魔法少女マジカル☆哲柯ちゃん[女×女]
最初に宣伝をします。明日2025/06/02に、殺しかけた女と殺されかけた女が二人で水に落ちる場面がある悪役令嬢の漫画が出ます。悪役令嬢ですが攻略対象の様子が異常すぎる@コミック7巻といいます。主人公ガールが攻略対象より傍らの侍女への好感度が高いまま7巻に突入しました。
この話とは一切無関係ですが、この短編も倫理にそむいた女二人の話です。
小さい頃、魔法少女になりたかった。
可愛い衣装を着て、変身アイテムを使って、皆を助ける魔法少女。でも段々物事の分別がつくようになり、無から衣装は出てこないし、悪いものを浄化する変身アイテムはなくて、空を飛ぶことも出来ないと知った。
将来の夢の第一希望は魔法少女。後は空欄。第一希望が無くなった後、繰り上がり一位になる夢もなく、ぼんやり過ごしていた私がまた夢を見るきっかけになったのが、化学だった。
中学の化学実験教室。簡単な手品やプロジェクションマッピングを応用した模擬実験に、私は確かに魔法を見た。
化学が進歩すれば、魔法少女になれるかもしれない。
その一心で私は化学に身を投じていた。
周囲からすればだいぶ浮いているし理解なんてされない夢だ、どうして物理研究をしているのか聞かれたら「好きだから」で押し通す。そもそも人と関わるのは得意じゃないから、大学では必要最低限喋らないようにしているので、私に話しかけてくる人間もいない。私の存在を認識する人間なんていない。
研究で賞をとったとしても個人が注目されるのは一過性。化学の世界は数多の失敗と研究と論文の果てに成功がある。名も顔も分からない人間の小さな貢献で大きな夢を見る。それが化学。
って、全部、詩衆院先生という私の敬愛する教授の受け売りだけど。
「哲柯」
だというのに、大学を出た瞬間、大声で名前を呼ばれた。儚く散っていく桜並木の下、よっぽど危ない状況でもない限り出ない声量に、私は思わず振り返る。
生まれてこの方20年。私の名前を呼び捨てにする存在なんて母親しかいない。
「哲柯‼」
しかし見たこともない女が私の名前を呼んでこちらに駆けてくる。
SNSで「爆美女になる秘訣~」なんて言いながら胡散臭い漢方をステマしてそうな雰囲気の女だ。化粧品になんて興味ないのに女として登録しただけでSNSの広告に無限に出てくるタイプの害虫。でも、そういう雰囲気の女のわりに走り方が本気だった。陸上部みたいだな。
私は立ち止まり無言で女を凝視した。小学校中学校高校と私には友達がいない。というかクラスメイト全員私の名前を覚えてないと思う。でも化粧で顔をまるきり変えることは可能らしいので原型を探した。該当者はいない。というか多分年上だ。完全に他人。私は無関係。だというのに、「いた‼ 良かった‼」と女は私をぎゅっと抱きしめた。子供がクマのぬいぐるみを抱きしめるみたいに。女は私より背が高い。いや、私より背か高い人間なんて無限にいるけども。だから抱きしめられるというより覆いかぶされるに近かった。
「あの、なんですか突然……」
「そう、突然なの……当然なんだけど……会えて嬉しい! 助けにきたよ! お願いがあるの!」
女と目が合う。彼女はなぜか目が潤んでいた。助けに来たよ! お願いがあるの! ってなんなんだ。支離滅裂だ。ステマインフルエンサーっぽいけど配信者か何かか。肖像権の侵害で訴えるべきか。
「私と協力して、哲柯を殺す犯人、一緒に見つけてほしい‼」
周囲のカメラを探していると怖いことを言われた。
訴えるとか司法の土俵で戦える女だと一瞬でも思ったことを激しく後悔する。
これなんかの脅迫で立件できないのか?
「……」
女の言葉に私は無言でスマホを取り出し110番を押そうとする。しかし女が私の腕を取った。女は華奢だけどデカいから体格差で負けスマホを奪われた。
「なんで通報するの?!」
挙句の果てに被害者面でヒスってくる。
「いや、気持ち悪いんで。なんかの撮影ですよね? どっきりみたいな」
ああいうものはてっきりヤラセだと思っていたけど、こうして「本物」だったなら、迷惑この上ない。しかし女は絶望顔で私を見た。
「な、なんで信じてくれないの、っていうか気持ち悪いってなに?」
「突然知らない人間に抱き着かれてそんなんされたら気持ち悪いでしょ。っていうか何で私の名前知ってるんですか」
「知ってるも何も付き合ってる……いや、この時間軸だとまだ付き合ってない……っていうか出会ってもないんだけど……でっでも、わ、私のこと一目ぼれだって言ってたじゃん‼ なんでそんなに冷たくするの⁉ 私なんだよ!」
女は再度ヒスる。
電車デシベルを越えるヒスに周囲は立ち止まり、女と私を見た。
「別れ話? 別れ話?」
「絶対あれマチアプで一方的に切ったみたいなパターンでしょ」
「うわぁ……ひっでえ」
なんで初手で別れ話疑われてるんだよ。女同士だぞ。すると私と同じように「あれ女同士じゃん」と指摘する人間も出てきた。でも「今そういう時代じゃん」と反論されていた。時代もくそもないだろ。そして目の前のヒス女は「ねぇ、私可愛いでしょ? いつも好きって言ってくれてたじゃん!」と喚く。
私に関心を抱く人間なんていない。永遠に。
しかし物事に永遠なんてない。
そんな証明が今まさに行われていた。
最も皮肉な形で。
社会的に殺されかねないと判断した私はその場から逃走したけれど、ヒス女に追い回された。コンビニに駆け込み通報をお願いし、無事警察署にヒス女を引き渡した。
今日は怖い目にあった。
明日からの大学生活も怖いけど。でも、結局あの女はいったい何だったのだろう。直帰する気力もなくハンバーガーショップでサイドメニューのポテトとジュースを買いアパートへ帰宅し──絶句した。
「酷い‼ 逃げるの大変だったんだけど‼」
ヒス女が家の中にいた。すぐにスマホで通報しようとするとやっぱり体格差で負けスマホを取り上げられる。
「なんなんですか貴女は! なんで家の中にいるんですか!?」
「合鍵あるから!」
「作ったんですか」
「哲柯にスペア貰ったの!」
ヒス女が主張してくる。あげるわけない。スペアなんか。
「っていうかこっちこそなんなのよ‼ あんなに好きだって言っておいて‼ 一年出会うのが先になっただけでそんな冷たいなんておかしいって‼」
女はヒスる。おかしいのはこの女のほうだろ。
「そんなこと言われても貴女のこと何も知らないんですよ」
「私は全部知ってる‼」
「全部?」
「ハンバーガーショップでポテトしか食べきれないからポテトばっかり食べてることも! 詩衆院先生の言葉が好きなことも、あ、あと──小さい頃の夢が魔法少女だったこと‼」
ヒス女が喚く。ハンバーガーショップでポテトしか頼めないのは、最悪、ストーカーとかされてたら分かるけど、後のことは絶対他人が知りえないことだ。
私はヒス女の返答にしばし思案し、向きなおる。
「貴女の名前は?」
ヒス女は九幹徳衛と名乗った。面倒くさそうな女だと思ったけど名前もややこしい。私の部屋で私の買ったポテトを勝手につまんで寛いでいる。
「ポテト勝手に食べないでください」
「だって哲柯、三分の一くらいでお腹いっぱいになるじゃん。だからハンバーガーセット頼めないんでしょ? わざわざ割高の単品で頼んでる。少食のわりに好み煩いから冷えたハンバーガーも何となくモサモサして嫌で」
九幹徳衛は私のパーソナルデータを平然と語る。全部合っているから恐ろしい。
「で、貴女はいったい、何しにきたんですか。助けるとか私が殺されるとか言ってましたけど」
「そう! 哲柯殺されちゃうの! 一年後の哲柯の誕生日の日に!」
「へえ」
「それだけ? 殺されちゃうんだよ? 信じてないってこと?」
殺されると言われても、突然のことだし実感がわかない。
「殺されるなら、まぁ、それも運命かなって思うので」
「そんな……」
九幹徳衛は悲痛な声でぎゅっと手のひらを握りしめた。泣きそうになっている。私がいじめたような気分になるからやめてほしい。何も悪いこと言ってないし。
「で、私がここにいられるのは三日間だからその間に犯人を捕まえたいの!」
「犯人って誰なんですか」
「わかんない! ただ犯人もこっちに来てるの! 私と同じく!」
「じゃあ貴女は人殺しとタイムスリップしてきたってことですか」
「うん!」
すごい元気な返事だけど、九幹徳衛の言葉をすべて信じるとなると未来の殺人犯がこっちの時間にやってきてるわけで、司法の隙を潜り抜けているし、こっちで誰かを殺すか分からない。危険すぎる。
「でも、さっき犯人分からないって言いましたよね、でも何で犯人がこっち来てるって分かるんですか?」
「哲柯のノートにあったから! 犯人、哲柯の大学にいる人らしくて、哲柯はタイムスリップする機械を作ってたんだけど、その研究を盗むために哲柯を殺そうとしてて、それで……殺されちゃったみたいなんだけど、研究が無かったらしくて、過去の哲柯から奪おうとするらしい! 全部哲柯のノートにあった! タイムスリップする機械の使い方も!」
昔の洋画のあらすじみたいだな。つくづく思う。平日学校を休んだ午後にやってる映画のどれかしらに該当してそうだ。タイムスリップしてしまう、というのはありがちだし未来で誰か死んでるのもありがちだけど、人殺しごと飛んでくるのは本当に勘弁してほしい。
「そのノートは」
「み、未来に置いてきちゃった!」
漫画みたいな動作で九幹徳衛はショックを受けたような顔をする。なんかもう、犯人が犯行を言い当てられバレたみたいな顔をしていた。
「っていうか哲柯が持ってるんじゃないの? 哲柯ちゃんの推論ノート! 部屋に無いんだけど!」
「そんな馬鹿みたいなノートはないですし、研究もしてないです」
私は別にタイムスリップする機械なんて作ってない。そもそも持ち歩くノートにふざけた名前なんかつけない。自分しか使わないのだから。ナンバリングも記名も必要ない。誰かのノートと混ざることもないし。定期的にストレスで自分の感情を書きなぐるノートを作っているけど、持ち歩かないようにしている。読まれたら終わるから。めちゃくちゃ希死念慮の強い自殺志願者だと疑われかねない。
「研究……をそもそもしてないので、推論ノートが存在するならば多分これから作ることになると思うんですけど……」
犯人はその推論ノートを探しにここへやってきたのだろうか。だとすればこの世界にノートが存在してないとなると、犯人はどうするつもりか。というか私の研究を盗もうとするならばある程度の知能指数は保証されているわけで、研究の成果から逆算して、ノートの制作時期を割り出しこの時間軸に飛んできても無駄、といった結論は出ないのだろうか。というかそのノートを失い、犯人がノートを求めてやってきたということは、犯人はノートを見てない、九幹徳衛はいつノートを見た? タイムスリップする時間までは指定できなかった?
「タイムスリップの時間は選べなかったんですか?」
「どんどんズレちゃって……!」
「ズレる……というか犯人が探してるノートを貴女は読んだんですよね」
「うん」
「それを犯人は知ってるんですか?」
「うぅん?」
バカそうな返事をされた。誤魔化し愛想笑い。私は白けた気持ちになりつつ、推論を展開する。
「犯人が、貴女がノートの内容を把握していると知っていて、なおかつ、この世界にノートが存在してないって知ったら、貴女にノートの内容を洗いざらい吐き出させるようにするんじゃないですか?」
「あ、あ、あ、え、それ何視点の話?」
九幹徳衛混乱している。今までそんなこと考え付かなかったのだろう。
「未来で殺されるのは私かもしれませんが、現在ならば殺される可能性は貴女のほうが高い」
「だ、で、でも、犯人は私がタイムスリップしてきたこと、知らないから……だ、大丈夫!」
「本当ですか?」
疑いの眼差しを向けると九幹徳衛は「う、ううん」と返事にならない返答をする。絶対誤魔化してる。多分、私を助けたい! なんて飛び込んできたはいいものの、自分が殺される可能性については一切考えていなかったのだろう。
「だ、は、犯人が哲柯を監禁して無理やり研究させる可能性もあるし私はこの三日間! 哲柯を監禁して守るの!」
九幹徳衛は簡単に犯罪宣言をする。たぶん、一人になりたくないのだろう。自分が殺されるかもしれないのだ。普通なら当然の反応だろう。
「三日間って、なんですかその時間制限は」
「ここにいられるのが三日後の15時だから!」
「来る時間はズレたのに帰る時間は絶対なんですか?」
私の追及に、「そ、それどういう視点……? え、今何の話?」とまた混乱した。
視点を求めるのは量子力学の人間の癖だ。未来の私が「何視点で話してる?」みたいな詰め方をこの女にしたのだろうか? いやでも素人にそんな詰め方しない。
「帰る時間は絶対だもん!」と九幹徳衛は喚く。
「来る時間はズレるのに?」
「いられる時間はぴったり72時間だから!」
「72時間後未来に戻ったら貴女犯人に殺されたりしませんか?」
殺人を犯した人間は、一線を越えているので一人目も二人目も大して変わらないと聞く。同時に、本当に九幹徳衛の言う通り私と彼女が特別な関係であったなら、未来に戻ったとき、この女も危ないんじゃないか。そして私の機械を使って同時にタイムスリップしているのならば、戻ってきた瞬間この女は鉢合わせるのでは?
しかし私の疑問に、九幹徳衛は「心配してくれてるの?」と、感動したような様子で私を見つめてくる。
「人の命なので」
あと、未来の私はこの女にかつて見ていた夢を伝えているわけで。だとしたら、思う所もある。あんまり騒がれると困るな、と様子を伺えば九幹徳衛は泣きそうな顔をしていた。私はどうしていいか分からず、推論に逃げる。
「あの、犯人も一緒に飛んできたって貴女が知っているってことは、犯人より後に飛んできたってことですよね。というか、タイムスリップしてきて、犯人とは別の場所に飛ばされてきた……ってことですか? ズレたって言ってましたけど、犯人がこの時間にタイムスリップしてきた保証は? 犯人が別の時間に飛んでる可能性は?」
「分かんないよ! 私馬鹿だもん! 天才の哲柯とは違うもん!」
九幹徳衛は「分かんない!」と繰り返し、ポテトをムシャムシャ食べ始めた。バカっぽい仕草だし、面倒くさい。本当に未来の私はこの女と関係を築いていたのだろうか。全部この女の嘘なんじゃないのか。でも、そうなるとこの女が私の夢を言い当てた辻褄が合わなくなる。
「分かんないとなると、犯人捕まえようがないというか、未来の貴女も危ないって話をしてるんですよ」
「未来で犯人は捕まる! タイムスリップが終われば! そういうようにしたから! でも、哲柯が殺される未来を変えたいの! 私は哲柯に生きててもらいたいの! だから助けに来たんだもん!」
やけ食いするようにポテトを食べ、九幹徳衛が訴えてくる。涙まで流している。ただ一人の証言者がここまで信用できないの、普通に勘弁してほしい。対策の立てようがない。しかも人を騙しているとかじゃなく致命的に知能指数が無さそうな感じがキツい。絶対本人は真面目に話してるけど捜査かく乱してくるタイプだ。演技だったらまだマシだけど、どう見てもこの涙は嘘じゃない。
それに嘘じゃないのが、キツい。
だって助けに来たなんて言われるのも初めてだし、自分の存在について泣かれるのも初めてだから。
◇◇◇
私は将来殺されるらしい。それはまあいい。ただ研究のために人を殺した人間が発生することは避けたかった。
だって、その研究がどんなに成功していても殺人によりケチがつくわけで、研究そのものが危険じゃなくても、人がその叡智を奪い合い殺し合いを始めるならば、安全性の為に廃される。
当然のことだ。化学や科学は苦しみを減らし幸せを増やすためにあるもので、どこまでも最終目標は救済に至るべき。
それで新たな苦しみを有無ならば、廃するのが最終決定だ。ゆえに殺人の発生は、研究者の努力により積み上げられた叡智への冒涜かつ、その後の研究の障壁になる。
ということで私は、将来私を殺す犯人を探すことにした。最悪三日間のタイムオーバーが過ぎても、私が一人で犯人を探しておき、それらしき時期に備えればいいだけのこと。最悪、タイムマシンを作らなければいい。
ただ、今できることがあればしておきたいので、大学で犯人の手がかりがないか調べることにした。私はこの時間軸ではまだ研究に着手していないので技術を悪用している犯人にとって、私は絶対に殺してはいけない存在だ。殺される心配はない。逆に狙われるのは未来から来たヒス女こと九幹徳衛である。だから家に置いておこうと思えば「一緒にいたい!」と喚き散らかしたので変装させ、関係者扱いとして大学に連れていくことにした。
「待って妹!」
いつも通りの速足で校内を進むと不満げに九幹徳衛がついてくる。
「なんで関係性を発表するんですか?」
「だって怪しまれちゃうし……!」
「何も言わなきゃバレないし……っていうか、私別に大学で話す相手もいないので、別に誰も私を気にしませんよ」
そう言うと九幹徳衛が目に涙を浮かべた。面倒くさい。なんで私に話し相手がいないことに傷つくんだこの女は。
「ぐ、グループワークとかどうしてたの」
「どうしてたも何も、余り物として班に入る。どうしても余るなら、一人」
「……えぇ」
九幹徳衛がお腹を壊したみたいな声を発した。感受性が高すぎて扱いづらい。
「……私と関係があったのなら、それくらい知ってるはずでは……? というかどういう関係なんですか? 貴女と私は。恋人だったんですか?」
九幹徳衛は見るからに私より年上だ。未来から来たから当然だけど。そのため、構内に入ってすぐ九幹徳衛という生徒が学内にいるか、提出が強制されている論文データを調べたけど、同じ学年も下の学年にも上の学年にも卒業生にも九幹徳衛のデータはなかった。論文スキップクソバカの可能性もあれど、外部の大学の論文アーカイブにもこの女のデータが無い。
「な、名前がつけられない関係……」
勘弁してほしい。この女が一方的なストーカーの可能性すら出てきた。私が誰かに一目ぼれするように思えないし。一目ぼれされたって言って突っ込んできたヤバい女のほうが現実的だ。でもその対論として、私が魔法少女になりたかったことを知っている、という事実がある。どちらかの理論を成立させれば矛盾が生じる。安易に断定できない。
「……私が貴女にアプローチをしてたんですよね……?」
「う、うん」
九幹徳衛は神妙な面持ちをする。最初の頃の威勢はどこいったんだ。せめて堂々と頷いてほしい。
私は彼女の顔をまじまじと見る。
それも一目ぼれ。インフルエンサーにいそう、とは思うけど一目ぼれはしていなかった。
でも未来の私はこの女に一目ぼれをしているわけで。
馬鹿みたいな恋愛ドラマシステムで一緒にいたなら、カップル系動画配信者のヤラセ込みVlogみたいな過ごし方……というか、そうはいかずとも一緒に過ごしていたわけだけど、どういう出会いでこの女に一目ぼれして、どういう流れを経てこの女が私の死を悼みタイムスリップまでしてくるのか理解できない。私は、魔法少女になりたかった過去なんて絶対話さないだろうし。それこそ、よっぽど一緒に研究を重ね、何かを成功させた、とかじゃないと言わないだろう。
でも、論文データにこの女のデータはないのだ。一緒に研究はしてない。
「どういう出会いだったんですか」
「大学!」
九幹徳衛は言う。大学で出会い、非研究者、年上。私は社会人と付き合っていたということだろうか。ただ、今必要なのは彼女とのヒストリーではなく、殺人鬼の手がかりだ。タイムスリップに関する研究を成功させたと言うことは、時空に関する研究をしていたわけで。
私がそうした研究に手を出す理由は察しが付く。無から魔法のステッキを出すためだ。変身ステッキで衣装を身にまとうにせよ飛ぶにせよ空間に関する研究が必須で、それらとタイムスリップ──いわゆるタイムマシンの研究はたぶん繋がっている。
無から物質を出すには、素材をステッキにするにせよ、瞬時に組み立てが必要──時間に関わることだから。
私は量子力学の研究室に向かい、研究者の名前をメモしていく。横着して電気をつけなかったけど暗い。
「すいません電気つけてもらっていいですか」
「わかった!」
パチン、と九幹徳衛はスイッチをいれる。私は「ありがとう」と彼女に声をかけてハッとした。研究室の照明スイッチのそばには特殊な換気等のスイッチもあり、素人はどのスイッチが照明のスイッチか分からない。
でも九幹徳衛は一発で正解にいきついた。
未来で私が教えたのかだろうか。彼女に。
ともすれば私は、この女というか、誰かと関わることが出来ていた、というわけで。
「なに?」
じっと見つめる私に九幹徳衛は首を傾げる。
私はすぐに何でもない、と首を横に振って、研究者のリストを確認していた。
研究者リストを抜粋した後は、一緒に食堂へ向かった。「お腹すいた!」と九幹徳衛に喚かれたからだ。「血糖値の低下は思考力を鈍らせちゃうから」と最もらしいことまで言われてしまい、しぶしぶ私は学生食堂に向かった。
「それだけでいいの?」
食堂で頼んだラーメンをすすりながら九幹徳衛は私の食事──バナナオレを見つめてくる。彼女は私のハンバーガー事情について知っているのに私の食堂事情を知らないのだろうか。
「どうして? 私は貴女とお昼を食べたことがないんですか?」
問いかけると九幹徳衛が目をぱちぱちさせ、「知らないわけじゃないもん! 今日は! ってこと!」と誤魔化すように首を振る。記憶が混濁している……? タイムスリップの過程により脳が損傷でも受けているのだろうか。この大学の近くには獅子井総合病院という大きな病院がある。急性期医療──要するに重大疾患等に対応可能の病院故、設備もかなり整っているし、この大学とも提携している。たとえば私の大学では任意で獅子井総合病院で健康診断および採血を行い、獅子井総合病院は医療の研究の為血液を活用、大学側では自らの学生たちのDNAデータを用いて研究するなど、協力関係にあるのだ。
血液をとりDNA検査をすれば、分子レベルでストレス値を把握できる。あまりないことだけど特に、
そもそもタイムスリップをした人間の精神状態はどうなっているのだろう。
「一回検査してみる?」
ラーメンを食べようとする九幹徳衛のタイミングを慎重に見計らって尋ねる。
「な、なんで!?」
「普通に、タイムスリップしてきた人間の頭って危ないんじゃないかと思って」
「ど、ど、どういう意味」
「いや、タイムスリップ中に常人ではありえない経験をしてたらそれこそPTSD発症しかねないっていうか」
虐待とかいじめとかパワハラとか、日常的にも発生しうるもの。それらは健忘やパニックなどなど症状は多岐にわたるし、睡眠障害等、さらに健康に影響する身体の反応に繋がりかねない。そうしたものは目に見えないし、該当者が元々どういう人物か分からないと、そういう性格だと片づけられ、分かりづらい。気質的に幼く物忘れが多いかと思いきや、戦時を経験し変化していて、元々は神経質で記憶力が高かったとか、温和な性格だったのに些細なことで怒りやすくなる、とか。
そういったPTSD発症に関連するストレス値も、DNAや分子構造の関連により少しずつ把握しやすくはなっていっているから、いずれ……そうした症状に苦しむ人間の辛さが今より和らぐ日が来るかもしれない。
「だ、大丈夫だもん! 私は! それより哲柯こそ大丈夫なの? 独り……なんだよね?」
「人はみんな独りだよ。結局」
「今はそうかもしれないけど、私は哲柯が独りなの嫌だもん! 哲柯が自分のこと独りだと思ってるのも嫌だし、そんなこと思わなきゃいけないのも嫌! 一人でじっくり本読みたいとかはいいけど、ああ自分って独りだって哲柯が思ってるのは嫌!」
めちゃくちゃ大きい声を出された。本当に勘弁してほしい。この女は殺人鬼とタイムスリップしてきてる自覚があるのだろうか。
「ハンバーガーだって、今は頼めないかもしれないけど……ちゃんとこれから、食べれる日来るよ、あったかいハンバーガーも!」
九幹徳衛は勝気に微笑む。あまりにも自信に満ち溢れていて、本当にそんな未来が来るのかもしれないと、危うく錯覚しそうになる。というか、この女と私は──。
「それは、貴女と分けるから? 昨日のポテトみたいに全部食べつくすんじゃなくちゃんと半分こなんですか?」
揶揄するつもりで問う。しかし私の想像に反して彼女は傷ついた顔をした。
「食べつくすってのは、悪い表現でしたね。デリカシーがなかった」
私は謝罪する。しかし九幹徳衛は何かに怯えるように「違う、違うの」と首を横に振る。そしてそれきり、自分から話すことはせず、手元のラーメンを見る。
まるで、そんな未来絶対に来ないと、絶望するような眼差しで。
昨日から私に一目ぼれしてくれたのにとヒスる情緒不安定な女に付き纏われつつ未来で自分を殺す犯人を探す。
そんな映画があったとして、色々状況説明をしなければいけない冒頭はまだしも、途中で犯人探しもせず科学館に入るなんてことは普通に許されないと思う。殺人鬼が追ってきて逃げ込むならまだしもだ。
だというのにヒス情緒不安定女こと九幹徳衛は昼食後「どうしても科学館に行きたい」と言い出し、一応なにかの手がかりにならなくもないかもしれない……という中途半端な感慨で向かうことにした。
「……過去の科学館についてご感想は」
「うん……」
九幹徳衛は神妙な面持ちで展示を眺めているが、周りはとんでもないことになっていた。平日の午後なので館内は修学旅行生のほか校外学習としてやってきた近隣の小学生によりごった返し、子供声もデカいが教員の「静かにしてー周りの人に迷惑だからー!」という注意の声もデカいという騒音の重奏状態だった。
「まぁ、この時間は……無理もないって言うか、相場は夜っていうか閉館間際ですよね、こういうところは。もしくは土日、あと、完全な昼時」
「そうなの?」
「だって、こういう行事って平日の午前か午後じゃないですか。学校系。給食の時間は外されるし夜は……ねえ。っていうか、時期も悪くないですか? 丁度この春の終わりかけって、そういう行事多いっていうか……」
「ううん?」
私の説明に、九幹徳衛は不思議そうにしていた。全く理解出来ていない様子だ。
「……こういう行事、なかったんですか、そちらは」
「いや、あったと思うけど、行ったことない」
なんか気まずいことを聞いてしまった気がする。私が黙ると彼女は「親が、そう言う行事が嫌いで」と付け足した。
「なんか、そういうことするんだったら、勉強してなさいって、受験落ちたりしたし」
「なるほど……」
教育熱心な家庭、ということか。
「うちとは、逆ですね」
私は展示説明を目でなぞりながら呟く。彼女は返事をしない。この女はどこまで私の家庭事情について知っているのだろうか。魔法少女の夢を知っているならば私の家族についても知っている……のかもしれない。別ベクトルだけど同じくらい人に話をしたくないことだから。
「次の展示行きましょうか」
私は話題を変えるついでに、通路を指す。九幹徳衛は追及してこない。彼女が複雑な家庭環境だからか、私の家族について知っているからなのか、どちらの理由かは分からなかった。
◇◇◇◇
「おやつ食べたい!」
科学館から出た後の、九幹徳衛の第一声がそれだった。
どうかしてるんじゃないのか。タイムスリップしてきて私を助けに来たというわりにこの女はこの時間軸に来て喚く、食堂で食べる、展示を見るなど、未来を変えようというより過去に思い出を作りに来たとしか思えない行動を取っている。ただ、「お願いお願い」と、もう余命少ないんですとでも言いたげな必死さで頼んできたので、仕方なく傍のアイス屋さんでアイスを購入し、店のそばのベンチで食べることにした。
溶けないようアイスをすくいながら、私はふとアイスを食べつつも私を凝視する女を見る。
なんか、目に焼き付けられているような見方だ。まぁ、将来的に私は死ぬし、九幹徳衛は私が死んだあとタイムスリップしてきたわけで、この女にとっては、死者というか、タイムスリップが終わったら私が死んだ世界に戻っていく可能性があり、生きている私との最後の思い出作り……になるのかもしれない。
まぁ、最初の「助けに来た」なんて言っていた大声と反比例して、犯人探そうという気が感じられないけど。
もしかして私に犯人探し、全部投げっぱなしにして未来に戻る……気なのだろうか。そして私が将来自分の死を阻止するわけで。
でもその時、こうして過去にやってきた九幹徳衛の記憶はなくなるというか、タイムスリップするという行動そのものが発生しなくなる。そうなると私の脳にある、タイムスリップしてきて、「助けに来たよ!」みたいな感じで大声を出しヒスられた記憶は無くなるのだろうか……?
考えていると、ぐす、ぐす、と心臓にくるような音が横から聞こえてきた。隣を見るとアイスのカップを抱えながら、九幹徳衛が泣いていた。
「なんで泣いてるんですか」
「生きててくれてるんだなあって思って」
九幹徳衛が笑いながら泣いている。アイドルに会って感極まったファンみたいだ、と他人事のような感慨が浮かぶ。
泣いているうちにアイスが全部溶けたら、彼女はアイス液をちゃんと飲むのだろうか。溶ける前に食べたほうがいい、とか言ったほうがいいのだろうか。勝手がわからず彼女のアイスを確認すると、カップは空になっていた。私のことを見ながらアイスを食べてカップを空にして手持無沙汰になったら泣き出したってことか?
なんなんだこの女。
「……私って、殺されてたんですよね。どんな感じだったんですか」
「ど、どうって?」
「化学の役に立てたのかなと思って。研究室とかで死んだなら、こう、研究の為の寄付金とかが集まりやすくなる反面、清掃とかで迷惑かけちゃうかなと思って、道端とかなら、怖い思いをさせちゃうかもしれないですけど、掃除の手間は省ける」
「なんでそんなこと言うの……?」
「なんでって」
「だって、殺されちゃったんだよ? なんで、死んだあとの寄付とか、掃除とか、考えてるの? そんなこと考えられないでしょ、もっとこう、怖いとかないの? だって死んじゃうんだよ? 未練とか、やりたいこととか、これしたいのにとか」
「怖いと言われても……私が死んで悲しむ人間なんていないじゃないですか」
言ってから、まずいと思った。
少なくとも九幹徳衛は泣いているのだから、一応、悲しんでいるわけで。
けれどこうして涙を流す九幹徳衛を前にしても、私が誰かと一緒にいる未来なんて想像がつかない。未来のことだから、信じられないからというのもあるけど、そもそも、私は両親と上手くいかなかった人間だ。
きちんとした家族が形成できなかった自分が、他の誰かと繋がれるなんてありえないから。
人は親子関係や群れを作って人との絆を学ぶらしいけど、私にはない。
私の母親は、たぶん子供想いだったと思う。授業参観に来たりお弁当を作ってくれたし。
でも致命的なところがあった。代表的なのは、子供が加害された時の関心の薄さ。守る、助けるという意識の欠如だ。
私の家は脱衣所の窓が道路に面していて、通行人が中を見ることが出来てしまう難所があった。換気扇が故障気味かつ、お風呂場の明りをつけていないと換気扇が作動しないタイプ。全員がお風呂に入った後、脱衣所の窓を開けるのが必須だけど、服を着てからじゃないと、普通に通行人に裸を見られるリスクがある。
だから、順番的にはお風呂から出て、着替えて、窓を開けるのが一番リスクがない。
でも母親はそれを嫌がった。私がお風呂から出て着替えようとするとすぐに「窓開けるの忘れてるよー!」と、無邪気に注意をしてくる。着替える間もなくだ。「すぐに開けないとおうちが湿ってカビ生えちゃうよー!」というのが母の理論で、私の論理を伝えても、「窓開けてね」で終わり。
いつ、裸を見られるか分からない。そうした中で私は母親の言うことを聞くしかなく、お風呂から出たらすぐに窓を開けていたわけだけど、予防を一切しない中で事故なんて防げるはずがない。
『うわあ~……あっは』
どこの誰かも分からないおじさんに笑われた。
しばらくして、母親にすぐに言った。返事は「そうだね」「嫌なおじさんだね!」「気持ち悪い!」と母親は怒っていた。
私が「私がお風呂から出るといっつも、窓開けてって言ったのはお母さんだったよね」と言っても、通じていなかった。
そういう、母親だった。父親は、いない。顔も知らない。死んだと聞かされていて、でも母親と色々辻褄が合わず、後から離婚だと知った。
父親は私と会おうとしない。というか、影も形もないので興味が無いのだと思う。母親に居場所を聞いたことが無い。だって向こうが会いたいと思ったならば、幼い頃から父親の顔を知らない私なんて出来上がらないから。
両親の愛情を受けて育った子供。当たり前だったはずの、もの。
それがないのだ。私には。
母親は私を女手一つで育てていて、お風呂のことは些細なかけ違いだったと思うけど、助けてもらいたい、支えが欲しいと思った時に、いつもいなかった。普通の人はいざとなったら親が助けてくれるらしいけど、私は違った。全部自分でなんとかしなきゃいけなかった。
そう言う人間は依存しやすく、精神的に自立できないらしいので、なんとか一人で生きていこうとしているけど、たまに羨ましくなる。助けてもらえる人。
SNSで、親と仲良くしてる人とか、親と仲良さそうでいい子そうとか、そういうのを見て、たまらなく一人だと思う。父親から必要とされない、母親に無意識に見捨てられがちなだった自分が、果たしてこれから先、誰かと理解し合える、つながれる瞬間なんて来るのだろうか。
一回そういうことを学校の先生に相談したことがあるけど、「あなたは頭がいいから大丈夫」「しっかりしてる」「みんな辛いことがあるの」「ないものばかりねだってもだめ。今ある幸せに目を向けないと」「お母さんに生かしてもらってるんだから」と、丁寧に教わった。
その教えを、私はどうしても受けいれられなかった。
羨ましかった。
誰かに誕生日を祝ってもらうとか、励ましてもらうとか、慰めてもらうとか、褒めてもらうとか。
そういう、優しくて温かそうな幸せが、私の人生にない。嫌なら家から出て行けばいいだけの話。
それが出来ないのだから欲してはいけない。欲張るべきではない。傲慢だ。
だって手に入らないから。
私の人生にはないもの。
そんなもの、あってはいけない。私は育ちの面で壊れているし、もしもこれから先、少しでも触れてしまえばきっと縋りついてしまう。癖になって駄目になる。醜い。これ以上、駄目になったら終わり。だって私は、おかしいから。無いものばかり探してしまう欠陥品だから。
だから、テレビで見る魔法少女に助けてもらいたかった。魔法少女は誰だって助ける。私なんかでもいつか助けてくれると思ってテレビを見ていた。でも、いつまで経っても助けが来なくて、この世界に魔法なんてなくて魔法少女もいないことを知った。
その後、化学を知った。
私は正直なところ私が魔法少女になれなくてもいいのだ。
化学の礎になって、魔法少女になりたいと夢見た人間が、夢を叶えたり誰かを助ける力になりたい。そうして助けてもらえない人間が少しでも減ればいい。
それを夢見ることだけは、多分、私が持っていていい幸せだ。
「多分、私は、私が死んだことに、後悔は持ってないと思う。発明ってそういうものだし、それが私の幸せ──」
言い切る前に、頬に熱と激痛が走った。一瞬何をされたか分からず、後から九幹徳衛に頬を平手打ちされたのだと理解する。
「なんで……いった……暴力……は?」
「後悔しててよ!」
九幹徳衛は叫んだ。
「死んだこと後悔してよ! 後悔しててよ! 私ともっと生きたかった、幸せになりたかったって、思ってよ。なんで死んじゃわなきゃ駄目なのって、私もっと幸せになれるはずだったのにって、後悔して後悔して、未練いっぱいでいてよ!」
「未練って……」
「私は、ずっと後悔してた。なんでもっとちゃんと哲柯のこと見てなかったんだろうって。哲柯のこと一人にしちゃってたんだろうって。私は、人に好かれる人間じゃないって逃げてたんだろうって、哲柯は強い人だし頭もいい、恵まれてる、私とは世界が違うって勝手に決めつけてたんだろうってなんで、生きてるうちに、ちゃんと話をしてなかったんだろうって」
「別に何も話をしてなかったわけじゃ……」
「してなかったの!」
九幹徳衛は涙を流しながら自分の膝を叩いた。
「何にも、何にもしてないの。私、哲柯に何も言ってなかった。好きも、何もかも、返してない……!」
「返してない……?」
「哲柯が、私に好きだって言ってくれて、一目ぼれしたって言ってくれて、一緒に、過ごしたの。それで哲柯はいっつも、私に好きだよって言ってくれてたけど、私は、適当に流すばっかりだった。でも、哲柯が殺される日、哲柯は私が会いに来て、私に哲柯のおうちのこととか、色々話をしてくれて、私本当に、ちゃんと哲柯と向き合おうって、明日、哲柯とちゃんと話をしようって、明日こそはって思ってたら、哲柯……殺されちゃってて。だから、哲柯は、多分、私と両想いだったことも知らないし、自分は独りぼっちなんだって思ったまま、殺されちゃったの……」
九幹徳衛が泣く。どうしていいか分からない。分からないなりに、頭を撫でてみた。頭を撫でられたことは無いけど、撫でられてみたいなとは常々思っていたから。
そうして頭を撫でながら、ふと気付く。
彼女は私と出会った時、「一目ぼれじゃなかったの?」みたいな話をしていた。私が彼女に一目ぼれし、彼女の言うようなアプローチをしていたと仮説を立てたとき、私は必ず、相思相愛の胡散臭いカップル配信者みたいな関係性を想像していたけど、私が一方的に彼女に愛を伝えていた?
ここから先、私の精神性でそんなことが起きるだろうか?
九幹徳衛に対して一目ぼれだと言うような精神性。そして目の前の女が私の告白に返さない状況。
……目の前の九幹徳衛に告白し、玉砕しながらもスペアキーを渡していた私は、過去、こうして平手打ちしてくるような九幹徳衛──要するにタイムスリップしてきた九幹徳衛の記憶を持っているのでは。
彼女は、タイムスリップに関して『ズレた』と言っていた。
今目の前にいる九幹徳衛は、何度もタイムスリップしてきている?
「……初めてじゃない……の? タイムスリップ」
問いかけると、「なんで」と九幹徳衛が声を震わせた。答えだった。
おそらく私の死の未来は避けられない。
未来から来た九幹徳衛が、現在に存在する最終日がやってきた。
言葉にするとややこしい。ヒス女滞在最終日とまとめるほうが楽かもしれない。
私は九幹徳衛に犯人から逃れるため別の大学の講義を受けたいと願った。今日が最終日だというのに彼女は「うん!」と声を弾ませ承諾し、私の手を引いて外出した。
──失敗は例として残ります。それを嫌だと思う人もいるかもしれません。でも、何千年後の誰かがその失敗から成功を生む。そうしたらその失敗に価値が生まれる。研究は期待と祈りです。その祈りの重奏に未来がある。一見価値のない存在であれ、すべて、果ての未来に繋がる。無駄はない。無駄にしない。すべて意味あるものにする。私は自分を天才だと思いませんが、何か一つ才能があるならば、その才能が欲しいと思います。
私の敬愛する詩衆院教授がマイクを通して話す。
教授はここ、果港国立大学という文理最先端の大学で宇宙科学の教授をしており、国内の大学において最年少かつ最速で教授職に就任した若き天才である。
失敗は恐れなくていい。夢を見る権利は誰にでもある。皆そう言うけど失敗を肯定してくれるわけじゃない。
でも科学も化学も失敗を肯定し、成功と同じように歓迎してくれる。優しい居場所。存在を許される場所。
ファンタジーみたいな世界だ。実際、魔法みたいなことを科学や化学で再現できる。それでもなお、魔法があると信じたい。
科学や科学で解決できない目に見えないことに、耐えられない日があるから。
講義が終わった後、私はハンバーガーショップに向かった。九幹徳衛は泣きそうになりながらハンバーガーを半分にして私に渡してきて、自分は半分のハンバーガーと追加でチーズバーガーを食べていた。「美味しいね」とはしゃいでいたが、ずっと目に涙を浮かべていた。
食事の時間を楽しむのではなく、死んだ人間との思い出を振り返るみたいな時間を過ごした私と彼女は、最後に海沿いの公園の桟橋で、そばの観覧車を眺めていた。
「哲柯は観覧車大好きだね」
「叡智の結晶だから」
「ふふ」
九幹徳衛は笑う。殺人犯は捕まってないのに。やっぱりなと思う。
殺人犯と共にタイムスリップしてきて愛する恋人が死んだならば、犯人を探そうとするだろう。しかし今日、彼女は普通に過ごすことを選択した。つじつまが合わない。論理的ではない。
「貴女が、殺人犯だったんですね」
不意に呟く。九幹徳衛の表情が一瞬にして変わった。やっぱりなと思う。やっぱり。この一言をぶつけるために、その真意を確かめるために、今日、ずっと過ごしていた。
「私は多分、タイムスリップの研究をしては、いた。そして、貴女が私を殺した。機械の使い方まで知っていたのは、貴女を信頼していて、研究成果を託したから、もしくは共同研究者だったから。結果的に貴女は、過去──というかここにやってきて、私と過ごして、自分を殺そうとしているんじゃないですか?」
そうすると、仮説がなんとなく合うのだ。というか涙を流し平手打ちまでしてきた女が、愛する人間を殺した犯人探しごっこをしながら胡散臭いカップル配信者Vlogみたいな過ごし方をする辻褄が合わない。
犯人を最初から知っていて、犯人が未来の私を殺させないよう絶対的な手段を確保している、と仮定するならば、そういう馬鹿みたいな過ごし方の根拠になる。
どういう気持ちでこの女は私を殺し、この三日間を過ごしてきたのだろう。
というかなんで殺した女の為にタイムスリップを繰り返しているのか。それも、多分複数回。
「なんで私を殺したんですか」
「……妬ましかったから」
九幹徳衛はそれまでの道化じみた態度を一変させ、ぎゅっと子供が叱られたみたいに手のひらを握りしめる。
「生まれてから、褒められたことが無かった。全部できて当たり前。小学校受験、落ちたのも、あると思う。兄弟姉妹、みんな出来良くて、私は駄目で、でも駄目なのは絶対許されなくて、なのに、中学受験も、駄目で、高校はなんとか一番のところに行けたけど、成績はやっぱりだめで、大学、浪人して」
「じゃあ、貴女は私より年上だけど、後輩で同じ大学に入ってくるってことですか」
「そう、来年に。だからこの世界の私は浪人してる。それも、二年目で……来年、やっと貴女のいる大学に入れる」
九幹徳衛が自嘲気味に笑った。
「人生、詰んでるの。もう、親からの期待は完全に消えちゃって……大学に入って研究すれば、研究で、論文で認められれば、何とかなるって思ってた時、私より年下で、私よりずっと頭が良くて才能のある貴女がいた。親はあなたを褒めてた。私なんか一度も褒められたことがないのに。貴女の研究チームに入れって、そんなの嫌だった。心が死んでくのが分かった。でも、やっぱり入るしかなくて……それくらいしか生きていく道が無くて……私は親の評価の為に、貴女に近づいたのに、貴女は一緒に研究が出来て嬉しいって言ってくれた。ここにいてくれて嬉しいって。私の気も知らないで。その間に、すごい研究を完成させたの。時間転移の、研究。歴史に残る、大発明」
「だから殺した?」
「そう。お母さんもお父さんも、貴女のチームに入れって言ったのに、そんなこと忘れたみたいに、チームで成功しても意味がない、ただ、お前は消費されただけだって、言われて……じゃあどうすれば良かったんだろうって思ってた時に、貴女みたいになってくれてたらって言われて……私、お母さんとお父さんを殺せばよかったのに、貴女を殺したの。両親に歯向かえないまま、貴女は殺せてしまった。でもその後、ノートにあった貴女の孤独を知った。私、なんてことしたんだろうって、恵まれてると思ってた貴女が、私と似たような境遇だったなんてって思って。だから、時間転移で戻ったの。ただ、私を殺すために。この時間の私を殺せば、貴女は殺されないから。でも駄目だった。一週目、私が私を殺す前に、私は貴女に出会ってしまった。貴女は絶望的な表情でホームに立っていて、思わず話しかけた。それからずるずる、死にそうな貴女と三日間過ごして、タイムアウト。私は、貴女のいない地獄に戻った。でも、少し未来が変わってたの。同時に、タイムスリップできる時間も変わっていて──なおかつ、私が一週目しくじったせいで、私が過去のあなたと出会う、そして貴女が私に感謝する、という部分が確定してしまったの。その後は、私が意識しないまま、貴女についての真実を知る前に、未来の私と出会った貴女が、その時間軸の私と対面して、自分が殺されることを知らないままに、私に対して好感度の高い貴女が現れるようになった。そこだけが、変えられなくなってしまった」
「……」
「私は、貴女を殺した。だというのに、貴女に好意を向けられて、その好意に何も言えなかった。返す資格もないけど、黙っていることで貴女を孤独にしてしまった」
九幹徳衛が泣きながら「ごめんなさい」と詫びてくる。人を殺しておいてごめんなさいも何もないだろと思うけど、黙った。別にそこまで生きていきたい人生だとも思えず生きているからかもしれない。目の前の人間が将来自分を殺すと分かっていても、その死を悼んでくれていることのほうが大きかった。
ああ、私は一人じゃなかったのか、誰かから必要とされることもあったのか、独りぼっちにしたくないと、思ってもらえていたことが、確かにあったのだという感慨のが強い。
「……私は、孤独ではなかったように思いますよ」
泣きじゃくる九幹徳衛の頭を撫でた。いかにせん背が高いので、すごくぎりぎりになり背骨がきしむ。
「そんなことない……私が貴女を一人にしてしまったから……」
「貴女がいた」
私は言う。「え」と九幹徳衛は涙を流しながら私を見る。
「言わなきゃ無いのと同じ、とは、思いますけど、でも、無かったことにはなってないと思います。貴女は、私を殺した。でも、それでも傍にいてくれたんでしょう……?」
私は、一人だった。家族のそばにいても一人だった。一人だな、と思っていた。それに慣れていた。だって最初からだから。ないものを求めていたところで意味なんてないから。ないものねだりは醜いから。
でも欲しかった。それ以降ずっと一人でもいいから、一人じゃないと感じられるその瞬間がどうしても欲しかった。
永遠に、そんなもの手に入らない。私に対して強い想いを感じてくれる人間なんてどこにもいない。
だって、家族ですらそうなのだから。
自分を愛せなきゃ愛されないなんて言うけど、親から得られなかった私を、私は好きになれない。だから誰にも求められない。助けてもらえない。自分一人でなんとかしなきゃいけない。
でも九幹徳衛は「殺される、助けに来た!」と頓珍漢なことを言って飛んできた。殺したの本人だけど。
それでも、私の、何にも意味が無いような人生の中で、そういうことあるんだなと思った。頭いいんだからいいじゃん。研究出来てるんだからいいじゃん。優秀なんだからいいじゃん。賞取ってるんだから幸せじゃん。
欲しくもないものばっかりで、嬉しくなくて、そんな気持ちすら誰にも理解されなくて、何を頑張っても一人だって証明になっていたけど、生きてて良かった。
研究で、人と繋がりが生まれたんだ。
私は確かに、人と繋がることが出来た。
「殺さないで」
私は九幹徳衛に頼む。「当たり前だよ、殺させない」というけど、彼女は私の真意を理解していないだろう。
「貴女をだよ。九幹徳衛」
「え」
「貴女を、殺さないで。私は、私でなんとかするから」
「同じこと、言われたことあるよ。その時の貴女は私が殺したってこと知らないけど、タイムオーバー直前、私がなんとかするって言ってきたことがあった、でも駄目だった。私が殺したって貴女に言うところで、リミットが来たの、未来は変わらなかった」
「つまり、貴女が私を殺したと、私が看破したのは、これが初めて?」
「そう。下手に出会わない未来を作ってしまうと、貴女の研究に支障が出来てしまうから。でも、何度繰り返しても駄目だった。だからもう、私が私を殺しておくしかない」
九幹徳衛は覚悟を帯びた目で私を見返す。涙を流しながらも強固な意思がうかがえた。
「じゃあ、こうするしかない」
私は、思い切り九幹徳衛を突き飛ばした。彼女の身体は桟橋の欄干を簡単に越え、ふわりと海に落ちていく。すぐに私は「助けてください! 人が海に落ちました!」と叫んだ。そこまでの高さはないとはいえ、一か八かだったが海に落とされた九幹徳衛はすぐに浮上し、理解できないといった様子で私を見上げている。
海に落ちたとなれば、救護者として保護される。転落しているのだから病院で精密検査も受けるだろう。錯乱すればなおさら守りは固くなる。九幹徳衛はこの時間の九幹徳衛殺しに行くことはできない。その間に、タイムリミットが来る。なにより彼女は、最後まで自分を殺すことを諦めないためにおそらく警察沙汰になる。
「人殺したんだから、お相子ってことで」
私は救助される九幹徳衛を眺めながら、誰にも聞こえぬよう呟く。おそらく彼女はまた、本来の自分の時間軸に戻ればタイムスリップ実施するだろう。
でも、もうそれも終わりだ。
「絶対に助けるから」
自分を殺した人間を助けるなんてと思う。それでも、私が死んだことに泣いてくれた彼女に、何かしてあげたかった。
魔法が使えなくても、誰かを助けられるなら。
私は九幹徳衛を助けたい。
──化学の世界は数多の失敗と研究と論文の果てに成功がある。
私の敬愛する詩衆院先生の言葉だ。そして九幹徳衛は数多の失敗を経た影響から、おそらく一週目と異なる──要するに完全な初対面ではなく、私が未来の九幹徳衛と出会い、アプローチを行う未来までは確定させている。それでもなお私が死ぬ未来と九幹徳衛が私を殺す未来が固定されているのは、他のタイムスリップループ中の私が自分の死因を本当の意味で知らなかったからだろう。自分が九幹徳衛に殺されると分かっていたら、ある程度の防衛はしていたはずだ。おそらく中途半端に九幹徳衛と関わり彼女に想いを持ち、大学に入ってきた彼女にアプローチをして、内心では劣等感を抱えている彼女に殺されることを繰り返してきていたはずだ。
ゆえに未来の九幹徳衛は自責から自らの殺害を試みようとしたわけだが、そんな暴力的な手段をとらずとも、今の時間軸で出来ることはあるはずだ。
たとえば今の時間軸の九幹徳衛に干渉する、とか。
でも、今の九幹徳衛に干渉すると、おそらく出会いが変わるために、過去の改変の為に尽力していた、『私の目の前で泣いてくれた九幹徳衛』と出会えなくなるかもしれない。それは嫌だった。頑張った分、報われてほしい。根本の原因が私を殺したことなのは複雑だけど。それに論理的に考えると、この時間軸の九幹徳衛に干渉したことでタイムスリップが不可となるのも困る。
だから私は、ある賭けに出ることにした。
◆◆◆◆◆
水中に深く潜りこんでいたのに、無理やり陸へ引ずり上げられる。
時間移動で過去に渡った後、現在に戻る感覚についてたとえるに、もっともふさわしいものがそれだった。
もう何百、何千と繰り返した果ての絶望に私は手のひらを握りしめる。もう一度戻らなければ。今度は別の時間に。いや、いっそのこと入学式に。機器を操作しようにも私の頭の出来は悪くて、自分が役立たずの馬鹿だったことを呪う瞬間なんていくらでもあったはずなのに、なんでここまで自分は愚かなんだと死にたくなる。死んでれば良かったのに。心の底から思う。私なんて生まれてこなければ良かった。実際、親にも何度も言われていた。それはまだ私に期待があったころだ。もう今は関心すら持たれない。その果てに──私は哲柯を殺した。哲柯への殺意もあったし、私が殺人を犯せば、私の両親は少しはまた私に関心を持ってくれる、もしかしたら──普通の親みたいな愛情を注いでくれるかもしれない、そんな期待を持ったのだ。その結果、一番殺したくなかった、殺すべき存在じゃなかった哲柯を独りぼっちのまま殺してしまった。
私はすぐにシステムを作動させ、過去への移動を試みる。しかし画面には『ERROR』と無機質に表示された。
「な、なに、どういうこと……? もう時間切れってこと? こんなこと今までになかった、嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ! 待って待って待って待って、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、嫌だ……助けて、ごめんなさい、助けてください、ごめんなさい、嫌だ、いや、いやぁっ」
私は何度もボタンを押す、でも、『ERROR』と表示されるばかりでシステムが起動しない。
「ああ」
私は、終わりを悟った。回数制限が生じたのか、私が過去を改変するためにしてきた失敗により、とうとう、チャンスさえ失った。
最初こそ、自分の罪を清算する、無かったことにしたい気持ちがあった。逃げの感情だ。自分のしてきたことを認めたくなくて、人を殺したのに、償えないことをしたことから目を背けたくて、助けるという定義に逃げていた。
でも、確かに私は哲柯に生きていてほしかった。何度も何度も哲柯に会うたびに、ああ、こんな子だったんだ、こんな性格だったんだ、こういうこと好きなんだって、もう二度と未来にはいない哲柯への想いは募って、その想いが増すたびに自分の罪を自覚する。
一緒に生きたいなぁ。
身の程知らずにも関わらず思った。
その手段も選択肢も分岐も、何も知らないまま壊したのは私なのに。
どうすればよかったんだろう。私が生まれてこなければ良かっただけの話。
簡単に結論付けたいのに、本当に最初に出会った時や、何十回の周回のたび、孤独に苛まれ突然現れる私に救いを見出す彼女の横顔がよぎる。
私も彼女の何かに、なれたかもしれない。
そんな可能性を潰したのは私だ。
私はモニターから離れ、傍らに倒れる哲柯を見る。傍には哲柯のノートがあった。これを読んで私は哲柯の孤独を知った。彼女の感情を書きなぐったノート。最初は研究のノートだと思っていた。でも中身はまぎれもなく遺書だった。家族と繋がれなかった自分が果たして誰かと理解し合えるだろうかと苦悩する、天才でも何でもない、たった一人の人間のノート。
「だいじょうぶ、一人にしない。一人にしないよ。哲柯は天国に行けるよ。きっとそこには、哲柯を理解してくれる人がたくさんいる。大丈夫。哲柯は一人じゃないよ。それまでは──一緒にいよう」
タイムリープが終わった後、私は死ぬ気だった。哲柯を殺すことを無かったことにするけど、私が哲柯を殺した事実は消えないから。罪は償うべきだから。
私は眠るように床に伏す哲柯に寄り添い、彼女を殺したものと同じ毒の入ったカプセルを懐から取り出した。それを飲もうとすると──、
「捕まえたぞ、ヒス女」
「え──」
哲柯が私の手を掴んだ。殺したはずの哲柯が、私の手首を掴み不敵に微笑む。
「一年ぶり、人殺し」
そう言って、哲柯は「よいしょ」と伸びをしながら起き上がりながら「決定論的タイムラインも量子力学マルチバースの研究が進んでで良かったー」と、立ち上がった。
「ど、どういうこと?」
「ロミオとジュリエット」
「へ?」
「ああ、ごめん。そういうの全部排除された家か、今度一緒に見よう」
そう言いながら、哲柯はモニターの前に立ち、カタカタとコードを打ち込む。『メモリーとシステムのすべてを削除しますか?』と機械音声が響いた。
「はい」
哲柯が承諾すると、ディスプレイモニターの画面が『データをすべて削除しています』とローディング画面に切り替わった。
「え……声紋認証システムなんて、無かったはずじゃ」
「ある。隠してただけ」
「え?」
「苦労した人間の記憶や経験は、所詮、脳の情報でしかない。神経回路で保持された情報は消失し、改変後の世界にはコピーされない、頑張った九幹徳衛は報われないまま消える。記憶を保持していた……一回は殺した私を助けるためにループしていた私を助けるには、一旦私を殺してめちゃくちゃになってる九幹徳衛をとっ捕まえなきゃいけない。だから、未来から九幹徳衛を海に突き落とした私は、どえらい労力をさいて、仮死状態になる薬──とタイムスリップのときにDNA情報をサーチして、ストレスマーカーを私が水に突き落した女と一致する瞬間、システムが全停止するシステムを組み、そのうち私のこと殺す女を前にずーっと芝居してたってわけ」
「なんで、私が、タイムスリップしてた時期のDNAなんてどこで採取……」
「だって水落ちして病院行って血液検査したでしょ。貴女が運ばれたのは獅子井総合病院──急性期医療っていうかデカい総合病院だから突然運ばれた患者なんて洗いざらい調べるよ。それも海に落ちて何身体の中に入ってるか分かんないし。問題はそのデータをどうやって手に入れるか悩んでたけど、普通に水落ちした人間のデータ使いたい、ってのと入学早々の貴女の遺伝子データ照合していけたわ。水落人間多すぎてそこ手間だったけど。まぁ、一番大変だったのは私がここでどうやって過ごしてきたか分かんないから、ひとまず一目ぼれしたってグイグイいって周りに馬鹿みたいに見られたことだけど。っていうかあまりにも貴女が信頼できない語り手のせいで、殺されるに至るまでの過ごし方の最適解が分かんなくてさ、試行錯誤もいいとこだったんだよ。結果的に殺してきたからいいけどさ、倫理的には最悪だし、一年以上クソみたいな大根演技を強いられながら研究をしなきゃいけないし、もう二度としたくないけど」
哲柯はそう言って、私を見下ろす。
「独りぼっちで誰も助けてくれない状況に慣れてるのがここまで役に立つとは思わなかった」
その言葉に、ぎゅっと胸が痛くなった。うつむく私に彼女は手を伸ばす。私に、この手を取る資格はない。しかし彼女は「はやくして」と自分の手を揺らす。
「でも私、哲柯を殺したんだよ?」
「何回かは多分、私は殺されにいったと思う」
「え……?」
「私を助けに来た回数がどれくらいかは分からないけど、何週かのうち、自分を殺すのが貴女だと気付く可能性は、否定できない。そのあたりは、良く分からないけど、そもそも自分の死因になるタイムマシンを発明する理由とか、過去の私には矛盾が多い」
「哲柯……」
「でも、貴女に会いたかったって考えると、論理的じゃないし非合理的だけど、全ての説明がつく」
「哲柯……」
「あったかいハンバーガー、食べられるようにしてくれるんでしょ。早くしてよ」
哲柯は微笑んだ。ああ、今の彼女はこんな風に私に笑ってくれるのかと、目から涙がこぼれる。
「もう一人にしないで。私はそれが望み。それを叶えられるのは、貴女だけだ」
彼女は言う。私はその手に向かって手を伸ばす。彼女の手は、魔法みたいに、温かくて柔らかだった。




