絶望遊戯4章
今日は、楓に会える日だ。
だから、彼女に会いにいこう。
のっぺりとまとわりつく大気は、今の僕にはもはやダメージを与えられない。
去年や、一昨年のようにはいかない。
なぜなら、今の僕には楓がいるのだ。
夏の空気や太陽は、去年や一昨年の夏のように、緩慢で、ダラダラと、倦怠感に渦巻いて、僕を沈み込ませることはできない。
楓がいる今の僕には、弾けきった夏とさんさんと照りつける太陽が、僕らの夏を祝福しているようにしか思えない。
爽やかに、生命力にあふれ、颯爽とした夏が、僕らを待っている。
だから、薔薇色の夢の中、カーニヴァルが始まる。
夏は祭の季節だ。活動の季節だ。
さあ、踊ろうじゃないか――――――!
この前、楓に教えてもらったアパートに行く。
玄関に入って、郵便受けを見る。
栗原、栗原……あった。
僕は楓の部屋を確認すると、そこに行って、チャイムをならした。
ぴんぽーん、と音が響いた。なんだかやけに、空っぽな音だと思った。
夏の大気の中、人もあまり外を動かぬ、生命力あふれるはずなのに静寂した空間に、その音は響いた。
どこかで、セミの音がしている。
昔の夏は、もっとにぎやかだったのだろうか?もっと人が外にいたのだろうか?
がちゃ。
出てきた楓が僕の物思いを止めた。
「おはよう、貴理」
「午後だけど」
「今日、はじめて会ったから。まあ、入ってよ」
おじゃましまーす、と言って中に入る。
しん、とした静寂が僕を迎える。
居間に通された。
「ソウファに座ってよ」
かなり異国風の発音で楓が僕にソファをすすめた。
僕は座る。
ちょっと待っててね、と言って、隣り合っている台所に楓は行き、冷蔵庫から飲み物を取り出してくれた。
「氷、いれる?」
「いや、別にいいや」
氷が溶ける前に、飲みきってしまうと思う。
氷だけが残って、底の方に飲み物の残液があるのは、なにか寂しげだ。
そうなったら、氷が溶けてから飲むつもりだけど。
「はい。とりあえずは、我が家にいらっしゃい」
楓が戻ってきて、僕の前にグラスを置く。
そして僕の隣に座った。っていうか僕の座っているソファ以外に座る場所がないから、そこに座るしかないんだけど……でも、ドキドキする。
こんなに近くに女の子がいると。
グラスを持ち上げて、楓が、
「乾杯」
と言った。
僕もグラスをとりあげて、
「乾杯」
かちり、とグラスとグラスがぶつかって、涼やかな音を立てる。
ぐいっ、とグラスをあおった。
麦茶だ。日本の夏の風物詩だ。ちょっぴりとした甘味が僕の喉に残った。
ふう、と一息ついて、グラスをテーブルに置く。
夏の日差しがグラスを貫いて、テーブルの表面に、光の文様を描き出した。
なんだか、急に首に何かまきつく感じがした。
それから、ほほに柔らかい感触。
何が起こったのかよくわからなくて、その感触があった方を見ると、にこやかに笑う楓。
「へへっ、キスしちゃった」
顔が赤くなるのが自分でもわかった。
なんでだろう。口でもしたことがあるのに。
でも、なんか異様に恥ずかしかった。
「あははっ、真っ赤になってる。かーわいいんだー」
そのまま、ソファの上で楓は立ち膝になってから、抱きついてきた。
「ぐはっ!?」
僕はおどろきの声をあげてソファに倒れこんだ。
よいしょ、と僕の胸に手を突いた。
「かはっ・・・」
胸への圧迫で、少しむせた。
なんだか、不思議と、気持ちよかった。
楓は僕の胸に手をついたまま、半身を起こした。
「眼鏡、嫌いなんだったよね、貴理?」
僕の目を覗き込む。
こくり、とうなずくと、彼女は僕の眼鏡を外した。
一気に世界が頼りなくなる。視覚情報の不可信頼状態。
世界にピントが合わなくなる。
楓はテーブルに僕の眼鏡を置いた。ピントが合わなくても、それくらいは見える。
それから、さっきの半身を起こした体勢で、
「ねぇ、貴理。あたしの顔、はっきり見える?」
「いや」
ぼやけている。
すいっ、と楓の半身が下がる。
彼女の手は僕の顔の横に移動する。
「じゃあ、このくらい?」
まだ、ぼやけている。
彼女が僕を直視している。僕も彼女を直視する。
自分が、彼女に顔をさらしていることが、どうしようもなく恥ずかしく思えた。
だって、彼女は今、僕しか見ていないんだから。
「まだだ」
さらに近づいてきた。
彼女の髪が、僕に落ちかかる。
ちょっとだけ、女の子の香りがした。
ぞくっ、と、快楽的な何かが背骨を走った。
「これでどう?」
「うん、まあまあ見える……でも、はっきりとじゃない」
けっこう近いはずなのに。
二十センチを少し越えたくらいだと思うのに。
そんな近い距離でも、僕はこの子にピントを合わせられない。
焦点を定められない。
ふらふらとして僕の目は彼女を捉えられない。
「じゃあ―――」
さらに彼女が顔を近づける。
より濃く、甘い匂いがした。これが将来、香水に変わるのだろうか?
それは、少し嫌な気がした。でも、その一方で、ひどくどうでもいいことにも思えた。
「ああ、そのくらいではっきりと見えるよ」
自分でも悲しくなるくらい、近くだけれど。僕の眼はこんなに悪いのか。
それでも彼女の顔が見えた。ストレートの髪は、もうあまり視界に入ってこない。
それくらい、近い。髪を除けば、彼女の顔は、変わっていなかった。
そりゃそうだ。化粧してないんだから。
―――やっぱり、この子も将来、化粧するんだろうか。
それは、少し嫌な気がした。でも、その一方で、ひどくどうでもいいことにも思えた。
彼女の顔がまた動き出した。
―――――離れるのでなく、近づいてきた。
ぼんやりと、こんなに情熱的なキスはしたことがなかったな、と思う。
しかも、長い。なおかつ官能的だ。キスしてる途中でこんなこと考えるのも変かもしれないが、考えてしまう。
考えながらも僕の体にぞくりぞくりと電気が流れる。
なんだか、とっても、欲しい気分。
こんな雰囲気だと、僕が壊れそう。
体がこんなになりながらも、頭は思考を進めていく。
僕は、自分の中からあふれてくる考えを操作できないような気がする。
しかし―――と彼女と舌をからませながら考える。
帰ってきた楓は、どこか変だ。
なんていうのか―――思い切りがよくなった、というか。
いや、むしろ何かがとんじゃった感じだ。なにか弾けた―――あるいは、投げやりに?
なにかあったのか?もしくは、あるのか?
少し、心配だな。
それにしても、ただ舌を絡ませるだけなんて能が無い。
とりあえず、手で彼女の髪をなでつける。
それから、しっかりと彼女の体も抱いて―――――
うぅん、しかし夏の薄着でこんなことやってるなんて、クラクラしてくる。
頭がどうかなってしまいそうだ。楓のお父さんに見つかったら処刑ものかな?
だけど、そう思うと、かえって興奮してきた。
背徳感かな?それとも、危ないことをしているっていうスリルからくるものかな?
ドキドキは、ワクワクだ。ある時は。
だけど、そんな中でも理性を失ってはいけない。
なぜなら、そうでないと、取り返しのつかないことになるから。
さて。まずは彼女がなぜこんなに官能的になったかということだな。
だが、まず、このキスくらいは、彼女の好きにさせよう。
きっと、彼女はしたいからこうやっているのだろうから。
それを途中で止めさせるのはどうかと思う。それに、僕も楽しいし。
これが終わってからだって、話すのには遅くないだろう。
彼女の手が、僕の頭を押さえつけて、しっかりと僕の頭は彼女に抱かれて、唇を吸われた。
なんだか、すごく楽しかった。僕は楓をしっかりと抱いた。すごく、気持ちいい。
「で?」
「で?って何が?」
少し小首をかしげてこちらを見る姿はひどくかわいく、僕はまたドキドキした。
「いや、なんか楓、この前に会ったときと違う気がしてさ」
「………そうだね。ちょっと疲れちゃったからさ」
「疲れた?」
「うん。座っていても疲れる。立っていても疲れる。だからあたしは寝たい。でも寝たって、そんなの現実逃避だし。逃げた現実は、強くなって戻ってくるんだ」
なんか悟りきったような台詞を楓は吐いた。
「だから、あたしとしてはね。貴理に―――」
そして彼女は僕をじっ、と見る。
「癒してほしいの」
かはっ。
くらった。
ちょっとくらったぜ。
だけど、大丈夫だ。
僕は平気だ。ぐ、と彼女の肩をにぎる。
「いいけど、僕としては、もちつもたれつの関係がいいね。依存しっぱなしは嫌だ」
「はーい。でも、疲れちゃったんだもん」
だー、とか言って、ごろりとねっころがる。
ああ、かわいい。だが、そう思ったあと、すぐにこう思った。
かわいいのは、彼女が若い今のうちだけで、年を取ったらこんなことをしても絶対にかわいくないんじゃないか。
まったく僕の頭は悲劇的な思考をしてくれるものだ。
「ね、貴理。世界の流れが、速すぎると思わない?」
「うん?」
唐突に彼女は言った。
「あのね、あたし、世界の流れが速すぎて疲れちゃったんだよ。もう少しゆっくり動いてくれないと、あたしホントに―――」
壊れちゃうよ、とつぶやいて、彼女は天井を仰ぎ見た。
「まあ、楓の気の済むまでそばにいるつもりだから、安心しなさい」
ぽんぽん、と彼女の肩を叩く。
しかし―――世界の流れが速すぎる、か。
確かにそうかもしれない。
「あのね、貴理。あたし最近、やる気がおきないの。受験生だっていうのに、勉強する気が起きないんだよ」
黙って彼女を見てうなずき、先を促す。
「宿題をやるのにかかる時間も増えていっているし……昔は一時間で終わったようなのが、今は二時間くらいもかかるんだよ。もう本当に何もやりたくなくてさ。集中できないんだよ。
それにさ。テレビなんかもそうなんだよね。見ていても、何が面白いのか、最近わかんなくなってきちゃった。見てても面白くないんだもん。最近は何やっても面白くないの。だから、寝ることにするんだ。現実逃避だよね。
でも、何やっても面白くないから、寝るしかないじゃん?で、起きてもやっぱりそこには面白くない世界が広がってるだけなんだよ。
それこそ地平線の彼方まで、って感じ?あんまりに面白くないんで、いっそのこと、心がぶっ壊れてしまえばいいのに、って思うくらいだった。自殺したいとも思った。まあ、そう簡単に自殺なんてできないけど。ギリギリで怖くなっちゃうんだよね。
危険がないっていうのは大事だけど、それと同じくらい、退屈じゃない、ってのも大事なんだと思うな。
どっちか片方だけだと、片手落ちだよ」
だからさ。
と言って、彼女は僕に向き直った。
「相川貴理さん。あなたはわたしの希望なんです。わたしの面白きこともなき世を面白くするのはあなたです。
いや、貴理自体がおもしろいんじゃなくて……なんていうのかな、希望が出てくるっていうか、生きるエネルギーをもらえるっていうか?だから、ホント、ありがとね。
そんな人が彼氏でよかったよ。この夏にここに返ってくる、って聞いたとき、助かった、と思ったもん。
希望がここにあるんだよ?最高だよ」
そんなことを聞けた僕の気分も最高だよ。
そう思ったけれど、言葉に出さないと彼女には伝わらないから、口に出すことにする。
「そんなことを聞けた僕の気分も最高です」
そうして二人でははは、と笑った。
その瞬間は、マジで最高だった。僕らの勝利だ。
その瞬間、確かに僕らは退屈と危険とを退けて、笑うことができた。
「そうだ、楓」
「うん?」
「もしかして最近、家から外に出てないんじゃないか?」
「え?なんでわかったの?」
「だいたいにして、倦怠期の人間ってのは動かないものだからさ」
そう、まるで楓に会う前の夏休みの僕みたいにさ。
だけれど、それだと本当に腐って死んでしまうと思ったから外に出たんだ。
そしたら楓に会えた。
正直に言おう。
僕は、貴女に、救われました。
「―――えー、と、つまりあたしに動けと?」
そゆこと、とうなずいてみせる。
「うん。明日にでも、散歩に行こうよ。きっといい気晴らしになる。
それと、ちょっと知り合いがいてね。なかなか面白そうなやつがいるんだ。希望がもらえるかどうかっていうとけっこう疑問だけどね。散歩のついでによっていかない?」
「うーん……ま、いいや」
明日は楓と一緒に散歩だ。戦闘意欲が湧いてきた。
退屈に危険、ご両人とも首を洗って待っていろ。
今夏はお前ら全員、血祭りにあげてやるぜ。
それにしても―――
「ねえ、楓。さっきの、ホントに気持ちよかったよ」
「もっと、したい?」
左肩だけを掴まれた。
僕は、彼女にうなづいた。
「ああいうの、好き?」
「ああ。好きだよ」
「そう。あたしも好き。楽しいし、気持ちいいし。それに、きっと普通のことだよ」
うー、と甘えた感じに軽くうなって、彼女は僕の胸に抱きついてきた。
また、彼女の髪の甘い香りがした。
「楓。誘惑しないでよ。僕、壊れちゃうよ」
「壊れた貴理も素敵だよ。ねえ、もっと壊れて」
彼女は、優しく笑ってそう言った。
すごく、甘い言葉だった。誘われているようだった。
家に帰り、気分が乗っている僕はすらすらと宿題を解いた。
こんな宿題ごとき、今の乗りに乗っている今の僕の障壁には成り得ない。
集中してやったら、一時間ほどでノルマの三倍くらいできた。
はっ、僕の実力はこんなもんだ。
そうそう。僕はキーボードを見ずに打つことができるようになった。
PCを買ったときに一緒に買ったPCの解説書についていたソフトを毎日、ちょっとした時間にやっていたらあっさりと習得できた。
ちなみにローマ字打ちだ。英文を打つときにも役立つかと思って。
いや、まったく関係のない話なんだけど。
さて。僕は乗っている。今夏は嫌になるほど乗っている。
楓とは大違いだ。何が僕をそうさせているのかは知らない。
だけど今、乗っている。ならば、乗っているうちにいけるところまでいけばいい。
そうしたら、乗れなくなったときに、きっとそれが役に立つだろうから。
だけれど楓がかわいそうだ。
自分の状態になどおかまいなしにノルマはやってきて、あっさりと自分をつぶしていく。
だけれど楓には僕がいるのだ。
何ができるのか知りはしないし、大したことなんてできないかもしれないけれど、そうやすやすと彼女をつぶさせるつもりはない。
つもりはないが、彼女を助ける方法がわからない。だけれど、助けようという意志はある。
―――――とにかく。
意志があるだけでもいい。そして僕は今夏、乗りに乗っている。
注意することはいくつかあるけれど、きっとなんとかなるだろう。
僕は今、最高だ。