王の思惑 ①
侍女の後ろについて長い廊下を歩いていきながら、段々と常磐は落ち着いてきた。
もう自分が咲耶と清井に嵌められたのだというのはわかった。恐らく王妃もぐるなのだろう。
一体どういうつもりなのかと問いつめたいが、今はそんなことを考える時ではない。とにかくここを切り抜けなければ。
でもこの事態はどうにも取り繕いようがない。どうすればいいのか、常磐は途方に暮れる。
最悪なことはなにかと考えてみる。
一番あってはならないことは停戦と和平が反故にされることだ。それだけはなんとしてでも避けなければいけない。
だから花嫁が逃げたとありのまま話すわけにはいかない。
連れていかれたのは建物奥の広間だった。侍女は部屋に入らず、「お連れしました」と廊下から声をかける。
奥から「どうぞ」と声がして、侍女が促すので常磐は一人でなかへ入る。
軍議など行う部屋だろうか。ずいぶんと広い。
一番奥に高延王と思われる礼装の若い男が座っている。両側には数人の、これまた礼装の男達。
常磐が入っていくと手前の数人はぎょっとした顔をした。それもそうだろう。礼装の男達が揃うなか、雑兵姿の常磐はあまりにも浮いている。
しかし奥の男を見ると驚いた様子もなく平然とした顔だ。
常磐は先に話し始めた。
「大変申し上げにくいのですが、花嫁は戻りました。今しばらく、お時間をいただけますか」
手前の数人からどよめきが漏れる。
「先ほど花嫁は確かにこちらに入ったはず。逃げた、ということですか?」
高延らしき男が口を開いた。
「いえ、やはり体調が思わしくなく戻りました」
花嫁が逃げた、となれば和平どころか停戦も崩れかねない。ここは意地でも逃げたのではないと言い張るしかない。
居並ぶ男達から「馬鹿な」とか「一体何日持たせるつもりだ」などと聞こえてくる。
常磐にとってもまったくの同感で、逆に、なぜ逃げ出した咲耶を捕まえてくれなかったのかと、ここの警備態勢を責めたいくらいだ。
だがそんなことを口に出せるはずもない。
中央の男がおもむろに立ち上がり、こちらへやってきた。着ている衣には八雲の王の紋がある。
この男が高延王なのか、と思う間もなく、腕をとられた。
「細い腕ですね」
男は常磐を自分のほうに引き寄せながら言った。
「それに、一兵卒にしては日に焼けていない、綺麗な肌だ」
常磐を覗き込んでくる目には笑いがにじんでいる。男は家臣達を振り返る。
「妹姫を待つ必要はない。花嫁ならここにいる」
それからもう一度常磐を引き寄せる。
「あなたが兵装の姫君と名高い、暁津島の第一王女、常磐姫ですね」
常磐は血の気が引く。正体を知られている。
それに「兵装の姫君と名高い」と言われたことにも驚いていた。まさか自分のことが八雲に知られているとは、思いもしなかった。
「妹姫を連れ戻す必要はありませんよ。あなたが私の妻になってくれればよいことだ」
やはりこの男が高延王なのだ。これは常磐にとって、最悪といっていい事態だ。
怯みそうになる心を励ましてなんとか反論する。
「いけません。妹のたび重なる無礼はお詫びいたします。しかし父王の許可なくあなたを夫にはできません。我が国と和平を結びたいとお望みなら、このまま私を帰してください」
高延はその顔にはっきりと笑みを浮かべる。
「さすがは兵装までして戦地に赴く勇ましい姫君だ。この状況で私に物申せるとは驚いた。しかしここはあなたの国ではない。ここではすべての決定を私が下す」
腕をつかんでくる手に力がこもった。
「あなたを帰すまでもない。王の娘はあなたと妹姫だけ。妹姫はこちらももう願い下げだ。なら、選択肢はあなたしかない」
腕に伝わってくる力から、高延の強い意志を感じる。高延には常磐を手放す気はない。
目の前が暗くなってくる。
高延が常磐の話を聞き入れ、咲耶を連れ戻す猶予をくれるかもしれない、という甘い期待は見事に砕けた。
しかも常磐に咲耶の代わりになれという。これは常磐にとって最悪だ。
さっきまで残っていた微かな希望が消えていく。
暁津島では父王が弱っているのをいいことに、王妃の一族である芳原と、それに同調する者達が好き放題にやり始めている。
有能で国のためを思ってくれるならば誰が政を担おうと構わないが、彼らは私利私欲が強い。
常磐が兵装してまで国境をまわり、民からの支持を保とうとしているのは芳原達を抑え、父を支えるためだ。私が父から離れてはならない、と常磐は思う。
それなのにまんまと咲耶と王妃に嵌められて、八雲の山城の真っただ中に取り残されてしまった。
高延はなおも言った。
「あなたを帰すことはできない。暁津島王の意向を尋ねるのならば、書面で十分だ。返事が来るまではこの城でお待ちいただこう。丁重におもてなししますよ」
後悔がひたひたと常磐を浸してくる。
まだ停戦と和平が白紙に戻る最悪の事態には至っていないが、これでは人質ではないか。
「父に書状を送るなら、私にも一筆書かせてください」
そう言ってみる。
どうすればいいのか、すぐにはなにも思い浮かばない。落ち着いて考える時間がほしかった。
自分から人質気分になってはだめだ、自分にできることを考えなければ。
なんとか気持ちを奮い立たせる。
常磐は暁津島の第一王女で、たとえこの城のなかで頼れる人が誰もいなくても、諾々と高延に従うわけにはいかないのだ。
手を離した高延は、常磐を値踏みするようにゆっくり上から下まで眺めてくる。
猛禽類が獲物を狙う時のような目、いや、猫がすでに捕らえた獲物を見下ろす目だ。
「父君に書状ですか。ええ、いいですよ」
そして広間に集まった一同に、「今日はこれで解散だ」と告げた。