人生の墓場
和菓子が好きだ。
食べることも作ることも。
一歩も外に出ることが出来なくても季節が感じられるし、種類によっては無病息災など、昔の人間が授けた祈りがあったり、過去の文献を読み解くことで、繋がりが感じられる。
簡単に過去と交流ができるツール、それが和菓子だ。
でも、日本の伝統とか、嗜みとか、侘び寂びとか、難しい建前ばかり並びがちで、敷居が高いなんて言われてしまう。
抹茶ラテはどのチェーン店のカフェにもあるし、大福が置いてないコンビニの方が少ないだろう。
ケーキをしっとりさせるため、白あんと呼ばれる和菓子の材料が使われることもある。
そこまで肩ひじ張らずとも問題はないし、オムライスの発祥を知らないままオムライスが好きだと言って責められる道理がないように、餅やあんこ、抹茶やきなこが苦手でも、ラフに和菓子が好きだと言っていい。
なのに、「知らなければ損」「これがマスト」「絶対押さえるべき~」と、注目度稼ぎの為にあれこれ言い、「~じゃなければ向いてない」「これが分からなきゃおかしい」なんて言葉が、本職からも外野からも飛び交う。
思い出すだけで疲れる。
平安近くから今に至るまで、献上菓子として取り扱われている家の、正統直系である俺が言ってるんだから、黙ってろ。
そう言えたらいいけど、言えない。
仕事をすればするほど、関係者は増える。反比例して本音を話す場所は失われていく。
なくなる寸前にならないと「好きだった」「残すべきだった」「守るべき」とようやく議題に上げられる伝統芸能や工芸品と一緒だ。何かが失われる瞬間、何かは増える。ままならない。この世は諸行無常。
だから、物産展で地元を離れたとき、本音を話せない人間同士で話をする。
仕事の都合上、関係者の中でも最も繋がりの深い弟つきで。
「今夏休みの時期やんか、御上くん通うとる施設の子ら、読書感想文せえへんの?」
ターミナル駅に近い個室居酒屋で、そう言いながら卵焼きを切り分けるのが、俺の弟の左月だ。和菓子の売り子をしながら、作家として活動している。
「しますよ」
「ええなぁ、作家に感想文の書き方教えてもらえる子羨ましいわ」
「教えてないです。そういう相談は受けないので」
「なんで?」
「作家って知らないんで。普通に金槌とかのこぎり関係のものしか頼られない」
「それ得意や思われとる奴、怖ない? 子になんか悪さしてへんやろな」
「悪さしてる奴に悪さしてる」
「御上くん冗談真顔で言うのやめや、めっちゃ怖いわ」
「冗談じゃないですけどね」
左月に絡まれているのが、作家の御上さんだ。左月は本名で活動しているけど、御上さんのペンネームは別にある。聞いていないからどんな名前で何を書いているかは知らない。俺はおもむろにスマホを開き、メッセージアプリのアイコンをタップする。妻からだ。
『物産展2日目お疲れ様です。』
可愛い13文字。
結婚したい。
もうしてる。
愚痴だけじゃなく本当は妻の話をしたいところだけど、弟は結婚してないし、相手もいない。御上さんもだ。二人とも、恋愛感情がないわけでもないらしいが、弟は身体が弱く誰かとスキンシップを行える体力すらなかった過去があり、御上さんは女が嫌いで男も無理と言っていたから、それぞれ体質と性質的に、恋愛と距離がある。
俺は、恋愛以前に女も男もどうでも良かった。
だからこそ、今俺の妻の話をすれば、二人は飽きるとすぐにわかる。だって俺も同じだから。興味のないものの話を聞いて楽しいのは、好きな相手だけ。
俺のことが好きではないこの二人が、俺の妻の話に盛り上がっていたら、それは嘘をついているか、俺の妻を狙っているかの二択になるが、前者はありえない。嘘をつく理由がない。
要するに俺の妻が好きという確定事項が生まれ、俺は二人を討たなくてはいけなくなる。
俺は『ありがとう』と打ち、送信する。
変なことを書き込んだらと思うと、とても話せない。
SNSでおじさん構文というのを見た。金銭が関わっているとはいえ、年下の女にあそこまでフランクに接することができる思い切りが羨ましい。
学生時代はさぞや輝かしい青春を謳歌していたに違いない。死んでしまえばいいのに。こちらは『百貨店さんで大玉のメロンを見かけました』が、妻の体の部位の隠喩にならないか不安でなにひとつ言えないというのに。
画面を眺めていると、すぐに既読がついた。今こうしている間にもこの地球という同じ星の中で、妻がスマホを見ていると思うと心が沸き立つ。
スマホを開発してくれた人、トークアプリを作ってくれた人、色々ありがたいけれど、メッセージ機能に既読機能をつけてくれた人には、感謝してもしきれない。
機械は人間の温度を感じない、なんてされがちだけど、この既読二文字には限りなく妻のぬくもりがこもっている。二十四画の妻の体温だ。妻の平熱は36.4°。
既読に温度があるとしたら妻の平熱だ。
でも、妻と出会うまではトークメッセージにも思うところがなかった。そもそもスマホを触らなかった。起きて和菓子を作って寝る、それが至上の幸福だった。それさえ崩されなければ、なにもいらない。
そんな俺が結婚するに至ったのは、ひとえに古宿家の当主として店を継ぐ条件に、結婚があったからだ。
思えば、長い道のりだった。
先代の父親から、気になっている相手はいないのか問われ、常々「恋がしたい」と言い、俺を「いい男ね~」と言っていた知人女性の名を口にしたら、87歳の華道家を利用しようとするなと怒られた。
俺は結婚相手が必要で、あちらは看取ってくれる人が欲しいと言っていたから、双方利益ある結婚だ。なのに華道家の方も「犯罪に巻き込まないで」と驚愕し、俺を拒否した。
その後、弟の勧めでマッチングアプリに登録してみたところ、嘘じゃないかと店に連絡が来たり、「有名御曹司のふりをしたマッチングアプリが流行っている」とニュースで出されてしまい、どうにもならなくなった。
面倒なので、店に『急募 当主結婚相手 資格 女(法改正の場合男可)』と張り出したら、母親に結婚相手を求人のように募集するなんて店の品位に関わると怒られた。
どうしたものか考えているうちに、見合いが組まれ、「俺で妥協できるならどうぞ」とお願いした結果、結ばれたのが今の妻だ。
「というか、進路相談の手伝いのほうが多いですよこの時期。大学見に行くとか、就職するとか、あと……面接の」
妻からのメッセージを指先で三十周ほどしていると、御上さんが言った。
「面接……思えば僕、したことないなぁ。中学は公立やし、高校は紙の試験で、まんま家継いで今まで来てしもうたから。でも、こうして物書くんなら、いっぺん就職して経験積んどいたほうが良かったような気ぃするわ」
左月は小さい頃から頭が良く、難しい問題集もササッと解いていた。それでも長い入院生活による欠席や、テストが受けられないことから評価が奮わず、面接の伴う受験を候補から外し、筆記試験のみの一発勝負にかけていた。
「面接形式はそうですけど、企業的な性質は和菓子の受注生産接客と変わらないと思います」
「えぇ」
「だって、就職活動なんて、パズルと変わらないじゃないですか。相手の凸を見つけて、自分のこと凹ませるクソパズル」
「クソパズル言うてもほら、その人にしかない強みとか知りたいもんちゃうの、個性とか」
左月が言うと、御上くんが「個性?」と、嘲笑するように聞き返した。
「おん。面接とかで言わされるんやろ、貴方の長所とか、貴方にしか出来ないことないですか、みたいな」
そうして左月が首を傾げると、御上くんの眼差しが一気に暗いものに変わった。
「個性なんかいらないんですよ。就職……いやこの社会に」
「え」
「仕事のときは協調性は必須だし、その協調性の枠に入れる都合のいい個性じゃなきゃだめで、丁度いいが求められますから。実際のところ個性も特別も求めてない、貴方だけの魅力を、個性を、なんて言うけど求めてる人材は休まず働きすぐに辞めずに上層部が困ったときに予算都合に合ったアイデアを出してくれる従順な熱意ある人間で、その熱意も、環境に即してないといけない。アイデアだってそうだ。実現可能で、予算の範囲内で、なおかつ前例にあってでもちょっと違う頓智みたいな丁度いいアイデアを求めてるんですよ。にも拘らず、うちはいろんな人間に寛容です、多様性です! 活躍! みたいな自社愛オナニーに付き合って、そこに感動するふりまでがセットで、社会人なんですよ。反吐が出る。ああ、そう考えると、うちはモノづくりを大切にしてます! なんて矛盾だらけの出版社に笑顔で同意しなきゃいけない作家業も同じだぁ」
「御上くん、水飲みや、酔いすぎやって」
左月は御上さんに水を勧めるが、先ほどから御上さんが飲んでいるのはただのウーロン茶だ。アルコールは何も入ってない。
「そもそも生きてる人間同士のモノづくりをして、繋がりで仕事するのが出版社の強みだと思うんですよ。AIじゃねえんだから! 自己主張しあって戦って、頑固と頑固でこねくりまわしてって、売れなかったら責任折半でいいだろ。それをやれ、本を売るのが編集者の仕事です♥ 売れなかったら編集者の責任です♥ 作家さんの才能を裏方として支えて見守っていけたらって登場人物一人の名前もでねえ裏方気取りのフィクサーぶったハートフル無神経が多いこと多いこと。その理論はなぁ! 出版社で売上出せない作家は才能ねえって暴論に気付きもしねえで! おお嫌だおお嫌だ。コントローラー握ってロボ壊れたらまた新しいロボ動かしてるだけの分際で! ヒートアップしていった著者と漫画家がいたら第三勢力として乗りこんだり、一緒に不安になったりできる編集者はいないんですか⁉ っつうか才能なくたって書いていいじゃないですか。才能なくたって面白くなくたって、本になっていいだろうが。そもそも裏方がどうとかテレビでも舞台でもねえのに言ってるやつが! 心の底から! でえきれえなんですよ俺は。デザイナーも校閲も校正も編集者も本作ってる奴で、著者と境目も上下もねえのにたまたま最終的に切腹しなきゃいけない名前が表紙に著者ってでかくのってるだけで、なあああああああああにが神様じゃばああああああああああああああああああああああああか」
「ほら、ソフトクリーム買うたろか?」
「牛臭いなら食べたいです」
「牛臭い言いなや、ちゃんと牛乳の味濃い? 言わんと、クレームなる……ああ牛乳、牧場から仕入れてるやつらしいから匂い濃いやろ」
「ごちそうさまです」
御上さんは途端に静かになった。ソフトクリームが効果的らしい。思えば妻も牛乳の味が濃いソフトクリームを好んでいた。ソフトクリームを食べる妻は可愛い。俺は妻と出会って間もない頃を思い出す。妻は俺の父、要するに先代が取引していた旅館の娘だった。
そこには娘が二人いて、姉妹と呼ばれていたが俺の妻がもう片方の妹か姉なのか、分からない。記憶がない。どうでもいいことはすぐ忘れる。
ようするにその旅館には俺の妻じゃないほうの女がいるわけだが、旅館では昔から「じゃない方」が優遇され、妻が虐げられていた。
俺は人間だと妻だけが好きだ。それの逆だ。旅館は、俺の妻だけが嫌いな家だった。
出会ってすぐの頃の妻は、いつも俺の顔色をうかがっていた。
最初はそういう性格だと思っていたけど、なんとなく、直感的に違うような気がする……悶々としていた頃、妻とデートをすることになった。
和菓子屋に嫁いだ以上、和菓子を口にすることが多くなる。
好きならまだしもそうでなかった場合を考え、初めてのデートの甘味には、ソフトクリームを選んだ。
妻は初めて食べたと喜んでいて、「この時代に成人後、ソフトクリームを初めて食べたなんてことがあるのか」と疑問を抱き、調べたら案の定だった。
家族の愛を知らない子。一言であらわすなら、それだ。
家族は色々ある。
だから不幸ということはないかもしれないが、俺は俺で腹が立ったので旅館ごと取りつぶした。
突然取引をやめるだけで良かったから簡単だった。
なにせ俺の家は古来から続く老舗。余程のことがない限り古くからの縁を断ち切ることはない。客は政治家や褒章つきの芸術家など、いわゆる要人が多い。
そんな店から一方的に取引を破棄されたなんて知られれば、粗探しが始まる。なにより長く歴史が続く土地は、人と人との距離が密接だ。
少し動かしただけで、勝手に破滅へと向かっていく。和菓子を作るのと同じだ。ひとさじの色素で、白餡はたちまちその色に染まる。
でも、今思えばあの頃は、妻のことをそこまで意識していなかった。
落ち着いている女性。
思うことがあるとすれば、それくらいだった気がする。
それからだんだんと交流を重ね、劇的な変化はないまでも互いがそばにいることが自然になって、雪が降り積もるように、想いが重なっていった。
だからもし、妻を愛し始めたときと旅館について気付くタイミングが一緒だったら、もっと色々していたと思う。
もっと色々しておけばよかった。「じゃない方」もその親も逮捕されているから何もできないのが惜しい。
「でもあれやな、御上くん、僕みたいに合う編集者さん見つかればええなぁ」
御上さんのソフトクリームがテーブルに届いたあと、左月がしみじみそう言った。ソフトクリームを凝視していた御上さんが、スプーンを手に取る。
「無理です。どこにもいない」
「希望ないん? こういうのがええみたいな、好きなタイプ」
「メンヘラの女か、情けないドブ根暗童貞」
「前者は分かるけど後者なんやねん。頭痛が断続的に痛いみたいな変な表現やん。絶対校正で指摘されるで」
「世には情けない童貞と情けなくない童貞がいる。そして情けないドブ根暗童貞にしか出せない鈍い輝き、攻撃性、情がミックスされたエンターテイメントがあるんですよ。そのエンタメは、絶対、負けない。起業しました! とか、普段週末は先輩たちとサッカーしてます! みたいな奴らがどんなに頑張って金はたいて才能ある手駒揃えても届かない位置にいけるのは、情けないドブ根暗童貞なんですよ。今流行ってるラッパーとかもそうでしょう。子供部屋おじさんとか言われてたんですよ」
「なんか拗らせた性癖やな」
「というか古宿さん呟き見ましたよ。サブの編集者さん、入るって。なんかあったんですか」
「人員不足やて。毎月出さなあかん本の数が増えるわりに、人間少ないなってしまって、で、人入れて……まぁ、仕方ないわ。チャンスは増えてるかもしれへんけど、同じようにどんどんどんどん、数打ちゃ当たれ、自転車操業の流れ作業も増えるわけやし。それにサブの子、ええ子そうやしな……ほら、これ、その子のアカウント。かわええやろ、パンケーキ好きなんやって」
左月はどうやら、サブの編集者なるものと、プライベートのアカウント同士で繋がっているらしい。でも、左月が重要視しているメインの編集者とは、私的な連絡は一切取っていないようだ。
俺は妻とは、あまり私的な連絡を取らないようにしている。簡単に言えば政略結婚で、俺が一方的に想っているにすぎない。故に妻が息苦しくならないようにだ。
だから、妻の周りに置いている使用人や、店の弟子、売り子に妻の様子を逐一うかがっている。弟子たち曰く、妻は時折、俺の結婚相手が自分でいいのか心配したり、俺に見合うようになりたいと話すらしい。
可愛いなと思う。見合う、見合わないなんて、第三者の認識でしかない。見合わないと思う人間がいなくなれば、それで終わりだ。逆に妻が俺に見合うことを嫌がるならば、「見合う」と定義する人間がいなくなればいいだけのこと。
人生はどうとでもなる。
「でも古宿さんのヒロインでパンケーキ食う女なんか一人も出てこないじゃないですか。過労死寸前で泣きながらカップ焼きそばとか食べたり、冷凍うどんにキムチぶち込んで鍋ごと食う女ばっかじゃないですか」
ソフトクリームを食べ終えた御上さんが口元を拭った。
俺は左月の話を読んだことがない。読んでほしいものは読めというし、読んでほしくないものは読むなと言う。それが左月だ。とはいえ、妻は俺の弟が書いたものだから、という理由で左月の話を読んでいるらしい。
俺の為に、本を読んでくれるなんて可愛い。
そこまでしてくれるなら、俺の為に死ぬくらい簡単なはずだ。
ぜひとも俺より末永く生きて幸せに安らかに寿命を全うして苦しくなく死んでほしい。
「ひーさんと相性良かったらそれでええよ」
「でも嫌いなタイプでしょ、軽くスクロールしただけでFKPぽこじゃが出てくるじゃないですか」
「FKP」
「古宿さん嫌いポイント……ほらこれ、面白い物語は数字じゃないって呟き、これ嫌いでしょ」
「そんなんないわ」
「……一発芸します。古宿さんが1位を取ったとき……数字やない言うのは勝手やけどな、僕の今までの発行部数だのブックマークの数を表記せず会議かけとるんかって言いたいんよこっちは、ちゃんと面白いと思うて打診してるんならええんよ、やれほかで取られたら嫌やとか、1位だったら打診して、1位取れるような話やったら出版社通さんで同人にしてしまったほうが取り分あるやろ、1位やったらそのまま出しても同人なら利益回収できるやろうし、なぁ」
「ひーさんに会う前の僕真似とるんか知らんけど、記憶ないわ」
左月は絶対言っていたけど、記憶を失くす気持ちは分かる。俺も妻を傷つけた人間の記憶がよく失くなる。「何故この店は潰れたのか」「長男次男と二人で店を切り盛りしていたはずだが、何故一人なのか」不思議に感じていると、たいてそれらが妻を傷つけた存在で、俺が動いたことを思い出す。
たとえば、俺の幼馴染であり、呉服屋の娘。
妻と結婚してしばらく経った頃に、俺とよく遊んでいて、妻が現れなければ結婚する予定だったなんて勝手なことを妻に言って、妻を傷つけた。
幼馴染とは疎遠だったのに、俺が妻を愛する様子を見て自分も、と思ったらしい。
理屈が分からず、また分からない理屈を持つ人間は怖かったこと、物産展も近かったので、探偵に素行調査を依頼して派手につぶした。確か探偵の名前は鷹亡だったと思う。このあたりに探偵事務所があったはずだ。
恨みを目的として調査依頼をすることは出来ないが、幸い向こうが俺への結婚を匂わせていたことでうまくいった。
ただ、旅館や呉服屋と、自分の周りの人間が消えていったことで、妻は自分が疫病神ではないか悩んでしまい、それだけは失敗だった。
「あれやわ、最近、見かけた新しい人、あれ御上くん合いそう、なんか、丁寧そうな人やったから。今ひーさんの下で修行中みたいなんやけど。名前が、なんやったっけ、天……天井みたいな感じで、女の子にきゃあきゃあ言われそうな顔やで」
「もうそれだけで無理だ。ドブ根暗童貞じゃない」
「ドブ根暗童貞かもしれへんやろ」
「顔のいい男は童貞にならない。暗くもならない。顔がいいというだけで恵まれが発生する。それが俺は憎い」
「じゃあ御上くん僕のこと憎いん?」
「一族ごと憎い。廻田も顔がいい、嫌いだ」
「血筋ごと褒めてくれはってんねやろうけど、目つきも言葉からも憎悪強すぎて複雑やな、ほら、お前も、褒められとるんやで、聞いとるんか」
「聞いてる」
話がふられ、俺はうなずく。
「希望と合ってなくても、好きになったら、色々変わると思う。俺の場合は、家内がそれだった」
当初、俺の希望は和菓子さえ作れればいい、というだけだった。だから妻に対しては、最初から何も望んでなかった。
でも今は違う。
和菓子がどうでもいいわけではないけど、妻がいてくれるのであれば、和菓子が作れなくなってもいい。
それしかない、それしかいらない、だけだった俺の人生に、少しだけ広がりを与えてくれた妻の存在があれば、和菓子がなくても、また、別にやりがいのありそうなものを見つけられそうだから。
「まぁ、右月の場合、先天的に人の心無いのが、嫁さん見つけて心のあったかいの得始めた感じやから、僕や御上くんみたいに後天的に失くしたタイプやないけどな」
左月が付け足す。心外だ。俺は妻に出会ってからというもの、ああ自分は冷たい人間だったんだなと思い知ってばかりだというのに。
「後天的?」
「おん、右月、和風シンデレラ溺愛物語の男みたいな生き方しとるんよ。今こいつ作っとる和菓子全部、嫁さんへの想いのあれこれ煮込みセットやけど」
左月は、「なぁ」と同意を求めてくる。和風シンデレラ溺愛物語。知らない。でも、シンデレラは知っている。0時になると、去る女。
男は花嫁を手に入れるために木を切り倒したりしていたから、確かにその通りだ。
俺はスマホを開き、妻に『本日はお疲れさまでした』と、送信する。
時刻は丁度、0時だ。すると、0時3分になった段階で、既読がつき『右月さんもお疲れ様です。おやすみなさい。』とメッセージがついた。シンデレラは0時に去るけど、彼女は違う。
結婚はゴールじゃないというけど、かといって物語の途中でもない。道のない、原っぱだと思う。好きに過ごして、二人で下がったりはぐれたりしながら進んでいく。
だから俺は、妻とともに在れたら嬉しい。
そして出来れば、原っぱの最果ては、石垣で囲まれていると、もっと嬉しい。




