覇先幸生の永養管理
木曜日の朝、獅子井総合病院栄養指導部にて、怒号が響く。
「何で小麦と白砂糖だの米が食えないんだよカス!」
「体に悪いから禁止って……食べると絶対太るって……」
「誰が言った?」
「ね、ネットで……」
「じゃあ今ここで出せ」
凄むのは覇先幸生、二十八歳男性。対するのは大学入学して間もない女の子だ。一見、恫喝にしか見えないこの状況だが、彼は管理栄養士で女の子は患者、一応、助手の私も同席しているのでギリギリ栄養相談の場であると主張できる。
ただこんなところを見られたら全国の管理栄養士の栄養指導が誤解されるだろう。
「これ……」
「貸せ」
女の子が鞄からスマホを取り出し画面を見せると覇先先生は素早くスマホを取り上げた。駄目かもしれない。スマホ泥棒の現場で炎上する。私は諦めを覚えつつパソコンで診察記録を打ち込んでいく。当然、覇先先生がスマホを取り上げたことは書かない。書いたら何故止めなかったのか内科の先生に怒られるから。何故内科かといえば、女の子は今回内科で診察を受け、栄養状態が良くないということで栄養相談を受けることになった。
つまり今回の相談記録は内科の先生と共有しなければならない。本件に限らず全ての栄養相談記録はうちの病院の場合、その患者さんの主治医の判断のもと行われるので「栄養指導よろしくー」とこちらにオーダーした主治医に相談記録を伝えるわけだけど、覇先先生は相談記録というより暴言記録になる。
「いいかよく聞け、金に困りでもしてない限り、健康な人間に対して医者は飯にとやかく言わない。なぜならアレルギーだの色々あるからだよ。牛乳アレルギーの奴に豆乳は身体に悪いからやめようなんて言ったら何飲むってなるだろうがよ。分かるか? お前米と大豆駄目になったら主食どうするんだ……」
「さつまいもとか……身体にいいって言うし……」
「一生芋食って生きていくのかお前は? 芋がそんなに好きかよ」
「だってそうしないと……綺麗になれない……そ、それにこの人、フォロワー数も多いし、なにより綺麗だし……!」
「だから?」
覇先先生は冷ややかに聞き返す。女の子はうつむいた。
「いいか、お前が根拠にしてるフォロワーの数は、正しさの数じゃなくてそいつを見世物にしてる数だよ。こいつに商売の価値はあるだろうが医学的価値はない……見ろ。コイツの投稿。サプリ、漢方、おすすめ美容クリニック。お前みたいな馬鹿をカモにして商売してんの……ああ、ゴミ決定だこのインフルエンサー。こいつ死刑でいい」
また書けない言葉を覇先先生は言う。先ほどから記録できない言葉しか言わない。私は『美容インフルエンサー、薬物乱用インフルエンサーに関心アリ』と記録する。覇先先生が「ゴミ」と呼ぶ人種は一種類しかないから。
「お前このインフルエンサーが勧めてる薬、何か分かるか?」
「ああ、それ今話題の! メディカルダイエットの……! 私、高くて買えなくて」
「買わなくていい、一生買うな、これはな、ホルモン不足や作用低下用の治療薬だよ。インスリンに関わるもんだよ。ホルモンが出ない、作用しづらい奴への薬だ。お前みたいに身体にもともと不便のねえ人間が使えば過剰になって身体を壊しかねない。普通の病院ならまず出さねえ」
「で、でも美容医療で出るし、クリニックで出るんですよ?」
「どんな人間も適切な治療を受けられるよう、法律を強くし過ぎて手遅れになる患者が出ないよう、法には余白がある。それを裏ワザとか抜け道扱いしてるゴミみてえなハイエナクリニックは出す。だが、そこの奴らは身体が壊れた人間を治せないし治さない。管轄が違う。投資詐欺と変わらねえよ。金ふんだくるだけふんだくって、生活できなくなったらさよーなら。責任は取らない。自己責任って言うぞ。自己責任、悪人の大好きな言葉だ。逃亡クソ言葉。処方したのは医者、薬を出したのは薬剤師、飲んだのはお前の意思。そういう逃げ方をする。てめえの身体の責任は絶対取らない。同意の上だからってよ」
「そんな……」
「医療って書いてあるから大丈夫なはず、お医者さんだから大丈夫なはず、自分の見目が気に入らねえ苦悩を抱えた人間をひっかける詐欺師だよ。最終的にそういう奴らにメンタルぶっ壊されて、こういう薬物乱用に慣れた人種に囲まれて、やれ過剰摂取だのに片足突っ込んでてめえの目指す綺麗から最もかけ離れた状態まで落として、あーあ、メンタル弱いねカッコ笑いで済ませるのがこいつらだよ」
ネットで言えば確実に炎上するだろう発言の数々。一応、医学的には覇先先生の発言は賛同する医者も多いだろうが、言い方は満場一致で否が飛ぶだろう。私は女の子は「じゃあどうすればいいんですか‼」と、涙をこぼした。
「俺がてめえを助けてやる。絶対に見捨てない。一緒にやってやる。だから俺についてこい。お前は医学でちゃんと助かる」
覇先先生は女の子としっかり目を合わせる。20分前、暗い顔をして部屋に入ってきた女の子の表情は少しだけ明るくなった。
◇◇◇
病院にいる管理栄養士は、病院によってその役割は異なるものの、入院中の患者さんの体質や症状にあった献立作りや、各外来……たとえば内科や小児科で、先生が「この患者さんには食事のアプローチが必要だな」と思った患者さんに対しての食事や栄養管理の相談を行う。
たとえば、入院患者さんの場合、高齢者で噛みづらいとかそういう人には噛まなくていいペースト状の食事、でも、咀嚼は大事なので舌ですりつぶせるラインを見極めたりとか、牛乳アレルギーがあるけどカルシウムはどうしても取っておかなきゃならないし、薬でなんとかするにも色々体質的に厳しいから、どうにかカルシウムを取る手段を模索したり……などなどだ。
当然、ディストピア飯みたいなことをすると、患者さんから「食」の楽しみを奪うので栄養と体質と症状と味覚を細密に計算し、それぞれ患者さんが苦しくないと思えるような食事管理をしなければいけない。
そして覇先先生は、人当たりの点さえ抜けば管理栄養士として完璧だけど、人当たりの点においては壊滅的だった。
口が悪い気が強いのサンドイッチ状態で老若男女問わずこの調子、役職も関係なくいく。ものすごくいい言い方をすれば彼ほど「誰も差別しない」「全員平等」を体現している人はいないし、最低な言い方をすれば「全方位に酷い」「全員平等にキツイ」これに尽きる。
「お前プロテイン好きなの?」
午後の時間になり、指導部に大学生くらいの男の患者さんが入ってきた。胃の不調を訴え内科を受診、食生活に問題があると来た。カルテを見ると20歳、大学生とあった。前は食べすぎ飲みすぎの不摂生オンパレードの40代50代が多かったけど、最近は若い患者さんが多い。
「いや……」
「じゃあなんで毎朝プロテイン飲んでんの? しかも後はサンドイッチって何? 節約?」
覇先先生の第一声に男性は顔をしかめる。
「い、いや、最近、筋トレブームなので、プロテイン飲もうかなって……別にお金がないわけじゃないですけど……朝弱いし、プロテインでわりとお腹いっぱいになるっていうか」
「お前のそれは満腹じゃねえ。消化できてねえっていう胃のSOSだよ。お前の見た内科の医者の見立て、血液検査の数値、あと胃と腸のCTとエコーからの所感では、お前の満腹は内臓に負担かけて発生してる消化不良」
「そ、それはなにか病気があって……悪いプロテインを飲んでるとか?」
「お前が飲んでるのは普通のどこにでもよくあるプロテインだし、今いろいろ配合してるので出てるけど、大差はない。ただただ、てめえの身体でプロテインなんか飲んだところで、プロテインを活用できる栄養状態じゃねえんだよ。内臓をやってる。だから、栄養が整うまで禁止」
覇先先生は、諭すように言った。さっきの女の子との態度が若干違うのは男女差別ではなく、危険性の高さだ。さっきの女の子は薬物乱用に手を出しかけていたので圧が強く、男子大学生に対しては一応、内臓が弱り薬物乱用の危険性が少ないので、一応、現時点では穏やかになっている。ただ、少しでもそれらしい兆候が出れば一気に怒号ルートに入るだろう。同時に、今も今で静かなだけで口は悪い。
「でも俺、強くなりたいんです」
「格闘技の大会でも近えの?」
「いや……っていうか、俺こんなですよ……格闘技なんかするわけないじゃないですか……馬鹿にされる」
「こんなって?」
「陰キャだから……」
「陰キャってなに、大学生身の回りにいねえからその世代の言葉通じねえ」
「な、なんていうんだろ、鉄道ヲタク的な……?」
「なんにもしてねえ鉄道好き全員巻き込んだぞお前の自己卑下に」
覇先先生はきっぱり切り捨てた。大学生は「だ、だって」と目を泳がせる。
「大学で舐められてて、変わりたいんです。筋トレして、強くなって……」
「じゃあ飯食えよ」
「……情けない話ですけどあんまり食えないというか……」
男子大学生は言い辛そうに話す。覇先先生は「好き嫌い多いとか?」と平気で聞く。学生は警戒の表情を浮かべた。先生が怒ると予想してのことだろう。実のところ、覇先先生は案外、食べ物の好き嫌いでは怒らない。「食えないもん食えないんだから仕方ねえだろ」と入院患者の子供には言う。
ただ、患者が小学校で教師に給食の完食を強要されたときは親を差し置き乗り込むというモンスターだし、たとえ患者であっても「もっと濃い味付けがいい‼」という注文には「ぶっとばすぞ」と返す。
「なるほど、で、お前はプロテインならいけると思ったわけか。理由は……液だから?」
「はい」
「なるほどねえ、着眼点は悪くねえんだよな。喰えねえなりに一回の食事でなんとかしようと思うのは。ただ知識がねえからミスった」
「ミス……」
「おん、ミスだ。お前はまず身体動かす栄養が足りてねえから。カロリーがどうこう以前に、胃の量に入る重さと消化にいいものを選ばなきゃいけねえ。プロテインはだいたい20gのたんぱく質が入ってる。胃が弱かったりそもそも栄養が足りてなければ、健康から遠ざかる。下痢とか腹痛とか気持ち悪さは、ただその症状が起きてるんじゃなく、胃とか腸がやられての結果だから。ああ、ちなみにバカみてえにプロテイン飲んでるマッチョ、もしかしたらお前は憧れてるのかもしれねえけど、あいつらはプロテインを飲み増量減量を繰り返してるから、てめえが思ってるより中はずっと弱いぞ。自衛隊とか軍に入ってたり、消防士として鍛えてるなら別だがな」
覇先先生は「さて、お前の数値的に消化できる献立は……」と、計算を始めた。
「献立って言っても、俺、全然料理できないですよ」
「料理できねえ奴でも食えるような献立考えるのが俺の仕事だから、別にお前一人料理覚えろとは言わねえよ。っつうか、料理指導は俺の管轄外だからな。だから、お前がすることは三つだ。プロテインをいったん休む、自分が辛くならない飯を俺と一緒に模索する、そして──自分に呪いかけんのをやめることだ」
「呪い?」
「おう。そもそも良く食う人間も対して食えない人間も変わんねえや。良く食う、えらい! バカの発想だからな。女も女で少食かっこいいで面倒くせえしよ……」
覇先先生は、「さーて数学の時間だぞ~」と電卓を取り出した。管理栄養士の仕事は案外泥臭い。贖罪の栄養成分の百科事典みたいな資料を取り出し、電卓を使って計算をして、ああでもない、こうでもないと模索しながらつぶやく。
「安心しろ、一緒にやってやるから。一人にはしない」
そんな先生を見て、男子大学生は当初の不安そうな表情が和らぎ、少しだけ落ち着いた顔をしていた。
◇◇◇
診察の時間が終わると、覇先先生は伸びをして相談室を後にした。先生はこれから入院病棟に向かい、各患者のヒアリングを行う。私は部屋に残り業務記録をつけつつ、記録の右上に書かれた、責任者の横に記された覇先という文字を見る。
覇先先生。
文字列にすると先が続く。でも覇先医師とは書かない。だって先生は医者じゃなく管理栄養士だから。院内において管理栄養士はあくまで補助。それが覇先先生のスタンスだ。
でも、私にとって、覇先先生こそが、先生だ。だから心の中で私はずっと覇先先生と呼んでいる。
◇◇◇
私はまともに食事が取れなかった時期がある。
私の父親は美容整形のクリニックを経営していて、母親は夜の世界に生きている人だった。
いわば父はナンバーワンキャバ嬢と結婚し、母親は敏腕経営者と結婚した勝ち組だった。そんな両親のもとに生まれた私は、両親の思う美的価値観に沿って生きていなきゃいけなかった。ジュニアモデルに何回も落ちて、「お前の体型がいけない」「醜い」と母親に罵られ、父親からは「俺に似ちゃったからブスになっちゃったけど、俺がちゃんと直してやるから」と、中学のころから整形をした。
モデル、アイドル、アーティスト、色々応募して全部落ちた。
人の期待を裏切り続けて、どうすれば生きていて許されるんだろう、どうしたら誰かに愛してもらえるんだろう。考えても答えなんか出なくて、食べることなんて二の次で、途方もなくなった26歳の夏。人生の最後を賭けた芸能事務所アビスノットの刻井怜が「あなたが受けるべきはオーディションじゃなく、医療」との言葉で獅子井総合病院──ようするにこの病院にかかることになった。そこで、覇先先生と出会った。
どうしようもない私を、覇先先生は見捨てなかった。助けてくれようとした。患者さんに対して平等に当たりの強い、ようするに私を助けようとしてくれたんじゃなくて、患者である私を助けようとしてくれたわけだけど、それでも先生の存在は救いになった。
「一緒に頑張ろうな」
そう言ってくれたのは先生だけだったから。その後、栄養相談や治療を経て、私は親元から離れた。元々オーディションの落選が続き期待外れだったと勘当状態に近かったから、私は、両親にとっていらない人間だったんだなと悲しくなったけど引き止められることはなかった。
死のうと思ってたけど、せっかく覇先先生や病院で身体を治してもらったから、少しくらい生きてみようと思って、でも患者でいるうちはただ迷惑かけるだけだから、役に立てることは無いかなと、こうして勉強をして病院に勤めることになった。
後から聞いた話だけど、私が何度も何度も落ちたオーディションの落選理由は私が至らなかったとか、努力不足なんじゃなくて、採用したら壊れてしまうから、というものだったらしい。
覇先先生のもとで働くうちに、私と似たような女の子を前にする覇先先生を、何度もみた。アイドルになるわけではないけれど、アイドルに憧れて自分の身体を壊すような女の子たちに対して、覇先先生はいつも当たりが強い。
『じゃあお前は職場まで送迎されてんのか? 倒れたときすぐ支えるボディーガードとか医療スタッフがそばにいるのかよ。いいか、職業にしてないなら痩せる必要はない』
『生理止まるぞ。訴えられても構わない。悪いが、子供が欲しい欲しくないの話はしてないからな。月経不順は将来的な健康リスクがある、という点で話をしてる。ただ、今のてめえに話しても効かねえだろうから結婚で例えてやるよ。芸能人なら引退して万が一、結婚して子供が欲しくなっても、資金力がある。でもお前にその金はあるのか? お前のその仕事の給料は、お前の憧れの芸能人と同じか?』
『事務所に所属しているようなアイドルはそういう管理方法にはならない。ただ、水商売とか枕営業が嚙んでるようなところは、男女問わず生殖機能に問題が出るほうがいいんじゃないかって正当化してるゴミばっかだよ。そういうクリニックのせいで、多分、本当に自分の外見を好きになれない人間が、少し自分を好きになれるよう、なんとかしたいと思ってるやつらが変な目で見られる。まぁ、そういう奴らを、見たことは無いけど、いたら、辛いだろうな』
先生の言葉は、私に対してだけ向けられることはない。
でも、私を助けてくれる言葉だった。
同時に、覇先先生の憎む対象に、おそらく私の両親が存在している。両親が──そういうビジネスをしているから。
◇◇◇
覇先先生はビジネスに母親を殺された人だ。それを知ったのは、丁度治療の終わりが見えてきて、覇先先生に感謝の手紙を渡そうと決めたころのことだった。
「ゴミみてえ。今更父親面しやがって」
病院のカフェで冷ややかにそう吐き捨てる覇先先生を見かけた。文脈と彼と共にいる男性が、彼そっくりであったことから、血の繋がりを察した。
「なにが復讐だよ気持ち悪いな。たしかにゴミみてえなビジネス経営者のせいで母さんは死んだよ。でも、てめえも同じ加害者だよ。母さんが復讐なんて望まないのは分かってるなんてよく言えたな。母さんが死ぬ直前……なんて言ってたと思う? これで気にかけてくれたかなって」
「そんな……俺は、俺はあいつのこと愛して……俺なんかに、勿体ない相手で、だからちゃんと稼いで、いい暮らしを……」
「それを、一度でも言ったことがあったか」
覇先先生は震え声で言う。
「母さんの為にやってるって言ったか」
「そんな恩着せがましいことを言うはずがないだろう‼」
「恩着せがましくても母さんには必要だったんだよ‼ 必要な……言葉だった。たとえ、常識的に、間違ってても、正しくなくても、母さんには必要な言葉だった。母さんはお前のことが、お前を愛していたからこそ、行動も言葉も欲してた。心の、底から……‼」
覇先先生の言葉に、彼の父親らしき男性は愕然としていた。
「お前が何を思ってようと、どれほど母さんのこと愛して、母さんの生活良くするために働いてたって、母さんにとってのお前は、家に帰るのが嫌だから仕事してる、仕事が好きだから仕事してる。そういう人間だった。少しでも可愛くなれば、綺麗になれば自分のこと顧みてくれるんじゃないかって、母さんは泥沼にはまったんだよ。そういう心の隙に入り込む詐欺師の食い物にされた。だからお前は、一生後悔しろ。復讐を終えて自分も死のうとなんて思うな。お前は地獄の中にいろ……お前が、少しでも好きだって言ってくれてたら……絶対、絶対、母さんは死なずに済んだんだ……」
彼の身になにが起きたのかは、想像することしかできない。でも、父親らしき人物が去り覇先先生が呟いた言葉に、私は全てがあるような気がしている。
『死にてえ』
似ていることを私は思っていた。どうして生まれてきたんだろう。両親の性行為の結果と正解を出すことは簡単だけど、何で私だったんだろうな、こんな感情を持ってるんだろうな、こんな風になっちゃったんだろうな、とはずっと思う。死にたい、とまでは至らない。死ぬ勇気が出ないから。でも私は幸せになれないし周りの人を見ていると惨めになる。絶対幸せになれないのに、死ぬのも怖くて、生きていなきゃいけないから。
自分で自分のことを愛せるようになれば、人から愛される人になれるらしいけど、私は自分が一番、嫌いだ。だって両親が徹底的に否定したのだ。親の言うことはよく聞きなさいって皆言う。大事にしなさいっていう。そんな両親が私を愛せなかったのに、私が私なんて愛せるはずがない。
だから私は一生、誰にも愛されない。
それがすごく、悲しい。
一人で生きていくのは、とてもつらいから。ひとりぼっちじゃなくなりたいから。
ひとりぼっちじゃなくなれる権利を生まれつき持ってないなんて苦しい。
私は覇先先生のそばにいる資格なんてない。
それは痛いほど分かっている。覇先先生を幸せに出来るとは思えない。
でも、私は覇先先生のそばにいたいと思った。死にたい覇先先生の生きたい理由にはなれなくても、ある日突然彼が死んでしまうとき、一人ぼっちで死ぬことだけは無いように。
いたいからいようと思った。
たとえ覇先先生の母親を殺したビジネスに、私の両親が関わっていたとしても。私の両親が覇先先生のお母さんを殺して、その家族を壊して、覇先先生のことを傷つけても。
赦されなくても。
『お前はお前の好きに生きていいんだからな。俺が、お前と一緒に頑張ってやるから』
先生が患者さん必ず言う言葉だ。その言葉に患者さんは安心する。先生の言葉を受けて先生の職場に勤め始めるなんてルートのたどり方をする人間は、おそらく私だけだろう。先生は元患者の私が先生の補助をすることについて、対して反応してなかった。患者じゃなくなり同じ職場で働く人間として先生の前に現れた私にかけた言葉は「あーお前か」だけだった。興味がないのか、受け入れてくれたのか分からない。
でも、勝手にそれを赦しにしている。赦されなくてもいいと思いながら。
◇◇◇
夜、覇先先生が指導部に戻ってきた。疲れた顔でバナナを食べている。少しだけ嬉しくなった。覇先先生が私に組んでくれた初めての献立にバナナがあったから。最初、朝食は卵粥にバナナヨーグルトと、人参と小松菜のペーストだった。
最近は違う。パンの日はバターを塗った4枚切り食パン、もしくはライ麦パンが主食だ。そこにバナナヨーグルト、ゆで卵とブロッコリーのサラダをつける。ご飯の気分の時は白米180gに焼き鮭と冷ややっこ、小松菜と人参のおひたしにわかめの味噌汁と、ちょっとした果物。消化機能の復活により品ぞろえが増えた。
「なんだよ。食いてえのか」
バナナをかじりながら覇先先生がこちらを見る。「いいえ」と私が首を横に振ると同時にガンガンと扉を叩く音がした。
「復讐代行の御上でーす」
死んだような目をした青年が入ってきた。覇先先生は「興信所の人間」と呟く。
「興信所?」
「探偵」
覇先先生がそっけない顔でバナナを早食いし、皮をゴミ箱に捨てた。御上さんは「契約違反と営業妨害で高等裁判所に訴えられる覚悟はおありで」と、椅子に座っている覇先先生を冷ややかに見下ろす。
「俺が死んだら金は全部コイツに行く。報酬の支払い義務はコイツに発生する。漏洩にはあたらない」
覇先先生は当然のように返した。
私と先生はそんな関係じゃない。私はきちんと弁えている。これはきっと何かの冗談。しかし、御上さんの「本気ですか?」という問いかけに、覇先先生が「母親殺したビジネスに関わってた家の娘娶るなんて冗談で言うかよ」と反論したことで逃げ場が消えた。
「母親が死んでからずっと決めてた復讐もやめたんだからな」
先生は見透かすように私を射貫く。
「じゃあ、婚前調査代として少し割引しておきましょうか」
「まだ承諾貰ってないし付き合ってもない」
「なら素行調査費用として2割増の金額になりますね。ストーカーリスクもあるので」
「ぼったくりだろ」
「その2割増料金は転居費用として贈呈します。あなたのこと嫌いだったらそちらの女性は勝手に興信所で身元調べられた被害女性になるので」
御上さんの言葉に覇先先生は「仕方ねえな」という。仕方なくはない。
「じゃあ、こちらの書類に判を押してください。それで依頼は終了になるので。ちゃんと文章読んでから判を押してくださいよ」
「分かった」
覇先先生は御上さんの書類に目を通しながら「そういえば天上って男どうした?」と御上さんに問いかけた。
「相変わらずいい男だよ。人を見る目があるから、俺を嫌うだけで」
「節穴だったらよかったのにな」
「本当にその通り。ただ自分を見る目は節穴だよ。自己評価がすごい低い感じがする。あいつよりいい男なんていないのに。もっと主語出せばいいのにと思う。自己主張」
「じゃあお前にそういう事言われるたび、この期待裏切ったらとか思ってんじゃねえの」
「えー余計好きになるそんなん」
「キッショ、っつうかお前探偵だろ、得意の予測能力と心理分析どうしたよ」
「天上さんにはしないようにしている。こうだったらいいなが重なるから。誰かに対して興味関心と好意と何をしても好きなんだろうなという感情が湧いて出たのは初めてだから慎重に見ている。ストーカーにならないよう。僕は天上さんになら何をされてもよい、しかし僕のすることが天上さんはぜんぶ嫌、そういう前提条件で生きてる。そうすることで僕は僕の暴走を防いでいる。正直なところ、天上さんがいてくれたらいいから。できれば、思ってること知りたいけど……あ、終わりましたね書類、じゃあ僕はこれで」
御上さんは話の途中にも関わらず、覇先先生が判を押すと部屋を出て行った。
「あの、先生、私の家のこと……」
いつから知っていたんですか。そんな間抜けなことを口にしそうになる。大事なのはそこじゃない。色々、違くて、混乱している。覇先先生は「復讐しようと思って調べたらお前の家だったからやめた」と、ふわっとした調子で返した。
「そんな……」
私の両親が先生のお母さんを殺したビジネスに関わっているか。確かめるのが不安で私は逃げていた。でも、覇先先生は調べたのだ。
「……皮肉だなと思った。ただ、お前のこと好きな気持ちのが勝った。だからお前は、俺のこと嫌じゃなきゃ、俺のそばにいてくれ」
「なんで私……なんですか」
「一緒に頑張ろうって言った患者が、ありがとうございます、あなたのおかげで助かりましたって笑うのは嬉しい。それが仕事だから。でも、指導が終わっても、俺が必要だって飛んできたのはお前が初めてだった」
覇先先生が私を見る。捨てられた子供みたいな目だった。
「先生を必要とする人間はたくさんいますよ」
「でも、必要だって言ったのはお前だ。俺にとってはそれが全てだから。その後、欲しいなと思った。だから、お前がこの先、お前の顔が嫌になったり、何百キロと増えたり、性格がめちゃくちゃになっても、どうなっても、いい。守りきれるか、幸せにできるかもわからないけど、それでもいいなら、一緒にいよう」
「ストーカーみたいなこともしましたよ」
「別にどうでもいい。というか、ある程度ヤバいことされないと、俺はたぶん届かない。壊れてるから」
──俺と生きてほしい。
覇先先生が私を見る。
私は「もちろん」と頷いた。




