そびえたつ城 ②
国境となる川を渡り終えて、常磐を加えた花嫁の一行は八雲の領地へと入っていく。
しばらくは平坦な道だが、途中で山城に続く大手道に入った。
常磐は意外に思った。わざわざ花嫁を山城に呼ぶのか、と。
普通、山城の下には生活のための屋敷があるはずだ。そこに招かれるのだとばかり思っていた。
だが八雲のこの山城は戦のためだけでなく、平時を過ごす屋敷も構えている居城だと、門脇から聞いたことがある。
山城まで入るのならば、付き添いは川までと言えばよかったと、かすかな後悔がよぎる。山城のなかにまで入っていくのはさすがに怖かった。
大手道をのぼり始めてしばらく、輿に乗っているだけの咲耶はいいが、輿や長持を担ぐ小者達や女官達はしんどそうだ。
山城は周囲を監視するために木を切り倒し、視界を遮るもののない禿げ山にする。常磐達が歩くこの大手道も、木々は一本もない。
春の日差しとはいえ歩いていると暑く感じられる。
いくつかの門と郭を通り抜け、最後の門をくぐって主郭までたどり着いた時は、みんなうれしそうな顔をした。
逆に、常磐は緊張している。身分を偽ったまま八雲の山城の奥深くまで来てしまった。
案内されたのは建物の玄関を入ってすぐの部屋だった。
「こちらでしばらくお待ちください」
使者は奥へと消えていく。
控えの間は従者の詰所のような部屋だった。花嫁を最初に迎え入れる部屋にしては殺風景だが、山城のなかの屋敷ならそんなものなのだろうか。
二間あって、奥の部屋には縁側と少しばかりの植え込みがある。
輿を降りた咲耶が清井に手を引かれてやってくる。咲耶も緊張した顔つきだ。奥の部屋へと入れて座らせる。
「大丈夫? 咲耶」
「姉様。私、やっぱり怖くて」
咲耶は口元を覆った。青白い顔だ。
「ごめんなさい、少し一人でいてもいいかしら」
常磐はうなずいた。
高延王との顔合わせはもうすぐだ。一人で心を落ち着ける時間も必要だろう。
「咲耶、私はもう」
帰るわね、と言いかけたが遮られてしまった。
「お願い、姉様。まだ行かないで。ね?」
「…………」
本当は早くこの山城から出たかった。
しかし不安な様子の咲耶に常磐だけが暁津島へ帰ると言えば、さらに動揺させてしまいそうだ。一緒に帰ると言いだしかねなかった。
となりで清井も、まだ行かないで、と懇願する顔だ。これでは帰ると言えない。
「私は女官達とこっちの部屋にいるわね。一人で心を落ち着けるといいわ」
そう言って奥の部屋の戸を閉めてやる。
仕方がない。高延王との顔合わせに送り出したら戻ろう、あとほんの数分のことだ。
「暁津島に戻るのはもう少し待ってください」
常磐は玄関の外に控えていた小者達に声をかける。置いていかれてはたまらない。
それからまた控えの間に戻った。控えの間は女官達全員が入るには狭いようで、清井と年嵩の女官は廊下にいた。
「常磐様はなかへどうぞ」
清井がそうすすめてくれて、常磐は控えの間に入った。四人の女官が詰めあって座っている。みんなも緊張した面持ちだ。
「まさか山城に招かれるとは思わなかったわね。みんな、その衣装では坂道がきつかったでしょう」
常磐は明るい声を出した。
「常磐様はお疲れではないのですか?」
一番年若い女官が聞いてきた。
「私はほら、こんな格好だから。でもみんなの衣装は重たいでしょう」
防具をつけない最低限の兵装である常磐の服は軽い。
女官達も着飾っていて、花嫁の咲耶ほどではないにしても、衣装は重そうだ。
実のところ、常磐が腰に差している刀と小刀がそこそこの重量なのだが、その重さにはもう慣れた。
「最初は綺麗な衣装が着られてうれしかったのですけど」
年若い女官は物怖じせずに話し始める。
「綺麗な衣装がこんなに動きにくいとは知りませんでした」
身の上を聞いてみると近隣の農村出身だという。他の娘達も同じで、実家での暮らしは楽ではないようだ。
「この女官の募集はまとまった給金をくれたので」
その言葉に一同がうなずいた。みんな家のために応募したのだ。
「みんな、ありがとう」
申し訳なく思いつつ、常磐はお礼しか言えない。
それからしばらくは女官達それぞれの出身地の話などして過ごした。
八雲に来たばかりで感傷的になるのか、みんなの話は弾んだ。
「それにしても、ずいぶんと待たされるわね」
いくらか経ってから、常磐はいぶかしく思った。
咲耶が支度を始めた時に、これから花嫁が行くと連絡をしている。
支度と道行きでゆうに三時間は経っている。それだけ時間があれば、高延側の用意が整わないということもないだろうと思うのだが。
咲耶の様子を見てみようか、と思って戸越しに声をかけた。
しかし返事がない。
「咲耶? 入るわよ」
そっと戸を開けてみると、そこには誰もいなかった。
一瞬、思考が止まる。
それから、なぜ?と疑問が浮かぶ。
同時に、床に無造作に放り出された花嫁のための上衣が常磐の目に飛び込んできた。
はっとして廊下に出ると、清井の姿はなく年嵩の女官だけだ。
「清井はどこ?」
「清井様ですか? 先ほどどこかに行かれました。準備があるから、と」
「準備……」
ここは八雲の城なのに、暁津島方の女官である清井に一体どんな準備があるというのか。
心臓が早鐘を打って、いやな汗が浮いた。
咲耶が逃げた。和平を成すための花嫁が逃げたのだ。
襲ってくる衝撃を抑え込みながら、常磐は玄関へと出た。
この山城から咲耶と清井で逃げられるはずはない。今頃、兵士達に捕まっているはず。騒ぎになっているはずだ。いや、外にいる小者達が捕まえてくれているかも。
しかし玄関の外には待たせていたはずの小者達の姿もない。咲耶と清井の姿はないし、八雲の兵士達が騒いでいる様子もない。
小者達と一緒に、女官二人が帰るふうを装い出て行ったのだ。
咲耶はいつここを出たのだろうか、戸を閉めてからだいぶ時間が経った。
でも女の足だ、花嫁衣装を脱いだといっても女官の衣装も重い。大丈夫、まだ連れ戻せる。
そう思って、外へと行こうとした時だ。
「どちらに行かれるのですか?」
この城の侍女が呼び止めてきた。
「王の用意が整いました。どうぞ」
侍女の後ろで緊張した面持ちの女官達が見えた。
常磐は思わず目を閉じて、天を仰いだ。
もうこの事態を取り繕う暇はない。自分の足で咲耶を追うことはできない。
今すぐ山城のすべての門を閉じて咲耶を捕まえてほしかった。しかしそんなことは口に出せない。
花嫁が逃げたなどと言えば、円満な和平は結べない。それどころか、和平の意志なしとみなされかねない。
ああ!と常磐は叫びたい気分だ。
さっきまで咲耶のために高延王がいい人であるようにと祈っていた。今は自分のために高延王が寛大であるようにと祈らなければならない。
「どうされました?」
侍女がせっついてくる。常磐は冷静になろうと、大きく息をつく。
「どうぞ。案内してください」
「あの、花嫁様は?」
控えの間を覗き込んだ侍女も、花嫁の姿がないことに気づいたようだ。
「私を案内してください。高延王にお話があります」
怪訝そうな表情を浮かべた侍女だったが、常磐の迫力に押されたのか、「ではこちらへ」と歩き始める。
「みんな、大丈夫よ。心配いらないわ。ここにいて」
常磐は不安げな女官達に言い置くと、侍女のあとに続いた。