望まない役割 ②
式部は常磐を起こすまいと思うのか、声をひそめて話している。
「今は常磐様が主です。どのように言われようとも、ここはお通しできません。私は常磐様に安心してお休みいただくようにとお約束したのです。あなた様を通しては姫様に顔向けできません」
胸が熱くなった。
式部は本当に常磐を主と思い、国の王である高延をはねつけようとしている。本気で常磐に忠義を尽くそうとしているのだ。
だけど安堵はできない。
高延がなにか言っている。穏やかな声の調子で言葉までは聞き取れないが、引き下がる様子はない。
逆に式部の声が少しずつ高くなってくる。
王である高延に否を言い続けるのは、侍女である式部にとって辛いことだろう。
できることならこのままやり過ごしたい。
でももう、腹をくくらなければならないようだ。
忠義を尽くしてくれる式部を矢面に立たせ、知らん顔をすることは、常磐にはできなかった。
常磐は目を閉じて、ゆっくりと一呼吸してから戸を開ける。
表の間と廊下の出入り口のところに、明かりを持って立つ高延と式部が見えた。
「式部。いいです。高延王をお通ししてください」
常磐は二人のそばまで歩いていった。
「でも常磐様」
「もういいですから。下がってください」
高延は式部の脇を抜け部屋へと入ってきた。かわりに常磐が式部のそばに行く。
いくら常磐に忠義を誓ってくれても、やはり式部は高延に仕える侍女だ。これ以上、本来の主と対立させるわけにはいかないと思った。
「あなたの忠義はよくわかりました、ありがとう。どうか下がってください。また明日も私の世話をお願いします」
式部は心配そうな顔のままだが、常磐の意を汲んだようだ。小さくうなずく。
「式部、人払いをしてくれ。ここに誰も近づけるな」
高延の言葉に黙礼をして、式部は部屋を下がっていく。十分に気配が遠ざかるまで常磐はそこに立っていた。
部屋に高延と二人だけ。
恐れとも失望ともつかない感情が胸を満たしている。
「それで、高延様。こんな夜にどのようなご用でしょうか。まさかもう父からの返事がきたのですか」
もちろん嫌みのつもりだ。そんなにすぐ返事が来るわけはない。ここから暁津島の王都へ行って戻るまで、三日はかかる。
「男が女の部屋に忍んでくる理由は一つしかない」
ぬけぬけと言うので怒りが込み上げてきた。
「あなたは!」
感情的になってはいけないと思うのに、思わず大きな声が出てしまう。
「あなたは父からの返事を待つと言ったではないですか。王たる者がこうも簡単に約束を破るのですか?」
「いや、お願いにきた」
高延は常磐のもとに跪いてきた。てっきり昼間のように高圧的にくるとばかり思ったので、常磐は勢いを削がれた。
「常磐姫、私と結婚してほしい。私はあなたを妻にほしいのです」
誠実な声の響きで、常磐は一瞬言葉につまる。こんななふうに誰かに乞われることは初めてで、動揺してしまう。
でも答えは考えるまでもない。常磐は高延の求めに応じられない。
「ならば父の返事を待ってください。あなたが言ったとおり、王の娘は私と妹、二人しかいません。父があなたを伴侶にせよと言うのなら、その時は喜んで妻になります」
しかし高延は苦い笑みを浮かべる。
「父君はあなたと私の婚姻を許さないでしょう」
確信ありげに言うので不思議に思う。
「なぜですか?」
「私は最初からあなたを妻にと申し入れている。あなたが妻なら正妃の座を約束する、第二妃も持たないとまで伝えた。しかし父君は頑なにあなたを妻に出すことは承知してくれませんでした。妹姫が相手ならば扱いの格を下げると言っても、それでもいいと」
高延の話は本当だろうか?
八雲は咲耶に正妃の座を約束せず、輿入れに際して親族、家臣の同行を許さなかった。そのせいで咲耶は人質同然の結婚だといやがっていたのに、その裏には父王と高延のやりとりがあったとは。
跪いていた高延が立ち上がる。
「あなたは今回の停戦と和平について、どう考えていますか?」
「それは、ありがたい申し出だと思います。長引く争いは国や民を疲弊させるだけです。私は早く和平が成ることを望んでいます」
「ならやはり、あなたが私と結婚をしてください」
我が意を得たという様子で、高延は熱を込めて常磐を口説く。
「私達の和平の意志を国中に伝えるために、この婚姻は欠かせないものです。正直、妹姫では力不足だ」
「ですから、父の返事をお待ちくださいと申し上げています」
常磐は重ねて言った。どう口説かれても、勝手には高延を夫にすると決められない。
「いえ、父君はあなたにあとを託すつもりだ。だからあなたを私の妻に出すことはない。私の望む答えはこない。私が大人しくあなたを帰せば、また妹姫を出してきて交渉するのでしょう。妹姫はこちらももうお断りだ。その交渉に乗る気はない」
「待ってください。父のあとを継ぐのは弟です」
思いがけないことを言われて常磐は困惑した。
「まだ八つの弟君ですか? いくらなんでも早すぎる。最低限、王としての分別がつくまでにあと十年はほしい。しかし残念ながら父君は保たないでしょう。父君はあなたを後継にと考えていると思いますよ」
確かに父の健康は思わしくなく、いつなにが起こるかわからない。
弟は幼く、王になるには早すぎる。かといって父から常磐の将来について、なにか指示されたことはない。
それに高延が考えるように、父が常磐にあとを託すつもりというのが本当なら、なおのこと今夜、高延の妻になるわけにはいかないではないか。
「滅多なことを口にするのはやめてください。父は元気です」
そもそも父の健康不安を肯定するわけにもいかないのでそう言ってみたが、高延は暁津島の内情を知っているようだ。
「あなたが兵装までして父君の代わりに国境を回っているのに? 父君を支えようと必死ですね。健気なことだ。あなたが鼓舞するので、兵士達の士気は一向に落ちませんでしたね」
常磐が父を支えたいと思っていることも、的確に見抜いている。
「つまりあなたは、その私を妻にして、翼をもごうというわけですか?」
「まさか。逆ですよ」
高延は心外だとばかりに語気を強めた。
「私の妻になることであなたはさらに高く飛べる。私達のもとで両国の関係は深まり、強固なものになるでしょう。妹姫の代わりの花嫁に言っているのではありませんよ。私はあなたに言っている」
高延に見つめられて、常磐は気持ちが揺れる。熱のこもった高延の目に引き込まれそう。でも勝手に返事はできない。
「私の一存では決められません」
常磐はそう言うしかなかった。
「いいえ、決められますよ。あなたがその気になればいいだけだ」
手をとられた。力が込められる。
「和平を成したいというのは嘘ですか?」
嘘ではない。
国境の防衛線をいくつもまわり、兵役にかり出された領民達の疲弊を見るにつけ、こんな争いは早く終わらせたいと思った。
でも常磐の独断で高延の手をとることはできない。
「和平を成したいのは私も同じです。ですが、あなたを夫にすると勝手には決められません」
なるべく高延を刺激しないようにと、そっと手を外す。高延の顔にかすかな落胆が浮かんで、常磐は心がざわつく。
少しの間、沈黙が流れた。
「あの」
高延の妻になるのがいやなわけではない。それが常磐に振られた役割であるなら受ける。それだけのことだ。
なにか前向きな言葉を探そうと、口を開きかけた時だった。
高延がうつむいて大きく一息ついた。
「仕方ない」
顔を上げた高延は険しい顔だ。
次の瞬間、常磐の体は抱え上げられていた。