンテンツに変えるのがプロや。ズーPの受け売りやけど」
海の女神は青いビキニの上にパレオを巻いただけの軽装で、潮風に長い髪をなびかせている。画になる女神だ、と素直に思う。信仰ポイントの稼ぎ方が根本的にスピカとは違う。
「さっ、水着に着替えた着替えた!」
「み、水着……ですか……」
スピカは自分の胸元を見下ろした。見下ろすまでもなかった。
「……白のワンピースタイプでお願いします」
「おっけおっけ、清楚路線やな。ファン層とも合うわ」
ポメルがぱちんと指を鳴らすと、波が巻き上がってスピカの全身を包み、次の瞬間にはふんわりとした白いワンピース水着に変わっていた。
「ひゃっ!?」
「海ん中ではうちが法律やで」
にっと笑う海の女神のそばに、デディーナがゆったりと歩いてきた。大きな麦わら帽子に緑のリゾートワンピース。その手には——もう食べている。何か丸いものを。
「……豊穣の女神さま、それ……」
「塩パンですわ。人間界で流行っているとお聞きしまして」
もぐもぐ。幸せそうに咀嚼する頬が、リスみたいにふくらんでいる。
「PV撮影があるのにもう食べとるんか……」
「1個目はお腹を満たす用ですわ」
「何個あるん?」
「3個ですわ」
ポメルがため息をつく横で、フレマルが腕を組んだまま木陰からこちらを睨んでいた。赤いビキニに黒のパーカーを羽織った姿は、アイドルというよりは戦場帰りの傭兵だ。
「あんたたち、いつまでだらだらやってんの。さっさと撮るもの撮って終わらせるわよ」
「フレマルちゃんも日焼け止め塗ったほうがいいですよ!」とスピカが駆け寄ると、フレマルは「火の女神が日焼けするわけないでしょ」と鼻を鳴らした。が、その耳の先がほんの少し赤いことに、スピカは気づかないふりをした。
砂浜に並ぶ四人——赤、青、緑、白。
四色揃って、あと一色足りない。
「あれ」とスピカはきょろきょろと周囲を見回した。「ツクナさまは……?」
「温泉に行くってゆうてたでー」
ポメルがあっけらかんと答える。
「おんせん?」
「あの人ほら、いっつも単独行動やん。フェスの打ち上げもすぐおらんようなったし」
フレマルが視線を海に向けたまま、低く言った。
「ほっときなさい。あいつは昔からそう」
その声にはわずかな——ほんとうにわずかな——寂しさのようなものが混じっていた気がした。けれどフレマルはすぐに「さ、撮影始めるわよ!」と声を張り上げ、スピカがそれ以上考える隙を与えなかった。
撮影は和やかに進んだ。ポメルが監督を務め、ニンフたちがカメラを回し、デディーナが二個目の塩パンを「味わう用」として食べ終わる頃には、夕陽が入り江をオレンジに染めていた。
三個目の塩パンは——パレオのポケットにそっとしまわれた。布教用。誰に渡すのかは、誰も聞かなかった。
砂浜の向こうで、ズーさんがパラソルの下に寝転がったまま、スマホの画面をじっと見つめていた。その表情はサングラスの奥に隠れていて、読めない。




