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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

伯爵になるので、婚約は破棄します。

作者: れとると

18000字ほどの短編です。刺激はちょっと強め、ざまぁあり。姉妹百合です。

 木漏れ日の差す庭で、当時六歳のロゼットは。


「おねえちゃま……」

「うっ――!?」


 光に――焼かれた。


 鈴の転がるような声、ふわっふわの金髪、くりっとした青い瞳。先日父が連れ帰った少女は着飾られ、見事な輝きを見せていた。養女にすると言われ、ロゼットは強い反発を覚えていたはずであった。しかしそんなものは吹き飛んだ。

 この時、前世の記憶も戻ったが……それどころではない。魂の根底を覆されたような、そんな激震を感じて。


「ルビア……! ああ、私の妹!」


 気づいたら、幼い義妹を抱きしめていた。

 本来ならばひっぱたくはずの――その場面で。

 悪役令嬢ロゼットは、あまりの妹萌えによって。



 生まれ変わって、しまったのだ。



 ☆ ☆ ☆



 ある日。


「わたし、おねちゃまとずっといっしょにいたいです」


 お茶をしたいという愛しい妹のため、猛特訓して作法を身に着けたロゼット。ルビアを招いて、庭でささやかな茶会を開いた。

 その時。


「はぅぁっ――!?」


 ロゼットはまたしても、妹の可愛さに脳が溶けた。真っ白になった彼女の頭を、様々なことが駆け巡る。この世界に酷似した乙女ゲーム『キメラクラフト』のこと。ルドベック伯爵家の事情――。



「いいでしょう。ならば私は伯爵に、なる!」



 しかし何をどうしてそうなったのか、女伯爵になるという結論に達した。


「おねえちゃま、すごいです!」

「ふーん。ならおれが、むこになってやるよ」


 口を挟んできたのは、たまたま遊びに来ていた公爵令息。両親の縁故ゆえ、ロゼットの婚約者であった。ルビアと同じ髪と目の色をした、どこか野性味を感じる男児、アンディ。ゲームでは攻略対象の一人である。現実と同様にロゼットと婚約するも……長じて聖女となったルビアに鞍替えする。

 ロゼットとしては、妹が望むならば、彼を差し出しても良いとは思っていたが。


「アンディ様……! 私は、幸せです!」

「そーか! こんど、おうとにきたらすいしょうぐうにつれてってやるよ! すごいんだぞ!」

「はい、はい……!」


 それはそれとして、きっちり恋には落ちていた。ルビアと二人並ぶと、あまりにもお似合いで。この二人ともを傍に置きたい――そんな身に余る欲に、駆られるほどであった。


 その幸せまで。

 あと一歩。



 あと一歩というところで――。



 ☆ ☆ ☆



 あれから、およそ10年。


(アンディ様……ルビア)


 ロゼットは、午後の光差す王城の廊下で、一人途方に暮れていた。あんなに泣くとは思わなかった、あの日から……もう一月が過ぎた。


(家に……帰りたい)


 一月前。王都から伯爵領へ帰るためにロゼットら一家の乗った馬車が、がけ下へと転落した。どうにも謀略の類だったらしく、さらに賊の襲撃を受けた。ロゼットが賊に抵抗するうちに、両親は手遅れとなって、そのまま帰らぬ人に。ロゼットもまた意識を失い、目が覚めたら王宮だった。不幸中の幸いだったのは、彼女にはまったく傷がなかったこと。

 だが、外傷がないだけだ。


『お前たちだけでも!』『ルビアをお願いね』『いや、私は諦めない!』

「っ――」


 立ち止まると、あの時のことが蘇ってしまう。足が震え、悔しさで涙が溢れそうになった。ロゼットは唇をわななかせながら、細く深く息を吐き出し、無理やり足を進める。


(進んでも……私はどこにも行けや、しないけれど)


 襲撃から一月。ロゼットは王宮に、留め置かれていた。


 理由は三つ。

 賊の再襲撃警戒。

 伯爵位継承の保留。

 葬儀の遅延だ。


(逃げた賊がいるから、国王陛下らが匿ってくれている……のはいい。私の伯爵位継承が認められない理由が、わからない。葬儀も、なぜか。このままでは、うちに帰れないわ)


 王宮内しか自由に動けないので、逗留というより軟禁に近い。


「ほんと、酷い状況……」


 自身の環境を振り返り、ロゼットは頭を振った。襲撃の怯えと将来の不安で、事件からずっとよく眠れていない。


「大丈夫さ、きっと良い未来が待っている」

「アンディ様……!」


 差し込まれた声に、ロゼットの返事は弾んだ。柱の影から現れたのは、婚約者の公爵令息、アンディ。美しく成長した彼は、甘いマスクと切れのある目元で笑みを象り、すっとロゼットの懐に入ってくる。


「毎日来てくださって、ありがとうございます」

「いいんだ。むしろあまり構えなくて、済まない。父の遣いで、ここにいることになっているからな……」


 手を取られ、間近にある彼の顔を見上げると、胸の奥でどきりと鼓動が跳ねた。手で押さえて高鳴りを隠したいが、アンディに握られたままだ。


「ぁ……公爵閣下、といえば。その、以前お願いした、婿養子の件は」

「…………家を出ることは、許してもらった。だがルドベック伯爵家の当主となることを、条件にされている」

「それは」


 ロゼットは言い淀む。どのみちアンディが伯爵家の当主になろうとも、彼に継承権はない。その場合はロゼットが預かり、二人の子どもが継ぐことになる。


(私は、いい。でもそうなると……ルビアは)


 ロゼットが気にしているのは、最愛の妹・ルビアのことだ。彼女は義理の妹であり、両親がいなくなってしまった以上、養子縁組解消の危機にある。

 ならば。


「いっそ。私がお嫌なら、アンディ様がルビアをもらってくだされば」


 ロゼットとしては、ルビアに幸せになってほしいのだが。


「嫌だなどと、そんなこと! 俺が愛しているのはお前だけだ、ロゼット。わかってくれ」


 その意見は、どうしてか受け入れてもらえなかった。


「俺たちがすぐにでも結婚すれば、その方が道は開ける。ルビアのことだって、きっと」

「ですが、ルビアは。もう嫁入りも、望めないのです。あの子の未来が暗いままでは、私は……」


 すっと、手が離される。

 ロゼットは暖かさを求めて、震える指を伸ばしたが。


「アンディ様……」

「……第二王子殿下に呼び出されてるんだ。また来る。当主の件、考えておいてほしい」


 届かなかった。

 芝を踏みしめ、彼は去っていく。ロゼットは。


(ルビアのためには。私は私の幸せを――)


 唇を強く噛みしめ、拳を握り締めて。


(諦めるしか、ないの……?)


 決意を固まらず。

 膝をつきそうに、なっていた。



 ☆ ☆ ☆



 季節が移り替わる頃。

 王城から中庭に出たロゼットは、中天近くなった太陽を見上げ、ため息を吐いた。手慰みに、近くの秋花のつぼみに手をかざす。ロゼットの手から広がった黄色い光が、咲遅れの花たちを一斉に開かせていった。


(季節の移り変わりみたいに、ちゃんと物事が進んでほしいわ)


 状況は刻一刻と、悪くなっていた。国王や王妃は、ロゼットの話を聞いてくれる。だがそれだけだった。

 空を、ぼんやりと見る。今の自分は、まるであの浮雲のようだ。


(アンディ様も……あまり良い顔をされなくなった。今日はルビアを見ていただけるよう、お願いしておいたけれど)


 庭をゆっくりと移動するうちに、人々の声がかすかに耳に入る。王宮の庭園は解放されており、使用人や庭師だけでなく、貴族たちの姿もあった。

 事件直後の頃は。


「賊に立ち向かったらしい」「勇敢な令嬢だ」「両親を亡くされて」「おいたわしい」


 ここで会う人々はそのように言ってくれた。優しい言葉だった。だがしばらくして。


「賊は死体がないとか」「恐ろしい女だ」「両親もまさか」「あの野蛮な娘が」


 様子が変わった。徐々に、ロゼットへの当たりはきつくなっている。


(陛下らも、守ってくれるというほどではない。アンディ様だって……勝手な真似を)


 ロゼットは密かにお礼を兼ねて、様子伺いの手紙を公爵に出した。しかし返事にはアンディを伯爵家当主に、などという話はまったくなかった。どころか、落ち着いてから結婚話を進めようと書いてあったのだ。

 今一つ彼を信用しきれず……ロゼットはだんだんと、身動きがとりづらくなっていた。


(悪役令嬢襲撃、なんて。()()()()()()()()()()()()、なかったというのに。どうして)


 息をぐっと飲み込んで腹に力を入れ、頭を振って嫌な考えに抵抗する。ロゼットには、少しの心の拠り所があった。そのうちの一つは、ロゼットに前世の記憶がある、という点だ。

 だが今は、ロゼットの知らないことばかりが起きる。


「こんなことになったのは、私が破滅の回避を願ったから……かもしれない。ならせめて、あの子は私が守らなくちゃ」


 それでも彼女が、奮い立つのは――もう一つの心の拠り所。

 ともに生き残った愛しい義妹。

 ルビアがいるから。


「おねえさま!」


 声に顔を上げて見れば、王城から庭園に出てきた義妹の姿があった。


「ルビア……」


 杖を使って苦労して歩いてくる彼女を、ロゼットは出迎えて支える。ルビアはまだ、馬車転落の際の傷が、治っていなかった。右脚が折れ、左目が傷ついてしまった。顔の布の下の大きな傷は、まったく癒えていない。


「無理してはダメよ。あなたは自分のけがを、癒せないのだから」


 ルビアには、ゲームと同じ癒しの力がある。ただ治せるのは他人だけ。歩き方もだんだんおかしくなっており、大人しくしていろと何度も注意した。だが、ルビアは聞き入れてはくれない。


「この脚で、こんなところまで歩いてくるなんて。私は心配だわ」



 パシッと軽い音がした。



 はたかれ、突き飛ばされたロゼットはよろめき、顔を上げる。


「ル、ビア?」

「おねえさまはいつもそう!」


 その綺麗な顔は。

 赤く、明らかな怒りに染まっていた。


「けが人のわたしは出歩いてもいけないと! そう仰るのですか!?」


 その青い瞳は、燃える炎のようで。


(あ。私、また……)


 つい出た自分の過保護さに、気恥ずかしくなり。


「そ…………」


 否定をしかけ、ロゼットは口をつぐむ。

 いつ頃からだろうか、ルビアは強く反発を示すようになっていた。


(あの脚、一カ月余りも治ってない……)


 ロゼットが案じても、それを聞き入れてくれない。彼女は。


(この子は王宮に来てから、何やらずっと動き回ってて。それで悪化してるかもって、お医者様も言っていた。なら)


 構いすぎて、彼女の考えを踏みにじっているのかもしれない。そう考えて。

 


「そうよ、ルビア。外に出てはダメ」


 ルビアの自由を、否定した。


 なじられようとも。

 例え嫌われ、ようとも。

 大好きな、妹のために。


「――ッ!」


 息を呑んで背を見せ、急ぎ足で妹が去っていく。

 その、姿に。


(いって、しまう)


 父と母の幻影が。

 重なる。




「ま、待って!」




 ロゼットはハッとし、回り込んだ。


(この子が幸せになるには、伴侶がいる……やはり、彼に託すしか)


 反射的な思いつきからであったが。


(そうしな、ければ。ルビアは路頭に迷う。私の幸せなど、考えてる場合では)


 まだ踏み固まらない覚悟の中で。


「あの話は、考えてくれた? ルビア」


 妹のためを思う心から、言葉は絞り出された。

 だが。


 ルビアの顔色が、さっと変わる。怒り、そして悲しみ、あるいは――おぞけを示したものに。


「っ! あんな男となんて、いやです!」

「なんてこと言うの、アンディ様の何が不満なの!?」


 強いルビアの拒絶に、ロゼットは思わず声を荒げた。

 アンディは自分には過ぎた婚約者で、貴公子だ。野性味あふれる面もあり、紳士的な態度の中に時々見せる危険な瞳が、非常に魅力的であった。

 ロゼットはもちろん、ルビアにも優しく振る舞ってくれている。彼女とて懐いていた、はずなのに。


「おねえさまを差し置いて、あいつは……あっ」


 ルビアが何かを言い淀んで、ロゼットはハッとなった。彼女が()()である、ということにいまさらながら気づいたのだ。


「そういえば、なぜ一人なの? アンディ様にお願いしたのに」

「それ、は…………」


 ルビアが思わずといった様子で視線を走らせてから、目を逸らす。ロゼットは彼女が見た方角に、東屋があるのを思い出し――ピンときた。


(あの方、まさか……!)

「な、何かの間違いだと思うのです! アンディ様はおねえさまの婚約者で――」


 ルビアが庇ったので、ロゼットは確信した。ロゼットはずんずんと進む。「まって」と追いかける妹を振り切り、一つの東屋を目指して。


『そろそろ戻らないといけないのではなくて? アンディ』

『かまやしないさ。あの不良品を押し付けようとする、陰気な姉を煙に巻いておけばいい』


 辿り着く前に。

 そこからは聞きたくなかった、声がした。


『ひどい言いぐさ。じゃあ私のことはどう思っているの?』

『お前だけさ。伯爵になったら奴らを追い出して、お前のところに行くよ』


 彼の本音が、さらけ出されている。

 100年の恋も冷めるような。

 血の気が引く、音がした。


(う、そ)


 冬でもないというのに、手足が先から感覚がなくなる。

 腰にも膝にも力が入らなくなり、立っているのかもわからない。

 血が、止まったような気がして。



「おねえさま……まって!」



 ルビアの声を聴いて。

 すべてが逆流した。


(…………私をないがしろにするのはいい)


 胸の奥から、熱が溢れ出す。

 血が湧き、吐く息は蒸気のようで。

 拳を強く握り締め、庭の土を力強く踏みしめた。


 ――いっそ、ルビアに靡いてくれるなら、それでよかった。そう思いながらも。

 一瞬、怒り顔を浮かべたロゼットは。


(なのに、他の女!? 許せないわ!)


 深く息を吸って姿勢を正した。

 振り返り、向かって来たルビアに自然にほほ笑む。

 今度こそ彼女を支え、ゆっくりと歩いて東屋から離れた。

 距離をとってから、飲み込んだ怒りを――鼻歌に、乗せる。


 変化は、すぐに訪れた。


 足元の草花がざわざわと揺れる。小動物や小鳥が、どこからか集まって来る。ロゼットは背後の東屋に向けて、手を差し伸べる。ざわり、と動物たちが振り向き、そちらへと向かい出した。彼らがぐるぐると東屋を回り始め、周囲の植物がにょきにょきと育っていく。


『なに、なに!?』

『なんだこれは!? おい、誰か!』


 二人は叫ぶが、他に声はしない。彼らが喚く間にも、植物は螺旋を描いて建物に絡んでいく。小動物たちが巣を作るようにその形を整え、緑の牢を作っていく。


(使用人も連れずに、女性と逢瀬を楽しむとは。少々、羽目を外しすぎです。アンディ様)


 よく知った声の悲鳴に気分を良くし、ロゼットは鼻歌を止める。


 東屋は蔦や草木に覆われ、すっぽりと包まれていた。音もなく、動物たちは去っていく。

 中の男女は出られなくなったようで、助けを求める声が響いている。王宮の下男下女が遠くに見えたので、ロゼットはアンディたちを無視した。


「おねえさま……なんてことを」


 ルビアが言葉とは裏腹に、綺麗な笑みを見せている。左の目元は痛々しいが、相変わらずほっとするような笑顔で、ロゼットは相好を崩した。彼女の目がロゼットを捉え――ルビアは顔を赤くして、咳ばらいをしている。それが余計に、おかしくて。


「んっ。まるで伝説の、聖女様のようですね」


 何かを誤魔化すようにそっぽを向いて言う妹に、ロゼットは「ふふ」と小さく笑う。


「特別な力を持つ者の中から、聖女は選ばれるというけれど。私じゃなくて、きっとあなたよ」

「わたしなんて、そんな……」


 謙遜するルビアを、ロゼットはにやにやと見つめ。


(そうよ。この子が笑ってくれるなら)


 その笑顔の裏で。


(私は、なんだってするわ。彼なんて、いらない)


 自分の幸福を――諦めた。



 ☆ ☆ ☆



 だが状況は、肌寒い風が吹く頃になっても、良くならない。

 伯爵家から、幾人か侍従や侍女が来てくれた。信用できる彼らに、ルビアの世話を任せられるようになったものの。

 他の進展がなかった。


(陛下も、ダメならダメと、はっきり言ってくださればいいのに)


 一つ変化があったことと言えば、婚約者アンディのこと。


(公爵閣下もだわ。アンディ様と、あの侯爵令嬢のことは知れ渡ってしまった。さっさと婚約破棄してくれれば……)


 ロゼットの婚約者と東屋にいたのは、どこぞの侯爵令嬢らしかった。アンディは醜聞が知れ渡り、しかし婚約は破棄したくないと訴えているらしい。


「アンディ様、か」


 花の咲き誇る庭を歩きながら、ロゼットは想いを馳せた。胸の奥に刺さる苦痛に、顔を歪ませる。


(意外と、花に詳しいのよね……アンディ様)


 頼もしく手を引かれたり、抱きかかえられたこともある。彼はいつもロゼットを気遣ってくれて、疲れた様子などみじんも見せない。そして油断していると――そっと顔を寄せてくるのだ。ロゼットは思わず唇を、指で撫で。

 首を、振った。


(でも、もう許せない。……ま、こないだのアレで、スカッとしたし。お別れとしては悪くなかったとしましょう)


 庭園の東屋に閉じ込めた一件を思い出し、ロゼットはほくそ笑む。あの日以来、彼はロゼットには会いに来ていない。


「私が女伯爵になるなら、結婚は白紙なのだし。早く婚約破棄して、慰謝料払ってくれないかしら」


 ふと、立ち止まる。


「そうすればルビアに、支度金として持たせて――」


 以前ならば、足を止め、座り、あるいは眠ろうとするだけで……両親の最期が頭をよぎっていた。だがいつからか、ロゼットは立ち止まるたびに、彼女の笑顔を思い浮かべるようになっていた。

 ロゼットの、心の支え。魂の拠り所。


「ルビア」


 彼女の名を呟くだけで、胸の内が熱くなる。聖女になるという運命にある、太陽のように眩い子。孤児だが、卑屈さの欠片もない。聡明さもあるがそれ以上に純真で、いてくれるだけで心が洗われるようだった。

 前世では、あまり家族関係に恵まれなかったロゼット。だからこそ血のつながり以上の、絆を感じる妹。


「今、手持ちもないのよね。でもいつか王都に出て、また服でも見繕ってあげたいわ」


 甘え上手な妹のことを思い、ロゼットは顔を綻ばせる。妹の願いを叶え、姉の矜持と威厳を示すこと。ロゼットは転生後の人生を、ほとんどそのことに費やしていた。


(最近は……喧嘩ばかり、してしまうけれど)


 ロゼットは小さく息を吐き出す。前世の知識によれば、反抗期とは大事な自立の時期なのだという。自分の意見に抗う彼女を、きちんと受け止めなければならない。

 ロゼットはそう、ルビアと生きる未来を夢見て。


(うん。あの子のために、頑張らなくちゃ)


 決意を、新たにする。ロゼットはルビアのことで、頭がいっぱいになった。心がぐんぐん燃料で満たされるのを感じ、前を向く。


「お父さまとお母さまにご報告して、また励むとしましょう」


 ロゼットは、王宮の外れに踏み入る。最近の彼女は、よく墓地のすぐそばの聖堂を訪れるようになっていた。聖堂には、葬儀前の遺体がおさめられる。神の特別な加護があるらしく、中では遺体が腐敗しない。そこに両親の躯が入った棺が、一月以上も置かれていた。

 入り口の階段を登り、鍵を取り出し、扉に手を掛ける。


(開いてる……?)


 鍵が、開いている。ここは、誰でも入れるわけではない。遺族、聖職者、王族のみが入堂を許される。なのに先客がいるのだ。今はロゼットの両親の遺体しか、納められていないのに。

 ロゼットは音がせぬよう慎重に扉を開き、中に入る。廊下が伸びていて、左右に棺を入れる部屋が用意されていた。扉はなく、中が見えるため……様子を窺いながらゆっくりと奥へと進む。


 最奥に。人影が、あった。


(あの、影……)


 見えたシルエットに、一瞬何かが重なる。ロゼットは息を抑え、ゆっくりと音をたてないように近づき、観察した。胸の前に手を当て、黙祷を捧げている彼は、棺に手を伸ばして――。


「スティーブ王子?」


 ロゼットが声をかけると、その人物は手をひっこめ、こちらを向き直った。第二王子の、スティーブ。最近なぜか謹慎中のジルコ第一王子に代わり、立太子されるのでは、ともっぱらの評判である。優秀で、物腰柔らか。婚約者はいないが、令嬢たちからの人気は高いという。


「ああ、確かロゼット。冥福を祈らせてもらっていてね」

「ありがとうございます。もしかして、たびたびきていらっしゃいます? そちらの花……いつも供えてあって」


 棺には、赤い花――サルビアが一房、乗せられている。


「ああ……手ぶらでは申し訳ないからね。その辺で摘んだものだけれど」

「いえ、過分なご配慮、ありがとう存じます」

「ところで、ロゼット」


 しずしずと近づいていたところ、急にスティーブ王子が距離を詰めてきた。

 油断したロゼットは手をとられ、息を呑む。

 どくり、と心の臓が跳ね。

 顔に熱が、昇った。


「な……なんでございましょう、殿下」

()()は、君に」


 ぽんっと、彼の手から花が飛び出した。赤いバラだ。ロゼットの手の中におさめられ、代わりに彼の手がするりと離れる。


「気落ちしているようだから、お近づきの印に。もしよければ、今度話でも」

「殿下とお話など……私のような、田舎者では」

「君の妹を紹介してくれたら、爵位の件。口添えしてもいい」


 意外なことを言われ――ロゼットは思わず、目を見開いた。


「なんてね。また会おう」


 肩をぽんと叩き、王子が聖堂を出ていく。しばらく待ってから、ロゼットは堂の中を細かく検める。最後に扉を閉め、鍵をかけた。そのまま足早に王宮へと戻る。

 眉根を寄せて、帰る途中。


「おねえさま……?」


 杖をついて歩いている、ルビアに逢った。侍女が二人、彼女についている。


「バラ! どなたかに、いただいたのですか?」


 ロゼットが手の中に持ったままだった薔薇に、妹は目ざとく気づいたようだ。彼女の顔がほころんだので、ロゼットはすっと近寄り、その胸元にさしてやった。


「ん……スティーブ王子にお会いして」


 そう言った瞬間、ルビアの顔色が真っ青になった。胸元に飾られたバラと、自分の顔を、彼女が交互に見ている。


「ルビア? どうし――」

「アンディ様とあんなことになって早々! 第二王子となど……不潔です、おねえさまッ!」


 そんなつもりはない、そう言い訳しようとし――彼が述べたことを、思い出して。


「私ではないわ。あなたを紹介してほしいそうよ」


 そのままするりと、口に出した。王子が相手なら、ルビアだって幸せになれる。すべてはうまくいく……そんな希望に、縋って。



「いやですッ!」



 その想いは。

 最愛の妹に、叩き落とされた。


「どう、して。ルビア」

「そもあのような、恐ろしい男となどッ!」


 言われ、ロゼットは少し顔をしかめる。

 「第二王子は小競り合いの作戦を指揮し、人質をとって敵を惨殺した」と言われ、恐れられている。戦場での冷酷さと、甘いマスクのギャップゆえか、女性には人気がある。だがどうにも男性や重鎮には警戒されており、能力の割には重用されていないらしい。

 そんな男が、手品で花を渡す……気障っぷりが堂に入っていて。先ほどのことを思いだし、ロゼットは笑みを漏らしてしまった。


「なにが。なにがおかしいのです。おねえさま」

「あっ」


 鋭く咎められ、おずおずと視線を上げる。ルビアの青い瞳が、強く自分を睨みつけていた。


「もしや、本当にあのような卑劣な男に……いえ、そもそも」


 ルビアの頬が歪んでいる。笑うというよりも、奥歯を噛みしめているかのように。


「わたしはそんなに、邪魔なのですか?」

「それ、は」


 邪魔などと、とんでもない。だが確かにロゼットは、人にルビアを押し付けようとしている。反論できぬまま黙り込むと、ルビアの顔がより赤く染まり、瞳に涙が溜まって。


「私がいなければ、おねえさまは楽ができると。ええそうでしょうとも!」


 ルビアの震える唇から、高く擦れたような声が響いた。


「ルビア……」

「こんなお荷物な女を押し付けたいお気持ち、よくわかりますわ!」

「話を聞いて」

「わたしが出ていけばいいのね! いいえ、そもそも」


 彼女が笑っている。

 泣き笑いだった。



「わたしがあの時、お父さまたちの代わりに、死んでいれば――」



 彼女の示唆する光景が、脳裏をよぎり。

 視界が、真っ黒に染まった。


 ぱんっと、乾いた音がする。驚きの表情を浮かべるメイドたち、じんじんとしてくる自分の手のひら、そして。


「私を独りにしないで、ルビア」


 赤くなった頬を右手で押さえる、ルビアを見て。

 ロゼットは短く、吐き捨てた。

 胸の奥の空虚と悲しみを。


 妹がいなくなってしまう絶望を――悟られないように。


「なら、どうして」


 涙をぽろぽろと流すルビアを目にし、ハッとする。


「ルビア!」


 呼びかけるも、遅かった。振り返った彼女はメイドたちに支えながら、廊下の奥へ急ぎ足で向かっていく。杖を突きながら、必死で歩くその様に……ロゼットは二の句が、継げなかった。


(私は、なんてことを)


 自分の行動にいまさら愕然とし、目を見開く。じんじんとしていた左手から、震えが広がっていく。肩を抱き、目を泳がせ、引きつったような息を漏らした。


(私は。どうすれば、いいの――お父さま、お母さま)


 なぜルビアを叩いたのか。自分の気持ちが分からなくて。

 ロゼットは動けなく、なっていた。



 日が傾いて。

 低い夕日が、彼女を照らして。

 闇の中、猫や犬が心配そうにあたりをうろつくまで。


 ずっと、動けなかった。



 ☆ ☆ ☆



 また数日が過ぎた。

 ルビアと……口も聞かない日々が。


 王城から今日も中庭に出て、ロゼットはため息を吐く。


「王妃様、こちらのお願いは聞いてくれたけど……どの件も進展はなし、か」


 最近はすれ違う人という人から、罵倒のような言葉を耳にする。しかし今日の庭は嫌に静かだった。


(神の代理人たる国王様が頷かないのだから、無理はないわね)


 ぼんやりと不安を胸のうちに零しながら、何気なく東屋まで歩いて近づく。随分磨かれ、丁寧に始末された跡がある。ここを動植物だらけにした犯人のロゼットは、少し申し訳ない気持ちになった。


(王子たちやアンディ様。彼らに聖女予定のルビアを任せられれば、それはそれでよかったのだ。このままで、いいのかしら――)


 東屋の柱をそっと、撫でていると。

 その手を、掴まれた。


「っ――アンディ様!?」


 以前この東屋に侯爵令嬢と一緒に閉じ込めた、ロゼットの婚約者。公爵令息のアンディだった。


(こいつ、いつから……いったいどこに隠れて!?)


 彼は掴んだ手を強く引っ張り、無言でロゼットを中に連れ込む。


「いた、離して! ――あっ!」


 乱暴に引き回されたロゼットは、柱に背を打ち、席に座り込んでしまった。痛みをこらえて開けた目が――飢えた獣のような目をした、男の姿を、捉えた。


「な、にを……」


 歯の根が合わない。僅かに言葉を出したきり、声は紡げなくなった。目を逸らしたいが、アンディから視線が、外せない。


「俺は怒ってるわけじゃないんだ、ロゼット」

「なん、の。おはなし、でしょう」

「とぼけるな! 俺の手紙を無視して! とっとと結婚すればいいのに、まだ伯爵に拘ってるのか!」


 婚約者の剣幕に、ロゼットはびくりと震える。確かに以前この東屋に閉じ込めてから、手紙が幾度か来ていた。内容は結婚話についてで、そのたびにロゼットは断りの返事を出している。


「アンディ、様こそ。やはり伯爵になりたい、だけで」


 ロゼットの声が、僅かに震えた。


「私を愛してくださっては、いなかったのですか? ルビアは」


 勇気を振り絞るロゼットの、前で。アンディの顔が。


「愛してやるとも。妹もというなら、まとめてな」


 いやらしく、引きつっていた。



(ああ……もう駄目だわ、これは)



 先日、アンディへの想いは冷めに冷めた。だがロゼットは今、その下があるのだと思い知った。

 妹を、ルビアを大事にしない男など。ロゼットにとって論外だと。

 この男は――知っている、はずなのに。


「侯爵閣下に取り入って、才気を示す覚悟もないということですか」

「なに?」


 震えがすっと消える。心が空虚になっていく。


「自ら伯爵に成り下がるような、小物らしいですね? アンディ様」


 ロゼットは冷ややかに笑みを浮かべ。



「私は伯爵になるので。婚約は、破棄します」



 安い挑発を投げつけた。しかしそれは功を奏したようで、アンディの顔はみるみる赤に染まる。彼がロゼットの胸元に、手を伸ばし――。


「――なんだと。きさ、まっ!?」


 その顔が消えた。どうも杖で殴られたらしく、ずいぶんな勢いでアンディが転げ回っている。


「おねえさま!」

「ルビア!?」


 いつの間にか東屋の入り口には、ルビアや使用人たちの姿があった。


「おねえさま、こちらに……きゃっ」


 ロゼットを助け起こそうとしたルビアが、突き飛ばされ、東屋の外に倒れる。

 目の前が真っ赤に、染まったような気がした。


「アンディ、貴様――!」


 鼓動が、漆黒のような音を奏でている。

 ロゼットは息を吸い、口をすぼませて――。




「何をしている、アンディ殿」




「ぇ。スティーブ、殿下?」


 アンディの呆然とした呟きが、聞こえる。王子に睨まれた彼は。


「くそっ……!」


 転がるように後ずさり、走り去った。


(え? あんなに怒っていたのに、どうして……)

「王家の血が入っているとはいえ、王宮に出入りするのは問題がある男のようだな」


 ロゼットが戸惑ううちに、王子が近寄って来る。


「君の婚約者だとは聞いたが……立てるかい? ロゼット」


 彼の袖口から、ふわり、と何かが香り。

 ロゼットは、体を強張らせ。


「っ――」


 差し伸べられた手を。

 無意識に、払った。


「…………ロゼット?」


 ロゼットは怪訝な顔の王子から、目を逸らし。


(今、何か思い出したような……)


 震える手を、握り締めた。


「もう少し、素直な子だと思ったが」

「今。殿方に触られたくは、ありません。それが、殿下、でも」

「……気が利かなくて、申し訳ない」


 王子の瞳に、一瞬危険な色が宿った気がしたが、彼は大人しく引き下がる。すでに身を起こし、強張った顔をしたルビアが、代わりにロゼットの隣まで滑り込んできた。


「会談、早めに受けてくれると嬉しいね。君も貴族の女なら、あまり男の誘いを袖にするものではないよ?」


 ロゼットは肩をびくり、と震わせる。何かスティーブの声に、視線に。刃物のような、冷たい感覚があって――それに覚えがあるような、気がして。


「君の大切な妹の、ためでもある。ルビアも、また」


 背を向けたスティーブが立ち去ったところで。

 ロゼットは大きく、息を吐いた。


「おねえさま、ご無事で……!」

「けがはない。あなたは?」

「大丈夫です! あの男ども……! こんなッ!」


 案ずる様子のルビアの髪を、ロゼットはさっと撫でる。頭はまだ、整理できていなかったが。

 気になることが、あった。


「ルビア。あなたもしかして、スティーブ様と一緒にいた?」


 そう思ったのは。手を差し伸べられたときに一瞬感じた、香り。

 ルビアの髪についた香料と、同じものだった。


「っ、詮索しないで、ください。わたしの勝手です」

(やっぱり……紹介もしていないのに、勝手に接触している)


 ロゼットは目を伏せる。ルビアを不安にさせないように、表情を押し隠した。


「そう。どうしてこちらに来たの?」

「おねえさまが、何か危ない目に遭っている気がして! そしたら!」

「そう……ありがとう。本当に」


 ロゼットは顔を綻ばせる。赤くなったルビアが目を逸らした。


(ルビア。私を、案じてくれているのね。うれしい)


 ロゼットは体を起こす。腰に力が入りづらかったが、無理やり奮い立たせた。


 ――早くうちに帰りたい。呟きは、胸の内に消えて。


 慌てて肩を貸してくれたルビアに寄り掛かりつつ、立ち上がる。


(ルビアと一緒に。私たちの故郷へ)



 ☆ ☆ ☆



 冷えを感じ、初冬の近さを思う夜半。

 大きめの窓からは、カーテン越しに月光が差している。だんだん住み慣れてきた部屋には、ロゼットが一人。ルビアは隣の部屋だ。使用人は、休ませている。


(本当は部屋に一人つけておきたいけれど、信用できる者の数が少なすぎる。負担を考えると、難しいわね)


 アンディが王宮からは締め出されたものの、婚約破棄も爵位も進まず。事件の真相もわからず、ただ聖女選定の儀だけが近づいている。そんな日々にロゼットは、警戒心を強めていた。奥歯を噛みしめる。何か起こる……そんな、予感めいたものが、あった。


 ロゼットは布団の中から出て、ベッドの端に腰かける。いつでも動けるようにと、念のため外に出られる恰好をしていた。今日だけではない。王宮にきてから、ずっとそうだ。


 幸せに満ちていた、王都からの帰り道。突然の転落、そして襲撃――ほんの少しの油断によって、ロゼットは大切なものを失った。あの日を繰り返さないようにと、彼女は小さく頷く。


「『今度はもう一泊して、王都を見たい』ってルビアが言って」


 それは家族の、最後の穏やかな会話。


「お父さまが『聖女選定に招かれれば、いけるぞ』って本気とも冗談ともつかないことを、仰って」


 ロゼットの後悔の。


「お母さまが『今から王都に戻ればいいんじゃないの?』って笑って。もし、もしあそこで」


 始まり。


「私がわがままを言って、王都に戻っていれば……! 私たちは、今頃!」


 ロゼットの手が、シーツを握り締める。引きちぎらんばかりに、力を籠めて、しかし震えて。何度か肩で息をし、ゆっくりと目元を指で拭って。


「私が守らなきゃ。これ以上拘束されるようなら、強引に出ることも考えないと」


 彼女は深く深く、肺の中身を吐き出した。


「そもそも襲撃から今まで、事態が繋がっているのだとしたら。ここにいるのは、きっと危ない」


 自分の声が、部屋の闇に消えていく。

 ため息を吐きながら、ロゼットは顔を上げた。


(ルビア……いっそあの子を連れて、今から逃げようかしら。ん?)


 視線が何気なく、部屋のドアを捉える。

 どうしてか。



 ドアがゆっくりと、動いていた。



 きぃっという僅かな音を聞き、ロゼットは反射的に立ち上がる。窓に走り寄り、カーテンと窓を開いた。息を吸い込んだところで。


「大人しくしろ……!」

「ぐっ!?」


 後ろからスカートの裾を掴まれたらしく、力いっぱい引き倒される。顎と鼻を打ちつけ、目の前に星が散ったような気がした。身をよじると。

 脚の間に、割って入るモノがあった。

 暗い中に浮かぶ、その顔は。

 かつて、愛した男。


「アン、ディ。なぜ……」

「お前の味方は、この別棟には誰もいない。王城が遠いのは覚えているな? 観念しろ」

(味方がいない!? 使用人はどこへ……それにルビアは)


 ロゼットは腰をずり上げようとする。しかしスカートが膝で踏まれているせいか、身動きがとれない。彼女は歯を、食いしばった。己を無理やり、奮い立たせる。


「どうして、こんな……!」

「どうして、だと?」


 アンディの顔が。歪んだ彼の顔が、舐め上げるように迫ってくる。

 あまりのおぞけに、体が跳ねそうだった。


「お前がもたもたしてるから! 俺は勘当されそうなんだよ!」

「はぁ!?」


 間近で激昂する彼に、思わず声を上げ返す。


「伯爵は別にお前でもいいが、俺を養え!」


 続けざまの要求に、ロゼットは目を見開いた。


「なぁ、愛してやるからよぉ……俺にはもう、後がないんだ」


 アンディが一転して、情けない猫なで声で迫ってくる。かつてロゼットに愛を囁いた彼とは、とても同一人物に思えない。気さくで頼もしい、ロゼットの婚約者は。


 きっともう、死んだのだ。


「嫌です! 結婚などしないと、私は言いました!」


 強い嫌悪感、喪失への反発から、ロゼットは拒絶を口にする。すると固い手が、彼女の顎を掴んだ。


「可愛げのない女め! 一生離れられなくしてやる……訴えたって無駄だぞ。お前に自由は、ない」


 アンディの悍ましい声を聴き、彼がよくつけてる香りが鼻に入った気がして。

 ロゼットの頭の中で様々なことが、ぐるぐると回る。


 赤いサルビアの花。鍵が紛失している聖堂。人払いされた庭園。アンディが繋がりを匂わせる、誰か。どこかで見たことのあるシルエット。手を伸ばされたときに感じた危機感。声のトーン。血生臭い印象。人質作戦が得意な彼と――。

 ルビアをさらって盾にした、賊。


(ルビア……!)


 最愛の妹を、軸に。

 ロゼットの、中で。

 何かが一つに、繋がる。


 アンディの手が顎から離れ、首から下へと向かう。

 ロゼットはその一瞬の隙に……声を絞り出して、呟いた。



「――やっぱり、スティーブ殿下の差し金なのね」



 ぴたり、と止まった彼の瞳がぎょろりと上向き、目が合う。

 耳のすぐ横で、ダンっ、と大きな音がした。

 僅かに熱く……ひやりとする感触がある。


「二度とその名を口に出すな」

「ルビアは――」


 ロゼットの口から、無意識に言葉が紡がれた。


「妹は! まさか!」

「あんな傷物、俺は知らねぇ。あの方も、何がいいんだか――」


 アンディに吐き捨てられ、ロゼットの頭の中は。


 傷を負いながらも、優しく朗らかな妹の姿で、いっぱいになった。


 父に連れてこられ、不安そうだった幼いルビア。カップの取っ手を、必死になって指でつまんでいるルビア。問題が解けてどや顔しているルビア。

 両親の死を悲しんで、一晩中一緒に泣いてくれたルビア。

 そして、見た覚えのない、彼女の顔。



 ――『死なないで』と奇跡を祈る、ルビア。



(そんなルビアを、こいつらは……!)


 目の前のアンディは、かつて好いた相手で。

 彼に触れられると一瞬、その想いが頭を過ったが。

 しかし〝傷物〟という彼の一言が――ルビアの笑顔に、泥を塗るようで。


 刹那のためらいの後。

 ロゼットの瞳から。

 光が、消えた。





「殺してやる」





 ロゼットは、低く呻いた。目を血走らせ、闇の中から睨む。漆黒の鼓動に身を任せ、顔を怒りに強張らせた。口をすぼめて、火のような息を、めいっぱい風に乗せる。冥府の底から響くような細い口笛が、満月の夜に高く広がった。


「ぁん?」


 アンディが何事かと、周囲を見渡す。

 夜は、静かで。



「なぜ、何も、こないの」



 ロゼットは口から、絶望を吐き出した。


「当たり前だろう」


 そんな言葉と共に、近くのベッドに重い何かが投げ込まれる。顔が、こちらを向いていて。


「ルビア!?」


 口に布を噛まされ、後ろ手に縛れた様子の愛しい妹。一瞬、抑える力が緩んだのを感じ、ロゼットは首を振る彼女にしがみついた。


「この別棟を手配したのも、警備を敷いたのも。この辺りのネズミからコウモリ、野犬や猫までも殺し尽くしたのも」


 アンディの肩越しに見える、部屋に入ってきたの人物は――。



「この私だ、ロゼット」



 スティーブ第二王子。


(そうか! こいつが先日の賊なら、私の力は当然バレて……!)


 ロゼットは慄き、視線を走らせる。アンディはまだごく近く。ルビアはケガこそ無さそうだが、動けないようだ。部屋の入り口には、スティーブ。しかも窓の外から、カチャカチャと金属の擦れる音が聞こえる――きっと、王子の手勢だ。


「こそこそと嗅ぎ回ってくれたな。大人しく従え」


 冷淡なスティーブの瞳が、こちらを見下している。


「そして私を望め、ルビア。姉を殺されたくなければ、な」

「殺!? 殿下、それは話がちが――ひっ」


 アンディが顔を上げて抗弁する。彼にスティーブの、鞘から抜き放った剣が、突きつけられた。アンディの目の横にあるそれは、切っ先が僅かにロゼットを掠めている。意外に深く切れたのか頬から血が流れ、ベッドを赤く濡らした。


「さあ、選べ聖女」

(聖女!? そんな、まだ選定は行われていないはず――ハッ)


 ロゼットの傷が、緑の光に包まれて塞がっていく。すぐ傍には、項垂れて涙を流す……ルビア。


「そうか。では、楽にしているがいい……すぐに、終わる」


 スティーブが近づいてくる。

 アンディも振り返り、何やら舌なめずりをしていた。


(いや……ルビア。ルビアをこんなやつらに、渡したくない!)


 ロゼットは。


(誰か――誰でもいい)


 涙を堪え。


「私は、いいから」


 わけもわからず。

 胸から湧き上がる何かに、従って。





「ルビアを助けて!」





 ()()に、そう命じた。


「諦めろって――ぎゃ!?」


 アンディの額に、飛び出した何かがガンッと当たった。


「な、に……ガッ!?」


 再び彼を強打したのは、アンディのナイフの柄、である。ナイフの切っ先が、枝分かれして足のようになり、ベッドの上に器用に着地していた。


「物に命を宿したのか!」

「た、〝禁忌(タブー)〟だ! こいつ、魔女!?」




『うるせぇよ、ブサイクども』




 喚くスティーブとアンディを――ナイフの発した声が、一喝している。


『俺チャンの初仕事に、水を差すなよ! さぁサぁさあ!』


 ナイフの号令を受け、暗い室内にぼうっと光が浮かび上がった。それはスティーブの持つ剣を包んでいて。


「これは」「なんだ、剣が!」「勝手に!?」


 剣をねじ伏せようと持つスティーブ、外に待機してる兵たちが、驚きの声を上げていた。



『兄弟たち! ()()の聖女を守れッ!』



「た、助け」「ぎゃ!」「ぐぇ」


 外から苦鳴。

 直後、黄色い光に包まれた刃が。


 窓から無数に、飛び込んできた。


「この、ガッ!?」「やめ――ウッ」


 轟音。暴風。僅かな悲鳴。決着は、一瞬だった。

 スティーブは無理やり剣を振るおうとしていたが、夥しい数の剣の腹や柄で滅多打ちにされた。アンディもボールよろしくスイングに巻き込まれ、壁に叩きつけられている。


(これは、いったい。城中の剣が集まったとでも? 包丁とかもあるし)

『どうする? コイツラ。ご主人様たち』


 問いかけられハッとし、ロゼットはルビアを振り返る。噛まされていた布や縄は切られたようで、彼女は自由になっていた。その腕が。



「おねえさま!」



 ロゼットの首に、回る。しゃくりあげて抱きつく彼女を、ロゼットは受け止め、その頭を両腕で抱えた。愛おしげに頬を擦り寄せて。

 我に返り。


「そいつらは殺しては駄目よ」


 横目で、スラッと立つナイフを見つめる。


「私たちの侍女たちが、囚われているかもしれない……助け出しておいて」

『お安い御用だ。じゃ、ごゆっくり!』


 ナイフが陽気に告げて、窓から外に出ていく。

 大量の刃も、一緒に。

 あとに残されたのは。


「もう大丈夫よ、ルビア」


 ロゼットと、離れないルビア。ボッコボコにされたスティーブとアンディだけ。彼らを冷たく見つめ。


(もう限界だわ……行かなくては。私は真実を、聞かなくてはならない。妹の、ためにも)


 怒り、悲しみ、不安……そんなどす黒い感情が。

 ルビアを撫でるたびに少しずつ落ちていく。

 眠りをもたらしそうな安堵すら覚え。

 ロゼットはゆっくりと息を整えた。


 冷静さが、戻って来る。

 抱えていたすべての鬱屈が、消える。

 ルビアのことで、頭がいっぱいになる。



 ルビアが――泣き止んだようだ。

 二人の息の音だけが、聞こえる。

 静かな夜が、訪れた。



 ロゼットは深く、息をする。

 ルビアを支え、また支えられるようにして立ち上がる。

 王子がルビアを狙った理由。これを、知らねばならない。

 返答如何では、覚悟を決めねばならなかった。


「疲れてるところ悪いけど、王城に行きましょう。やるべきことがあるわ」


 泣き顔の妹が、頷くのを待って。

 ロゼットは彼女の手を引いて。

 夜の王城へ向かった。



 ☆ ☆ ☆



 王城は大騒ぎとなった。

 深夜にも関わらず、王と王妃はすぐ、ロゼットとルビアを迎え入れた。人払いされ、四人だけの執務室。

 そこで開口一番。


「すまなかった」


 王に、頭を下げられた。二人は顔を見合わせる。そもそも、何について謝られたのかが、わからなかった。


「先日あなたたちは、王都を訪れて洗礼を受けましたね? その帰り道で、襲撃された」

「はい、王妃様。それが、何か……」


 王妃が沈痛な面持ちをしている。ロゼットとルビアは、じっと返事を待った。


「あの洗礼が、〝聖女選定の儀〟だったのです」

「え……?」

「そしてあの日の選定で聖女が出たことが……漏れました」

「ですが。聖女がルビアだとしても、なぜ狙われて……」


 ロゼットは戸惑い、右隣のルビアをじっと見る。彼女の左目の傷が、痛々しくて。ロゼットは思わず、眉尻を下げた。


「聖女は1000年に一度現れる、神の言葉を伝える者。聖女が選んだ者が、王になる」


 国王に真実を告げられ、ロゼットは混乱する。納得はしたが、いまいち飲み込めなかった。


「王族ならこのことは知っています。しかし誰が聖女なのかは〝聖女が王を選ぶまで〟秘密なのです。ただ」


 説明する王妃が言葉を切り、ゆっくりと、続きを口にした。


「今回の選定には問題があり、教会でも議論が起こりました。そして結果が漏れてしまった。そう」






「聖女は二人、いました。ロゼットとルビア。あなたたちです」





(ふた、り?)


 ロゼットはルビアを見た。ルビアは、ロゼットを見ていた。


「あの日選定を行ったのは、ルドベック家のお前たちだけ……ゆえに狙われた」

「スティーブは、ルビアにこそ特別な癒しの力があると睨んだようです。襲撃後のロゼットに、怪我がありませんでしたから」

(そういうこと。聖女がうちから出たことは漏れたけど、〝二人〟ってことは知られてなくて)


 ひどい内幕を聞いて、ロゼットはげんなりとした。


(それでルビアだけが狙われていたのね。アンディはたぶん、体よくスティーブに使われたんだわ)


 ぼんやりと隣を見れば、ルビアがどこか、罰の悪そうな顔をしている。彼女は痛む脚をおして、スティーブを調べていたのだと……ロゼットはそう察した。


「何もかもこちらの、不手際だ。本当なら詫びになんでも叶えてやりたいが、できないことがある。わかるか?」


 国王に尋ねられ、ロゼットは暗澹とした気持ちになった。


「……私たちを家に帰すこと、ですか? 聖女なら、王家に留め置きたい」

「そうなる。申し訳ない。恥を重ねるようで、すまないが」


 国王はどこか沈痛な、しかしはっきりと強く意思を込めた目で二人を見て。


「どうか正しい王を、選んでほしい。この私の血筋では、もう駄目だという神の思し召しなのだろう」


 そう、言い切った。


「王を選べと」「言われても」


 ロゼットは投げやりだった。家に帰れないどころか、王城軟禁はどうも決定事項のようである。ルビアも同じ気持ちなのか、肩を竦めている。


「迷うことはありません。その特別な力を、誰のために使いたいか。そのたった一人が、あなたたちにとっての王なのです」

(そんなこと、言われても。そもそも私の力は、なんか変なので癒しじゃないし)


 王妃に言われ、ロゼットは考える。


(というかそれぞれ選んだら、二人になっちゃうし。誰のためにって言えば――)


 国の力をもって拘束されるとあれば、いっそ良い王を選んで、その庇護を受けるしかないだろう。しかし、ロゼットが自分の力を使いたい相手など。

 一人しか、いなかった。


 ――でも、そうしたら……選んでしまったら、どうなる?

 楽しかった、家族での日々。そこには婚約者の姿もあって。


(この子は、平穏に戻れなくなる。あの伯爵領の屋敷には、もう)


 けれど。

 父と母はもういない。

 婚約者には、裏切られた。


(戻れないのなんて、今更だった。もう進むしかないのよ。後悔しないように……ルビアと、二人で)


 ほんの一瞬の油断で両親は亡くなり、ロゼットの選択によってアンディは破滅した。普通の暮らしなど、もうどこにもない。それでもロゼットは奥歯を噛みしめて、恐る恐る顔を上げた。


 隣のルビアを、じっと見る。

 絶対に失いたくない、最後に残された希望を。


 彼女もまたゆっくりと……躊躇いながら振り向いた。

 迷い、それでも自分を見つめる彼女が。

 同じ思いだと、信じて。


「癒したい」


 ルビアの左目が視界に入り、自然に想いが溢れた。

 馬車が転落したとき、彼女が自分を庇って、ついてしまった傷。

 このままでは、あまりにも不憫で。


 その目元を、ロゼットはほのかに輝く右手で、優しく撫でた。ルビアもまた、見えないはずの左目で……ロゼットのことを、見ている。


(自分は癒せない、あのゲームの聖女ルビア。彼女を治してあげられたら、どんなにいいだろうって、私)


 そっと目を覆う布をとると、その下からは。

 潤いと輝きを取り戻した、瞳が現れた。


(私はルビアのために、この世界にやって来たのよ――!)


 ――答えなど、最初から決まっていた。

 






「王はルビアよ」「王はロゼットおねえさまです」







聖女の力とは、命の力。癒しではなく、命を吹き込む力。

動物に、植物に、ものに、あるいは――――人に。


二人の女王太子はやがて女王となり、手を取り合って遷都した。

ルドベック伯爵領は、王都になった。


二人の試練は、それまで続いた。

家族四人、一緒に家に帰る……その日まで。

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4人で帰るって見て子供出来たのかあってなったけど冷静に考えたら両親のことだよなあ
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