第2話
「ありがとう、と言うべきなんだろうが……」
部屋に入るなり、ジャンは分かりやすく大きなため息をつく。それもそうだろう、散らかっていた服や資料はすっきりと片付いているし、テーブルにはちいさな花も飾ってある。当然、先んじてこの部屋を訪れていたフェルが清掃したことを理解できないほど、ジャンは鈍くなかった。
「勝手に片付けたことは謝るよ、ごめんなさい。君の不在に、君の物を勝手に触ってはいけなかった」
「本心からの言葉だとはどうにも思えないが……まあ、怒ってないさ。ありがたいと思ってるよ、おれは苦手だから」
こういうの、と白と紫の混じった薄い花びらに指先で触れるジャンの横顔はやさしかった。
ジャンの研究室は国境沿いにあるが、彼の住処はそこから歩いて五十分ほどの小さな町の一角にある。古い木造の家がひしめき合う一帯で、くすんだ緑色の玄関扉が目印だ。タルカを町はずれの厩舎に預け、フェルは一度この部屋へ入った。明かりがついていない、というだけでは、彼がいない証拠にはならない。倒れているかもしれないし、寝ているかもしれない。ジャンを失うのではないか、という不安は常にフェルに付き纏う。
「さあジャン、君はまず湯を浴びてくるといい。蒸気は注文しておいたからすぐに湯が使えるはず」
「フェル……」
「僕は食事の準備をするから、溺れない程度にごゆっくり」
さあ行った行ったとジャンの背を浴室へと押しやる。無精な性格ゆえに、蒸気の注文を怠って、湯が使えなくなることがあるらしいことを知ったのはいつだったか。フェルがこうして時折家を訪ねるのは、生活の基礎を守るためでもあるが――。
好きなもの以外に頓着しない彼を、しょうもない駄目な人間だと彼の生家の人間は口汚く言った。誰も彼のやさしさを知らないくせに、勝手なことを言う。ただ騎士を多く輩出している家柄であること、幼少期から恵まれた体格と剣術や馬術の才能があったこと、冷静で思慮深い性格であること――それはジャンが望んで手に入れたものとは違う。彼には彼の、人生があるのに。
息子は死んだと吹聴するジャンの父親の醜悪さと、取り巻き連中のいい加減な憶測に勝手に腹を立ててしまう己の未熟さ。フェルは台所へ向かう途中、立ち止まって息を止める。そうでもしなければ悔しさで、涙が出そうだから。ほんの少しの嗚咽を、あのやさしい男は聞き漏らさないから。
(……よし、料理料理)
台所の壁に掛けている調理器具は、フェルが選んで購入したものだった。ジャンは料理の類には縁遠く、主に使うのはフェルだ。引き戸の中から大きな銅鍋を引っ張り出して、炉台の上にドンと置く。
食をおろそかにしがちなジャンだが、食べることが嫌いなわけでもないらしい。熊のように大きな身体を維持していくには、今の食生活は決していいとは言えない。だからこそ、たまの休みにはこうして一緒に料理を楽しむという建前でジャンに山ほど食べさせるのだ。
フェルが料理を始めたのも、寝食を忘れて研究に没頭してしまうジャンを餓死させないため――とは名ばかりの理由で、彼を甘やかす特権がいつでも自分にあることを確認するためでもあった。
(スープと…………メインは肉で、あとは)
根菜は毛の長いブラシを使って泥汚れを洗い流し、皮を剥いてすべて角切りにする。葉物は根の部分を切り落とした後、もう一度水で洗い流して一口大に刻む。熱した銅鍋に油を回して、火の通りの遅いものから順に炒める。かさの減った頃を見計らって水を注ぎ、塩と粉末の出汁を一つかみ放り込む。最近市場で見かけた粉末状の出汁は、わざわざ骨から煮ずとも味が決まるので便利だ。
(年が明けたら、)
肉の筋を取り除き、塩と香辛料で下味をつけながら、フェルは年明けの儀式のことに思いを巡らせた。現王の一人娘、メイリア。王家の結婚は代々、神より授かりし託宣によって決まるとされている。その前段階において、国中の二十歳に到達する男子には召集を告げる手紙が届く。そこからさらに候補は絞られていき、最終的には『神託』という形で選ばれたものが姫の夫になるのだ。
(やらせもいいところだと僕は思っているけれど夢が、本当なら、僕もジャンも無事ではいられない)
ジャンの手のひらよりもずっと大きな肉を、強火で焼く。じゅうじゅうと立ち込める香ばしい匂い、隣の炉台から上がる野菜のあまい香り。火の音に混じって聞こえる、水の音、隣家の痴話げんかの声。何の変哲もない、ふつうの毎日を、ただ彼と過ごしたいだけなのに。水場についている丸くて小さな窓から覗く外はすっかり朝の賑わいで、今のフェルはこの街で恋人と暮らすただの男なのに。しばらくすればフェルは王都へ、ジャンは森へと研究に戻る。
いっそのこと彼の手を引いて、国の外へ逃げ出してもいいなと荒唐無稽なことも考える。
フェルティフィーという名前を授かって生まれ落ち、おそらく十年ほど経った頃だろうか。十人に聞いて十人が美人だと答える美貌であることを、自覚していた。嫌な性格の子供だった。美しいと称賛されることが当たり前で、他者の声は聞こえないふりをした。そのほうが面倒ごとを避けられて、物わかりのいい人形のように振舞えたから。
本当のフェルは野を駆けてウサギや鳥を追い、時には川で魚を釣り、木立の中を走り続けたかった。きれいに着飾って、黙って、笑っていればいいと言われるのが何よりも嫌いだった。それは今も同じ。
じっとなどしていられない性分の――フェルの両足はいつでも衝動に満ちていた。そんなフェルの前に、ジャンが現れた。
『同じ年の頃だ、仲良くしなさい』
フェルの父とジャンの父は、名門貴族同士で同じ師から学びを得たという。決して友人、とは言わなかったけれど、普段は厳しい父の目元はわずかに緩んでいるように見えた。
目の前の男は、同じ年の頃とは思えぬほど背が高かった。豊かな黒髪はゆるく波打って、薄い紫色の瞳を隠すほど前髪が長かった。フェルが憧れていた騎士の家に生まれた、ジャンと呼ばれた少年はうつむいていた。彼の父が促すように背をとんとん、と叩いても一言も言葉を発しようとしない。
『ぼくはフェルティフィー、フェルって呼んで』
『……ジャンだ』
無視されることも想定して差し出した手は、空振りすることなく大きな手のひらに包み込まれた。かわいた、あたたかい手のひらだった。こんな風に、誰かと触れ合うのは久しぶりで、嬉しくて、初めての気持ちに身体は言うことを聞かなくなった。
ジャンの手をぎゅっと握り、フェルは父の静止も聞かずに中庭へ走り出した。転びそうになったジャンは、けれどもフェルの手を決して離さなかった。もつれる足に戸惑うジャンは、それでも必死にフェルを追いかけてくれた。ますます嬉しくなって走るスピードを上げて、結局は生垣に突っ込んで痛い目を見たけれど。フェルの中の思い出、と呼べるものはあの日を境に始まっている。
もうずっと、見ている夢がある。『選定の儀』によってフェルとジャン、それからもう二人選ばれた男たちが姫に謁見するシーン。神官より姫に手渡された小さな指輪――細く白い姫の指に、不思議な色を湛えた輝く石。天に翳すように持ち上げると、指輪の石から一筋の光が現れてフェルの心臓を指し示す。
『冗談じゃない! 僕は、姫のもとへは行かない!』
振り返って、ジャンの手を取る。あの時のように、二人で逃げようともがくのに。やがて一筋の光は矢となってフェルの心臓を射抜く。息ができなくなって倒れ込むしかないフェルの身体を抱きしめて、大声で呼びかけるジャンの泣き顔だけがはっきりとしている、夢だ。
(絶対に二人で逃げ切る。僕は諦めない)
――ジャンが湯あみを終えて出てくる気配がする。思考を切り替えて、食事の仕上げにかかる。肉を皿へ盛り付けて、パンを切って籠へ。オーブンで焼いていた魚と、木の実はこんがりとした焼き目がついて食欲をそそる。スープは鍋ごとテーブルに出して、好きなだけ。それから――両の頬を叩いて、暗い顔を消し去ったら、いつもの調子でジャンに声をかける。
「はやく食べよう、ジャン」
「うん、……フェル、ありがとう」
「どういたしまして。君のおかげで僕は宮廷料理人にも勝るとも劣らない技量を身につけられたからね、感謝してるよ」
「なんだ、それ」
「騎士の職にあぶれても生きていけるって意味だよ」
「お前にそんな未来があるとは思えないが……まあ、料理の腕は確かだ」
「でしょ?」
こんなくだらないやり取りが、どうかこの先もずっと続きますように――お互いに向かい合って席につき、建国の神へ祈りを捧げる。短い沈黙ののち、真っ先に肉へかぶりつくジャンの顔を眺めて、フェルはどうしようもない願いを、もう何度目かわからない願いを胸の中で反芻した。
神よ、僕たちを選ばないでください、と――