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記号ない逃避行

 小さいころから話すことが嫌いだった。


 なるべく誰ともしゃべることをしたくない。


 幼稚園の先生も小学校の先生も親もみんな私が「引っ込み思案」とか「大人しい」と自然にジャンル分けしていた。私自身もそう思っていたけど、年々読める漢字や分かる慣用句が増えるにつれ、「私はたぶん、人と接することが好きではないのだな」と結論が出た。


 一方で小説に出てくるような「偏屈な人嫌い」にもなりきれなかった。自分が関わりたくないだけで人と人が交流しているのを見るのは好きだし、そもそも話しかけられれば答える。ほかの人が「あれは自慢話だ」と嫌な顔をする話も気にならない。誰かが事故に遭った、死んだといった報告は心が痛くなる。


 私は水槽の魚を眺めている感覚で人を見ているのかもしれない。


 サイコパスの出てくる漫画を読んで思ったことがある。


 その話はデスゲームを題材としながらも本質はサイコパスがせっせと人を殺していくもので、ほかの殺人事件が伴う物語と異なりサイコパスがなぜ人を殺すかの理由はほとんど明かされなかった。


 ただそうしたいからそうしているだけ。


 主人公は「人を人と思っていないからそういうことが出来る」と結論付けていた。


 私は人を人と思っていないのかもしれない。


 いつか自分が何か悪いことをしないよう、何かすら分からない戒めを心の中に留め置いて、私は毎日生きている。


 代り映えはせず、でも確実に死に近づいていて、ふとした瞬間どこまでも落ちていくような日常を。




「死のうか悩んでるんだよね」


 月曜日の朝、会社のデスクにつくと同期が言った。同期の机の上には植物の資料と電車の時刻表が詰みあがっている。ガーデニング趣味の電車ヲタクに見えるデスクだが趣味ではない。仕事で使うものだ。


「古宿先生のミステリー、犯人視点で分刻みのスケジュールで動いてるんだっけ」


 週明け早々希死念慮を発表した同期に、先輩が同情の視線を向ける。先輩の手にはファンタジー小説の単行本が抱えられている。派手なカラーリングの表紙には、先輩と似たようなポージングで丸太を抱えるアニメイラストとともに、『脳筋ファンタジー』と辞書には載ってない単語が並んでいた。


 キャッチーだなと思う。仕事がなければ多分、知ることが出来なかった。


 私は自分のデスクの上に置いている辞書に手を伸ばす。調理用語の辞書だ。その隣には黒クリップで留められたA4の用紙の束がある。さらに隣には2Bの鉛筆。


 デスクだけ見られたら、なんの仕事をしていると思われるのだろうか。鉛筆を削りながら想像する。


 たぶん、出版社勤務とヒントを出しても当ててもらえそうにない。


 出版社に勤めているといえば皆、二言目には「編集者さん?」だ。否定すれば「営業とか?」と不正解が続く。正解は校正部。クイズ番組で答えが分かったとき、静まりかえれば放送事故になるけど、そうした放送事故を何度か繰り返してきた。


 校正。


 世に出ている小説は、作家さんと編集者さんが一緒に作った原稿がそのまま出ているわけじゃない。


 作家さんも編集者さんも字を間違えたり、文章の意味を間違えていたりする。そこを確認するのが私たちの仕事だ。


 たとえばシミュレーションゲーム。おしゃべりでは「シュミレーション」と言っている人がいるけど実際は「シミュレーション」だ。原稿にあれば指摘する。


 一方で登場人物が間違った言葉を使っていても、ミステリーであればそれ自体がトリックに関わっているかもしれないし、登場人物に教養が無い設定で「意図的に変えている可能性」も考慮しなくてはならない。


 一方で作家さんが「これは間違い」と誤字とする可能性ももちろんあって、作家さんと編集者さんの伝えたいことを、読み手に繋げる仕事だ。バトンリレーに近い。


 今回、同期は古宿先生という、キャラ文芸をベースに執筆している作家さんの原稿を担当している。校正は誤字の指摘だけではなく、舞台が現実ならば物語の季節と物語に出ている花が咲く時期が合っているか、トリックの時刻表が正しいか、矛盾がないか調べるのだ。


 そして、すべてが架空のファンタジーならば確認作業が楽と思われがちだがそうでもない。


 個々の設定があるし、シリーズが長いものだと1巻から今の原稿に至るまでの矛盾がないか全部確認していく。ゆえに現代と異世界どちらが大変か、人によって意見は割れる。そうした議論を見たベテランの校正者は「大変も何もない」と怒る。何も生まない議論は終わる。


 不毛だけどこの世界は数多の不毛で構成されている。今に始まったことではない。


「原稿はいいんです。仕事だし……この死にたさは、後輩の結婚式由来なので……もうなんか、きっついなと思って。時間の進み違くない? っていうか、私このままでいいの? っていう謎センチメンタルに襲われて……」

「うわー私にも刺さってるからそれ~イィ~」


 膝にもこもこしたブランケットをかけた先輩が顔を覆い身体を曲げる。ここ最近ずっと気温は最低値を更新し続けていて、底が見えない。空調管理の采配はフロアごとに分けられており、先輩は「年功序列」と暖房を最大値にしている。そのためエレベーターを降りた廊下から室内の温度差がとんでもないことになっており、結露が酷い。


 私は立ち上がり、さりげなく廊下と部屋を繋ぐ扉に滴る水滴を、常備している布巾で拭く。


「あ、私が拭くよ」

「大丈夫です」


 先輩が申し訳なさそうにしているけど、扉の前も結構寒い。先輩はいかないほうがいいだろう。


 扉には校正に関する検定のカレンダーが貼られていて、結露でびしょびしょになっている。剝がしてしまおうか悩み、やめた。


 校正の仕事には資格がいらない。一応検定もあって就職に有利とネットにはあるけど、出版社も印刷会社も人材不足だ。資格のあるなしはあまり関係がない。それより前職で文章の仕事をしていたかとか、面接でうかがえる性格や気質が校正という仕事に合うかどうかを見られる。でも、文章を実際に校正してみる、みたいな試験もなかった。


 求められている性格や気質は、一日中黙っていても大丈夫か。


 求められている技能は、粛々と仕事が出来るか。淡々と原稿が読めるか。


 原稿を読む過程で、心を震わせたり感情を動かしてはいけない。チェックの精度に関わるからだ。


 本は好きだし物語に触れる仕事に誇りがある。でも、仕事のときは気持ちを切り替えて仕事をする。


 物語を紡ぐ作家さんと、作家さんの物語を楽しみにしている読者の為に。


 音で溢れ彩りある言葉の世界を、鈍色の森にして探索する。


湖江(このえ)ちゃんはどう? 旦那さん欲しいとか思う?」


 投げかけられた言葉に、私はデスクを整理していた手を止めた。


「いや……まぁ、したいですけど……分かんないですね」


 言葉を濁すと、先輩も同期もそれ以上追ってこなかった。


 昔はたぶん、「勿体ない」とか「良い人紹介しようか」「好きな人とかいないの?」なんて言葉が添えられたのだろう。SNSで見るし、作家さんの物語のなかでも見る。大体戦ってる。


 今は多様性が進む一方、言葉や会話に見えない制限がかかり始めた。制限により守られている人間がいて、多分、私は今その制限に守られた。


「っていうかさ、エレベーターのボタン見辛くない」


 誰かが言う。抱えている人数のわりに収容人数も少なければ台数も少ないエレベーター。


 安全点検だけはしっかりしているが、逆を言えば殺さなければよい、だけの管理。


 ボタンが見辛いことなんて今に始まったことではない。


「ボタンの数字かすれてんのよ、だから間違ってうち来る人もいてさぁ、私もそのうち……」


 先輩が眼鏡を外し眉間を押さえる。原稿を──手元を見る仕事だから近視が進む。入社当初裸眼でも、気付けば眼鏡かコンタクトだ。後輩は「眼鏡属性のオンパレード」だと言っていた。


「フィーリングでいけないですか?」


 その後輩が言う。未だ彼女は裸眼だ。元の視力がいいのである程度近視が進んでも問題ないらしい。私は入社当初から手遅れだった。眼鏡とともに生きていく。


 相槌をうつことも反応することもせず、私は同じコミュニティに属している人々の話をラジオ感覚で聞く。


 はた目から見ると孤立して見えるのだろうが、当事者としては心地いい。みんながみんな、それぞれの人生の主役と言うけれど、私は主役になんてなりたくないから。


「下層階は全然問題ないけどさ、上層は無理なんじゃない? 同じ人がちょくちょく降りてきちゃってんだよね」


 だから私は、もう話題が移ったにも関わらず、結婚について考える。


 名字が違うとか一緒にするとか、性別が違う人と結婚するとか色々と制約があるもの。


 夫婦になること。


『好きな人とかいないの?』


 架空のライン越え発言を頭の中で思い浮かべる。


 いることにはいる。


 文字にすると見辛く、口にするには言い辛い答えを、頭の中で導く。





「殺そうと思う」


 朝に遭えば晩に遭うと言うけれど、まさか死ぬから始まり殺すで終わるとは思っていなかった。


 一般的には退勤時刻とされている17時。


 共有休憩スペースで希死念慮ならぬ希殺念慮を発露する目の前の男の名前は大禽(おおとり)壬住(みすみ)だ。私の一つ年上で、一つ下のフロアに入っている外資系ベンチャー企業の社員。上下と続き文章だと説明しづらい間柄だ。


 私の勤める会社は上層階に不動産屋、真ん中に出版社、下層階に彼の勤める外資ベンチャー企業が入っている。一応隙間に空きフロアがあるけど、出入りが激しく実質3層構造だ。


 出会いは数年前。


 キャッシュレス決済非対応の自販機を前に右往左往していた彼に声をかけたことが始まりだった。下心はない。声をかけた当初は完全に年下の新卒だと思っていた。


 150円の返済のやり取りをして、名前は分からないまでも知り合いという廊下で会うと多少気まずい関係を経て、私が一つ上の階にいる一つ年下の女だと割れたあと機会があえばこうして話す関係になった。


「上司」


 大禽は缶のカフェラテを飲んだ後、自身の殺意の対象を自白する。


 簡単に説明すると彼はパワハラに遭っており理不尽な上司に苦しめられている。ベンチャー企業だからそういうのはないイメージだったけど、体育会系の経営者のもとには体育会系の人間が集まり、大禽自身も体育会系ながら、社内で体育会系蟲毒が発生しており、もれなく捕食対象として苦しめられているらしかった。


 そうした事情からか、大禽は年下の私がこうして適当に話をしていても気に留める素振りはない。ふざけて敬語で話をすると「なんか経理に圧かけられてるみてえ」と嫌な顔をするので、より一層自社の体育会系システムと合わないのだろう。

 そしてたぶん、この説明は文章にすると「体育会系」と同じような単語が続いていると添削対象になる。


 添削対象になるような状況に置かれているのだ。大禽は。


「なにで殺すの」


 本当は止めるのが正しいのだろうけど、私も私で疲れていて、そのまま返した。


「殴ったりとか?」

「へぇ」


 殴って人が死ぬのだろうか。疑問が浮かぶ。打ち所がわるければ死ぬのだろうけど、普通の人が人を殴り殺すイメージがわかない。


 殴るぞとか脅し続けて飛び降りをさせるほうが現実的だ。それこそ、大禽が受けているパワハラみたいな。


「そうしたら埋めるの手伝うから言って」


 答えると「正気かよ」と大禽は死んだ目で言う。

「いいよ」と私は返した。


 好きだからいいよ。


 心の中で続ける。


 大禽のことが好きだから死体を埋めるのは手伝う。


 でも、結婚したいかと問われたら、私は首をひねる。我ながら優柔不断というか、気まぐれマイペースの極みだ。


 自分でも自分のことが理解できない。


 大禽は何も知らないまま首をひねる。




 

 水曜日は碌なことが起きない。


 世界を覆いつくすほどの闇ならぬ不況は、作家さんの経済状況ももれなく覆いつくしている。専業で仕事をしているのは一握りだ。タワマンはおろか、カフェで執筆をして納税できるのはトップ層のみで、ほかは寝る間も人権も生活もない中で、別に仕事をしながら書いている。


 結果的に平日は会社、土日に執筆作業をしている作家さんが多く、編集者さんは作家さんに合わせ「では週明けに」といったスケジュール進行を行う。


 そして締め切りが破られることなく月曜日に原稿が届けばいいものの、期日通り原稿が届くかは五分五分だ。


 半分は届かないどころか、見通しが立たない。それがスタンダード。


 こちらに届かない分を埋め合わせるように……というか週末までにといったスケジュール進行の原稿がダムの決壊のごとく流れてくることが多々あり、それが水曜日だ。


 私は届いた原稿とともに編集部から届く共有事項のメールを確認していく。


『校了まで時間がないのでなる早で』


 軽めの追記に殺意が湧く。


 みんな時間がない。こちらは機械じゃない。


 でも、AIの発展で校正は取って代わられそうになっているので言わない。当たり障りない文言で返信し、出勤前に買っていたペットボトルの水を飲む。デスクに置いている2Bの鉛筆に手を伸ばし、無いことに気づいた。


 勘弁してくれと思う。こんな日に。


「すみません、お忙しい時期に」


 2Bの居場所に思いを馳せていれば、穏やかで柔らかい声が響いた。


「お手数をおかけして恐縮ですが、よろしくお願いいたします」

「いえいえ、お忙しいのにお越しいただいて……ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いいたします」


 寒がりの先輩のため、暖房を最大出力にしている校正部で、その主たる先輩が頭を下げている。


 相手は書籍編集部の天上(あまがみ)さんだ。フルネームは天上尊さん。年齢は三十……+何年。記憶がない。大禽と同じで若く見えるタイプだ。同期たちの表情がふっと和らいだものに変わっていく。


 天上さんが校正部に入ると部署内の空気がいい意味で緩む。


 女性向けティーンズラブの帯では「イケメン」とか「美貌」とつくような人だからというのもあるけど最大の理由としては物腰の柔らかさだ。


 編集者によっては「校正に投げとくんで」と校正者を軽んじてはないものの雑、社内でも下請け発注扱いする人間がいる。


 出版社の中で編集部は目立つ。というか花形であり主役とされる。プライドや「自分たちがひっぱっていかなければ」という主体的な気構えからくる言動に、悪意はないが引っかかることも多々ある。


 でも、天上さんからはそれがない。年下に対しても丁寧だし、仕事の仕方も同様だ。女子社員からの人気も高いが、物語的なモテ方もせず、天上さんが人の好意を一心に受けることでトラブルが起きたりすることもない。


 だから本人が去っても話題は続くが、彼の名を口にする人々の声音は明るい。


「天上さんいいよね。相手とかいないのかな」

「飲み会とかあんまり出ないらしいですよ」

「あー、じゃあいるんだ」


 そんな会話を二、三交わし、みんなは自分の仕事に戻る。


  私はたった今、確認が終わった原稿に視線をうつす。天上さんの担当作だ。著者は独下(どっか)ケイ。ジャンルはキャラ文。和風の婚姻もの。主人公の男の子。呪われており、呪いを理由に家で虐げられていたが、絶対的な強さを持ちながら他者を寄せ付けない軍人の女性と巡り合い、共に共生していく。


 恋という文字がタイトルについている。従来こういった物語では序盤にキスシーンだったり、接触のシーンがあるものだけど、そういったものが一切ない、珍しい。


 ただ、すべての確認が終わっていないので思考はそこで留めた。


 校正は物語を読む。というか読み込む。


 でも物語の世界に入ってはいけないしましてや共感しても駄目だ。


 あくまで客観的に、第三者として作家さんの意図、作家さんが綴っている言葉が合致しているかを探る。登場人物が、作家さんの想定している「キャラクター性」と合致しているかを探る。


 探ることは多い。


 作家さんの伝えたいことが、読者に届くように。


 健康を削るような就労状況だけど、この仕事が好きだ。


 人は変わらないなんて言うけれど、言葉ひとつで人の心は簡単に変わる。


 私は言葉の可能性を信じてる。





「お前飲み会好きじゃないよな」


 月曜に他殺念慮を発表していた大禽は、今度は偏見にとりつかれていた。これだけ「決めつけはいけない」「偏見は駄目」とされている世の動きに反しているのに、声音は縋るようだった。


 お前だけはどうか、好きじゃありませんように。私の好き嫌いに何もかもすべて握られているとでも言いたげだ。いったい、火曜日に何があったのだろうか。


 そして幸いなことに私は飲み会が好きじゃない。


「お酒飲めないからね」


 でもどんな返答が大禽を損ねるか分からないので、安牌に走る。


 実のところ下戸と言うほどでもない。


 ビールも焼酎も問題はないがあまりに味が苦い、好き好んで飲みたくないが仕事ならばと我慢できる。


 サワーやチューハイは甘いものの、甘い酒といっても酒は酒というだけで酒の味がする。


 そうした好みを酒の場で発表するのも面倒だし「これなら飲めそう?」と善意のテイスティング二次被害を生む。だから下戸として処理した。初めのころは飲んでいたけど、下戸を自称しても皆驚くことはない。案外、酒の場では、皆、他人に興味なんてない。気にしているのはその場にいるかいないかだ。


 こうした思考も文章化すれば、「酒」が続いていると添削対象になるだろう。


「匂いするもんな」


 そして大禽は飲める人間らしく、私の小嘘に気付くことなくぼんやり受け止めた。


「大禽は」

「嫌い」


 やっぱりなと思う。想像がついていた。あれだけ「お前も飲み会は好きじゃないと言ってくれ」感を出していて好きだったら詐欺もいいところだ。上司を殺した死体は一緒に埋めたいと思うけど、詐欺をされていたら飛びかかるところだった。


「お酒飲めないの?」

「いや、だるいから。面倒なんだよ。会社飲み会」

「へぇ」


 私はあんまり納得していないように返すが、なんとなく察した。


 以前、エレベーターで社内の人間と話す大禽とバッティングした。社内の人間と話す大禽は明るかった。「こいつ未だに鉛筆使って仕事してるんですよ」と社内の人間にいじられ、ニコニコ返していた。びっくりするくらい。コミカルで気遣いが出来る普通のサラリーマンみたいだった。アルコールで思考力は鈍る中、あれを酒の場でさせられるのは疲れるだろう。


「酒でさ、キャラ割れる奴とかいるじゃん。そういうの見てると、嫌だなって」

「大変だね」 


 私は他人事のように話した。あまりにも身に覚えがあったからだ。


 大禽はおそらく、エレベーター遭遇を忘れているけど、あれはキャラ割れもいいところだ。


 排除されないためには話すほかなく、中身がないことを利点として明るく振る舞い、それっぽい人間として過ごしている。自己防衛、防犯用の明るさ。


 その証拠に、大禽はエレベーターで私を無視した。


 怒りはわかなかった。逆だったら私も大禽を無視しているから。


 私を視界にいれない大禽を見て、共有スペースで毒を吐く偏屈な大禽も、他人にどう見えるかを気にして、必死に社会との共生を目指しているんだなと、少し共通項を感じた。


「でさ、黙ってたら酒とかつがれたりさ、話しかけられて、とか、気遣われて疲れるし」


 気を遣う。


 こちらも身に覚えがある。


 私はしゃべるのは嫌いだし人と関わるのも好きではないけど、世話を焼かねば落ち着かないという、呪われた気質がある。


 呪いの源流は親だ。家族は私以外みんな自由だった。誰かに紹介するなら変と言うかもしれない。行動力があって気まま。そしてあまり人の目を気にしない。世話が焼ける。抜けているところがある。そうした抜けを埋めたくなるような愛され気質。


 そうした気質を受け継ぐことが出来たら良かったけど、望まぬ反面教師により人の顔色を伺いながら世話を焼いていないと落ち着かず、そんな自分が無理というコミュ障の究極形態として仕上がってしまった。


 気を使わなくていいと言われても使う。顔色をうかがうのはダサいと思っても顔色をうかがう。


 自由さが羨ましいと思う。でも私はきっと、いざ自由を得られたら何もできない。


 自分の好きなようにしていいと言われても、分からなくなる。選択肢を提示されても、結局無難を選ぶ。


 それでも世話を焼くことに嫌な感情はない。ただ相手に「気を遣われている」と思われ配慮の心理戦が起きる。そういうのがすべて億劫だ。


 好きだからしているに過ぎない。


 もしかしたら相手に好かれたくてしているかもしれない。正直その日の気分による。


 そして多分、大禽みたいな人に嫌われるのだろう。

 鬱々としてきて、自分の確固たる国境みたいなものがあいまいになっていく感覚に陥る。


 大禽に分かってもらいたい。


 他人は他人でありどうあってほしいかなんて私では決められないのに、傲慢な思考だ。


 自分と他人の──大禽への境界線が曖昧になってきている。良くない。


 しばらく共有スペースに向かわないと決めた。





 金曜日、先輩の「レイトショーの予約を入れたから絶対に終わらせる‼」という宣言に、「自分も行きたいです‼」と後輩が便乗し、部署で映画を見ることになった。


 私は不参加にした。基本的に部署の行事は参加しているし、飲み会も出ている。でも、映画は一人で見たい。いや、やっぱり一人じゃなくてもいいかもしれない。先輩の見たい映画は私も見たいものだったけど、一人で見たいものだった。


 先輩と見るのが嫌なのか誰かと見るのが嫌なのかは分からない。でも、とりあえず今日は一人でいたかった。


 私は昼休憩を待ち、近くの公園のベンチで昼を食べる。お弁当やカップ麺は何となく食べることも頑張らなきゃいけない気がして、3個くらい入っている蒸しパンになった。味も同じだし大きい一個を買うほうが得だろうけど猛烈に手が伸びなくて、個包装の小分けのものも数に圧倒されてやめた。


 公園の無難な景色を眺めながら、柔らかくて拒否してこない蒸しパンをかじる。


 こうして、途方もなく逃げたくなる瞬間が発生する。


 あらゆることから。物語やそこに伴う強い感情に触れているからだろうか。本当に、全部が嫌になる。絶望と表現するほど深くないけど、じゃあまだ頑張れるかといったらそうではない。


 作家と編集者が心と健康診断の最適値を削り人生を賭した原稿から──いや、それどころか、もはや人であることや何かに所属していることすら逃げたくなるのだ。


 でも逃げない。


 理由は責任感とか使命感とかじゃない。


 怒られるのが嫌だとか、逃げたところでその仕事を埋めるのは誰だとか、仕事をクビになって転職するのが怖いとか、安定志向とは名ばかりの臆病さ。


 自分でも醜いと思うそれを誰かに受け入れられたい。でも見られたくない。誰にも知られたくないし触らないでほしいという矛盾が日々のストレスと共に微量ながら降り積もって、「感情なんてなくなってしまえばいいのにな」と破滅がちらつき、こうなる。もうこうなるとしか言いようがない。何かが積もってこうなる。


 人と話をしたり仕事に打ち込むことで増えたり減ったりするこれとの付き合い方が、余計分からなくなった。


 そしてこの謎の症状は大禽と出会ってから頻度を増している。出会う前は、もう少し上手くやれていたはずなのに、大禽の存在によりペース乱され、消耗する。それも一方的に。


 こうして大禽が私の心に影響を及ぼすようになったのは、本当に些細なことが原因だ。


 校正の仕事に対し、私は自分が向いていないかもしれない、と思っていた時期があった。


 原因はない。ふと魔が差したように心の中に芽生えて、ずっと刺さっていた針だ。


 それを彼が何の気なしにいった、「いいじゃん、向いてなくても」という言葉に溶かされた。


 理屈は分からない。言われた当初はまだ針が刺さっていた。でも、大禽を知るうちに、「彼」が「言った」ということに意味と効果が出てきて、心の中に大禽がちらつくようになった。


 心を乱されて、苦しい。


 大禽、この世界から消えちゃえばいいのに。


 最高に疲れてくるとつくづく思う。目の前から消えてほしいのではなく存在ごと消滅してほしい。


 大禽が目の前からいなくなって誰かのものになるのは嫌だから。


 大禽が誰かと結婚したら、「良かったね」とは言える。でも私は一生立ち直れない。なのに結婚に伴うあらゆることがあまりに大きくて重い。


 相手の家族とゼロから仲良くなり、大禽に自分の家族を紹介して交流を眺め、手を入れつつ上手くやれるか運頼みをする。出来るか分からない妊娠をして子供を生んで、いじめの主犯格になったり被害者になったりするかも分からない、柔くて死に近い存在を育む勇気がない。


 勇気がない。


 大禽と私の親は絶対に合わないだろう。でも結婚は家族の付き合い。恋や愛の最大幸福形態が結婚ならば、これは恋じゃないし愛じゃない。だって愛ってもっと綺麗で勇気が出るもののはずだから。


 私は就職の時、キャリア担当者に「結婚したくないので」と言ったことがある。相手は返す言葉がなく沈黙を選んでいた。時代錯誤な人だったけど、私が切り捨てるような言い方をしたからか「勿体ないよ」「結婚は良いものだよ」なんてスタンダード応援すら飲み込んでいた。気遣った沈黙が身体の節々に突き刺さって、私は「税金も高くなる一方ですしね」とお道化た。頑固なわりに一貫性がない自分が嫌になる。


『もっと夢見ていこうよ』


 最後に担当者は言った。励ましだろう。


 でも私は夢を見ることと、身の丈に合わないことを求めることの区別がつかない。だから、ずっと一緒にいるだけが許されないのなら、破滅を望む。


 大禽に殺されたい。

 私を殺した大禽が、何を言うのか。


 安直なプロポーズや告白を経て、結ばれ、それが解けてしまうのなら。殺されたい。


 私の幸せはそこにある。






 公園で食事を終えると、エレベーターの前で天上さんに遭遇した。天上さんは「どうぞ」と上階に向かうボタンを押して先に乗るよう促す。天上さんは誰に対してもボタンを押している。


「ありがとうございます」

「いえ」


 手早く返し、天上さんはフロアボタンを押した。多分到着したとき、開くボタンを押すのだろう。


「校正、ありがとうございました」


 お礼を言われ「いえ、仕事なので」と手短に返した。編集者は校正部と会ってもお礼は言わない。向こうも仕事をしていてこちらも仕事をしている。必要がない。それでも感謝を沿える。わざとらしくもなく自然に。


 でも、そっけなさすぎたかもしれない。反省しつつも私は原稿を思い返した。


「独下先生の新作は、ジャンルは何ですか」


 作業が終わった和風ファンタジーは、和風ファンタジーと打ち出すよりは人間関係に焦点があたっているし、人間関係──男女、恋愛と示すには恋愛っぽくないものだった。それらしい表現はあるし一応政略結婚ものに該当しそうだけど、そういう小説によくある接触がない。


──好きになると、無責任な言葉を言いたくなる。

──怖くなかったことが怖くなった。

──好きになると、無責任なことを言いたくない。

──大丈夫じゃなかったことが大丈夫になった。


 物語に登場している女軍人と、一族から忌々しいと遠ざけられていた男がそれぞれ思っていること。


 心を通い合わせた瞬間はいくつかある。しかしページをめくればすぐに、互いは、「相手のことが唐突に分からなくなる」と悩み、距離感をはかって離れてはぶつかってを繰り返していた。つかず離れずの距離で。


 あの関係は、なんなのだろう。


 なんて名前なのだろう。


 一応政略結婚もしているから夫婦に該当するけど違う気がして、祈りを込めてジャンルを聞いた。


「それが、分からないんですよね……」


 天上さんは普通に、動揺も感情の起伏も感じさせず言った。どうでもいいというより挨拶に近い響きだった。本当に分からないらしい。


「分からない」

「はい。運命の二人、とあらすじのたたき台はありますが、運命の繋がりは恋愛だけじゃなくてもいいかなと思っていて。まぁ、売り出しの都合上、ロマンスとか恋愛とか、そういったワードは組み込みますが」

「……それは、ずっと一緒にいるだけの二人だとしても、ですか?」

「はい」


 迷いを感じさせず天上さんは頷く。そのあたりに関しては確固たるものがあるようだ。


 小説の中では、女軍人が夫となった男を避ける場面がある。夫の存在が急速に自分の人生から切り離せない存在になっていったことに怯えてだ。


 結ばれたくないのではなく、離れがたくて。


 大好きだからこそ幸せにしたくて、でも自分で幸せには出来ないと、自分より何倍も大きな化け物を切り捨ててしまうのに、簡単に殺せそうな男から逃げる。


「あの二人は、幸せになるために、というより幸せになれなくても一緒にいたい二人かなと思っていて、まぁ、幸せに出来なくても、お互いが傍にいて欲しいなら、理屈とか損得なく、一緒にいてもいいんじゃないかなって……ほら、愛のない、政略の結婚がありなら、そういう、新しい関係も……あ」


 天上さんはハッとした顔で、やっぱりボタンを押した。「すみません」と私は断りを入れてエレベーターから降りる。


 以前、独下先生の小説の台詞であった。


 24時間ずっと一緒にいる1ヶ月も2ヶ月おきに4時間会う30年も、同じ720時間らしい。


 だとしたら私は、ぎゅっと短くて濃密な永遠よりも、なだらかな丘のような永遠がいい。幸せそうには見えないかもしれないし、物語みたいにキラキラ輝いてはいないかもしれないけど。


 放り出さなくてよかった。


 私は自分の職場に──物語の世界へ続く廊下を見据える。


 逃避衝動はこれからも続くだろうけど、こうした瞬間があるから逃げられない。


 逃げられない状態でよかった。




「大禽」


 レイトショーをドタキャンして休憩スペースに向かうと、大禽がいた。私を見つけ少しだけ安堵した表情をする。可愛かった。大禽よりそこら辺の修正テープのほうが可愛いと思う人間のほうが多いだろうけど、可愛いかった。


 相変わらず結婚したくないし、私とずっと一緒にいるかこの世界から消えるか選んでほしいけど。


「風邪でもひいたか?」

「まぁそんなところ」


 私は大禽の立つカウンターそばに向かう。完全な隣には行かない。真向いにも行かない。少し前だ。私は自販機に視線をうつし、代り映えのしない陳列を眺めながらディスプレイに反射する大禽を見る。大禽は私に見られていると気づきもせず、私を疑うように、探るように見ている。


「寒暖差酷いもんな」


 大禽は「ちゃんと治せよ」と言うけど、治すも何も私が風邪なんてひいてないことは、大禽自身が良く知っているはずだ。


 先輩の言っていた「フロアを間違えこちらの階にやってくる人間」というのは大禽のことなのだから。


 さっき大禽は、「寒暖差酷いもんな」と言ったが、 気温は最低気温を更新し続けている。朝も昼も夜も等しく寒い。極寒だ。差なんてない。


 差があるのは、私が校正を行うフロアだ。寒がりの先輩が今日だってせっせと暖房を最高温度にして、ストーブだってたき始めようとしているのだから。


 原稿を取り扱う部屋に来なければ寒暖差が酷いなんて分からない。


 そしてエレベーターで無視された時に聞いた鉛筆いじり。


 大禽は、ストレスが最大まで達すると、私の2Bの鉛筆を盗む。


 気持ち悪いというより、繁忙期は勘弁してほしいという疲労感が勝つそのとんでもない習性の源流は、大禽がパワハラを上司と揉めだしたことと繋がっている。


 大禽の上司は、大禽の同期に目をかけていた。


 その同期が、大禽に私と自分を繋いでほしいと依頼した。トークメッセージのID交換ではなく、電話番号の交換という大層古典的なシステムを利用してだ。


 あまりに古典的過ぎて一度も話をしたことがないのに受け入れてたかもしれない繋がりは、繋がる前から大禽によって断ち切られた。


 大禽がメモを捨てたのだ。よりによって共有スペースで手短に済ませたことから上司にバレた。


 同期は上司のお気に入り、


 過剰労働のはけ口もほしかった。


 いろんなニーズがあいまって、大禽は社内政治の犠牲になり、理不尽の集中砲火を絶望している。


 全部、大禽の勤める社員の世間話で知った。


 エレベーター内のないしょ話は、社内の人間相手は警戒する。


 でも社外の人間は景色同然だ。


「ぼちぼち鉛筆買いに行かなきゃいけないんだよね」


 私は世間話を装う。


「なんで」

「最近消費早いから。買いに行くのもさぼってたし。仕事行く前は店空いてないし、仕事終わってからだと寒いし」

「たしかに」


 大禽は頷く。一緒に行こうか、とは言わない。そこまで言う勇気があれば鉛筆を盗んだりしない。


 誘ってくれないかと期待するけど、この期待が報われる瞬間は永遠に来ない。


「丁度彼氏とのデートにもいいかなと思って。文具屋デート」

「えっ」


 大禽が持っていた珈琲を滑り落とす。もう後一口と言うところだったから、惨劇は免れていた。「あぁ」と私は持っていたティッシュで床と大禽の靴を拭く。三枚で足りた。大禽は「わ、悪い撥ねてないか」と慌て、ころりと2Bの鉛筆が転がる。


 私が校正でいつも使っているものだ。


「大禽も同じの持ってるんだ」


 私は何の気なしに言う。


「あ、おぉ、っていうかお前彼氏とかいたんだっけ」


 大禽は分かりやすく動揺している。どっちの動揺だろう。鉛筆泥棒か、私に彼氏がいるかもしれないことか。


 どちらに対しても動揺してほしい。苦しんでほしい。


「いない。嘘。見栄はった」


 でも私は祈りを告げた。


 届けばいいと思うのが、苦しめという呪いなのか、そばにいてほしいという願いなのか、自分でも分からないままに。

 

  


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