魔法使いの資格
興信所の仕事は気が滅入る。鹿治と自分の名字が書かれた社員証にうつる自分と今の自分が変わって見えるのは、月日の経過以外にも、色々ある。興信所に入ってすぐの頃は依頼者の心に寄り添いたいと思っていた。しかし中には危険な依頼者もいて、いつの間にか目的が薄れて、こういう探偵になりたいと目指していた存在から、一番なりたくなかった探偵に近づいていっている気がして、ままならない。
本当に怖いのは知らない間に、一番なりたくなかった探偵になっていることすら気付かないこと、もしくは、仕方ないと諦めが上手くなること、だと思う。
そのたびに、御上くんというレアケースを見る。あんなに探偵に向いてない子はいないから。僕の、絶対になりたくない探偵とは真逆の探偵。
探偵一本で生きていけばいいのにと、思う。
そんな彼は、辛い結果を聞いた依頼主へ語りかけていた。
「一緒だね」
「一緒?」
「僕も、ずっと悩んでたことがあったから」
御上くんは言う。
「ずっと?」
「うん。ずっと、半年以上かな。初めて書いた話が、結構いいとこいってて、もう俺の人生で二度とない、皆が思う幸せなことが、もうすぐ起きるんだ。でも、俺はどうしてもそれが怖かった。どう受け止めていいか分からなかった。皆はそれを幸せだって言うけど、俺にとっては、俺はどこまでも独りぼっちで、理解者なんて誰もいないって証明だから」
「分かってくれる人、いないの?」
「分からなくていいから、そばにいて欲しい人はいた。でも、売れてるからいいじゃないですか、もっとほかにも頑張ってる人いるよとか、夢に向かって一生懸命頑張って、それでもなれない人がいるんだからって、言われる。なんにも、相手は間違ってない。だって、そういうものだから。意味が分からないこと言ってるのは、俺のほう。我慢しなきゃいけないし、こういうと、我慢するとかの話じゃないって、たぶん言う。独りぼっちを我慢できないのは、依存だから。みんなの思う幸せを怖がることは、間違ってて、駄目なことだから」
「我慢……」
「でも、その幸せって、俺に関係あるのかな? って思う時もあって。だって、俺、つらい。こんなにも辛い。最初みんな、俺のこと無視してた。いないのと一緒。置いてけぼり。それ言うと、俺を置いてけぼりにしてた人は、悪気なかったよってみんな言うの。実際そうだから。みんな大変だった。みんなそれぞれ頑張ってた。でも、俺だって頑張ってたよ。それで置いてけぼりだった事実は、変わらない。今違うよって言われても、違わない。皆みたいに普通に認めて貰うんじゃなくて、辛いからもう耐えられないよって言って、ようやく、皆と同じくらい話を聞いてもらえた。でも、それってずるだから。置いてけぼりにした人の失敗を取り戻すために僕は、相手してもらえるようになった。僕を置いてけぼりにした人は大丈夫だよ、仕方なかったって言ってもらえるけど、俺は弱音吐いたりすると、みんな、困らせちゃう。他の人にいいな、休みな、旅に出なって、遠ざけられる。一緒に頑張ってもいいよって言ってもらいたいだけなのに。弱い俺は求められない。許されない。強いから大丈夫ってされる。だから、行き場がない。でも周りの人は、俺を幸せな人って見る。すごい人だって。すごい人が持ってるものを、俺は何一つもってないし、すごい人が通る道を、通してもらったことなんてないのに。道も見えない」
そう言って、御上くんは「どうしたら良かったんだろ」と呟く。
「お兄さんには、橋が無い。お兄さんの周りに、人がいたとしても、目の前にいる人の気持ちが分からないから、誰も何も言わないから、分からない。普通は何も言わなくても分かるんだけど、一番最初にかけられた言葉が、あいつは誰とも繋がれない、みたいに近いもので、行動で示されても、心のうちは何考えてるんだろうって怖い。行動だけで判断しても、ストーカーみたいだし。どうしようって思って、なんとか気持ちの整理をしようと試みようとしてたけど、どうしたって、自分が一人であることの証明だから。その証明をされながらも、幸せだって言わなきゃいけない、呪いの儀式があって。何とか、何とか受け入れようとしたけど、怖くて逃げちゃったんだ」
「お兄さん……」
「人生でこんな怖いこと、もう起きない。早々あることじゃないから。だから、これが終われば、もうなんにも、期待せずに済むから、ちゃんと、みんなの幸せの邪魔、しないようにしてるのでもさ」
御上くんは自分の左の人差し指に触れ、笑う。
「もう疲れちゃった。限界。読者が、いるって言われたって、読者と僕を繋ぐのが編集者じゃないの。なんで僕はいつもひとりなの。繋ぐ人間が何も言ってくれないのに、漫画家さんや絵師さんのこと信じられるわけないじゃん。その橋がかかってないんだから。前任も頑張ってたって認めるために、天上さんが必要だった。そういえば、ロジックが分からないって言われる。認めてもらえない。だって現在の足場もないのに過去を振り返られるわけないのに。みんな頑張ってたって、必要だったって言いたいのは分かるよ。でも、誰も僕を必要だったって言わない。何年も本が出ないままなのは期待されてないからじゃないの? 言葉じゃなく行動見ろって言われたらそうなるよ。絵師さんずっと絵出さないで、他の仕事はしてて、羨ましい。絵師は結果出してる。でも俺だって結果出したもん。でも駄目だった。天上さんはそんなことないって言う。天上さん本人は、一言も言わなかった。言葉を、くれたことはない。黙ってた。最初は見守りだったってなんとか思おうとしてたけどさ、これ、ストーカーの視点と、何が違うんだろう。だから、もう辛くて、逃げた。一人でいるのが耐えられないし、作家は一人なら、僕は作家は嫌だ。書かないと抱えていられないから、本当に無敵の人に、犯罪とか、起こしたら怖いからやってて、それすら好きでやってると思われるくらいなら、この世界にいたくない。趣味でいい。エンターテイメントに僕の居場所なんてない」
──そう思って、耐えられないときの、魔法の、言葉がある。
御上くんは震え声で笑った。
「大丈夫、俺の人生よくなることない。大丈夫、俺は幸せになれない。だから人の為に頑張るだけでいい。そうしたら、神様がちゃんと、苦しくないように痛くないように殺してくれる。俺に幸せなんてないのは、最初から決まってることだから、ショックなことが起きても大丈夫。当たり前。理不尽が起きても、おかしいことなんてない。必要とされないほうがいい。だって俺を必要とする人間が出てしまったら、絶対に幸せになれない俺を見て苦しんでしまうから。だから、今の状況は、なんにも問題がない。そう思って、生きてる」
「でも、本当に独りぼっちになっちゃわない? 助けてって、苦しいって言ったの?」
「言ったよ。怖いって言った。でも、理解されなかった。無理なんだ。他人は他人、人に期待しても意味がない。天上さん自身に言われた。人に期待しないって。僕は天上さんの求める強くて自立した作家でいられなかった。駄目な人間で、どうしようもない。もう、疲れた」
「これからどうするの?」
「分かんない、ただ、もう同じことの繰り返しになるのは嫌だし、本当に怖いから逃げる」
「いいの? 一生に一度あるかないか分かんないことなんだよ?」
「辛いことがあったら逃げていいんだよ。大丈夫。なにかあったらいつでもここに来ていい。一緒に頑張ろう。俺も人生、辛いっていうか普通に、死んだほうがいい人生だから」
御上くんはそう言うと、女の子は頷いた。
女の子を帰したあと「嘘つかなかったね」と御上くんに声をかけた。「なにがです」と、彼は冷えたタオルを目元をあてながら聞く。
「御上くん身の上話、普段は相手に合わせて話すでしょ。相手が、気にいるような話」
「だって片親母子家庭で十年以上毒祖母介護してずっと生まれてこなきゃ良かったのにお前は価値がない汚い母親のセックスが悪いみたいなこと言われ続けた話なんて聞きたくないでしょ。お母さんは毒じゃないから、俺が生まれなきゃそういう毒祖母から逃れたって意味で、毒祖母のお前なんか生まれてこなきゃ良かったロジックは間違いじゃないし。理屈あってるしで。こんなの気に入る奴いるかって話ですよ」
「誰かに言わないの」
「同情弱者レスバ最強になっちゃうから言わないけど、誰かの立場を守るためには言いますね。そういうの突っ込んできた人間はこういうパターンもあるよって提供してる。他に傷つく人が現れないように。まぁ、俺の場合は言ったり知られて傷つくことじゃないですけどね。性自認女で、男好きな人間が、自分は女で男好きですって自己申告して傷つかないでしょ。っていうか、聞いたほうじゃん。傷つくのって」
「でも今回天上さんの話はしてたね。話しながら傷ついてた。どうして?」
「目の前の人間が助かる見込みがあると思ったから」
「御上くんは助かる見込みないの」
「頑張って助かろうと思ったけど無理だと思った。足場がない」
「それ言った?」
「言った。励ましはもういいから、天上さんの気持ちとか、俺の話やってて大変だなと思うこと話ししてほしいって言って、でも駄目だった。婚活、マッチングアプリしたほうがいい、とか。作家の問題で解決出来ないんだよね。っていうか、相手見つけてもさ、ようは作家としての問題が埋まらないから、意味がないわけで。そうしている間に半年経った。無理だった。だからこれ以上求めても困らせる。なにも言いたくない。どうせ、言っても理解してもらえない。そう言えば、じゃあそうなんじゃないですかで終わり。何もいえないですねって。大事な前提を確かめたいだけで。大丈夫かどうかっていう。それが無理で、色々試行錯誤したけど、依存がひどくなってるって解釈されて、そもそも依存関係なく、足場がだめすぎて限界なんだけど、最悪、担当変更しましょうって、僕は一緒にやりたかった願いすらなかったことにされる。こう言えば無視されるようになる。だから……大人になるよ、僕は。天上さんと出会う前に戻る」
「でも、御上くんがそれを選べば、天上さんは御上くんも、前任も、自社も、エンタメも見捨てた人になるよ」
「……え」
「だって天上さんは平等であれ、自分なんておこがましいって思っているんでしょう? でも今の担当は天上さんで君に率先して意見を伝えないと、意見を伝えることは悪なんだって君は学習する。だって前任は君にあれこれ指示して君の書く必要がない物語を作った。そのあと、天上さんが自分を出さないようにしたら、普通はやりやすいなんて思わない。前の人はうるさかったなって余計、前任の印象が悪くなる。でも天上さんが君と意見を交わして小規模でも対立し続けていれば、ああ、前任さんのあのやり方は、辛かったけど間違ってもなかったんだな、って君が考え直す道もあった。君の代で何周年ってお祝い一切なかったのだって、少しでも君とちゃんと話をしていたら、前任さんってなにか考えがあったのかなって、こんなに大変だったら仕方ないかもって、思い直す道もあった。だって今の担当者は天上さんなんだから。天上さんは途中参加の自分なんかがって、前任を立てようとしたんだろうけど、結果的に、君は全部失って、君が天上さんを通じてみようとした会社も前任の景色も塗りつぶして、和解の道を、みんなが少しずつ痛みを分配する道を、彼は彼の望む正しさと平等と彼に優しい世界を守るために、君にすべての苦痛を投げ捨てて壊したんだよ。前任の評価ごと。それこそ君が天上さんを好きだって思ってたなら、一歩踏み出せば簡単に手に出来たはずなのに──ねぇ、大団円を壊したのは、君だけのせいなの?」
「鹿治さんは、俺に過保護だから」
「茶化さないで論理的な話をしてる。君の好きな天上さんの一般論だよ。感情論で話をするならば、そういう話、一番君嫌いなはずだけど、どうする? 感情論で切り替えて話を続けようか。僕はどちらでもできる」
「いえ」
「わかった……君はだいぶ理不尽な目にあっているけど、天上さんは平等であることを望んでる。でも君の理不尽については異常なほど無関心だ。ずっと見捨ててる」
「見守ってる、傷つけないように」
「でも結果君は傷ついているのだから意味がない。沈黙で人を傷つけるって分かって黙ってるのは立派な加害だよ。そしてもう傷つけないようにって黙るのは逃げなんだよ。喋りたくないことへの理由づくり。伝えることが怖いならエンタメは向いてない。表現の場なのだから。それに彼が君に言った処世術は何一つ自分の言葉じゃなかった。それに君に対して受け取り方がどうこう言ってたけど、彼、伝え方にこだわる人なのに異常にそこに自信を持つのは他人の言葉だからでしょ。君も天上さんも伝える仕事をしてお金を貰ってるんだよ。読み手が悪いなんて思ったらプロ失格だ。話す力がありませんって宣言するのと変わらない。読み手が悪い、読み手の捉え方が悪い、だからなにも書けないって作家、言い訳だって書評家に断罪されるよ」
「……」
「どうして言い返さなかったの」
「それでも、天上さんが言うって決めたことを、尊重したい」
「でも君を尊重したふりをしながら逃げてる人だ。理由をつけて、言葉を使うことから逃げてる。君もだ。一般論に逃げる彼をどうして自分の言葉で話さないのか突きつけて向き合おうとしない。おかしいんだよ君たち二人、目の前の作家に言葉を届けられない編集者が多くの読者に物語を届けられることなんて絶対に出来ないんだよ。ヒットとか関係なく、目の前の作家にどう踏み込んだらいいかなんて考えてる時点でプロとしての自覚が足りない。だって読者が本を読む時は一方的に言葉を届けられるし、読者の心に土足で踏み込む行為なんだから、その甘えを許してる君もだよ。目の前の編集者に言葉を届けられない作家が読者の心に届く物語なんて絶対に書けない。売れたとしても消費されて終わりだ。誰の心にも届かない。誰の記憶にも残らない。それこそ無価値だ。通じないな、理解されないな、って思っても届けることを怠ったら駄目なんだよ。小説は理解されない通じないものをどうすればいいか悩み続けるものなんじゃないの? 目の前の人間に一歩踏み出せない人間が人の心に影響なんて出来ないんだよ。君たちはどこまでも言葉の世界にいるんだから」
「……もう、手は尽くした」
御上くんは繰り返す。
「後悔しないの? 君、あんなに頑張ってきたのに」
御上くんは返事をせず「ねたい」と言って目を閉じた。




