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プライベートスクール 後編  作者: 北小路 創
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京都幻想紀行 後編

 丹後半島は京都府の北の端に位置する。その海沿いの町、京丹後市丹後町間人でのサッカー部の合宿を終えて、昨日午後四時頃、京都駅に着いた。強化合宿ではなく、リクレーションを兼ねた、三泊四日の合宿で、チームの親睦が主な目的だった。

 京都駅から丹海バスで間人まで四時間足らず掛かるが、直通なので便利が良い。間人には「はしうど荘」というユースホステルも兼ねた宿泊ができる温泉施設があり、ユースホステルを使うと費用も安く宿泊できる。

 午前中は近くの小学校のグラウンドを特別に借りて練習をし、昼からは宿舎の直ぐ横の後ヶ浜で海水浴を楽しんだ。

 最終日は正午に間人を出発するので、午前中、丹後半島の先端にある経ヶ岬まで、路線バスで往復した。途中、山裾が所々に迫り出し、幾つもの小島が点在する、丹後松島と呼ばれる見事な海岸線を一望できるビューポイントがあったり、綺麗な海が見渡せる場所が幾つもあったりする、海岸沿いの道をバスは走っていく。

 経ヶ岬には広い駐車場があり、そこからは白亜の灯台が見える。細い山道を上っていくと、二百何十度も海が見渡せる展望所のある灯台に辿り着ける。

 この行程で丹後半島ならではの風景を楽しむことができた。

 生徒たちも合宿を結構楽しんでいたようだった。植田俊夫もキャプテンとして参加した。

 今回の合宿を丹後で行ったのは、同じ三年生の学年を一年生から一緒に持ち上がってきた小林清和という国語の教員が一度丹後に行ってくれと何度も言っていたからだ。

 小林は五十を過ぎた年齢で、京丹後市弥栄町の山間部で生まれ育ったという。大学に通うのに京都に来て以来、そのまま、京都で生活するようになったが、実家はまだ弥栄町にあり、今でも年に何度か丹後に帰っている。

 春の遠足の足洗の小宴で、たまたま小林と向かい合わせの席になり、飲みながら話をしていた折、部活動の話で、今年もリクレーションを兼ねた合宿を七月の終わりにやると言ったとき、それなら丹後に行ったらどうだと言い、丹後で合宿をどうできるか、詳しく話してくれた。その話を聞きながら、純一は本当に丹後で合宿をしても良いなと思った。その後も、小林と丹後での合宿について、何度か話をした。小学校のグラウンドを特別に借りることができたのも、小林の知り合いが動いてくれたからだった。

 小林は剣道部の顧問だが、自分の部活では丹後での合宿は考えていないということだった。「どうしてですか」と聞くと、「やあー」と言っただけで答えはなかった。

 頑固で融通は利かないものの、本当に素朴で暖かな小林の人柄に、純一は普段から親しみを覚えていた。娘と息子の両方を宇多野高校の特進Aコースに通わせたのにも、自分の職場への愛着と信頼があってのことだと思い、それも小林の人柄によるものだと感じられた。純一が宇多野中高に入った年に、息子は高校二年生で剣道部にも属していた。親に似て、真面目で素朴な生徒だった。

 柳原隆良が総務部長になった最初のときに、副部長として柳原を助けたのも小林だったと聞いている。小林は学年主任になるために、総務部副部長をやめることになったようだが、総務部の業務はよく知っている。

 今日はサッカー部の練習は休みなので、植田俊夫もずっと純一のクラスの教室で勉強している。七月も終わりになり、教室での勉強会も日常化し始めている。

 今回の合宿とか、純一が教室に居ることができない時は、国際Aコース文系担任の茂山紀子が純一のクラスの生徒たちも一緒に面倒を見てくれる。茂山のクラスも半数くらいの生徒が教室で勉強するようになっていたので、茂山が都合が悪い日には純一が茂山のクラスの生徒たちの面倒も見るようにしている。

 茂山は結婚して五年になるが、子供はまだいない。年齢は純一より少し上らしい。ご主人の両親と一緒に生活していることと、ご主人の帰りがいつも遅いので、普段八時まで学校に残っていても問題はないと聞いていた。ただ、日曜日だけは休んでくれるようにと言っている。夏休みに入っても、毎日七時まで、隣の教室で純一と同じように生徒たちを見ている。

 生徒たちには十二時から一時の間に昼休みを適宜取るように言ってある。純一もその時間に昼食を食べる。大抵、朝にコンビニに寄って買ってくる。

 早瀬真奈美がいれてくれたコーヒーを飲みながら、サンドイッチを食べていると、斜め前の席から茂山が声を掛けた。

「この間、補習の後で、池内君と話をしたんですが、少し前まで、考古学的なものに関心があったんだけど、もっと幅広く古代史を研究したいと思うようになってきたって言ってました。その為には古典の勉強が不可欠だと思うようになって、古典の勉強がさらに面白くなってきたんですって」

「あいつ、市川先生の特Aの補習にも出てるでしょ。市川先生が古文も漢文も、池内はかなりのレベルになってきていると言ってはりました」

「ええ。文系のうちのクラスにも、あれだけ古文、漢文ができる子はいないですよ。それに日本史も飛び抜けて出来て、世界史もできる。あんな子、うちのクラスに欲しいですよ。三年生になる時、うちのクラスに移るよう口説いたら良かったですね」

「あいつは数学も物理も化学もできるから、やっぱり、理系だと思ったんですよ」

「数学と理科も、そんなにできるんですか」

「数学と理科は坂崎真吾と谷口昭雄が今、一番できるんですけど、それに近いです」

「坂崎君は国語もよくできますよ」

「坂崎は世界史もできます。谷口はちょっと、文系が弱いかな」

「坂崎君も弱点がなさそうですね」

「あいつね、医学部を目指しているんですが、国公立しかだめだと思っているので、五教科すべてに全力投球しているみたいです」

「池内君が不登校になっていた時、真野先生は随分心配されてたけど、よくここまで持ち直してくれましたね」

「まだ、心配は心配なんですが、今は目標がはっきりしているから、もう大丈夫かなとも思います」

「不登校の原因は分からなかったんですね」

「ええ。本人にもよく分からないらしくて、どうしてなんですかね、なんて自分で言ってましたからね。だから、また、いつ同じ事が起こるとも限らないと思って、心配はしています」

「彼のあんな話し方を聞けば、もう不登校になる心配はないでしょ」

「それなら、いいんですが」

サンドイッチを食べ終わったところで、電話が掛かってきた。茂山が取って、「柳原先生からです」と言って、純一に渡してくれた。

「昨日、合宿から帰ってきたんだよな」

 柳原隆良の穏やかな声が聞こえた。

「夕方前にこっちに着きました」

「今、忙しい?」

「いえ。昼食が終わったところです」

「そしたら、ちょっと、こっちに来てくれないか」

 純一はすぐに三年生の教員室を出て、階段を降り、通路を渡り、本館の二階の東職員室に入った。総務部の部長席に目をやると、柳原が立ち上がって、別室に行こうと合図をした。

 応接室が空いていたので、テーブルを挟んで、ソファーに向かい合って座った。

「この前の運営委員会の後で、副校長と教頭が市川さんと真野さんを呼んで、話を確認したんやな」

「ええ。市川先生がかなり詳しく説明しはりました」

「運営委員会では私が真野さんから聞いた話を伝えて、平林さんが学年主任として見聞きした話を補足した」

「平林先生は大薮さんが京南中学からの五人の生徒を問題があることが分かっていながら、意図的に入学させたと言われたんでしょうね」

「そうやな。結構、きつい言い方をしてたな」

「大薮さんがうちの学校の足を引っ張ることばっかりしてると、平林先生は本気で怒ってはったから」

「二人から話を聞いて、副校長と教頭が大薮さんに直接確かめたということや」

 柳原はそう言って、純一の顔を見ながら、一呼吸置いて続けた。

「北川という生徒の元担任から、少し問題がある生徒だと聞いたことは確かだが、学年主任からは大したことはないし、国際コースに非常に優秀な生徒を送るから、北川も一緒に取って欲しいと言われて了承した。他の四人の生徒に問題があることはまったく聞かなかったと言ったそうや」

「そいうことなら、問題はないんですか」

「いや。それでも、報告は必要や。それで、担任が問題がある生徒だというのはよっぽどのことなのだから、どうして報告をしなかったのかと聞いたらしい。それには、報告する程のことだとは思わなかったと言ったそうや」

「白々しいけど、そう言われると仕方がないですね」

「大薮さんは自分の判断が甘く、結果的にそんな生徒を入学させてしまったことは申し訳ないと思うとは言ったそうやけど、北川以外の生徒のことは知りようが無かったし、国際コースには実際に優秀な生徒が来ていると言ったらしい」

「大薮さんが実際にどこまで知っていたかですね」

「全部知っていて、今年の三年生に居てる大物のワルとその取り巻きも、うちに来させるよう、今年の進路主事と話が出来ている可能性があると、平林さんは運営委員会でも言ってたからな」

「大薮さんがそこまでやるかな」

「それは判らんけど、大薮さんを京南中学の担当から外すことにはなった。代わりに、私がまた京南中学の担当になってしまった」

 柳原は苦笑するように言った。

「そうなんですか。責任重大ですね」

 純一も笑いながら言った。

「それで、早速、荒井という進路主事に挨拶に行ってきた」

「どんな反応でした」

「真野さんから聞いていた、五人の中学の時のことを確かめるような言い方をすると、不愉快そうな顔をして、それはただの噂で、本当のことは分からない、彼らが宇多野高校に推薦して欲しいと言えば、成績も十分だし、噂だけで不利な取り扱いはできなかった。何か、迷惑を掛けているかと、開き直ったような言い方を」

「それで、先生はどう言われたんですか」

「服装がだらしなかったり、教員に食って掛かったり、入学してまだ四ヶ月なのに、いろいろ目につくことはあるとは言っておいた。いじめの件は、微妙な問題があるやろから、言わなかった。そしたら、高校の指導にお任せするので、問題があれば、厳しく指導してやってくれと」

「大薮さんも承知の上で、意図的に問題を持った生徒をうちに送り込んできたという可能性がありますね」

「たまたま、学校の特徴をどう出すかという話になったんで、その時、荒井先生に出身高校はどこかとそれとなく聞いてみたら、西陣高校やった。やっぱりそうかと」

 西陣高校は宇多野高校とは私学のライバル校である。大薮正人の出身校でもある。以前は西陣高校の方が人気の高い学校だったが、宇多野高校で国際コースが発展してからは関係が逆転した。宇多野高校では特進コースもレベルアップし、生徒の数も増えた。それに伴い、中学も発展してきている。私学の学校にとって、生徒を安定的に確保することが至上命令となっている。宇多野高校の発展は、結果的に西陣高校から生徒を奪うことになり、西陣高校にとって、見過ごすことができない問題だった筈だ。

 平林幸三が大薮正人について言っていたことは、必ずしも偏見によるものではないのかもしれないと純一はふと思った。


 柳原から話を聞いた後、今晩空いているなら、久しぶりに柳原の家に一杯飲みに来ないかと誘われた。理科の先輩でもある柳原は純一を飲みに誘うことが時々ある。柳原の自宅にも呼ばれたことが、これまでに何度かあった。

 七時になって、教室に残っていた生徒を送り出し、総務部まで行くと、柳原はすでに帰り支度を始めていた。すぐに席を立った柳原に付いて東職員室を出て、駐車場に向かった。純一は自分の自転車は駐輪場に置いて帰ることにした。

 柳原の家は学校から北の方向に車で十五分程行ったところにあり、金閣寺の近くで、住宅が建ち並ぶ、静かな路地の奥にあった。三階建ての家で、一階は車が二台駐車できる広いガレージになっていて、二階にリビングを兼ねたダイニングと客間があった。

 純一はこれまでのように、大きな座卓のある客間に通された。柳原は鞄を持って三階に上がったが、すぐに降りてきて、純一の前に座った。奥さんがお絞りとグラスを純一の前に置き、柳原の前には缶ビールも二本置いて、キッチンに戻っていった。

「この辺りは静かで落ち着いた、いい所ですね」

 柳原が注いでくれたビールを飲みながら純一は言った。

「もうそこが山裾やからな。ちょっと歩いて出て行っただけで、観光道路に出てしまうけどな」

「小さな都会をちょっと外れると、田舎があるというのは京都の魅力のひとつですね」

「真野さんの出身は大阪やったな」

「ええ。大阪の住宅街で生まれ育ったので、田舎の雰囲気なんて、周りにはどこにもなかったです」

「大阪は大都会やからな」

「今は、京都に来てよかったと思います。京都が、だんだん好きになって来ています」

「学校も、ええ学校に来たと思えてるか」

「生徒も可愛いし、仕事も面白いし、いい学校に来れてよかったです」

「うちの生徒、ほんまに可愛いやろ。素朴で、ひねて無くて、おぼこい感じの子が多い。こいつ、嫌な奴やなと思うような生徒がほとんど居ない」

「そうですね。どうしてなんですかね」

「昔からそうやった。昔はやんちゃな子も多かったんやけど、やんちゃでも可愛かった。今より単純やったけど、ちゃんとした美意識を持っていて、彼らなりにやることに筋が通ってた。気に食わん奴がいたら、ぶん殴ることもしよったけど、今みたいな陰湿ないじめなんか、ほとんどなかった」

「うちのクラスの坂崎真吾なんていうのは、昔の生徒と一緒ですね」

「坂崎というのは、短期留学の直前に、五人を相手に立ち回りをした生徒やな」

「あいつも、可愛い奴ですよ。うちのクラス、本当に可愛い生徒ばっかりで、担任としては幸せです」

「親ばかみたいなもんやな」

 奥さんが、お盆にひとりずつの料理を乗せて運んできた。盛り付けが綺麗なだけではなく、どんな料理もいつも美味しい。今日は五つの皿や小鉢に和風の料理が盛り付けられている。

 純一は今日は昼にサンドイッチをひとつ食べただけだったので、空腹を感じていた。

 最初に、牛肉のたたきに箸をつけた。柔らかいレアの牛肉に、細かく刻んだネギと何ともいえない美味さの酸味のあるドレッシングが掛かっている。

「真野さんのクラスは、生徒さんが毎日遅くまで残って、教室で勉強してるんですってね」

「ええ。クラスの半分以上が残っています」

「生徒もよく頑張るけど、担任も大変ですね」

「いえ。僕は適当に自分の仕事をしながら付き合っているだけですから」

「この人も、早く担任に戻りたいみたいですが、なかなかそういう訳にもいかないみたいで」

「教師はやっぱり担任をしてないと、面白みが半分になる。自分の生徒がいないんやからな」

 純一のグラスにビールを注いでくれながら柳原が言った。

「総務部長の仕事は見るからに大変みたいですね」

「好きなことをさせて貰ってて、文句は言えない。自分がやりたいと思ったことを何でもやらせて貰えるのは有り難いことやからな」

「総務部が今やってることはみんな柳原先生が創って来られたんですよね」

「国際交流については亡くなった、当時の教頭の新井先生から引き継いだ部分も大きいな。国際交流の仕事では女房に助けて貰っているところが結構あって」

「そんなこと、思ってくれてるんですか」

 奥さんが笑いながら言った。

「もちろん、感謝してます」

 そう言って、柳原は頭を下げて笑った。

「海外からのお客さんが結構あるんですよ」

「海外の学校がうちに来たとき、先生とか保護者は教員の家でホームステイしてもらうから、その時にはホームステイをうちの家でも引き受けることになる。年に何回か、一週間とか二週間、大人の外国人が家に居るのは、女房には大変やろなと思う」

「分かってもらってるんですか」

 そう言って、奥さんが笑う。

「長期留学で来ている生徒も、ホームステイ先でトラブルがあって、そこを出て行かなあかんようになったら、次のホームステイ先が見つかるまで、うちに緊急避難的に滞在することになる。酷い時には、ホームステイ先の親父さんが電話してきて、息子との間で何が起こるか分からないので、今日中に出て行かせてくれというようなこともあった」

「国際交流というのはそんなことも含めて成り立ってるんですね」

「見えないところで、結構、いろんなことがある」

 奥さんがダイニングの方へ引き上げて行った。

「以前、うちの学校が入試の失敗から、学力面でどん底になって、学校が荒れた時期のことをお聞きしたんですが、それから、今の状態になるまで、いろんなことがあったんでしょうね」

「そうやな。あの頃、こんな学校になって欲しいと思ってた学校にやっとなり始めた頃に、真野さんらが入って来たんやろな。うちの学校はまだ、少しずつ進化してるからな」

「僕が入ってきてからも、特進コースも国際コースもレベルアップしてます」

「あのどん底の時期から、我々のやっていた進学指導が少しずつ、学校全体に広がり始めるようになって、進学指導が学校に定着し始めた頃、うちの学校でも特進コースを設置するべきだという声が聞かれるようになってきた。特進コースを置いた学校が多くなってきて、その効果が分かってきたから」

「うちの学校に特進コースができたのは、かなり遅かったんですよね」

「組合が徹底的に反対してたからな」

「どうしてなんですか」

「教員の間に、差別化が起こる。生徒の間ではなくて、特進を教える教員と教えない教員の間に差別化が起こると、組合の連中は本気で言っていた」

「ある程度はあるのかもしれないけど、それが問題になることは有り得ないですよね。それに、そんなことを言ってたら、他の学校から取り残される」

「組合は頑として譲らなかったから、うちの学校は取り残された。西陣高校は早くから特進コースをつくっていたから、うちの学校とは大きく差を広げることになった」

「それでも、結局は特進コースをつくることになったんですよね」

「組合に入っていない教員が、教員会議で特進をつくれと頑張った」

「組合に入らない人の方が多いのは以前からなんですね」

「共産党系の組合やから、それだけでも嫌だという人も多い。それに今は、右派の組合もあるしな」

「だけど、組合の人も、組合に入らない人も、全然、仲は悪くないですね」

「それも、うちの学校の特徴やな。教職員の仲がいい」

「柳原先生は組合に入らない人のグループの代表みたいな役割をしてはったとか」

「今は部長や学年主任は校長が任命しているけど、以前は、選挙で選ばれていたから、選挙の前には誰を選ぶか話し合いをしてた。その話し合いの世話役みたいなことをしてたからな。選挙の前の話し合いで、組合の人を選ぶこともあった」

「柳原先生は特進の担任もやられていたんですよね」

「特進が出来て四年目に。第一期の特進の時にも、ちょうど、一年生の担任団の中にいたから、特進を持つように言われたんやけど、特進の担任を自分で持ってしまうと、学年全体の進学指導が出来なくなると思ったから断った。その時、結局、佐伯先生が特進を持ったんやけど、佐伯さんからは柳原先生は上手いこと断って逃げはったと、何度か嫌みを言われた。最初の特進やし、他人には言われへん気苦労があったんやろな」

 佐伯静子は柳原より少し年上の英語の教員だったが、二年前に退職していた。

「第一期特進の成果はどうだったんですか」

「進学実績としては結果的には特進としては大したことはなかったけど、あのクラスにはそれまでのうちの学校にはいなかったような、素晴らしいと思えるような学習センスを持った子が何人か居た」

「その学年を卒業させて、次の一年生で特進を持たれたんですね」

「初めて卒業した特進の結果が、あまり自慢できるものではなかったし、第二期、第三期の生徒の模擬テストの結果なんかも見ていても、安心できるほどのものはなかったから、四年目である程度成果を出さないと、うちの特進は終わりやという、追い詰められた想いがあって、取り敢えず、自分で担任を持とうと思った」

「世間も二、三年は大目に見てくれるが、四年目にもなるとそうはいかない、そんな感じですかね」

「それもあるし、やっとここまで進学指導が軌道に乗って来たのに、この特進で成功しなかったら、学校全体の進学指導もここまでやという想いがあったんやろな。それまでに、かなり時間が掛かってたからな」

「うちの学校の進学指導が岐路に立っていた訳ですね」

「兎に角、特進を持った三年間は必死やった。担任として出来ることやら思いつくことは全部やった。教務部や教科担当者にも無理ばっかり言ってた。文句も言わず、よく協力してくれた」

「僕も、その感じ、ある程度分かりますね。国際Aコースの初めての理系だから、成功させなあかんというプレッシャーがいつもありますから」

「そうやな。期待されてるから出来ることもあるやろしな」

「柳原先生からの期待が一番重いですね」

「学校からの期待を、自分のところで止めているつもりなんやけどな」

「それでも、柳原先生の期待はよく分かりますから」

「まあ、その分、期待以上によく頑張ってくれてる」

「柳原先生の特進クラスは当時としては、結構の成果を出せたんですね」

「今の特進から見たら、大したことはないけど、当時では、自分なりには満足のいく結果やったと思ってた。その前の年も、それなりの結果が上がってたから、それを上回っただけでも成果やった」

「やっぱり、結果ですよね」

「まあ、あんまりプレッシャーを掛けたらあかんから」

「国際Aコースに理系をつくるから、担任を引き受けてくれと言われた時から、柳原先生の期待の大きさを感じていましたから」

「この理系が成功したら、国際コースが一応完成するし、長い間関わってきた進学指導が自分なりに完結する」

「そうか。国際Aコースは柳原先生の長年の進学指導が行き着いた先だったんですね。進学指導と国際コースが融合した、柳原先生の想いがいっぱい詰まったコースなんですよね」

 純一は柳原のひとつの夢が実現するかどうか、そういう場面に立ち会っているのだと、改めて責任の重大さを痛感した。



 教務部が計画する進学補習はお盆前後の一週間を休みにしているが、純一のクラスの勉強会は休みなしに続けている。茂山紀子は純一が休まないなら自分のクラスも休みにせず、自分も出てくると言ったが、茂山には無理矢理に休みを取って貰った。だから、純一は隣の文系クラスの教室に居ることも多い。英単語のテスト用紙は国際Aコースでは文系も同じものを使っているので、純一が文系の教室に居ると、同じようにテスト用紙を取りに来る。

 短期留学が終わった昨年の九月、英単語のテストを放課後にやって欲しいという生徒がいるので始めようと思うが、文系も一緒にどうだというと、茂山はすぐに生徒に案内し、歩調を合わせてくれた。最近はテストの作成でも茂山はよく手伝ってくれるようになっていた。

 国際Aコースでは文系・理系に分かれるのは二年生からなので、文系の生徒も半分は一年生で担任をしている。それに一年生では全員に化学を教えているし、文系には二年生では地学を教え、二・三年生では生物と化学の選択で化学を教えているので、文系の生徒にも自分のクラスの生徒と同じような親しさを感じている。

 これは茂山も同じである。国際Aコースは文系・理系に分かれているが、それぞれのクラスにふたりの担任が居るような思いで、分け隔て無く二つのクラスの生徒たちに接していた。

 純一が自分のクラスの教室に戻るとすぐに、大沢香奈と西村玲子がやって来た。

「先生。今晩、空いてる訳、ないですよね」

 香奈が首を傾げるように、純一の顔を意味ありげに見詰めながら言った。

「いや。特に予定はない」

「本当ですか。恋人と一緒に、大文字を見るんじゃ、ないんですか」

「そう思ったけど、今日は振られた」

 貴子はアルバイト先の家具屋の屋上で行われるビアパーティーに誘われていた。海外からのお客さんも何人か来られると言っていた。

「やった。そしたら、今晩は私たちに付き合ってくれませんか」

「ええけど、何を」

「北大路橋から大文字を見るんです」

 香奈の横で玲子が言った。

「ビブレの横のスタバ、分かりますか」

 純一が頷くと、

「スタバの前に、七時四十分に集合です」

 香奈が言った。

「誰が来るの」

「男子は坂崎君と谷口君と植田君、女子は私と玲子と涼子。芳江も来ます。芳江、最近、元気が無くて」

「分かった。遅れないようにする」

 純一は以前に届いた、桜井芳江からのメールを思い出した。

 私が好きだった人に、恋人がいることがわかったのです。ちょっと、辛いですが、その人の幸せを祈ろうと思います。

 その後も、何度か桜井芳江と顔を合わせているが、愛想良く挨拶をしたり、話し掛けたりしてくれている。

「先生。今日は恋人のことは忘れて、芳江に優しくしてあげて下さいね。私たち今日は早く学校を出ます」

 香奈がそう言うと、ふたりは席に戻って行った。

 六時を過ぎると、残っている生徒の数が両方の教室ともいつもよりかなり少なくなっていた。今日は三十分早く終わりにするからと言ってあった。

 六時三十分になって、生徒たちを教室から送り出して、二つの教室のクーラーを切り、鍵を掛けた。教員室に戻ると、誰もいなかったので、教員室も鍵を掛けて出てきた。

 学校を出て、少し歩いたところで、タクシーがやって来た。乗り込んで、行き先を言うと、北大路通りは混んでるかもしれませんと運転手が言った。

 タクシーは西大路通りに出て、北に上がって行った。車の量は多いが、普通に流れていた。周りはすでに暮れかけているが、正面の大文字山の中腹に左大文字が微かに見えている。しばらくすると、そこにも火が入り、大の字が夜空に浮かび上がることになるが、純一が行く、北大路橋からは見えない。

 金閣寺を過ぎると、道路は右折するように自然に大きく曲がり、南北の西大路通りが東西の北大路通りに変わる。

 北大路通りに入ってすぐの千本北大路の辺りから、車の動きが遅くなってきた。大徳寺を越えて、堀川通りの手前まで来ると、車の流れは止まり、とろとろとしか動かなくなった。これなら歩いた方が早そうだと思い、タクシーを降りた。

 スターバックスの前に着いたのは、七時四十分の数分前だった。大沢香奈たちから聞いていたメンバーはすでに揃っていた。女子は四人とも浴衣を着ていた。普段見ている姿とは違い、可愛い中にも、ちょっと大人の雰囲気を漂わせていた。桜井芳江は目が合うと、にっこり微笑んで、胸元で小さく手を振った。

 八人はひと塊になって、それぞれに話しながら北大路橋に向かって歩いて行った。

「先生、お久しぶりです」

 桜井芳江が純一の横に来て、会釈をしながら言った。

「元気か」

「そうでもないんですが、出来るだけ元気を出そうと」

「勉強の方は捗ってる?」

「うーん。あまり、集中できなくて。机に向かっていても、ぼんやりしていることが多くて」

「補習には出てきてるんやろ」

「うん。でも、私たち、七ヶ月のブランクがあるから、世界史なんか、補習の前にかなり自分で勉強しとかなあかんから、大変ですよ。古文なんかも、まだ、追いつけていなくて」

「その分、英語はおもいきり伸びたんやから、ええやろ」

「私、どうしても英語が話せるようになりたかったから、それが出来るようになっただけでも充分満足してます。それに、AO入試とか、英語と面接だけの入試って結構あるでしょ。世界史と古文が伸びなかったら、それでもいいかと思って。本当はそんなこと思ってるから駄目なんでしょうけど」

「いや。君らは留学経験もあって、英語が出来るんやから、それを武器にすることは当然や。全然悪いことやない」

「でも、三教科型入試にも挑戦します」

「それはそれで、いいことやけど。TOEICのスコアーはどれ位になった?」

「八百五十点です。九百点を目標にしているから、もうちょっと頑張らなあかん」

「何年か前、九百五十五点取った子がいたけど、あれはすごいな」

「今年も九百点を超える人が何人かいると思うけど、私にはちょっと無理です」

 話をしながらぶらぶら歩いているうちに、北大路橋の袂までやってきた。橋の歩道部分は人でいっぱいになっていた。

 橋の右手の奥で、大文字に火が入り始めた。それを見ながら、先頭に居た大沢香奈と坂崎真吾が足を止めた。周りで微かなざわめきが起こった。東山如意ヶ嶽の大文字は八時ちょうどに点火される。

 しばらく見ている間に、火が大の字に広がって行く。厳かで、幻想的にすら見える。お盆に帰ってきた死者の魂を送るための送り火。いつの間にか、桜井芳江が純一の右腕にからだを寄り添わせていた。それが自然に見える程に人で混雑していた。

 橋の左奥に妙と法の文字が広がり始めた。妙は松ヶ崎西山の万灯籠山、法は松ヶ崎東山の大黒天山で入れられた火が夜空に浮かび上がろうとしているのだった。

「私、先生とこんなふうにして、送り火を見れるようになるなんて思っていなかった」

 そう言って、芳江が妙法に目を向けた。純一は何も言えなかった。

「先生に恋人がいるって分かったとき、ショックだったけど、今はもう大丈夫。気持ちの整理ができたから、心配しないでください」

 純一はやはり何も言えず、まだ子供っぽさの残る、清楚でかわいい芳江の横顔を見た。

「先生の恋人って、どんな人」

 芳江は微笑みながら、首を傾げ、純一の顔を見上げるように言った。

「小柄で、かわいい女の子」

「高校生みたいやって、ほんと」

「見ようによっては、君らと同じ歳に見えるかな」

「ふーん。そうなんや。わかった。先生、本当にその人のことがかわいいんやね」

 そう言って芳江は純一に微笑みかけた。

 純一は素直に頷いた。

「私ね。先生に恋人がいても、いいと思うようになった。先生は私たちを生徒としては可愛がってくれるでしょ。それでいいんだって」

「芳江だけではないけど、本当にかわいいと思っている」

「私、これからも、先生におもいっきり甘えるね」

 あどけない仕草の芳江の笑顔を見ながら、純一は何度も頷いた。

 九時前になって、純一の周りにみんなが集まってきた。

「今から、みんなでカラオケに行くんですけど、先生も行きませんか」

 大沢香奈が純一の顔を見て、笑いながら言った。

「いや。カラオケは遠慮しとく」

「そうですよね。そしたら、芳江をお願いします」

「え!」

「芳江はカラオケには行かないんです」

 純一は芳江を見た。芳江は香奈を見て笑った。

「スタバでコーヒーを飲んだら、芳江を送ってあげて下さい。いいですか」

 香奈が真面目な顔をして言った。

「わかった。スタバでコーヒーを飲んでから、送って行く」

「じゃあ、私たちは行きましょう」

「遅くならないように帰るんやで」

「はい。一時間で解散しますから、心配しないで下さい」

 香奈がガイドのように、先頭に立って歩きだした。みんながその後に続いた。

 芳江に目を向けると、笑いながら純一を見て頷いた。


 純一は夕食がまだだったので、スターバックスには行かずに、ビブレの中のレストランに入った。芳江は夕食は済ませてきたと言い、グレープフルーツのジュースだけを注文した。純一はスパゲティーを注文したが、シーフードの入ったトマトソースのナポリタンが意外と美味しかった。

「英語を話せるようになりたいと思ったのには、何か理由があるの」

 芳江が宇多野高校の国際コースに来て、本当に良かったと思っていると言ったところから、イギリス留学の話になっていた。

「小さなときから、ディズニーが大好きだったんです。ディズニーの映画を見ていると、いっぱい夢が広がって、本当に楽しかったんです。もちろん、日本語で聞いていたんですけど、いつか、これって、英語の世界なんだって思うようになったんです。その時、英語が聞けたらなって思ったんです。それから、分からなくてもいいから、全部、英語で聞くようにしたんです。何度も同じ映画を見ていると、そのうち、少しずつ分かるようになったんです」

「それって、何歳くらいのこと」

「小学校の高学年になった頃だったと思います」

「小学生の頃に、そんなこと考えてたのか」

「中学生になった頃に、ディズニー本社で働きたいと突然思ったんです。本物のディズニーと深く関わっていきたい、そんな想いだったのかな」

「ディズニー本社で働くのが芳江の夢なのか」

「でも、今はもうちょっと現実的に」

「自分が多くの夢を与えてもらったように、今度は自分が世界中の子どもたちに夢を与えたい。そんな感じもあるのかな」

「うーん。ちょっと違うかな。私の場合、単純に私だけの問題で、ディズニーの世界に飛び込みたいということだったのかなと思うんです。でも、高校生になって、逆に分からなくなったんです。ディズニーで何がやりたいのか。ディズニー本社っていうのが、ウォルト・ディズニー・カンパニーということだったら、映画の製作やテーマパークの経営を中心に、放送局のABCなんかも傘下に納めるメディア系総合企業なんですね。私、そんなところで何がしたいのか分からなくなったんです。私にとってはディズニーはまず映画の世界だったので、映画の製作に関わりたいのかというとそうでもない。テーマパークの経営に関わりたいなんて全然思わない。そしたら、ディズニーで何をするのか。全然、何もない。子供の漠然とした夢だっただけなのかなと。でも、その時、夢を実現するには、英語を完全に使いこなさなければいけないんだと思ったことだけは、今も消えていないんです。英語がもっと出来るようになったら、また違った新しい夢に出会えるような気がするんです」

「新しい夢って、どんな夢なのかな」

「私にも分からないんですけど、今回の留学でいろんな国の人と話をして、世界って、本当に広くて多様なんだって実感したんです。世界のどこかに、私を必要としてる場所がありそうな気がするんです」

「英語を身につけておいて良かったと思えるような夢に、いつか出会うことになるんやろな。もっと現実的で、具体的な夢。君らはまだ若いもんな」

「先生の夢ってなんですか」

「俺の夢ってなんやろな」

「教師になるのが夢だったんじゃないんですか」

「学生時代、教師になろうなんて、まともに考えたことはなかったけど、実際に教師をやってみて、本当は教師になりたかったのかもしれへんと思うようになった。教師なんて、そんなに面白いもんやないと思ってたけど、想像してたよりずっとおもしろい。生徒はかわいいし、仕事は楽しいし、漠然と思ってた夢みたいなものが、今、実現してるのかもしれへんな」

「そうか。今の先生になることが夢やったんですね」

「そんなこと、考えたことも無かったけど、夢が実現していると思ったら、幸せなことやな」

「それに、かわいい恋人もいるしね」

 そう言って、芳江は純一の顔を見ながらにっこりと笑顔を浮かべた。



 夏休みが終わろうとしていた。明後日の八月二十六日から授業が始まる。明日、勉強会は休みにすることを以前から決めていた。夏休みの最後の日だけでも、ゆっくりと休ませてやりたかった。今出てきている生徒のうち、六人は夏休みの間、一日も休まずに勉強会に参加した。

 純一たち教員は、明日一時から教職員会議がある。純一自身はサッカー部の合宿に参加した日以外、一日も学校を休まなかった。生徒たちが頑張っているのに、自分が休む訳にはいかなかった。生徒たちは本当によく頑張ったと思う。

 純一にはサッカー部の顧問としての責任もあるので、練習には出来るだけ参加しているから、その間は生徒たちだけで勉強しているが、それなりに集中出来ているようだ。今日も午前中はグランドにいた。炎天下の練習なので熱中症になる危険性や怪我の心配もあるので、生徒たちだけで放っておく訳にはいかなかった。

 教員室で食事を済ませて、一時前に教室に戻ると、ほとんどの生徒が勉強に集中していた。

「ちょっと、みんな、顔を起こしてくれるか」

 二時になって、生徒たちが揃っていることを確かめて声を掛けた。

「今日で、夏休みの勉強会は終わる。本当にご苦労さんでした。誰かに強制された訳でもないのに、よう頑張った。学校から帰ってからも、家でまた夜中まで頑張っていた人もいたのも知っている。その頑張りは結果として必ず自分に返ってくる。この夏休みに自分で思っていた程にはできなかった人もいるかもしれへんけど、入試までもう少し時間がある。これから、ラストスパートや。後悔が残らんように頑張ってください。ただし、明日だけは一日、ゆっくりと休んでくれ。休むということも必要なことやから。あさってから授業が始まるから、また、頑張りましょう。担任として、君らの頑張りを誇らしく思っています。以上です」

「先生。有り難うございました。先生が一緒に居てくれたので、僕らも頑張れたんです。先生もご苦労様でした。有り難うございます」

 生徒委員の緒方義男が立ち上がって言った。生徒委員というのはクラス委員長のことで、クラスの生徒の代表だ。緒方にしか出来ない役回りで、こんなことが言える生徒は他にはいない。

 緒方義男も宇多野中学校からの内部進学生で、一年生のクラスの時から、ずっと生徒委員をやっている。

 入学式の前々日に、純一のクラスになる内部進学生と個人面談を行った。男子四名、女子三名の七名で、中学の担任が行ったアンケートで、理系を希望すると答えた生徒を純一のクラスに集めてあった。二年に進級する時に、女子の一名が文系に変更したので、男子四名、女子二名の六名が今も純一のクラスに残っている。個人面談で話をしてみて、個性的な生徒が多いなと思った。その中に、特にしっかりした話ができ、物怖じもしないし、他人の気持ちを思いやれる優しさもあるなと思える生徒がいた。

「あさっての入学式の後のホームルームで、生徒代表として一言、挨拶をしてくれないか」

「いいですけど、どんなことを言ったら」

「今日から高校生になったので、いろんな事に挑戦して、頑張りたいということと、何をやりたくて国際Aコースを選んだのかとか、君が思っていることを、そのままいろいろ話してくれたらいい」

「二,三分でいいですよね」

 当日、ホームルームでの緒方義男の話は、高校生活に対する期待感がよく伝わってくる、素晴らしい内容だった。

 それからしばらくして、クラス委員を決めるホームルームで、緒方が生徒委員に選ばれて以来、クラスの様々なトラブルや課題に対応してくれている。

 特に、昨年の短期留学の折には、生徒間の幾つものトラブルを解決してくれていた。そういったトラブルは、必要に応じて純一に報告してくれるが、大抵は安心して任せておくことができた。場合によっては、教師が出て行かない方が良いこともあるので、緒方義男の存在は純一には有り難かった。生徒たちも、緒方が客観的で、公正な判断が出来ることと、思いやりのある対応をしてくれることを知っているので、よく相談にのってもらっているようだ。

 緒方義男自身は困ったことや判断に苦しむことがあれば、中学生の時からずっと一緒にいる坂崎真吾に相談する。緒方義男と坂崎真吾との間には、互いに強い信頼関係があるようだ。

 五時を過ぎて、純一は一度、教員室に戻った。隣の席には高松昭彦が卓球部の練習が終わって、戻って来ていた。蒸し暑い第二体育館での朝からの一日練習はきついと言った。

「夏休みの最後やのに、気合いの入った練習をしているのやな」

「秋の大会に向けて、今年は生徒も気合いが入っているから、付き合ってやろうと」

「暑い中で、あんまり無理させたらあかんで」

「生徒が熱中症にならないか心配です。休みをこまめに取って、水分補給をさせてますけどね」

「炎天下のサッカーとええ勝負やな」

 体育館のような室内でも、熱中症の危険性は低い訳ではない。

 純一が冷蔵庫の中から麦茶のペットボトルを出して、席に座って飲み始めると、

「昨日の晩、河原町で安永を見たんですよ」

 高松は待っていたように言って、さらに続けた。

「京南中学の例の五人と一緒やったんですよ。僕は西側の歩道を四条通りに向かって歩いてたんですが、反対側の歩道を上の方へ歩いていったんですよ。女の子も二人いて、ひとりは安永と話ながら歩いていました。安永は五人の後ろに付いて行ってるという感じでしたね」

「呼び出されて、脅されたんかな」

「そうでもなさそうでしたよ。女の子と話をして、笑ってましたから」

「仲間に引きずり込まれたということなんかな」

「ちょっと、やばいですね」

「卓球部の練習には出てきてる?」

「このしばらく、出てきてないんですよ」

「連絡はあるの?」

「三日前に一度休みの連絡があっただけで。それも、他の一年生に休むことを僕に伝えてくれと電話して来たそうなんです」

 中島利勝らが安永和幸を仲間に加えたり、卓球部に誘われて安永が部活動を始めたことで、いじめの問題は一応治まったように見えたが、ひょっとして、形を変えて、状況が深刻になっただけなのかもしれないと純一は思った。京南中学の五人が何をやって来たか、教師にも分からないことが多かったのは、それだけ、彼らのやり方が巧妙だったってことなんでしょうねと言った、北川の元担任、高辻中学の中西真由の言葉を思い出した。

「巧妙ですよ。いじめも見えるのは氷山の一角で、教師には見えないところで、その何倍も。ちょっとしたいじめは教師のいないところでは、教室の中でもやりますが、暴行とか金銭強要とかは誰も居ないとことでやるから、被害者本人しか知らない。これは、卒業してから何人かから聞いたことなんです。ある意味では、彼らのやっていたことを、教師が一番知らなかったのかもしれないと思うことがあります」

 以前、中島利勝と話をしていた時、安永が教室からどこかへ連れて行かれることがあったと聞いて、どこで何をされたのかと問いかけると、中島は曖昧に言葉を濁した。純一はその時、あまり気にしなかったが、今から思うと、たぶん、安永が教室外で何をされていたかを中島は知っていたのだろう。

「中島に、安永と話をして、事情を聞くよう言ってみるわ。それと、担任にも一応、報告だけは俺からしとく」

「そしたら、頼みます。中島は真野先生を特別に信頼しているみたいやから」

 高松には一年六組担任の市川智貴と、高辻中学に行った時の話の内容については説明してあった。

 純一は三年生の教員室を出ると、まず、四階の一年生教員室に向かった。今日、昼に廊下で顔を見たので、市川が学校に来ていることは分かっていたが、もう、五時半を過ぎているので、まだ残っているかどうかは分からなかった。

 教員室の前まで来て、ガラス越しに中を見ると、市川は机のパソコンに向かって、何か作業をしていた。

「ちょっと、よろしいですか。短時間で済みますから」

 市川の横に行き、声を掛けた。市川は頷いて立ち上がると、談話スペースに誘った。

 座るとすぐに、高松から聞いた話を説明した。

「どんな事情かは分かりませんが、安永が自分から彼らのところへ行くとは思えないので、呼び出されて、仕方なく付いていったんだと思うのですが」

「安永に何かをさせるために呼び出したんやろな」

「何があったのか、安永から聞かなあかんと思うんですが、教師が聞いても答えへんと思うんです」

「安永は一言も喋らんやろな」

「それで、中島に話を聞くように言ってみようと思うんですが」

「中島にも喋らんかもしれんけどな」

「担任として市川先生が出て行くと、事が大層になるので、今回は僕が心配して個人で動くだけだということにしてもらえますか」

「その代わり、報告だけはちゃんとしてくれるか」

「もちろん、出来るだけ、細かく報告します」

「わかった。そしたら、頼むわ」

 純一は一年生教員室をでると、グラウンドに向かった。中島利勝はまだ、練習をしている時間だった。

 グラウンドに上がるとすぐに、バックネットの横で、野球部部長の飯島が生徒に何か指導をしているのが見えた。周りの生徒が純一に帽子を取って、「こんにちは」と声を出して挨拶をする。近寄って行くと、飯島は純一の方を向いて、何か自分に用事かというような素振りをした。

「練習中、済いません。一年生の中島利勝に、ちょっと話したいことがあるんですが」

「ちょっと、待ってや。おい、中島どこに居る?」

 すぐ近くにいた一年生らしい生徒に声を掛けた。

「レフトで球拾いをしてます」

 声を掛けられた生徒は緊張した表情で言った。

「ちょっと、呼んできてくれ」

 その生徒はすぐに走り出した。

「すぐに来るから、ちょっと、待ってや」

「済いません」

 走って行った生徒が声を掛けると、中島はすぐに走ってきた。

「真野先生がお前に用事や」

 中島は飯島に頭を下げて、純一の方にやって来た。

「練習中、済まんな」

 純一に挨拶をして、中島は笑顔を浮かべた。

「ちょっと、頼みがあるんやけど」

 そう言って、高松から聞いた話の内容を説明した。

「それで、君の方から安永に事情を聞いてほしいと思うねんけど。教師には話し難いことがあるやろから」

「何でやろ。一週間程前に会ったときに、卓球部の練習も頑張ってると言うてよったのに」

「練習を休みだしたのはその後やから、ちょっと前に何かあったんやろな」

「あした、練習を午前中だけで切り上げることが出来ますから、ちょっと会ってきます。この夏休み、何度か、安永の家に行ったんです。立派な大きな家ですよ」

「安永の家で話ができるようになったんか」

「いろんな話ができるようになりました。あいつ、友達と言えるような奴が居なかったみたいで、いろんな話ができるのは僕が初めてみたいです」

 そう言って、中島は嬉しそうな笑いを浮かべた。

「そうなんか。それは安永にとっては貴重なことやな」

「後で、安永に電話して、あしたの予定を確認します」

「そしたら、頼むわ。話が聞けたら、報告してな」

「また、報告に行きます」

「夏休みも終わりやな。野球部は毎日、練習やったんやな」

「はい。今年の夏はどこにも行ってません。先生、化学の授業が始まりますね」

「楽しみにしてくれてるか」

「化学は特別ですけど、高校に来て、いろんな授業が面白くなってきました」

「それは良かった。授業と部活が面白かったら、学校が楽しいやろ」

 中島はまた、嬉しそうに笑って頷いた。


 七時半頃に下宿に戻ると、貴子が純一の机に資料やノート、辞書などを広げていた。昼に電話があったので、どこにも寄らずに帰ってきた。

「お昼は少し暑かったけど、夕方から涼しくなってきた」

 そう言って、貴子は机の上を片付け始めた。

 窓は北向きなので、陽ざしが入ることはない。夜になると、網戸のない開け放った窓から虫や蚊が入ってくるが、広い裏庭から涼しい風も入ってくるから、クーラーが欲しいと思うことはそんなにない。電気蚊取り器はいつも二つ使っている。

「お腹が空いたから、とりあえず、晩ご飯を食べに行こか」

「そうやね。私もお腹空いた」

 部屋を出て、駅前のいつもの食堂に行った。

「論文の作業は捗ってる?」

「うん。この間から読んでいる資料には、知らなかった内容が結構書いてあったから、参考になることが多かった」

「折角、苦労して読んでも、参考にならなかったら仕方ないもんな」

「新しい資料も幾つか、また、見つかったから、ゆっくり読んでいく」

 今日の日替わり定食はトビウオのフライトと刺身が付いていた。店の奥さんが定食のトレイを運んできて、このトビウオは今朝上がったものだと言った。

 レモンを掛けただけで食べる、揚げたてのトビウオのフライはすこぶる美味しかった。城崎でも新鮮なトビウオが手に入るから、よく食べたと言いながら貴子も美味しそうに食べていた。

 しばらくして食堂を出ると、また、下宿の部屋に戻っていた。

「この間、お盆過ぎに城崎に帰ったとき、明宏に会ったの。前に話した従弟」

「お母さんの弟さんの子供で、高校二年生やったかな」

「うん。私が明宏に会ったのは久しぶり。高校生になって、初めてかな。私が帰っているって聞いて、叔父さんの車に乗って付いてきたの。父さんは叔父さんを実の弟みたいに思ってるところがあって、よくふたりで一緒にお酒を飲むの。あの日も、お客さんに夕食を出した後、調理場をお兄さんに任せて、父さんは叔父さんとお酒を飲み始めたの。だから、明宏もうちに泊まることになった。それで、遅くまで、ゆっくり話ができた」

 貴子は窓の外に目を向けて、話を続けた。

「あの子、身長は私より少し高くなったけど、細くて色が白いし、顔が幼いから中学生みたいなの。でも、話をすれば、やはり高校生になったんだなって思った。それに、いろんなこと考えてたんだなって、よく分かった」

「高校二年生っていうのは、自分の世界が出来ていく時期やからな」

「小さな時から、他の子みたいに暴れ回ることが出来なくて、いつも家の中に閉じこもっていて、何度も死にかけて。そんな自分をずっと悔しく思ってきたけど、最近になって少しずつ、何かが変わってきたんだって」

 純一は机の前の椅子に座り、からだを座卓に座った貴子の方に向けて、貴子の言葉の先を促した。

「何度も死にかけたけど、まだ、生きている。無理をしなかったら、普通に動くことが出来る。休みながらでも学校に行ける。友達も居る。親も自分のことをいつも心配して、気に掛けてくれている。親の愛情をいつも感じて育ってきた。これって、本当は贅沢なほどに幸せなことなのかもしれないと思うようになったんだって」

「冨永信二も最近、同じことを言うようになった。明宏君と冨永、よう似てる」

「自分はもうすぐ死ぬんやって、ずっと思ってきたから、死ぬということについて、いろいろ考えてきたけど、死ぬことって特別なことではなくて、目の覚めない眠りみたいなものやろなと最近、思うようになったんだって。だから、死ぬのが恐いとか、嫌だとか思わなくなったって」

「体力的には小さな時よりも、ひ弱さは少なくなってきてるんやろな」

「そうやろね。一年ほど前に腎臓病で入院した後は、特には重い病気にはなっていないみたい」

「まだ、いつ死ぬか分からないとは思ってるんやろうけど、前向きなものが何か少しずつ湧いてきてるのかもしれへんな。冨永信二もちょうど今、そういうところなんや」

「自分が死なずにここまで生きてきたのには、何か意味があるのかもしれないとも思うようになってきたとも言ってた。もし、もう少し生きることが出来るなら、自分にしかできない何かがあるのかもしれないって」

「彼にとっての夢がくつくつ湧いてきたんやろな」

「夢がくつくつ湧くの」

「うん。じわじわじゃなくて、くつくつ」

 貴子は微笑むように純一を見た。

「俺ね。人間って、ほんとに不思議な存在やと思うことがある。生きてることだけでも驚異なんやって」

「不思議という言い方をすればそうね」

「俺みたいに化学をやっていると、生命というのは半永久的な分子運動だと思ってしまう。分子の集まりが分子間の偶然的な力関係で永続的な運動を始めて、それが幾つもまた偶然に重なって、いつか、核酸の複製みたいなことが起こりだした。これが生命の誕生のきっかけやけど、それだけでも確率的には奇跡みたいなことなんやな。バクテリアなんかの細胞ひとつで起こってることはもっと複雑やし、ヒトの細胞が六十兆やとしたら、これが何十年と動き続けて、脳みたいな考えるといった現象まで作り出しているなんていうたら、奇跡以外の何ものではないんや。ヒトという奇跡の分子運動が狂い無く動き続けると考える方がおかしいんで、狂うのが当たり前なんや」

「そういう意味で不思議なんやね」

「ヒトが存在していることが奇跡やとして納得しても、体がほぼ順調に動いていることは偶然でしかなくて、順調に動いてない部分があって当たり前なんや。宇宙の中で、太陽系そのものが無に等しい存在やし、その中の地球の表面で、奇跡の分子運動が無数にあって、その中のヒトのそれぞれの体の動きが正常かどうかなんていうことそのものが、意味のないことやしな」

「だから、生きてることだけでも驚異なんやから、生きてるということを自然に感謝しなければならない。そういう結論になるのね」

 貴子は純一の顔を見て笑った。



 夏休みに一日も休みのない、炎天下での練習は中島利勝にとって、きついものではあったが、野球部の全員が同じように頑張っている。新チームになって、特に二年生の先輩がよく頑張っている。

 今日は夏休み最終日で、昼からは一年生は自主練習になっている。いつもなら、自主練習にも参加するが、今日はみんなと一緒に弁当を食べた後、練習を切り上げた。

 いつもはバスで通学しているが、今日は自転車で来ていた。

 以前、初めて安永和幸と会った公園の北側に、安永の家がある。利勝の家の三倍はありそうな、二階建ての和風建築の大きな家だった。練習を早く切り上げることができた日に、これまで三度、この家を訪ねていた。

「この子、友達があまりいなくて、家では部屋に閉じこもってばかりいるんです。また、時々、来てやって下さい」

 初めて家に上がって、応接間で、安永と一時間ほど話をした後、帰るときに送りに出てきた母親がそう言った。安永は迷惑そうな顔をしたが、その時には何も言わなかった。

 昨日の晩、安永に電話で、学校からの帰りに寄りたいというと、利勝と会うことを嫌がっているような口ぶりで、なかなかうんとは言わなかった。どうしても、会って話がしたいと何度も言うと、渋々会うことを了解した。

 門扉の横のインターホンを押すと、直ぐに安永が玄関から出てきた。

 利勝を家に上がらせると、二階の自分の部屋に連れて行った。机とベッドの間に、小さなテーブルと椅子が置いてあった。この部屋に入るのは初めてだった。子供部屋にしては広かった。クーラーも効いている。

 利勝がテーブルの横の椅子に座ると、安永は一度部屋を出て行ったが、すぐに戻って来た。お盆にグラスとコカコーラのペットボトルを二本載せて持ってきていた。いつもは応接間に入ると、母親が飲み物を運んで来てくれる。

「今日はお母さんは居はれへんのん」

「居るけど」

 俯いてそれだけ言った。

「グラウンドも暑いけど、第二体育館も暑いやろな」

 安永は頷いただけで何も言わなかった。

「卓球部の練習、このしばらく行ってないんやって? どこか、体調でも悪いのん」

 安永は俯いて、顔を横に振った。

「高松先生が心配してはるみたいやわ」

「本当は、あいつらとのことを聞きたいねんやろ」

「え!」

「この前、あいつらと歩いてるところを、高松先生が見てはってん」

「気が付いてたんか」

「河原町の反対側の歩道で立ち止まって、俺を見てはった」

「高松先生が真野先生に話さはって、俺は真野先生から聞いてん」

「たぶん、そうやろと思ってた」

「今日会うのん、なんか、嫌がってたみたいやったな」

「そんなことはないんやけど、あいつらとのこと、どう言うたらええのんか、分かれへんかったから」

「あいつらに呼び出されたん?」

「うん。最初に電話してきたんは木下や。寺町通りのコーヒーショップに居るから出て来いと言われて。もう、いじめみたいなことはせえへんからと言いよった」

「それで行ったんか」

「迷ったんやけど、行けへんかったら、また、何をされるか分かれへんし」

 安永はそう言って、下を向いた。

「行って、どうやったん」

「最初の日は特に何もなかった。これからは仲良うしよと木下が言いよった。その日は俺のコーヒー代も出してくれよった。あの五人に女の子が二人居て、そのうちのひとりが俺のことにいろいろ興味を持ってるみたいに話し掛けたり、質問したりしてた」

「何回くらい、あいつらに付き合ったん」

「おとついの晩で四回目」

「無理やり呼び出されたんか」

「そんなこともない。今言うた女の子が電話してくるようになって、断り難くて」

「その子、かわいいんか」

 利勝は笑いながら言った。安永はちょっと恥ずかしそうに頷いた。

「それやったら、今のところ、心配することはないんやな」

「うん。そやけど、何で俺をわざわざ呼びだすんやろ。俺が居たら、あいつらにとっては邪魔やろと思うんやけど」

「俺らが安永を仲間にしたから、それがおもしろなかったんかもしれへんな。安永を自分らのものにしておきたかった。それに、俺らへの嫌がらせもあるかもしれへん」

「三回目に付き合った時、女の子たちが先に帰った後で、俺の肝試しやというて、万引きをさせられた。ヒャッキンで小さな品物を三つだけでいいから、万引きしてこいと言われた。もし、いややと言うねんやったら、これからもじっくりいじめたると冗談みたいに笑いながら言いよった」

「それで、ほんまに万引きしたん」

「ほんまに俺がやるかどうか、見届けるのに、荒川と安本が付いてきよったから、仕方なしに、あいつらが見てる前で、キーホルダーやらポケットに入れたんや。それで、レジの前を通るとき、こっそりと五百円玉をカウンターに置いて出てきた。最初からそうしようと思ってて、左のポケットに入れといてん。そやから、本当は万引きになってないんやけど、あいつらには見つからへんかった」

「あいつらはお前に万引きをさせたと思てるんやな」

 利勝が笑うと、安永も俯きながら笑った。

「これで、お前もワルになったんや。感想はどうや。木下が俺の顔をのぞき込むように見ながら言いよった」

「何かの時に、お前を脅すネタになると思てるんやろな」

「これから、また、何かさせられるかもしれへん」

「まだ、あいつらと付き合うんか」

「仕方ないやろ。呼び出しに応じひんかったら、何をするか分かれへん」

「そやけど」

「もう、俺に関わらん方がええと思う。君らに迷惑を掛けるだけや」

「卓球部の練習に行けへんようになったんは何でや」

「卓球部に迷惑を掛けたらあかんと思って。みんな、俺のためにいろいろやってくれてるのに、それを裏切ることになったらあかんし。この前の万引きは未遂やったけど、次はほんとに悪いことをしてしまうかもしれへん」

「それやったら、あいつらと付き合わんでええように、何とか考えよ」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、君らに迷惑は掛けたない」

「その女の子が誘いの電話をしてくるから断り難いと言うたけど、その子には会いたいのん」

 安永は俯いて頷いた。

「ほんなら、その子には事情を話して、別に会ったらあかんのん」

「ゆいちゃんはあいつらと一緒でないと、俺には会えへんと思う」

「そうなん。ゆいってどんな字を書くの」

「結ぶに衣。大島結衣っていうんねん」

「高校生なん?」

「京南中学の三年生」

「ほんなら、あいつらのことをよう知ってるんやな」

「あんな奴らやと分かって付き合ってると思う。そやけど、あいつら、結衣ちゃんにはすごく親切やし、特別にあつかってる。もうひとりの子とは対応が違う」

「可愛いからなんか」

「俺も最初はそうかと思たんやけど、何か違うみたい。あつかいが丁重というか」

「そうなん」

「結衣ちゃんは頭もええし、学校の成績もすごくええらしい。特に英語が良くできるって、あいつら言ってよった。特別扱いするのには、それもあるかもしれへん」

「とにかく、あいつらともう付き合わんようにする、ええ方法を考えよ。ほんまに、悪いことをさせられたらあかんしな。その子と一度、話してみたらどうなん」

「俺が勝手に結衣ちゃんと会ったりしたら、何をされるか分かれへん。それに、結衣ちゃんにもあいつらとの付き合いがあるやろし」

「うーん。そうか。まあ、もうちょっと考えよ」

 安永の家を出るとき、いつものように母親が送りに出てきた。

「今日は男同士の話があるから、母さんは出てこんといてなんて言うもので、失礼しました」

「いらんこと、言わんといてえな」

 安永は母親の言葉に迷惑そうな顔をした。

 利勝は自転車で自宅に向かいながら、今の話を真野にどう報告しようかと考えていた。


 夏休みが終わり、授業が始まった最初の日の終礼が終わるまでの間、北川と木下が安永にどんな態度を取るのか、利勝はずっと気になっていた。昼休みには、中野栄一たちを呼ばずに、敢えて、安永をひとりにさせておいたが、北川と木下は安永に関心がなくなったかのように、安永の方を見ることもなく、教室から出て行って、授業の始まる直前まで戻って来なかった。その間に、野村宏樹が安永としばらく話をしていた。おそらく、卓球部の練習に来なくなったことについて、野村が理由を聞いていたのだろうと思う。終礼が終わった後、野村がひとりで教室から出て行ったので、安永は今日も卓球部の練習には参加しないのだろう。

 安永が帰り支度をして、教室を出たので、利勝はその後から付いていった。階段を降りて、一階の玄関の近くまで来て声を掛けた。

「今日は、あいつら、何もしよらへんかったな」

「うん」

 安永は利勝の方を見て頷いた。

「野村には部活休んでる理由を聞かれたんやろ。どう言うたん」

「ちょっと、疲れてしんどいから、しばらく休まして欲しいというたら、それやったら、高松先生に言いに行っとけと言うとった。高松先生も心配してはるって」

「卓球部の練習には参加した方がええと思うで」

 安永は俯いた。

「この後、真野先生と話をしよと思ってんねんけど、安永はあいつらに呼び出されて、何回か付き合ったけど、今のところ特に問題はないと言うとくわ。結衣ちゃんのことは今日は黙っとくし。それくらいやったら、言うてもええやろ。万引きのことは未遂やから言うてもええやろ」

 安永は利勝の顔を見て、頷いた。

 玄関で安永と別れて、二階に上がって、三年生の教員室の前まで行くと、廊下を歩いてくる真野が見えた。

 利勝が挨拶をして、

「今、ちょっといいですか」

 と言うと、真野は教員室に誘い入れ、談話スペースに連れて行った。

「昨日、安永に会えた?」

「最初は会うのを嫌がってたみたいやったんですが、会ったら、いろいろ話してくれました」

「そうか。それで、どうやった」

「やっぱり、あいつらに呼び出されたみたいです。もう、いじめみたいなことはせえへんからと言いよったらしいです。迷ったけど、断ったら、何されるか分からへんから行ったそうです」

 真野は話の先を促すように利勝を見た。

「最初の日は特に何もなかったそうです。これからは仲良うしよと木下が言って、その時はコーヒー代も出してくれたそうです。四回、あいつらに付き合ったみたいです」

 三回目に、万引きをさせられたことを、安永から聞いたままに説明した。

「その時は未遂で済んだんですけど、次は悪いことをほんとにさせられるかもしれへんと安永は心配しています。そうなったら、卓球部に迷惑が掛かるから、練習にも行かないでいると言ってました。それに、何で自分を呼び出すのか分かれへんと思てるみたいです。今のところ、万引き以外には、嫌なことはされてへんし、あいつらにとって、自分を呼び出すことに何か意味があるとは思えないと安永は思っています。だから、これから、何かをされるのかと心配しています」

「そうやな。安永が何かをさせられてからでは遅いな。せっかく、君らのお陰でいじめが無くなって来たのに、これからは、学校の中でのいじめやなくて、呼び出されて何かをやらされる可能性があるわけやな。万引きでも警察沙汰になったら大変やしな。いつも、五百円を置くようなことができるとは限らんからな」

「あいつらからの呼び出しは、なかなか断ることが出来ないみたいで」

「断ったら、何をされるか分かれへんからか」

「そうですね」

 結衣という女の子のことは言わなかった。

「あの五人に直接、注意を与えるのは簡単やけど、安永が告げ口をしたみたいになったらまずいからな」

「僕も先生にどう言うたらええのか、だいぶ迷ったんですが」

「今のところ、万引きのこと以外には、実際に何も問題はなさそうやしな。万引きのことも、冗談で言ったら、安永が本当にやってしまった。本当にやるとは思わなかったと言われたら、それまでやしな」

「そうですね。それに、安永を呼び出すなともいえませんよね。木下と北川は少なくても、クラスメートやし。クラスメートと遊んで何が悪いと言いますよね」

「何かあってからでは遅いけど、今はまだ、教師が介入せえへん方がええやろな」

「僕もそう思います。安永は僕やから話してくれたんで、先生は何も知らない方がいいのかもしれません。今回は安永があいつらといるところを、たまたま高松先生が見はったから分かったということやったし、真野先生にも頼まれたから僕も報告したんですが」

「確かに難しいところやな。俺ら、教師は、知ってしまったら、何もしない訳にはいかないというところがあるからな」

「でも、今のところは何もしないで下さいね」

「安永も君を信頼して話をしたんやろしな」

「安永ね。高松先生に見られていたことに気がついていましたよ」

「そうか。高松先生は安永が気がついてなかったと思てはった」

 真野はそう言って笑った。

「真野先生は誰かに、この話を報告されますか」

「高松先生と担任には報告せなあかんけど、呼び出されて、彼らに付いていったけど、今のところ問題はないと言うとく。特に君らの担任の市川先生は責任感の強い人やから、安永に何かあったらあかんと思いはるやろから」

「先生も、僕から何も聞かなかったことにしてください」

「わかった。ただ、安永にほんとに何かあったらあかんから、時々、安永から話を聞いて、俺に報告してくれるか」

 利勝はどこまで話をして良いか分からなかったが、真野にならこれくらいなら話しても良かったかと思う。



 夏休みが終わって、一週間が過ぎ、九月に入っていた。真野純一にとって、昨年のこの時期はアメリカ短期留学から帰ってきたばかりで、ほっとした気持ちの中に、疲れがまだどんと残っていた頃だった。今年の二年生の国際Aコースの生徒たちも、三ヶ月の短期留学を終えて、昨日から登校して来ている。国際Bコースの生徒たちは逆に、八月の終わりにイギリスに向けて長期留学に出発していた。

 昨年、アメリカへの短期留学に出発するまでは、それに向けての準備に追われ、慌ただしい日々が続いたが、留学中は生徒たちを掌握しておくだけでも、気が休まる時間はなかった。それに、思いがけないトラブルが時として発生した。先日、アメリカでの短期留学を終えて帰ってきたばかりの担任たちとは、まだゆっくり話をしていないが、同じように大変な三ヶ月だったと思う。

 これから、三年生に向けて、進学の指導を進めて行くために、やらなければならないことが山積みされていると思った一年前の状況を振り返って、やれることは全てやって来たのかどうか、必ずしも自信はなかった。

 あれからの一年、いろんなことがあったと思う。

 今日も放課後の教室で勉強を続ける二十名ほどの生徒たちを見ながら、一年前のことがふと思い出された。

 今、後ろを向いて話し掛ける大沢香奈に微笑みながら答えている藤原良美が大きな悩みを抱え始めたのもその頃だった。

 藤原良美は大沢香奈や西村玲子、玉木涼子、田中優奈と仲の良いグループとして、よく一緒に行動している。その良美にとって、辛い時期に四人が傍にいてくれたことは救いだったに違いない。

 純一が初めて、良美の家庭の事情を知ったのは、昨年の九月の中頃だった。良美の母親が学校に純一を訪ねて来た。

「あの子が私たちと血が繋がっていないことを、一週間前、話しました。あの子は生まれてしばらくして私たちのところにやって来ましたから、この間まで、そのことを知らずに育ったんです。この一週間、あの子に変わったことはありませんでしたか」

 純一は良美の様子を思い浮かべ、そう言えば、いつものように笑わないし、考え込むような表情をすることがあったが、特に気になる程のことはなかったと答えた。

「私たちには子供が出来ないことが分かっていたのですが、どうしても子供が欲しかったので、養子縁組目的の里親として登録していました。数か月後、実の親が育てられない子が、2か月後に生まれるが、受け入れるかと打診があったんです。当時、主人の仕事の関係で、名古屋の近くに住んでいたんですが、これは愛知県の独自のやり方なんです。あの子が生まれた翌日、産院の新生児室で対面したんです。実の親のおなかにいた時から誕生を待っていたので、自分で産んだ子のような気がして、感激で、涙がこぼれました。それ以降、これまで、私たちはあの子を本当の我が子と思って育ててきました。名前も私たち夫婦で付けました。心が善良で美しい子でいて欲しいと。半年後、特別養子縁組を申請し、法的にも実の親子になりました」

「実の母親は健在なんですか」

「私たちが居た、名古屋の近くの町で、別の男性と結婚されたそうです。ご主人との間に、息子さんがひとりいます」

「実の母親が良美さんを育てられなかった理由はご存じなんですか」

「妊娠しているのが分かっているのに、父親は別の女と失踪してしまって、母親はうつに近い状態になっていた。一言で言うと、そんなことだったようです。ふたりは結婚はしていなかったそうです」

「良美さんは産みの親と会いたいと思えば会えるのですか」

「私たちはかまわないと思っています」

 母親との話の内容はそのようなものだったが、良美を大切に可愛がってきたことは、言葉の端々からもよく感じ取れた。

 それから、ひと月ほど経った頃、母親から電話があって、良美が実の母親と会ったことを聞かされた。

 しばらくして、良美と話をする機会を作った。学校の近くの喫茶店に良美を誘った。

「お母さんから、君を産んだ母親に会ったことを聞いたんだけど、どうだった」

「私はこの人から産まれたんだって思っただけで、あまり何も感じなかった」

 それはそうだろうと思う。この間まで、考えもしなかった実の母親という存在が急に現れたからといって、それが自分と何の関わりがあるのか、実感として感じられなくて当たり前だろう。

「私には今のお父さんとお母さんが居てくれるだけで十分なんです」

「産みの親が別に居るなんてことは知りたくはなかった?」

「知らなくて済むなら、知らない方が良かったと思います。でも、いつか、知ることになる訳だから、お父さんもお母さんも、今が一番いいと考えたんだと思います。私が冷静に受け入れることができるようになったと判断したんだと思います」

「実際に、冷静に受け入れることができたの」

「最初、聞いたときは、しばらく何も考えれなかった」

「ショックやったんやろな」

「これを話したからといって、お前と私たちの関係は何も変わらない。ずっと、本当の娘として育ててきたし、これからもそうだ。お父さん、何度もそういったの。それで、何日か経って、確かに何も変わってないんだって思った。そしたら、少し気持ちが落ち着いてきたんです」

「冷静に受け入れることができたということやな」

「私が取り乱したら、お父さんにもお母さんにも悪いんだって、そんな気がして」

「君を産んだお母さんからはいろいろ話は聞けたの」

「なぜ、私を自分で育てられなかったのかを説明してくれました」

 良美はそう言って、自分を産んだ母親から聞いたことをゆっくりと話した。

「あの人は岐阜県の高校を卒業すると、名古屋の印刷会社で事務の仕事をすることになったんです。高校の一年先輩に好きな人がいて、その人が名古屋の大学に行ったので、追い掛けるように名古屋に就職先を見つけたんです。あの人は小学校の三年の時に、両親を交通事故で亡くしていて、伯父さんのところに世話になったんですけど、あまり裕福な家庭ではなかったし、ひとつ年上とふたつ年下の娘がいて、時々いじめられたりしていたから、高校を卒業したら、家を出たかったそうなんです。名古屋の大学に行った人とは交際が続いていて、その人からも名古屋に来るように言われたそうです。就職して二年目に、同棲のような生活を始めて、一年ほどして、妊娠してしまったんです。相手の人は子供を堕ろすよう何度も言ったそうです。あの人は、その時はその人の子供が産みたくて、堕ろすことを拒否していたそうです。その人ももう少しで卒業だし、名古屋での就職が決まっていたから、何の問題もないと思っていたそうです。ある日、その人が、俺はお前と結婚する気はないし、お腹の子供を俺の子と認める気もないと言ったそうです。信じがたい言葉だったそうですが、その人はそのまま、出て行って、帰らなくなったんです。後で分かったそうですが、その人はその時すでに、同じ大学の女子学生と深い仲になっていたんです。その女子学生は製薬会社の社長のひとり娘で、お祖父さんがその会社の創設者だったそうです。あの人は、お腹が段々大きくなるに従って、裏切られて捨てられたという思いが強くなり、精神的に落ち込んでいったそうです。その頃、会社もよく休むようになり、いろいろ理由をつけて解雇を言い渡されたこともあり、更に精神的に追い詰められたそうです。何度も死のうと思い詰めたそうですけど、お腹の子供のことを思うと、死ねなかったそうです。そんな時に、元の会社で仲良くしていた人が訪ねて来てくれて、愛知方式という新生児を託す養子縁組で、妊娠中から仲介の相談を始める愛知県の取り組みがあることを聞かせてくれたそうです」

 良美は俯いたままで、呟くように話した。

「そのお母さんが、今のご両親に君を託さざるを得なかったのはよく分かるな」

「あの人が私を手放すときに、本当に苦しかったことだけは分かりました」

「君が今、少なくても幸せに暮らせていることを思うと、そのお母さんの決断は間違いではなかったと言えるかもしれんな。それに、いい両親に育てられたことを、感謝すべきなのかもしれへん」

「これまで、当たり前やと思ってたことが、本当はそうじゃなかった。私、自分のことをどう考えたらいいのか、まだ、よく分からないんです」

「両親と血が繋がってないといきなり聞かされて、育ての親に感謝するなんてことを考えることそのものが出来る筈がないよな。だけど、客観的に考えて、君は不幸ではないし、これからも幸せに暮らしていけるのやから、今まで通りにしてたらいいんやと思う」

「この一ヶ月少しの間に、いろいろ考えたけど、生活は何も変わってないし、お父さんもお母さんも以前のままで変わらない。それは私にとって、有り難いことです。話を聞いたすぐは、自分がなくなってしまったような不安というか、耐えられへんような何か訳の分かれへん想いが心の中に湧いてきてどうしようもなかったんですけど」

「君がどう思うか、どう考えるか。毎日、君の顔を見ながら、お父さんもお母さんも、すごく気を使っておられるんだろうけど、気を使ってることを見せないために、本当に神経を細やかに働かせておられるんやろうな。君も、やっぱり、そうなんじゃないのか」

「私の場合は、今まで通りに振る舞うんじゃなくて、自然にしているんです。ひとりになりたいときはひとりで居るし、お母さんとかに聞きたいことは何でも聞くことにしてるんです」

「確かに、あまり気を使わずに、自然にしているのが一番いいのかもしれん」

「あの人に会うかどうかも、自分で決めたんです。会いたいわけではないけど、自分の気持ちを整理するのに、一度、会った方がいいような気がすると、お母さんに言ったんです。お母さんはあの人に、一年に一度くらい、私の様子を手紙で知らせていたそうです」

「君を産んだお母さんも、そうやって、遠くから君をずっと見守ってはったんやな」

「あの人も、自分が落ち着いてから、私に会いたいと思ったけど、私たちの生活を壊してはいけないと思って、ずっと、我慢してきたと言ってはった」

「今やから、一応、冷静に受け止めることができたのかもしれんな。もっと小さな時やったら、どんな反応になったか分かれへんな」

「私、ぐれてたりして」

 良美はそう言って、笑った。

「君は意識してなかったと思うけど、ある子供から見たら、夢のような家庭で育ったんや。それがある日、すべてが幻やったと知らされた。だけど、本当は幻ではなくて、現実に夢のような家庭がそのままある。そこが、君にとって、一番幸せなことや」

「夢のような家庭か」

「そうやろ。反対に、地獄のような家庭で育ってる子もいる訳やからな。酒びたりの父親が母親に暴力をふるい、子供を虐待する。離婚した母親から虐待される子供もいる。ののしり合う両親。男とゆくえをくらますために子供を捨てた母親。いろんな不幸な家庭がある。少なくとも、今まで、夢のように幸せな生活を送れたことだけでも、何かに感謝せなあかん」

「女とゆくえをくらますために子供を捨てた父親が、私の実の父親やった」

 そう言って、良美は笑った。

「済まん。例えが悪かった。実の父親のことは、何か分かってるの」

「あの人を捨てて、製薬会社の社長のひとり娘と結婚したそうです。少し前、その人は会社の社長に納まったんですって」

「その人とも会ってみたい?」

「少なくても、今は会いたくない」

「自分を不幸やと思うか、幸せやと思うか、考え方ひとつやろなと思う」

 純一は良美は多分、大丈夫だろうと思った。自分が両親から愛されていて、幸せな生活が送れているのは両親のお陰だと考えることが出来るくらいには大人になっている。自分を産んだ母親が自分を捨てたのではなく、両親に託したとも思えるし、その理由も理解できている。

 純一は一年前にそう思ったことを思い出していた。この一年の間に、何度か良美と話をする機会があったが、家庭内の状況が以前と変わらない関係に戻って行っていることが話から感じられていた。


 北野天満宮の東にある焼鳥屋に来ていた。八時に生徒たちを送り出して、学校の前から柳原隆良と一緒にタクシーに乗った。放課後に一度総務部の席に寄ると、柳原に声を掛けられた。今晩、何か予定はあるかと聞かれ、特にないと答えると、ちょっと、話したいこともあるから、外での夕食に付き合わないかと誘われた。

 ジョッキーで生ビールを飲みながら、何種類かの串の焼き鳥を食べていた。

「家で食事にありつけないんで、このしばらく、毎日、外で食事をしている」

「奥さんはどうされたんですか」

「今、女房の調子が悪くて」

「病気なんですか」

「原因の中心は更年期障害なんやけど、他にもいろいろあって」

「この前、お伺いしたときには、そんな様子は全然なかったように思ったんですが」

「ちょっと前から症状が酷くなったみたいやな。今はあまり、口もきいてくれへん」

「奥さんの、そんな状態は想像しにくいですね」

「女房が一番辛いやろけど、俺も辛いな。話ひとつするのにも、女房の顔色を窺いながらやからな。女房が普通に機嫌良くしてくれてることが、どれだけ有り難いことかがよくわかる。たまに、普通に話し掛けてくれたら、それだけで嬉しくなる」

「それは、奥さんのことを大事に思ってはるからなんでしょうね」

「大事に思ってるというより、惚れてるんやろなと思う。俺が何か言うて、女房が微笑んでくれたら、ほんまに幸せな気分になる。恋する中学生みたいやな」

「結婚して何年になるんですか」

「三十年かな」

「結婚して三十年経った奥さんに、惚れていると言えるのは幸せですね。お子さんがおられないということもあるんでしょうね」

 カウンターの前に八人ほどが座れる席があり、奥に小さな座敷があるだけの店だった。純一たちは奥の座敷を使っていた。食べるのに合わせるように、少しずつ、若い店員が店の主人の焼いた串を持ってきてくれる。すべて、塩だけで焼いてもらっているが、すこぶる美味い。ビールのジョッキーも二杯目だった。

「例の中学のことやけどな。ちょっと、複雑な事情があるみたいや」

 柳原が少し声を落として言った。純一は柳原を見ながら小さく首を頷かせた。

「二年ちょっと前に、大薮さんがあそこを担当するようになる前は、僕の担当校やったから、担当者を元に戻しただけなんや。今度、また担当することになって、あの五人が入学してきた本当の状況を確認せなあかんと思って、ちょっと、動いてみたんや」

 京南中学の大薮正人の前の担当者が柳原だったことだけは純一も聞いていた。

「柳原先生にはあそこに知り合いがいるんですね」

「僕があそこを担当してた時、進路主事やった山中先生は去年まであそこで進路主事をしてはった」

「昨年度の進路主事やったんですか」

「だから、ちょっと、意外やった。進路主事は学年主任以上に三年生の進路指導の中心やからな。あの先生が進路主事やったのに何でやと思った。僕があそこを担当してた間、ずっと山中先生が進路主事やったから、年に何度も会ってた。わりと馬が合うと言うのか、何でもざっくばらんに話ができたから、問題を持った生徒をうちに送るようなことは考えられへんかった」

「何か事情があったんですね」

「今年はあそこから他へ移りはったから、いろいろ、あそこの話が聞けた」

 昨日の晩、山中卓也と食事をしながら話をしたと柳原は言った。純一は話の先を促すように柳原を見た。

「二年前の夏、あそこのラグビー部の二年生が、校舎の屋上から飛び降り自殺をした。名前は大島正幸。キャプテンをやってた。顧問は学年主任でもあった荒井先生やった。自殺の原因についての調査はされたものの、原因は特定されないまま、うやむやになったらしい」

「親は何も言わなかったのですか」

「父親はいなくて、母親がひとりで、二人の子供を育てていたということで、ひとつ年下の妹が一年生やった。母親はちょっと変わった人で、自己主張というものがまったく出来ないらしい」

「それなら、泣き寝入りですね。原因は学校生活の中になかったんですかね」

「大島は荒井に殺されたという噂があったらしい」

「ラグビー部での体罰ですか」

「練習中に、みんなの前で罵倒されたり、正座をさせられて殴られたり、ひとりだけ無茶なトレーニングをさせられたりというようなことがあったらしい。それに加えて、もっと大きな原因があったようやと、山中先生は思ってはるみたいや」

「もっと大きな原因って、何なんです」

「それは山中先生も言わはらへんかった。あいつらはそれを知っていると思うとは言いはった」

「あいつらって、あの五人ですか」

「元々、彼らはラグビー部やったんや。大島君が亡くなってしばらくして、八人の二年生がラグビー部をやめた。その八人が問題行動を起こすようになった。学校と荒井先生を困らせることが目的やったんやと、後で思うようになったと山中先生は言ってはった。その八人は、それまでは、ちょっとやんちゃやけど、普通の子やったそうや」

「彼らにそんな背景があったんですか」

「彼らの問題行動は荒井先生や何もしてくれなかった学校への仕返しやったのかもしれへんと、山中先生は考えてはる」

「そうなんですか」

「彼らが中学のときにやってたことは、とんでもない行動やったみたいに言われているけど、どこまで実際にやったことか判らないそうなんや。ナイフをちらつかせて、教師を脅したという話が広まったけど、嘘やったことが分かってるそうや。そういう作り話を面白可笑しく言いふらせて、それが噂として広がって行ったということもたくさんあったような気がすると山中先生は言ってはった。逆に、実際にやったことは、巧妙に隠れてやっていて、卒業してから被害者が教員に話したことで、分かって来たこともあるそうや。だから、彼らが三年の終わりまで、どんなことをしてきたのか、教員は確かなことは何も分かっていなかったというのが実際やったそうや」

「それやったら、僕らが聞いてる、彼らの中学での行動も、本当かどうか分からない訳ですね」

「そうやな。ただの噂だけやったかもしれへん」

「荒井先生と大薮さんの間で、何かの了解事項が有ったという話については、何かお聞きになりましたか」

「ラグビー部をやめた八人は大島君が自殺したのは荒井先生の行為が原因だと思っていて、学年主任でもあった荒井先生を困らせるために、いろんな問題行動をやるだけでなく、今から考えると、荒井先生を脅していたんやないかと思えるところもあったと山中先生は言ってはった。あの五人を宇多野に推薦してやると言ったのも、荒井先生が大薮さんにうまく頼み込んだと思ってはった。大薮さんが荒井先生の西陣高校の後輩だと言うと、そうやったんかと納得してはった。問題行動をいろいろ起こしながら、高校進学に差し障りがないようにするため、荒井先生を脅していた。それで、荒井先生は大薮さんとの間で、うまく話をつけたんやな」

 以前、一年生の学年主任の平林幸三が「あいつは自分が卒業した学校に帰りたがっているんや。うちの生徒をかわいいとも思ってないし、うちの学校なんかどうでもいいとしか思ってない」と言った言葉を思い出した。高辻中学に移動した北川の元担任の中西真由が大薮に問題を持った生徒だと言ったにも拘わらず、それを無視して、五人を推薦で受け入れたのには、高校の先輩からの頼みを断れなかったというだけではない、何か隠された事情があったのだろうと純一は思った。

「今の三年生にいる大物のことについては何か分かりましたか」

「彼らを陰で操っていた生徒がいると言われているけど、山中先生も、それが事実かどうか分からないらしい」

「彼らが意図的に流した偽情報のひとつだとか」

「山中先生は噂として名前のあがっている生徒はいるとは言ってはった」

「その生徒が本当にそうなのか、確証がないということなんでしょうか」

「そこはよく分からんけどな」

「あの五人、ひょっとして、本当はまともな生徒なのかもしれませんね。平林先生は前から、かわいいところのある生徒やと言ってはるんです。友達を自殺に追い込んだ教師と学校の対応を許せなかっただけなのかも」

 高校に入ってからの彼らの行動も、今年、京南中学で進路主事になった荒井を困らせるためなのかもしれないと純一はふと思う。



 文化祭準備のため、五十分の授業が四十分に短縮されていたので、いつもより六時間目が終わるのが一時間早くなっている。終礼が終わって掃除の確認を済ませた後、教員室に戻ると、一年六組の担任、市川智貴から電話があったということで、戻ってきたら電話を欲しいということだった。

 純一は電話をしてから、すぐに一年生の教員室に上がっていった。

「すまんな。忙しいやろに」

「いえ。大丈夫です」

「この前、真野さんから報告をもらった後、安永の母親に電話しておいたんや。うちのクラスの、ちょっと問題を持った生徒たちに、街へ何度か呼び出されて付き合わされている。今のところ、それ以上に問題はなさそうだが、少し気をつけて見ていて欲しいとだけ言うといた。そしたら、今日の朝に母親から電話があって、彼の銀行の口座から、三十万円が一週間ほど前に引き出されていることが分かったそうや」

「使い途は」

「最初、母親がなんぼ問い詰めても言わへんかったそうやけど、最後に、友達が困ってたから貸したとだけ言ったらしい」

「三十万というのはちょっと大きいですね」

「友達に貸すというのは、恐喝されて取り上げられたということやろ」

「その可能性もありますね」

「昼休みに応接室に呼んで聞いたけど、何もしゃべらへん」

「恐喝されたんなら、安永はあいつらに監視されてると思ってるでしょうね」

「応接室に呼ぶのも、あいつらがいなくなってから、中島に伝えてもろたりして、気は使ってるつもりやけどな」

「それで、どうされます」

「放っておく訳にはいかんけど、今の段階で生徒指導部に持っていっても、仕方ないしな。やっぱり、中島から安永に聞いてくれるように頼むのが最初かなと思う。それで、真野さんから、中島に頼んでもらえへんやろか。俺が言うてもええねんけど、真野さんは中島に信頼が厚いから、中島も安永から聞いたことを話しやすいやろしな」

「担任からということやと、話が堅苦しくなって、中島も身構えてしまうかもしれないから、僕がうまく話します」

「そうしてくれるか」

 市川が純一に相談してきたことを意外に思った。普通なら、市川は自分で中島に依頼をするように思う。市川が今回のことを非常にデリケートな問題だと感じているのだという気がした。


 翌日、終礼が終わって、純一が教員室に戻ろうとすると、廊下で中島が待っていた。教員室に入って、談話スペースで話を聞くことにした。

「だめでした。僕にも何も話してくれませんでした」

 昨日、中島は練習を少し早い目に終わらせてもらい、夕食の後、自転車で安永の家に行った。安永の部屋で話をすることになったが、最初からあまり話に乗ってこなかった。最近はいつも、安永は中島に何でも、よく話をするようになっていた。

「あいつらに恐喝されたんと違うのかと言うたら、そんなことはないとしか」

「そうか。君に話さないんやったら、誰が聞いても無理やな」

「夏休みが終わって、安永がいじめられることがなくなったので、喜んでいたんですが、やられることが悪質になっただけなのかもしれませんね」

「もし、恐喝されたということやったら、金額も大きいし、悪質やな」

「夏休みの終わりに、安永があいつらと街で一緒に歩いてるところを高松先生が見はって、真野先生が僕に話を聞いてくるように言わはったでしょ。あの時には、何でも話してくれたんですけどね」

「万引き未遂のことも聞いたな」

「あの時、安永はあいつらが自分を呼び出す理由が分からない。ひょっとして、万引きとは違う、何かをさせられるかもしれへんと心配しとったんですが、あいつらの目的が安永からお金を取ることやったんかもしれないですね」

「最初から、そのために呼び出して、付き合わさせてたのかもしれんな」

「安永にはショックかもしれへんな。あいつらのグループに女の子がふたりいるんです。そのうちのひとりのことを、安永が好きになったみたいなんです。あいつらに呼び出された時も、その子が電話してきたんで断り難かったということもあったようです。その呼び出しの目的が、安永から金を巻き上げることやったんやとしたら、ショックやったやろなと思います。そんなこと、誰にも言えへんやろし」

「街で一緒に歩いてるところを高松先生が見はった時、安永と話をしてた子やな」

「多分、そうやと思います。あいつら、その結衣ちゃんにはすごく親切やし、特別にあつかってるそうです。もうひとりの女の子とは対応が違うらしいです」

「高校生か」

「いえ。京南中学の三年生です。大島結衣って言ってました」

「大島結衣!」

「知ってはるんですか」

「大島君の妹と違うんかな」

 中島は首を傾げるように純一を見た。

「二年前、京南中学のラグビー部の二年生が、校舎の屋上から飛び降り自殺をしたんや。キャプテンをやってた子で、それが大島君や。大島正幸やったかな。大島君には当時、中学一年生の妹がいた。大島君が亡くなってしばらくして、八人の二年生がラグビー部をやめて、問題行動を起こすようになった。その八人のうちの五人が例の五人や。彼らは、それまでは、ちょっとやんちゃやけど、普通の子やったらしい。大島君の自殺の後、人間が変わってしまったそうや」

「何でなんですか。何で急に人間が変わったんですか」

「ラグビー部の顧問と学校の対応に、何か不満があったらしい」

「不満があったからといって、あんなことやるなんて、普通やないですね」

「君が友達から聞いた話も、実際にどこまで本当に彼らがやったことか、よう分からないみたいや。自分らで、とんでもないことをやったと、噂をまき散らしていた可能性もあるらしい」

「そうなんですか」

 そう言って頷いた中島に純一は礼を言って、教員室から送り出した。

 すぐに、一年生の教員室に電話をして、市川が席に居ることを確かめて、四階に上がって行った。

「きのう、中島に話をしたら、さっそく、夜に安永の家に行ってくれたそうなんです。だけど、中島にも何も話してくれなかったそうです」

「そうか。中島にも話さなかったか。金を貸した友達というのが、誰かということだけでも言うてくれんと、何もでけへんな」

「安永にしても、言ったら、後どうなるか分かるでしょうから、なかなか言えないでしょうね」

「そうやな。聞いたら、放っとけへんしな」

「この後、どうされますか」

「うーん。一応、生徒指導部には報告しておくけど、当分、様子を見ておくしか仕方ないやろ」

「そうですね。また、ときどき、安永と話をするように、中島には言っておきます」

 そう言ってから、少し以前に、北野天満宮の東にある焼鳥屋で柳原隆良と食事をした折に聞いた、昨年度まで京南中学の進路主事をしていた山中卓也からの話を、市川にまだ伝えていなかったので、話しておくことにした。

「そうか。そんな事情があったんか」

 一通り話を聞いて、市川は納得するように頷いた。

「大島君の自殺の原因がすべて分かった訳ではないですが、彼らはそれを知っていたらしいです」

「大島君が亡くなってしばらくして、ラグビー部をやめった八人の二年生が問題行動を起こすようになったのは、学校と荒井先生を困らせることが目的やった。その八人は、それまでは普通の子やった。それに、これまで聞いていた、彼らが中学でやってたと言われてることは、実際にやったことではないかもしれんということやな。ある見方をすれば、荒井先生が許せずに、とんでもないワルのふりをしている間にワルになったということかもしれんな」

「大島君が自殺したのは荒井先生の行為が原因だと思っていて、荒井先生を困らせるために、問題行動をやるだけでなく、荒井先生を脅していた可能性があるようです。あの五人が宇多野に推薦してもらえたのも、問題行動をいろいろ起こしながら、高校進学に差し障りがないようにするため、荒井先生を脅していたからかもしれません」

「前に高辻中学に行ったとき、中西先生が、彼らに対して学校の対応がちゃんとしていなかった。それが悔しいとは思っていたと言ってはったやろ。学校が彼らに、毅然とした態度をとれなかったのも当たり前やな。それなりの理由はあったんや」

 市川はそう言って、笑いを浮かべた。



 文化祭の第一日目には八時三十分から南グラウンドで開会式が行われた。グラウンドの周りには模擬店用のテントが並んでいて、それぞれのテントでは開店の準備が整いつつあった。開会式が終わった後、一年生は合唱コンクールがあるため、そのまま体育館に移動する。体育館にはシートが敷かれ、長いすが並べられていて、壇上がステージになっている。照明や音響はプロに任せている。

 純一のクラスは、今年は模擬店に出店している。昨年はアメリカ短期留学の成果を展示したが、かなりの時間と労力を費やした。その分、見応えのある展示が出来たと思っている。今年は三年生なので、あまり文化祭の準備に時間を取りたくなかった。

 文化祭で何に参加するのかを決めるホームルームで、模擬店への参加はすぐに決まったが、何の店にするのかが決まらなかった。その時、西村玲子がホットドッグの店をやってはどうかと言った。田中優奈が本当に美味しいホットドッグの作り方を知っているからと言うと、大沢香奈や玉木涼子、藤原良美がそれに同調したので、ホットドッグの店にすることが決まった。田中優奈も嫌がらずに同意した。

 田中優奈の母親は北山通りで喫茶店を開いている。そこでの人気のメニューがホットドッグだということだった。西村玲子たちも何度かご馳走になっていた。純一も昨日、試食したが、確かに美味しい。炒めたカレー味のキャベツの上にソーセージを置いて、トマトソースを少しかけただけなのだが、絶妙の美味さがあった。キャベツを炒めるときに加えるソースが優奈の母親のオリジナルで、ソーセージもパンもトマトソースも特別注文だという。材料は優奈の母親が昨日の夕方前に届けてくれていた。包丁、まな板、ざる、トング、フライパン、鉄板、オーブントースターなど、必要な道具は生徒たちが話し合って調達していた。プロパンとコンロは業者に依頼した。コーヒーも一緒に売ることになっていたので、コーヒーメーカーのひとつは純一の下宿から持って来ていた。

 調理のスタッフは検便が必要なので、予め登録しておく必要がある。女子四名、男子二名で、純一も何かの時に手伝えるように、スタッフとして登録してある。

 テント張りや長机、椅子の搬入などは男子の仕事で、調理以外の雑用も交代でメンバーが決められている。食券を売ったり、宣伝のスタッフも決まっているので、クラスの全員が何かの役割に当たっている。

 一年生の合唱コンクールが終わった、十一時前頃から、客がぼつぼつとやってくるようになった。店の開店準備があったが、純一は合唱コンクールも少し覗いていた。

 昨日、夕方、材料も器具も揃ったので、調理スタッフの打合せを行った。実際にホットドッグを作りながら、役割分担と調理法を確認した。田中優奈もみんなにゆっくりと丁寧に説明をしたから、時間は掛かったがスタッフ全員が納得していた。

 店は始まったところだったが、すでにスムーズな調理の流れが出来ていた。

 フライパンを握って、キャベツを炒めているのは大庭孝之で、計画の最初の段階から調理スタッフに志願していた。

「未来のイタリアンのシェフが立ってると思うと、ちょっと、風格があるな」

 客が途切れていたので、純一が後ろから声を掛けた。

「今はまだ、修業中ですが」

「家でもよく料理を作るのか」

「ええ。週に何度かは」

 大庭は大学でイタリア語を勉強することを決めている。文系の学部を志望しているのに理系のクラスにいるのは、池内貞之と同じように、数学と物理がよくできるからだ。大学を卒業したら、イタリアに行って、本物のイタリア料理を修業してくると公言している。

「大庭はいつからイタリア料理に目覚めたんや」

「中学二年の冬休みに、家族でイタリアに行ったんです。その時から、イタリア料理を意識するようになったんです。ただの観光ツアーだったから、そんなにいい物を食べた訳ではないんですが」

「その前から、料理には興味があった?」

「そうですね。小学生の終わりくらいからかな」

「イタリア料理の魅力ってなんや」

 大庭はちょっと考え込んでから言った。

「手間ひまはかけるけど、素材を生かしたシンプルな料理ということかな。レシピがあんまり複雑じゃあないので、子供でも案外と美味しく作れるんですよ」

「シンプルだから、逆に、奥が深いんやろな」

「たぶん、そうなんでしょうね。それに、地方によって、料理が全然違うから、いろんな料理がありますね。僕なんか、イタリア料理の百分の一も知らないんでしょうね」

 客が来たので、大庭はまた、フライパンを動かし始めた。

 周囲に模擬店のテントが張られた南グラウンドには、混み合う程には生徒たちの姿はなかった。文化祭の第一日目は外部の人は招待していないので、在校生だけが出入りしていた。それでも、十二時を過ぎた頃から、客が頻繁に来るようになった。店の前で、何人かがホットドッグができるのを待っていた。

「あ、先生。この店、先生のクラスなん。ここのホットドッグ、美味しいて聞いたから買いに来てん」

 一年生六組の井口里香と伊藤純菜だった。いつも、楽しそうに、積極的に化学の授業に参加してくれている、純一にとっては可愛い生徒たちだ。

「そうか。嬉しいな」

「先生、私らの合唱聞いてくれた?」

 井口里香が言った。

「俺が体育館に入ったら、ちょうど君らのクラスの合唱が始まるところやってん。素晴らしいハーモニーやったな」

「そうやろ。私らだいぶ頑張って練習したもん」

「二位になったんですよ」

 伊藤純菜がちょっと誇らしげに言った。

「二位か。それはすごいな」

「うちの担任、学生のとき、コーラスやっててんて。知ってた?」

「いや。市川先生がコーラスを」

「似合わへんやろ」

 二人は純一の顔を見て笑った。

「それやったら、市川先生も気合いが入ってたやろ」

「あれは、担任の情熱の勝利やな」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 すぐに、ホットドッグができあがった。

「先生、私らの店にも来てえな」

「何の店をやってるの」

「焼きそば」

「うちの焼きそばも美味しいですよ」

「どこの店?」

 純一はテントから顔を出した。

「あそこ」

 井口里香が指を指した方向を見たが、どの店かわからなかった。

「今行こ。私らが連れて行ってあげる」

「そやな。ちょっと、お腹も空いてきたし」

「今、中島君がそばを焼いてます」

「中島が」

「先生が可愛がってる中島君」

 純一はテントを出て、二人に付いて行った。

「可愛がってるのは、君らもおんなじや」

「そうかな。でも、私らも可愛がってもらってるのは確かやな」

「君らは、授業にもよく協力してくれるし、教師にとっては有り難い存在や」

「先生、本当にそんなこと思ってくれてる」

「当たり前や」

「それやったら、私らも嬉しいわ。なあ!」

 井口里香が伊藤純菜の同意を求めるように言った。

 すぐに、鉄板の前に立って、大きなコテを両手に持って、そばを焼いている中島が目についた。

「中島君。真野先生をお客さんに連れてきてあげたで」

「あ、こんにちは」

 中島は嬉しそうな笑顔で、挨拶をした。

「どうや。はやってるか」

「ええ。結構、よく売れてます」

「それはよかったな。俺には焼きそばを三つ入れてくれるか」

「三つも食べはるんですか」

 伊藤純菜が言った。

「二つはお腹を空かして頑張ってくれている生徒用や」

「真野先生はやっぱり、優しいな」

「ほんなら、おまけして入れときます」

 中島が焼けたそばを発泡スチロールの皿に手際よく入れていった。

 テントの奥から、市川智貴が出てきた。

「うちの娘たちに、むりやり、連れてこられたんと違いますか」

「そんなこと、ないわ。真野先生は優しいから、声を掛けただけで来てくれはってん」

 井口里香がすねたように市川を見返して言った。

「合唱コンクール、聞かせてもらいました。ハーモニーが素晴らしかったですね。二位やったとか」

「有り難うございます。練習をした甲斐があって、良かった」

「市川先生は学生のとき、コーラスをやってはったんですか」

「コーラスのサークルに可愛い女の子がいて、その子の顔を見るのが楽しみで」

「やっぱり、そうやったんや。先生にコーラスなんか似合わへんもんな」

 井口里香が笑いながら言った。市川もそれにつられるように笑った。


 文化祭二日目は土曜日で、生徒の家族や他校生なども招待されているので、朝から校内はにぎやかだった。生徒の点呼は三時十五分の一回だけなので、ゆっくりした時間にやって来る生徒も多い。純一のクラスでは、調理スタッフと一部の雑用係は八時三十分に集合していた。

 一時間ほどで準備ができたので、九時三十分に開店すると、すぐに客が二人やって来た。二年生の国際Aコース理系クラスの生徒たちだった。一年生の時に、純一が化学を教えていた。

「早いな」

 純一は店のカウンターテーブルの端でレジ係をしている大沢香奈の横に出て声を掛けた。

「展示場の係に当たっているんですが、ちょっと抜けさせてもらいました。朝ご飯を食べないで来たから、お腹が空いて。きのうも、ここのホットドッグを食べたんですが、美味しかったです」

「まだ展示場は見れてないんや。ちょっとしたら、見にいくわ」

「私、きのう、見たよ。懐かしかったわ。私らもセント・ジョージやったし」

 大沢香奈が二人に言った。純一も三ヶ月間通ったセント・ジョージ・ハイスクールを思い出していた。

 二人がホットドッグとコーヒーを受けとって、南グラウンドの真ん中にテーブルと椅子が置かれた休憩場所に行ったのを見ながら、店が忙しくなる前に、展示場を見ておこうと純一は思った。

 しばらくして、ちょっと、展示を見てくると言って、店を離れた。

 校舎の二階と三階、三年生と二年生のフロアーが展示場に使われていた。

 ひとつずつの展示室を見ながら、ゆっくりと歩いていく。

 三階に上がって、階段の直ぐ横の教室が、二年生の国際Aコース理系クラスの展示場になっていた。隣が文系クラスの展示場になっている。

 教室に入ると、ビデオ装置の横に座っていた、担任の福本裕吾がにっこりと会釈をした。四十過ぎの数学の教員だ。案内係の生徒たちも六人いた。先ほどの二人も展示場に戻っていた。

 写真と解説が、時間を追うように、見易く並べて掲示されている。出発の日の京都駅、特急はるか、関西空港での写真から始まっている。アメリカに着いた日のサンフランシスコ空港、移動のバスの中、マッチング場所でのマッチングの様子が次にまとめられている。

 その写真を見詰めながら、昨年の同じマッチング場所での、いきなりのトラブルを思い出していた。

 マッチング場所ではマッチングの後、ウエルカムパーティーがあると聞いていたが、着いたとき、ホストファミリーはまだあまり集まっておらず、生徒たちは先に簡単な食事を済ませて、その後、順次マッチングをしてそのままホストファミリーが生徒を連れて帰ることになった。

 その段階になって、ホストファミリーのキャンセルがあって、四人が一家庭となる組が三組できてしまったことを聞かされた。それも、どさくさの説明で、純一自身状況を十分把握できないまま、生徒たちはホストファミリーに連れられていくことになったのだ。

 文系のクラスの生徒たちとはサンフランシスコ空港で別れていた。文系の生徒たちが行く学校も地域も、すでに何度か短期留学を受け入れていたが、セント・ジョージ・ハイスクールの地域での短期留学の受け入れは初めてだった。

 この地域のコーディネーターは特進Bコースや進学コースが行っている一週間のアメリカ研修旅行では受け入れを経験しているが、その場合、ホームステイは四泊であり、三ヶ月とは要領が違う。

 この場に金井千春が居たから何とかなったが、もし、金井が居なかったら、とんでもないことになっていたと思った。

 翌朝は土曜日だった。ひとりの生徒から純一に電話があった。「今、六人でステイしている。たぶん、二人は今日、別のホストファミリーに行くことになると思うが」というものだった。純一がこれまでにちゃんとやってきてくれてなかったから、こんなことになったと抗議を受けた。

 夜の十一時に、同じ生徒からまた電話があった。まだ、六人が同じところにいる。一家庭に六人なんていうのはどう考えてもおかしいと再び抗議を受けた。すでに二人は別のホストファミリーに行っているものと思っていたので、ちょっと驚いた。この時間からコーディネーターに電話をする訳にもいかないので、朝にすぐ確認するからとなだめて電話を切った。

 日曜日の朝、金井千春に電話で、六人が一家庭にいるところがあるが、理由といつそれが解消するか、コーディネーターに聞いてもらうよう依頼した。

 しばらくして、金井から電話があり、それはコーディネーターのところにいる生徒たちで、今、そのうちの二人を別の家庭に移動させてるところだから、安心してほしいということだった。

 その後、少し疑問があったので、コーディネーターにすぐに新しいホストファミリーのリストを送ってほしいと依頼した。届いたリストを見て、昨夜電話していた生徒はコーディネーターのところに居たのではないことがわかり、彼のいるファミリーに電話してみると、やはり、まだそこに六人がいた。

 二晩、六人で一家庭になっていたのは二組だったのだ。

 もう一度、金井からコーディネーターに電話してもらった。

 結果的には今晩すぐに、二人を他のファミリーに移動するということだった。

 ホストファミリーのキャンセルとか、一時的に都合が悪くなった家庭がたくさん出たとは言え、あまりにも酷く、生徒たちに説明のしようもないかと思うと、翌日の生徒たちの反応が心配だ。

 短期留学が始まった最初のトラブルに純一はちょっとショックを受けていた。

 セント・ジョージ・ハイスクールに集合した最初の日の写真が次にあった。

 純一たちも最初の日は十二時にセント・ジョージ・ハイスクールに集合した。集合時間が曖昧で、不徹底だったにも拘わらず遅れる生徒もなく、全員元気な顔を見せてくれたので、ほっとしたものだ。

 何人もの生徒に声を掛けてみたが、基本的には生徒たちはホームステイを楽しんでいるようだった。

 ただ、四人一家庭の生徒たちの一組のうちの二人は他の二人とまったく人間関係が合わず、気まずい思いをしていることがわかった。何の配慮もなく、二人一組だったものを二組を一家庭に放り込んだのだから当然の結果とも思えた。

 四人一家庭の生徒たちの他の一組は寝るところが狭すぎると不満を言ったし、他の一組は四人だからなかなか家族とうまく話せないと不満を感じているようだった。

 その生徒たちも含めて、全員の顔が輝いて見えたことに、ほっとしたのを覚えている。

 写真と解説を見ながら、短期留学が始まって最初の頃に、特にいろいろな問題があったなと、去年の六月の時期を思い出していた。

 そう言えば、最初にこんなこともあった。

 ホストファミリーでの大きなトラブルはなかったが、中国人の家庭に入っている生徒たちから深刻な訴えがあった。

 アメリカに来て、何で僕らだけが中国人の家庭なのだ。十八歳のホストスチューデント以外は誰も英語が話せない。生魚やわけのわからない野菜などほとんど食事を食べることができない。等々。

 それがアメリカなのだ。食事についても自分で工夫しなければならない。そんなことで、ホストファミリーを変えるよう頼むつもりはない。暖かく受け入れようとしてくださっている人たちに失礼だ。いつも、送り迎えをしてくれている十八歳の少年の気持ちを考えてみるべきだ。そう説得して、純一は取り合わなかった。

 ホストファミリーとのトラブルもあった。

 訪問先のホストファミリーで小森がゲームのコントローラを自分の家でみんなで遊べるように、カバンの中に入れて持って帰った。帰ってすぐ、小森は眠ってしまった。二人と四人がお世話になっていた二家庭はホストマザーが親子の関係なので、常に行き来していて、小森にはあまり罪の意識はなかったようだ。

 子供から言われて、コントローラが無くなっているのに気がついたホストマザーが自分の家にステイしている生徒に聞いた。その生徒は岡崎が持っていたから、ひょっとして岡崎が持って行ったかもしれないと言った。

 ホストマザーは岡崎が勝手に持って行ったと思い、母親に連絡して岡崎に聞いてくれるように言った。

 それを聞いた岡崎は非常に憤慨し、純一に電話をしてきた。夜の十一時過ぎのことだ。何人かにいろいろ話を聞く中で、小森が持って帰ったことが分かったので、遅い時間ではあったが、金井から両方のホストマザーに説明してもらい一応の落着となった。

 小森が持ち帰ったということがわかるまでは、二つのホストファミリーを失うかもしれないという、やや深刻な状況にあった。

 写真と解説の展示を見終わって、本当にいろんなことがあったと、苦笑しながら福本裕吾の顔を見た。

「去年のことが懐かしいでしょ」

「思い出しただけでも、しんどくなりました」

「真野さんから去年のことを聞いてたから、相当、覚悟してたけど、思ったほど大変なことは起こらなかった」

「去年はセント・ジョージの地区は初めてだったので、コーディネーターも要領が分からなかったんでしょうね」

「ホストファミリーも去年引き受けてくれた家庭はだいたい今年も引き受けてくれたみたいやし、新しいところが増えただけやから、ホストファミリーに関するトラブルも少なかったみたいやな」

「一年で、プログラムの穴が、だいたい埋まったみたいですね」

「真野さんのクラスが雪かきした後を、うちのクラスが足下の雪を固めて歩いたみたいなもんやな。来年はもっと、歩きやすくなってるやろな。うちのクラスも、小さなトラブルはたくさんあったからな」

 純一はしばらく、セント・ジョージ・ハイスクールのコンピュータ教室で生徒たちが編集した音楽ビデオを見てから、次の展示室に向かった。


 十二時を過ぎた頃から、店の前に小さな行列ができるようになってきた。二台のオーブントースターを使っているが、パンを焼く時間はそれなりに必要だから、いくら早くしようとしても限界があった。それでも、生徒たちは手際よく調理を進めていっていたから、客に不満の様子はなかった。

 一時半頃になって、やっと一段落した。生徒たちは昼食もとらずに頑張っていたので、交代で食事をとるように言って、純一も調理を手伝った。

 それから一時間ほどした頃、店の前に若い女性が二人立っていて、テントの奥に居た純一に小さく手を振っていた。すぐに誰かがわかった。

「先生、お久しぶりです」

「こんにちは」

 川勝美里と上羽真理がにこやかに言った。純一が宇多野高校に来て、初めて担任を持ったクラスの卒業生だった。一年目は教務部に配属されたので、担任は持たなかったが、二年目に特進Bコースの担任を持ち、二年生、三年生と、その理系クラスを持ち上がった。二人とも理系だったので、三年間、担任として持ち上がった生徒だった。

「ここに居ることがよく分かったな」

「三年生の教員室に行ったら、真野先生はここやろって、教えてくれはったんです」

 二人には卒業して、一年ほどした頃に一度会っている。その時には、テニス部の練習を見に来たと言っていた。

「まだ、テニスは続けてるか」

「私がテニス部の副キャプテンで、真理ちゃんがマネージャーなんです。大会の成績はたいしたことないけど、今も、頑張ってます」

 川勝美里が言った。純一は二人を南グラウンドの真ん中の、休憩場所に誘った。

「今年は大学の三年生やな。大学のテニス部の幹部なんやな。高校の時は、三年生の五月の総体までは、二人とも、テニスに明け暮れてた。特Bは部活動と勉強を両立させるコースやのに、君らはテニスだけやった」

「勉強もしてましたよ」

「授業中の集中力は他の人には負けなかったです」

「あれだけテニスにのめり込んでたけど、確かに成績は悪くなかったな」

「文武両道の見本みたいじゃなかったですか」

「それは言い過ぎやけど、勉強もがんばろなって、いっつも言ってたもんね」

「総体が終わった後の勉強への切り替えも早かったし、集中力もすごかったな。確かに、文武両道の見本と言えたかもしれん」

「今でも、勉強も頑張ってますよ」

「アルバイトなんかはしないのか」

「今は無理ですけど、二年生まではいろいろとアルバイトをしてました」

「アルバイトも一緒の所で働いてたのか」

「そうですね。真理ちゃんがふたりで働けるところを捜して来てくれるんです」

「君らは、ほんとに、いつも一緒やな」

「なんとなく、そうなってしまうんですよ」

 二人は家も近かったので、高校生の時、いつも一緒に自転車で通学していたし、三年間、同じクラスで同じテニス部に所属していた。同じ大学の理工学部の数理科学科に進学していて、高校三年生の時には、将来、中学高校の数学の教員になりたいと二人とも言っていた。

「今日もテニス部の練習があったんか」

「ええ。午前中だけ参加して。昼からはここへ来るのに抜けてきたんです」

「ちょっと、先生に相談があって」

 純一は黙って二人の顔を見た。

「この間、テニス部のコンパの帰りに、木屋町で河合清香に会ったんですよ。それで、三人で話をしてたら、一回、みんなに会いたいねと清香が言ったら、そうや、同窓会を開こうということになったんです」

「先生も来てくれはるでしょ。いつがいいですか」

「土曜日の夜が有り難いけど、いつでもいい」

「じゃあ、二週間後の土曜日でもいいですか」

「俺はそれでいい」

「手分けして、連絡のとれる人には、全部連絡します」

「場所と時間が決まったら、また、連絡します」

 話をしている間に、三時になり、もうすぐ閉会式が始まるから、生徒以外は校外に出て下さいという放送があった。二人はそれを聞いて、南グラウンドから出て行った。



 文化祭と体育祭では純一のクラスの生徒たちも、結構、楽しんでいた。毎日、遅くまで受験勉強をしている生徒にとっては、良い息抜きになったと思う。特に、文化祭での模擬店では、クラス全員の取り組みとして参加できたし、店もよくはやって、調理スタッフは大変だったが、少しだが収益もでた。

 学園祭が終わると、九月も終わり、後期が始まった。

 純一のクラスでは落ち着いた日常の生活が戻っていた。夜の八時までの、教室での勉強会も再開していた。もうしばらくすると一週間のアメリカ研修旅行に出発する二年生の特進Bコースと進学コースを除くと、どのクラスにも静かな落ち着きが感じられた。

 その日、純一は五時間目に一年六組で化学の授業を担当していた。

 モルという単位で表される物質量の考え方について、基本的な部分をだいたい練習してきていた。この単元の内容を生徒に理解させるには、練習問題をたくさんやる必要があった。練習問題のプリントも用意していたが、初めは口頭で質問をしながら、説明していった。

「標準状態、0℃、1気圧で5.6リットルの気体の質量が7.0グラムだった。この気体の分子量はいくらか」

 純一は口で言った数字を黒板にも書いた。

 生徒たちの反応を見ていて、木下慎二の様子が目についた。ちょっと、いつもと何か雰囲気が違う。しばらく、黒板を見ていた木下が、黒板から目を離して、頬杖をついて目をつぶった。これまで、木下が理解していると分かった時には、敢えて質問して答えさせていたが、いつも嫌がる様子はなかった。

「木下、いくらになった」

「二十八」

「そうや。ちょっと、説明してくれるか」

 木下は頬杖をついて目をつぶったまま、鬱陶しそうな顔をして、口を開けなかった。

「なんや。説明はでけへんのか」

「何で俺が説明せなあかんねん。説明するのはあんたの仕事やろ」

「何や。その言い方は」

 純一は意識的に上から言葉をかぶせるように言う。

「ちゃんと答えたんやから、ええやろ。うっとうしいね」

「その言い方や。それが教師に向かって言う言葉か」

「教師も生徒も関係ないやろ。教師やから言うて、大きな顔すんなよな」

 木下はふんぞり返るようにして、足を組んだ。純一にこんな態度をとった木下を見るのは初めてなので、ちょっと意外な気はしたが、こいつはこれまで教師にこんな絡み方をしてきたのかと、改めて木下の顔を見た。もう少し、こういった場合の木下の態度を見てみたい気がしたので、挑発するような言葉を続けた。

「お前はいつも、先生にそんな絡み方をしてたんか」

「絡んでんのは、お前やろ。いつもて、どういう意味や」

「中学のときも、先生にこんなふうに絡んでたんやろ」

「中学のときのことは、お前に関係ないことやろ。ほんまにうっとうしい奴やね」

 木下はそう言って、立ち上がりながら教科書を床に投げ捨てて、教室の後ろのドアを力任せに開けて出て行った。

 純一は前のドアから出て、後を追った。階段を降りて行く木下の横を一緒に並ぶように歩く。三階に降りたところで、木下の右腕を掴んで、もう一階下の方へ引っ張った。木下は純一の手を振り払った。二階に来て、もう一度、木下の腕を掴んだ。

「ちょっと、話しよ」

「話なんかない」

 そう言いながらも、純一が三年生の教員室の方に引っ張って行こうとするのに、意外と抵抗をせずに付いてきた。

 教員室の談話スペースに入るよう、木下の背中に手を置いて促した。テーブルを挟んで座らせると、背もたれに深くもたれて、ふてくされた顔で横を向いた。

「今日は虫の居所が悪いのか」

 木下はそれには反応しなかった。

「みんなの前で、中学のことを持ち出して悪かったな」

 表情はちょっと動いたが、何も言わなかった。

「ちょっと前まで、君らの中学での行動をいろいろ聞いていて、とんでもない不良やったんやと思ってたけど、最近、そうやないんやということが分かってきた。本当は正義感の強い、まっとうな生徒やったんやないかと思うようになった。中学の二年の夏に大島君が亡くなった後、君らが変わったんやということを聞いている。それまでは、ごく、普通の生徒やったと。荒井先生を困らせるために、わざと問題行動を起こしてた」

 木下は首を傾げるような仕草で純一を見た。

「以前に聞いてた君らの問題行動は、とんでもない行為やと思ってたけど、かなりの部分がただの噂で、実際に君らがやったことではないらしいとも聞いた。君らがとんでもない問題を起こしているように思われたいために、自分たちで噂をばらまいたということやないかと思てる人がいる」

 木下は黙って、純一を見ていた。

「大島は荒井に殺されたという噂もあったらしいけど、君らは大島君のために荒井先生に仕返しをしていたということか」

 一瞬、木下の目が宙をさまよったが、何も言わなかった。

「大島君と荒井先生の間に、何があったんや」

「大島は荒井に殺されたみたいなもんや」

 木下は初めて口を開いた。

「何があったんや」

「それは言えへんことやけど、俺らは荒井をほんまに許せんかった」

 そう言うと、木下は唇を噛むようにして横を向いた。木下の言った言葉に、純一は驚いた。木下が純一にそれなりに心を許すようになっていなければ、こんなことは言わないだろうと思う。

「やっぱり、そうやったんか」

 木下は黙って俯いたが、ふて腐れた態度は消えていた。

「分かった。君らはやっぱり、ちゃんとした正義感を持った、まともな生徒やったんやな」

「先生な。俺ら、まだ、まともな生徒になれへんねん。荒井は学年主任から進路主事になりよったし、今の三年生には荒井から俺らが守ってやらなあかん奴がいるねん」

「それは誰や」

「それも言えへんけど、俺らは不良のままでいなあかんねん」

「そうなんか。よう分からんけど、君らなりの理由があるんやろな」

 木下たちが守ってやるというのが、大島の妹ではないのかと思ったが、純一は口には出さなかった。それより、前から気になっていたことを、この際、聞いてみることにした。

「君らがうちを受験する前に、荒井先生が宇多野高校なら推薦してやると言いはったそうやけど、それは君らが宇多野高校に推薦して欲しいと言ったからなのか」

「荒井と俺らが進学の話をしたとき、あいつが宇多野高校なら推薦できると言いよったから、俺らは宇多野高校やったらええと思って決めたんや」

 意外な質問に戸惑うような素振りをしながら、木下は答えた。荒井と木下たちが進学の話をしたというのは、荒井を脅していた時ということかもしれないと純一は思った。

「君らは問題行動をいろいろやっていたことになってたから、学年全体から宇多野高校に推薦することにクレームがつくかもしれへんのに、荒井先生ひとりでは決められへんやったやろと思うんやけどな」

「俺らが、その話は絶対大丈夫なんやろなと念を押したら、荒井は、宇多野高校の担当者が了解してるから大丈夫やと言いよった。俺らみたいな生徒やと分かって了解してるということやろかと思ったから、そう言うたら、そうやと言いよった」

「そうか」

 木下の言うことが事実なら、大薮正人のやったことは宇多野高校に対する背信行為だということになる。木下もそのことに気づいている筈だが、何も言わなかった。それとも、荒井は木下たちの行動の本質を大薮に話した上で、了解をさせていたのだろうか。

「もうひとつ、聞きたいねんけど、ええかな」

 木下は頷いた。

「もし、君らに関係なかったら、こんなことを聞くのも申し訳ない話なんやけど、どうしても気になるから聞くことにするな」

 木下はまた頷いた。

「安永に、君らの誰かがお金を借りてないか。高校生にはかなり、大きな金額なんやけど」

「安永が貸してくれよった」

「君らが借りたんか」

「誰が借りたんかは俺からは言えへんけど、そいつはほんまに困ってよって、安永に相談させたら、安永は遠慮せんと使ってくれと言って、貸してくれたと言うとった」

「いくら借りたか知ってるか」

「三十万。俺らにはすぐ出来る金と違うから。安永に無理を言うたんと違う。事情を説明したら、すぐに分かってくれたと言うとった」

「そうか。これで、ちょっと、安心した。安永に事情を聞いてもいいか」

「あいつが話してもええと思うんやったら」

「ちょっと、後で聞いてみる。最後に、もうひとつだけ。大島君が荒井先生に殺されたみたいなものやと分かって、そのことを誰かに話したんか」

「校長と教頭に呼ばれたとき、全部話したけど、結局、何もしてくれへんかった。俺は担任にも話したんやけど、おんなじやった」

「それで、荒井先生だけでなく、学校も許せへんと思ったんやな」

「大島はええ奴やった。あいつがキャプテンで、俺が副キャプテンやったし、ほんまの親友やってん。そんな友達を自殺に追い込んだあいつが」

 そう言って、木下は口ごもった。

「わかった。君らの悔しさは分かるような気がする」

「今日の話、あんまり、他の人に言わんといてな」

「担任と、君らの学年主任には、話してもいいやろ。君らのこと、本当に心配してはるんやから」

 木下は首を小さく何度か頷かせた。

「平林先生は、いつも、君らは可愛い生徒やと言うてはった。あの先生は、前から君らの本質を見抜いてはったんやな」

「あの先生はええ先生や。怒ったら恐そうやけど、俺らには優しいし」

 五時間目の終了のチャイムが鳴った。

「君とこんな話ができて、今日はほんまに良かった。また、一回、ゆっくり話をしよ。ほんなら、教室に戻ってくれ」

 木下の後に続いて、純一も教室に戻って、教科書や出席簿などを取り、安永のところに行き、放課後になったら、三年生の教員室に来てくれるように言った。


 安永和幸はしばらく、何も話そうとしなかった。

「三十万ものお金を、木下らのグループが君から脅し取ったと思ってる人がいる。そうなんか」

「あいつら、そんな悪い奴とは違う」

「そしたら、どうしたんや」

「僕が貸してやったんです」

「誰に」

「それは言えません」

「ええか。さっき、木下ともめた後、ここでゆっくりと話をしたんや。彼らが悪い奴やないことは分かってる。木下も、貸したお金のことについて、事情を君から聞いてくれたらいいと言ってる。名前を言えないのやったら、名前は言わんでいいから、事情だけは説明してくれ」

 安永はしばらく考えているような素振りをしていた。純一は何も言わずに待っていた。

「結衣ちゃんが本当に困っていたんです」

 しばらくして、やっと話し始めた。

「結衣ちゃんのお兄さんが死んで、お母さんがおかしくなってしまったそうです。それまで働いていた仕事にも行かなくなって、ちょっと前から、パチンコばかりするようになったんです」

「結衣ちゃんというのは、亡くなった大島君の妹か」

 安永は頷いて、先を続けた。

「パチンコに狂い始めてしばらくしたら、負けが一日に何万にもなって来たそうです。手持ちのお金がなくなったとき、パチンコ屋の中でお金を貸してくれると言う人が居たんです。一度借りてしまったら、返す前に、次にもまた貸してもらうことになって、借金がすぐに膨らんでしまったから、返すのも大変になって、そのうち、ほんの少ししかなかった貯蓄もなくなっていって、借金も返せなくなったそうです。そのときになって、借用書に拇印を押さされたんです。その借用書がヤクザみたいな男に渡っていて、その男に結衣ちゃんが脅されたんです。学校の帰りに待ち伏せていて、借用書を見せて、貸した金をお母ちゃんが返してくれへんから、あんたのからだで稼いでもらうと言うたそうです。結衣ちゃんがお母さんを問い詰めて、今言うたことが分かったそうです」

「大島さんのところは、今はお母さんとその結衣ちゃんだけの家庭やな」

「結衣ちゃんは相談できる人がいなくて、木下に相談したらしいです。木下から結衣ちゃんの相談に乗ってやってくれと言われて、話を聞いたんです。結衣ちゃんは何度か男につきまとわれて、恐くなってたみたいです。話を聞いて、放っておけなかったから、すぐにお金を用意して、結衣ちゃんに渡しました」

「その男にお金を返して、それで問題はなくなったんか」

「借用書は返してもらったそうやから、一応は片がついたんやと思います」

「お母さんのパチンコ狂いはどうなった」

「結衣ちゃんには、もうパチンコは絶対せえへんと誓ってくれたそうです。それに、前の仕事にまた戻ることができるようになったみたいです」

「それは良かったな」

「結衣ちゃんの役に立てて良かったと思ってます」

「君が無理にお金を巻き上げられたんやないことが分かって、ほっとした」

「先生な。あいつら、ほんまは悪い奴と違うねんで」

「俺にも、やっと、そのことが分かってきた」

「ほんま? 前に、あいつらにいじめられてたとき、財布からお金を取り上げられたことがあってんけど、それも返してくれよったし、もういじめるようなことはせえへんと言うてくれよった」

「そうか。よかったな」

「あいつらが何で不良になったか、結衣ちゃんから聞きました」

 そう言って、安永は大島結衣から聞いたという話を純一に伝えた。

「俺が聞いていた話とだいたい一緒やな。今の話が事実なんやろな」

「先生も知ってはったんですか」

「最近、聞いたことが多いな。さっき、木下に確かめて、やっぱりそうやったんかと思った」

「あいつら、僕をいじめるのは本気やなかったみたいやけど、いじめられるのは辛かったから、中島やら卓球部の奴が、僕のことを考えて、いろいろやってくれたのは嬉しかったです。中島とは友達にもなれたし。先生がやってくれはったことも、中島から聞きました」

 安永はそう言って、嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 純一は安永を送り出した後、一年生の教員室に行った。ちょうど、市川智貴と平林幸三が席に居たので、二人に声を掛けた。談話スペースに入ると、すぐに木下とのもめごとから始まって、教員室で話すことになった話の内容と、安永から聞いた話をできるだけそのまま伝えた。話を聞いて、二人はともに、安堵の表情を浮かべていた。


 純一が下宿に戻ったのは八時半を過ぎていた。貴子が下宿にやって来たのは久しぶりだった。すぐに駅前の食堂で食事をして、そのまま、銭湯へ行った。

 部屋に戻ると、開け放たれた窓から入ってくる、庭からの冷気が心地良かった。虫の音がひときわ大きく聞こえていた。

「その子たち、根性があるね。中学の二年生とか、三年生で、自分たちの学年主任を脅して、徹底的に嫌がらせをするなんて、普通の子にはできないやろうな」

「だから、不良に成りきろうとしたんやと思うねん」

 貴子には安永のいじめについて、これまで何度か話したことがあった。先ほどから、冷蔵庫から出してきた缶ビールを飲みながら、今日、新たに分かったことを含めて、このしばらくの経過を話して聞かせていた。

「でも、良かったね。その子たちがこれから宇多野高校をかき回すかもしれないと思われていたのに、本当は正義感の強い、まっとうな子らやったやなんて」

「荒井が大島君を自殺に追い込んだということを全部学校に話したけど、握りつぶされてしまった。悔しかったんやろな。その時のあいつらにとっては、自分らで学校と荒井に仕返しをする以外になかったんやな」

「普通の子が、いきなり不良になるなんていうのも、簡単なことやないやろうね」

「ラグビー部を退部した八人の二年生が、ワルぶった服装や頭髪で、いつも一緒に居るようになっただけでも、他の生徒には威圧を与えるやろし、そいつらが授業中に教師に絡むようにでもなれば、それだけでも、学年主任にとって、頭の痛い問題になるやろな。それに、教師の居ないところで、いじめをやったり、物を壊したりして、自分たちの存在をアピールする。教師に言いつける奴が居たら、陰に隠れて徹底的に制裁を加える。そんなことを繰り返しながら、教師が手を出せない不良に、短期間で育って行ったんやろな」

「そうか。そうしながら、自分たちがとんでもなく悪いことをしてると信じさせるような噂を流していったんやね」

「随分と巧妙にやってたんやろな。その頃から、木下がリーダー的な存在やったんやろと思う。あいつ、一番、頭がええからな。それに、冷静に計算して行動が出来るし、結構、度胸もある」

「中学生やったとは思えへんね」

「荒井は学年主任やったのに、自分の学年の生徒が次々に問題行動を起こしているのに、何もできなかったんやろな。荒井自身が陰で脅されていたとしたら、あいつらを指導するなんて、まったくできる話やなかったやろしな」

「その人、なんで脅されてたんやろ」

「大島君がなんで自殺したんかということやな。ラグビーの練習中に、みんなの前で罵倒されたり、ひとりだけ正座させられて殴られたり、無茶なトレーニングをさせられたりしたということやけど、なんでそんなことをさせられたかとういことを含めて、もっと大きな原因があったようやということやからな」

「それをその子らは知っていて、脅迫に使えると思ったんやね」

「荒井にとって、表沙汰にできないことなんやろな」

「マスコミが飛びつきそうな話やね」

「自殺について、学校が調査したとき、木下が校長と教頭に全部話したというてたから、学校は本当の原因を知ってしまったから、逆に、あいつらを刺激するようなことはできなくなったのかもしれんな」

「木下君らにしても、マスコミなんかに騒いでもらいたくないことやったのかもしれないし、黙っていることで、中学生が学校と学年主任を相手に対等の立場でいられる切り札になったのかもしれへんね」

「荒井も学校も何もできないことが分かって、徹底的に困らせるために、できることを何でもやろうとしたんやろな」

「その子らがやろうとしたことは、それなりに、成功したのかもしれへんね」

「あいつらのやったことは、学校全体にダメージを与えたやろし、あいつらの問題行動に毅然とした態度をとれない学校に、不満を抱えていた生徒や教師も多かったんやろな。前に、高辻中学に行ったとき、北川の元担任の教師は、あいつらがあんなことをしていて、許される筈はないと判らせたかった。だから、うちの学校の担当者に、北川が問題を持った生徒やと言うたと言うてたからな。あいつらの問題行動の本当の意味を知っていた教師はそんなに居なかったんと違うかな」

「柳原さんの前の京南中学の担当者は大薮さんていったかな。その人、その子らの問題行動の本当の意味を知らされていたのやろか」

「大薮は荒井の西陣高校での後輩やから、話を聞かされて、先輩の頼みを聞き入れたということは考えられるけど、荒井がそんなことを大薮に話するやろか。それより、うちの学校の足を引っ張るために、背信行為を敢えてやったのかもしれへん。平林さんは大薮を西陣高校のまわし者やと思てはる。俺も、何となく、そんな気がする。大薮はうちの生徒をバカにするような言い方をよくしよる」

「そんな、教師もいるんやね」

「大薮みたいな奴は、はよ、西陣高校に行ったらええんや。あんな教師に教えられている生徒がかわいそうや」

 そう言って、純一は缶に残っていたビールを飲み干した。



 英語検定の一級と準一級が校外の公開会場で行われていて、純一のクラスの生徒はほとんどが受験に行っているので、今日は教室での勉強会は休みにしていた。午前中、純一は久しぶりに下宿でゆっくりとした時間を過ごした。昼食をとった後、街に出掛けて、この喫茶店に来ていた。木下慎二が純一の前に座っていた。木下のスマートフォンの電話番号を聞いていたので、昼に電話すると、昼過ぎの時間なら出て行けるということだったので、河原町の喫茶店で会うことにしたのだ。

 学校ではなかなかゆっくりと話をできる機会がなかった。純一は彼らの中学生の時の状況を、もう少し聞いておきたかった。

「あいつ、辛かったみたいやけど、俺だけには何でも話してくれよった」

「大島君が亡くなる前にも、話はできてたん?」

「一週間ほど前くらいから、考え込んでるみたいに、あんまり、話をしよれへんようになった。俺が何か言うても、うーんと言うだけで。お前らにも迷惑を掛けてるなと言うたことがあったから、誰も迷惑やなんて思てない言うたら、すまんと言いよった」

「大島君が迷惑を掛けてると思うようなことがあったんか」

「何のことを言うたんか分かれへんけど、あいつが練習の後、ひとりだけ、トレーニングを続けさせられてたんで、放って置けへんかったから、俺らも一緒にトレーニングに付き合うようになったし、あいつがひとりで正座させられて、殴られそうになったら、俺らもあいつの周りを取り囲んで、一緒に正座したりしてたから」

「そうか。君らも一緒になってやったってたんか」

「あいつがちょっと失敗したら、ぐじぐじ、いつまでも責められよった。失敗したら、本人が一番辛いのに、それを責められたら、みじめになるしかないやろ。そんなときには、俺らも何もでけへんかった。変になぐさめたら、もっと傷つくし」

「体罰というより、いじめやな。何で、大島君だけ、そんなことをされたんや」

 木下は考え込むように、黙って下を向いた。それからしばらくして、顔を上げた。

「荒井に嫌なことをされてて、それを嫌やと言うたからなんや。それ以上は、やっぱり、言えへん」

「わかった。それは聞かへんことにする。大島君が自殺したことについて、学校の調査があったとき、校長と教頭に呼ばれて、全部話したと言うてたけど、そのことも話したんやな」

 木下は黙って頷き、俯いた。

「学校はそのことを表沙汰にできなかったから、君の話をすべて葬ったんかもしれへんな」

「俺も、その時は荒井に腹が立ってたから、校長やったら何とかしてくれるかもしれへんと思って話してしもたけど、後で、あんな事、話すべきやなかったと後悔したんや。そやけど、俺は二重の意味で、間違ったことをしてしもたんやな。あいつは、荒井とのことは誰にも話さんといてくれと言うとったのに、話してしもた。それに、あんな事まで話したから、学校は逆に何もできなくなったんかもしれへんのやな」

「実際にはどうやったかは分かれへんけどな。単に、学校の責任をうやむやにしたかっただけかもしれへん」

「どっちにしても、あんな事まで話すべきやなかった」

「それで、結局、学校は何もしてくれなかったから、自分たちでやろうということになったんやな」

「大島は荒井に殺されたんやと言うたら、みんな、納得してよった。俺は、あいつから聞いてた話は具体的に何も言わなかったけど、だいたい、みんな、あいつが荒井にされてたことは、ある程度は分かってたと思う。そやから、俺が荒井に仕返しをすると言うたら、みんな、自分らも一緒にやると言うてくれよった」

「どんなことをやり始めたんや」

「髪の毛を染めたり、ズボンをずらしたり、シャツをだしたり、ピアスをつけたり、いろんな格好をして、目立つようにしたんや。クラスで嫌われてる奴を、みんなの前でいじめたり、授業中、教師をからかったり、いろんな物を壊したり、消火器を投げたり、夜に職員室のガラスを割ったり」

「親に何も言われなかったか」

「最初、親とは毎日喧嘩してた」

「親には、なんでそんなことをするのか、話さなかったんか」

「親と喧嘩してるときに、大島を殺したのは荒井やのに、学校は何もしてくれなかったと言うたことがあって、その後に、事情を説明してくれと言われたんで、話をしたことがあるねん。それから、親は何も言わなくなった」

「担任とか、学校からはどんなことを言われてた?」

「二年のときの担任は、事情を知ってよったから、何も言わんかった。三年の担任も、あんまりうるさいことは言わんかった。たぶん、前の担任から聞いてたんやと思う。それに、俺らも、表でやることと、裏でやることは区別してたし。学校が目をつぶれへんやろと思えることは、誰も見てないところでやるようにしてた」

「そうか。やっぱり、意図的に区別してやってたんやな」

「俺らがやったのは分かってても、証拠がないから学校は俺らに何も言えへんかったんや」

「君らのやってたことは巧妙やったと言うた人がいる」

「俺らのやり方に、腹を立ててた教師は多かったやろけど、一番困ってたんは学年主任やった荒井やったと思う。みんなから、学年主任は何してんねんと言われてたやろから。そやけど、生徒の中には、俺らのやってたことを面白がってた奴も多かった」

「君らの真似をする生徒はいなかったんか」

「いろんなことで、校則違反する奴が増えていったと思う」

「ナイフをちらつかして教師を脅したというのは、やっぱりただの噂やったんか」

「荒井と仲のええ教師が居て、そいつを廊下でからかったら、怒りよって、お前らみたいなクズの不良にバカにされたないと言いよったんや。それで、校舎の裏に連れて行って、もう一度言うてみいと言うたら、青い顔して震えとおったから、話を膨らませて言いふらしたんや」

 純一は思わず、笑ってしまった。

「そんな、噂話がたくさんあったんか」

「そうやな。街で警察沙汰になった話とか、みんなから嫌われてる奴らに酷い暴力を加えたとか、気取った、嫌みな女の奴にやらしいことをしたとか、そんな話はみんな、作り話やった」

「そんな作り話が信用される雰囲気はあったんやろな」

「俺らがほんまに不良やと思われるようになったんは三年になってからや。俺らが歩いて行ったら、みんな、道を空けよるようになって、俺らがなんか言うたら、みんな、従いよるし、誰も文句を言いよれへんようになった。不良らしくなるのに、だいぶ時間がかかったけど、みんなから不良やと思われてしまうと、悪い気分やなかった。不良も面白い」

 木下はそう言って笑った。

「不良も面白いか。分かるような気もする」

「荒井が学年主任としてこんなことされたら困るやろということだけを考えて、いろんなことをやってる間に、ほんまに不良やと思われるようになったということかな」

「今の三年生にも、君らの仲間がいるのかな」

「仲間というか、俺らとよく一緒にいたやつらはいる」

「君らを陰で操っていた、大物のワルがいるという話を聞いたんやけど」

「うん。いる」

 木下は笑いながら言った。

「その子は、どんなことをしてたん」

「何もしない」

「自分では何もしないで、陰で君らを操っていた」

「俺らがそいつをボスに選んだ」

「どういうことや」

「俺らのひとつ下の学年に、伯父さんが国会議員をしてる奴がいて、その伯父さんはやくざとの関係も噂されてる人で、そのことを一部の生徒とか教師は知っているから、俺らも、そいつが俺らのボスで、俺らを陰で操ってると、それとなく噂を流したんや。そいつはちょっと、ワルぶった奴やったから、時々、俺らと一緒にいることがあったんや。本人は俺らを陰で操ってるボスやと言われることを面白がってよった。そいつの周りにも、取り巻きがいたけど、特に何かやるということはなかった」

「その生徒のことは、みんなが知ってたん?」

「いや。知ってる生徒の方が少なかったと思う」

「そうか。作り話やけど、実体はあったんやな」

「単なる作り話やなくて、時々、俺らに、こんな事したら、荒井が嫌がりますよなんて言いよることがあったから、まったく、嘘の話ではないねん」

「その子は、君らが大島君の仕返しをしてることを知ってたんやな」

「いつか、俺が説明してやったら、それやったら、自分も協力したいと言いよった」

「それで、本当らしい話になったんやな」

「そいつに、俺らに協力したら学校からにらまれるでと、言うたんやけど、伯父さんがついてるから大丈夫やと言いよった。本当かどうか分からんけど」

 純一は木下の話を聞きながら、木下のグループについて、これまで耳にしてきた話の背景がかなり分かったような気がした。

 喫茶店の前で木下と別れて、純一はバスで学校に向かった。一度、これまで分かったことを中島利勝に話しておいてやりたいと思った。中島には安永について心配させたままになっている。これまで、純一が聞いた話の中には、生徒に話せない内容もあったが、少なくても、安永が木下のグループからいじめられる心配がなくなったことは知らせてやりたいと思った。

 この半年の間、安永に対するいじめを自分のことにように心配してきた中島にとって、嬉しい知らせになるだろうと思うと、純一の顔に自然に笑みが浮かんだ。


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