伯爵になるので、婚約は破棄します。
18000字ほどの短編です。刺激はちょっと強め、ざまぁあり。姉妹百合です。
木漏れ日の差す庭で、当時六歳のロゼットは。
「おねえちゃま……」
「うっ――!?」
光に――焼かれた。
鈴の転がるような声、ふわっふわの金髪、くりっとした青い瞳。先日父が連れ帰った少女は着飾られ、見事な輝きを見せていた。養女にすると言われ、ロゼットは強い反発を覚えていたはずであった。しかしそんなものは吹き飛んだ。
この時、前世の記憶も戻ったが……それどころではない。魂の根底を覆されたような、そんな激震を感じて。
「ルビア……! ああ、私の妹!」
気づいたら、幼い義妹を抱きしめていた。
本来ならばひっぱたくはずの――その場面で。
悪役令嬢ロゼットは、あまりの妹萌えによって。
生まれ変わって、しまったのだ。
☆ ☆ ☆
ある日。
「わたし、おねちゃまとずっといっしょにいたいです」
お茶をしたいという愛しい妹のため、猛特訓して作法を身に着けたロゼット。ルビアを招いて、庭でささやかな茶会を開いた。
その時。
「はぅぁっ――!?」
ロゼットはまたしても、妹の可愛さに脳が溶けた。真っ白になった彼女の頭を、様々なことが駆け巡る。この世界に酷似した乙女ゲーム『キメラクラフト』のこと。ルドベック伯爵家の事情――。
「いいでしょう。ならば私は伯爵に、なる!」
しかし何をどうしてそうなったのか、女伯爵になるという結論に達した。
「おねえちゃま、すごいです!」
「ふーん。ならおれが、むこになってやるよ」
口を挟んできたのは、たまたま遊びに来ていた公爵令息。両親の縁故ゆえ、ロゼットの婚約者であった。ルビアと同じ髪と目の色をした、どこか野性味を感じる男児、アンディ。ゲームでは攻略対象の一人である。現実と同様にロゼットと婚約するも……長じて聖女となったルビアに鞍替えする。
ロゼットとしては、妹が望むならば、彼を差し出しても良いとは思っていたが。
「アンディ様……! 私は、幸せです!」
「そーか! こんど、おうとにきたらすいしょうぐうにつれてってやるよ! すごいんだぞ!」
「はい、はい……!」
それはそれとして、きっちり恋には落ちていた。ルビアと二人並ぶと、あまりにもお似合いで。この二人ともを傍に置きたい――そんな身に余る欲に、駆られるほどであった。
その幸せまで。
あと一歩。
あと一歩というところで――。
☆ ☆ ☆
あれから、およそ10年。
(アンディ様……ルビア)
ロゼットは、午後の光差す王城の廊下で、一人途方に暮れていた。あんなに泣くとは思わなかった、あの日から……もう一月が過ぎた。
(家に……帰りたい)
一月前。王都から伯爵領へ帰るためにロゼットら一家の乗った馬車が、がけ下へと転落した。どうにも謀略の類だったらしく、さらに賊の襲撃を受けた。ロゼットが賊に抵抗するうちに、両親は手遅れとなって、そのまま帰らぬ人に。ロゼットもまた意識を失い、目が覚めたら王宮だった。不幸中の幸いだったのは、彼女にはまったく傷がなかったこと。
だが、外傷がないだけだ。
『お前たちだけでも!』『ルビアをお願いね』『いや、私は諦めない!』
「っ――」
立ち止まると、あの時のことが蘇ってしまう。足が震え、悔しさで涙が溢れそうになった。ロゼットは唇をわななかせながら、細く深く息を吐き出し、無理やり足を進める。
(進んでも……私はどこにも行けや、しないけれど)
襲撃から一月。ロゼットは王宮に、留め置かれていた。
理由は三つ。
賊の再襲撃警戒。
伯爵位継承の保留。
葬儀の遅延だ。
(逃げた賊がいるから、国王陛下らが匿ってくれている……のはいい。私の伯爵位継承が認められない理由が、わからない。葬儀も、なぜか。このままでは、うちに帰れないわ)
王宮内しか自由に動けないので、逗留というより軟禁に近い。
「ほんと、酷い状況……」
自身の環境を振り返り、ロゼットは頭を振った。襲撃の怯えと将来の不安で、事件からずっとよく眠れていない。
「大丈夫さ、きっと良い未来が待っている」
「アンディ様……!」
差し込まれた声に、ロゼットの返事は弾んだ。柱の影から現れたのは、婚約者の公爵令息、アンディ。美しく成長した彼は、甘いマスクと切れのある目元で笑みを象り、すっとロゼットの懐に入ってくる。
「毎日来てくださって、ありがとうございます」
「いいんだ。むしろあまり構えなくて、済まない。父の遣いで、ここにいることになっているからな……」
手を取られ、間近にある彼の顔を見上げると、胸の奥でどきりと鼓動が跳ねた。手で押さえて高鳴りを隠したいが、アンディに握られたままだ。
「ぁ……公爵閣下、といえば。その、以前お願いした、婿養子の件は」
「…………家を出ることは、許してもらった。だがルドベック伯爵家の当主となることを、条件にされている」
「それは」
ロゼットは言い淀む。どのみちアンディが伯爵家の当主になろうとも、彼に継承権はない。その場合はロゼットが預かり、二人の子どもが継ぐことになる。
(私は、いい。でもそうなると……ルビアは)
ロゼットが気にしているのは、最愛の妹・ルビアのことだ。彼女は義理の妹であり、両親がいなくなってしまった以上、養子縁組解消の危機にある。
ならば。
「いっそ。私がお嫌なら、アンディ様がルビアをもらってくだされば」
ロゼットとしては、ルビアに幸せになってほしいのだが。
「嫌だなどと、そんなこと! 俺が愛しているのはお前だけだ、ロゼット。わかってくれ」
その意見は、どうしてか受け入れてもらえなかった。
「俺たちがすぐにでも結婚すれば、その方が道は開ける。ルビアのことだって、きっと」
「ですが、ルビアは。もう嫁入りも、望めないのです。あの子の未来が暗いままでは、私は……」
すっと、手が離される。
ロゼットは暖かさを求めて、震える指を伸ばしたが。
「アンディ様……」
「……第二王子殿下に呼び出されてるんだ。また来る。当主の件、考えておいてほしい」
届かなかった。
芝を踏みしめ、彼は去っていく。ロゼットは。
(ルビアのためには。私は私の幸せを――)
唇を強く噛みしめ、拳を握り締めて。
(諦めるしか、ないの……?)
決意を固まらず。
膝をつきそうに、なっていた。
☆ ☆ ☆
季節が移り替わる頃。
王城から中庭に出たロゼットは、中天近くなった太陽を見上げ、ため息を吐いた。手慰みに、近くの秋花のつぼみに手をかざす。ロゼットの手から広がった黄色い光が、咲遅れの花たちを一斉に開かせていった。
(季節の移り変わりみたいに、ちゃんと物事が進んでほしいわ)
状況は刻一刻と、悪くなっていた。国王や王妃は、ロゼットの話を聞いてくれる。だがそれだけだった。
空を、ぼんやりと見る。今の自分は、まるであの浮雲のようだ。
(アンディ様も……あまり良い顔をされなくなった。今日はルビアを見ていただけるよう、お願いしておいたけれど)
庭をゆっくりと移動するうちに、人々の声がかすかに耳に入る。王宮の庭園は解放されており、使用人や庭師だけでなく、貴族たちの姿もあった。
事件直後の頃は。
「賊に立ち向かったらしい」「勇敢な令嬢だ」「両親を亡くされて」「おいたわしい」
ここで会う人々はそのように言ってくれた。優しい言葉だった。だがしばらくして。
「賊は死体がないとか」「恐ろしい女だ」「両親もまさか」「あの野蛮な娘が」
様子が変わった。徐々に、ロゼットへの当たりはきつくなっている。
(陛下らも、守ってくれるというほどではない。アンディ様だって……勝手な真似を)
ロゼットは密かにお礼を兼ねて、様子伺いの手紙を公爵に出した。しかし返事にはアンディを伯爵家当主に、などという話はまったくなかった。どころか、落ち着いてから結婚話を進めようと書いてあったのだ。
今一つ彼を信用しきれず……ロゼットはだんだんと、身動きがとりづらくなっていた。
(悪役令嬢襲撃、なんて。ゲームではあんなイベント、なかったというのに。どうして)
息をぐっと飲み込んで腹に力を入れ、頭を振って嫌な考えに抵抗する。ロゼットには、少しの心の拠り所があった。そのうちの一つは、ロゼットに前世の記憶がある、という点だ。
だが今は、ロゼットの知らないことばかりが起きる。
「こんなことになったのは、私が破滅の回避を願ったから……かもしれない。ならせめて、あの子は私が守らなくちゃ」
それでも彼女が、奮い立つのは――もう一つの心の拠り所。
ともに生き残った愛しい義妹。
ルビアがいるから。
「おねえさま!」
声に顔を上げて見れば、王城から庭園に出てきた義妹の姿があった。
「ルビア……」
杖を使って苦労して歩いてくる彼女を、ロゼットは出迎えて支える。ルビアはまだ、馬車転落の際の傷が、治っていなかった。右脚が折れ、左目が傷ついてしまった。顔の布の下の大きな傷は、まったく癒えていない。
「無理してはダメよ。あなたは自分のけがを、癒せないのだから」
ルビアには、ゲームと同じ癒しの力がある。ただ治せるのは他人だけ。歩き方もだんだんおかしくなっており、大人しくしていろと何度も注意した。だが、ルビアは聞き入れてはくれない。
「この脚で、こんなところまで歩いてくるなんて。私は心配だわ」
パシッと軽い音がした。
はたかれ、突き飛ばされたロゼットはよろめき、顔を上げる。
「ル、ビア?」
「おねえさまはいつもそう!」
その綺麗な顔は。
赤く、明らかな怒りに染まっていた。
「けが人のわたしは出歩いてもいけないと! そう仰るのですか!?」
その青い瞳は、燃える炎のようで。
(あ。私、また……)
つい出た自分の過保護さに、気恥ずかしくなり。
「そ…………」
否定をしかけ、ロゼットは口をつぐむ。
いつ頃からだろうか、ルビアは強く反発を示すようになっていた。
(あの脚、一カ月余りも治ってない……)
ロゼットが案じても、それを聞き入れてくれない。彼女は。
(この子は王宮に来てから、何やらずっと動き回ってて。それで悪化してるかもって、お医者様も言っていた。なら)
構いすぎて、彼女の考えを踏みにじっているのかもしれない。そう考えて。
「そうよ、ルビア。外に出てはダメ」
ルビアの自由を、否定した。
なじられようとも。
例え嫌われ、ようとも。
大好きな、妹のために。
「――ッ!」
息を呑んで背を見せ、急ぎ足で妹が去っていく。
その、姿に。
(いって、しまう)
父と母の幻影が。
重なる。
「ま、待って!」
ロゼットはハッとし、回り込んだ。
(この子が幸せになるには、伴侶がいる……やはり、彼に託すしか)
反射的な思いつきからであったが。
(そうしな、ければ。ルビアは路頭に迷う。私の幸せなど、考えてる場合では)
まだ踏み固まらない覚悟の中で。
「あの話は、考えてくれた? ルビア」
妹のためを思う心から、言葉は絞り出された。
だが。
ルビアの顔色が、さっと変わる。怒り、そして悲しみ、あるいは――おぞけを示したものに。
「っ! あんな男となんて、いやです!」
「なんてこと言うの、アンディ様の何が不満なの!?」
強いルビアの拒絶に、ロゼットは思わず声を荒げた。
アンディは自分には過ぎた婚約者で、貴公子だ。野性味あふれる面もあり、紳士的な態度の中に時々見せる危険な瞳が、非常に魅力的であった。
ロゼットはもちろん、ルビアにも優しく振る舞ってくれている。彼女とて懐いていた、はずなのに。
「おねえさまを差し置いて、あいつは……あっ」
ルビアが何かを言い淀んで、ロゼットはハッとなった。彼女が一人である、ということにいまさらながら気づいたのだ。
「そういえば、なぜ一人なの? アンディ様にお願いしたのに」
「それ、は…………」
ルビアが思わずといった様子で視線を走らせてから、目を逸らす。ロゼットは彼女が見た方角に、東屋があるのを思い出し――ピンときた。
(あの方、まさか……!)
「な、何かの間違いだと思うのです! アンディ様はおねえさまの婚約者で――」
ルビアが庇ったので、ロゼットは確信した。ロゼットはずんずんと進む。「まって」と追いかける妹を振り切り、一つの東屋を目指して。
『そろそろ戻らないといけないのではなくて? アンディ』
『かまやしないさ。あの不良品を押し付けようとする、陰気な姉を煙に巻いておけばいい』
辿り着く前に。
そこからは聞きたくなかった、声がした。
『ひどい言いぐさ。じゃあ私のことはどう思っているの?』
『お前だけさ。伯爵になったら奴らを追い出して、お前のところに行くよ』
彼の本音が、さらけ出されている。
100年の恋も冷めるような。
血の気が引く、音がした。
(う、そ)
冬でもないというのに、手足が先から感覚がなくなる。
腰にも膝にも力が入らなくなり、立っているのかもわからない。
血が、止まったような気がして。
「おねえさま……まって!」
ルビアの声を聴いて。
すべてが逆流した。
(…………私をないがしろにするのはいい)
胸の奥から、熱が溢れ出す。
血が湧き、吐く息は蒸気のようで。
拳を強く握り締め、庭の土を力強く踏みしめた。
――いっそ、ルビアに靡いてくれるなら、それでよかった。そう思いながらも。
一瞬、怒り顔を浮かべたロゼットは。
(なのに、他の女!? 許せないわ!)
深く息を吸って姿勢を正した。
振り返り、向かって来たルビアに自然にほほ笑む。
今度こそ彼女を支え、ゆっくりと歩いて東屋から離れた。
距離をとってから、飲み込んだ怒りを――鼻歌に、乗せる。
変化は、すぐに訪れた。
足元の草花がざわざわと揺れる。小動物や小鳥が、どこからか集まって来る。ロゼットは背後の東屋に向けて、手を差し伸べる。ざわり、と動物たちが振り向き、そちらへと向かい出した。彼らがぐるぐると東屋を回り始め、周囲の植物がにょきにょきと育っていく。
『なに、なに!?』
『なんだこれは!? おい、誰か!』
二人は叫ぶが、他に声はしない。彼らが喚く間にも、植物は螺旋を描いて建物に絡んでいく。小動物たちが巣を作るようにその形を整え、緑の牢を作っていく。
(使用人も連れずに、女性と逢瀬を楽しむとは。少々、羽目を外しすぎです。アンディ様)
よく知った声の悲鳴に気分を良くし、ロゼットは鼻歌を止める。
東屋は蔦や草木に覆われ、すっぽりと包まれていた。音もなく、動物たちは去っていく。
中の男女は出られなくなったようで、助けを求める声が響いている。王宮の下男下女が遠くに見えたので、ロゼットはアンディたちを無視した。
「おねえさま……なんてことを」
ルビアが言葉とは裏腹に、綺麗な笑みを見せている。左の目元は痛々しいが、相変わらずほっとするような笑顔で、ロゼットは相好を崩した。彼女の目がロゼットを捉え――ルビアは顔を赤くして、咳ばらいをしている。それが余計に、おかしくて。
「んっ。まるで伝説の、聖女様のようですね」
何かを誤魔化すようにそっぽを向いて言う妹に、ロゼットは「ふふ」と小さく笑う。
「特別な力を持つ者の中から、聖女は選ばれるというけれど。私じゃなくて、きっとあなたよ」
「わたしなんて、そんな……」
謙遜するルビアを、ロゼットはにやにやと見つめ。
(そうよ。この子が笑ってくれるなら)
その笑顔の裏で。
(私は、なんだってするわ。彼なんて、いらない)
自分の幸福を――諦めた。
☆ ☆ ☆
だが状況は、肌寒い風が吹く頃になっても、良くならない。
伯爵家から、幾人か侍従や侍女が来てくれた。信用できる彼らに、ルビアの世話を任せられるようになったものの。
他の進展がなかった。
(陛下も、ダメならダメと、はっきり言ってくださればいいのに)
一つ変化があったことと言えば、婚約者アンディのこと。
(公爵閣下もだわ。アンディ様と、あの侯爵令嬢のことは知れ渡ってしまった。さっさと婚約破棄してくれれば……)
ロゼットの婚約者と東屋にいたのは、どこぞの侯爵令嬢らしかった。アンディは醜聞が知れ渡り、しかし婚約は破棄したくないと訴えているらしい。
「アンディ様、か」
花の咲き誇る庭を歩きながら、ロゼットは想いを馳せた。胸の奥に刺さる苦痛に、顔を歪ませる。
(意外と、花に詳しいのよね……アンディ様)
頼もしく手を引かれたり、抱きかかえられたこともある。彼はいつもロゼットを気遣ってくれて、疲れた様子などみじんも見せない。そして油断していると――そっと顔を寄せてくるのだ。ロゼットは思わず唇を、指で撫で。
首を、振った。
(でも、もう許せない。……ま、こないだのアレで、スカッとしたし。お別れとしては悪くなかったとしましょう)
庭園の東屋に閉じ込めた一件を思い出し、ロゼットはほくそ笑む。あの日以来、彼はロゼットには会いに来ていない。
「私が女伯爵になるなら、結婚は白紙なのだし。早く婚約破棄して、慰謝料払ってくれないかしら」
ふと、立ち止まる。
「そうすればルビアに、支度金として持たせて――」
以前ならば、足を止め、座り、あるいは眠ろうとするだけで……両親の最期が頭をよぎっていた。だがいつからか、ロゼットは立ち止まるたびに、彼女の笑顔を思い浮かべるようになっていた。
ロゼットの、心の支え。魂の拠り所。
「ルビア」
彼女の名を呟くだけで、胸の内が熱くなる。聖女になるという運命にある、太陽のように眩い子。孤児だが、卑屈さの欠片もない。聡明さもあるがそれ以上に純真で、いてくれるだけで心が洗われるようだった。
前世では、あまり家族関係に恵まれなかったロゼット。だからこそ血のつながり以上の、絆を感じる妹。
「今、手持ちもないのよね。でもいつか王都に出て、また服でも見繕ってあげたいわ」
甘え上手な妹のことを思い、ロゼットは顔を綻ばせる。妹の願いを叶え、姉の矜持と威厳を示すこと。ロゼットは転生後の人生を、ほとんどそのことに費やしていた。
(最近は……喧嘩ばかり、してしまうけれど)
ロゼットは小さく息を吐き出す。前世の知識によれば、反抗期とは大事な自立の時期なのだという。自分の意見に抗う彼女を、きちんと受け止めなければならない。
ロゼットはそう、ルビアと生きる未来を夢見て。
(うん。あの子のために、頑張らなくちゃ)
決意を、新たにする。ロゼットはルビアのことで、頭がいっぱいになった。心がぐんぐん燃料で満たされるのを感じ、前を向く。
「お父さまとお母さまにご報告して、また励むとしましょう」
ロゼットは、王宮の外れに踏み入る。最近の彼女は、よく墓地のすぐそばの聖堂を訪れるようになっていた。聖堂には、葬儀前の遺体がおさめられる。神の特別な加護があるらしく、中では遺体が腐敗しない。そこに両親の躯が入った棺が、一月以上も置かれていた。
入り口の階段を登り、鍵を取り出し、扉に手を掛ける。
(開いてる……?)
鍵が、開いている。ここは、誰でも入れるわけではない。遺族、聖職者、王族のみが入堂を許される。なのに先客がいるのだ。今はロゼットの両親の遺体しか、納められていないのに。
ロゼットは音がせぬよう慎重に扉を開き、中に入る。廊下が伸びていて、左右に棺を入れる部屋が用意されていた。扉はなく、中が見えるため……様子を窺いながらゆっくりと奥へと進む。
最奥に。人影が、あった。
(あの、影……)
見えたシルエットに、一瞬何かが重なる。ロゼットは息を抑え、ゆっくりと音をたてないように近づき、観察した。胸の前に手を当て、黙祷を捧げている彼は、棺に手を伸ばして――。
「スティーブ王子?」
ロゼットが声をかけると、その人物は手をひっこめ、こちらを向き直った。第二王子の、スティーブ。最近なぜか謹慎中のジルコ第一王子に代わり、立太子されるのでは、ともっぱらの評判である。優秀で、物腰柔らか。婚約者はいないが、令嬢たちからの人気は高いという。
「ああ、確かロゼット。冥福を祈らせてもらっていてね」
「ありがとうございます。もしかして、たびたびきていらっしゃいます? そちらの花……いつも供えてあって」
棺には、赤い花――サルビアが一房、乗せられている。
「ああ……手ぶらでは申し訳ないからね。その辺で摘んだものだけれど」
「いえ、過分なご配慮、ありがとう存じます」
「ところで、ロゼット」
しずしずと近づいていたところ、急にスティーブ王子が距離を詰めてきた。
油断したロゼットは手をとられ、息を呑む。
どくり、と心の臓が跳ね。
顔に熱が、昇った。
「な……なんでございましょう、殿下」
「コレは、君に」
ぽんっと、彼の手から花が飛び出した。赤いバラだ。ロゼットの手の中におさめられ、代わりに彼の手がするりと離れる。
「気落ちしているようだから、お近づきの印に。もしよければ、今度話でも」
「殿下とお話など……私のような、田舎者では」
「君の妹を紹介してくれたら、爵位の件。口添えしてもいい」
意外なことを言われ――ロゼットは思わず、目を見開いた。
「なんてね。また会おう」
肩をぽんと叩き、王子が聖堂を出ていく。しばらく待ってから、ロゼットは堂の中を細かく検める。最後に扉を閉め、鍵をかけた。そのまま足早に王宮へと戻る。
眉根を寄せて、帰る途中。
「おねえさま……?」
杖をついて歩いている、ルビアに逢った。侍女が二人、彼女についている。
「バラ! どなたかに、いただいたのですか?」
ロゼットが手の中に持ったままだった薔薇に、妹は目ざとく気づいたようだ。彼女の顔がほころんだので、ロゼットはすっと近寄り、その胸元にさしてやった。
「ん……スティーブ王子にお会いして」
そう言った瞬間、ルビアの顔色が真っ青になった。胸元に飾られたバラと、自分の顔を、彼女が交互に見ている。
「ルビア? どうし――」
「アンディ様とあんなことになって早々! 第二王子となど……不潔です、おねえさまッ!」
そんなつもりはない、そう言い訳しようとし――彼が述べたことを、思い出して。
「私ではないわ。あなたを紹介してほしいそうよ」
そのままするりと、口に出した。王子が相手なら、ルビアだって幸せになれる。すべてはうまくいく……そんな希望に、縋って。
「いやですッ!」
その想いは。
最愛の妹に、叩き落とされた。
「どう、して。ルビア」
「そもあのような、恐ろしい男となどッ!」
言われ、ロゼットは少し顔をしかめる。
「第二王子は小競り合いの作戦を指揮し、人質をとって敵を惨殺した」と言われ、恐れられている。戦場での冷酷さと、甘いマスクのギャップゆえか、女性には人気がある。だがどうにも男性や重鎮には警戒されており、能力の割には重用されていないらしい。
そんな男が、手品で花を渡す……気障っぷりが堂に入っていて。先ほどのことを思いだし、ロゼットは笑みを漏らしてしまった。
「なにが。なにがおかしいのです。おねえさま」
「あっ」
鋭く咎められ、おずおずと視線を上げる。ルビアの青い瞳が、強く自分を睨みつけていた。
「もしや、本当にあのような卑劣な男に……いえ、そもそも」
ルビアの頬が歪んでいる。笑うというよりも、奥歯を噛みしめているかのように。
「わたしはそんなに、邪魔なのですか?」
「それ、は」
邪魔などと、とんでもない。だが確かにロゼットは、人にルビアを押し付けようとしている。反論できぬまま黙り込むと、ルビアの顔がより赤く染まり、瞳に涙が溜まって。
「私がいなければ、おねえさまは楽ができると。ええそうでしょうとも!」
ルビアの震える唇から、高く擦れたような声が響いた。
「ルビア……」
「こんなお荷物な女を押し付けたいお気持ち、よくわかりますわ!」
「話を聞いて」
「わたしが出ていけばいいのね! いいえ、そもそも」
彼女が笑っている。
泣き笑いだった。
「わたしがあの時、お父さまたちの代わりに、死んでいれば――」
彼女の示唆する光景が、脳裏をよぎり。
視界が、真っ黒に染まった。
ぱんっと、乾いた音がする。驚きの表情を浮かべるメイドたち、じんじんとしてくる自分の手のひら、そして。
「私を独りにしないで、ルビア」
赤くなった頬を右手で押さえる、ルビアを見て。
ロゼットは短く、吐き捨てた。
胸の奥の空虚と悲しみを。
妹がいなくなってしまう絶望を――悟られないように。
「なら、どうして」
涙をぽろぽろと流すルビアを目にし、ハッとする。
「ルビア!」
呼びかけるも、遅かった。振り返った彼女はメイドたちに支えながら、廊下の奥へ急ぎ足で向かっていく。杖を突きながら、必死で歩くその様に……ロゼットは二の句が、継げなかった。
(私は、なんてことを)
自分の行動にいまさら愕然とし、目を見開く。じんじんとしていた左手から、震えが広がっていく。肩を抱き、目を泳がせ、引きつったような息を漏らした。
(私は。どうすれば、いいの――お父さま、お母さま)
なぜルビアを叩いたのか。自分の気持ちが分からなくて。
ロゼットは動けなく、なっていた。
日が傾いて。
低い夕日が、彼女を照らして。
闇の中、猫や犬が心配そうにあたりをうろつくまで。
ずっと、動けなかった。
☆ ☆ ☆
また数日が過ぎた。
ルビアと……口も聞かない日々が。
王城から今日も中庭に出て、ロゼットはため息を吐く。
「王妃様、こちらのお願いは聞いてくれたけど……どの件も進展はなし、か」
最近はすれ違う人という人から、罵倒のような言葉を耳にする。しかし今日の庭は嫌に静かだった。
(神の代理人たる国王様が頷かないのだから、無理はないわね)
ぼんやりと不安を胸のうちに零しながら、何気なく東屋まで歩いて近づく。随分磨かれ、丁寧に始末された跡がある。ここを動植物だらけにした犯人のロゼットは、少し申し訳ない気持ちになった。
(王子たちやアンディ様。彼らに聖女予定のルビアを任せられれば、それはそれでよかったのだ。このままで、いいのかしら――)
東屋の柱をそっと、撫でていると。
その手を、掴まれた。
「っ――アンディ様!?」
以前この東屋に侯爵令嬢と一緒に閉じ込めた、ロゼットの婚約者。公爵令息のアンディだった。
(こいつ、いつから……いったいどこに隠れて!?)
彼は掴んだ手を強く引っ張り、無言でロゼットを中に連れ込む。
「いた、離して! ――あっ!」
乱暴に引き回されたロゼットは、柱に背を打ち、席に座り込んでしまった。痛みをこらえて開けた目が――飢えた獣のような目をした、男の姿を、捉えた。
「な、にを……」
歯の根が合わない。僅かに言葉を出したきり、声は紡げなくなった。目を逸らしたいが、アンディから視線が、外せない。
「俺は怒ってるわけじゃないんだ、ロゼット」
「なん、の。おはなし、でしょう」
「とぼけるな! 俺の手紙を無視して! とっとと結婚すればいいのに、まだ伯爵に拘ってるのか!」
婚約者の剣幕に、ロゼットはびくりと震える。確かに以前この東屋に閉じ込めてから、手紙が幾度か来ていた。内容は結婚話についてで、そのたびにロゼットは断りの返事を出している。
「アンディ、様こそ。やはり伯爵になりたい、だけで」
ロゼットの声が、僅かに震えた。
「私を愛してくださっては、いなかったのですか? ルビアは」
勇気を振り絞るロゼットの、前で。アンディの顔が。
「愛してやるとも。妹もというなら、まとめてな」
いやらしく、引きつっていた。
(ああ……もう駄目だわ、これは)
先日、アンディへの想いは冷めに冷めた。だがロゼットは今、その下があるのだと思い知った。
妹を、ルビアを大事にしない男など。ロゼットにとって論外だと。
この男は――知っている、はずなのに。
「侯爵閣下に取り入って、才気を示す覚悟もないということですか」
「なに?」
震えがすっと消える。心が空虚になっていく。
「自ら伯爵に成り下がるような、小物らしいですね? アンディ様」
ロゼットは冷ややかに笑みを浮かべ。
「私は伯爵になるので。婚約は、破棄します」
安い挑発を投げつけた。しかしそれは功を奏したようで、アンディの顔はみるみる赤に染まる。彼がロゼットの胸元に、手を伸ばし――。
「――なんだと。きさ、まっ!?」
その顔が消えた。どうも杖で殴られたらしく、ずいぶんな勢いでアンディが転げ回っている。
「おねえさま!」
「ルビア!?」
いつの間にか東屋の入り口には、ルビアや使用人たちの姿があった。
「おねえさま、こちらに……きゃっ」
ロゼットを助け起こそうとしたルビアが、突き飛ばされ、東屋の外に倒れる。
目の前が真っ赤に、染まったような気がした。
「アンディ、貴様――!」
鼓動が、漆黒のような音を奏でている。
ロゼットは息を吸い、口をすぼませて――。
「何をしている、アンディ殿」
「ぇ。スティーブ、殿下?」
アンディの呆然とした呟きが、聞こえる。王子に睨まれた彼は。
「くそっ……!」
転がるように後ずさり、走り去った。
(え? あんなに怒っていたのに、どうして……)
「王家の血が入っているとはいえ、王宮に出入りするのは問題がある男のようだな」
ロゼットが戸惑ううちに、王子が近寄って来る。
「君の婚約者だとは聞いたが……立てるかい? ロゼット」
彼の袖口から、ふわり、と何かが香り。
ロゼットは、体を強張らせ。
「っ――」
差し伸べられた手を。
無意識に、払った。
「…………ロゼット?」
ロゼットは怪訝な顔の王子から、目を逸らし。
(今、何か思い出したような……)
震える手を、握り締めた。
「もう少し、素直な子だと思ったが」
「今。殿方に触られたくは、ありません。それが、殿下、でも」
「……気が利かなくて、申し訳ない」
王子の瞳に、一瞬危険な色が宿った気がしたが、彼は大人しく引き下がる。すでに身を起こし、強張った顔をしたルビアが、代わりにロゼットの隣まで滑り込んできた。
「会談、早めに受けてくれると嬉しいね。君も貴族の女なら、あまり男の誘いを袖にするものではないよ?」
ロゼットは肩をびくり、と震わせる。何かスティーブの声に、視線に。刃物のような、冷たい感覚があって――それに覚えがあるような、気がして。
「君の大切な妹の、ためでもある。ルビアも、また」
背を向けたスティーブが立ち去ったところで。
ロゼットは大きく、息を吐いた。
「おねえさま、ご無事で……!」
「けがはない。あなたは?」
「大丈夫です! あの男ども……! こんなッ!」
案ずる様子のルビアの髪を、ロゼットはさっと撫でる。頭はまだ、整理できていなかったが。
気になることが、あった。
「ルビア。あなたもしかして、スティーブ様と一緒にいた?」
そう思ったのは。手を差し伸べられたときに一瞬感じた、香り。
ルビアの髪についた香料と、同じものだった。
「っ、詮索しないで、ください。わたしの勝手です」
(やっぱり……紹介もしていないのに、勝手に接触している)
ロゼットは目を伏せる。ルビアを不安にさせないように、表情を押し隠した。
「そう。どうしてこちらに来たの?」
「おねえさまが、何か危ない目に遭っている気がして! そしたら!」
「そう……ありがとう。本当に」
ロゼットは顔を綻ばせる。赤くなったルビアが目を逸らした。
(ルビア。私を、案じてくれているのね。うれしい)
ロゼットは体を起こす。腰に力が入りづらかったが、無理やり奮い立たせた。
――早くうちに帰りたい。呟きは、胸の内に消えて。
慌てて肩を貸してくれたルビアに寄り掛かりつつ、立ち上がる。
(ルビアと一緒に。私たちの故郷へ)
☆ ☆ ☆
冷えを感じ、初冬の近さを思う夜半。
大きめの窓からは、カーテン越しに月光が差している。だんだん住み慣れてきた部屋には、ロゼットが一人。ルビアは隣の部屋だ。使用人は、休ませている。
(本当は部屋に一人つけておきたいけれど、信用できる者の数が少なすぎる。負担を考えると、難しいわね)
アンディが王宮からは締め出されたものの、婚約破棄も爵位も進まず。事件の真相もわからず、ただ聖女選定の儀だけが近づいている。そんな日々にロゼットは、警戒心を強めていた。奥歯を噛みしめる。何か起こる……そんな、予感めいたものが、あった。
ロゼットは布団の中から出て、ベッドの端に腰かける。いつでも動けるようにと、念のため外に出られる恰好をしていた。今日だけではない。王宮にきてから、ずっとそうだ。
幸せに満ちていた、王都からの帰り道。突然の転落、そして襲撃――ほんの少しの油断によって、ロゼットは大切なものを失った。あの日を繰り返さないようにと、彼女は小さく頷く。
「『今度はもう一泊して、王都を見たい』ってルビアが言って」
それは家族の、最後の穏やかな会話。
「お父さまが『聖女選定に招かれれば、いけるぞ』って本気とも冗談ともつかないことを、仰って」
ロゼットの後悔の。
「お母さまが『今から王都に戻ればいいんじゃないの?』って笑って。もし、もしあそこで」
始まり。
「私がわがままを言って、王都に戻っていれば……! 私たちは、今頃!」
ロゼットの手が、シーツを握り締める。引きちぎらんばかりに、力を籠めて、しかし震えて。何度か肩で息をし、ゆっくりと目元を指で拭って。
「私が守らなきゃ。これ以上拘束されるようなら、強引に出ることも考えないと」
彼女は深く深く、肺の中身を吐き出した。
「そもそも襲撃から今まで、事態が繋がっているのだとしたら。ここにいるのは、きっと危ない」
自分の声が、部屋の闇に消えていく。
ため息を吐きながら、ロゼットは顔を上げた。
(ルビア……いっそあの子を連れて、今から逃げようかしら。ん?)
視線が何気なく、部屋のドアを捉える。
どうしてか。
ドアがゆっくりと、動いていた。
きぃっという僅かな音を聞き、ロゼットは反射的に立ち上がる。窓に走り寄り、カーテンと窓を開いた。息を吸い込んだところで。
「大人しくしろ……!」
「ぐっ!?」
後ろからスカートの裾を掴まれたらしく、力いっぱい引き倒される。顎と鼻を打ちつけ、目の前に星が散ったような気がした。身をよじると。
脚の間に、割って入るモノがあった。
暗い中に浮かぶ、その顔は。
かつて、愛した男。
「アン、ディ。なぜ……」
「お前の味方は、この別棟には誰もいない。王城が遠いのは覚えているな? 観念しろ」
(味方がいない!? 使用人はどこへ……それにルビアは)
ロゼットは腰をずり上げようとする。しかしスカートが膝で踏まれているせいか、身動きがとれない。彼女は歯を、食いしばった。己を無理やり、奮い立たせる。
「どうして、こんな……!」
「どうして、だと?」
アンディの顔が。歪んだ彼の顔が、舐め上げるように迫ってくる。
あまりのおぞけに、体が跳ねそうだった。
「お前がもたもたしてるから! 俺は勘当されそうなんだよ!」
「はぁ!?」
間近で激昂する彼に、思わず声を上げ返す。
「伯爵は別にお前でもいいが、俺を養え!」
続けざまの要求に、ロゼットは目を見開いた。
「なぁ、愛してやるからよぉ……俺にはもう、後がないんだ」
アンディが一転して、情けない猫なで声で迫ってくる。かつてロゼットに愛を囁いた彼とは、とても同一人物に思えない。気さくで頼もしい、ロゼットの婚約者は。
きっともう、死んだのだ。
「嫌です! 結婚などしないと、私は言いました!」
強い嫌悪感、喪失への反発から、ロゼットは拒絶を口にする。すると固い手が、彼女の顎を掴んだ。
「可愛げのない女め! 一生離れられなくしてやる……訴えたって無駄だぞ。お前に自由は、ない」
アンディの悍ましい声を聴き、彼がよくつけてる香りが鼻に入った気がして。
ロゼットの頭の中で様々なことが、ぐるぐると回る。
赤いサルビアの花。鍵が紛失している聖堂。人払いされた庭園。アンディが繋がりを匂わせる、誰か。どこかで見たことのあるシルエット。手を伸ばされたときに感じた危機感。声のトーン。血生臭い印象。人質作戦が得意な彼と――。
ルビアをさらって盾にした、賊。
(ルビア……!)
最愛の妹を、軸に。
ロゼットの、中で。
何かが一つに、繋がる。
アンディの手が顎から離れ、首から下へと向かう。
ロゼットはその一瞬の隙に……声を絞り出して、呟いた。
「――やっぱり、スティーブ殿下の差し金なのね」
ぴたり、と止まった彼の瞳がぎょろりと上向き、目が合う。
耳のすぐ横で、ダンっ、と大きな音がした。
僅かに熱く……ひやりとする感触がある。
「二度とその名を口に出すな」
「ルビアは――」
ロゼットの口から、無意識に言葉が紡がれた。
「妹は! まさか!」
「あんな傷物、俺は知らねぇ。あの方も、何がいいんだか――」
アンディに吐き捨てられ、ロゼットの頭の中は。
傷を負いながらも、優しく朗らかな妹の姿で、いっぱいになった。
父に連れてこられ、不安そうだった幼いルビア。カップの取っ手を、必死になって指でつまんでいるルビア。問題が解けてどや顔しているルビア。
両親の死を悲しんで、一晩中一緒に泣いてくれたルビア。
そして、見た覚えのない、彼女の顔。
――『死なないで』と奇跡を祈る、ルビア。
(そんなルビアを、こいつらは……!)
目の前のアンディは、かつて好いた相手で。
彼に触れられると一瞬、その想いが頭を過ったが。
しかし〝傷物〟という彼の一言が――ルビアの笑顔に、泥を塗るようで。
刹那のためらいの後。
ロゼットの瞳から。
光が、消えた。
「殺してやる」
ロゼットは、低く呻いた。目を血走らせ、闇の中から睨む。漆黒の鼓動に身を任せ、顔を怒りに強張らせた。口をすぼめて、火のような息を、めいっぱい風に乗せる。冥府の底から響くような細い口笛が、満月の夜に高く広がった。
「ぁん?」
アンディが何事かと、周囲を見渡す。
夜は、静かで。
「なぜ、何も、こないの」
ロゼットは口から、絶望を吐き出した。
「当たり前だろう」
そんな言葉と共に、近くのベッドに重い何かが投げ込まれる。顔が、こちらを向いていて。
「ルビア!?」
口に布を噛まされ、後ろ手に縛れた様子の愛しい妹。一瞬、抑える力が緩んだのを感じ、ロゼットは首を振る彼女にしがみついた。
「この別棟を手配したのも、警備を敷いたのも。この辺りのネズミからコウモリ、野犬や猫までも殺し尽くしたのも」
アンディの肩越しに見える、部屋に入ってきたの人物は――。
「この私だ、ロゼット」
スティーブ第二王子。
(そうか! こいつが先日の賊なら、私の力は当然バレて……!)
ロゼットは慄き、視線を走らせる。アンディはまだごく近く。ルビアはケガこそ無さそうだが、動けないようだ。部屋の入り口には、スティーブ。しかも窓の外から、カチャカチャと金属の擦れる音が聞こえる――きっと、王子の手勢だ。
「こそこそと嗅ぎ回ってくれたな。大人しく従え」
冷淡なスティーブの瞳が、こちらを見下している。
「そして私を望め、ルビア。姉を殺されたくなければ、な」
「殺!? 殿下、それは話がちが――ひっ」
アンディが顔を上げて抗弁する。彼にスティーブの、鞘から抜き放った剣が、突きつけられた。アンディの目の横にあるそれは、切っ先が僅かにロゼットを掠めている。意外に深く切れたのか頬から血が流れ、ベッドを赤く濡らした。
「さあ、選べ聖女」
(聖女!? そんな、まだ選定は行われていないはず――ハッ)
ロゼットの傷が、緑の光に包まれて塞がっていく。すぐ傍には、項垂れて涙を流す……ルビア。
「そうか。では、楽にしているがいい……すぐに、終わる」
スティーブが近づいてくる。
アンディも振り返り、何やら舌なめずりをしていた。
(いや……ルビア。ルビアをこんなやつらに、渡したくない!)
ロゼットは。
(誰か――誰でもいい)
涙を堪え。
「私は、いいから」
わけもわからず。
胸から湧き上がる何かに、従って。
「ルビアを助けて!」
誰かに、そう命じた。
「諦めろって――ぎゃ!?」
アンディの額に、飛び出した何かがガンッと当たった。
「な、に……ガッ!?」
再び彼を強打したのは、アンディのナイフの柄、である。ナイフの切っ先が、枝分かれして足のようになり、ベッドの上に器用に着地していた。
「物に命を宿したのか!」
「た、〝禁忌〟だ! こいつ、魔女!?」
『うるせぇよ、ブサイクども』
喚くスティーブとアンディを――ナイフの発した声が、一喝している。
『俺チャンの初仕事に、水を差すなよ! さぁサぁさあ!』
ナイフの号令を受け、暗い室内にぼうっと光が浮かび上がった。それはスティーブの持つ剣を包んでいて。
「これは」「なんだ、剣が!」「勝手に!?」
剣をねじ伏せようと持つスティーブ、外に待機してる兵たちが、驚きの声を上げていた。
『兄弟たち! 二人の聖女を守れッ!』
「た、助け」「ぎゃ!」「ぐぇ」
外から苦鳴。
直後、黄色い光に包まれた刃が。
窓から無数に、飛び込んできた。
「この、ガッ!?」「やめ――ウッ」
轟音。暴風。僅かな悲鳴。決着は、一瞬だった。
スティーブは無理やり剣を振るおうとしていたが、夥しい数の剣の腹や柄で滅多打ちにされた。アンディもボールよろしくスイングに巻き込まれ、壁に叩きつけられている。
(これは、いったい。城中の剣が集まったとでも? 包丁とかもあるし)
『どうする? コイツラ。ご主人様たち』
問いかけられハッとし、ロゼットはルビアを振り返る。噛まされていた布や縄は切られたようで、彼女は自由になっていた。その腕が。
「おねえさま!」
ロゼットの首に、回る。しゃくりあげて抱きつく彼女を、ロゼットは受け止め、その頭を両腕で抱えた。愛おしげに頬を擦り寄せて。
我に返り。
「そいつらは殺しては駄目よ」
横目で、スラッと立つナイフを見つめる。
「私たちの侍女たちが、囚われているかもしれない……助け出しておいて」
『お安い御用だ。じゃ、ごゆっくり!』
ナイフが陽気に告げて、窓から外に出ていく。
大量の刃も、一緒に。
あとに残されたのは。
「もう大丈夫よ、ルビア」
ロゼットと、離れないルビア。ボッコボコにされたスティーブとアンディだけ。彼らを冷たく見つめ。
(もう限界だわ……行かなくては。私は真実を、聞かなくてはならない。妹の、ためにも)
怒り、悲しみ、不安……そんなどす黒い感情が。
ルビアを撫でるたびに少しずつ落ちていく。
眠りをもたらしそうな安堵すら覚え。
ロゼットはゆっくりと息を整えた。
冷静さが、戻って来る。
抱えていたすべての鬱屈が、消える。
ルビアのことで、頭がいっぱいになる。
ルビアが――泣き止んだようだ。
二人の息の音だけが、聞こえる。
静かな夜が、訪れた。
ロゼットは深く、息をする。
ルビアを支え、また支えられるようにして立ち上がる。
王子がルビアを狙った理由。これを、知らねばならない。
返答如何では、覚悟を決めねばならなかった。
「疲れてるところ悪いけど、王城に行きましょう。やるべきことがあるわ」
泣き顔の妹が、頷くのを待って。
ロゼットは彼女の手を引いて。
夜の王城へ向かった。
☆ ☆ ☆
王城は大騒ぎとなった。
深夜にも関わらず、王と王妃はすぐ、ロゼットとルビアを迎え入れた。人払いされ、四人だけの執務室。
そこで開口一番。
「すまなかった」
王に、頭を下げられた。二人は顔を見合わせる。そもそも、何について謝られたのかが、わからなかった。
「先日あなたたちは、王都を訪れて洗礼を受けましたね? その帰り道で、襲撃された」
「はい、王妃様。それが、何か……」
王妃が沈痛な面持ちをしている。ロゼットとルビアは、じっと返事を待った。
「あの洗礼が、〝聖女選定の儀〟だったのです」
「え……?」
「そしてあの日の選定で聖女が出たことが……漏れました」
「ですが。聖女がルビアだとしても、なぜ狙われて……」
ロゼットは戸惑い、右隣のルビアをじっと見る。彼女の左目の傷が、痛々しくて。ロゼットは思わず、眉尻を下げた。
「聖女は1000年に一度現れる、神の言葉を伝える者。聖女が選んだ者が、王になる」
国王に真実を告げられ、ロゼットは混乱する。納得はしたが、いまいち飲み込めなかった。
「王族ならこのことは知っています。しかし誰が聖女なのかは〝聖女が王を選ぶまで〟秘密なのです。ただ」
説明する王妃が言葉を切り、ゆっくりと、続きを口にした。
「今回の選定には問題があり、教会でも議論が起こりました。そして結果が漏れてしまった。そう」
「聖女は二人、いました。ロゼットとルビア。あなたたちです」
(ふた、り?)
ロゼットはルビアを見た。ルビアは、ロゼットを見ていた。
「あの日選定を行ったのは、ルドベック家のお前たちだけ……ゆえに狙われた」
「スティーブは、ルビアにこそ特別な癒しの力があると睨んだようです。襲撃後のロゼットに、怪我がありませんでしたから」
(そういうこと。聖女がうちから出たことは漏れたけど、〝二人〟ってことは知られてなくて)
ひどい内幕を聞いて、ロゼットはげんなりとした。
(それでルビアだけが狙われていたのね。アンディはたぶん、体よくスティーブに使われたんだわ)
ぼんやりと隣を見れば、ルビアがどこか、罰の悪そうな顔をしている。彼女は痛む脚をおして、スティーブを調べていたのだと……ロゼットはそう察した。
「何もかもこちらの、不手際だ。本当なら詫びになんでも叶えてやりたいが、できないことがある。わかるか?」
国王に尋ねられ、ロゼットは暗澹とした気持ちになった。
「……私たちを家に帰すこと、ですか? 聖女なら、王家に留め置きたい」
「そうなる。申し訳ない。恥を重ねるようで、すまないが」
国王はどこか沈痛な、しかしはっきりと強く意思を込めた目で二人を見て。
「どうか正しい王を、選んでほしい。この私の血筋では、もう駄目だという神の思し召しなのだろう」
そう、言い切った。
「王を選べと」「言われても」
ロゼットは投げやりだった。家に帰れないどころか、王城軟禁はどうも決定事項のようである。ルビアも同じ気持ちなのか、肩を竦めている。
「迷うことはありません。その特別な力を、誰のために使いたいか。そのたった一人が、あなたたちにとっての王なのです」
(そんなこと、言われても。そもそも私の力は、なんか変なので癒しじゃないし)
王妃に言われ、ロゼットは考える。
(というかそれぞれ選んだら、二人になっちゃうし。誰のためにって言えば――)
国の力をもって拘束されるとあれば、いっそ良い王を選んで、その庇護を受けるしかないだろう。しかし、ロゼットが自分の力を使いたい相手など。
一人しか、いなかった。
――でも、そうしたら……選んでしまったら、どうなる?
楽しかった、家族での日々。そこには婚約者の姿もあって。
(この子は、平穏に戻れなくなる。あの伯爵領の屋敷には、もう)
けれど。
父と母はもういない。
婚約者には、裏切られた。
(戻れないのなんて、今更だった。もう進むしかないのよ。後悔しないように……ルビアと、二人で)
ほんの一瞬の油断で両親は亡くなり、ロゼットの選択によってアンディは破滅した。普通の暮らしなど、もうどこにもない。それでもロゼットは奥歯を噛みしめて、恐る恐る顔を上げた。
隣のルビアを、じっと見る。
絶対に失いたくない、最後に残された希望を。
彼女もまたゆっくりと……躊躇いながら振り向いた。
迷い、それでも自分を見つめる彼女が。
同じ思いだと、信じて。
「癒したい」
ルビアの左目が視界に入り、自然に想いが溢れた。
馬車が転落したとき、彼女が自分を庇って、ついてしまった傷。
このままでは、あまりにも不憫で。
その目元を、ロゼットはほのかに輝く右手で、優しく撫でた。ルビアもまた、見えないはずの左目で……ロゼットのことを、見ている。
(自分は癒せない、あのゲームの聖女ルビア。彼女を治してあげられたら、どんなにいいだろうって、私)
そっと目を覆う布をとると、その下からは。
潤いと輝きを取り戻した、瞳が現れた。
(私はルビアのために、この世界にやって来たのよ――!)
――答えなど、最初から決まっていた。
「王はルビアよ」「王はロゼットおねえさまです」
聖女の力とは、命の力。癒しではなく、命を吹き込む力。
動物に、植物に、ものに、あるいは――――人に。
二人の女王太子はやがて女王となり、手を取り合って遷都した。
ルドベック伯爵領は、王都になった。
二人の試練は、それまで続いた。
家族四人、一緒に家に帰る……その日まで。