我が好きを人に振る舞う
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あらすじ
霧華がありすとの交流に折り合いをつけるずっと前の話
『僕は、地獄のような退屈さえ紛れればいいからね。この世界がなんであろうと、どうでもいい』
彼の言葉を聞いたとき、理解できずともそばにいられたらと思った。
彼は私にとって、神様だから。
◇◇◇
「鶴城乃先生」
授業を終えて、教室から出たところ横から呼びかけられ、私は顔を上げた。
視界に映るのは、艶やかでウェーブがかった黒髪、リップを引いていないのにやけに赤い唇、反比例して薄い血色の皮膚、黒のタイツ。
二年生、紅玄院霧華さんだ。
「どうしたの?」
「教育実習期間が今週で終わってしまうので、最後の日にお別れ会をさせていただけたらと、勝手ながらクラスのみなで話をすすめています。サプライズをとも思いましたが、先生のご予定が第一ですので……ご都合はいかがでしょうか」
過不足のない言葉。
丁寧に育てられたことが、振る舞いにも言葉にもにじみ出ている。
この学園は天世女学園、あませという読み方だが「てんじょ」と呼ばれることが多い、中高一貫の女子高だ。多様な業界の要人の娘が集められ、文武両道の名のもとに日々学んでいる。
紅玄院霧華さんは、財界で絶対的な権威を持ち政治家も無視できない紅玄院グループ総裁の娘だ。
「ありがとう。問題ないわ」
「承知しました。お時間をいただきありがとうございます。それでは失礼いたします」
紅玄院霧華さんは中世貴族のようなカーテシーをして去っていく。私はその姿が消えるのを見計らってから、廊下を進んでいく。
かつて私もこの学園に通い、卒業した。建て替えも内装工事もしていない。学生時代歩いていた景色と変わらない廊下を、今度は教育実習生として歩いている。
窓の外から見える中庭には、薔薇園が。学園の周りは桜の木々が囲んでいる。近隣住民からは「まさしく花園」と称されていた。
女子だけが集められた場所を、女の園や花園と称することが多いからだ。
でも、不思議だ。
この近所には男子校もある。そこに通う生徒たちを見たことがあるけど、みんな自由そうだった。
男子校こそ、花園と呼ぶにふさわしい。
花園は空が開けていて、花が風に揺れてのびのびしているイメージだ。駆け回れる場所がきちんとある。
でもここは、箱庭だから。
◇◇◇
学園を出て最寄り駅に向かうと、遅延発生のアナウンスが流れていた。何時ごろ起きたものかすら表示されていない。スマホを眺めていると、トークアプリの通知ボタンの数字の桁が増えていた。
面倒だ。いっそアプリを消してしまおうか。
でも消したら今度は電話がかかる。
何ごとも諦めは必要だ。連絡手段だと思うから辛くなる。側溝かなにかだと思えばいい。私は心を無にしながらアプリを開く。同じ大学の人間からの休校連絡、グループ課題の報告、バイト先のシフト調整に紛れ、父親からのメッセージがあった。
『いい加減現実を見ろ』
最新がそれ。
ほかに未読メッセージが4つほどあるだろうけど、開かずとも内容は分かる。
『一度話し合おう』
『家に帰ってこい』
『母親も心配してる』
白いテーブル、白いカーテン、木製のプレートに並ぶライ麦パンに目玉焼き。動画サイトの淡い色彩のモーニングルーティーンと変わらない無個性テンプレート。
女学園を卒業後、小遣いと称し過分に貰っていた資金をすべて投入し、私は代理として保証人を担う信用業者を雇い、大学進学や一人暮らしに至る全てから、家族の意向を排除した。
ようするに、私は父親の望む「一人娘の理想」から大きく逸れた。
しかし、インフルエンサーのモーニングルーティーンが何度も何度も繰り返し撮影され一部分だけ切り取られている美しい瞬間を日常と嘘をつくみたいに、父親も嘘をついている。
母親は私を心配していない。
どこまでも、『理想を夢見る女の子』だから。
郊外の高級住宅街の一角、おとぎ話に出てきそうなウッド調のキッチンで夕食の支度をしている動画を投稿しながら、きっと今、都心のホテルの最上階で、夜に生きる男たちとシャンパンを飲んでいる。
ここから三駅先のアパートまで、いつ来るか分からない電車を待ち帰るか、それともタクシーをつかまえるか考えていると、新たにメッセージが届いた。今度はホーム画面を横切るように表示される。
メッセージの送信者は白木真。
『遅延電車を待っているなら施設で時間をつぶす?』
鬱々としていた思考が、魔法のように晴れやかになる。すぐに返事を出そうとすると、「いた」と柔らかな声が響く。
振り返ると、淡い髪の色をした男の人が立っていた。
王子様のようでありながら甘すぎない雰囲気を持つ彼は、いるだけで人を魅了する。現に、遅延情報に苛立つ周囲の人間の空気が老若男女問わず和らいだ。
「お兄様」
思わず口にすると、彼は苦笑する。
私は、一人娘だ。兄はいない。でも私がお兄様と呼ぶのは彼だけだし、彼を呼ぶのに最もふさわしいのが、お兄様だ
それ以外の呼び方があるとするならば、神様だ。
神様。
私の神様。
◇◇◇
「丁度御上くんも来てるから、夕食もどうかと思ってるんだけど」
施設に向かいながら、お兄様が言う。
施設というのは、お兄様が働いている養護施設だ。
海に近いことから、『ほしうみ園』と名付けられ、入れ替わりがあるものの15人くらいの子供たちが生活している。
天女の生徒がほしうみ園へボランティアに行く行事があり、私はボランティアを通してお兄様に出会った。
「あ、お疲れさまです。白木さん彼女をお迎えに行ってたんですね」
施設に入ると、黒髪黒パーカー黒スキニーの、陰鬱な空気を纏った男の人が会釈をした。御上さんだ。童顔なことで同世代に見えるけど、私より少し年上の御上さんは、この養護施設でボランティアとして働いている。
「今日の夕飯はマグロ丼なんだ。御上くんがさ、一匹抱えてきて」
「え……」
お兄様の言葉に驚きながら御上さんを見ると、彼は「資金洗浄ですよ」と死んだような目で言う。
「資金洗浄?」
「出版社のドブ金クソ印税が入ったんで」
心底汚いものを口にするように御上さんは答える。彼はボランティアをしながら、小説家をしている。もともと別に仕事があるけど、WEBで投稿していたものが本になり、二つの仕事をこなすようになった。
ただ、小説の仕事についてあまりよく思っていないらしい。なりたくてなれない人間だって、たくさんいるだろうに。やりたくないならやめてしまえばいい、と思う人もいるだろうし、私も思う。
やりたくないならやらなければいい。
好きじゃないものは世界から除外してしまえばいいのに。
でも言えない。ほかのことならいくらでも異論を唱えられるけど、小説については肯定意見ですら、少し触れれば飛び降りでもしそうな空気がある。
「でもマグロ一匹、高かったんじゃない」
お兄様は問う。
「丁度単行本1冊分ですかね。350ページの時給がマグロになりました。いい買い物じゃないですか? 子供たちの血となり肉となる」
私はスマートフォンで検索した。時価にもよるが初任給にも満たない。生活なんて到底出来ないだろう。ただ、彼が小説の仕事について否定的なのは、お金が理由とは考えられない。
「ああ、貴女の血肉にもなりますね。良かった良かった」
さらっと御上さんは言う。さりげない配慮だった。食べていくかいかないかをスキップして輪に入れる。駄目だったら今断ればいい。分かりやすい選択の間が生まれた。
「ありがとうございます」
私は選ぶ。お兄様と一緒にいることを。
「良かった。じゃあ僕は片づけをしているから、鶴城乃さんは楽にしてて」
お兄様は私と御上さんを残し、施設の奥へと入っていった。手伝ってほしい、もしくは一緒にいても構わないなら、楽にしてとは言わない。来るか聞いてくれる。そして私はついていく。
だから今日は駄目。ちゃんと分かった。
◇◇◇
お兄様との出会いは、私が高校二年生の頃。
私は熱中症にかかりやすくて、特に8月の終わりはどうやったって倒れる。お医者様は直接的な原因になりそうな疾患もなく、こればかりは夏の疲れや暑さへの耐性など、体質によるものと結論付けた。
病気になる前、発病には至らない状態を「未病」と呼ぶらしい。
異常らしきものがあれど、異常とは診断できない。
未病とは言えない、曖昧な状態と言われた。
だからこそ付き合って、上手く共生していかなければいけないとも。
私は医者の診断を受け水分補給をこまめに行い、塩分量も調整していたつもりだったけど、それでも通学途中倒れてしまい、介抱してくれたのがお兄様だった。
当時──いや、当時も、だ。私はいつだって家族と上手くやれないしやらない。向こうもする気がない。向こうは私を思い通りにさせたいし、私も私で、苦しくない家族に焦がれる。
ただあの頃はなおのこと気が滅入っていて、思うままにお兄様に弱音を吐いた。彼は傾聴するわけでもなく、オウム返しをすることもなく、「それは違うかもしれない」と時には否定を交えて話を聞いてくれた。
幸せだった。
たぶん、そんなことが幸せなのかと、理解できない人間のほうが多い。成績が良かったら、美味しいご飯を食べられたら、楽しい話をできたら、友達が多かったら、可愛かったら、人に好かれたら──もっと幸せだと、みんな考える。
分かってるそんなことは。
私の感覚は、そういうものを幸せとしてみなせなかった。お兄様に話を聞いてもらった時間がすべて。幸せは永遠に続かない。私の幸せはもっと続かない。
高校生だから、家に帰らなきゃいけない。帰りたい家でもないのに。気も足も重たくて後ろ髪を引かれながら帰る私に、お兄様は言ってくれたのだ。
『またおいで』
お世辞だと流す私に、お兄様は続けた。
『君を一人にしたくない僕の勝手を許してほしい』
その一言が、私のすべてになった。
◇◇◇
私は御上さんのマグロ解体を手伝うことにした。といっても養護施設のキッチンに入った瞬間、「山葵おろしておいてください」と戦力外通告を受けた。
「住民票の閲覧制限の件、ありがとうございました」
山葵をすりながら御上さんにお礼を言う。家族との決別についてここで話をしたところ、御上さんは「まぁ、初歩なんでね」と即答した。
小学校を卒業し、大学に入るまでの青春時代を、「多感な時期」と人は言う。その間に人格形成が行われたり、ひとへの価値観が培われていくからだろう。
しかし、世の中はアップデートとか、多様性という言葉の名のもとに変革が常に求められていて、この間まで当たり前だったものが簡単に崩れていくし、逆に変わるべき不条理はしぶとく生き残っていることもある。
世界は変わるし変わらない。
人も同じだ。変われるというけれど、変われないし変わらない。
ではなぜ娘を女子高に入れたがる親がいるかといえば偏差値やブランドもあるだろうけど、根底には不安あるのだろう。
大切な娘が、異性と問題を起こさないか。
異性の毒牙にかけられないか。
男女平等は声高々にうたわれるけれど、同性からの性的接触だってある。でも親は簡単に思う。女子高に入れておけば、同じ学校の男子と関わらないから安心。
そんな親の自己満足で、異性との接触を徹底的に遠ざけられた女の末路は、悲惨なものだ。
だってこの世界の半分は男だ。その半分に対しての接し方を全く分かってないどころか、関わり慣れていない。
挙句の果てに、物語で男を知る機会はいくらでもある。
異性愛者の男が描く男と、異性愛者の女が描く男は徹底的に異なるというのに。
特殊事例をのぞいて、前者にはこう在りたいという理想が、後者にはこう在ってほしい理想をそれぞれ帯びている。
大体は、創作は創作だと理解し楽しむにとどめる。しかし、知識としてとらえる人間もいる。
こういう人がどこかにいるはず。
みんなかけがえのない存在で、個性があると人々はうたう。生身の人間を前に、こういう人がどこかにいるはずとは思わないのに、キャラクターに対しては平然と思う。
こういう人と恋愛する。
こういう人と結婚する。
それが自分の幸せ。
親が完璧な旦那や婿を用意すれば違うだろう。それこそAIが作り出したような「完璧な旦那様」を。
けれど人間は完璧じゃない。
正気の人間は、甘い言葉を囁くことはしない。
一途であれば、付き合ってもない好きな相手の頭を撫でたりしない。
真面目や誠実であればあるほど、恋愛創作物に出てくるヒーローに適合できなくなってくる。
それを、私の母は許せなかった。
自分の夫に対して。
いつまでも美しくあってほしい。いつまでも私をお姫様扱いしてほしい。
出来ないのなら私への思いもそれまでということ。ならばあなたはもういらない。
そういうスタンスで母は存在していて、自分の夫に「夫であること」を求めなくなり、
ホストに走ったけれど、母親はそれでも満足できなかった。
夫婦は法律で妻を愛することを定められているし、不貞をすれば罰せられる。
でも自分を売る人間は違う。金のために誰とでも関係を持つし、そもそも水商売をする人間に一人の顧客へ関心を向けるほどの感性はない。
顔を整形する体力があって、嘘をつくのが上手い、劇場型社会不適合者。接客からコミュニケーション能力に長けているというが、一過性のコミュニケーションしか出来ない。互いを埋めあう「交流」は絶対に出来ない。
なぜなら愛されて当然だと根底で思っているから。母親と同じように。
母親は愛されて当たり前と思っていて、ホストも自分を愛されて当たり前の存在だと思っていた。ホスト側はお金の為に謙遜もするけど根底にあるのは愛されて当然という自信。愛されたい人間を見抜いて愛しているふりをして、愛させるまでがセットだ。
留守の時に男を連れ込む母親を見るだけの私が出した結論なのに、ホストとしっかり関わっていた母親はそれに気づかなかった。
ホストについて私が父親に密告することはなかった。父親は私の進路に関する指導者や支援者であったけれど「父親」ではなかった。ゲームや漫画のシナリオだと誰かが誰かに親切にしたり好意をもつには読者が納得する理由の場面が必要になるらしい。
私の人生が物語になったとして、母親の浮気を知り父親に密告すれば「どうしてこの女は父親に密告したのかわからない」と読み手が疑問を抱くだろう。
そういう関係性だった。
かくして母親はホストに貢ぎ父親は進路についてしか言わない家庭環境は、父親が母親の金の動かし方に疑念を抱き興信所を雇い調査したことで変化した。崩壊を迎えたという表現も正しいだろうけど、もうもとからどこか壊れている。変化したのだ。
そして私は御上さんと出会った。御上さんのもうひとつの仕事は、興信所の探偵だ。父親が雇った探偵で私の存在を知り進路について聞いてきた。
このままこの家で過ごすのかと。
御上さんは年上の男。私は女子高生。物理的な力関係は御上さんのほうが上だけど、法的において私が圧倒的に強い。それを理解したうえで私を助けようとしてくれた。
「DVとか多いんですよ。自分がぶん殴った癖にクソドブゴミが、家族がいなくなりましたって被害者面して探すみたいな。だから別に慣れてるんで、なんかあったらまた言ってください。マグロ切るより楽なんで。っつうかこれ普通の包丁でやるの無理あるな」
御上さんはマグロの解体に苦戦している。指先をマグロの血で染めていた。
血の赤を眺めて、ああ、前にも見たことがあるなと思った私は彼に問う。
「小説のお仕事、どうですか。やっていて、幸せを感じることはありますか」
「ない。ずっと辛いよ。独りだなぁって思い知り続ける、最悪の仕事」
御上さんはマグロの血を流しながら即答する。
「どうしてですか」
「編集者がゴミだから。結局さ、誰かと一緒に何かを作るのが好きなんじゃなく、作家さんの才能を発見してスターとして育ててる自分が好きなわけ。だからスターになれない作家なんていらないのに、必要アピールしてついでに物語大事にしてますブランディングとして再利用するわけよ。究極の他力本願自己愛スタイル」
育ててる自分が好き。
父親の姿が浮かぶ。
「それに敵って担当編集だけじゃないし」
「え?」
「俺、二回やられてるからね。掲示板に色々書かれて、開示請求したら担当じゃないほかの編集者に書かれてたことあるから」
「……なんて、書かれたんですか」
私は、よくないと思えど聞かずにはいられなかった。御上さんが掲示板に書き込むイメージがない。
だって彼は、信用していない人間相手に粗相をしたり、書きこまれるような粗を出す人間じゃないはずだ。
「タイトルもじって、著者はバカ、みたいなやつと……いい絵師さんとのご縁があったんだけど、絵師さんでギリギリ売れてるけどもっといい話に絵師さんあてれば良かったのに、あと、売れてない癖に小説家気取りの文体でみじめ、低学歴そう、社会人経験のなさが出てる、業界で知れ渡ってるけどなんだっけ、漫画家に噛みつくで有名とか? で、DMで死ねとか才能ないとか。実力ないくせに出版社に推されてむなしくないの? こだわりばっかり強くて売れなきゃ意味ないんですよ──って、色々アンチされてんなぁと思って調べたら、単独犯でこいつ見覚えあんなと思ったら、編集者よ。本出してる出版社の」
御上さんは演技がかった口調で話す。仕草や声音から、40代くらいの男性を模しているように感じた。ハッキリわかった。御上さんはその人と会っている。
「どうしたんですか、その人、最後」
「金目当てで示談にした。ぼったよ~。ああ、そのドブ金でキッズたちにゲーム機とソフト買った」
養護施設ではゲーム機を買う余裕はない。でもこの施設ではひとりひとりゲーム機を持っていた。御上さんが買ったんだろうなとは思っていたけれど、お金の出所が示談金なんて。
「そういえば、御上さんの担当編集さんはどうしたんですか」
「味方にゃーならんでしたなぁ……で、結局、その担当者とも、色々問題になって……俺は出るって言った。面倒だしさ、カスみてえな会社に俺の話を読んでるやつ? いるかいないんだか分かんねーけど、金持ってかれてんのむかつくじゃん、最初は静かに終わらせようと思ってたら、話し合えると思ったらしくて、もうぜーんぶ手遅れなのに、で、そいつ、最後俺になんて言ったと思う?」
御上さんは私を見る。しかしその目は、ずっとずっと暗くて、先が見えなかった。私はとうとう何も言えなくなって、首を横に振る。
「私は独下先生の才能の火に惹かれてやってきたつもりです! 編集部で独下先生について話し合いました。今後もお付き合いしたい作家か、これからどうするのか、そうしたらまず始めに私が叱責を受けました! だって。なるほど~と思ったよ。俺ただ書いて、トラブル処理して、真面目にやってきたつもりだったけど……どうでも良くなった。全部。何がお付き合いしたい作家だよ。てめえの編集部、取引相手のこと、わざわざ掲示板に複数人のふりして書き込むクソの分際でって、何も知らねえくせにって……まぁ、俺の担当編集、この間階段から落ちて死んだけど」
けろっとした顔で御上さんは言う。
「え……」
「俺が殺したと思ってます?」
「いや、そうじゃなくて……唐突だなと思って……」
「ほーん」
心底どうでも良さそうだった。まるで、疑われるどころか、他者に悪く思われること自体、慣れているような。誰にも何にも期待してないのを隠さない、冷え切った声と眼差しに委縮する。
「まぁ……出版社からしたら俺が殺したとでも思ってますけどね、実際、俺との打ち合わせ後に死んだし。経緯説明で編集長と話したけど、俺のこと犯人だと思ってましたね……探偵面してましたよ。本職に向かって、ふっへへ。ばーか、死んじまえばいいのに」
御上さんは疑われることを面白がるみたいに話した。
「で、新しい担当、天上って言うんですよ。まっさきに天世女学園が浮かんだわ。天天繋がり」
「どんな人、でしたか」
「知らん。会ってない。名字が天上ってことしか知らなんだなー……どーせ大事な同期か、先輩か、後輩? 殺したやつって思ってるだろうし、今更猫被ったところでどーにもならないし? どーでもいい。もう面倒になってきたマジで。担当編集殺して伝説になろうかな。どうせ疑われてるだろうし。お行儀よくしてたら舐められるし、殺すつもりで行く。もう、面倒だから」
語気は強いけど、御上さんは殺さないだろう。彼が殺そうと思えばたぶん誰にも言わない。
「それでも書き続ける理由は何ですか」
「続けなーい」
御上さんは首を横に振る。
「楽しんでもらうのもそうだけど、誰かと繋がったり、一人が好きだけど独りになるのが好きじゃない人間を一人にさせないのがエンターテイメントだと思ってた。だから、もしかしたらって思ってたけど、違うみたいだ。だからもう、俺はただ、死ぬの待つだけ。御上としてじゃなく、独下ケイとしてならいつでも死ねる」
──ああ、終わった。
御上さんは包丁を置く。いつの間にか鮪はすべて捌き終えていた。
「っていうか物語の幸せが気になるなら、白木さんに聞けばいいじゃん。あの人実写化ベストセラーまで行ってんの知ってるでしょ」
御上さんが言う。
興信所の仕事と養護施設、公私ともに人間の傷や痛みを見る御上さんも、私の本当の痛みには気付かない。
「まぁ、あの人も幸せかどうか分からないけどね。ファンレター来るよりアンチコメのほうが躊躇いとかがない分、量も多いしマッハで来るし……俺だって来るんだから、あの人なんて相当だろうし」
「さよなら天国おはよう地獄、ですよね」
残酷な漫画。一人の男子高校生が夏休み最後の三日間を使って、クラスメイト全員を死に導いた挙句、自殺する終幕を迎える。
さらに、その三日間の前日も、他者の命を奪った。
理由は死体を偽装するため。凄惨な三日間を過ごすにあたり、男子高校生は自分の身代わりになる死体を欲した。殺すのは誰でも良かった。形を残せば、死体が男子高校生のものではないと分かってしまうから。
なのに男子高校生は、義妹を選んだ。
男子高校生に好意を向け、そのすべてを肯定していた義妹。
残酷な計画を打ち明けたら、絶対に自分の協力者になる義妹。
それを確信したうえで、義妹の首を締めた。
私を殺した。
◇◇◇
途方もなく好きだった。
自分が好意を向けられることが好きではないのに、伝えられずにはいられなかった。仕草も言葉も容姿も何もかも愛していた。
彼さえいればなにもいらない。彼にさえ嫌われなければいい。
彼に絶対的な忠誠を誓ったうえで、私は他者に無関心だった。それすら彼に認識していてほしかった。
貴方以外になにもいらない。
同じことを、きっと彼も思っていたのだ。
私に対して、お前はいらないと。
どこが間違っていたとか、どこをやり直せたら良かったとか、きっとそういうのはない。
彼には私を愛する感覚がなくて、私は彼が「私を愛する感覚が無い」ということを、殺される瞬間まで理解していなかっただけだ。
愛されたかった。誰かにじゃない。彼に愛されてみたかった。
生まれつき、一等好いた相手に殺された記憶を持っていたから、家の安全性が不確かでも鬱陶しく感じるだけで済んだのは幸運だろう。
そうした客観視のほか両親の金銭感覚、多様な素因が重なって、私は地獄から脱出できた。
でも、大多数は振り落とされる。
現に、先輩にいた。彼女は長男を絶対とし、スペアとして次男を望み子供を作った夫婦のもとに生まれた。自己肯定感が著しく低く、自分が助かることをすべて諦め、弟に献身することを望んだ。
担任教師が奨学金制度や福祉制度を説いても進学に首を縦に振ることはなく、学園では異例の就職を決め、卒業式には出なかった。
最後に話をしたのは、卒業式前日。親に思うところがある者同士、先輩とは交流があった。私が親に無断で信用会社と繋がった経緯も、教職の道を目指すことも、彼女はすべて知っていた。
「出来ればさ、私みたいなの、助けてあげてよ」
いつだって彼女は助けてとは言わない。
自分が助かることを恐れるふしすらあった。
助かった状態を知らないから。幸せを知らなすぎて苦しんでいるほうが落ち着く世界に、一人でいた。ただそれが悪い状況だと言うのも理解はできていて、その世界に誰も来ないよう、必死に孤独に努めていた。
ただ、彼女には弟がいる。絵を描くことを好み、それ以上に強い感情を自身の姉に向けていた。血の繋がりはあれど、家族の絆とは到底思えない。強くて深い関心の眼差し。
「なんとなく心配でさー」と、からっとした笑みを浮かべながらも目の奥は一切笑ってない、周囲を牽制したあの目は、姉に向けるものではなかった。
私も彼に、ああいう目を向けていたのだろうか。だから殺されたのだろうか。
◇◇◇
御上さんは子供たちのぶんのほか、スタッフ全員の鮪丼を作り上げ──帰った。
興信所から電話が来たからだ。どうやらトラブルらしい。「誰も食べなかったらチャーハンにでもして」と言い残し発った。
調理者不在の鮪丼を食べ終えた私は、「電車は動いたばかりだけど混んでるだろうし少しいる?」というお兄様の許しをもらい、施設の奥、お兄様の秘密の美術室に向かった。
もともと事務室だったのを、改築して美術室にした部屋だ。壁には私の肖像画がいくつかある。
時間ができるとお兄様は絵を描く。
私を描いてくれる。
この世界で生きている、鶴城乃踊子を。
お兄様はどういう気持ちで漫画を描いたのだろう。どうして私が死ぬような物語を紡いだのだろう。疑念は一生消えない。私が私であることを気付いて助けたのかただ夏に倒れた女を助けたのかもわからない。
でも、私は彼が好きだ。私のお兄様で私の神様である彼が、心の底から好きだ。
そのうえで私はお兄様から想いが返ってくることがあると期待することはないだろう。
私は一生、お兄様からの見返りを期待しない。期待しないことで一生、お兄様を想える。
黒辺舞にならずに済む。
◇◇◇
「鶴城乃先生、教育実習期間、お疲れさまでした。ありがとうございました」
学園で女子生徒たちが声を揃える。私は教育実習期間を終えた。これから教員採用試験を受け、教師になる。試験は問題ないだろう。親も教育委員会にまで影響できない。
先生になる。
お兄様に出会って見つけた夢だ。私は親の教育がいいものとは思えなかった。あんな家族への反骨心で子供を生むのはきっと違う。それに私はお兄様を愛しているけど性的接触がしたいわけでもないし子供がほしいわけでもない。
ただそばにいてほしい。
そういう感慨をもつことはたぶん普通じゃない。普通じゃない私が教師になることは間違っているかもしれないけど、虐待するとか暴力をふるう教師より、私がなったほうがマシだろう……という不純な動機が2割、私も誰かを一人にしたくないと思ったのが8割だ。その結果、思いついたのが先生。
はからずしも、漫画家も先生と呼ばれる職業だ。
先生。私の先生。私の神様。
そのうえで、私を一人じゃなくさせる存在が、白木真であることを望む。
『僕は、地獄のような退屈さえ紛れればいいからね。この世界がなんであろうと、どうでもいい』
とある夏の日、彼が私にかけてくれた言葉を寄り辺にしながら。
たとえ、こんど、私のお兄様が私を殺したとしても。




