37頁目.書類と枷と風切り音と……
表彰式が始まる少し前のこと。
ノエルはマリンの記憶を戻すためにマリンを引き留めていた。
「それで、少し待てとは言われましたが……。どうして近寄ってくるんです?」
『アタシの中央にある魔石に触れてくれ。はっきり言って時間がないんだ』
「魔石に……? 何をするつもりですの?」
『時間がないから手短に納得させてやる。アタシたちにとってこの大会は大災司を罠にかけるための囮だ。その罠の完成にはお前の力が必要なんだ』
「なるほど、大災司……。サフィーの一件であなた方が大災司を捕えた実績を考えると、信じるに値する交渉ですわね。ですが、勝手にいつでもあなたから触れれば済む話だったのでは?」
『大会中はきっと観客の誰かはお前を見ている。であれば、裏で動くタイミングしか行動を起こせなかったんだ。それに今回に関してはアタシの言葉を信じるのか、信じないのか。その選択を知ることがアタシにとって大事なのさ』
マリンは数秒だけ考え、頷いて言った。
「信じましょう。あなたの気持ちを裏切ることは、自力で優勝までしたあの子たちを裏切るのも同然だ。そんな考えが頭を過ぎりますから」
『じゃあ、数分だけ人避けしてから触れるようにしてくれ。何があるか分からないからね』
「ではそのように」
そう言って、マリンは扉の外にいた警備員たちを数分だけ下がらせる。
そしてそのまま、マリンはノエルの黒羽根の宝石に指を触れた。
***
目を覚ますと、そこは見覚えのある部屋だった。
しかしそれは、最近見た部屋と同じ内装のはずなのに明らかに綺麗な内装。
そこは、在りし日の闘技場の社長室だった。
社長椅子に目をやると、そこにはマリンの姿があった。
「ノエルが死んで10年……。最近まで彼女の関連書類や記録を消し続ける毎日でしたが、ようやく本業に戻って来られました! い、いえ、本業は大魔女ですが……」
溜め息をつき、マリンは目の前の書類の山を見上げる。
「オクトーに任せきりなのもどうかと思って戻ってきましたが、これまで以上の書類の数……。まあ、ノエルのことを忘れる良い機会と考えるべきでしょうか。記録に残してはいけない以上、わたくしの記憶からも消すべきでしょうし……」
それから、彼女は毎日書類仕事をこなし、毎月闘技大会を開いた。
「わたくしは絶対に忘れなくてはいけない。それがこの世界をわたくしたちに託した彼女の頼みですもの」
半年毎には魔女集会に行ってサフィアに会い、年に一度は実家に帰った。
「わたくしは絶対に思い出してはいけない。それこそがわたくしの生きる意味ですもの」
それでも次の日には仕事に戻り、毎秒毎分毎時間……ずっと書類を見ていた。
「わたくしは絶対に覚えていてはいけない。そのためにわたくしは働き続けているんですもの」
そんな気も休まらない日々を送り続けて、気づいた頃には50年が経っていた。
「はぁ……今日も書類仕事、明日も書類仕事。よくよく考えてみれば、大魔女らしい仕事を最後にしたのはいつのことでしょう……」
そう言って、マリンは引き出しの中に入れていた魔導書を手に取る。
「この国を守る大魔女である以上、魔法の使い方だけはちゃんと忘れずにいましたが……。腕が鈍っているのは間違いないでしょう。でも、魔法のことを考えようとすると……」
マリンはそう言いながら、引き出しの奥にあった古ぼけた黒い魔導書に手を触れる。
その魔導書の装丁には見覚えがあった。
いや、見覚えしかなかった。
「わたくしは……彼女のことを……」
***
「……絶対に忘れられるはずがなかったのです。60年以上どれだけ書類と向き合っても、あの冒険の日々はわたくしにとってかけがえのない毎日でしたもの」
「だから……アタシの魔導書を?」
「ええ、わたくしは皆を欺き、あなたの魔導書だけは大切に保管していました。悪いことをしているのは分かっています。でも、わたくしはあなたを絶対に忘れたくはなかった……!」
「分かってる。アタシだって逆の立場だったら同じようにしたさ」
「ですがあの日、あなたの記憶を封じられたわたくしは……。オクトーに唆され、この大会を開くことを決心してしまった」
「仕方ないさ。アタシがさっきまで見ていた光景から察するに、お前は仕事をする目的にこのアタシの記憶を据えていた。それが消えた以上は仕事をする目的よりも、仕事という義務が目的にすり替わってしまう」
「すり替わり……」
そう呟いたマリンはハッとして言った。
「まさかとは思っていましたが、オクトーが大災司? 正しくは、いつからか本人と入れ替わっていたと考えるべきでしょうか」
「その通りだ。まさかと思っていただけでも驚きだよ。時間がないからそこの説明を省けるのは助かる」
「そういえば時間がないと言っていましたわね。ですが、幸いここは記憶の世界。あなたの記憶を読ませてもらいますわよ」
「え、ちょっ、そういうつもりでここに来たわけじゃ――」
「なるほど、そういう作戦でしたか」
「今の一瞬で……。まあ、お前に読まれて困る記憶もなし。さっさと記憶の海から脱出を……」
すると、マリンはノエルの袖を掴んで引き留める。
「何のつもりだ?」
「記憶の海ということは、ここは現実よりも時間の流れが遅いのでしょう? 仕組みとしては夢と似たようなものではありません?」
「それはそうだな。ただし、ここはお前の記憶の海だからお前の感覚にもよるが」
「であれば、もう少し作戦を考えるべきです。あなたとセリスたちが考えた作戦だけでは、大災司を止めることは不可能ですわ」
「なら、何か考えがあるんだろうな?」
「ええ、あなたの記憶を覗いたおかげでとっておきの作戦が浮かびましたわ。やはり、あなたにはわたくしがいなくてはどうしようもありませんわねぇ!」
「大事な記憶を取り戻してやった恩を忘れたかぁ!」
ノエルはマリンの頭を両の拳で挟み、そのままぐりぐりと拳を回す。
やがて満足し、ノエルはその拳を離した。
「時間の流れが遅いとはいえ、流石に話しすぎた。現実に戻ればアタシはただの羽根ペンに戻ってしまう。お前の作戦ってのは全部任せても良いのか?」
「いえ、あなたにも協力してもらいます。セリスたちからある道具を2つ、もらってきて欲しいのです」
「セリスたちから……? だが、アタシのあの姿は何かを運ぶには出力不足だ。お前たちに作ってもらった依代なんだから、お前の方が詳しいんじゃないのか?」
「もちろん分かっています。セリスの空間魔法でわたくしの元へ転送してもらいましょう。あなたにはその橋渡し役を頼みたいのです」
「ワープゲートの目印になれと? まあ、良いさ。アタシはお前の考えを信じてみる。くれぐれもオクトーに変に感づかれないようにしろよ?」
「目印になってくれた後は、オクトーと合流するまであなたはわたくしが連れていきましょう。恐らく、あなたの行動はあのオクトーにも監視されていますから。つまり……」
ノエルはニヤリと笑って言った。
「ここからはスピード勝負ってわけだな! 久しぶりの共闘といこうじゃないか、マリン!」
「ええ、絶対に負けられません! 失敗するんじゃありませんわよ、ノエル!」
***
表彰式の準備が進められる中、フィンへ説教を続けるセリスの元にノエルが飛んできた。
「あら、クロ?」
『時間がないからすぐに理解してくれ。アタシは今ここに来ていないと思って聞くんだ』
「……! 分かった」
『アタシがこれから飛んで行って止まったポイントに、今から言う2つのものを空間魔法で転送して欲しい。1つはいつも使ってる【銀行財布】。もう1つはルゥからもらった例の回復薬だ』
「よし、目印付けたわ」
『じゃあ、頼んだぞー!』
そう言って、ノエルはマリンのところまで豪速で飛んでいくのだった。
「行っちゃった……。どうしてその2つなのかしら?」
「財布はよく分かんないけど、回復薬は誰かを回復させるためってことだよね」
「……あっ、もしかして!」
「うん、多分そういうことだろうね。戦力は多いに越したことはないし」
「それはそれとして、回復薬が必要な状況にしたのは誰だったかしら?」
「げっ、まだ説教続いてたの!?」
***
そして現在に戻る。
「お姉ちゃんが急に救護室に来たかと思えば、急に薬だけ置いてどこか行っちゃうんだもの。それだけでもびっくりしてたのに、しばらくしてお姉ちゃんが殺されたって聞いたあたしの心境、分かるかしら?」
『あぁ、心中察するよ。だが、おかげで助かった。こいつを逃がしたら本当にマリンが殺されていた可能性があったからね』
「ってことは、やっぱりお姉ちゃんは無事なんですね。で、そこの燃えてる奴が大災司で合ってます?」
セリスたちがデモニアの方を見ると、消えていた黒い炎が再びその身を覆っていた。
肩で息はしているものの、その瞳の奥の戦意は喪失していなかった。
「マリンだけじゃねえ……。その妹も俺の家を没落させた魔女の1人! お前らのせいでドミニカが捕まって、俺の家は貧乏に……不幸になったんだ! そのせいで俺たちがどれだけ苦労したと思ってる?」
「知らないわよ。罪人の家族に罪はなくても、それを守りきれなかったのは捕まった罪人の責任じゃないの。それで捕まえた人を恨むなんて、それこそ責任転嫁だわ。それに、70年も前のことが今の生活に響いてるわけないでしょ?」
『確かに……とは言い切れないか。とはいえ、お前にとってドミニカの話なんて祖父母から聞かされる昔話と同じようなもんだろう。どうしてそこまでマリンを恨む?』
「ドミニカが災司として捕まったせいで、俺の家族は闇の教団の食い物にされ続けてるんだよ。俺の目の前で魔力を吸い尽くされて、俺以外全員殺された。それなら、授かった呪いの力で復讐する相手なんて決まってるじゃねえかよ……!」
「それが、わたくしですの?」
その場にいた全員驚き、その声がする方を見る。
すると、マリンは実況席に優雅に座ってデモニアを見下ろしていた。
「ちょっ、今出てきたらマズいんじゃ……!」
『大丈夫だ。サフィーがいる以上、あいつの呪いの魔法は意味がない』
「し、信じて良いのよね……?」
心配するセリスをよそに、マリンは言葉を続ける。
「では、どうしてあなたはわたくしを殺せていないんですの? オクトーに化けていた2年間、いくらでもチャンスはあったでしょう?」
「そ……それは……!」
「あのオクトーの姿を模した土魔法、恐らく教団の他の魔導士に作ってもらったものでしょう? 確か、本人の頭髪などがあれば姿を模すのには十分だとか。ですが、復讐を目的にわたくしに近づいたあなたにとって、その隠れ蓑は不必要だったはずでしょう?」
『確かに、姿を消す呪いをもってすれば隠れ蓑なんて使わずとも目的は果たせたはずだ。なぜ殺さなかったのか、それはアタシの中の大きな疑問点の1つでもある。答えてもらおうか』
「……俺にとって闇の教団は枷だ。この立場だって、生き残るために必死で手に入れたもの。だが、その立場が意味するのは絶対服従の枷だ。長の命令に従わなければ俺は殺される。だから殺したくても殺せなかったんだよ! それ……だけだ」
その言葉に釣られるように、黒い炎が段々と弱まっていく。
「だったら、別にオクトーに成り代わる必要もなかったんじゃありません? 結局はわたくしを殺して良いタイミングで殺せば良かったんですから」
「それが最初の命令だったからだ」
『あぁ、やはり最初の目的はマリンの姿と記憶をコピーすることだったんだな。そのためにマリンの頭髪でも持って帰って来いとでも言われたか?』
「あぁ、そうだ! そのためにオクトーとかいう爺さんに化けてお前に近づいた! 姿を消すためにこの呪いの力を使っちまったら、肝心の髪の毛が燃え尽きちまうから仕方なくな!」
「では、そのオクトーはどうしたんです? 殺したんですの?」
「はは……もちろん殺したさ。じゃないと成り代わる意味がねえ!」
「へえ、そうでしたの。成り代わる意味……ねえ?」
マリンは含みのある言い方をして嘲笑う。
すると、ノエルはハッとして言った。
『そうか、別に完全に成り代わる必要なんてない! 頭髪を持って帰るだけなら1日くらい成り代われば済む話だ。その後は自分だけ帰って、元のオクトーとどうとでも入れ替われば良かった。むしろその方が作戦がバレずに済むじゃないか!』
「ぐっ……!」
「じゃあ、オクトーさんは殺されてない……ってこと?」
「ええ、どうやらそういうことになるみたいですわね。その時点では……ですが。ですがその後、あなたがオクトーと完全に成り代わる理由ができてしまった。そうでしょう?」
「あぁ、そうだよ! 全部お前の記憶のせいだ! 肝心の記憶は一切なく、それ以外はほとんど妹や書類の話で一杯。そのせいで新しく出された命令はお前の動向を見張ることに変更された。だから作ってもらった殻をわざわざ身に着け、完全にあいつと成り代わることになったんだよ!」
デモニアの黒い炎はまた燃え上がっていた。
炎に包まれた顔は見えないものの、怒りに満ちた声だった。
マリンは黙ってその顔を見つめている。
『となると、オクトーはその時に殺したのか? いや、でも何かがおかしい……。アタシは何を見落としている……?』
「少し思うところならあるかもしれない。もし今の話が本当だったとして、どうしてマリンさんは何も言わないんだろう……?」
「確かに、あたしが知ってるお姉ちゃんなら既にキレていてもおかしくないわ。でもあんなに冷静なお姉ちゃん、久しぶりに見た……」
『マリンが冷静……? そういえばさっきからマリンは話を聞きつつも、ずっとデモニアを煽り続けている……。あ、まさか……!』
ノエルがそう呟いた瞬間、デモニアは既に黒い炎を燃え滾らせ始めていた。
「もう話は終わりだ……。大魔女が1人増えたところで何も変わりやしない! 俺はお前を殺すためにここに立ってるんだ……!」
「させるかっての!」
デモニアが姿を消した瞬間、サフィアは再度水魔法でリング全体を攻める。
しかし、デモニアには当たっていないようだった。
「そんな! あいつ、どこに消えたの……!」
『あの呪いの力で魔法に当たらないのであれば、さっきダメージを受けた理由に説明がつかない。となると、普通に避けられたんだ! マリン、気をつけろ!』
「くっ、俺の呪いの力でどうにかできれば……!」
「ダメよ、さっき治癒の魔法で治したばっかりじゃない! これ以上無理したら何が起こるか……!」
そんな焦るセリスたちを眺めながら、マリンは実況席から動かない。
セリスたちは動揺し、マリンに声をかける。
「マリン様、どうして動かないんですか!」
「お姉ちゃん、すぐに防御用の水魔法を飛ばすから……!」
「必要ありませんわ」
「え……?」
「わたくしだって大魔女の一角。未知の相手であろうと逃げるような真似は一切しません。正々堂々と正面から受け止めてこそ、最強の大魔女を名乗るにふさわしいとは思いません?」
「言いたいことは分かるけど、今はそういうこと言ってる場合じゃ――!」
マリンは唇に人差し指を当て、セリスたちに黙るようジェスチャーを送った。
そして、言った。
「隠れているくらいなら出てきなさいな。わたくしはここから動きませんわよ? もちろん、わたくしは反撃をするつもりもありません。正々堂々とかかってきなさい、デモニアさんとやら」
そう煽った数秒後、マリンの方から剣を振ったような風切り音がリング中に響いた。
『マリン!』
「お姉ちゃん!」
しかし、マリンは優雅に座ったまま一切動かず、風切り音は鳴ったものの何かが切れる音は響かない。
すると、マリンは溜息をついて言った。
「やはり、近距離武器を使うと思っていましたわ。ですが、残念。その刃はわたくしまで届かなかったようです」
やがてマリンの横から黒い炎がまた姿を現す。
その手にある剣。
さらにその切っ先を掴む別の人影が、セリスたちには見えた。
「あれって……!」
『あぁ、やはり生きていたか。もう1人の……絶対に怒らせてはならない人間が!』
「オクトーさん……!」
サフィアがそう言ったのも束の間、その男は掴んだ剣を指でへし折り、黒い炎をリングの方へと投げて自らも飛び降りる。
目の前に現れたその老人は、セリスたちが殻として見ていた姿と瓜二つだった。
服装、立ち姿、拳の構えまでもがほとんど同じ中、フィンはその中身の大きな違いを感じていた。
「気迫が……全く別物だ。こっちのオクトーさんの方が間違いなく強い!」
オクトーは怒りを込めてデモニアへ向き直り、拳を握りなおす。
そして、言った。
「マリン様の命を狙う不届き者……。このオクトー、一切たりとも容赦は致しません!」




