第1話
がたん、と腕が落ちた衝撃で意識が急浮上し、ジャンは息を吐いた。
仮眠用ベッドは大柄なジャンの身体を納めるには窮屈で、僅かに身じろいだだけで腕や足、最悪は身体ごと落ちてしまう。今に始まったことではないけれど、いつまでも改善できないのは、単に興味がないからでもあった。
背骨が軋むように痛い、それから腰も痛む。もう少し眠っていたいという身体からの訴えを受け入れ、ジャンはずり落ちた腕を引き上げて瞼を開くことを拒んだ。
国境近くの廃村の一角を拝借し、【研究室】と称して建て替えた小屋は、ジャンにとって一年の大半を過ごす場所だった。状態は悪く、その代わり誰の手も加わっていないところが気に入ったことを覚えている。
朽ちた壁を丁寧に取り除き、新しい板を取り付ける。腐った床板もすべて取り替え、雨漏りする屋根を補修し、枯れていた井戸に水を呼び戻した。家具や資料の類を少しずつ運び入れ、そうやって手入れを繰り返し、ようやく人が住めるようになったのは、勘当されたあの日から数えて一年後の秋だった。
脈々と続く騎士の家系に長子として誕生したのが運の尽き。体格にも家柄にも恵まれたはずの人生は、ジャンにとって幸運とは呼べなかった。馬に乗ることも、剣を振るうことも、縦の関係に厳しい環境にも、そのすべてに馴染めなかった。ジャンはただ自然を愛し、植物を愛し、その終生について研究することを人生の中心に据えたいのだと父に懇願した。
願いはいつも父の前では白んで、ついには顔を合わせることすらできなくなっていった。ならば、と騎士としての道に背を向けたジャンは、十五の成人の祝いに勘当された。
あのときの父の顔を、ジャンはよく覚えていない。ただ、自分と同じ薄紫色の瞳は、もう二度とこちらを見ないことだけは分かって、それだけで十分だった。
(……何時だ)
昔のことを思い出すのは、あまり好きではない。このまま目を閉じていると、あの時のように自分から遠ざかっていく父の視線が胸を刺すようで嫌だった。もう一度夢の中へ向かうのは諦めて、ジャンは薄っすらと瞼を押し上げた。確か――集中力の限界を迎えたのは真夜中過ぎで、キリのいいところまで調査結果をまとめたところで横になったはず。
霞んだ視界で、壁にかけられた時計に視線をやる。すでに世界は夜明けを告げており、ジャンはゆっくりと身体を起こした。
「またこんなとこで夜を明かしたの?」
「……帰っていたのか、フェル」
殺風景な部屋に似合わぬ、やわらかなクッションのついた椅子に腰かけている男は家同士のつながりで知り合った幼馴染だ。何の気配もさせずにいることは、フェルの特技の一つであったし、何度もこんな朝を迎えているジャンは、今さら驚くこともしなかった。
時折訪ねてくるフェルは、最初にこの場所を訪れた時に、もっとまともな椅子はないの? とジャンに問うて、研究室に置かれたすべてのものに一言ずつ難癖をつけた後、自らあの椅子を持ち込んだ。
姿勢よく腰かけ、足を組む姿はさびれた室内でも絵になった。フェルはひいき目で見ても、美しい男だ。
軋む背を伸ばしながら、ジャンは大きなあくびをひとつする。見知った幼馴染の呆れた顔は、ひと月前に見た時と何ら変わりはない。
窓に分厚い布を引き、オレンジ色の電球が一つぶら下がっているだけの薄暗い研究室内に、もう一つ明かりでもついているかのように感じる。ジャンにとってのフェルはいつだって光だった。
「体力余ってたし夜通し走ったら割とはやく着いたんだけど……君の家、明かりついてなかったからここかな、って」
「タルカが可哀そうだろう」
「今回の遠征はただの護衛だし……何も疲れるようなことはしてないから、タルカだってちょうどいい運動になったよ」
「……相変わらず勝手な主人だな」
タルカはフェル――フェルティフィーの愛馬である。十五の成人の祝いにフェルの父が彼に贈ったものだ。騎士団に所属するフェルと、相棒のタルカはともに美麗な面立ちであるのに、それに似合わぬ血気盛んな性格だ。戦場ではいの一番に先陣を切って、鍛えた剣先を振るう。十九という若さに似合わぬ武勲をいくつも立てて、いずれは王直轄の騎士団へ入るだろうという噂が郊外に暮らすジャンの元へ届くほどだった。
長い衣の裾をさばきながら立ち上がり、ゆっくりとジャンの傍らへと腰を下ろすフェルの横顔は、神の末裔だと言われれば信じてしまうほど美しい。いくら陽に当たろうとも焼けぬ肌は生まれたてのように柔く、その頬へ触れたいと願う者も多いと聞く。けれども今は、潤んだ翡翠の瞳はジャンを見つめていた。
「タルカは気が乗らなければ僕の言うことなんて聞かないよ?」
「似た者同士で結構なことだ」
「……ねぇ、ジャン」
あちこちに節のある長い指が、乱雑に切りそろえているだけのジャンの前髪に触れる。フェルを形作るすべては、神が直接創造したものだと実しやかに信じられている。ジャンも概ね同意できる。けれど額に触れる、闘う者の皮膚のかたさは、フェルのたゆまぬ努力の証。見目の良さだけでトップであり続けることはできない世界だ。泥臭く鍛錬し、座学を学び、己を向上させ続ける者だけが騎士の世界の上層にいられるのだ。
間近でそれを見てきたジャンは、彼の血のにじむような努力を知っている。だからこそ彼の美しさには嘘がなく、誰もが目も心も奪われてしまう。
「ただいまのキスをしてもいい?」
返事をする前に――露にされた額に、唇がゆっくりと押し当てられる。湿度を持った熱は、ジャンの身体全体へと広がっていく。離れていくフェルの顔からは、騎士としての昂ぶりも、貴族としての建前をわきまえた笑顔もない。ただの幼馴染で、ただの恋人で、朝もやのなかを抜けていく風のように身軽な笑顔があった。
「なら……おかえりのキスはここか?」
あご先を乱暴に捕まえて、え、とわずかに開いた唇にかさついた己の唇を押し当てる。逢瀬を待ち望んでいたのはフェルだけではないことを、知っているだろうけれど、思い知らせてやりたかった。
舌を押し込んで、驚いて引っ込んでいるフェルのやわい舌に触れる。
「ん……、」
「おかえり、フェル。無事でなにより」
「そっちこそ……餓死してなくて安心したよ」
フェルの首に腕を回して、馬鹿なことを言うな、と笑って見せる。
実際のところ一日か、または二日程度ならば食事を忘れたところで身体は動く。過去に四日か五日、まともに食事をせずに倒れたところを発見された身としては何の説得力もないのだけれど。
「しばらくは街にいられるのか?」
「今回の遠征は長かったからね……一週間くらいは休暇がもらえたよ」
「そうか……なら、このあと、……うちにくるか? 体力が余っているようだし」
形の良い唇がきれいな三日月のかたちに変わる。
徹夜明けの短い睡眠だけでは、到底まともな思考ができるはずもない。常のジャンならば言うこともないだろう誘い文句は、けれどフェルの中へまっすぐ届いたようだ。
「もちろん。まずは君にまともな食事と入浴と睡眠をとらせないことには、恋人の時間も満足には過ごせなさそうだからね」
「……やさしい恋人を持てて、俺はしあわせだよ」
「どうしちゃったの、ジャン。具合でも悪いの?」
「……うるさい」
不安げに覗き込んでくる端正な顔を、ジャンは直視することができずに彼の首筋に顔を埋める。慣れ親しんだ花のような香りに、ようやく恋人が帰ってきた確信を得る。それから――同時にせり上がってくる、形のない不安を振り払うように、細身だが実践で鍛えぬいた身体へ己の身を預けてジャンは暫し目を閉じた。