ああ、羨ましいとも!
俺の言葉には何も言わず、ティーはすっと立って近寄ってきた。
鼓動が早くなり手に力が入ったところで、ものすごい衝撃が頭に落ちてきた。文字で起こすなら『ごっ』というような音まで聞こえた気がする。
「言うのが遅いの。グラテアン邸の祈祷所なら帝国の内通者なんか入れないし、他にも母なる女神のお力が強くて他の耳が無い所なんていくらでもあるでしょ」
「はい」
殴った手が痛いのだろう、握った拳を反対の手でさすりつつ声を荒らげるティー。
「小難しい経典や軍典だって諳んじるのに、そんなことにも気が付けなくって思いつけない。イーは馬鹿なの?」
「……賢くはないと思う」
今度は側頭部に衝撃が走る。乾いた音だったので、たぶん平手だ。両側にほぼ同時に連続で衝撃が来たので、両手で殴られたんだろう。
「そういう事じゃない!」
「はい、ごめんなさい」
ティーの剣幕に子供みたいな謝罪の言葉しか出ない。今まで口にできなかった言葉ばかりが零れでてきて、殴られたのが原因じゃない涙も滲んでいる気がする。
ずっとティーに、ドゥオフレックシーズ様に、ヴァニトゥーナ嬢に、グラテアンの皆に、蒼炎や紅天、たくさんのフランマテルム王国で俺に優しくしてくれた人たちに、本当にこの国の力になりたかったけれど、そうできていなくて『ごめんなさい』と言いたかった。
追い詰めてでもそれを言わせてくれる状況を作ってくれたティーには、ごめんなさいだけじゃない。
「俺は、すごく馬鹿だ」
「そうだね、馬鹿だよね」
被せぎみに肯定されて、いっそ笑いがこみあげてきた。そのままティーを見上げて、もうひとつ言わなくてはいけない言葉をはっきりと口にした。
「それを教えてくれて、ありがとう。取り返しのつかないことをした。だけど、取り返せるものがあるなら、全力で取り返したいんだ。出来ること、全部させてくれると嬉しい」
ティーは少し驚いたように目を見開いたあと、大きなため息をついた。
「本当に遅いけどイーが自分で気がついたもの、今まで黙ってたことは許してあげる。イーのこと大嫌いになるとこだったわ」
「うぅ…危なかった」
そうだねぇ、と笑うティーはもういつも通り楽しそうだ。
隠し事がなくなっただけでかなり気が楽になったが、もうひとつだけちゃんと言っておかないと。
「あのな、ティー。ドゥオフレックシーズ様はいくらでも父なる神の巫覡プリメトゥス様とお会いできると言っていたが、俺は直接あの方と会った事はないんだ」
「うん、それは知ってる。小兄さまは、いくらでもそういう状況を作れるって言いたかっただけよ」
突然変わった話題に驚くことなくティーからの返事が反ってくるが、疑われていたんじゃないんだとすこし驚いた。なぜそう言い切れるんだろう?
「なんで断言できるかってね、イーが氷の男神の巫覡と会っていたら気配が残るでしょ。そうすると母なる女神が大興奮するからなの。愛し子の集会があると母なる女神が不機嫌になることは多かったけれど、興奮なさった事は一度しかなかったからね」
大興奮とは? 疑問符の浮かぶ俺に気が付いたティーが苦笑して教えてくれる。
「母なる女神は、氷の男神を深く愛していらっしゃるの。かの君の気配を纏う愛し子が近づいたらどうなると思う?」
ああ、大興奮するんだ。それにしても、一度は大興奮なさることがあったのに俺が会った訳じゃないって言えるのはなんでだ?
「本当に大興奮なさるんだよ。最初にイーと出会ったときもすっごく興奮なさってたけど、私が普通じゃなかったからよく覚えていなくてさ。二度目に居合わせたときは、大興奮どころじゃなくてねぇ。イーだって寵愛は厚いけれど、愛し子だもん」
ああ、ティーが直接その場に居たからか。え? 愛し子じゃないということは。
「ティーが会ったっていうのは、父なる神の巫覡なのか?!」
「そう、イーは会ったことないって言ったけど、私は一度だけ巫覡プリメトゥスと会ったことがあるんだよ」
驚く俺に、得意げに笑うティー。
「5年前の集会のときに偶然に出会してね。もう母なる女神の大興奮を越える大興奮が、別れるまでずーっと続いてさ。二人して会話しにくいねって笑い合ったんだよね」
母なる女神がティーにほぼずっと付いていらっしゃるのはティーから聞いていて知っているが、それ以上に気になることが…と驚きつつも質問しようとティーを見たのが失敗だった。
またもや『ニタァ』と悪人のような薄笑いを浮かべて俺より先に口を開く。
「うふふ。とても愛らしい巫覡と、彼と一緒にいらしたお方のこと、聞きたい?」
ティーは『二人』で会話をしていて、その相手が父なる神の巫覡で。彼と一緒にいらっしゃる存在、しかも女神が大興奮なさる方なんて決まっている。
「直接お会いしたのか?」
さっきの謝罪のときだってこんなに声は震えていなかったはずだ。
「お互いに相手のお仕えする方にご挨拶だけね。個人的な会話はしてないよ、私的な場だったし。私は母なる女神の巫女だもの、ご挨拶は必要でしょ」
ニコニコと笑うティーの笑顔が、憎らしいくらいに輝いている。
いや、分かっている。俺は帝国の神殿関係者以外に指示されて、フランマテルム王国を探りに来ている。父なる神から見ても裏切り者だ。
しかし、ティーは我らが神の巫覡だけでなく、ご一緒におられる父なる神をも目にしているんだ。巫覡にお目通りが叶ったとしても、俺に父なる神の存在を感じることが出来たとして、そのお姿を目にすることは不可能だ。
分かっている、分かってるんだ、とまたもや手を見て考え込んでいたことに気がついてティーを見て、なんとも言えない怒りが湧いた。
意地の悪い、それでいて晴れやかな笑みで俺に言うからだ。
「羨ましい?」
ああ、ものすごく羨ましいとも!
俺が考え込んで落ち込まないような状況を作ってくれるのは有りがたい。申し訳なさも感謝の気持ちもたくさん湧いている。が、ここまで羨ましがらせるティーはやっぱり怒ってるんだろうな、とも思った。




