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カルメルタザイト

 報われたいという感情を手放す、執着から逃れることと、幸せは必ずしも繋がらない。


 なぜならば、人は報われることを夢見て科学を発展させてきた。


 ではなぜ、期待しない、執着を手放せば幸福になれると思想家が語るようになり、そうした思想が広がっていったのか。


 それは人間が、あらゆるものごとに期待せずにはいられない習性を持ち、なおかつ複雑化した社会構造において報われる機会が減ったことで、苦しみ傷つき、自省する機会が増えた結果、耐えがたい苦しみから逃れるすべを期待してのことだ。


 期待しなくなればこの苦しみから解放される、執着を手放せば心穏やかに過ごせる──そう、言いながらも人に期待しないことで苦しみから解放されることに「期待」し、執着を手放せば心穏やかに過ごせると「安寧」に執着する。


 人はままならない。完璧に出来ていない。


 そして時に求めないという気構えは人を苦しめる。


 報われたいと願うこと、なにかへの執着を手放せば幸福が見えると説く人間の想定と、それらを強く受け取る者とは理想の幸福とされる最終結末は、大きく異なるからだ。


 ──最愛の女である母親が殺され後を追うことはせず粛々と自身の病と闘っていた父親の言葉だった。


 父は、人間は未来へ大いに期待すべきであり、特定のものへ執着を持つことは哺乳類──生物学的に問題のないことだと話をしていた。


 人間は社会を形成している以上、群れを作る。


 そこから逸れる特殊個体もいるが、「寂しさ」「孤独」を感じる「誰かと合わない」と感じることは、生き物として備わっている「危険から逃れる」ための本能に根ざしたもので、期待と執着を手放すことは自ら機械工学製品になろうとしていることにほかならず、電気をエネルギーとして扱えるわけでもない人間がわざわざ機械化を目指すのは非効率だ。


 五歳児に対してする話では決してないけれど、多分父は私に期待していたのだろう。


 そのとき理解できずとも、私が断片的に覚えていて、父の教えに励まされる日が来ることを。


◆◆◆



「失敗は例として残ります。それを嫌だと思う人もいるかもしれません。でも、何千年後の誰かがその失敗から成功を生む。そうしたらその失敗に価値が生まれる。研究は期待と祈りです。社会は自分を軸に、自己責任なんていうけれど、科学的には、皆個人プレイをしているよう見えて協力し合ってる。全く関係ない分野も。しゃべらずとも論文で繋がれる。なので、失敗に対してそこまで否定的にならないでほしいと思います。失敗に対して不寛容な社会構造も問題とは思いますが……以上です」


 私は大学の講堂でひとしきり話をした後、マイクを離す。いつも授業を受けている学生たちの何百倍も行儀よく座る受験生たちは拍手をし始めた。私は軽く会釈をして講堂を後にする。


「お疲れ様です。詩衆院(ししゅういん)教授、素敵なお話でした」


 機械工学科の護丘教授が話しかけてきた。私は「光栄です」と返す。


 夏のオープンキャンパスで、受験生向けに話をする。毎年の恒例行事。毎年同じ人間が出席するわけでもないので、私は毎年同じ話をしている。いいものは別に変える必要はない。変えたくなれば変えればいい。


 実際、過不足ないことを証明するように護丘教授の評価もずっと変わらない。駄目だった時はそもそも声をかけてこないから、その時再考すればいいだけだ。


「そういえば、科学博物館の未来エネルギー展、監修をされるとか」


 護丘(もりおか)教授が「こどもの」と付け足す。私は天文学を中心に研究している。或る程度太陽光に関する知見もあり、太陽光エネルギーに関する部分のチェックを、と白羽の矢が立った。


「まぁ、エネルギー専門は忙しい時期ですからね、素人に近い私が駆り出される始末というか」

「何言ってるんですか、詩衆院教授が素人なんて自称したら学生たち何もしゃべれなくなりますよ。あ、期間っていつでしたっけ」

「8月23日から9月30日の間です。時間は開館から閉館まで」

「あぁ良かった。国内にいるので行きますよ」


 護丘教授は度々海外に足を運び、研究や論文発表の他シンポジウムに参加している。移住の話も出ており、生活保障や資金不安があるならば融資したいと志願する機関もあるが、既婚者かつ妻の気質と海外が合う気がしないと言う理由で国内にとどまっているらしい。風のうわさで聞いた。


「詩衆院先生も喜ぶでしょうね」


 護丘教授が言う。詩衆院先生というのは私ではなく私の父のことだ。


「どうでしょう。父の教え子二人は、行くみたいな話してましたけど」

「ああ、あのゲーム作ってる二人ですか。詩衆院先生に天文学を学んだからというのもあるでしょうけど、エンタメの方々も日々勉強ですからね」

「そうですね」


 当たり障りのない返事をしながら護丘教授と別れ、私は自分の研究室を目指し歩いていく。


 財閥のルーツを持ちながら天文学の大学教授をしていた父は一族の異端者だった。その娘の私も、父と同じ道を歩み研究を続け、大学の教授になった。


 父に憧れて、というのもあるけどなにより科学が好きだから。


 科学の世界で、失敗と成功の価値に差はない。


 数字に強くなくとも算数が小学校程度で止まっていても科学を好きだと言ってもいい。堅苦しいように見えて、案外入り口はどこにでもある。


 そういう自由さがあって、科学の世界は呼吸がしやすい。


 正しくなくても、存在だけは許されるから。


◆◆◆


「詩衆院先生って、詩衆院家の方、なんですか」


 教授室で学生のレポートを読んでいると、教授室で本日提出のレポート執筆をするという効率型蛮行女子学生が問いかけてきた。


「はい。名字の通りです」

「えーすごいじゃないですか‼ うち祖母がめっちゃ宝石好きなんで名前知ってますよ‼ え、じゃあ詩衆院先生ってジュエリーブランドの社長令嬢ってことですか⁉」

「令嬢という年齢ではないですが……」

「驚くんじゃないかなぁ、言ってもいいですか」

「言ってもいいですけど怒られると思いますよ」

「なんでです?」

「御家騒動があったので。レポートが終わったら調べてみてください。今は絶対に調べないほうがいい」


 私は忠告する。


 学生は従順に「分かりました‼」とレポートに集中し始めた。


 ここまで素直なのだから締め切りギリギリの蛮行提出は止めてほしいけれど、この現代社会において一般家庭出身者に奨学金と研究とレポートの三本立てを円滑にしろというのは無理がある。昔と異なり、朝に新聞配達をし大学に向かい、講義が終わればまかない付きの定食屋で働き、徹夜でレポートをすれば無理なく卒業できる時代は終わった。


 不況により、今の給与価値は昔の半額ほどに落ち込む。一方で労働量は倍になった。昔はまかないは無料だったが、今はお店で出す食事の三分の二を料金を支払う。教科書代も高止まりを知らず、授業で使うパソコン代も負担も強いられている。「昔は苦労して大学に通った」の苦労と、今の苦労は大きく異なっている。


 ゆえに学生たちは肉体的にかなり追い詰められている状況だ。昔は昔の苦労があるだろうが、その苦労話を持ち出してしまえば今に確実に軍配が上がり論争が始まる。


 静かになった研究室で、私はレポートを読む。しかしすぐ通知が入った。


「仕事が早く終わりそうだから、門のとこにいるね」


 差出人は詩衆院(あきら)


 私と同じ読み方で、漢字違いの名前を持つ、二歳年下の弟。


 生物学上、血の繋がりはない。


◆◆◆



 レポートの提出期限を見届け、ある程度の喧騒を乗り越え大学の門を出ようとすると人だかりが出来ていた。弟の晶が、あたかも大学で人気の学生ですと言わんばかりに在学生と話をしている。


「姉さん」


 一瞬通り過ぎてしまおうかと悩んでいたら、ぱっと弟が顔を上げ私に気付いた。学生たちは名残惜しそうに弟に別れを告げているが、弟とこの大学に繋がりはない。OBでもない。完全に部外者だ。弟の晶はアカデミックな分野ではなく、家のルーツに沿った仕事をしている。簡単に言えばジュエリーブランドの取締役兼ジュエリーデザイナーとして活動している。


 弟は物静かで穏やかな気質を持ち、「かっこいい」「王子様みたい」と評判だった。アイドルや俳優としてどうかと、スカウトされた経験もあるようだが、本人はジュエリーデザイナーを目指し夢を叶えた。誠実な仕事の仕方をするから評判もいい。


 まぁ、裏での評判は分からない。


 でも、そもそも詩衆院家は裏で何を言われているか分かったものではない。


 血塗られた歴史があるからだ。


◇◇◇


「姉さん髪伸びてきたね」


 大学から駅までの帰り道を歩いていると、弟が私の髪に触れる。


「切ってないからね」

「そろそろ切りたい?」

「別にどっちでもいい。任せる」

「そっかぁ、じゃあ、どうしようかなぁ。今は寒いし、もう少し暖かくなったらにしようか」


 弟は私が誰かに髪を切られることを嫌がる。自分が切ることに執着していた。ジュエリーデザイナーになりたいという夢のほかに、美容師になりたいという夢もあったのかもしれない。叶えられない夢というのは人間の「柔い部分」に該当するのであまり触れないようにしている。


「そうしたら、ちょっと大ぶりのネックレスとか、チョーカーみたいなものが映えるようになるけど……」


 弟は髪から首筋に触れる。歩いている通りは人通りが全くない裏路地。弟がいるからこそ通れる帰り道だ。一人のときは大通りを通って帰っている。ひったくりでも暴行でも男女問わず起きかねない暗さと、助けてと言っても誰も来ない人気のなさを兼ね備えているから。

 一方で、大学から最寄り駅までは時間短縮ができる、聞かれたくない話が出来るというメリットがある。


「姉さん、抱っこ」


 弟が問いかけてくる。私は周囲を見て、人の気配がないか確認してから頷いた。弟が嬉しそうに笑い、私は弟を抱きしめる。しばらくして、私は弟から体を離す。


 弟は文化人だ。最近はクリエイターもメディアに露出しなければ生き残れないらしい。何をするでも制限のかかる生活の中、行きついた先が身内に癒しを求める、ということだった。


 触れ合うことに対して嫌悪感もなく、現状、双方の承諾が前提になっているため私は問題視していないが、こうした繋がりは、おそらく正しくない。


 ただ弟はこうした繋がりがなければ、おそらく生きてはいけない。


 正しさで弟は救われない。



◇◇◇


「そういえば、父さんが死ぬ前に、一回くらい弁護士を交えて会議をしておこうって話をしているんだけど、姉さんはいつ頃がいい? 大学いつなら楽そう? ばーちゃんも来るし、ざっくりでいいから予定聞きたくてさ」


 芸能人や政治家が多数入居するタワーレジデンスの一部屋で、弟が私を後ろから抱きながら問いかけてくる。


「私には関係ないよ」

「一番関係あるよ。俺の母さんが姉さんのお母さんを殺したんだから」


 弟は唄うように恐ろしい事実を告げる。


 私の母親は或る女に殺された。


 その後、父は病に殺された。私が十歳の頃だ。引き取り手に名乗り出たのは、詩衆院直系、総帥の家族だ。傍から見れば御家騒動ものの極地、財産分与の絡む一族による連続殺人でも置きそうなシチュエーションだが、どちらかといえばサイコホラー寄りだ。


 とある女というのが、詩衆院家直系、総帥の嫁だった。総帥の嫁は私の母親こと、分家で本業と離れ科学者をしている異端児の嫁を殺したのだ。その果てに死んだ。


 無理心中のような死に方に周囲は総帥と分家の異端児の嫁が恋中──いわゆる私の母親と弟の父親が不倫関係にあり、報復の為私の母親は殺されたと想像した。


 そして総帥は不倫相手に心を囚われたのか、その娘を家に招き入れた。周囲は完全にそう解釈している。


 実際のところ、事実は異なっていた。私の母親は私の父を愛していたし、私の父も私の母親を愛していた。


 総帥は私の母親を愛していなかった。身体の関係なんてなかった。そもそも、総帥は私の母親を邪魔だと思っていたから。


 ではなぜ殺人が起きたか。


 総帥の嫁が異端児の嫁に恋をしたのだ。その恋心は、私と弟の名前に深く刻み込まれている。


 私は暁月と書き「あきら」と読む。科学者の父が母と相談してつけた名前だ。


 弟は晶と書き、「あきら」だ。素知らぬ顔で「暁月」と出そうとしたが、姑に同じ名前はもういると阻止されたらしい。恐ろしい話である。


 姑による嫁いびりが激しいゆえに狂ったのではないか。


 一族で選んだ嫁が異端児の女を殺してくるなんて凶行を、姑なりに考察した結果だ。


 周囲の話によれば、姑による嫁へのあたりは相当なものだったらしい。「詩衆院家の嫁ならばこれくらいのことは当然」「誰しもが通る道」とパワーハラスメントを正当化して、日々たゆまぬ努力で嫁を虐げていたと聞く。


 自分は正しい、もしくは、自分は悪くないと主張したい時の人間は、どこまでも残酷で能動的だ。


 しかしその自己保身の魔法が解けた瞬間、一瞬にして脆くなる。姑──私の義理の祖母となった女は、とても嫁いびりなんてしそうもない顔で私に土下座した。


 つまり私は世間からすれば不義の子だが、内部からすれば被害者だった。なんともややこしい。私は「狂った嫁が分家の花嫁に恋をして一方的に殺した」という「ストーカー殺人」と、「不貞のもつれによる刃傷沙汰」の世間体を天秤にかけた結果、父と母の名誉と天秤にかけ、後者を取った。


 母親が不貞妻として認識される、という苦痛は当然ある。


 しかしストーカー殺人だと知られたくない事情もあるのだ。


 母親は総帥の嫁に性的暴行を加えられていた。ストーカー殺人が明るみになれば、そうした部分をマスコミにつつかれる。それを母親は望まない。絶対に。あの人はいつだって自分が傷つく道を選ぶ。同時に自らの受けた傷を暴かれることを嫌う。そういう人だった。


 自分の傷を知ってほしいと思っているかもしれない、と思うときもある。でも結局あの人は自分一人が傷つくことと大多数の幸せならば大多数を選ぶ人だ。そしてそういう人だからこそ、父は愛した。


 ゆえに私は一連の事件に折り合いをつけたが、弟は違う。弟は生まれたときから母親がよその女を見ていて、父親は仕事をし続け、血の繋がりがある家族からよそ者扱いを受けていた。


 次期代表として必要とされていただろうが、内実はそうではない。挙句の果てに母親がほかの女と無理心中したのなら、どこに居場所がない、誰も味方じゃないと最悪を叫びだしても仕方がない。


「コツコツ地道に頑張って空振りしてる人間より可愛げあって励ましたり応援しがいのある人間のほうが好きなんだよこの世界の八割の人間は‼ 嘆いているうちは努力に入らないって追い詰めて、動けなくなった後は頑張らなくていいよって言って元通りになるようお祈りするだけで‼ 頑張ってるうちに頑張ってるねって褒めても励ましても慰めてもくれない‼ 見てる人は見てるって誰だよ‼ どこにもいない‼ もう死にたい……」


 弟の発言だ。全文覚えている。


 同居が始まり私が天文学の分野でコンクールに出て、夕食の席でそれを総帥が褒めたことがトリガーだった。


 総帥は「お前を愛している」「お前は私の息子だ」「お前が必要だ」と弟を慰めようとしていたが「本心じゃない慰めなんていらない、よけい惨めになる」と涙を流した。


 私は理解できなかった。


 主に、総帥の考えが。


 大事ならどうして今まで大事だと言わなかったのだろう。


 愛しているならどうして愛していると言わなかったのだろう。


 純粋に疑問だった。だって人は永遠に生きるわけではない。毎秒毎分死に向かって生きている。嫌い、醜いと侮辱するならまだしも、好きなものに好きだと言わない精神構造が理解できなかった。


 今まで何も言わなかったのは、自分のことなんてどうでもいいから、トラブル処理のために見せかけの言葉を伝え始めた、総帥の言葉をそう断じる弟の言い分のほうが理解できた。


 だからその夜、私は総帥に尋ねた。自分の息子を大切に想っているのならなぜそれを伝えなかったのかと。


 当たり前のことだから言わなかった。


 分かっていると思っていた。


 言葉を求めていることすら気付かなかった。


 だから問題ないと思っていた。


 それが総帥の言い分だ。


 私は理解できなかった。


 相手が理解している、自分の気持ちを分かっていると考えるのは傲慢なことだ。


 なぜならば状況は逐一変わる。物事に永遠はない。本能や感情を排除したパーソナルコンピューターですら機器同士の接続が上手くいかない時があるのに、不完全で感情や本能、欲求と共に生きる人間が問題なく分かり合えるなんて幻想だ。


 私は、総帥への質問を変えた。


 伝える機会はなかったのかと。


 生きていて好きだと言えるなか、一言も気持ちを伝えないのは不自然だった。伝わらないのならアプローチを変え、試行錯誤の果てに理解し合えなかったと結論を出すのはまだいいが、分かっていると思っていたなんて、どうしてそんな考えに至るのか。


 総帥は「自分でもどうして言わなかったのか分からない」と結論を出した。そうして私は、総帥が「なぜ自分が息子に愛情を伝えなかったのか分からない」ということが分かった。


 分からないことが分かってから理解が始まる。科学の考えだ。


 実際、宇宙はまだまだ解明されていないことが多く、100年前には存在すら認識できていなかった──いわゆる「分からなかったことすら分からない」「知らなかったことすら知らない」事実が多々存在し、日々判明している。


 私は総帥の「分からないこと」を知ったと同時に、弟に同情した。総帥が「分からない」ということは、総帥が「分かる」ようになるまで、弟は欲しているものが永遠に手に入らないということだから。


 同時に、一緒にいてあげたいと思った。それまで私が詩衆院家にいるのは、母の名誉を守るためと父のような科学者になるためにはお金が必要という、過去と未来の為だった。「現在」と関連する存在理由がなかった。


 でも、苦しむ弟を見て理由が見つかった。


 科学において、「大きな物語」と「小さな物語」が存在する。すべての事象は大きな物語の中にあり、我々一人一人の人生はそこに組み込まれた小さな物語である。小さいから不要、なくてもいいではない。


 小さな物語は大きな物語が終着を迎える、大切で必要な構成物だ。科学に置き換えれば、自分の研究がたとえ報われずとも、今後の大きな科学の発展、研究に必要であることは変わりなく、報われる瞬間は自分の死後に訪れるというもの。


 ゆえに死も恐ろしいものではない、と哲学可能な考え方だ。


 以降、弟とはあまり交流してこなかったが、積極的に話しかけるようにした。とはいえ私の積極性なんてたかが知れている。会話のネタも、科学の知識くらいしかない。


 無言で傍にいた。


 どうして近づいてくるのかと問われた。


 同情と答えた。


 可哀そうだと思っているのか、再質問があった。


 辞書に準ずると伝えた。


 私が使用している辞書も渡した。ものによって同じ言葉でも、解説が異なるケースは多々ある。弟は私を見上げ、特に何も言わず辞書を受け取り去っていった。


『他人の苦悩への共感、思いやり』


 私の愛用している辞書にはそうある。なお、以後、弟は私に辞書を返さなかった。完全に勉強道具の一つに加えられてしまったようなので、新しいものを購入した。改訂版のほうが色がついていて子供向けに見えたので、そちらにするか判断を仰いだが、昔のものを好んだ。


「日本語が話せる人間は世界人口で約2%を切る、1.6~1.8%を行ったり来たりだ。対して英語は約25%、ゆえに主要なイベントは英語圏で行われることが多い。言葉のコミュニケーションに悩んだって、世界中の人間から断絶されているわけじゃない。それに、世界の最大シェアを誇る英語だって、4分の1のみ。次いで中国語もある。言葉が通じないことと、存在してはならないことはイコールにならない」



 弟が同学年とのコミュニケーションに悩んでいたときかけた言葉だ。


 通じなかった。


 私にはおそらく柔らかさみたいなものが欠けていて、そこで齟齬が発生しているようだった。


「励ましたい」

「慰めたい」

「必要なら」


 断片的に伝えたら弟はいぶかしむように私を見ていた。


「じゃあ抱っこして」


 試すような言葉を受けながら抱きしめた。母親に抱きしめられたのは、必然的に母親が生きていた頃に限定される。母親のサイズ感は据え置きだが私は成長した。父親も同様だ。父親に抱きしめられたのは父親が元気だったころのみ。あと抱きしめる機会は病床に伏す父親に縋りつくほうが近い。


 ぎこちなかったと思う。最後には弟から「こうだよ」と教わった。


▽▽▽


 水は温めると水蒸気になる。その水蒸気が水に戻るとき、大きなエネルギーが発生する。説明はお風呂が一番わかりやすい。お風呂の中に充満する真っ白な湯気は水蒸気そのものだ。ただ、空調の機能が素晴らしい風呂場は、気体を観察するには不適当だ。入浴時の転倒を防止するため、視界を良好に保つ必要等で、蒸気は絶え間なく天井に吸い込まれてしまう。


「姉さんはお風呂に入っているとき、いつも上を見ているよね」


 私を後ろから抱えるようにしながら湯船に浸かる弟が呟く。私の頭椎を皮膚の上からなぞるように額を重ねた後、肩峰のあたりに頭部の重心を預けている。


「入浴剤に目もくれないで。この間、一緒にプラネタリウム見たでしょう。そこのお土産だよ」


 弟は青みがかった乳白色の湯をさらう。最近、監修をしている技術館のそばにプラネタリウムが出来た。


 今までは何駅か使わなければいけなかったのが、職場から十分程度歩いてさっと行けるのはありがたい。


 望遠鏡で見るのもいいけれど、プラネタリウムは星に目を輝かせる人間も見れる。そして私は弟とプラネタリウムを見た。


「良い匂いがするとは思ってるよ」


 私は弟のほうへ振り返る。顔が近い。弟は「色だって見てよ」と注意するように唇を重ねてきた。温かい。弟の身体は温かいけれど、唇は不思議と冷えている。でも、お風呂の間、何度かキスをしていると温かくなる。


「アロマキャンドルもあるでしょ。どっち?」


 弟は私を抱きしめながら尋ねてくる。たしか両方ともラズベリーの香りだ。宇宙飛行士が船外活動をしたあと、衣服に付着している成分がある。「ギ酸エチル」という成分だ。香料に用いられており、ラズベリー系の香りがする。


 だから、宇宙で深呼吸をすると、ラズベリーの香りがする、らしい。実際深呼吸をしようとすると死に至るので完全な検証は「現段階では」出来ない。


「分からない。それに匂いは入浴剤やアロマキャンドルのほかにも、ボディーソープやシャンプーもあるし、人間の体臭もあるから、断定できない」

「じゃあ僕の匂いが好きっていうのもあるってこと」

「当然」

「あはは」


 弟は私を自分の身体の中に埋め込むように腕の力を強める。


 害意があるのか庇護されたい欲求ゆえかは分からない。


「新作のジュエリーのテーマ、共生なんだ。丁度、姉さん監修のエネルギー展の頃に、雑誌で特集が組まれると思う」

「共生」

「姉さん鉱物の分野はあんま知らないんだっけ。あるんだよ。煮立ったマグマの中でいろんな鉱石の元がぐっちゃぐちゃに混ざって、その後、鉱石の元が空気の抜け穴とかに逃げ込むようにしてさ、異なる種類の鉱石が絡み合って、切り離せないような状態で出来上がるの。混ざり合って一つの存在になっているように見えるけど、ちゃんと別。でも、別だけど、重なってる」

「ああ、パラジェネシス?」

「うん。僕たちと同じだ」


 弟は嬉しそうに鉱物について説明する。


「ぐちゃぐちゃに混ざる」

 弟は繰り返す。


◇◇◇


 深夜1時、途中覚醒が発生した。少し大きめの寝台の上、腕の中には弟がいる。小さい子がぬいぐるみを抱くように弟を抱きしめて寝ていた。苦しかっただろうなと、腕の力を緩める。


 弟とは、お風呂は同じ、ベッドも同じだ。


 双方、一人でいるのが苦にならず、どちらかといえば共同生活は苦手な気質だが、生活をする上で必須な部分を繋げている。あとは自由だ。


 リビングにいるとき私が本を読んでいて弟が映画を見ていることもあるし、弟がデッサンをして私が音楽を聴いているときもある。基本的に、一緒にいるだけでいいから。


 とはいえ声が掠れ喉も乾いたので、弟を起こさぬよう寝台を抜け出すことを試みるが、弟が起きた。


「なに」

「水飲もうと思って」

「そんなそーっとしなくていいよ」

「起こしたら悪いし」

「じゃあ、姉さんが水分補給で僕を……五回くらい起こしたら、僕が気分で姉さんを一回起こしてもいいってことにしよ。楽しみにしてる。だから姉さんは悪くない。なんにも悪くない」


 弟は私の腕の中に戻ろうとするみたいに抱きしめてきた。


「別に、夜中目が覚めたら好きに起こしていいよ」


 私は弟の頭を撫でる。


「お腹が痛いとか、のど渇いたじゃなくて、寂しくなっても?」

「いいよ」


 母が死に父が死に、家族が消えた後、粛々と過ごしていると、詩衆院家の親族に問われたことがある。


 寂しい、悲しいという感情はあるのかと。


 私は新しい家に手をかけぬよう、淡々と過ごしていた。御家騒動でごたつく家で、両親が死んだ子供の扱いなんて出来るはずがないからだ。余計な世話や心配をかけないようにという私の努力は実った。


 でも、心のどこかで、そうした感情を出したいと思っていた。完璧に隠したいけど誰かに気付いてほしかった。


 慰めも励ましも寄り添いも科学研究に不要だけど、やっぱり欲しかったのだ。


 手に入らないから諦めた。


 両親は死んだ。私にそれらをくれる人間はどこにもいない。私の欲しいものは永遠に手に入らない。


『頑張ってるうちに頑張ってるねって褒めても励ましても慰めてもくれない‼ 見てる人は見てるって誰だよ‼ どこにもいない‼ もう死にたい……』


 だから欲している人間に与えたいと思った。永遠に手に入らないものを望み続けることは苦しい。報われたいと思う感情を手放し執着から逃れるという思想の究極系は、死の希求になる。


 科学の本は私に前を向かせてくれた。でも一緒に歩いてはくれない。どうしても「人」でなければ埋まらぬ孤独がある。人間が群れを作り生きていくうえで持っている当然の本能が、寂しさと言う名前で私を苦しめる。


 手放すことなど出来ない感情に乱される日々を、一生抱えていかなければいけない。平均寿命は約80年。独りで生きるにはあまりにも長すぎる。


「私は、寂しいから」


 弟を抱きしめる。母が殺された。とても悲しい。父もきっと悲しかっただろう。


 本来殺人を肯定的にとらえるべきではない。でも、母が殺されたことから、父親は母親を看取ることが出来たともいえるのは確かだった。父の病状では絶対に出来なかったことだ。


 そして母親は父親の死を見届けることが出来なかったが、弱り朽ち果てていく父を見ることは無く、網膜を通し脳に伝達された父の姿はずっと、自分に笑いかける穏やかなものだった。


「僕がいるよ」


 弟は言う。いつまで存在するかは分からない。物事に永遠はない。いずれ弟は総帥となり、花嫁を選び、誰かと家族になるだろう。私は弟という大きな物語の一端の、小さな物語であることを望む。だからどうか、彼が幸福な結末を迎えるまでは、許されたい。


 寂しさを癒し、傷を慰め合う存在として、私がここにいることを。


◆◆◆



『晶さん、暁月さんはどう? 遺産についての意向は何か言ってる?』

「父さんが死にそうとは言ってるけど、遺産については何一つないよ。元々節約はしてもお金の話は一切しないから、本人指名で残してても受け取ろうともしないと思う」


 仕事を終え、姉さんを迎えに行く前のこと。


 僕は父方の祖母と電話をしていた。僕と姉さんの名前は、音だけだと全く区別できないから、変な感じがする。


 声は全く違うから、こうして電話をして「あきらさんを出して」と言われたら、言われてないほうが該当するというややこしい事態になるし。名字も一緒だからなおさらだ。不便だ。姉さんが僕以外の人間に相手にされなくなればいいだけの話だけど、そうはいかないし。


『でも、そうはいかないじゃない。うちの……娘として』


 祖母は苦々しく口にする。自分が選んだ嫁が自分のいびりのせいで気が狂い、分家の嫁に一方的にストーカーをした挙句殺した。実行はしていないが、祖母が事件の加害者であることは確かだ。だからこそ祖母は姉さんの救済に力を入れる。自分の過ちを無かったことにしたいから。無かったことになんか出来るはずがないし、挽回も信頼回復もありえないというのにコンコルドの誤りよろしく繰り返す。


 ただ、無意味だとはいえ永遠に懺悔し続けるべきだし、苦しむべきだけど。


 祖母に残された道は、永遠にその罪を抱え生きていくだけだ。そして僕の父親もそう。自分の嫁に関心を向けず仕事一辺倒で過ごし、自分の母親が嫁にどう振る舞っていたか知っていて「大丈夫だろう」と助けなかった罪は重い。


 みんなの「誰かがなんとかするだろう」という無関心で姉さんのお母さんは殺され姉さんは一人になった。誰かひとり、誰か、大人が母さんになにか一言かけ、行動していれば助かったはずなのに、忙しい、誰かほかにいると思った、何も言わなかった、相談されなかった、気づけなかったと何もしなかった。


 そういう、誰にも助けてもらえない孤独と失望を僕は良く知っている。姉さんだけがそれを埋めようとしてくれた。母さんは家族より分家の花嫁──姉さんのお母さんに執着していたり、母さんが死んだあと、僕の父さんの関心は姉さんに注がれ、複雑な気持ちだった時期は確かにあるけど、姉さんは僕のそばにいようとしてくれた。


 僕を欲してくれた。それが僕のすべてだ。


 たった一人の、僕の味方。


「まぁ、最悪僕がすべて相続して、姉さんと分割するよ」

『でもそうしたら、遺産を独り占めしたって……』

「なるだろうけど、母さんが人殺してるんだからこれから先何があったっていろいろ言われるよ。それに、僕が姉さんと結婚すれば遺産は分割扱いになるし、そういう手続きがあるからって結婚の手配もしなきゃだから丁度いいよ」

『晶さん』

 

 祖母の声音が責めるような響きを帯びる。姉さんは養子縁組をしたと思っているけど、実際はしていない。詩衆院という名字が同じなので、ただ家を移しただけだ。理由は簡単。父さんが養子縁組をすべきかしないか悩み、本人の意向が第一だと保留していた。


 どこかに預ければそこから秘密が漏れるかもしれないし、自分の家で囲うにも「ただ引き取っただけ」だと世間体が悪い。結論が出せなかったのだ。


 そして僕はそれを利用し、姉さんと籍を入れる。姉さんは科学に強いが細かなことは案外気にしないので、「手続きが面倒」といえば話にのる。好きない相手は僕以外いない。僕以外の存在は、徹底的に厳選して、ろ過して、間引いた。姉さんがメインで関わっている人間は、ゲームを作っているヲタク二人と既婚の護丘定理、後は適当な女しかいない。


「夏の雑誌、ジュエリーの特集が組まれるんだ。その頃には姉さんの科学展示も始まってひと段落つくし、そこで言うから。全部、姉さんの考え次第だけど」


 すべて姉さんの考え次第。一応そう思っているけど、そうなってもらう以外ない。


 結婚の制度に興味は無いけど、外的要因を屈服し危機を防ぐ予防手段として結婚は機能する。檻はたくさんあったほうがいいし、僕を構成するあらゆる属性の接続先に姉さんがいて欲しいから。


 ──報われたいという感情を手放す、執着から逃れることと、幸せは必ずしも繋がらない。


 姉さんのお父さんの言葉らしい。


 いい言葉だなと思う。


 だって報われたいと願い執着を抱えていても幸せになれるなんて、そんなに素晴らしいことないんだから。





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