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願事絡め


 求められたい。必要とされたい。


 漠然と思うようになったのは、いつからだろう。さすがに赤ちゃんの頃は思っていなかった承認欲求に振り回されつつ、私はオフィスでファイルを開き、最終チェックをしていく。 


 オトコのカラダ特集。


 大人気デザイナーインタビュー掲載。


 この秋、大注目のアイテムはこれ!


 組んだフォントとロゴに間違いがないか、目を凝らす。ファイルは秋に刊行予定の雑誌だ。私はamamと呼ばれる女性向け月刊誌の編集者をしている。


 編集者といえば作家と二人三脚で物語を作っていくイメージだけど、雑誌の編集者は芸能人からインタビューやコラムをもらったり、特集を組んだり、スポンサーの広告を入れたり、占い師から巻末の星占いの原稿をもらったりと全然違う。どちらがいいとか悪いとかはない。


 確実に分かっているのは、両者の世界はあまりに違うので、雑誌編集者経験者として小説の編集者も出来ると臨めば大事故が起き、その逆もしかりというだけ。


 共通していることは……紙がとにかくキツイ、くらいだろうか。


 人気雑誌「NEKOtyan」に「TEA☆TIME」「CAFE TIME」だって、他社とはいえ「紙は苦戦してるよね」「もう付録売ってるか分かんない」と言っているし、雑誌と付録を紐でくくったり、付録だけどこかへ行かないよう散らばらないようビニール掛けをする書店からも悲鳴が上がっている。


 ネットでも作家が「出来れば紙で買ってほしい」という言葉に読者から「電子派はいらないってことですか?」と合戦が行われ、紙と電子の話は誰も幸せにならない。疲れる。こちらはそういうことを考えずに作りたいし、読み手だってそういうことを考えずに買いたい。なんなんだろうこの世界は。なんて主語がどんどん大きくなりやっぱり誰も幸せにならないので、私たちに出来ることといえば、目先に尽力に限る。


 具体的に言えば加速し続ける流行り廃りの移り変わりをいち早く察知すること。


 雑誌の本懐は、流行りをいち早く取り上げること。


 そのトレンドもネットコラムにひったくられているけど、だからこそ生き残るには集客力が必須で、皆が欲しい情報、付録、知りたいことを、常に先々のことを求め続けなければいけない。でも先取りしすぎても駄目。


 求められる存在になるために四苦八苦だ。雑誌の編集者さんってキラキラしてそう! なんて思われがちだけど、映画の世界だけだ。


 打ち合わせの時はセンスを求められる為、武装としてのオシャレが必須だけど、編集部から出ないときはいかに腰痛と腱鞘炎を和らげるか、長時間のPC作業で起こる頭痛を避けるかに命を賭けている。忖度なしで化粧品レビュー企画の担当者なんて「何着たってビシャビシャになるから」と一番安いジャージでその日過ごしていた。


 泥臭い仕事。でもそれを出したら終わり。イメージが傷つくから。なので芸能人なんて大変だろうなと思う。最近はクリエイター側もイメージで売り始めたからなおのこと。疲れる世界だ。


 私はカバーをもう一度確認する。


 今巻のメインは、実力派アイドルのセンシティブ企画に、女性に絶大な支持を受けるファッションデザイナー、滝永漱史(たきながせいじ)のインタビュー掲載だ。次巻はソーシャルゲームアプリ『惨染世界(さんぜんせかい)デッドエラー』に出てくる、解木方明歩(ときかためいふ)佐久間弾(さくまだん)、要するに二次元のキャラクターを表紙に起用し、アプリの特集をする。今巻ではリアルを追ったので、次巻はサブカルチャーだ。


 アプリのストーリーラインとしては、突如現れた「濁り」と呼ばれる化け物と戦う組織に入った主人公ことプレイヤーが、そこで出会うキャラクターと交流を深めながら戦いに身を投じていくというもの。


 佐久間弾というのは、主人公にとっては先輩、プレイヤーにとってはゲームの進め方を教えてくれる存在だ。面倒くさがりで大雑把だが、困っている人間は見捨てられない世話焼き。だらしないところがありそうな見た目だがきれい好きで、家事全般が得意。20代~60代の女性が安心して「頼れる」ことをベースとして作られている。


 一方の解木方明歩は、期間限定イベントのキャラクターだ。王子様的外見とは裏腹に、無能な者は即座に切り捨てる冷酷さを持つ。一方で妹が昏睡状態に陥っているなど暗い背景もあり、「支えたい」と思われることをベースに作られているらしい。


 ユーザーの求めていることに見事にマッチした戦略により、ダウンロード数は1800万を超えているが、雑誌が出るころには2000万ダウンロードを超えているだろう。


 ユーザーの求めるものと自分の作りたいものを上手くつなげ、時代と状況がマッチすると、こうした分かりやすい撥ね方として出る。


 次巻の手筈を整え、私はトークアプリを開く。


『今日は地元の奴らと飲むからなんもいらない。先寝てて』


 報告があるだけマシと考えたほうがいいのだろうか。


 相手は同棲している彼氏からだ。


 そして先寝てては配慮じゃない。先寝てて、出来れば朝帰りに気づくなということだろう。


 浮気じゃないし束縛もしたくない。でも嫌だなと思うし嫌だと思う自分が嫌だ。


 彼氏の地元飲みには、あの女がいるから。




 初めてその女を見かけたのは、商業ビルに入っているアロマショップの店内だった。「好きそう」と言われ案内され、こういうところ知ってるんだ、と少し驚いた。


 私の彼氏は、一般的な男の人の特徴を五つあげればそのすべてに該当し、彼女が彼氏の好きなところ、そして抱える不満すべてをきっちりコンプリートしているような、分かりやすくありふれた人だったから。


 薄暗い店内。漂う甘い香り。雰囲気のある店内によく似合う、綺麗な人。


 他人ならそれで済んだ。印象も良かったと思う。


 シトラスノートの試香をし、これはどうかと聞いてみると、この店をよく知るはずの彼氏は上の空。


 やがて彼が「栖威(すい)」と、呟くようにその名を呼んで、すべてが狂った。


 彼氏の呼びかけに応じたのは、その「綺麗な人」で、彼女はこちらに振り向き、やや吊目がかったくっきり二重の瞳をこちらに向けた。やや冷ややかな印象を受ける眼差しが、少しだけ悪戯っぽく幼げに緩んだあの瞬間を、私は一生呪い続けるだろう。


「あ、どうしたのこんなところで」


 大人っぽくて艶っぽい声だった。静かな店内ではっきりと聞こえながらも、誰の迷惑にならない音量。


 黒のニットはノースリーブで、季節感を考えているのか考えていないのかサッパリ分からない。そのニットの背中が腰のあたりまで開いていたことに気付くのと、マーメイドスカートを翻しながら歩いてきた彼女が私の目の前に立ったのは、多分、ほぼ同時だった。


 彼氏のほうは、露出の多い服装を前にしても一切反応していない。変な安心と「いつもこうなのか」という不快さでいっぱいになる私を彼女は、「もしかして彼女さん?」と、頭の先からつま先まで撫でまわすようにじっと見つめた。


 女同志特有の値踏みの目だ。


 男は一生分からないだろうし、訴えたところで絶対理解しない。できない。気のせい、気にしすぎ、嫉妬してる? と明後日な方向で片づけるだろう。同性でしか分からない、水面下ではなく最早薄氷の下で行われる冷戦だ。


「いや、普通に買い物」


 私の彼氏が言う。不貞腐れたような顔をして。


「普通に買い物って、ここ私がこの間、いいよって言ってた店じゃん。っていうか……彼女さん?」


 女が聞いた。聞いてからようやく、「まぁ」と彼氏が付け足す。紹介にしてはあらゆる部分が欠落していた。


「えー、こんな可愛い彼女がいるなんて知らなかったんだけど。紹介してくれれば良かったのに。っていうか付き合ってる人がいるってなんで言ってくれなかったの?」


 彼氏は、その質問の攻撃力を理解することはしない。


 彼女がいるなんて知らなかった。


 つまり彼氏は私の存在を言ってなかったわけだ。


 別に付き合ってからすぐ交際宣言をしてほしいわけじゃないけど、彼女がいることを一切言わなかったら、普通に周囲は「彼女のいない男」として認識する。


 男であれ女であれ、正気であれば人のものには手を出さない。


 誰かと付き合っている中、想いがこちらに向いたとしても、それは「付き合っている人間がいるのにほかに想いを向ける前例を持つ人間」との交際を意味する。


 ネットで不倫や浮気の果ての恋を、浮気相手視点で恥ずかしげもなく暴露し、切ない恋が実ったと自慢する人間を見たことがある。


 浮気した人間がその後誰かと付き合い浮気しないことなんてありえない。


 事故が起きると確約されている中古車だ。


 でも人のものと知らなかったら、普通にいろんな機会があるわけで。


 戸惑う私に、彼女は手を振りながら笑った。


「あ、私、翅生栖威(はそうすい)って言います。高校時代一緒で……だから地元ノリって言うか、別にやましいことしてないから、大丈夫なんで安心してください」


 丁寧に手入れされた爪がやけに印象的だった。


「ってかメッセ返してって言おうか迷ってたけど……欠席でいいよね?」


 翅生栖威が私の彼に問う。彼はあからさまに動揺した。


「は? なんで」


「だってさー地元の集まりで彼女さんの仲壊すわけにいかないじゃん? 女いるし彼女さんは嫌でしょ、普通に」


「別にこいつはそういうの気にしないって、な」


 彼氏はようやくそこで私を見た。


 翅生栖威が現れて、初めてだった。


「まぁ」


 私はその瞬間に時間が巻き戻っても、たぶん同じ返事をするだろう。だって私は同意したというのに翅生栖威が「いやでも」と難色を示して、彼氏が「っていうかそういうの制限されたくねえし、重くね?」と私を牽制するように見たのだ。私があの時ああした返事でなければこじれていた。


 選択に間違いはなかった。


 ただ、正しくもなかった。


 




『今だったら絶対助けられたはずなのにって、いつも思う。なんで……俺の家族、だったんだろ』


『他の奴らの家族なら、死んでいいみたいなことばっかり思う』


『……死んでよかった』


 スマートフォンに表示されるテキストを、目の前の永雅さんが眺めるのを、私はさらに眺める。少し遅めのランチタイム、私は近所で働いている永雅さんを誘い、カフェに来ていた。


 店内は女性に占められ、カップルが居づらそうにしている。「いっそのことアフタヌーンティーでもしてみますか?」なんて話になったけれど、パパ活が多いのでやめた。非日常を味わいたいのに、性事情コンテンツが視界にうつるのはキツい。


「惨染世界デッドエラーって、結構残酷なんですね。流行ってるんでもっとこうポップな感じかと」


 画面から視線を外した永雅さんが、鞄に自分のスマホをしまう。


「まぁ、元々それのシナリオ作ってる人、乙女ゲームも作ってるんですけど、すごい残酷でシャンデリアが落ちたりゴア描写多かったんで……永雅さんがデザインしてるさよ天好きなんですよたしか」


「へー」


 永雅さんはデザイナーをしている。担当しているのはライトノベルや漫画が多い。ロゴデザインを一から作ったり、そのロゴをイラストに合うように配置したり、色を変えたりだ。


「永雅さんいかがですか」


「いかがって何が」


「ご指名貰ってるじゃないですか、さよ天の作家さんとかに、ずっとこの人にカバーお願いしますって言われてるんでしょ」


 求められる側。純粋に羨ましい。穴埋め要因として求められたことはあるけど、「この人に」と選ばれる感覚って、どんな感じなのだろう。


 仕事でも、恋愛でも、それ以外でも、一度でいいから誰かから求められてみたい。


 そのためには求められる人間にならなきゃいけないのだろうけど、数字を出すにも上がいるし、尖れば嫌われる。どっちつかずの私は多分、一生、何者にもなれない。それは、良くわかる。


「あー……まぁ、光栄だよね……あ、ありがとうございます」


 話の途中で注文していたパンケーキが届いた。


 同月発売の「CAFETIME」という雑誌で、表紙を飾るパンケーキだ。ホイップクリームにピスタチオやブルーベリーをあしらい、なめらかなホイップクリームとメープルシロップをがかかったパンケーキは、まさに「映え」だ。表紙にふさわしい。メインになれる存在だ。


 永雅さんと同じ。


 私とは違う。


「ただ、怖くもあるよ」


 パンケーキにナイフを入れながら永雅さんが呟く。


「怖い? なんでです?」


「だってあの人世界で一番漫画上手いじゃん。編集者は分からないけどさ、漫画家書いてたらこの人には絶対勝てないって全員分かるんじゃないかな。っていうか素井有栖にも言われたことあるし、さよ天のカバーデザインするにあたって、勉強したこととか教えてほしいとかさ──だから、こっちは天才じゃないけど、あっちはもう天性の天才じゃん。でもカバーとか原稿読んでると何千枚デッサンして何億枚漫画読んで研究したか……みたいなのは分かるし。生まれつき才能あって、でも本人は自分には努力するしかないって思ってて、それでいて漫画描くのも読むのもエンタメも好きみたいなタイプはもう……バケモノよバケモノ。バケモノに追いつくなんて出来ないけど、追いつこうとしなきゃ向こうにも失礼だし、ただ、良いなと思う」


「いいな? 永雅さん漫画家になりたかったんですか」


「違う違う。漫画家になりたいんじゃなくて……なんて言えばいいんだろ。どんな人かは知らないし、年齢も性別も非公表だから……とんでもない人が正体かもしれないけど、どんな性格してても、過去に何をしていても、あの人は世界で一番漫画が上手い。いいなと思う。そういう、永久に誰も座れない席に座れる人、羨ましいよ。大変だろうけど。王道でも覇道でもない、狭間の道の唯一無二」


 永雅さんは目を細める。


 覇道。


 たまに永雅さんは昔の言葉を言う。永雅さんも彼女なりに、欲しいものがあるのかと親近感を抱く反面、永雅さんクラスですら渇望を抱えているなら、私のこれは捨てたほうが早そう、と少しだけ思った。




 私はもともと教育学部にいて、編集者を志していなかった。親が教師で、教師になることが既定路線だった私は、教育実習で小学校に行って──心が折れた。


 担当したクラスでは、いわゆるいじめっ子の男の子三人がいて、気弱そうな男の子をいじめていた。年の離れた姉がいるとかで「シスコン」だったり、容姿に関することなど。注意していたけれど私は教育実習生だからよそ者だと相手にされなかった。担任に訴えてもろくに取り合ってくれず、とうとう、いじめられっ子は階段から落とされ怪我をした。担任の態度に疑念を抱いていた私は親同士の話し合いに参加することになった。


 いじめっ子の親は比較的すぐ来た。いじめられっ子の親は中々連絡がつかず待機していたわけだけど、「そもそも三人の子供が嫌だと思うようないじめられっ子に問題があるのでは」と三名の親が言い出した。


 たとえいじめられっ子に問題があろうと、いじめをする理由にはならない。そんなことが許されれば、人を殺しても、隣の家から物を盗んでも許される世界になる。「それは流石に違う、海外ではいじめっ子に問題がありカウンセリングを受けさせるケースもある」と話をしたところ、土下座を求められた。


 その場に同席していたのは、三人の親だけではない。校長と担任もいた。


 でも庇ってくれなかった。誰も助けてくれなかった。


 土下座しろ、出来ないなら帰れと三人の親に言われ、土下座してしまえば加害児童保護者三名の成功体験になる、出て行っても同じだ。だから絶対退出しないと抗議したが、校長に怒鳴りつけられたあと、三人の親と教師たちが退出した。被害者児童の親は最後まで来なかった。


 その後、私は起きたことを両親に話した。


 私は、味方してほしかったのだろう。肯定や励ましを欲したのだ。両親は、もう「少しかしこく立ち振る舞うべきだった」「真面目すぎるのもだめね」だった。


 他人に期待するなんて、他人を思い通りにしようとするなんて、結局傲慢なことだった。


 奨学金を抱えながら学校の先生をして、結婚出産親の介護まで考えれば、絶対に病気や事故に遭わない確証がない限り一人暮らしなんて出来ない。


 そう思っていたけど教職志望をやめたら人生計画に幅が広がった。


 就職を機に絶縁するよう家を出て、編集者として働き──トークアプリで大学の飲み会に誘われ、参加して、流れで付き合った彼氏だ。元々グループワークで少しだけ関わった程度だったけど、飲み会で話をしている間は案外気が合うと思っていたし、実際食べ物の好みも映画の好みも一緒で、交際後も不満はなかった。


 でも、あの女、翅生栖威が現れて変わった。


 すごく疲れるようになった。


 翅生栖威は綺麗だ。芸能人と変わらない美しさを持っている。よくパパ活をして男から金を貰っている「爆美女」だとか、フォロワーに「美人」「すごく可愛かった」と適当な世辞を並べられる容姿とは一線を画していた。


 あんな人間がそばにいて、他の女と付き合おうと思えるのだろうか。


 私が男だったらありえない。結ばれずともずっと焦がれる。


 だから嫌だった。彼氏があの女のいる飲み会に参加することが辛くて苦しいし、そんなことを言っても誰も味方してくれないどころか私が悪者になるのは明白なので黙るしかない。


 それに以前、彼氏は私に言ったのだ。「栖威ってさ、弟、事故で亡くしてんだよな」と。自殺の巻き添えに遭ったらしい。だから自分と翅生栖威の付き合いに口を出すなと言いたかったのだろう。


 飲み会に出る翅生栖威の気持ちは、色々あると想像できる。


 だからといって彼氏が行く理由はなんなのか。翅生栖威の心の穴を埋めるのが自分であると言いたいのならば何故私と住んでいる部屋から飲み会に行くのか。自分だけの住まいをもってそこから行くのは駄目なのか。


 問いただせば多分、なにか変わっていた。私は問いたださなかった。


 彼氏が飲み会に行くと、いつも思い出すのに。




 その夜、終電より少しあとに彼氏は家に帰ってきた。タクシーを使ったらしい。


 彼氏は倹約家な面があり、一人でいるときはよほどの豪雨でない限り、タクシーは使わない。


 一人で寝るベッドから見る月はずっと綺麗だった。




 原稿が落ち着いた休日、私は養護施設に向かった。彼氏とはずっと休みが合わない。同棲しているからわざわざデートに行く必要はないよね、という空気が出ているけどそもそも家にいても顔を合わせることはない。


 前は気楽だった曖昧な距離感が、皮肉にも一緒にいる意味を揺るがしている。


 このまま、私たちは結婚に至るのだろうか。


 前は結婚するだろうなと思っていたけど今は漠然とした分からなさが頭を占める。彼氏の両親に会ったことはないし会ってほしいと言ったことはない。私もないから、向こうが言い出しづらい可能性もあるけど、多分、何も考えてないのだろう。


 そしてそれを言えば、「考えてる」と水掛け論が始まる。想像がつく。だから言わない。


「白木さん」


 私は養護施設そばで花に水やりをしていた白木さんに声をかけた。彼はここを運営しているNPO法人の人間で、この施設の管理をしている。


「おはようございます」


 私は挨拶をして、施設の中へ入る。休日、私は養護施設の子供たちに勉強を教えている。気分転換だ。普段、流行を追って追ってと目まぐるしい時間の流れの中で生きているぶん、この場所の、時間が止まったような──異世界のような空気が恋しくなる。慈善の気持ちはない。白木さん曰く「かわいそうな子どもたちをケアしてあげなきゃ!」といった正義感で臨んだ人間はことごとくやめているので、それでいいらしい。


 廊下を進んでいくと、子供たちに楽譜の読み方を教える少女がいた。正直と言ってももう成人女性だが、彼女はいつだって時が止まった容姿をしている。


 桜羽沙椰。


 かつて天才と呼ばれた少女だ。


「シロ」


 そんな彼女が気軽に呼ぶ相手は、同じ才能を持つ人間ではなく、ましてや音楽の道すら歩んだことのない、普通の男だった。


「わん」


 桜羽沙椰の呼びかけに、普通の男──華室さんは当然のように応じた。華室さんは近くの高校で教師をしている。桜羽沙椰は元教え子らしいが、出会いはずっと前だと言っていた。同時に「俺はあいつに絶対服従だから」といつも言うけれど、どちらかといえば手綱を握っているのは華室さんで、桜羽沙椰のほうが彼に縛られている気もする。


 実際、桜羽沙椰の首に、華室さんの贈ったらしい華奢なチェーンのネックレスが主張している。


 金古美と呼ばれるアンティークっぽい色みで、独特な形をしているフィガロチェーンは珍しい。


 オーダーメイドでアクセサリーを作っているお店で頼んだと華室さんと話をしていた。「身体で払わなきゃ駄目かしら」「お前俺を刑務所に入れる気か」「私がパパ活で捕まるかも」「俺そこまで歳喰ってないけど」と、危ういやり取りをしていた。年の差の問題はあるし二人の関係は正しくないのも分かるけど、それでも羨ましかった。


 二人には絶対的な繋がりを感じる。恋人同士にはない、少し暗くて、たぶん普通の幸せとはちょっと遠い繋がり。運命の赤い意図が可視化されるなら、たぶん、赤じゃない色。


 桜羽沙椰がそのまま女性で、華室さんが女性であったら。


 逆に桜羽沙椰が男の子で、華室さんがそのままだったら。


 色んなもしもを経ても、二人は絶対に、途切れない糸で繋がれている気がする。


 羨ましい。絶対的な繋がり。一方的ではない、お互いが求め求められている感じ。


 そうした繋がりが私と彼氏にはない。


 翅生栖威により失ったのではなく、たぶん、最初から。




 養護施設には色んな人がボランティアにくる。経済状況も年齢もバラバラ。共通して「ずっといるな」と思う人で、明るい人間はいない。


 子どもの前では明るく振る舞っていても大人の前では喋りもしない人もいる。


 調理の補助ボランティアをしている御上さんという男の人が代表格だった。


 子供の前では無邪気だが、18歳以上の人間に対しては当たりがきつい。


 しかし、今日の私は死にそうな顔をしていたからか、「顔色終わってますね」と、冷たい声音で言いつつも、子供たち用のりんごを焼き林檎にして出してくれた。


「ありがとうございます」


「余ったので」


 御上さんはお礼を拒絶するように林檎のヘタを捨てる。子供たち用の林檎は兎にして、塩水に浸けられていた。


「御上さんって飲み会とか行かれますか」


「仕事では」


「地元の飲み会とかは」


「行きません。そもそも飲み会は嫌いです。仕事で利益があるなら別ってだけです」


 ならば私は飲み会が嫌いな人と付き合えば良かったのだろうか。


「飲み会が嫌でそんな顔色悪いんですか」


「いや、まぁ、彼氏がちょっと……行くのが嫌だなって。まぁ、こんなこと言うと悪い彼女だなと自覚はあるんですけど」


「別に悪くないですよ。飲み会の延長で不貞行為に及ぶ人間は男女共通として存在しますし、お酒のせいでつい、記憶がないと主張できますからね」


 御上さんは私を庇ってくれようとしているのだろうか。でも、私にそんな資格ない。なんだか申し訳ない気持ちになってうつむいた。


「束縛するのは嫌なんですよ。浮気されるのも、嫌。でも……私、それほど彼氏のこと、好きじゃない気がして……なんていうか、ないがしろにされるのが嫌なだけで、彼氏が好きだから浮気しないでほしいとか、女のいる飲み会に行ってほしくない……って思ってはないのかなって」


「はぁ」


 御上さんは私を見て、その後の言葉を紡ごうとしない。呆れられたのだろう。自分でも、自分の我儘さ加減に呆れる。


「私を好きな人と、出会いたいなって、思っちゃったんですよね。こう、ぎゅって、子供みたいにこの人好きってしてくれる人」


 一人でいい。皆から愛される私なんていらない。誰かひとりに、「この人じゃなきゃ嫌だ」と、普段、要望も我儘も言わないような人がどうしてもと、欲する存在になりたい。抽象的過ぎるけど、多分、私の根本の願いはそれだ。


「夢見がちで、馬鹿みたいだなと思いますけどね」


「夢見るのはやめないほうがいいですよ。俺みたいにならないほうがいい」


 御上さんは早口で言う。


「でも、疲れませんか。欲しいものが手に入らないのに求めてたって惨めじゃないですか」


「俺以外の人間は、皆欲しいもの手に入るから大丈夫」


「御上さんは、欲しいものってなんですか」


「もう手に入らなくなっちゃった」


 御上さんは子供みたいな言い方をすると、積み木を片づけ始めた。白木さんが「行こうか」と退出を促す。


「御上さん、大丈夫なんですか」


「大丈夫じゃないけど、彼は孤独な人だから」


「でも、子供たちにも人気で、職場との相性も悪くない……んですよね?」


 私は普段の御上さんの様子を思い返す。ふと思いつめた表情をするけれど、子供たちの前では明るく朗らかで、孤独を抱えているようには見えない。


「うん。彼の周りには人がたくさんいる。その一方で、彼が励ましを欲するのも称賛を欲するのも一人だけ、彼を癒せる言葉を持ってるのも一人だけ。まぁ、必要そうには見えないだろうし、実際、その一人と出会うまでは、必要であることにも気付かなかったんだろうけど」


 ──だから多分、もう駄目だろうね、彼は。


 白木さんが振り返らずに言う。


「駄目、とは」


「だって無理でしょう。はた目から見れば御上くんは行動力の塊だし、結果を出さなきゃ許さないように見える。実際他人にはそう。でも、一人だけ、その一人にだけは言葉を欲してる。たった一言でいいって。でも、そういうの、重くて気持ち悪いでしょう? 向けられていい気はしない。御上くんの欲しいものは永遠に手に入らない。御上くんが自分の素を出したとき、受け入れる人間はこの世界のどこにもいないから」


 憐みの花束を手向けるような口ぶりだった。白木さんですら救えない御上さん。御上さんを救える言葉を持っているのは誰だろう。そしてその人は何を言うのだろう。純粋に知ってみたいと思えど、その言葉を一番欲している御上さんですら手に入れられないのなら、部外者の私が知ることは永遠にない。


「なにかに期待しないって言葉はさ、誰かの後押しになる言葉だと思うんだよね。ようするに期待しなくていいっていうか、ほら、親御さんと関係が悪い場合……っていうと、親は大事にしなさいって怒る人もいるかもしれないけど、毎日子供のころ熱湯かけてきたりさ、全裸で家から出されたり、そういうことをする親って、いるから。そういう親を持ってしまった子にはさ、分かり合うことを諦めてもいいんだよって、特効薬になると思う。人間、家族であろうと友人であろうと、結局別の個体なわけで、アメーバみたいに分裂したわけじゃないから」


 白木さんは笑みを浮かべる。


「ただ御上くんの場合は……人生に期待しない。生きていてもいいことがない。人間に期待しない。俺を理解してくれる人間なんてどこにもいない。俺の為になにかする人間はこの世界にいない。たとえ自分の為に動く人がいても、御上くん自身が、別の理由を探す。誰かの期待を期待しない。俺は誰にも好きになってもらえない。未来に期待しない。みたいな」


「なら何でボランティアとかしてるんですか、世を捨ててるのに、誰かのために一生懸命生きる、というか」


「そうしないと通り魔になりそうだからっていうのと、死んだとき好きになってもらえそうって言ってたよ」


 白木さんの言葉に心当たりがあった。SNSの訃報で、それまでその人に対して何も言わなかった人が、突然好きだった、悲しいという現象。


 御上さんはそういうのを嫌いそうだと思っていたけれど、それを求めていたとは。


「だから他人から関心が無くても当然、失敗しても構わない。何にも期待してないから。でも、客観視が出来る日もあるから、その道が良い道ではないことも知っている。だから多分、君にそうなってほしくないんだろうね。まだ間に合うって」


「私、まだ間に合うと思いますか?」


「間に合うよ。御上くん以外は皆、ちゃんと間に合う」


「御上さんが間に合う方法ってあったと思いますか?」


 そこまで問うと、「それは御上くんが一番知りたいだろうね」と白木さんは子供たちのもとへ戻っていった。




 養護施設から戻り、ミニシアターで映画を見た。


 サブスクで入っているネット配信サービスで無料で見れる物だけど、稀に「映画館で映画を見たいけど新作映画を見る気力はない」といった我儘でやや疲労の滲む欲求に突き動かされる瞬間がある。


 見たのは、それまで別の業界にいた人間がファッション誌の編集者になる物語。悪魔と呼ばれる編集長に叱咤激励を受けながら成長していくものだ。


 女性編集者御用達と思っていたが案外男性編集者も見ており、映画系の企画で頻出するため禁じ手になっている。


 映画デートはよくしていた。見るのは最新作か流行りのもの。私は正直、何でもいい。つまらなくても理解できなくても、後々ネットを泳げばあの演出はこういう意図だったのか、と気付くこともあるし、「つまらない映画だった」というのも知識の一つになるので無駄にならない。


 だけど相手はどうか分からない。最新作か流行りものであれば、面白くなくても相手に「最新作を見た」という話題性だけは提供できる。


 だから一人の場合はギャンブル性の高かったり監督が大衆受けを捨てたような、後から受賞して話題になるようなニッチなものを選ぶようにしている。自己責任で済むから。ただ趣味がニッチなわけじゃないから突然こうして王道に走り出す。


 彼氏の前では見栄を張り、Sサイズのポップコーンを頼んでいたけど全サイズ値段が変わらないキャンペーンをしていたのでしょうゆバターとキャラメルのハーフハーフを頼んだ。毎回映画を見終わる頃には食べ終わっていると思えど、半分残っていた。後は家で食べる。ポップコーンをカップごと袋に入れ、手持ちのところをきつく縛り、スマホで時計を見ようとすれば彼氏から3件ほどメッセージが入っていた。


『酔いつぶれてしまって、迎えに来ていただけないでしょうか』


 ずいぶん他人行儀なメッセージだ。


 トーク画面を開けばマップアプリで店舗共有が添えられている。こんなことは初めてだ。私は映画館を出つつ、タクシーアプリで送迎の手配をする。高い買い物だけど背に腹は変えられない。


 酔いつぶれた彼氏を迎えに行く。私はまだ、そういうことが出来るのか。


 夜の繁華街、タクシーを待ちながら、楽しそうに歩く恋人たちを見て他人事のように思った。




『przed świtem』と、壁に向かって投射された照明で主張するバーは、私や彼氏の勤務先や家からも遠い、急行でも止まらない駅から10分程歩いたところに位置していた。


 どうしてこんなところにバーがあるのか。二駅先には大規模な観光都市もある。ホテル併設のバーのほか、簡易なカクテルくらいなら安価で出すレストランと戦えるのだろうか。


 マップを見て疑問を抱いていたけど、タクシーの車窓から、隠れ家的なレストランや料亭のほか、高級住宅街も窺えた。


 いわゆる、車を数台所持し、最寄り駅からの時間なんて関係ない、そもそも電車通勤なんてしないどころかそういうわずらわしさから逃れたい人間のテリトリー。


 そんな場所にあるバーで酔いつぶれるほど飲んだ。


 会計額を想像するだけでため息が出そうになる。同時に、朝帰りはしても酔いつぶれて迎えに来てと言われたのは一度もなかったので、純粋に心配もする。


 私は気を引き締めて扉を開く。薄暗い店内、ウッド調のインテリアの奥にはピアノが置かれている。演奏は自動ではなく奏者つきだ。テーブル席が多く、カフェのような雰囲気が滲む。


「いらっしゃいませ。おひとりですか?」


 店内を眺めていると、ウエイター姿の若い女性が声をかけてきた。


「えっと、知り合いが中にいて……」


 彼氏、とは言わなかった。女性は「かしこまりました、どうぞ」と奥へ促す。私は彼氏の姿を探しながら店の奥へ進んでいく。


「加狸くん素敵よね」


「この間はマスターがいいって言ってたじゃん」


「だって蔵原さん相手いるらしいし……ほら、加狸くんは医大生だし、年下だけど麻酔科医志望ならさぁ……」


 女性客が声をひそめながら話をしている。


 そのまま奥へ進むと、カウンター席で突っ伏す彼氏の姿を見つけた。隣には翅生栖威がいる。私はあえて声をかけず近づいた。


「ほら、起きなって。彼女さん呼んでるから、そんな姿見たら不安にさせるでしょ」


「うるせ……ノリ悪って言って飲ませたのお前らだろ……」


「みんな彼女いるの言わなかったのショックだったからじゃない? っていうか私飲めなんて言ってないし。水はすすめたけど」


「ああ……」


 間延びした彼氏の声。朝帰りのあと仕事に響かないのか問いかけたときの応答とはまるで異なる高さだった。


 聞き入れているのが良くわかる。最初のうるさいという反論だって拒絶ではなかった。


 わかる。それだけの時間を過ごしてきた。でもそれだけの程度だった。如実にわかる。彼氏にとっての翅生栖威と私の重要度。


 後から現れたのは私。


 彼女なのは私。


 だから優先してほしい。当然だと主張する権利は持っている。彼女だから。


 でもその権利を主張した途端、私はその立ち位置から強制退去処分される。ここまで有利な治外法権は見たことがない。


「そういうのじゃない」


 想像がつく。


「翅生栖威はそういうのじゃない」


「お前の思ってるような関係じゃない」


 私の感じ方が悪いだけ。


 でも私が悪いのかと問えばヒステリックにほかならず、「そういう話をしてるんじゃない」と新たな消耗戦が始まる。そういうのがすべて疲れる。妥協でこのまま付き合い結婚まで至れば、「老後にあんなこともあった」で済むのか、このわだかまりは今後決定的な決裂の序章なのか、最先端を調べることは苦じゃないのに、自分のこととなると考えたくない、疲れるが勝つ。


 声をかけるのすら躊躇っていれば、彼氏は応答すらままならなくなった。意識が消えてくれてよかった。下手に返事が出来ると私も話しかけてしまう。声をかけようとすれば翅生栖威がこちらに振り返った。


「あ、どうも」


「こんばんは」


 どうもなんて声をかけられる存在ではない。それだけは絶対的なラインとして必要だった。ささやかながら強い抵抗に翅生栖威は気付くのか。顔色をうかがえば彼女は相変わらず美しい所作で、「どうぞ」と彼氏とは反対方向の──彼女の隣の椅子を撫でた。


「良ければ一杯飲みませんか」


「いや、明日も仕事あるんで」


「明日休みって彼から聞きましたよ。だから連絡したので」


 やっぱり。薄々、そうじゃないかと思っていた。私の知らない彼氏のスマホのパスワードを突破し、連絡してきた存在が、この女じゃないかって。


「話、しましょうよ、これから先、長い付き合いになるわけですから」


 翅生栖威は笑みを浮かべる。整形では絶対出せない天然物の美しい口角に、艶めくリップグロス。彼氏はこれを何度間近で見たのか。失望と憎悪を押さえながら私は彼女の隣に座った。


「カリフォルニアレモネードです」


 着席を待ち構えていたかのように、テーブルにグラスが置かれた。


 ピングがかったオレンジ色の液体が揺れている。爽やかな柑橘系の香りが漂う。緩やかな空間の中、翅生栖威の黒い眼が私を挑発的に射貫く。このまま帰るのも逃げるようで不愉快だ。私はやむを得ず彼女の隣に座った。


「嬉しい」


 翅生栖威が言う。私は嬉しくない。




「彼女からしたら、嫌じゃないですか? 迎えに来た彼氏が、ほかの女の横で酔いつぶれてるのって」


 煽ってんのか。二人きりであれば確実に顔に出していただろうけど、幸い目の前には別の客のカクテルを作るバーテンダーの姿があった。後方からはピアノの生演奏が披露されていることもあり、「まぁ」と適当に返す。


「今日は高校時代の付き合いの中で色々揉めてる? みたいなことがあって、仲介しなきゃいけないみたいなノリになってたんですよね」


 翅生栖威は聞いてもいないのに飲み会の経緯を話し始めた。まるで私が彼氏から一切聞かされていないように語っているが、実際その通りだった。


 なんの飲み会が問いかければ、「なに」「なんでそんなことまで聞かれなきゃいけないの」「疑ってる?」の地獄の三段活用が発生する。面倒くさい。とにかく面倒くさい。でも聞かないからと言って平気じゃないし別に歓迎もしてない。それを向こうが一切分かっていないことにも憤る。でも察してほしいとは思わない。だったらどうしろと責められそうだけど、こうしたことにはそもそも正解がない。お互い譲歩しながら妥協点を探らなきゃいけないわけだけど、多分私たちはお互いそこまで相手に理解されたいともしたいとも思っていない。


 決定打を下す体力も別れる気力もない。多分ずるずる続いて結婚し、私はこの虚無感と折り合いをつけていくのが上手くなっていくのだろう。それかいっそのこと向こうがハッキリとほかの女に気持ちを移して離れていくか。


 疲れる。全部。相手が困ったときに助ける気力はあるけど、それは相手だからじゃないのだ。目の前で倒れた人間がいたら119番を押すのと変わらない。なのにしっかり翅生栖威の口ぶりは癪に障る。


「トラブルは解決したんですか」


「全く。お金の貸し借りだからさ無理じゃないって話になって」


「なら、飲み会じゃなく普通に話をすれば良かったんじゃないですか」


 思わず責める口調になった。彼氏がどうというよりお金の話をお酒を入れてする、という神経が不快だった。


「私もです。でも多分、あれなんですよね。交渉できないというか、素面でもお酒いれても駄目って言う証明のための集まりが必要だったんじゃないですか」


 翅生栖威はやけに俯瞰的だった。地元の集まり、ノリと言っていたのに。


「彼の話を聞く限り、アプリコットクーラーやジンバックも似合うんだろうなって思ってたけど」


 翅生栖威がレモン色のカクテルを飲む。彼女が口にするのも含むのも、どちらも柑橘系のカクテルだ。好きなのだろう。


「はぁ」


「相性なんてやっぱりこう、一度見てみないと分からないものですし。結婚までいっちゃったら、まぁ、じゃあ離婚するってなったときとか、面倒ですけどね……今別れるとかでも刺されたりとか聞くんで、あれですけど……そういえば彼と結婚とか話進んでますか?」


 翅生栖威の何気ない問いかけに私は「いや」と即答してから、もう少し含みを持たせるべきだったと反省した。これでは狙ってくださいと言っているようなものだ。実際「へぇ」と翅生栖威は声を上ずらせる。


「同棲してるって今日言ってたんで、てっきり」


「まぁ」


「でも納得しました。彼の話する時なんでそんな、どうでも良さそうって言うか、あんまり好きじゃなさそうな顔するんだろうって思ってたから」


 納得されても困る。翅生栖威はやけに軽やかに度数の強いカクテルを煽った。彼女は一人で帰るわけじゃないのか。それともこの一杯がラスト? 怪訝に思いながらも私もカクテルを飲み干す。


「最後は……せっかくだしコープスリバイバーで」


 私の想像に反して翅生栖威がオーダーした。


「私も同じのを」


 彼女に続けば、「待って」と彼女はマスターにストップをかける。


「ブランデーベースだけど平気?」


「大丈夫……ですけど……」


「そっか。じゃあいいけど、苦手な人もいるからさ」


 翅生栖威は何が意図があってというより、純粋に心配してオーダーを止めているようだった。でも、あまりに強いストップのかけ方に不自然さを覚える。彼氏はブランデーを好む。それと何か関連している……?


「確かに……二十歳になりたての頃は、苦手でしたね。会社入ってすぐの飲み会の、二次会かな、洗礼を受けて……」


 当時の上司はいわゆる体育会系の塊のような人で、「酒の良さを教えてやる!」みたいなタイプだった。そこでちょっとした事故を起こし、ブランデーは一時期嫌いだった。でもその話を彼氏にしたことはない。だから翅生栖威は知らないはずだ。


「ああ、え、でも何で大丈夫になったの? 彼となにかあってとか」


「いや、雑誌の企画で色々取材に行ってたら、ブランデーが嫌いというより、飲み方とかが色々駄目なんだって分かって」


「なるほどね」


 翅生栖威はホッとした顔をした。こんな子供みたいな顔をするのかと心の中の靄が少し和らぐ。何故だろう。彼氏にもこういう顔を見せているんだろうなと冷めるはずなのに。


 というかさっきのオーダーストップから、翅生栖威はずっとこちらにため口だ。明らかに翅生栖威のほうが年下なのに。仕事では気にならないけど、翅生栖威が相手だから何か引っかかる。


「死んでも、あなたと」


 翅生栖威が呟く。


「え?」


「こういうところではあまり飲まないの?」


 聞き返しに質問で返された。


「はい。こういう所、彼も好きじゃないですよね?」


 私はずっと眠っている彼氏に視線を向ける。熟睡だ。ここまで酔うことは珍しい。酔ってもきちんとしているからこそ、羽目を外しすぎた朝帰りではなく人為的朝帰りに感じて嫌だったのに。


「そうなんじゃない? 彼、初めてって言ってたような気もするし」


 翅生栖威は平然としているけれど、自分の言っている意味を、そしてそれを私に伝える意味を理解しているのだろうか。理解して、あえてなのか。


「自分で彼の話をしておいて、そういう顔するのやめたら? 自傷行為と変わらない」


 翅生栖威はカクテルを飲む。どの口が言うんだ。本当に、どの口が。


「自傷行為って……」


「もし私なら、そんな顔させない」


 翅生栖威が言い切った。ここまで面と向かって略奪宣言をしてくるとは思わず、私は時が止まったような錯覚に陥る。


「面倒くさくない? いちいち朝帰り止めてとか、飲み会行くなって言うの。地元の付き合いはほどほどにして、私だけ見てよ、みたいなこととか、怠いでしょ」


 面倒、怠い。突きつけられた言葉は簡単に胸の奥に刺さった。しっかり痛くて、それでも何か言い返したくて、私は目の前の彼女を睨む。


「やっぱり、翅生さんは彼のこと……」


「私なら、そんな顔させない」


「確かに翅生さんは綺麗かもしれないですけど」


「綺麗ならいいでしょ。私で。こんな男別れちゃいなって。少なくとも今より絶対幸せにするから」


「……ど、どういう意味ですか」


「私は貴女が一番欲しい。貴方は今の彼氏に飽きてる。だからすっぱり別れて、彼女さんじゃなくて私の聖さんになってっていう、シンプルな意味」


 翅生栖威が口角を上げ、グラスのふちをなぞる。


「このカクテルと同じ」


 グラスの中の淡色が揺れる。




ーー




 年の離れた弟は子犬のようだった。弱々しくて小さい。両親は仕事で忙しく、弟がいじめの果てに階段から落とされ事情説明のために呼び出された時、学校に最初に到着したのは、まだ大学生だったころの私だった。


「そもそも三人の子供が嫌だと思うようないじめられっ子に問題があるのでは」


 話し合いの場として設けられた教室に入ろうとした瞬間、はっきりとした主張が聞こえてきて耳を疑った。窓から様子を伺えば、加害児童の保護者が三人並び、弟の担任がそれに愛想笑いを浮かべ「そういう面もありますよね」と肯定していた。


 こんな場所には入れない。話し合いじゃなかったのか。それも、弟のこれからを考える話し合いのはずでは。


 私の弟をこれから守るための話し合いのはずだったんじゃないのか。


 眩暈がして、自分に言われたわけではないのに涙がにじんだ。私はこれから先ひとりで戦わなければいけない。味方のいない場所で、ひとり。


 そう思ってなんとか扉に手をかけると、凛とした声が響いた。


「いじめをしていい理由は存在しません。どんなにいじめられっ子に問題があってもです。そんなことが許されれば、人を殺しても、隣の家から物を盗んでも、理由さえあれば許される世界になる。それに海外では、いじめっ子に問題がありカウンセリングを受けさせるケースもあります。この場は、自分や自分の子供たちは悪くないという主張の場ではありません。子供たちのこれからを考える場です」


 同い年か少し年上であろう声の主の存在に、涙が出そうだった。ああ、味方がいた。私を、私の弟を、助けようとしてくれる存在がいる。心の底から安堵した。ああよかった。今まで担任に弟のいじめについて話をしても取り合ってもらったことがほとんどなかった。


 けれど、見てくれている人はいたんだ。そう思うだけで救われた。ろくでもないと思っていたこの世界が少しだけ綺麗に見えた。


 なのに私は、私を助けてくれた人を助けられなかった。土下座を強いられ尊厳を奪おうとする大人たちから、当時大学生だった彼女を守ることも、貴女に助けられた人間はここにいると主張することも出来なかった。


 弱かったからだ。いや、私は弱いからと言い訳をして立ち向かわなかった。一歩を踏み出すことなく助けてもらうだけに甘んじた。


 せめてと、いじめにより内向的な性格に輪をかけ閉鎖的だった弟に、味方になってくれた存在について話をした。風化しないように、貴方の味方になろうとしてくれた存在がいたことを証明するように。刻み付けるように話した。


 そして教師の庇護を受けたことのなかった弟は感動したらしい。


 階段から落とされる、という大きなトラブルもあり転校したことも重なって、徐々に明るく──太陽のようになった。


「至らないところがあるのは重々承知の上だけど──俺、やっぱり教師になりたいんだ!」


「俺はただ学校の先生になりたいだけじゃないんだ! 勿論、勉強も大事だけど……それ以上に、こんな僕を助けてくれた先生みたいに、いじめられっ子を助けられる先生になりたい!」


「試行回数だよ‼ 死ななければ、いくらでも挑戦できる! だから危なくなったら逃げて、戦って、頑張って、死にかけたら回復をして……耐久戦に持ち込めばいいんだって‼ 挑戦って、大事だよ‼ これからも、頑張る‼ 僕、先生になりたいから‼」


 学校にいい思いでなんてほとんどないだろうに、両親の反対を押し切り教師を志した。高校生になると休日は子供向けお稽古の補助バイトを始めていた。


「みんなー‼ ‼ 僕、これからもっと、頑張って、みんなを助けられるよう頑張るから‼ 一緒に、楽しく‼ 頑張ろう‼」


 そんな弟は、教師になることなく死んだ。水難事故だ。溺れた子供を助けたが、その後が駄目だった。水難事故は何があっても助けに入ってはいけない。きちんと救助を待つべき。知っているはずなのに目の前の人間を助けずにはいられなかった。


 悲しいけど弟らしい死に方だった。


 同時にそういう死に方をしてほしくないと思った。


 弟を助けてくれた、たった一人の救世主である彼女には。


 弟が先生を目指すのと同時期、私が励んでいたことといえば、彼女を見守ることだった。彼女は教員の道を諦め実家から離れたところで一人暮らしをして、教員とは無関係の仕事に就いた。彼氏も出来ていた。本当にどうでも良さそうな男だった。異性同士でしか出来ない触れ合いがしたいのか。子供が欲しいのかと探ってみたら違うらしい。


 流れ、ノリ、なんとなく。


 落ちに落ちきった結婚相談所、妥協を重ねたマッチングアプリの成れの果てでも至れない適当さで彼女は男を選んでしまった。


 偶然か運命か、私と同じ地元の男だったから良かったものの、もしもを考えるとゾッとする。彼女を優先せず飲み会に行き、紹介もしないで、アロマストアひとつ連れてけない甲斐性なしが、男であるという優位性のみで彼女と同じ指輪を薬指に付け同じ墓で眠れるなんてどうかしている。


「ほら、起きなって。彼女さん呼んでるから、そんな姿見たら不安にさせるでしょ」


 私は馬鹿な男に警告した。


「うるせ……ノリ悪って言って飲ませたのお前らだろ……」


 男は馬鹿なので後方に彼女がいることに気付いていない。


「みんな彼女いるの言わなかったのショックだったからじゃない? っていうか私飲めなんて言ってないし。水はすすめたけど」


「ああ……」


 男は不思議そうにしている。私は先ほど、これからこの男を迎えに来る彼女のためにカリフォルニアオレンジを注文していた。馬鹿だから自分の分だと勘違いしているのだろう。


 あれは彼女のためのものだ。


 この男の為ではない。


 そして今まさに後ろにいる彼女の表情が強張るのが、グラスの反射でうかがえる。


 この男のためにそんな顔しなくていい。というか、もうさせない。


 私のほうが彼女を求めているし、必要だ。


 ずっと前から、そしてこの先もずっと。






デスゲ妹完結巻発売中です。少々、現代恋愛の登場人物が出ていますのでご確認いただけますと幸いです。

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