四
スピカが歌い始めると、会場の空気が少し変わった。
大物女神たちのような圧倒的な迫力はない。声量も技術も及ばない。だが、スピカの歌には何かがあった。
パン屋の朝の匂い。窯から立ち上る湯気。焼きたてのパンを割ったときの、あの小さな幸福感。
それは信仰ポイントに換算すれば微々たるものだ。戦争に勝てるわけでも、病を癒せるわけでも、嵐を鎮められるわけでもない。ただ、ほんの少しだけ、明日もパンが焼けたらいいなと思える――そんな温かさだった。
白いサイリウムが、一つ、また一つと増えていった。大した数ではない。でも確かに増えていた。
パン屋の青年は目を閉じて祈っていた。「明日もおいしいパンが焼けますように」。その祈りがお守りに吸い込まれ、スピカの信仰ポイントがわずかに回復する。
舞台袖では、フレマルが腕を組んでスピカのステージを見つめていた。
「……ふん」
口元がかすかに緩んだのを、隣のポメルは見逃さなかった。
「フレマルちゃん、口元にやけとるで」
「にやけてない」
「にやけとるにやけとる。ほら、赤なっとるし」
「うるさい。それはイメージカラー」
デディーナがくすくすと笑い、ツクナは黙ってステージを見つめていた。
そのとき。
客席の通路を、サイリウムを持たない黒い影が進んでいた。
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レオンは人混みをかき分けて歩いていた。
周囲の熱狂が遠い。赤いサイリウムも、青いサイリウムも、目に入らない。見えているのは、ステージの上で白い光を浴びて歌う、小さな女神の姿だけだった。
白。
あの白は、フレマルのものだ。
フレマルが失った白。時代に奪われた白。あの白を、こんな新人が、こんな無名の小さな女神が、当たり前のように纏っている。
頭の奥で声がする。
「壊しなさいな」
レオンの手がマントの下のナイフを握った。
柵を越えた。警備の信者たちが声を上げたが、レオンは聞こえなかった。ステージの階段を駆け上がる。スピカの歌が止まった。白い光の中に、白い服の男が立っている。
「おい」
レオンの声は乾いていた。
「白はフレマルの色だ」
スピカは目の前の男を見上げた。信仰ポイントの感知が、彼の中に渦巻く闇を捉えていた。邪神の干渉。心を蝕まれている。
――かわいそう。
それがスピカの最初の感想だった。
「なに勝手に着てんだよぉ!」
レオンが叫び、ナイフを振りかざした。
観客席から悲鳴が上がった。白いサイリウムが落ちる音がした。パン屋の青年が「スピカさま!」と叫んで柵を越えようとした。
スピカの足は動かなかった。逃げることも、防ぐこともできなかった。信仰ポイントは歌でほとんど使い果たしていた。奇跡を起こす余力は残っていない。
ナイフの切先が迫る。
そのとき。
スピカの胸ポケットで、古い火のお守りが――灼熱の光を放った。




