絶望遊戯3章
昨日、楓に会った僕は、とてもとても幸せな気分で今日という日を過ごしていた。
楓が帰ってきたという幸せにひたりながら、自室のたたみにねころんでいる。
宿題……ふと、その単語が頭に浮かぶ。する気はない。
ないが……しなくてはならない。
よいしょ、と立ち上がる。
ふらり、と眩暈がした。
視界が全体的に白く、明るく、光で満たされる。
頭の中が何かを吸い込んでいる感じがする。
こういうときは下手に動いてはいけない。
まさか倒れないとは思うが、立ちくらみのときにはこうするのが一番だ。
しばらくすると、脳に血液が行ったのだろう、視界が正常に戻った。
成長期には、体が大きくなるけれど、血液量がそれについていけなくなることがあって、それで立ちくらみが起き易くなる、とか聞いたことがある。
ホントかどうかは知らないが。
とにかく、正常に戻った体を動かして、机に向かった。
国語、数学、理科、社会、英語と五つもあるテキストを完成させなくてはならない。
気が滅入ってくる。なにから始めようか―――。
とりあえず、がんばった。
がんばったけれど、疲れた。
ああ、暑いし、気が滅入るし、宿題をする気なんてざくざく削られていく。
と、いうよりも、何もする気が起きてこない。
ごろり、とたたみに横になる。
くそ―――何もしたくない―――死にそうだ―――。
だけれど、こういうときの対処法を僕は知っている。
知っているはずだ。
部屋の中にいるからよろしくない。部屋の中は僕を狂わせる。
なんだか、部屋の中にずっといると、軽い頭痛、ちょっとした吐き気、ずっとまとわりつくだるさ―――こういったものに悩まされたり、気分も悪くなったりして、わけもなく叫びたくなってくる。
だから、対処法はいたって簡単。
外に。出ればいいのだ。
ふらふらと街を歩く。
僕のサンダルの音がぺたぺたとアスファルトに響く。
風は無く、僕のTシャツはゆれない。
眼鏡は置いてきたから、全体的にぼやけた世界が僕を迎えていた。
日の光にやられないように、麦藁帽子をかぶって、世界を歩く。
ここは、まだ、部屋の中よりは空気が新鮮だ。
スモッグに満ち溢れていた十九世紀ロンドンなんかはかわいそうだと思った。
しかし、それにしても―――僕は、ここから出られないのか。
そう思ったとき、ピアノの音色が、ある家から聞こえてきたので、僕は思わず足を止めた。
全体的に白い家。白を基調とするその家の中から音がする。
なんの曲かは知らないけれど、しばらく聞き入った。
時間はあるんだ。だったら聞いていたっていいだろう。
曲がやんだ。
終わりか。じゃ、そろそろ行きますか。
「おや、相川くんじゃないか」
がらりと部屋の窓を開けて、一人の男が顔を出す。
眼鏡が無いから、顔で誰かは、わからない。だけど、声でわかる。
「品森くんの家だったのか。ピアノの音を聞いていてさ」
「わたしが弾いていたんだよ」
そういってあわくほほえんだ、ように見えた。
眼鏡を外しているから、表情もいまいちわからない。
でも、眼鏡を外していても、全体の感じで誰かわかるときがある。
そんなことを思いつつ、突っ立っていると、彼は言った。
「中に、入らないか?おもてなしなど出来ないが」
「世界は崩壊する」
と品森誠一は言った。
空は青い、とか、おなかがすいた、とかいうように、ただ事実だけを伝えるような口ぶりで。
ここは彼の家の中。
白の住居。彼の自室と呼ぶ場所だ。
水でもあげようと言って水を持ってきてくれた彼がひょいっと言った言葉。
ことり、とグラスを置いて、そんなことを言われるとは。
「ああ、今のは気にしないで」
また、あわくほほえむ。
と、いうよりくちびるの端だけ吊り上げる。
「この水はね、水道水なんだ。夏の間は冷蔵庫で冷やしておいて好きなときに飲む。水がおいしいというのは、すごくいいことだとわたしは思う。
ちなみにグラスも冷凍庫で冷やしていてね、夏場はそれがとても上手く働く」
そんなことを彼は言う。
「そうだね。確かに。ところで、僕はひさしぶりに自分以外の人の家に入ったよ」
他人の家に入ったよ、とはなんか彼を突き放すようで、僕は言い方を変えて言った。
今まで入った友達の家とくらべてみても、彼の自室は奇妙と言っていいかもしれなかった。
まずピアノ。楽譜が乗っている。
そして書架にはたくさんの本。
ふとんが壁ぎわにある。
机の上はおそろしいほど整然と片付いていて、何ものっていない。時計すら。宿題でさえ。紙一枚ものっちゃいなかった。文房具もない。もしかしたら消しゴムのカスすらないのではないだろうか?
テレビもない。
全体的にひどく殺風景だ。
色々と―――そう、違う。
「どうだい?なかなかお目にかかれない部屋だろう?」
「確かに」
僕は心からそう言った。
水を口にふくむ。ああ、冷たくて気持ちいい。
「実に住みごこちがいい」
そういって、彼はじっ、とこちらを見た。
「最近、よく思うんだけどね。人生ってゲームに似ていると思わないかい?と、いうより、あらゆるゲームは人生をヒントに考案されたのかもしれないけど」
「ゲーム……?」
「そう、遊戯だよ、相川くん。人生なんてちょっと手のこんだすごろくのようなものだ。
ただ、このすごろくは、ふりだしも、あがりもなく、気付かぬ間にこの遊戯に参加して、時間がきたら強制的に退去させられる」
まったくもって絶望的な遊戯だよ―――と彼は言った。
「いや、それにしても空が青いね。今日は塾なんだ」
僕は塾に行っていない。
だから、それがどんなものなのか、よく知らない。
「それは、大変そうだね」
そう言うと、彼は、ますますにっこりと笑った。
「そうなんだよ。大変なんだ。それに夏休みだろ?夏期講習っていうのがあってね。これまた大変なのさ。正直、もううんざりしてるんだ。はっきり言って、もうやめたいんだよね」
それをとても愉快そうな笑顔で言った。
何が面白いのかよくわからなかったから、僕は笑わなかった。
というよりも、どういう風な反応を返していいのか、困る発言だった。
もしかしたら悲しいことを、品森くんは言っているみたいなのに、それでも彼は笑っている。
「じゃあ、やめればいいじゃない」
「んー、それがだねぇ……」
少し、まゆげを上にあげて、やれやれ、と言ってから、やはり笑顔で、
「そうは問屋が卸しちゃくれないんだ。親がね、どうも許してくれなくて。もう何度も言っているんだけど、残念、駄目なんだよ」
彼は、こくり、こくりと冷たい水を飲んだ。
「いやあ、やっぱり親ってのは強いよね!それにしてもさ、君は水は好きかな?」
「うん、好きだよ」
「わたしはね、あの淡白なのが好きなんだ。だからお茶も好き」
ははぁ、なるほど、と相槌を打つ。
「でも僕は―――何も食べないのが一番好きかな」
そう僕は言った。
すると、品森くんは、
「へぇ、それは珍しいね。なぜだい?」
「うぅん……なんでだろう。よくわからないな。
でも、何もない状態が好きなのかもしれない。
テレビも、PCも、音楽も無くったってかまわないから」
そうか、と品森くんは答えた。
沈黙が落ちる。
お互いに、何も言う事が無くなったらしい。
僕はこういう沈黙は平気だ。
気まずいと思わない。しかし、ここで所在なく座っているのもどうかと思うので―――そう、散歩の目的の気分転換は充分果たした―――帰ることにする。
「じゃ、僕はもう帰るよ。ばいばい」
「ああ、ばいばい」
ひらひら、と品森くんも僕に手を振り返した。
「また来たかったら、好きな時に来てくれていい。わたしは大抵、家にいるから。寝てるかもしれないけどね」
僕も一緒だ、と思った。
「グラスは、ピアノの上にでものっけてくれ」
そうした。
「あ、それじゃあお邪魔しました」
「それではまたいつか会おう」
かちゃり、とドアを閉める。
夏の熱気がむっとした。
しばらく歩いて振り返る。カーテンが閉められていた。
ドアの鍵をしめる。
カーテンを閉める。戸締りは万全。
これで結界は完成。
俺はふとんに体をおろした。
白い天井が見える。退屈なときは寝るにかぎる。
義務も、権利もうっとおしい。
俺は俺のやりたいようにやる。
まあ、俺は俺のやりたいようにしかやれないのだが。
今の意味は、「宿題をするか、手伝いをするか」という選択肢を例に出すとわかりやすいと思う。どちらもやりたくなく、俺は「遊びたい」のだが、どちらかしかないとすれば俺は「宿題をする」を選ぶ。
「宿題をする」は「遊びたい」のように「本当にやりたいこと」ではないにしても「やりたいこと」ではあるという意味だ。自分で選択した意思であることゆえに。
まあ、これは「やりたいこと」とは言えないかもしれないが。
ならば言い方を変えよう。
俺は俺の選んだことをやる。
まあ、俺は俺の選んだことしかできないが。
とはいうものの、別の見方をすれば、結局は誰かに支配されているわけだ。
今日も塾に行かなくてはいけないということを思い出して、それを思った。
すべては誰かに支配されている。
俺は、塾に行かなくちゃいけない。
なぜか。
それは親がやれというからだ。
拒否権?
残念ながら、そんなものはない。
結局、自分の意思でやっているようなことでも、ただそれは自分より力の強い何か、もしくは誰かがそれを許しているからできている。
そんな当たり前の真実を、あんまりに世界が幸せだから忘れていた。
それを再確認して、気が滅入った。
まあ、たとえ誰かに強制されているのだとしてもそれが楽しければいいのだが。
しかし、それにしても……気が少し、滅入る。
ちらり、とピアノの上のグラスを見る。
綺麗だ。
……後で洗おう。
俺は寝る事にした。
そうだ、なんだか疲れているし、眠るっていうのは気持ちいい。
ほんとに、俺は、眠りたい。
なんだか、心から、眠ることが気持ちいいことに思える―――。
―――寝る前の数分間、思考が迷走する。
しかしだね。しかしだ。
俺は、もう、疲れたよ、正直。ずっと前から疲れていた。
ずっと前から心の中で叫びつづけていたことだけど、疲れた。
だけど、俺は溜息なんかついてやらない。
なぜか。溜息は周りの人を不快にするから。
周りの人を不快にさせる気なんて、俺にはさらさらない。
俺の望みは、俺の世界をきれいにすることだ。
周りの人を不快にさせるなんてことは、世界を汚くすることだ。
それは俺の望むところじゃない。
俺はみんなを幸せにして、みんなと幸せに暮らすんだ。
みんなが敵意を向けている世界は、俺の望むものじゃないんだ。
だから俺は笑う。
ああ、しかし俺は疲れたぜ、まったく。
塾だ、行きたくない、でも行かなくちゃ行きたくない。
矛盾する事象は、なあなあのところで留め置くしかないのか。
適当なところで曖昧にぼんやりと存在させればいいわけか。
なんとかお互いに歩み寄るしかないわけか。
しかし、しかしだ―――もはや歩み寄れないならばどうすればいいのだ?
お互いに、どうしてもそれ以上は歩み寄れない場合は?
どうなるか。
そんなのはよくわかってるじゃないか。
なあ?
強いものが勝つに、決まってるじゃないか――――――
くだらない思考だから、外に出す必要は無い。
そもそも、寝る前の戯れだから、記憶に残らなくてもいい。
だけど、ちょっとだけ。何かこの思考が俺の何かを形作ればいいと思った。