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絶望遊戯5章





 朝である。

ぼんやりと、昔を思い出していた。

たたみに寝そべりながら。

 そういえば、『これを拾った人は幸せになれる』という紙飛行機、あれはいったい誰が拾ったのだろうか。

 さてさて。

それでは宿題でも始めましょう。



 なぜだ。

なぜ今日は乗らない?

おかしい。昨日は乗っていたのに。

昨日今日で変わるものなのだろうか、気分というものは。

いや、もしかしたら一瞬で変わるものなのかもしれない。

とにかく全然宿題がはかどらない。

 途中、何度も楓のことを思い出した。

彼女がいないのに、彼女の髪の匂いがした。

きっと脳が覚えていて、何かの拍子にふらりと思い出させるのだ。

それに彼女の体の感触。やわらかい。すごくやわらかかった。本当に気持ちよかった。

思い出したら、また欲しくなった。

 まあ、いい。

とにかく昼だ。

ご飯も食べた。

 楓のところによって、散歩して、ついでに品森くんのところに行こう。

いや、ついでにってのはちょっと品森くんに失礼かもしれない。

 眼鏡は、なんだか仕舞うのがめんどうくさかったので、そのままにして外に出る。

暑いな。半そで半ズボンという今日の出で立ちにもかかわらず。

やっぱり夏の大気は暑いや。

おっと、忘れちゃいけねぇ。

麦藁帽子を取りにいく。紺のリボンが涼しげ……ではないな。暗い感じだ。

 ぽすっ、とかぶって、行ってきます、と言い、家を出た。

例によって例のごとく、人はあまりいない。

なんだか、今の僕には、この状況が素敵なように思えてきた。

今はあまりたくさんの人の中にいたくない気分だった。

白い日傘を指したおばあちゃんがてこてこと道を歩くのとすれちがったくらいだ。

あの人も若いときはきっとかわいかったんじゃないだろうか?

そんなことを思った。それは色々連想させて、ちょっと暗い気分になった。

どこかで車の動く音がする。音はするけれど姿は無い。

きっと、車道にはたくさんの車がうごめいていることだろう。

きっとちゃっちいおもちゃみたいな車がころころと走っていることだろう。

あんなおもちゃみたいなものがたくさんの人を運んでいるなんて信じられないな。

ほんとにちゃっちくて、ぶつかっただけで大破しそうなものなのに。

 そんなことをぶらぶら思っているうちに楓のところについた。

ベランダに洗濯物が干してあったりして、ああ、なんだか生活感があっていいなあ、と思ってしまった。

ちょっと暗い気持ちが軽くなった。

ああ、やっぱり気分なんてのは一瞬にして変わるものなのかもしれない。

 ぴんぽーん、とチャイムをならすと、はーい、という返事。

ん……この声は……?

「もしもし、相川です。相川貴理」

「え?貴理くん!?」

「あーっと、どっちかな?一葉?双葉?」

「えっと、双葉です」

「あ、どうも。貴理です」

「もう聞きましたよー」

「確かに」

 この会話に意味はないかもしれないが、楽しい会話だ。

ならば、楽しいってそれ自体が意味ですか?……って誰に聞いてるんだろうか。

「えっと、それで楓に会いに来たんですけど」

「あ、はーい。わかってますよぅ、貴理くんがくる理由なんてそれ以外ないじゃないですか。今開けますねぇ」

 それ以外ない、とはずいぶんな言われっぷりだな。まあ、確かに当たっているんだけど。

しばらくすると、がちゃ、とドアが開いた。

「久しぶりだね」

 にっこり笑って再開を味わう。

そうだ、彼女はこんな顔だった。

「久しぶりだね、貴理くん。一葉もいるよ。お姉ちゃんは……今、ちょっと昼寝中だけど………」

 そこで彼女はにやり、と笑った。

「寝顔、見ていきやすか?旦那?」

「越後屋、お主もわるよのぉ……」

 にやり、とこちらの顔も緩むのがわかる。

「おじゃましまーす」

 そう言って、そろそろと内部に侵入する。

アパートが違うとやはり微妙に内部の構造も違うものだ。

って当たり前か。

 しばらくいくと、一葉が出現した。

す、と右手を挙げて挨拶。

「久しぶりだね、お嬢さん」

「貴理くんか。なんですか、さっそく通い婚ですか」

「いや、まあ、そんなとこだよ」

 なんだいなんだい、どいつもこいつも僕の顔を見ると楓に会いに来たんだろう、って感じだな。

まあ、完全に正解なんだけど。

 それにしてもこの家、楓たちの両親はいつ来てもいないよな。

何やってるんだろう……?

「そういえば、いつ僕が来てもご両親いらっしゃらないよね。仕事?」

「うん。朝と夜以外はあんまりいないねぇ。二人とも忙しいから。たまに両親共に出張、なんてときも、ね」

 今の一葉の言葉からすると、色々と栗原家は忙しいみたいだ。

大変だなあ。ん……でも、あんまり、ってことは遭遇する可能性もあるわけか。

ちょっとドキドキだな。

「あ、貴理くん半ズボン」

 一葉が言った。

「なんですか、いきなり?」

「あ、いや、美脚をさらしてるなあ、と思って」

「僕の脚は美脚かい?」

「女として、ドキドキしますね」

 その台詞は男としてドキドキするね。

「襲ってもいいんだよ?」

「うわ、不倫推奨?最低ね、男として。お姉ちゃんに言いつけてやる」

 一葉、ひでぇ………。

「ま、冗談として……お姉ちゃん、今、寝てるよ。無様ぶざまな寝顔、見てやりなよ」

「一葉、そのことはもう言ったよ」

「っていうか一葉、なんか今日は言葉が攻撃的だね」

 無様な寝顔はないだろう。

さっきは僕を誘っておいて、跳ね返しやがって……いや、それはこっちが悪いか。

冗談だったけどさ、もちろん。でも、どうも最近、体が欲しいみたいだ。

「ちょっと興奮してるだけだよ」

 一葉が言った。ああ、僕と一緒だね。

「なんで」

「最近、この子情緒不安定なのよね。すぐに興奮しちゃうの」

 保護者みたいに双葉が言う。

「なに、人生が退屈なだけサ」

 人生を斜めに見ているような態度で一葉はつぶやいた。

「っていうかね、お姉ちゃん、自分の部屋の布団じゃなくて、居間で寝てるんだよ。

 そうだ、部屋って言えばさ、あたしと双葉、双子だからって同じ部屋なんだよ?ひどくない?」

「うむ、それはちょっと差別だね」

「まあ、お姉ちゃんが自室を持ったのは中1からだからね。去年から。あたしたちも来年は……いや、でも本当のこと言うとあたしはいらないな、自室は別に」

「へぇ、一葉もあたしと同意見か。別にいらないよね。事足りてるし」

 まったくですな、と、ははは、と笑う二人。

それに唐突に平和を感じた。

これは平和だ。間違いなく。

そう思えた。

 歩き出した二人に付いていく。

「はーい、ここがお姉ちゃんの寝ている居間であります!」

 そう言って扉の無い門に入る。

いや、門っていうか、ただ扉が無いだけなんだけど。

床とつながっているから敷居もない。

 ひっそりと中へと入る。

後ろを振り返ると、双子も付いてきていた。

「さあ、ご拝顔です!」

 双葉が言った。

「ごはいがーん、っと」

 僕も調子を合わせて言う。

 彼女がいた。

ああ、寝ている。大の字になって寝ちゃってるよ。

 すうすうと寝息をたてる彼女を見て、ふと、思う。

守らなきゃ、と。

寝ている。彼女は寝ている。無防備だ。弱い。やられてしまう。

だから、守らなきゃ、と思った。

でも、何を守るのだ?

弱いものは何かを持ってる。でも、何を?何を持っているんだ?

でも、とにかく守らなきゃ。

「あれ、貴理くん、全然にやけないね」

「まったくだね、っていうかむしろ真剣なんだけど」

 一葉と双葉の言葉で我に返る。

ああ、いけない。あらためて彼女の寝顔を見る。

 ………最高だ。

僕が好きな表情は、寝顔と笑顔だ。

生きている中で最も死に近い表情と、生きている中で最も生に近い表情。

いや―――ギリギリの停止と破裂しそうな生命力、か?

まあ、いい。とにかく僕は寝顔と笑顔が大好きだ。

 す、と彼女の髪をかきあげる。

顔を近づけてみる。ぴくりとも動かない。

ああ、きれいだ。たまに見るくらいだと、とても魅力的だ。

ゆっくりとした寝息と共に、彼女の体が上下する。

それは本当に無防備な光景で、何があっても僕はこの子を守らなきゃ、って思った。

でも、僕は一体、何から彼女を守ろうと思っているんだろう。

 そういえば、童話なんかじゃ、眠っているお姫様に王子様がキスをすることによって、お姫様が起きるっていうのがよくあったと思う。

ちょっとやってみたくなりましたよー、お嬢さん。

っていうか窒息とかしないだろうな?短くしておこう。

 かちゃ、と眼鏡を外し、おおいかぶさるように、かぷり、と唇を奪って、舌をちょっとだけ入れた。

「ん……」

 楓が少し声をあげた。

すぐに唇を離す。そしておでこにもキスを。

「うわ、なんか完全に完璧に、完膚かんぷなきまでにあたしたちの存在って消えてたりするの?双葉」

「明らかにそのような気がするわね、一葉。はっきり言って、あの人、ひとりだけの世界にいたわよ、さっき」

 ああ、すっかり忘れてた。

いけない、いけない。楓の寝顔にどきどきして、観客なんてどうでもよくなっていた。

「っていうか大胆よねぇ、貴理くん」

 双葉が言う。

「まったく。最近の若者には恥も外聞もあったもんじゃないわね。みんなの見ている前で堂々と接吻だなんて。インモラルよ」

 一葉が返す。

みんなの見ている前で、と言ってもたった二人なのだが。

やっぱりそれでも駄目ですか?

「しかし、どうするかな。寝ているのを起こすのもなんだしな」

 さていったいどうしよう?

とりあえず、楓のほっぺたをつっついてみる。

ぷにぷにだぜー。

髪も触ってみる。

すくいあげて、ざーっ………と。

うむ……?

「なあ、なんだか髪の流れが悪いんだが。ストレートにしてるのに」

「ストレートにしているからこそなんじゃないの?」

 一葉が言った。

「髪が痛んでいたりして」

 ううむ……それはよくない。

ちゅっ、と髪にキスをして、そのままひっぱったり、指に巻きつけたり、かき乱してみたり……。

なんだかそれがすごく気持ちいい。たまに触れる頭皮が素敵だ。

頭と、髪と。壊れそうなくらい、気持ちいい。

眼鏡を指で上げる。手を鼻に近づけたためだろう、彼女の匂いがした。

彼女の香りが僕の指についている。取れないでいいと思った。

「ねぇ、双葉。ちょっとあの人、しばらく見ない間に変質者になってない?」

「うん、変態さんだよね、誰がどう見ても」

 ………どうやら僕の行動はそれ相応のリスクを伴うらしい。

自分らしく生きるって大変だね。

「んあ……?貴……理………?」

 ああ、色々いじくっていたら起きてしまった。

ごめんよ、楓。寝てた方がよかったかな?でも、起きたときの声が、また甘い。

「ああ、お目覚めですか、姫君。もはや太陽は中天に昇っておりますぞ」

 誰だよ、僕。

「ん……ああ、ご飯食べたあと寝たから………太るね。っていうかなんでいるの?」

 だんだん言葉もはっきりしてきた。

「昨日、一緒に散歩しようと言ったから」

「ん……ああ、そうだった、そうだった」

 よっこらせ、と起き上がる楓。

「くあー、頭鈍い……」

 頭が鈍い。というのはようするに頭が回転していないと言いたいのだろうか。

確かに昼寝した後の頭というのは、血が回っていない、もしくはどろどろの血がゆったりとめぐっている感じがする。

「だー、ちょっと待って、今、顔洗って気を入れてから、支度する」

 そうして彼女はちょっと出て行った。

僕と双子は沈黙している。会話のない時間が流れる。

楓が戻ってきた。

「さ、行こうか、貴理」

「おう」

 僕は楓と一緒に外に出た。

いってらっしゃい、と双子が言って、僕らはそれに、いってきます、と答えた。



「ねぇ、貴理、どうでもいいことなんだけどさぁ……」

 夏の暑い日、誰もいない道をてこてこと散歩する。

楓が隣にいるだけで、よろこぶ僕がいる。

「美脚だね」

 貴女も足好きですか。

「ああ、ありがとう」

「ちょっと興奮するね」

「確か一葉も同じようなことを言ってたよ」

「うーん、あの子とはあまり男の趣味は合わなかったような気がするんだけど……まあ、いいや」

 すっ、としゃがんで、彼女は僕の足に抱きついた。

そのまま僕のふとももをゆっくりと撫でていく。興奮しそうだ。

僕は、彼女の頭の髪をなでつつ、視線を彼女に送る。

彼女は、僕の足にほおずりをしていた。

ひどく、そそられる眺めだった。

 「あ、そうだ、貴理」

 ふとももから手を離して、またもや楓がしゃべった。

「人と話して、ある程度の時間がたつと、頭があつくなってきて、体に疲労がたまってくる。思考能力と判断能力が低下する。顔に火照りを感じる。……っていうとき無い?」

「うん?」

 そんなこと、あったかな。

「よく覚えてないなあ。覚えてる限りじゃなさそうだよ」

「そう。あたし、よくあるよ。人と話しすぎると、そうなっちゃうんだよね」

「ははぁ」

 世の中には色々、まだ知らないことがあるみたいだ。

「そうだ、品森くんの家に行ってみようよ」

「品森?ああ、昨日、行っていた子か。初対面の子としゃべるの、今はちょっと苦手なんだけどね……」

 確か二年前はすごく普通にしゃべっていたよな。

物怖じしないっていうのか、人見知りしないっていうのか。

今はするんだろうか?それともそういう気分じゃないだけか。

 しばらくすると、彼の家に着いた。

その白い家はひっそりと静まり返った、熱と静寂の空気の中、たたずんでいた。

今日はピアノの音は聞こえない。

「いるかな?」

 ぴんぽーん、と呼び鈴を鳴らす。

しばらくの静寂の後、がちゃり、とドアが開いて、品森誠一が顔を出した。

「ん?君か」

 その後、視線を楓に移す。

「女性?」

 再び、視線を僕に戻す。

「状況説明を要求する」

「僕は僕の彼女と、いつでもやってきていいという君のところに来ました。なぜならば君と彼女は話が合いそうだったからです」

「了解。入りたまえ」

 そう言って先にすすっ、と進んでいく。

彼の部屋に入る。

「二人とも、水は嫌いかい?相川くんはこの前飲んだけどどうだった?口に合わなかったら口に合わないと言ってくれればいいよ」

「僕は、口にあったね」

「あたしも別に水は嫌いじゃない」

 待っててよ、と言いおきて彼は出て行った。すぐに戻ってきて、三人分のグラスをおぼんに乗せて持ってくる。

「相川くんにはこの前言ったけれど、このグラスは冷蔵庫で冷やしてるんだよ」

 とほほえみながら楓に言う品森くん。

そしてしばらく沈黙が落ちた。

「で―――?」

 品森くんが口を開いた。

「で?とは?」

 僕が返事をした。

「いや、君はさっき、わたしと彼女が話が合いそうだ、とか言ったけれど、どこらへんが合いそうだったのか、と思ってね」

「いや、僕にもよくわからないんだけどね」

 また、沈黙。

「えっと、とりあえず、わたしは、品森誠一。中学校二年生だ」

「ああ、あたしは栗原楓。中三。受験生」

 おや、先輩か。と、品森くんはつぶやいた。

「いや、別に敬語とか要らないよ。あたしはそういうの別にどうでもいいっていうか、とりあえずここでは対等の立場がいいな」

「了解。努力する」

 また、沈黙。

おいおい、なにか会話が進まないんですが。

ここは僕が進行役を務めなきゃいけないのかな?

「ところで栗原さん。世界は崩壊すると思いませんか?いや、崩壊すると思わないか?」

 と思っていたらいきなり来ましたよ。

「んー、そうだね。多分、崩壊するのはあたしたちなんじゃない?」

「まったく、同感だ」

 話が合うって思ったのは正しかったかな。

「でも、もしかしたら世界が崩壊する、なんてのは甘い見方なのかもしれない。本当は世界はもっともっとしぶといのかもしれない」

「そうだね。甘く見ないほうがいいよね」

 どうも僕にはついていけない次元の会話みたいだ。

楓と品森くんの世界。なんだか、嫉妬する。

彼女が、僕の入れない話題でほかの男の子としゃべっているのは、妬ける。

いや、別にそんなことは、表には出さないけれど。

 それで、所在なく僕は部屋をちろちろと盗み見た。

どっしりとしたピアノ。楽譜は無い。

書架しょかにはやっぱりたくさんの本。

ふとんは無く、机の上はやはり何ものっていない。

テレビもない。

やはりひどく殺風景だ。

白いカーテンがひらひら揺れて、なんだか夏を感じた。

「ねぇ、なんだか勉強するの、嫌じゃない?」

 あ。これは僕にも分かる次元の話かな?

「ひどく共感できるよ。うんざりだものね」

「勉強勉強、言う人たちとかもう本当にうんざり。

それ終わったら宿題しようね、とか、頭いいね、とか、えらいぞ、とか。成績成績成績……こんちくしょう、って気になるよ。

それにさ、家に帰ってきて、たまたま机に座って勉強していたわたしを見るとほめる、ってときがあるんだけど、それが気に食わない。

ほめられても、勉強する気が失せちゃうよ」

 うんうん、と品森くんはうなずいている。

「あーあ、勉強はしなくちゃいけないんだ、ってわりきれないのよね。がくー」

 がくー、と自分で効果音を発してがす、と壁に頭を当てた。

かわいい。

「まったくだね。でも、わりきれないのが人間ってものなのかも」

「うん、そうだね」

 ごくり、と楓が水を飲んだ。

ごくん、とのどが動いて、それがなんだかひどくゾクゾクした。

 それにしても、人の家で僕は一体何を考えているんだろう。

「疲れるね」

 楓がつぶやいた。

「全くだ」

 品森くんが肯定した。

「いや、あまり」

 僕はとりあえず否定してみた。

『……………』

 そして三人分の沈黙が降りた。

しばらく誰も何も言わない。

「帰ろうか」

 楓がぽつり、と言った。

そしてひょい、と立ち上がる。

「グラスはどこに置いておけばいいのかな?」

「ああ、わたしが片づける」

 品森くんの返答を聞いて、玄関の方へと歩き出す。

僕も付いていく。

「今日は、楽しかった」

「わたしもです」

 にっこりと笑いあう二人。

僕の心にちっくりと出てくる嫉妬。

「じゃ」

 ばいばい、と言って、僕らは彼の白い住居を出た。

それからしばらく歩いてから、

「ねぇ、貴理。ありがとね」

「え?」

「なかなか楽しめたよ。ひさしぶりにちょっとだけ勉強する気が起きてきた」

「それは………よかったね」

「うん。よかったよ」

 彼女はにっこりと笑った。

うむ、笑顔というのもなかなかいいね。

 それからしばらく歩いて、僕らは別れた。




 八月十五日。

今日の日付だ。

 誰にも起こされることなく、自分で目覚めるという、朝の快適な目覚め。

素敵だ。それをしばらく味わって、僕はゆっくりと起き上がる。

 終戦記念日―――か。

ぼんやりとした頭でそんなことを認知した。

 ちょっとだけ宿題をする。

けれど、今日は、なぜか、何をする気も起きなかった。

ああ、自由研究があるのに、それじゃ困るんだよ。

おかしいな、夏の最初はあんなに色々活気にあふれていたってのに。

 ぼんやりとした頭で、いつかの夏のように、外に出た。

外に出れば、何か僕を救ってくれる誰かがいるのだと自分でも信じていない想像をして、いつかの夏、僕は外に出たのだ。

実際のところは、楓に出会って僕の世界は少し上昇したのだけれど。

ああ、だから楓には感謝している。

 だけれど、今は。

さらに、僕の世界は落ち込んで、楓の世界も落ち込んでいるみたいだ。

夏は、希望の季節のような気がするのに。全然希望なんて無い。

今の僕には絶望がある。

ああ、本当に、何をやっても、最終的には駄目になる気がする。

最終的には、何もかもが望まないところにたどり着くような気がする。

 ふらふらと、陽炎かげろうが立ちそうな景色の中、浮遊するみたいに歩く。

吸う空気は、外のもので、夏の暑さと夏の匂いを含んでいた。

 今日は終戦記念日だ。

よかったね、戦争が終わって。

ああ、それは本当にいいことだ。

戦争は、駄目だ。争いごとは、嫌いだ。

そんなこと、面白くない。

そんなことを、僕は望んじゃいない。

誰かを傷つける世界なら、その誰かに君もなるだろう。

僕は傷つきたくないし、楓だって傷つけたくない。

 ふと、昔の日本を思った。

今、正しいと思っていること。昔、正しいと思われていたこと。

今、間違っていると思われていること。昔、間違っていると思われていたこと。

学校に行くのは正しいか?国のために命を散らすのは正しいか?ぼんやりとそんなことを思った。

 やれやれ。正しいとか間違っているとか、そういう社会的な正義はやっぱり変わるものよな。

諸行無常だ。なら、僕の中での正しいこととか間違っていることとか、それも変わってしまうのかな?

だとしたら、僕も楓を捨てる日が来るのだろうか。

それは、けっこう怖い話。

今、僕は、そんな日が来る前に死にたいと思ったけれど。

きっと、そんな日が来たときには、楓を捨てることなんて、なんとも思っちゃいないのだろう。

 それにしても、最近よく楓のことを思い出す。

会いたくなる。抱きしめたくなる。彼女の体が欲しくなる。

まるで彼女に恋しているみたいに。彼女の体に恋しているみたいに。

彼女の香りが思い出される。彼女を抱いたときの感じが思い出される。

あれは気持ちよかった。だから、もっとしたい。できなくなる前に、できるだけ多くしたい。

なんだか、楓本人よりも、楓の体に惚れたみたいで、それは嫌だった。

けれども、楓の体は麻薬みたいに僕をいかれさせた。

一度抱いてしまったら、もっと欲しくなる。だから、僕は楓に会って、あの子を抱きしめたい。

きっと、僕は、壊れている。彼女のせいだ。

責任転嫁せきにんてんか











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