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愛しの死にもの狂い 後編



●●●



 十四階建て。そのうちの五階までは吹き抜けで、柔らかな日差しで患者さんを照らすことが出来るよう建設された病院は、海に近いこともあり薬品と潮の香りが混ざった不思議な香りに包まれている。


 ふたりと私は、早々に分かれた。縁川天晴は、お兄さんのお見舞いへ行き、私は自分の身体の確認をする。遠岸楽はどうするのかと思っていれば、幽霊を探すなんて言っていなくなった。


 幽体を探し地獄への行き方を模索したいみたいだけど、生者と死者の区別も危ういところがある。


 手伝いを提案しようか悩んだものの、自分の身体とは一人で向き合いたかった。


 私の身体が、どうなっているのか。


 回復の見込みがあるのなら、たぶん縁川天晴は嬉々として報告してくる。でもそうじゃなかった。


 きっと逆だ。


 私は日差しの差し込む廊下を歩いて、自分の身体が置いてある病室へ向かう。中にはマネージャーと、その上司である統括チーフが話をしていた。遠目でも、統括チーフと私のマネージャーがスマホで私のアカウントを確認しているのが分かった。


「メンタルのフォローをしておけと言っただろう」


 統括チーフが呟く。


 なんとなく、スマホを覗き込むと私の事故に関するコメントが視界に映った。


『元々メンヘラだったのかー! わりと好きだったけど、もういいや』


『手首切らせておいてまだ叩いてる人いて流石に引く』


「すみません。まさか、果崎あかりが死のうとするなんて思っていなくて……」


 統括チーフの言葉に、マネージャーは頭を下げた。病室内にいるのは二人だけで、廊下にも人の気配はない。


「十分その気質を持っていただろう。責任感が強くてストイックな人間ほど極論に走る。君は前に、果崎は自己管理が徹底していて自分がマネージャーとして必要なのか分からなくなると言っていたじゃないか」


 統括チーフは、そんなことを思っていたのか。やがてチーフは、「CМの件だが」と、話題を変えた。


「先方の会社は果崎の代わりに、七星(ななほし)を起用したいらしい。話をすすめておけ」


「え……七星は売り出し中なのは分かります。でも、早すぎるんじゃ」


「話題性はあるだろ」


 統括チーフの言葉に、マネージャーは昏々と眠る私を見て、「果崎さんの夢だったのに」と肩を落とした。


 CМ出演は、私の夢だった。


 CDはお金を払う分、ファンの人の中でも買う人と、ほしくても買えない人が出てくる。ライブも行けない人がいる。


 でもCМなら、私がファンの皆のおかげでここまで来れたと皆に伝えることができると思った。


「話題になったとしても、商品の売り上げは……」


 マネージャーは食い下がる。統括チーフはため息を吐いた。


「見込めない。七星を話題にしている層と、今回のCМの購買層は完全に異なっている。化粧品だからな。果崎は20代〜30代の働くOLの人気もある。七星を支持している年齢層は20代と40代の男だ。だがスポンサーは傷のある果崎より無傷の七星が売れると思っている。私たちはそれに従うだけだ」


「なら、賛美遥( さんび はるか)はどうですか。彼女は」


「無理だ。社外に賛美が出演するかもしれないと情報を流した者がいた。そもそも賛美の熱愛情報も、その社員が流した可能性が高い。処分が決まるまで、賛美には何もさせられない」


 賛美遥の炎上は、社員の人によるもの……?


 大きく目を見開いていると、マネージャーが「どうして」と狼狽えた。


「なんで自社のアイドルにそんなこと……」


「犯人は七星のマネージャーだ。七星の人気を確立させるため、上位互換である果崎と賛美が邪魔だと思ったようだ。懲戒解雇にしたいところだが、裁判を起こされれば果崎と遥の検索のサジェストに名前と裁判が出る。他人の憧れになるような、広告の仕事は来なくなる。完全に証拠を押さえてその余地すら残せぬようにしなければいけない」


 アイドルの名前が、裁判の隣に出る。それだけで印象がもう悪くなってしまう。「ああ、裁判起こされたアイドルでしょ」なんてイメージは、絶対についてはいけない。


 静かな病室に、バイブレーションの音が響く。


 統括チーフは「もう行く」と、足早に去っていく。マネージャーも私を一瞥して、病室を後にした。誰もいなくなって、病室はしんと静まり返っている。


 時間が止まっているみたいだ。まぎれもなくこの世界が回っている証拠は、横たわる私の隣にある心拍数を知らせる機械しかない。


 もう目覚めるのは絶望的なのかもしれない。両親が臓器を移植すると決断するのは、いつになるだろう。


 私はそっと病室を出る。はじめにここで目が覚めた時より、落ち着いた気持ちだ。目を閉じると、縁川天晴の顔が浮かぶ。私の選択は正しかったはずだ。正しい。正しいはずなのに、迷いが生じているのがはっきり分かる。


 ──ついていきます。


 縁川天晴の声が離れない。今も果崎あかりの存在によって、誰かが死んでいるんじゃないかという想像が消えない。


「あかりちゃんだ!」


 手首を切った日を再現するかのように、私を呼ぶ声が響く。幻聴かもしれないと振り返ると、薄い水色のパジャマを着た幼い女の子が、点滴をつけたまま私を指さして走ってきた。


 危ないと手を差し出せば、柔らかい感触があった。


 触れる。


 思わずまじまじと見てしまう。女の子は五才……六歳くらいだろうか。点滴に繋がれた腕の脇にスケッチブックを挟んで、片手で私にぺたぺたと触れている。


「あ、あかりちゃん!」


 声のする方向に視線を向ければ、縁川天晴と遠岸楽が歩いてきた。この子は縁川天晴の知り合いかもしれない。


「この子、もしかして の──」


「いえ、知らない子です。どうやら遠岸が見えるみたいで、俺が用事済ませてる間に彼のお守りしてたみたいです」


「誰が構うんだよ。逆だろ、こいつがバカみたいに懐いてきて」


 女の子は、「おにいちゃん」と、遠岸楽の手を掴む。


 じゃあどうしてこの子は私たちを認識できるんだろう。縁川天晴は寺の血筋か何かが関係しているだろうけど……。


「この子、さくらちゃんっていうんですけどあかりちゃんのファンなんですよ! 将来有望ですよね」


 縁川天晴は、さくらちゃんのスケッチブックを指さした。


「あのねえ、いっぱい描いてるんだよ」


 彼女が笑みを浮かべながら、厚い用紙のページをゆっくりめくる。足し算の勉強もしているようで、あどけない計算の跡があった。


 傍らには四角ばった花丸がある。やがてページは擦られ、クレヨンで描かれたイラストが現れた。


 ぐるぐると薄橙の楕円に、二つの黒丸がついている。広々と伸びた手足に、紫と青のグラデーション。私の、CDデビューの衣装だ。 


「ありがとう……」


 さくらちゃんは、スケッチブックを切り取ろうとしていて、私の変化に気づかない。


 意識的に呼吸をして、心に降り積もる想いをなんとか流そうとしていれば、目の前に一枚の絵が差し出された。


「あげる! あとね、 サインほしい!」


 私は切り取られたページを見つめる。私は彼女に触れられる。でも、その紙に触ることは出来ない。ペンも握れない。なんとか理由を選んでいれば、縁川天晴が目の前に立った。


「あのね、さくらちゃん、あかりちゃんおてて痛い痛いなんです。だから僕が代わりに受け取っておきますね」


「そうなの? じゃああかりちゃんも手術するの?」


 あかりちゃんも。


 さくらちゃんは、手術をするのだろうか。縁川天晴は受け取って、「後で事務所に郵送しますね!」と、大切そうに絵を抱えた。


「治ったらサインちょーだい!」


「うん」


 叶えられない。


 さくらちゃんの笑顔が、苦しい。


 無いはずの心臓がずきずきして、痛い。私はすべて隠すように笑みを浮かべる。縁川天晴は、「ほんとうにいい子!」と、さくらちゃんの頭を撫でていた。


「将来有望ですよね。幼稚園のダンスであかりちゃんの曲が使われたらしくて、そこからずっとファンらしいですよ」


 縁川天晴は、すごく嬉しそうだ。「来期の総理大臣は決まりだ」なんて話を続ける。


「僕、自作グッズの作り方を教えてあげようと思うんです。まだ小さいし、お金で解決できない年だから。たくさん教えてあげなきゃ」


「いかれてるだろ」


 遠岸楽は、露骨にいやな顔をした。縁川天晴は、まじめな顔でさくらちゃんのそばにしゃがむ。


「あのね、切り取りあるでしょ? それをラミネートして、立てるようになるとスタンドができちゃうんだよ。買うと1500円くらいするけど、そのやり方だと100円くらいで出来るの。でもみんながそれするとあかりちゃんのスタンド出来なくなっちゃうから、大人になって自分でお金の管理できるようになったら買おうね。世界が変わって見えるから。推しとどこへでも行けるようになるよ。一緒にねんねもできるんだ。デコクッキー知ってる? 推しを食べられちゃうんだよ」


「う〜ん」


 さくらちゃんがきょとんとしているのを見て、私は慌てて止めた。


「しゃべり方が早いしそこまでしなくていいから」


「えーコンビニコピーでも作れる等身大パネル編に続いていくんですよ? エへへ、俺バレンタインの等身大パネル抽選外れちゃって……あったら毎晩一緒に寝ちゃう。アッ、へ、変な意味じゃないですけどね!」


「もういい。たぶん小さい子の前では黙ってた方がいいよ」


 おそるおそるさくらちゃんを見ると、遠岸楽が彼女の耳を押さえてあげていた。


「お兄ちゃん? どうしたの?」


「どうもしねえよー……あ、お前いっこ約束しろよ」


 遠岸楽は、さくらちゃんのそばでしゃがんだ。


「おいちびすけ。俺と似てるやつ、本とか新聞とかテレビで見ても絶対言うなよ」


「なんで?」


「俺は、すげえ悪いことして捕まったやつと顔がそっくりだから、それでいじめられたりしてる。だから俺と会話したってお前がほかのやつに言ったりすると、俺はぼっこぼこにされる。お前もぼっこぼこだ。黙っててくれるな?」


「わかったー!」


 さくらちゃんは両手を挙げて笑みを浮かべた。遠岸楽は「約束な」と彼女の頭をぽんぽん撫でる。


「さくらちゃーん? お熱はかるよー」


 後ろのほうで看護師さんがさくらちゃんの名前を呼ぶ。しかしさくらちゃんは、肩を震わせると反対方向へ走っていった。


「やあだー!」


「さくらちゃん! もう脱走しないって約束したでしょ」


 看護師さんは呆れ顔でさくらちゃんを追っていく。点滴をつけているから危ないんじゃないかとハラハラしたのも束の間、さくらちゃんはすぐ捕まった。


「やだー! あかりちゃん、おにーちゃんたち助けてー!!」


「よしよし、病院は人を助けるところだからね。大丈夫だから。……すみませんでした」


 看護師さんは縁川天晴に頭を下げると、さくらちゃんを連れて行く。脱走は日常茶飯事なのかもしれない。


 看護師さんは、さくらちゃんが目に見えない二人の人間にも助けを求めていることに気付いてない。


 運ばれていく小さな背中を見届けながら、私は呟いた。


「私も遠岸さんみたいにすれば良かった」


「何がですか? スーパー素晴らしいあかりちゃんが、ロリコンの何を見習う必要があるんですっ?」


「お前ぶっ殺すぞ」


 縁川天晴に、すぐ遠岸楽が噛みついた。私は二人を横目に、光の差し込む廊下を見つめる。


「私は、アイドルの果崎あかりじゃなくて、ただ似てる人だって言えばよかった」


 隠すこともしなかった。出来ない約束までしてしまった。


「テレビの奴見たって言ったっても、アイドルとかアニメのキャラなら親も心配しないだろ」


 遠岸楽が、あっけらかんと言う。


「どこまでも想定の人ですねえ」


 縁川天晴が、冷やかし混じりに笑った。


「俺は誰も信じてねえから。出来ることは全部しておく」


 また始まった二人の問答を眺めながら、私は細長い廊下を眺めた。さくらちゃんはまだ幼い。遠岸楽はこの短時間で彼女に名乗ることへのリスクを想像して、対処をした。誰も信じない彼は、不審者騒動の時、私たちに助けを求めた。


 縁川天晴は、遠岸楽や歩積さんを救った。


 人のために。


 私はファンの為に頑張ってきた。でもそれは、つもりでしかなかった。


 ──貴女がいなくなるのなら、僕はその後を追います。


 私は縁川天晴や──人の為に、何が出来るだろう。



●●●



 縁川天晴は、「週休二日は引きこもりにはきつい」と言ったその口で、「さくらちゃんがさみしがっているし英才教育が必要だから」なんて言って病院へ向かうようになった。遠岸楽も、「さくらちゃんが喜ぶから」と連れられている。


 私はなんとなく、彼らと別れ、自分の病室にいた。私の身体は相変わらず、起きる気配も死ぬ気配もない。


 しばらくしていると、マネージャーがやってきて、そばにあった水差しを手に取った。そのままぼんやりと窓を開くと、ひとりでにうなずいた。


「よし、記者もいないな」


 マネージャーは水差しを片手にその場を後にする。前より儚い背中を見送っていれば、こちらに向かってくる男の人が視界に入る。


 友人でも、事務所の人でもない。


 古びたジャケットに靴底が減り切ったブーツを履いた男の人──伏見さんは、辺りを伺いながら私の病室に滑り込んできた。


「よう。おじさんが来たぞう〜」


 彼は眠る私の身体を一瞥して、目を細める。


「お前さん……なんで自分で死のうとなんか……親御さんだって浮かばれねえだろうに……」


 苦々しく言って、頭をばりばりと掻いた。マネージャーが戻ってこないか、緊張感に襲われる。


 この人が病室に来てくれたことは、問題がない。でも彼の職業上、間違いなく問題にされる。


 早く帰ってほしいと祈っていれば、伏見さんは探し物を始めた。「カメラとか取り付けられてねえか」なんて、引き出しを音を立てながら乱雑に開ける。


 ベットの器具や裏を触り、靴を脱いでそばにあった椅子に乗り天井に触れようとしたところで、病室の扉がガラリと開く。


「な、なにしてるんですか!?」


 入ってきた縁川天晴は素早くナースコールに飛びついた。伏見さんは「いっけね」と慌てて椅子から飛び降り、靴を両手に病室を出ていく。縁川天晴は、すぐに私の方へ飛んできた。


「大丈夫でしたか? なにもされませんでしたか?」


「あっち、私のこと見えてないよ」


「じゃ、じゃあお身体は?」


「何もない」


 縁川天晴は、ほっとした様子で「良かったあ」としゃがみこんだ。


 伏見さんは、洋服にお金はかけたくないと言っていた。服装だって前と同じだった。


 リークの写真を縁川天晴が見てないはずがない。


 それに伏見さんはカメラだって提げていたのだ。気づかないはずがないだろう。


 あの日、私と一緒に撮られた記者だって。


「なんで聞かないの」


「何がですか?」


 思えば縁川天晴は一度も私に問いかけなかった。本当のところはどうなのか。リークしたのかしてないのか。


 それが救いと感じる反面、縁川天晴が実際のところ私をどう思っているのか、知らないままだった。


「聞かないの。記者がどうして、病室に来たかとか」


「はい。僕は貴女を信じていますから」


 明るく返され、どんな顔をしていいかわからなくなる。


「でも、遥のこと報じた出版社の人間だよ。しかも、芸能部門の」


 言わなくていいことまで、伝えてしまう。


 縁川天晴には揃っているのだ。私を測る材料が。


 悪意ある切り抜き動画に、根拠のないコメントの数々なんて関係ない。大元の私のスクープ画像は、何一つ加工はされていなかった。


 加工はされていないからこそ、ここまでの騒動になっている。そして私と一緒に喫茶店でお茶をしていた記者が、病室に現れた。


「はい。僕は貴女を信じています。心の悪い僕を、貴女だけが救ってくれたから」


 なのに、縁川天晴は屈託なく笑う。


「根拠のない信頼が、信じられないなら、僕の稚拙な推理を聞いてもらっていいですか」


「なに」


「僕は貴女の、ブログ、つぶやき、インタビュー、全部網羅してます。網羅してるからこそ分かることがあるんです。記者が、貴女の何を気にしていたか」


 そういわれた瞬間、最初から全部縁川天晴は知っていると悟った。


 隠しきれたつもりだった。すべて、誰かに読んでもらえていることを想定していた。言えないことがある分、嘘はつきたくなかった。


 完全だと思っていたのに。


「親御さんの話を、僕は貴女から聞いたことがない」


 判決を告げられるような思いがした。


 縁川天晴は、静かに話す。きっと彼自身、問いかけるつもりなどなかったのだろう。私は彼を暴こうとして、逆に今、暴かれる。


「みんな知らないことを、記者さんはスクープとして取り上げます。だから、そうなんじゃないかなって思ってました」


 何から説明しようか、考える。


 いつか縁川天晴に話す時がくる気はしていた。


 とぼけ続けるには 一緒にいすぎた。


「私は自分の顔が、分からない。親は、ずっと褒めてた」


 でも、それでもまだ躊躇いがあるのか、覚悟が足りなかったのか、不鮮明な導入を選んでしまう。


「自分の顔、最初からどう見えるか分からなかったんだ。両親は可愛いって言ってくれる。その言葉は信じられたけど、可愛いけど何考えてるか分からないから嫌いって言う男子もいれば、ブスじゃんって叩いてくる女子もいる。小さいころも、今も」


「それは、嫉妬じゃ……」


「でも、親だけはずっと可愛いって言ってて、私小さいころから何しても下手くそでさ、絵も描けないし、足も遅いし」


 小さいころ、本当に何もできなかった。言われたことの、半分くらいしか出来なくて、出来たと思ったら前提から違う、なんてことがいくつもあった。


「お父さんとお母さんは褒めてくれたけど、たぶん親だから、私が何してても嬉しいっていうのがあったんだと思う。だから、可愛いだけとか、何にもできないくせにって言われることが増えていった」


 いわゆる、親バカというやつなのかもしれない。


 それでもなお、両親は「あかりはすごい」「才能に溢れてる」なんて、ずっと言っていた。親戚が呆れるくらい、何度も。


「だからお母さんとお父さんの言う、あかりはすごいって言葉を、本物にしたくて、勉強したり走ったりしてた。でも、あんまりいい結果は出なかった」


 私は、家族が生きていたころを思い出す。地元のカラオケ大会で賞を取ったり、小学校の合唱祭で、ソロパートを歌わせてもらった。両親は嬉しそうに私の姿をビデオカメラに収めていた。


 だんだんお父さんとお母さんは、アイドルできるんじゃない? なんて私に言うようになった。


 事務所に履歴書送ってみようかなんて話をしていて、どの事務所がいいか選んでいた。


 でも、二人とも死んでしまった。大雨だった。


 学校にいた私だけ、生き残った。二人とも、それぞれ別の職場で働いていたのに、一緒に死んでしまった。


「だから、アイドルを目指したの。お父さんもお母さんも、目、きらきらさせてたから。それが生き残った理由なんじゃないかって。そう考えないと、生きていけなかった」


 そうして、ただひたすら両親の期待に応えたくて頑張っていた私を、応援してくれたファンの人たちに、だんだんと恩返しがしたい気持ちが芽生えた。


 私たちの間には推しという感情が入る。


 芸能事務所に所属した以上、こちらが受けて、ファンの人の時間もお金も貰うばかりだ。


 だから、みんなが見れるCМに出て、みんなに結果を見せたかった。


 貴方たちのおかげでこうなれたと伝えたかった。


 でもそれは言わない。


「記者の人は、たぶん私と遥を、二手に分かれて調べてた。あっちは、ドラマが内定してたから。私は付き合ってる人もいないし、付き合ってると思われるような人もいなかった。何か他にスクープはないか調べて、行き着いた先が私の両親のことだったんだと思う。それで、私単独に連絡が来た。警戒したけど、その記者さん、私と地元が一緒だったって聞いて、会うことにした」


 記者さんは、本当にまともな人だった。


 私の素性を調べて、家族について隠していることを察したらしい。


「記者さんも、同じ日に家族がいなくなったらしい」


 私の素性を調べ上げたことは許せない。


 でも、人の道を踏み外しても仕事に打ち込みたい気持ちも、どうしても理解できてしまう。


 それはあちらも同じだった。


 どうして公表しないのか、聞かれなかった。


 それだけで、信頼してもいいと思った。


「私は何かの象徴になりたくなかった。元気がない、つらい時を忘れさせてくれるものでいたかった。尊敬も、同情もいらない。何も考えずに見ることのできる存在でいたかった」


 そう伝えると、記者さんは記事にしないと約束してくれた。


 だから、安心していた。


 気も緩んでいたと思う。


 その写真が、同期をリークしているなんて扱い方をされるなんて、微塵も思っていなかった。


「リークはしてない。でも私は、両親のためにアイドルになった。皆を笑顔にさせるためとか、元気づけたいとか、そんな高尚な理由でアイドルになったわけじゃない」


 もう夢への道はぐちゃぐちゃに壊れた。


 足場なんて消えて、私は地の底にいる。


 なのに縁川天晴は私を照らそうとしてくれた。だからこそ、彼は彼の人生を歩んでほしい。


「俺は……ヲタクは、どんな推しでも受け止めますよ」


「天晴」


「俺は、貴女を推しているんです。他でもない果崎あかりを推しているんです。代わりなんていないし、いらない。貴女の目的も過去も未来も、すべて受け止めます。貴女が辛いぶんも受け止めます。きっと苦しいことがあるんだろうなって知ったかぶりもします。ちゃんと食べてるかなって、健康でいてほしいなって、おせっかいも焼きます」


 縁川天晴は、私の手に自分の手をかざした。


「そうやって、死ぬまで、死んでも、推していきます」


 眩しい、と思った。


 アイドルは、スポットライトを浴びて舞台で輝く。でも、私にとっての光は、彼らだ。


 推してくれてるみんなが、私の光だ。


 元気を与えたいと言いながら、元気をもらっていたのは私の方だ。


 私は、見ないふりをした。


 ファンの人を信じることが、途中で出来なくなった。もう私には誰もいない。ステージに立てない。どこにも居場所がない。そう思って、死のうとした。


 裏切った。


 それでもまだ、生きていたいとはどうしても思えない。


 それでも確かにあのステージへ戻りたいと、思ってしまっている。


 戻る場所なんてどこにもないのに。


 なんて言葉を返せばいいか分からない。ありがとうという事すら、言っていい資格があるのか迷うのに、縁川天晴はいつだってすぐ、真っすぐに気持ちを伝えてくる。


「でも、匂わせたりされたら、ちょっと心がちくちくするかもしれません……」


 縁川天晴は唇を尖らせる。震えるほど軽口に救われる。


「そんなことしないよ」


 ようやく声に出せた言葉は、なんの意味もないような約束だった。


 そもそもしようと思ってもできない。もう私は生きてない。


 強く雨が窓をたたいている。不思議と息苦しさは消えていた。



●●●



「なんで保育士でもねえのに俺が面倒見なきゃいけねえんだよ、国家資格受けた覚えもねえぞ」


 縁川天晴と一緒に廊下に出ると、遠岸楽がさくらちゃんにあやとりを教えていた。一緒にいたらしい。


「お兄ちゃん、私と遊ぶのいやなの」


「別に嫌じゃねえよ」


 遠岸楽は面倒くさそうにしつつも、さくらちゃんに向けるまなざしは優しい。


「お兄ちゃんに遊んでもらってたの?」


「うん! かくれんぼに、あやとりしたの! お絵かきもしたよ!」


「良かったねぇ」


 私は思わずさくらちゃんの頭を撫でた。彼女の柔らかな髪に触れていると、背中から、驚き交じりの声がかかった。


 振り返ると四十代くらいの白衣を着た男性のお医者さんが、ぱたぱたとこちらにかけてきた。


「さくらちゃん、看護師さんたちがみんな探してたよ。どうしたの?」


 お医者さんは、目を凝らすように私や遠岸楽を見る。


 お医者さんは、見覚えがあった。記憶を辿れば、私がこの病院に運び込まれたとき、廊下で勝手に透けてしまった相手だと思い出した。


 そうだ、あの時私はこの人と物理的にすれ違って、自分の身体が人に触れられないのだと知ったのだ。


「あ、噺田(はなしだ)せんせー! あのね、あのせんせーがわたしのしゅじいのお医者さんなんだよ」


 そういいながら、さくらちゃんは私と遠岸楽にも目を合わせてくる。見えない誰かを見ているのは一目瞭然で、先生の顔がさらに険しくなった。


 けれど先生はすぐに笑みを浮かべ、さくらちゃんに病室へ戻るよう促し、縁川天晴へ振り返った。


「縁川くん、さくらちゃんと知り合いだったのかい?」


「はい。たまたま彼女と会って……噺田先生の患者さんだったんですね」


 先生は頷きながら、「今月いっぱいだけどね」とほほ笑む。


「今月……?」


「ああ。退職するんだ。だからこそ、問題があって……。さくらちゃん、手術を控えているんだけど、僕じゃないと成功しないとか、成功しないと好きなアイドルのライブにいけないから嫌だって、大変で……」


 噺田先生は言葉を濁す。


「先生が手術しないなら、私手術しないもん! 絶対やだ!」


 さくらちゃんはべーっと舌を出して走って行ってしまう。


「ごめん、行かなきゃ」


 先生は、さくらちゃんを追いかける。遠岸楽があきれ顔で、「ちびすけ……」と呟いた。その視線は穏やかで、優しい。


「ロリコンですか?」


「は?」


 縁川天晴の疑いの目に対抗して、遠岸楽も睨みを利かせた。しかし怯むことなく縁川天晴は彼を見据える。


「だって完全に少女漫画の一コマみたいでしたよ。相手が同い年ならまだしも六歳のいたいけな少女相手にその視線はもう、恐ろしいですよ。俺が父親だったら、ゾッゾゾゾゾッってなりますよ」


「そんなわけねえだろ殺すぞ」


 二人のやりとりを眺めながら、私はさくらちゃんと噺田先生が走っていった廊下へ振り返る。


 思えば私が手首を切った日、噺田先生が私をすり抜けた日、先生は確か病室へ声をかけた後、看護師さんと話をしていた。


 手術しないと、助からない。でも、もう自分は手術できない。


 あの日確かに、先生は言っていた。


 さくらちゃんの、病室の前で。


「私、ライブしよっかな」


 ぱっと口に出た言葉に気づいて、自分の口元を押さえる。


 地面に視線を落として、クリーム色の床をただただ眺めた。


 なんて身勝手なことを言ってしまったんだろう。


 こんな状態なのに


 私は二人がどんな反応をしているのか不安で、訂正の言葉を発するために、おそるおそる顔を上げる。


「え…天」


 二人とも、呆れたり、拒絶している様子はない。


 怒っても、悲しんでもいない。それだけで救われている。なのに、


「最高ですね!」


「いいんじゃねえの」


 二人とも、笑顔だった。



◯◯◯



「音響どうしましょう! 機材をレンタルする業者とか」


「病院だぞお前。そこら辺の公園じゃねえんだから」


 病院から帰って、さっそくどうやってさくらちゃんにライブを見せるか、縁側で作戦会議を開くことになった。


 いつも居間にいる縁川天晴のおばあちゃんやおじいちゃんは、今日はデイサービスにより介護施設に行っているらしい。


 老人ホームとはまた違い、高齢になった人がみんなで絵を描いたり身体を動かして過ごす場所だと聞いた。


「今、公園は子供がはしゃぐ声すら苦情が来るんですよ。公園でコンサートなんてできるわけないじゃないですか」


「なら病院でできるわけねえだろ」


 遠岸楽が一喝する。ライブをしたいとは言ったけれど、場所は病院だ。それも私はさくらちゃんにしか見えていないから、許可どりもできない。


「屋上とかが開いてたらいいんだけどな……」


 屋上なら、天気に左右されるといえどライブはしやすい。


「確かに出れるなら一番騒いでも文句言われねえか」


 遠岸楽は納得した様子で頷き、ハッとした。


「でも屋上ってそうやすやすと出れるもんじゃなくね?」


「大丈夫です。遠淵先生に頼めば開けてくれますし、日中なら許可も下りるはずですよ。僕でよければ先生に掛け合います」


 許可が、下りる……?


「悪いけどお願いしてもいいかな……」


「もちろんです! 推しのお願いは全部叶えますよ!」


 朗らかな声に、救われると同時に身勝手な苦しみを覚える。


 背にしているのは障子で、明るさは隔てられているはずなのに、縁川天晴が見え辛い。


「それに、貴女のライブに携わることが出来るなんて光栄です。夢みたいです」


「ありがとう……」


 アイドルを、輝かせるため。メイクさんに、照明、衣装係、音声さん、小道具、ライブだったらステージを動かす……数え切れないほどのスタッフさんの力で、私はアイドルとしてステージに立っていた。


 誰かの協力なしには、アイドルになれない。その感覚を、思い出す。


「音響どうしましょう? スピーカーとか借りてきましょうか?」


「スマホでいいよ。あんまり煩くしたら迷惑だし、ただでさえ、迷惑なことではあるわけだし」


 でも、さくらちゃんは私のファンだ。私のライブを見て手術に前向きになるのなら、歌いたい。


 ちゃんと歌えるか、わからないけど……。


「それに、道具より、私が練習ちゃんとしないと。発声練習も全然してなかったし……」


 一日何もしなかっただけでも、衰えていることがはっきり分かっていた。


 それを私は何回繰り返してきたんだろう。カレンダーを見ると、もう冬に入りかけていた。


 死に損なっておいて、時間がないというのも変だけれど、私はいつ死ぬかわからない。目標ができて、身近な死を実感する。


 私は二人と話し合いながら、カレンダーの期日に注意を向けていた。



◯◯◯



 ライブをするまで、することは山積みだった。喉の調子を整えることに、発声練習に。この身体は半透明で、いわば私は幽霊でしかない。なのに少し歌っただけで簡単に声は掠れて、息も続かなくなっていた。


 手首を切って身体にダメージを与えたから、なんて可能性に逃げるよりも、ずっとアイドルとして切磋琢磨していた日々から離れていた実感のほうが強くて、焦りを覚えた。


 だから、私は皆が寝静まってから、ボイストレーニングをすることにした。場所はお墓だ。


 私が見えてしまったら誰かを怖がらせてしまうから、なるべく奥まったところを選んだ。


 音程を確認しながら、当日歌う曲の音程を確認する。歌える音域がかなり狭まってしまった。曲に関係ない音程は、一旦置いておかなければ間に合わない。


 ひやりとした空気に包まれ、月を見上げながら歌う。


 木々と土と、お線香の匂いがする。夜、寝る前に窓を開けてぼんやり外を見上げるのが好きだった。月明かりに部屋が照らされると、なんとなく安心した。


 強い光は好きじゃなかったはずなのに、アイドルの仕事を初めて光というものが好きになった。青空というだけで救われるような気持ちがして、私をあの雨音から遠ざけてくれていた。


「お前怨霊みたいなことすんなよ。いざ復帰したら、休止中墓地で徘徊してたなんてクソみたいなゴシップじゃねえの」


 振り返ると、墓地の隙間に遠岸楽が佇んでいた。そう言うけれど、気だるげな視線も相まって遠岸楽の方が怨霊に見える。本質は真逆だけど。


「歌の練習だから見逃してほしい」


「そもそも捕まえには来てねえよ。俺はお前ヲタクに頼まれて来ただけ」


 お前ヲタク。


 その言葉だけで、遠岸楽が誰に頼まれたか分かった。


 起こしてしまったり、睡眠を妨害するのが嫌だから黙っていたのに。


「そっか……」


 ヲタクなら、歌の練習の場に来ないのか。邪魔をしないよう、気を遣ってくれたのかと納得して、私は明かりの消えた母屋に視線を向ける。


「アイドルって共演者の男と連絡先交換したりすんの」


 突然話題が変わり、私は戸惑った。


「え」


「ほかに男いないなら、あいつと今のうちに連絡先交換しておけばって思って」


 ぱっと投げかけられた言葉に、返事ができない。誰を指しているかは明白で答えを選んでいれば、遠岸楽が追撃をかける。


「意識戻って、早々会えたり出来ねえだろ。芸能人と一般人が」


 それは、よく分かっている。


 でも私は、あの身体に戻らない。


 私はこの世から離れることを選んだ。選択をして、後を決めるのはもう私じゃない。


「でも、戻るか分からないし」


「戻らねえとおかしいだろ。お前何もしてねえのに」


 焦りを伴いながら、遠岸楽は言う。


 何もしてない。


 今まで遠岸楽は、私の炎上に関して口にしなかった。知らないはずだった。何かで、知ったのか。縁川天晴が言った? 突然私の内情を言うようには、とても思えない。


「なんで、突然」


「病院で、芸能新聞読んでるジジイ見た。でも、お前が誰かのこといじめるようには見えない。どう見てもされて泣く側だろ」


 遠岸楽は、私に指を指す。


「お前と会って、たいして日も経ってない俺が分かるんだから、ほかの奴らも黙ってるだけでお前がそんなことしてねえってわかってんだろ。浅い馬鹿みたいな噂話で分かった気になってる奴らのことばっか、耳傾けてんじゃねえよ。お前のこと好きな奴らだっているだろ。お前のヲタクが最もな例だろ」


「……」


「世界中を敵に回してもなんて言うけど、どんなゴミカスだって好きだっていう奴は絶対一人はいるんだよ。そもそも世界中敵にするなんてありもしねえことだから、誰でも彼でも使う言葉になってんだよ。こんな俺だって、おじさん、おばさんに、確かに好きだって思ってもらえてたんだよ。まぁ、おばさんは今俺のこと、大嫌いだろうけど──」


 遠岸楽は視線を落とした。


「うまいこと一つも言えねえな。もっと、生きてるうちにおじさんとかおばさんだけじゃなく、ちゃんと人付き合いしておけば良かった」


「そんなことないよ。遠岸さんは、私よりずっと人として出来てる」


「人として出来てるやつが恩人の死体ぐちゃぐちゃにしねえよ」


 声色に揺らぎを感じる。


 もしかしたら彼は、自分の選びとった方法に、後悔が生じ始めているのかもしれない。


 自分がなにかを話すときも、こんな風に人に知られてしまうものなのかと、怖くなる。


「俺は、もっと頭いい方法で、じいさんとばあさん守る方法があったんじゃねえかって、最近は思ってる」


 綺麗に、ちゃんと。


 そう続けて、遠岸楽は黙った。


 私は歌の練習を再開して、さくらちゃんを生かすライブに思いを馳せる。


 後悔。


 縁川天晴に関わるたびに、思い浮かぶ言葉だった。



●●●



 初めてのライブは、200人が入るライブハウスだった。


 お客さんは26人来てくれた。マネージャーは肩を落としていたけど、26人も、私の歌を聴くために来てくれたと思うと嬉しかった。でも、その26人のお客さんたちは動員数が少ないことを私が気にするんじゃないかと不安に思っていて、私はもうそんな心配をかけたくないと思った。


 せめて、今日来てよかったと思ってもらえるように。次も来たいと思ってもらえるように、精一杯歌った。


 私を実際に推しているその26人を見て、両親がいなくなって、初めて生きてる実感を覚えた日だった。


 その26人のうち、コンサートで顔を見かける人もいれば、見かけなくなってしまった人もいる。私を好きじゃなくなった、ならいい。元気で、いてくれたらいい。人には生活がある。


 ライブの前、かならず私は初めてのライブに来てくれた人たちの顔を思い出す。そうして、ステージに立つ。


 さくらちゃんの前でも、同じように。


「今日は果崎あかりの特別ライブに来てくれてありがとう!」


 笑顔を浮かべて、私は縁川天晴と遠岸楽が作ってくれた台の上へと立つ。一枚板を何枚も組み合わせて作ったお手製のステージは、サイリウムを重ねたことで輝いていた。


 天候は晴れで、太陽光のスポットライトが私を照らしている。


 目の前にいるのは、さくらちゃんと縁川天晴、遠岸楽に、噺田先生だった。先生が見ていること、そして屋上にいるのは十五分だけという条件によって、この屋上を借りることも、ライブを見せることも出来た。


 音源はスマホだし、物に触れないからマイクもない。でも、私が声を上げても、病院の人たちに聞こえないというメリットがある。


「さくらちゃんが、手術頑張ろうって思ってもらえるように、精一杯歌います!」


 私は手を握りしめマイクに見立てて、観客席へと手を振る。縁川天晴は団扇を胸にあて、規定通りの応援方法をとっていた。貸してあげたのか、さくらちゃんも持っている。


「では、一曲目!」


 私がそう言うと、すかさず縁川天晴が曲を流した。メジャーデビューをして初めて貰った曲は、片思いのクラスメイトに恋文を送る男の子の想いがモチーフの曲だ。


 字が汚いとか、そもそも夏目漱石の告白って相手に通じるかなと試行錯誤して、やっぱりLINE使ったほうがいいかなと恋心や自意識に迷走するさまを、アップテンポなピアノのメロディラインにのせて歌う。


 サビの高音がとにかく難しくて、完璧に歌えるようになるまで何か月もかかってしまった。だからきちんと歌えるようになって、ライブに来てくれた人に拍手をもらった時は、本当に心の底から嬉しかった。


 あの日の想いが蘇りながら、私はどうかさくらちゃんが手術を受けられるよう、心を込めて歌う。全力で、これが最後かもしれないと後ろ向きになりそうな思考を逸らして、目の前の皆に集中する。


 そのまま歌い切ると、縁川天晴が拍手を始めた。さくらちゃんも、遠岸楽もしている。見えていないはずの先生も、場の空気に合わせてか拍手をしていた。


「次は、二曲目です」


 二曲目は、ラウドロック調の曲だ。伴奏が再生されているのを待っていれば、縁川天晴が焦った顔をする。「アプリごと死んでる」と、縁川天晴の代わりに遠岸楽が首を横に振った。


 マシンのトラブルは、慣れてる。私は笑みを浮かべて、ウインクをしながら前を見据えた。


 衣装は一曲目のさわやかな水色のセーラー服から、真っ黒なワンピースに変わった。この曲から、徐々に知名度が出て仕事が増えてきた。


 初めてのライブで動員数が半分にも満たなかったことで、ファンの皆と会えるイベントが忌避されるようになってしまったけれど、このCDが初めてランキングに入って、三曲目のCDに握手券がつき、皆と会える機会が復活した。


 久しぶりに生でファンの人たちと話ができる機会が貰えて本当にうれしかったし、握手して、ああ、確かに相手は生きているのだと実感が出来た。


 そのことを思い出すと、涙がにじみそうになる。この曲は強さを出す曲で、恋に破れた女の子がそれでも忘れられない、好きだと相手を求める曲だ。


 でも相手には好きな人がいて、迷惑はかけられないからと自分の恋心を殺しに行く。


 恋をしたことはなかった。想像して、歌う。人を想う気持ちは、両親が消えたことで失われたと思っていた。ファンの人たちに出会って、生きる意味を再確認できた。


 私は、さくらちゃんに、生きててほしい。今まで応援してくれた分の、恩返しがしたい。


 生きててほしいと願いながら、歌う。自分は生きることをやめたのに。でも今は、目の前の彼女を想って、歌う。歌って、触れられない背中を押したい。


 喉に痛みを覚えながら、私は二曲目を伴奏なしで歌い上げた。 さくらちゃんに向かって。


 私は、恋を知らない。アイドルは恋を叶えてはいけない。知っていても、知らないふりをするのが仕事だ。


 輝いて、皆に光を届ける。


 それが私の、仕事だ。



◯◯◯



「今日は私の曲を聴いてくれてありがとう!」


 二曲を歌い終え、終わりの時間になった。十分が、永遠にも一瞬にも感じた。縁川天晴は、割れんばかりに何度も手を叩いて、興奮している。さくらちゃんも目を輝かせ、「すごい! すごい!」と私を見ていた。


「手術頑張る! 元気になってライブ行く!」


「うん! 待ってるね!」


 叶えられない約束に、笑顔で嘘をつく。さくらちゃんは、生きててほしい。私の死を理解したら、どう思うだろう。ないはずの心臓が痛い。


「先生、ライブさせてくれてありがとう!」


 さくらちゃんは、隣にいた先生に声をかけた。私の見えない先生には、今のライブがどう見えているのだろう。そもそも、縁川天晴は、どう説得したのか。問いかけても、教えてくれなかった。


 ふいに、先生に視線を向ける。不思議と目線があった気がした。


「あ、もう時間だ!」


 噺田先生は、ぱっと私から視線を反らし、時計を見ながら撤収を促す。


 この場で撤収を手伝えるのは、縁川天晴しかいない。


 彼にばかり負担を強いることに心を痛めながらも、私はさくらちゃんが手術に前向きになってくれたことに安心するとともに、久しぶりの歌に不思議な高揚を覚えていた。




 徐々に夜に浸食されていく夕焼けを眺めながら、ゆっくりとお寺に向かって歩いていく。ライブを終えた私たちは、三人並んで帰ることになった。


 遠くでは烏の鳴き声が聞こえて、人々は両手をこすり合わせながら帰路を急いでいた。


「なんか、結構良かったわ。歌とかダンスとか」


 ぽつりと遠岸楽が呟く。「エェ〜? 上からすぎません!?」とつっかかろうとする縁川天晴を押さえつつ、私は二人にお礼を伝える。


「今日はありがとう」


「全然! 最高でした!」


「おー」


 遠岸楽は、どこかぼんやりしていた。何か話題を変えたほうがいいかと、私は縁川天晴に声をかけた。


「結局、先生のことどうやって説得したの」


「秘密です。男同士の約束なので」


「なら、遠岸も知ってるの?」


 彼に問いかけると、遠岸楽は得意げに「まあな」と返した。


 私だけが知らないのか。


 わずかに寂しさを覚え、「そっか」と目を細める。


「でも、本当にありがとう。ライブさせてくれて。さくらちゃん、手術受ける気になってくれたし、本当によかった」


 でも、出来ない約束をしてしまったことが、心残りだ。


 気を落としていることを悟られないよう、私は夕日を眺める。


「はい。あっ、俺も次のライブ、楽しみにしてますからね!」


 追い打ちをかけられ、今度は声も出せずに頷いた。さくらちゃんも、縁川天晴も、遠岸楽も、私を生き返ると思っている。そのことが心苦しい。


 死のうとしたことは、間違っていたのかもしれないと思ってしまうから。


「俺さ」


 誰も言葉を発さず寺に向かって歩いていると、遠岸楽が呟いた。さらさらと風が吹いて、遠岸楽の身体が透けて見えた。目を凝らす前に、彼が続ける。


「たぶんそのうち、消えるっぽいんだよな」


「え……」


 突然の告白に、時が止まったような錯覚を受けた。どうしてと考えて、ここ最近の、彼のらしくない言動を思い出す。


「最近、ちょっと透けててさ。指とか。なんとなく分かるんだよ。そのうち消えるって」


 遠岸楽の焦りは、こちらに踏み込んでくる態度は、自分に残された時間が少ないから。


 縁川天晴は、黙ったまま、言葉を紡がない。


「だから、お前ら二人に礼を言っておこうと思って。いつ消えるか、分かんねえからさ。俺、お前らと違って完全に死んでるから」


 完全に、死んでいる。


 確かに、もう彼の身体は焼かれ、骨になって納められている。


 でも、目の前にいる遠岸楽は。


 今ここに、いるのに。


「ありがとな。色々、お前らのおかげで、ただその辺り彷徨くんじゃなくて、すげえ色々考える時間が出来た」


「……」


 夕焼けを背に、屈託のない笑みが視界に映った。彼は、こんな風に笑うのか。いつも彼は、平然としながらも悲しみの気配を纏っていた。


 物言いは粗暴ながら落ち着いていて、夏が終わった秋の日差しのような人だった。


「お礼を言うのは、僕らだけでいいんですか?」


 それまでずっと黙っていた縁川天晴が、口を開いた。


 含みをもたせた声音に、私も遠岸楽も縁川天晴を見る。


「まだ、いるでしょう」


 縁川天晴はそっと墓地の中、遠岸楽のお墓へ指をさす。そこには、七十歳くらいの柔らかい色のセーターを着た女性が立っていた。


「貴方は、あかりちゃんを助けてくれた」


 縁川天晴の言葉を受けながら、遠岸楽は、女性へ視線を向けた。


「ばあちゃん」


 答え合わせをするように、遠岸楽が呟く。女性は彼が見えていないようで、視線を彷徨わせながらも必死に何かを探していた。


「いるのかい。楽」


 切なげな声色は、遠岸楽に憎しみなんて抱いていないことをはっきりと示していた。


 女性はもがくような足取りで、私たちの立つ方向へ視線を向ける。大切なひとを探す瞳をしていた。


「なんで……」


「歩積さんが、墓参りしないかって会いに行ったらしいです。見知らぬ男子高校生も会いに行って、楽がお婆さんのこと心配してるって言って、ついてくるほどには、貴方のことを想っているようですよ」


 縁川天晴の返答に、遠岸楽は声を震わせる。


「どうしてそんなことを……」


 しかし、「楽」と呼ぶ女性の声に、すぐそちらへ顔を向けた。


「わたしなぁ、絶対おかしいって、ずっと思ってたんだよ。本当は、あのひとが殺したんだろう。お前、なぁ、お前、お父さんの罪を被ったんだろう。虫一匹殺せないお前が、出来るわけないって、だからあんな、今まで聞いたことないような言葉でわたしたちのこと、守ろうとしたんだろう! なぁ!」


 女性は、とめどなく涙を溢れさせながら、ぺたぺたとお墓に触れる。墓石を通じて、彼に触れているみたいだ。


 遠岸楽はそんな様子を眺めながら、目に涙を溜めている。


「ばあさんいいんだよ。俺は、いいんだ。もう。そんな泣かないでくれよ」 


「お前、未来あったろう。いくらでもやり直せただろう。なんで死刑なんか。なんで、若かったのに。何でも、何でも戻れた。間違ったってよかったのにお前、私たちのことなんて守って死んじまうなんて、おかしいだろ。何でお前、生きててくれなかったんか」


「ばあちゃん……」


「わたしも父さんもどんな形であれ、お前に生きてて欲しかった……! 死んでほしくなんてなかった……! どんなお前でも……! 私たちはお前を、お前が好きだったのに……」


 お婆さんは腰を丸め、墓石の前で蹲る。


 震える手を合わせながら、祈るように目を閉じている。遠岸楽は、そっとお婆さんに近づいて、目の前にしゃがんだ。


「ごめん……死んで、ごめん」


 遠岸楽は、頭を下げる。親に叱られた子供のあどけなさを残しながら、静かに、何度も。


「ごめんな」


 そうして、そっとお婆さんの手に触れた。すると、お婆さんが、ふっと顔を上げる。


「いるのかい」


「え……」


 お婆さんの瞳は、遠岸楽を捉えていない。けれど気配は感じ取っているらしい。「いるんだろう」と、優しい声で呼びかける。


「お前、とんでもないことして……馬鹿な子だ……」


「ばあちゃん」


「役に立てなくて、ごめんね……」


 弱弱しい声に、遠岸楽は首を何度も横に振った。そんなことない。そんなわけあるかと繰り返しながら、お婆さんの手を取る。


「そんなことない。じいちゃんもばあちゃんも、すごい良くしてくれた。役に立てなかったのは俺の方だ。何にも恩返しが出来なかった。何にも、俺は返せなかった」


「あの世で、幸せになってくれ。頼む。次生まれ変わるとき、幸せでいてくれ。誰よりも、何よりも、自分の幸せだけ考えて、生きてくれ」


 言葉もなにも、噛み合っていない。


 一方通行だ。


 お互いそのもどかしさを堪えながら、お互いに別れを告げる。


「私も、あとどれくらい生きられるか分からないけど、そっちに行くからな」


「ばあさん、長生きしてくれ。幸せでいてくれ。頼む。こっちには来ないでくれ」


「さみしい思いはしないでくれよ、また、会いに来るから」


「元気で、地獄になんて来ないでくれ。さよなら、ばあちゃん」


 女性は別れの言葉を告げると、しばらくその場に蹲っていた。やがて夜が近づくと、自分の目元を掌で拭いながら、力強く立ち上がる。


 そのまま女性は、墓場から遠のいていく。


 残された形になった遠岸楽は、ただただ涙を流している。私と縁川天晴はそっと彼の隣に立ち、その背中に触れる。そうして気付いた。


 遠岸楽の背中は、わずかに発光して透けている。本人も分かっているらしい。口に出す前に、首を横に振った。


「時間みてえだな」


 遠岸楽は、ため息を吐きながら こちらへくるりと振り返る。


「俺が成仏できないの、未練だったみてえ。俺、やっぱ。ばーちゃんにさよならって言えなかったの、心残りだったっぽい。女々しいけど」


 柔らかく、困ったような笑みに、わざとらしいくらいの明るい声だった。今まではっきりと見えていたはずの肩は、ところどころ透けている。


「女々しいは失礼な表現ですよ。女性的なことは悪いことじゃない。むしろ兼ね備えている」


 ぴしゃりと、縁川天晴が指摘する。


「悪い。ちゃんとアレする。アップデートしていく。次は無いだろうけど」


「あるよ。絶対に」


 私が付け足すと、遠岸楽は首を横に振った。


「いや、どう考えても俺は地獄行きだろ。じいちゃんの死体も、じいちゃんが殺した奴の死体、もめちゃくちゃにしてんだから」


 死体損壊は罪だぞと、念押しまでしてくる。


 環境のせいにしたら、いけないんだと思う。でも彼は、環境さえまともであったら、普通に彼の恩人と出会えていたら、今もなお楽しく暮らしていたんじゃないかとどうしても思う。


 もっと、自分のことだけを生きていけるような場所で、生まれていたら。


「さくらに言っておいてくれねえか」


 改まった声色に、彼とこうして会話をするのは最後なのだろうと実感した。


「なんて」


「将来変な男に捕まるなよって」


「親面?」


 軽く返すと、遠岸楽は冗談交じりに否定した。


「違う。俺みたいなのがかっこいいって、明らかに男の趣味終わってんだろ。将来思いやられるわ」


「善処する。見分け方とか、わからないけど」


「ああ、アイドルだもんなお前。男っ気あっちゃいけねえもんな」


 思い出した様子で、遠岸楽は鼻で笑ってくる。不快には思わなかった。


「で、アイドルさんよ」


「何突然」


「炎上の鎮火目的で死ぬの、まぁそうするよなって言ったけど撤回するわ」


 まっすぐ見つめられた瞳に、ただ黙って言葉を待つ。


「お前は生きた方がいい。死なない方がいい。少なくともお前はやり直せる。お前の為に生きたいやつ、絶対いるだろ。そいつだけ見とけ。お前の隣に、お前は絶対リークもなんもしねえって、妄信信者がいるわけだし」


 私は、縁川天晴を見る。


 痛いところを突かれた。言い返せない。遠岸楽は矢継ぎ早に訴えてくる。


「お前まだ人も刺してないし、冤罪なんだろ? 遅くねえじゃん。絶対死ぬな。生きろ。お前が生きてるだけで、お前のこと叩いてるやつが苦しむなら、思う存分苦しませろ」


 苦しませろ。


 そんな暴論を言い放っているのに、その表情はどこまでも清々しいものだ。


 いつもより早口で力のこもった言葉に、終わりが近いのだと感じる。


「生きて、生き続けて、ずっとずっと生き残ってやれ。お前のこと叩いてる分だけ、そいつらは自分に時間を使えない。誰の為にもならない。惨めに死んでいくんだぜ。完全犯罪じゃねえか。何があってもしぶとく生き続けて、お前を叩くやつら全員自滅させて殺して、堂々と天国に行くんだよ」


 ばーか! と笑い交じりに、彼は光の泡になって消えていく。


 空に昇り、一面の青色に溶けていった。


 それまで彼が立っていた場所は、影一つなく太陽が照らしている。


「成仏、なのかな」


 ざあっと吹き荒れる風が風車を回しているのを横目に、縁川天晴に問う。


「間違いなくそうでしょう。あんな笑顔初めて見ましたよ。彼ずっと、お婆さんにお別れを告げられなかったことが、心残りだったんですね」


 大切な人に、お別れが言えなかった。


 その気持ちは、痛いほどわかる。行ってしまう前に、お別れが言いたかった。


 何で突然私の目の前から消えたの、どうして私のことを連れて行ってくれなかったの、残していくくらいなら行かないでよと、責める気持ちも、そんな自分に嫌気がさすことも。


 そして、何も言わず去りたくなる気持ちも、よくわかる。


 成仏したのだろうから喜ばしいことなのに。心の中に穴が空いたような、世界から取り残された喪失に駆られる。


「せめてあちらの世界では、安らかに在れるといいですね」


「そうだね」


 私は自分が消えるとき、きちんとお別れが言えるだろうか。


 縁川天晴を見た後、私は遠岸楽が消えた空を眺めていた。



◯◯◯



 遠岸楽が消えた翌日、私は一人で病院へ行くことにした。あれだけついて来ようとする縁川天晴は、ついてこなかった。


 普段平日に来れない患者さんだけを診ているらしい休日の病院の受付は静かで、それとは比例して入院病棟は相変わらずの喧騒を見せている。


 ぱたぱたと忙しなく、生かすために看護師さんもお医者さんも足を速め、人を生かす器具を運んでいた。


 さくらちゃんに、遠岸楽のことをどう説明していいか分からない。彼は遠くへ行ってしまったと言って、果たして納得するだろうか。


 私が両親を亡くしたとき、大人たちは両親について、遠くへ行ったと説明していた。でも幼心にもう会えないのだと悟った。


 みんな大人たちは私が幼いから、人の死を理解できないと思っていた。でも、理解していた。


 理解したうえで、反応が出来なかった。


 どうしていいか分からなくて、普通に、玄関とか、どこかへ行った先で顔を出すように思っていた。


 だって今まで、それまでずっと一緒にいたから。朝に一緒に朝食を食べたし、いってきますもいってらっしゃいも言った。その日のドラマの話もした。お母さんもお父さんも、今日死ぬなんて言ってくれなかった。


 遠岸楽も、今日消えるなんて言わなかった。私も、自分の手首を切るとき、何も言わなかった。


 じっと病床に横たわる自分を見つめる。この身体が、私のものであるという感覚すら最近は薄い。


 隣にある装置が私を生きているのだと周りに知らせている。この機械さえなければ、生きているか死んでいるかも分からない。


 踵を返して、硝子天井から光の降り注ぐ廊下を歩く。


 私は遠岸楽のように、心残りがあるから死ねないのだろうか。こんな風に幽体離脱をしているのは、心残りがあるから?


 思い当たる節が多すぎて、分からない。ただ今私が消えたとして、最も心残りなのは、


縁川天晴の存在だ。後を追うと繰り返している。私のせいで、彼を殺すことになる。


 でも、最近はそれだけが理由じゃない。


「君は──」


 振り返ると、さくらちゃんの主治医である噺田先生が目を見開いて立っていた。


 誰か私の前にいるのか、そういえば一番最初も私はこの人にぶつかりそうになっていた。


「果崎、あかりさん」


 視線を戻そうとして、足を止めた。


 私の身体は病室にある。この場で名前を呼ぶ必要はない。そもそも私の目の前にはただ長い廊下が伸びるばかりで、誰も存在していない。


 もう一度振り返る。


 先生は、まぎれもなく私を認識し、見ていた。



◯◯◯



「えっと、つまり君は、幽体離脱の状態と……?」


 あれから、私と先生はベンチに移動した。事情を説明すると、先生は比較的すんなりと事実を受け止めたらしく、疑うことなくこちらに問いかけてくる。


「まぁ、そうなると……思います」


「さくらちゃんが、やけに君の話をするから、もしかして病室に入り込んだのかと思っていたんだが……」


 やはり、さくらちゃんはかなり私について話をしていたらしい。ここが病院で、学校や幼稚園じゃないことが救いだ。幼くたっていじめはある。何があるかわからない。


「はい。彼女は私の姿が、はっきり見えているみたいで……その、この間までは、既に亡くなっている人も、一緒にいて、彼のことも見えていて」


「もしかして、きんきらのお兄ちゃん?」


「はい。彼と話をするのが好きだったみたいで……」


 それ以上、言葉が紡げなかった。


 一瞬であったけれど、遠岸楽と確かに友情に近しいものを感じていたんだと思う。そして今、彼が消えたことをいまいち受け止め切れていない。


「すみません」


「いいんだ。それで、君はどんな風に過ごして……?」


「えっと、縁川さんのところで、居候というか……」


「なるほど。縁川君の家か」


 先生は遠い目を夕日に向けた。彼の兄は、この病院に入院しているらしい。先生の態度からも、重い病気なのだろう。


 退院したという話も聞かなければ、症状についても聞かない。あれだけぺらぺら喋る縁川が、何一つ言わないのだ。


「君は、自分の容態についてどれくらい知っている?」


 ふいに、噺田先生が訊ねてきた。


「えっと、昏睡が続いていると……」


「その通りだ。このまま目を覚ます確率は、正直低いと言わざるをえない。でも、目を覚ましてもおかしくないくらい、君の今の状態は不鮮明で……だからこそ、今君がここにいることに納得するような……難しいが……」


 驚くことはなかったし、先生の気持ちもわかる。


 遠岸楽を見た以上、このままゆっくり死に向かって消えていく気がする。


 いつ目を覚ますかというのは、それこそ幻のような希望だろう。


「非科学的だが、戻れたりはしないのかい。こう、身体に入り込む形で」


「いえ、まったく、わからず……」


 物理的に、問題があるのか、それとも戻りたくないという気持ちの問題なのか。わからない。しばらくの間沈黙を感じていると、先生は「なぜ」と、重い声音で口を開いた。


「死んで、しまったんだ。まだ、若いのに」


 まだ若い。


 その次に言いたいのは、生きたくても生きられない人がいる、だろうか。


 先生は人を生かす仕事をしている。寿命以外で死を迎える人だって、前にする機会は多いだろう。


「死にたかったからです」


 私は答えた。


 生きたくても生きられない。それは痛いほど分かっている。分かっていてもなお、死にたかった。


 だから、手首を切った。


「そこまで死にたいと思うほど、君の仕事は責められるものなのか。さくらちゃんだって、君の話をするたび、ずっと笑顔だったのに」


「人の前に立つ仕事ですから、色んな声があって当たり前です。私は向いてなかった」


 いろんな声がある。そう思って頑張ってきた。私のことを好きな人がいれば嫌いな人もいる。


 でも、すべてが駄目になった。今まで気にならなかったすべてが、気になるようになった。


 結局のところ、私は向いてなかったのかもしれない。SNSだけじゃなく、この仕事にも。


 アイドルとしてみんなを笑顔にしたいけど、叩かれたくない、嫌われたくないと思うことは、私の勝手な我儘でしかない。


「本当に、そうなのか。違うんじゃないか」


 先生のまっすぐな疑問に、私は形容しがたい感覚に襲われた。


 常識を砕かれるようで、返事すら選べない。先生は矢継ぎ早に、言葉を投げかけてくる。


「だって、人の目に触れてるからって、酷いことを言っていい理由にはならないだろう。君たちと同じように、僕らも社会に属している。子供は学校に通う。仕事をしていても、仕事をしてなかったとしても、必ず誰かと関わらなきゃいけない。でも、誰かと関わる以上、酷いことを言われる覚悟を玄関先で問われるなんてことはないはずだ。外で酷いことを言われて傷つく人は、外出に向いてないなんてことはないだろう」


「でも」


「君に、知っておいてほしいことがある。目が覚めた時のために」


 大人に、仕事以外でこんなにも真剣に話をされるのは、何年ぶりだろう。反射的に喉が詰まって、肩に力がこもった。


「悪意のほうが、届くのがずっと速い。気を使う必要がないから。好きだと思って、相手を励ましたいと思って、そのまま最高速の好意を送る人は稀だ。スキルになりつつある。そういう人たちは、誇っていいくらい、本当に貴重だと思う」


 そして先生は、何かを覚悟した瞳で前を見据えた。


「僕は大学生のころ、手紙をもらったことがある」


「え……」


「人の好意が綴られていく過程を、見たことがあった。すごく時間をかけていた。考えながら、消しゴムで消したりして、何度も何度も試行錯誤していた様子だった。立場上受け取ることは出来なかったが、確かにうれしかった」


 手紙。


 長文のメッセージをもらうことが、あった。読むたび嬉しくて、何度も力をもらっていた。


「相手のことが好きで、好きで、でも迷惑をかけたくないと、相手に悪く思われたくはないから言葉を選ぶ。でも、すぐ好意を伝えられる人もいるように、考えて、どうやって相手が苦しむか言葉をじっくりと選んで攻撃する人もいたかもしれない。騒ぎに便乗して、お祭りのようにゲーム感覚で何かをいう人間もいたかもしれない。そして言葉は攻撃的であれど、きちんと君を想って厳しい言葉を投げかけている人もいただろう。すべて、僕の想像でしかない。でも、確実に言えることは」


 先生はそう言って私をまっすぐに見た。


「きっと君に、もっと励ましの言葉をかけたら良かった、考えていないで、ただ好きだと言えば良かったと思って後悔している人間が、必ずいる。不格好でも、泥臭くても、好きだとぶつけてしまえれば良かったと、思っているはずだ」


 後悔をしている人。


 思い浮かぶのは縁川天晴の笑顔だ。信号機が明滅するみたいに、こちらを呪う瞳も浮かぶ。


「死を選ぶほど苦しみぬいた君にこんなことを言うのは、不適切かもしれないけれど……」


「いえ……」


 先生はまた腕時計に視線を落とした。ベルトを付け替えたデザインに見える時計は、女性もののデザインだった。


「ああ、さくらちゃんに会っていくかい?」


「あ、はい」


 突然の提案に、反射で乗ってしまった。


 まだ、さくらちゃんに遠岸楽についてどうやって説明するかも決めてない。遠くへ行ったと言うべきか。手術前のさくらちゃんに、死を伴う言葉は使いたくない。悩んでいると、ちょうど彼女が駆けてきた。


「あーせんせー! 」


さくらちゃんはぶんぶんとこちらに手を振っている。スケッチブックを小脇に抱え、点滴も腕についているから転ばないかひやひやする。


 先生はすぐ立ち上がり、さくらちゃんを受け止めた。


「走ったら駄目だと言っただろう」


「でも、あかりちゃんに絵! 描いたから! ほら見て!」


 さくらちゃんはスケッチブックを開いてこちらに見せる。そこには、さくらちゃんと、私、縁川天晴に、遠岸楽が描かれていた。


 試していないけど、写真に私と遠岸楽は映れなかったと思う。けれどこうしてさくらちゃんと一緒にいたことが形として残ったことが、嬉しい。


 消えていく私は、さくらちゃんや縁川天晴に、痛みを与えてしまうのに。


 遠岸楽は喪失の瞬間を悟っていた。私に今その感覚はない。いずれ分かったとき、縁川天晴になんて言えばいいだろう。


 後は決して追わないでほしい。


 黙って消えても、身体が死ねば報道される。


「絵、描いてくれてありがとう」


「うん! あ、先生も描いたよ!」


 さくらちゃんは、ページをめくって先生に絵を見せた。何かの紙を持った先生が、佇む姿が描かれている。


 答案用紙、かもしれない。


 四角ばった花丸を注視していると、さくらちゃんが口元を抑え、笑い交じりに私に耳打ちしてくる。


「先生ねぇ、花丸かくの下手なの。かくかくしてるんだよ!」


「さくらちゃん、聞こえてるよ? それに先生は花丸描くの下手じゃないの。かくかくさせて、世界で一つだけの花丸にしてるの」


 先生とさくらちゃんのやり取りを横目に、私はそのしかくばった花丸に目を向ける。外側のぐるぐるが三角形になっている特徴的な花丸。


 この花丸。私は見たことが、ある。


 私を助けてくれて──恋心について語っていた、あの女性。


 たしか彼女は、恋文についても話をしていた。


 私に、懐かしい匂いがすると言っていた。


 そんな彼女が肌身離さず持っていた、あの栞。


 ここに描かれている花丸と、同じものだった。



◯◯◯



「僕らを襲った悪霊が、噺田先生の関係者?」


 家に帰って、私は早速縁川天晴に今日のことを報告した。あの女性が持っていた栞に描かれた花丸を先生が描くことや、彼女の語った地元へのエピソードと、類似点が多いこと。すべてを。


「たぶん、あの人が会いたがってるの、先生かなって」


「仮にですよ? もしそうだとしたら、どうするんですか?」


 縁川天晴は、ベッドに座り、湯のみでほうじ茶を飲んでいる。


「会ったほうがいい気がして……」


 縁川天晴が、テーブルへ湯のみを置いた。私をじっと見つめ、「危ないかもしれませんよ」と付け足す。


「彼女は、貴女を襲ったんです。その事実は変わりません」


「でも、助けてくれてたんだ。私の話してる大学生くらいの人たちに、物を投げたりして」


 彼女は私たちを襲おうとした。でも、私を助けてくれたのも事実だ。


 助けたいと思う気持ちがなければ、実体がない者たちはこの世界に関われない。


 あの瞬間確かに彼女は、私を助けようと思ってくれた。


「僕がいないときに襲われたんですか!?」


「いや、そこは気にしなくていいよ」


「また守れなかった……」


 肩を落とし始めた縁川天晴に、私は近づいた。あの日染めた髪はすっかり馴染んでいる。相変わらず学校には行ってないけれど、クラスの人からメッセージは来ているようで、「通知音聞いてるとひりひりするんですよ」なんて、切ってるようだった。


「遠岸楽と同じです。僕も間に合わなかった。肝心な時、僕はいつも貴女に間に合わない」


 彼は、自分の手のひらを見つめている。


「ごめん、でも、どうしても気になるんだ。先生のことも、彼女のことも」


 私はあの人を救う方法を、知っている。そして先生の救いになるかもしれないことも。


「二度はないです。僕は貴女を傷つける人が嫌いなので」


 ぽつりと、縁川天晴が呟く。


「でも、貴女を助けてくれた人は、好きです」


 そして、ゆっくりとこちらに視線を合わせた。


「ありがとう」


「本当に、二度目はないです。こんなこと推しに言うのあれですけど、危険なことは、してほしくないので」


「ごめんね」


「謝罪はいいです。こんなこと推しに言うのあれですけど」


 縁川天晴は先ほどと同じ言葉を繰り返す。


 間に合わない。何のことかを言っているかは、よくわかった。


 彼は震える手で、自分の親指と人差し指をすり合わせる。


 この手は、止めたかった手だ。


 私の、死を。



◯◯◯



 花丸の共通点を見つけた翌日、私はある場所に寄ってから、また病院へ向かった。噺田先生は回診を終え、中庭で遊ぶ子供たちに一人ずつ声をかけて歩いていた。


 ゆっくりと歩く背中に声をかけると、静かに振り返る。


「さくらちゃんの手術は午後だよ。ずいぶん早くに来たね」


「えっと、今日早めに来たのは、先生に用があって……」


「なら、そこのベンチに座ろうか。悪いけど最近筋肉痛がひどくてね、長い時間立ち止まるのはつらくて」


 中庭は、うっすらと膜をはったような曇り空に覆われていた。太陽も遮られ、わずかに光が漏れている程度だ。


 先生は私をベンチへと促し、座った。座る動作に痛みが伴うのか、力をこめながら神経を尖らせ腰をおろしている。少しずつ背もたれに身を預けてから、先生はこちらに振りむく。


「それで、話というのは」


「先生は、家庭教師か何かをされてたことが、ありませんか」


 確信を持ちながら問いかけると、先生は痛みを感じたように一瞬顔を強張らせた後、静かに頷いた。


「よく分かったね。何か。そういう感覚が鋭いのかな」


 苦笑気味に肩をすくめて、先生は話を続ける。


「僕は、学生のころ教師になるつもりだったんだ。親は医者だから、それを押しのけてね」


「学校の、せんせい……」


「教育学部に入って、僕はバイトを始めることにしたんだ。親は医学部に受からなければ学費は払わないと言っていたし、家は追い出された。学費はまぁ奨学金でなんとかなっても、家賃までは賄えないから」


「大変……でしたね」


「うん。両親は俺が泣きついてくるのを待ってたんだよ。でも、意地悪でしてた訳じゃないと思う。代々医者の家庭だったし、教師は薄給。精神的負担もあるからね、不幸になってほしくない気持ちが強すぎたんだろうね」


 確かに、お医者さんの先生も大変そうだけど、学校の先生も大変そうだなと思う。小学校の頃は、生徒が授業を終えたらてっきり帰ってるものだと思っていたけど、許可証とか、保護者の判子がいるプリントを仕事終わり……夜の九時ごろ学校のポストに入れに行ったとき、普通に電気がついていた。


 それに教師の自殺率が高い……みたいなニュースも見覚えがある。


 元々希死念慮があったわけではなく、優しくて生徒に寄り添える先生がある日突然自殺してしまって残された生徒がショックを受けたりとか、真面目すぎた……とか。 


「僕は家庭教師のバイトを始めたんだ。そこで、ある女子生徒に出会ったんだ。あまり学校に行けないから、自習を見てやってほしいと言われてね」


 教育学部に入って、さらに家庭教師のバイトをする。よほど先生になりたかったんだろう。


 今、先生は学校の先生じゃない。でも初めて見た時から、どことなく学校の先生っぽいと思ったのは、先生の雰囲気とか抽象的なことではなく、話し方とか物理的なものなのかもしれない。


「彼女は、僕が教える必要なんか無いんじゃないかってくらい優秀だった。でも、実習問題は苦手だった。暗記教科が好きで、科学や物理の計算も問題なかったけど、図形と証明問題、連立方程式のあたりで躓いていてね。問題集を見てやり方を読み込むよりも、実際の授業を見たほうが分かりやすいものは、やっぱり苦手になっていたんだ」


 確かに、数学などは参考書を読むだけじゃ分かりづらい。動画を見たりして今は勉強してるけど、先生が大学生の頃は動画サイトもなかったように思う。


 もし今、動画サイトが無かったら、私も勉強できていなかった。一人だったら、駄目だった。


「だからか、そういう問題は必死に質問してきてね、ここが分からない、どうしてこうなるのとよく質問攻めにされた。彼女は申し訳なさそうにしていたけど、僕はずっと理数系の人間として生きていたから、得意分野でありがたいくらいだった」


「得意分野……」


「苦手はあるからね、誰にでも。彼女はめきめき成長していったよ。こんなに教えがいがあるなんてってびっくりするくらい、どんな問題も解けるようになってね。大学受験の問題だけじゃなく、大学生が手こずるような問題にも挑戦するようになった」


 先生は嬉しそうに、遠くを見て話す。


 先生には、大学生の頃、生徒に教えていたころの光景が見えているのかもしれない。真黒なはずの先生の目は、夏の太陽を映して輝いている。


「ネットなんて無い時代でね、僕は彼女に数学の参考書を買ってあげた。家庭教師として、生徒に渡すにはレベルの高いものだったけれど、彼女の可能性を狭めたくなかったんだ。ただでさえ同い年の子は、プールへ行ったり海水浴へ行ったりしているのに、その子の世界は一部屋だけだったから」


 一部屋だけの、世界。


 さくらちゃんのことを思い出す。彼女は殆ど外の世界を知らないと言っていた。


「その時に、近くでやっていた数学の展示の話をしたんだ。近くでやってるんだと。先生は行くのか聞かれて、見に行けないと答えた。教育実習の準備に母校へ行かなくちゃいけなかったから。でも物販は開かれていたから、その子にボールペンを買ってあげようと思って、反応を見るために聞いてみたんだ」


 流石に、なんだこれって思うものはあげられないからね。先生は苦笑しながら話を続ける。


「分度器のマスコットがついたボールペンが売られているなんて話をして、その子は子供っぽいからなんて言ってて、先生はいいと思うなんて軽口で言ったんだ──それが駄目だった」


 先生は声色を落とした。


 すぐに分かった。先生のターニングポイントは、選択は、ここがきっかけだったのだと。


「彼女は、参考書のお礼がしたいと思ってしまったんだ。いい子だったから。優しい子だったのに。身体が弱いのに、猛暑日の展示に向かう途中で、亡くなってしまった。軽い熱中症にかかることが、命に関わる子だった」


 ちょっと熱中症になったっぽい。そう言うくらい、ありふれたものだと思っていた。


 予防のために水分を取ろうと言い合うことはあれど、緊迫とした気持ちは持ち得ていなかった。私はどう返事をすればいいのか、返事をすること自体正解なのか分からなくなって、押し黙る。


「後で聞いた話なんだけど、両親は大学を受験させる気はなかったらしい。それまで……大学入学を迎える年まで生きれるほど、彼女の臓器は機能していなかった。僕が彼女の寿命を、縮めたんだ」


「違いますよ。先生のせいじゃ──」


「僕はバイトも、大学もやめた」


 私の否定を拒絶するように、先生は静かに私を見返した。


「そのままアパートで何もせず過ごしていたら、家賃を滞納していたのを親に知られて、実家に引き戻されたんだ。それからは、もう、何かを考える時間が怖くて、親の望むままに医大の再受験に打ち込んだ。そこで落ちてたら、何か変わってたかもしれない。でも僕は医大に受かって、医師免許を取って、今ここにいる。患者さんを、診てる」


 先生はそう言って、中庭で過ごす子供たちに目を向けた。この病院には、先生や看護師さん、病院で働く人たちの子供たちの為の幼稚園があるらしい。その子たちと、病院に入院している子供たちが、花壇を見つめたり、散歩をしている。


「怖くて逃げたのか、使命感にかられてかは分からない。親は喜んでいたよ。医者になるのを望んでいたから。僕も心地よかった。誰かのお願いを聞いて動けば、誰かのせいに出来る。自分は悪くないといえるからね」


 先生は、笑みを浮かべた。柔らかな笑みに反して、その手は固く握りしめられていく。声色にも後悔ややりきれない思いが滲んで、抱えている苦しみに拍車をかけるように、言葉を絞り出している。


「ただ、何人救っても、救っても、救っても、私が殺したあの子の顔が浮かぶ。皆言うんだ。お前は悪くない。でもそんなもの意味がないんだよ。あの子の許ししか、意味がないんだ。そしてそれは永遠に手に入らないから、僕はここにいる。亡くなったひとに囚われていたら、救える患者すら見失ってしまう。わかるんだ。自分が医者に、人に関わる仕事に向いていないということが。でも、最後の最後まで、どうしていいか分からないままきてしまった。だから言える。君は人に関わることに、向いていると。向いていないのは、人殺しの僕のほうなんだ」


 最後の最後まで。その言葉の響きに、重さと覚悟を感じた。そんなわけない。ありえないと思いながらも、このまま手術をしなければ死んでしまう の笑顔が、妙に思い浮かぶ。


「君が見える理由はよくわかるよ。僕は死に近い。余命宣告が下りたんだ。時間はもう残り少ないらしい」


「先生──……」


「だから病院も……もうやめるんだ。今日で、退勤になる。表向きは実家を継ぐことになっているけれど、診察中に倒れるわけにはいかないからね」


 先生が、死ぬ。


 なんとかならないのかと思うけれど、お医者さんである先生がその手立てを知らないはずがなかった。私は俯いて、自分の手のひらをぎゅっと握りしめる。


「死んだら、あの子に会えるかな。会って謝りたい。あの子は、僕になんて会いたくないかもしれないけど、会って謝りたい」


「なら、会ってみては、いかがですか」


 いつかの、縁川天晴のように呟く。先生は「え」と声を漏らす


 声色に期待が込められているのを感じた私は、そっと微笑んだ。


 私の背後の空気の密度が、わずかに濃くなる。


 女性はいつも、特徴的な花丸のしおりを手にしていた。何かの答案……それもテスト用紙ではなく、ルーズリーフの線の入った紙を、ラミネートするようにした手製のものだ。わざわざそれを首から下げていたのだから、会いたくないわけがないだろう。


 寂しい寂しいと、死に損ないの私を連れて行こうとしたのは、怨霊としての便宜上ではなく、先生と関わった残り香みたいなものを辿っていたからかもしれない。


「彼女はずっと先生に感謝していました。恨んでなんていません」


 そう言って、私はそっとベンチを立った。道の先には、彼女がいる。


「先生……」


 女性の瞳は、これまでの渇望や執着が嘘のように晴れていた。ただただ、誰かに恋をする少女のあどけなさで、先生の名前を呼ぶ。


「お医者さんに、なったんですね。おめでとうございます」


 鮮やかな恋する乙女の笑顔で、彼女は噺田先生を祝福した。 先生は、首を横に振る。


「違う、わたしは、逃げだだけだ。君の死がつらくて、君を思い出すたびに生きていけなくて、教師という仕事ことから逃げただけなんだ」


「そんなことないです! 先生は、私の先生は優しい人です。逃げたんじゃない。きっと心のどこかで、私が死んだのを、自分のせいだって思って、私みたいに死んじゃう人を減らそうとして、お医者様になったんです。私の希望も入っちゃってますけど、きっとそうです。先生は逃げてない!」


 ぶんぶんと顔を横に振って、彼女は噺田先生の言葉を否定する。先生は静かに目を閉じて、息を吐くと瞳から涙を溢れさせた。


 手で目を覆い、嗚咽を漏らす。


「待ってて、くれないか。きっと僕ももうすぐ、そっちに行くから」


「いやです!」


 彼女はきっぱりと断った。そして溌剌と、優しく微笑む。


「ゆっくりで、いいです。先生が病気なのは、今聞いてました。でも、なるべく苦しくないように、たくさん、たくさん優しい中で、過ごしてから来てください。そしてまたたくさん、前みたいに色んなお話し、聞かせてください」


 やがて、彼女から、まばゆい光があふれ始める。遠岸楽の時と同じだった。人がこの世界から去っていくときの光だ。


 それを先生も理解してか、首を横に振る。


「待ってくれ、僕は、君に──」


「さよなら、先生。私、先生のこと恨んでいません。先生が、学校の先生になれなかったのが、残念なだけ。でも、私だけの先生かなって、思っている自分がいて──先生、わたし」


 ──先生のことが好きです。


 そう彼女は口にして、光に溶けて消えていった。涙を流しながら先生は空を見上げている。


 いつも瞳に帯びていた悲壮さは、光の瞬きとともに消えていた。 



●●●



 先生と別れ、私は縁川天晴と一緒に、さくらちゃんの麻酔が切れるのを廊下で待った。


 よくドラマでお医者さんが手術室から出て「成功です」と伝えるシーンがあるらしいけれど、手術室の前で待つことは出来ず、さくらちゃんの両親は彼女の病室で、近親者ではない私たちは廊下で待っていた。


 手術自体は、特に何事もなく終えたらしいけれど、それでも不安になってしまう。


 かちかちと時計の針の音に耳をすませていれば、やがて病室の扉ががらりと開けられた。


「おにいちゃん!!」


 さくらちゃんが飛び出てきた。麻酔が切れたばかりだというのに、お母さんとお父さんの制止を振り切ったらしい。べたべたと地面に手をつきながらも懸命に私や縁川天晴を探している。


「ここにいるよ、病室に戻らないと…天」


「お姉ちゃん、どこにいるの!? ねえ!」


 彼女は声を上げる。


 私は目の前にいるのに。


「お姉ちゃん? どこ」


 さくらちゃんは、まるで私なんて見えていないかのように、辺りをきょろきょろ見回した。私は確かにここにいる。


 目が見えてない?


 手術の後遺症で?


 慌てて考えを巡らせる間に、縁川天晴がすっと私の前を横切った。


「お兄ちゃん、お姉ちゃんどこ?」


「お姉ちゃんも、実は入院してるんだ。でも大丈夫、きっとすぐに会えるよ」


「だいじょーぶ……?」


 さくらちゃんは安心した様子で、目を閉じた。


 手術は成功した。さくらちゃんは、私が見えなくなった。


 さあっと血の気が引いてきて、私は縁川天晴の横顔に視線を向ける。


 余命幾ばくもないらしい先生が、私について徐々に見えるようになったと言っていた。


 弁護士さんは私が見えなかった。


 遠岸楽のお婆さんは、彼や私の存在をうっすらと感じていた。


 寺の血筋で、なおかつ住職をしている縁川天晴のお父さん、そしてお弟子さんは、私は見えなかった。


 でも、縁川天晴だけは、最初から私も遠岸楽も、あの女性のことも見えていた。


 幽体は、誰かを助けたいという思いで物理的にものに触れられる。


 そんな幽体を見られる誰かは、みんな等しく死に近かった。


「うん。大丈夫だよ。あかりちゃんは生きてる」


 そう、縁川天晴は初めて会った言葉を繰り返す。


 繰り返してから、私を見る。


「嘘つき」


 私は咄嗟に、縁川天晴へ呟く。


 否定の言葉は返ってこなかった。





 私たちは、ゆっくりと病院の外を歩くことにした。さすがに中庭でぶつぶつ話をさせるわけにはいかない。聞きたいことは山程ある。


「寺生まれだから、じゃないでしょ」


 落ち着いて、真実を知りたい。なのに力がこもって、責めるような口調になってしまった。縁川天晴の表情は、不気味なくらいいつも通りだ。


「さくらちゃんが私のことを見えてたのは、手術する前で死に近かったから。でも手術終わって死ぬ可能性がなくなったから、見えなくなった。先生は、始め見えなかったらしい。病気が進行していくにつれ、見えるようになったって聞いた」


「そうなんですか」


 しらばっくれる口ぶりに、嫌気がさした。空は雨が降り出しそうで、いつもいつもこの空は私の大切なものを奪っていくのだと、手のひらを握りしめる。


「貴方が私が見えるのは、病気だからじゃないの」


「恋の病、とか?」


 おそるおそるといった口ぶりなのに、本質ははぐらかしてくる。


 今までずっと私は縁川天晴のことを、弱気なわりに、変なところでこだわりが強いと思っていた。


 でも違う。こだわりが強いんじゃない。


 縁川天晴は、ずっと──、頑なに自分の秘密を守っていた。


「死に近いんでしょう。天晴が」


 彼は私に隠していたのだ。自分が病気だということを。そこだけは徹底していた。


「違うなら、違うって言って」


 返事がほしい。


 否定してほしい。そんなわけないって。自分はずっと生きてるって。


 でも、私のほしい言葉は、一つも音にならない。


「……なんで黙ってたの」


「推しに自分語りするなんて、厄介ヲタクの極みですよ。ろくでもないじゃないですか。困らせたくないし。ただでさえ、オフの推しに声かけてるんですから。ヲタク失格です」


 あははと、軽く笑う。そして、私を諭すように語り始める。


「確信はあったんですよ。寺の人間に貴女の姿が見えないことや、先生が徐々に貴女を認識し始めたこと。きっと貴女が見えるのは、僕の時間が残り少ないからだろうなって。さくらちゃんの手術が成功したならば、きっと彼女は貴女が見えなくなるって」


 軽く笑ってしまえるほど、もう縁川天晴の中に死は確定事項としてある。


 まともに取り合ってくれていないことがもどかしくて、窒息しそうになった。


「よく子供は目に見えないものも見えるって言うじゃないですか。病院という立地のわりに、貴女を認識している人は少なかったし、霊感由来ということに賭けてたんですけどね……」


 自嘲的な笑みに、心臓の奥が痛くなる。喉が、焼けるように熱い。自分が今怒ってるのか、泣きたいのか分からない、ぐちゃぐちゃだ。


 彼は学校に通ってないと言っていた。学校に通えないけど、学校に問題があるだけだからネットにいたり、高校に行く準備をしている人はいくらでもいる。天晴も、いじめられたり友達が出来なかったりして、今の生活をしているのだとばかり思っていた。


「兄は、いないの」


「はい。嘘です」


 もしかしたら縁川天晴は、今日みたいに自分が暴かれる日を、想像していたのかもしれない。なにも動じず、彼は認めた。


「どこが、悪いの」


 黙ってたことに、憤りはある。嘘をつかれたことも。


 でもそれだけじゃない。気づけなかった自分が、一番憎い。


 今思えば、気付けるきっかけはいくつもあった。微塵もその存在が感じられない兄の存在に、先生の言葉。私の危険を感じたら必ずそばにいるよう言ってきたのに、病院では突然姿を晦ましたり別行動をしたがった。


 よく考えれば、調べようと動けた。


 気になったはずだった。


「心が悪いって言ってたけど、心臓のこと……?」


「酷いこと言いますね。心が悪いなんて心外ですよ。ショックです」


「話を逸らさないでよ!」


 怒鳴りつけて、ようやく縁川天晴の視線がこちらに向いた。その表情は、全部受け入れたあとみたいな、彼はもう、ただ死を受け止め、過ぎ行く時間を待つ人の顔をしていた。


「どれくらい……」


「え」


「あと、どれくらい生きていけそう……?」


 声が、震えた。立ってられない。苦しい。


 この世界から、縁川天晴がいなくなる。去年まで知らなかった。認識していなかった。


 でも耐えられない。彼が死ぬことが。


 彼はまだ生きている。でも耐えられない。彼の命がもう少ない事実が、どうしようもなく受け入れがたい。


「終わりなんてない、ただ明日を真っすぐに生きていこうって、貴女がデビューシングルで歌っていたんですよ」


 小さい子をあやすみたいに縁川天晴は、困った様子ではにかむ。


 まるで聞き分けがないことを私が言ってるみたいで、彼が死ぬことが絶対覆らないようで、ぼろぼろと涙がこぼれた。


「……短いってこと?」


「あらやだ。推しに心を読まれてしまいました」


 ふざけた声色なのに、悲しい。


 何も言えず涙ばかりが流れて、どうしようもないほどの無力さに、ただ手のひらを握りしめる。その手に、縁川天晴の手が重ねられた。


「別に、すぐ死ぬというわけじゃないですよ。手術の道も残ってるんです。ただ、決心が鈍るというか……」


「なんでよ。手術すれば治るんじゃないの? 何が問題なの」


「小さいころから、わりと全部……いろいろ未発達というか。客観的に言って、耐えられるか微妙なんですよ。ほぼ耐えられないと言っていい。さくらちゃんの手術は間違いなく彼女を生かす手術ですけど、僕の場合は殺す手術になりかねないんです」


 爪先から、どんどん体温が地面に吸われていくみたいに冷えていく。


 死んでほしくない。


 ずっと生きていてほしい。なのに、耐えられないなんて。


「……一生推すって言ったじゃん」


 不貞腐れた声色で、意味もなさない言葉を吐く。


 してない約束を、したと言いかがりをつける。


 私はどこまでも子供で、縁川天晴はどこまでも穏やかな態度を崩さない。


「はい。ヲタクは一生推しを推して、死んでいくんですよ」


「そういうんじゃない。もっと長く、長く生きてよ。なんで……なんで……」


 どうして、貴方が死ななきゃいけない。


 そんなに悪いことなんてしてないはずだ。


「なんだか告白されてるみたいです。推しにリアコされる錯覚が見られるなんて驚きです」


「そうだよ」


 好きだ。


 私は彼のことが。


 ファンに恋をするなんてありえない。


 それは、ほかのファンへの裏切りだ。恋人なんて作らない。もし恋人ができたり結婚するようになったら、絶対に言わないし隠し通す。果崎あかりは、ファンの人が一番大切で、それ以上に大切な存在はあってはならないから。


 普通の恋人でいられない。相手に負担を強いる。


 だから好きな人なんていらない。そう思ってた。


「好きだよ。好きだから、生きてほしいんだよ。それだけでいい。それだけで十分なの。健康で、普通に生きててくれたら、それで」


「果崎あかりは、皆のアイドル、でしょう」


 そっと彼が、私の肩を押した。応援して、推してくれて、私の背中を押してくれた手で、線を引く。


「単推しヲタクは一人に一途ですけど、アイドルは一人に固執しちゃだめですよ」


 優しい拒絶に、涙が出た。


 これ以上同情するな、自分に心を向けるなと静かに線を引かれている。


「別に、結ばれたいなんて望んでない。でも、生きててよ。何で、何で死んじゃうの」


 死に損なって出会ったのが、縁川天晴で良かった。でも、死んじゃうなら見えてほしくなかった。


 知り合いになれなくてもいい。推されなくていいから、私の知らないところでいいから、ずっと生きていてほしかった。


「生きててよ。なんで、なんでよ。なんで死んじゃうの」


 泣きながら欲しいものを強請る子供みたいだと自分でも思う。でも止められない。苦しい。生きててほしい。天晴がいない世界なんて考えられない。


「どうして、天晴は──」


「僕だって、そうですよ……」


 唸るような声に、追及の手が止まった。


 顔を上げると、縁川天晴は私をまっすぐ射貫いていた。


「僕だって、そうですよ!」


 押された肩を掴まれる。前を見れば縁川天晴が泣いていた。大粒の土砂降りのような雨と共に響く雷鳴のように、声をあげる。


「僕だって貴女に生きててほしい。生きようとしていて欲しかった! 黙ったままでいい! 謝らなくていい! 何か言うのに絶対事務所通さなくちゃいけなくて、黙ってなきゃいけないってのも、ファン皆分かってますよ! 俺らが弁明して、信者が必死になってるからって貴方が悪く言われないようにって僕らは黙ってた! でも、自分から死のうとしないでほしかった!」


「天晴……」


 縁川天晴が喜び以外で感情的になっているところを、初めて見た。怒鳴りつけるように、彼は拳に力を込めた。


「貴女のことが好きで、でも説明してほしいって奴らも確かにいた! でも僕は貴女が黙ってても良かった! なんの説明が無くても、僕は貴女を信じる! 信じた! なのに、なのに手首を切ったってなんですか。僕たちが気付けなかったのが悪いかもしれない。しつこいと思われても、コメントをもっと送ってれば良かった。ブロックされても好きだって、DМが罵詈雑言で埋まる前に、僕のコメントで埋めてれば良かったって、ずっと、ずっと思ってます! でも、僕らが反論して、貴女はそんなことしないって言っても、あいつら信者だからって聞く耳も持たない! どんなに説明してもバカ信者って言われて終わりですよ。貴女のことなんて何も知らない、アンチですらない浅い、あっさい奴らが! 僕たちが貴女を守ろうとすることを、貴女の為にならないなんて言う! 中立気取って正義気取って! 貴女を肯定することを咎めて! 挙句の果てに貴女が悪く言われる! どうしたらよかったんだろうって、貴女が自殺しようとしたって聞いてから、ずっと思ってます! 貴女を責めた奴ら全員、殺してやりたい。苦しめて、もう二度と貴女が視界に入れないように、ぐちゃぐちゃにして消してやりたい。でも、でもそうなったら果崎あかりのファンがって、貴女の名前が出されるじゃないですか。それしかないですよ殺さない理由なんて。法律なんて関係ない。人生なんてどうでもいい。それくらい、貴女に全部捧げられる! 責められると真っ暗になって、ひどい言葉ばかり目につくんだろうなって、分かりますよ。僕が想像も出来ないくらい、今までも酷いことされてたんだろうなって! だから僕は、貴女のしたことをとやかく言う筋合いなんてないのかもしれない! それでも!」


 縁川天晴は、私の手に触れる。そして、静かに私を見上げた。


「……それでも、生きようとして欲しかった。果崎あかりには、何があってもちゃんと応援してるファンがいるって、信じてほしかった。身勝手だって分かってます。貴女の絶望を、俺は本当の意味で知ることが出来ない。アイドルじゃないから。でも、死のうとなんて、しないでくださいよ……なんで、自分から……」


 縁川天晴は、しゃがみこむ。


 置き去りにされた子供みたいに。拳を握りしめて、苦しみを抑えながら俯いた。


「ごめん」


 私はそんな縁川天晴に近づく。涙が溢れて、視界が滲む。


「ごめんなさい……」


 死のうとしたことを思い出すたび、どうして死ねなかったんだろうと思っていた。


 両親を前にして、後悔に苛まれそうになった時は、死ななきゃ迷惑をかけてしまうからと誤魔化していた。


 でも初めて、死ぬ以外に選択肢はなかったのかと、思ってしまった。


 私はアイドルとして、彼の生きる希望になりたい。彼の支えになりたい。


 ただただ、縁川天晴に生きていてほしい。


「僕は、もうどうしていいかわからない」


「天晴──」


「僕は、自分の人生に後悔はありません。推しを推して死ねるなら本望だった。でも今は、分不相応にも程がありますけど、貴女を孤独に追いやってしまうんじゃないかって怖いんです。でも、貴女がこの世界からいなくなるのなら、僕は死にたい。だからどう生きていいか、わからない。どうしていいか、わからない」


 彼は凪いだ瞳で淡々と自分の絶望を語る。その陰りは私の行動が与えたものだ。


 両親のもとへ行きたかった。


 痛いことは怖いけど、明日寿命ですと言われれば喜んで受け入れることが出来た。


 アイドルとして在ることが、存在理由でありこの世界で生きていていい赦しだった。


 炎上で、「生きていていい理由」と「死んだほうがいい理由」の比重が、簡単に逆転した。


「あいつらに復讐してやりたい。あいつらを踏み台にして貴女をどこまでも高く、ゴミみたいな奴らの手の届かない光の先に飛ばしたい。なのに僕は、その力がなにもない。なにもできない。僕はずっと、透明な、なにもない存在でしかない」


 あの時踏みとどまれていたら。


 目を閉じてあの日を思い出して、もう少し待っていたらと後悔に苛まれる。そうしたら、私は彼と出会うことはなかったけど、死ぬこともなかったかもしれない。


 私が死ねば全部好転すると思った。でも逆だ。何にもならなかった。


 彼から、生きる気力を奪ってしまった。


「私は──」


 何を言うかも決めてないままに、私は縁川天晴を呼びかける。でも、彼の後ろに建つ病棟の廊下に、見慣れた人の影が横切った。


 葬列に並ぶように生気の抜けた顔で歩くのは、遥だ。彼女は遠くからでも分かるほど虚ろな瞳で歩いている。幽霊と見間違うほどの異質さに、私は言葉を止めた。


「あかりちゃん……?」


 ずっと病棟の窓を見つめる私に、縁川天晴も病棟へ振り向く。


「あいつ、何かする気じゃ……」


 縁川天晴が苦々しく唸りながら、病棟へ駆け出した。彼は、走っていい体じゃない。私は彼の名前を呼びながら慌てて駆け出す。


 でも縁川天晴は驚くほど速くて、追いつけない。今まで彼が走っているところを見たことは一度もなかった。こんなに足が速かったのかと思い知りながら、私は彼を追いかける。


 看護師さんが止めてくれればいいのに、病棟には誰もいない。


 人員不足を看護師さんが嘆いていて、話半分で聞いていたことを悔やみながら、私は腕を何度も振り上げる。


 私が花が好きと言ったら、花屋になろうとしたファンがいた。ライブで看護師さん大好きって言ってれば、少しくらい看護師さんになろうとしてくれた人がいたんじゃないかなんて考えてから、前まで見ないようにしていたファンのみんなの存在を意識していることに気付いた。


 それは間違いなく目の前の縁川天晴や、もう私が見えないさくらちゃん、ほかにもみんなのおかげだ。でも一番私を取り戻そうとしてくれた縁川天晴は、前を駆けていて手も届かない。


 私は胸に巣食う後悔を抱えながら走っていく。やがて病室に辿り着くと、遥が私のそばに立っているのが見えた。病室の外で、縁川天晴がその様子を窺っている。


「巻き込んでごめんなさい」


 遥は、私のベッドのシーツを握り締めていた。縁川天晴は声を潜めながら、「ずっと謝っているんです。貴女に」と耳打ちしてくる。


 遥が謝っている──?


「貴女は、私がリークの情報を流したと思っているんでしょうね……」


 彼女は今まで機嫌が悪いことはあれど、俯いたり、こんなにも虚ろだったことはない。


 何かある。


 私が一歩踏み出した、その瞬間のことだった。


「もう、終わりにしてあげる。巻き込んで、ごめん」


 遥が、私に繋がれた管へ手をかけた。


「今、楽にしてあげるから」


 優しい声に、引きずられそうになる。でも、「やめろ」と怒鳴りつける強い声が響いて、ハッとした。


「あかりちゃんに、触るな!」


 縁川天晴が飛び出し、とっさに遥の手を押さえる。血走った瞳をしながら、彼は遥にに怒りをぶつけた。


「なんなんだよお前っ、あかりちゃんの命まで奪わないと気が済まないのかよ!」


 自分に言われているとすら錯覚するほど、鬼気迫る叫びだった。


 責められた遥は、顔を歪めて首を横に振る。、


「違う! 私はそんなこと望んでなかった! あかりが私のことリークしたなんて思ってない! それに私はずっとアイドルを──!」


 遥は、言葉を飲み込んだ。彼女のスマホから、けたたましいほどの通知音が鳴り響く。ダイレクトメッセージの、通知音だ。


 一瞬、彼女と視線があった気がした。けれど彼女は手に持っていたスマホを壁に叩き付け、激情をぶつける。


「うるさい! うるさいよ全部! 全部嫌! みんな死んじゃえばいい! 私に指図しないで! みんな大っ嫌い!」


 遥は、思い切り縁川天晴を突き飛ばした。壁へと叩き付けられる形になった彼は、床に倒れこむ。


 私はとっさに縁川天晴の前に飛び出した。遥の勢いは収まらず、私のベッドに置いてあった松葉杖を掴んで振り上げる。


 このままだとすり抜けてしまう。手が届かない。嫌だ。縁川天晴が危ない。


 そんなの絶対に嫌だ。


 とっさに手を伸ばす。その瞬間、フラッシュのような強い閃光が周囲を遮った。


 そのまま激しい水流に飲み込まれる錯覚に陥る。


 とっさに手のひらを強く握りしめ、久しぶりに感じた布の感触に驚き目を開くと、ぼんやりと揺れ動く遥の背中が見えた。


 さっきまで、遥の目の前に立っていたはずなのに、まるでベッドに横たわりながら彼女の腕を掴んでいるような視界だった。


「あかり」


 遥が、私を見ている。


「戻った……」


 縁川天晴も、唖然としていた。


 私は、掴んでいる。手の中の感触で、今まさに私は自分の身体に戻ったのだと理解した。


 遥は、ただただ驚いて目を見開き、首を横に振った。


「違う。殺すつもりじゃなくて……私は、迷惑かけたから楽にしてあげたくて、だって、苦しいから、違うの……もう嫌……なにもかも嫌!」


 遥は、怯えているようだった。目には涙を浮かべ、ぽたぽたと滴が真っ白な床に落ちていく。


「私は、巻き込むつもりなかったの……違うの、こんなつもりじゃなかったのに!」


 鮮烈な訴えに、心が騒然として動きを止める。やがてぱたぱたと人が駆けてくる音がして、遥は逃げるように病室から出ていく。


「あ、あ、あかりちゃん、も、戻って……」


 縁川天晴が近づいてくる。声が出ない。なんとか呼吸だけを繰り返した後、私はようやく言葉を発する。


「あ、あの子、私のこと……一瞬……見えて……」


「じゃあ寿命が近いってことですか?」


 それは分からない。もしかしてだけど、自殺しようとしてるのかもしれない。身体のタイムリミットだけじゃなくて、心が限界だったら、たぶん──。


 私はベッドから降りようとした。けれど、全然力が入らなくて転がり落ちる。縁川天晴が慌てて飛んできて、身体を支えてくれた。


「ありがとう……」


「ほら、ベッドに戻ってください! 今ナースコール押しますから!」


 縁川天晴は私をベッドに横たわらせようとするけど、私は首を横に振った。


「探しに、行かなきゃ……」


「無理です! 死んじゃいますって!」


「……もう死なない。後追いされると困るから。それに──」


 縁川天晴の腕を掴んだ。


「好きだから」


 だからこそ、遥が心配だ。大切な人間がある日突然いなくなる怖さを、やっと感じられるようになった。


「ごめん──見逃して」


 私は、さっき縁川天晴を傷つけそうになっていた松葉杖に手を伸ばす。すると、彼が松葉杖を取り、こちらに渡してくれた。


「二度目はないって言った時、うんって言ったのに。貴女こそ嘘つきじゃないですか」


「……ごめん」


「危ないと思ったら、僕は貴女を優先します」


「ありがとう」


 私たちは、病室を出ていく。寝ていたのは一か月と少し、それなのに歩くのすらままならない。


 幽体の時より地に足がついている感じがしなくて、松葉杖を握り進んでいくのがやっとだ。身体が重くて、吐き気が止まらない。


 病室の廊下は、しんと静まり返っている。真っすぐなはずなのに、ぐにゃぐにゃする。


 看護師さんたちは患者さんの対応をしているらしい。遠くの廊下で足を速める姿がちらりと見えた。


「看護師さんが見たら、たぶん声をかけると思うから……」


 遥はどうやって病室に入ってきたのだろう。診療中ならまだしも、こんな時間、病室まで来ることは出来ないはずなのに。


「どうして、遥は、病室に……」


「もしかして、夜間救急に紛れたのでは」


「あれ、でも夜間救急って……」


「第三土曜日だけは受け入れてるみたいです」


 なら、夜間救急の通路を使って……?


 視線を向けると、言葉に出さずとも縁川天晴は、「ですね!」と、夜間救急と直結しているエレベーターに視線を向けた。


 エレベーターがどこの階に止まっているかを示すランプは、八階、七階、六階……とどんどん下がっていっている。


「俺階段で行ってきます! あかりちゃんはエレベーターで来てください」


 縁川天晴は、そう言うなり非常口に向かって駆け出した。


 私は焦燥にかられながら、エレベーターのランプを見つめる。そばにはエレベーターを待っている間、目を通す為にか、掲示板があった。


 緩和ケアの相談会や、健康的な食事についてのポスターが貼られている。そして、今月からドクターヘリを受け入れるとのお知らせが目に入った。


 ドクターヘリは、一刻も早く治療が必要な患者さんのために出来たものだ。


 学校の屋上と違い、扉を開ける必要性が出てくる。


 そしていま、救急搬送が多く、夜勤は人出が少ないと看護師さんが言っていた。


 ふっと最悪の想像をして、私は非常口へ一直線に向かう。


 遥は、降りてない。おそらく上がっている。落ちるために。


 私は松葉杖を突きながら階段を上る。死のうとするまでは階段の上り下りなんて苦痛を感じなかったのに、鉛をつけているのかと錯覚するほど一段が重い。


 松葉杖が手から滑り落ちて、ガタガタと音を立てて落ちていく。


 拾いに行っている時間はない。私は手をつきながら、這いつくばるように一段一段上っていく。


 間に合ってほしい。


 それか、屋上の扉が立ち入り禁止のまま、閉じていてほしい。祈るように何段も上っていく。やがて最上階に到着すると、扉は半開きだった。


 なんとか転がるように押し開いて飛び出すと、フェンスの向こうに遥がいた。


「遥」


 私は彼女の名前を叫ぶ。振り返った彼女は、私を見て驚いた顔をしていた。


「来ないで!」


「行くに、決まってるでしょ!」


 行くに決まってる。来ないでなんて言われて行かないわけない。


「それに、飛ぶ気なんでしょ? 私が行っても、行かなくても」


 私はそのまま、遥へ着実に距離を詰めていく。


「なんで、死のうとしてるの」


「それは……」


「なんで、私のこと殺そうとしたの」


 ずるい訊き方だけど、注意を逸らすにはそれしかなかった。遥はしばらく俯いて、こちらに振り返る。


「まつりが決まったドラマの番宣、本当は私の仕事のはずだったの。でもその前に、スポンサー……」


 七星まつりが、有名な女優さんのオフショットに一緒に写った。


 彼女はもともと捨て石や捨て駒なんじゃないかと言われていて、事務所からの扱いも悪かった。


 売れるアイドルにかける時間すら足りない中で、当初CDの売れ行きがあまり良くなかった彼女に目をかけるというのは、難しいことだったのだろう。


 でも、そのオフショットの公開から、周囲の態度が一変していた。彼女の口から「プロデューサーさんと食事に行った」と話題が増え、メイク室では忙しそうに台本を読んでいた。


「努力の差だったら諦めがついた。でも、全然そうじゃないじゃん」


 七星まつりの、拙さ。


 そんな面も含めて、彼女のファンは応援している。アイドルとしてではなく身近な隣人として彼女を応援している。だからか、歌やパフォーマンスを重視するファンは「話題性」だと厳しい目を向けることも多かった。


「皆、まつりがいればいいって思ってるよ。私なんかもういらないって。自分の上位互換が突然出てきた気持ちわかる? あっち、CDの予約トップだよ? わかるんだよ。言葉にされなくても期待されてないって、もう私なんて飽きられてるって、わかるんだよ。事務所のツイッター見た? CDも雑誌も、あっちの予約開始は絶対宣伝するのに、私は宣伝すらしてもらえない。私が告知していいか聞いて、マネージャーのほうに返答来るのなんか、発売ぎりぎりだよ。私に情報来る頃には、全部終わってる。準備すらさせてもらえない。売れないアイドルも、そのグッズも、全部ゴミ扱いされるしかない!」


 遥は、苦しげだ。ただ不平不満を口にしているのではなく、限界を見てしまったのかもしれない。


 アイドルという人に評価される仕事をしている以上、誰かに好かれなきゃ生きていけない。憧れられなきゃ、意味ががない。


 なのに炎上で救いを見出してしまうほど、彼女は追い詰められている。


「もう私には、後がないんだよ。炎上でもいい。叩き割る目的でもいい。CD買われたいよ。注目が欲しい。だって頑張っても全然誰にも見てもらえない。苦しい。応援してくれたファンの皆に顔向けできない。全然、何も返せない。後だってもう、落ちるだけじゃん。もうわかるの。自分の考えが最低だって。でも苦しい。頑張ったの認めてもらいたい」


 遥の感情すべてに、身に覚えがあった。応援してもらったファンに顔向けできない。このまま落ちぶれていく姿を見せるくらいなら死にたい。消えてなくなりたい。


 誰からも期待されてもらえなくなるのが怖い。前の自分のほうが良くできてる気がする。こんなはずじゃなかった。


 遥の苦しみすべてに、吐きそうなくらいの身に覚えがある。


「この世界に、居場所がない」


 遥は縋るように私を見た。そして手のひらを握りしめる。


「返事はしてくれてる。でも分かるんだよ。自分の存在意義が捨て駒として扱われてないの。適当なんだよ。全部。今度仕事について打ち合わせしましょうって、企画説明しますって言って、そのままなの。何度も。同じ事務所の子は打ち合わせとかしてるの。私に割く時間はない。人気ないから。それなら貴方を相手にする暇はないですって提示してくれるほうが優しくて親切なくらい、自分って相手にされてないんだなってわかる。それをファンの人に見える形で、どんどん放り出されるの。何もかも」


「で、でも、マネージャーは? 遥のマネージャーは、遥のことすごく思って」


「事務所、辞めたって。炎上の責任とって。自分が辞めるから、私のことは辞めさせないでって頼んだって」


 言葉を失った。


 マネージャーが、辞めたなんて。


「もういない。私のこと怒ってくれる人も、見てくれる人も」


 遥のマネージャーはいつだって、遥が活躍することを望んでいた。


 他人の私から見てもそう感じていたのだから、彼女は肌でその期待を感じていただろう。


 その心の支えが、ない。


 事務所から期待をされない彼女の心を守っていたのは、間違いなくマネージャーやファンの声だった。けれど炎上でどれほどその声は減ったのだろう。


 唯一の心の支えにしていた存在を失った彼女は、いま──、


「死にたい」


 平坦な声色で、遥は言った。懇願を微塵も感じさせないその声色は、約束した未来を示唆するものだった。


「せめて今、かろうじているファンの心に残って死にたい。だってもう無理だもん。恩返しできる気がしない。私からファンの人を楽しませることができる何かを提示できない。みんなのこと見返す何かを持ってない。才能ないって気付いた。ここまで来れたのまぐれだった。分不相応だった。奇跡だった。間違いだった。だから私の前から本当に誰もいなくなる前に──終わる」


 遥の体が傾いた。


 気持ちは痛いほどわかる。私も同じだ。


 そうして私は逃げたくて、自分を殺そうとした。


 でも、


「駄目だって……!」


 私は身を投げようとしていた 彼女の腕を必死に掴んだ。 


「自分も死のうとしておいて、他人に死ぬななんて都合がいいのわかってるよ。これ以上どう頑張ればいいか分からないし、どうしようもなく生きてたくないって、絶対死ねば幸せだって思う気持ち分かるよ。でも、違うじゃん!」


 私は死ぬ気だった。


 死ななきゃいけないと思っていたけど、それ以上に死にたかった。だってどうしようもなく辛いから。


 世界の全部が私という存在を否定するような、もういらないって見放してくるようで、苦しかった。


「私も見ないふりしてた。自分が死んで悲しむ人のこと。 だって、何があっても遥には生きててほしい人いるでしょ? 遥がアイドルを続けるために、マネージャーは辞めたんでしょう? 遥の未来を、望んで遥から離れていったって、本当は分かってるんじゃないの?」


「うるさい」 


「生きてよ! 報われなくても生きろなんて言えないけど、それでも誰かのせいで死ななきゃいけないなんておかしいんだって。間違えてもいいじゃん。正しくなくていいよ。壊れてたって、許されなくても生きていいんだって。おかしくても関係ない。正しくなくてもそれでも、生きていいじゃん。間違ってもいいんだって! 私は、今思い知りそうになってる。大事な人がぱっと消えるのがこんなにも怖いって、死ぬ方はもう、死ぬことしか考えられないってわかってるよ。でも、死なないでほしいって思ってるよ。私は遥に死んでほしくない。誰にも死んでほしくないよ」


 死んでほしくない。


 賛美遥に死んでほしくない。縁川天晴に死んでほしくない。遠岸楽も死んでほしくなかった。誰も死んでほしくなかった。生きて会えたらって、一緒にいられたらって思っている。これから先、ずっと。


「死ぬほうが幸せを感じるかもしれない。苦しくてどうしようもないかもしれない。生きてるうちにしか出来ないこと、あるんだって。生きよう、一緒に。一緒に生きて」


 これから先、また死にたくなる瞬間は来るかもしれない。そんな私に、誰かに死ぬな、なんていう資格はきっと無い。それでも。


「お願い……」


 それでも、この手を離したくない。


 私は一生懸命、遥の腕を掴む。けれど病み上がりであることや重力も相まって、彼女の華奢な身体はどんどん夜の奈落へと導かれるようにずるずると落ちかけていく。


 私が自分を殺そうとしたことを、止めたいと思ってくれた人がいた。


 同じように、いま、遥が死のうとしてると知ったら、手を伸ばしたいと思う人間がいるはずだ。その人の分まで、私が遥の腕を掴まなきゃいけない。


 それなのに、両手で掴んでも、ずるずると私の身体も下へと下がっていく。手すりが骨にあたって痛い。早く引きあげなきゃいけないのに。一人じゃ力が足りない。


 真っ暗で、誰も見えない。


「あかりちゃん!」


 叫ぶような声に、目を大きく見開いた。私が遥を掴む手に、さらに縁川天晴の手が重なる。


 ぐんと引き上げる力が楽になって、そのぶん遥を思い切り引っ張り上げる。


 何度も何度も引っ張って、やがて遥の足がぺたりと屋上の地面についたことに安堵して、私は一気に脱力した。やがて噺田先生がやってきて、こちらに駆け寄ってくる。


「これは一体……」


「彼女が、飛び降りようとして」


 縁川天晴が、遥に目を向ける。先生は深刻そうに、私と遥を交互に見た。


「とりあえず、彼女を一度屋上から離さないと」


 先生は、躊躇いがちに私を見る。


 医者として、さっきまで昏睡状態だった人間と重い病気を抱えた人間屋上に置いておくのは忍びないのだろう。


「大丈夫です。ちゃんと戻れます」


「戻らなくていい。人を呼ぶから、そこにいなさい」


 先生は持っていた端末で、応援を求める。


 急に体全体に重力がかかったように重くなって、私はその場に倒れこんだ。


「あかりちゃん!」


 縁川天晴は、絶望を帯びた声で呼びかけてきた。私は首を横に振る。


「大丈夫だから。ずっと寝てて急に動くのに無理があっただけ……」


「でも」


「いいから。それより、そっちのほうが重症でしょ。おとなしくしときな」


 私は彼を制するように手を振る。けれど彼は、「生きてる……」と泣き始めた。


「あかりちゃん……、目が覚めて……本当に……本当によかった……」


 ぼたぼたと、頬に涙が降りかかる。何とか指を動かして、その頬へと手を伸ばす。


 触れた温度がこの間までのものと全く違っている。


 私は、帰ってきたのか。


 この、世界に。


「夢みたいです……あっ、握手しちゃった」


「ずっと前から、してたでしょ」


 私は呆れがちに言葉を返した。


「生きててくれて、ありがとうございます……」


 彼はそのままずっと、何度も何度も私の手を握る。


 空は真っ暗になっていたけれど、星の光に輝いていた。



◯〇〇



 死ぬ前は、自殺以外にすることなんてなかった。


 仕事も消え、学校へもマスコミが押し寄せるため休学を勧められ、休みだからとできる趣味もなかった。


 けれど、目が覚めてからはやらなければいけないことが山積みだった。


 周りの人たちへの謝罪に、リハビリ。人ひとりを協力して引っ張り上げたのが奇跡みたいに、ずっと意識不明だった私の身体は、ごっそり体力が落ちきっていた。


 謝りに外出することすらままならず、すぐ貧血を起こし、体力をつけようと運動をすることも出来ない。


 だから一人一人に手紙を書いた。その手紙も、手に力が入らなくて、テープで固定してみたりして看護師さんやマネージャーさんを驚かせてしまったけど。


「すみません。今日はわざわざお越し頂いて」


 私は、病室へと入ってきた統括チーフに頭を下げた。チーフはすぐに首を横に振った。


「これは退院祝いの……水だ。行きに君の好きな食べ物を彼に聞いたら、検索しだして焦ったよ」


 そう言いながら、チーフは黒い紙袋をサイドテーブルに置く。チーフの隣にはマネージャーがいて、肩を縮めながら俯いていた。


「すみません。もともと仕事以外で話をすることは苦手で……」


「ゴシップの心配もない分こちらとしてはありがたいが、気を抜くことや休むこと、何もしないことも覚えておきなさい。ファンはアイドルに娯楽性や救いを覚えるものだ。そのアイドルが娯楽を知らないのは、問題がある」


 統括チーフは、ベッドのそばの椅子に座った。そして私に体を向ける。


「今回の件に関して、根本の原因は事務所にあった。内部の人間が自分の一時の感情によってネットに嘘の情報を流した。そもそも事務所の管理体制がしっかりしていれば、君の炎上もそもそも起きなかった可能性がある。結果、こちらの都合であるにも関わらず君と遥だけが批判の的になってしまった。すまない」


「いえ、チーフは何も悪くないことなので……頭を上げてください」


 内部の人間が、アイドルを陥れるために、嘘の情報をリークした。誰かの成功を願って、誰かを蹴落とそうとした。


 そんなこと、予測できるはずもない。


「本件について、自社で公表し、記者会見も行う予定だ。私は統括チーフの任を降りる。それで──君の意思を最大限尊重したいと思ってはいるが、どうか君にはアイドルを続けてほしいと思っている」


 アイドルを続けるか、続けないか。


 目覚めたとき、答えは決まっていた。


 私は統括チーフの目を真っすぐと見た。


「私は、叶うのならばアイドルとして活動を続けていきたいと思っています」


 私はアイドルを、続ける。一度は諦め手放してしまったけれど、もう一度掴む。ファンの人に、笑顔を届ける最高のパフォーマンスがしたい。


 決意新たに伝えると、チーフの隣にいたマネージャーが、ぼろぼろと涙をこぼした。


「なんだ君は。みっともない」


 チーフが怪訝な顔をする。マネージャーは、「安心して」と、ハンカチで目元をおさえた。


 マネージャーとは、挨拶とお礼、業務以外で話をすることがなかった。


 仕事仲間であり、協力相手。それ以上でもそれ以下でもない。プライベートも何もかも、お互い踏み込もうとしないままが一番いい。


 そう感じる一方で、彼女のマネージャーの距離感は新鮮なものであり、息がぴったり合う関係性だと見ていた。


 けれど実際のところは違う。声に出さなきゃ伝わらない。言葉が無くとも繋がり合える関係性は、本来奇跡だ。


 そして言葉があったとしても、受け取り手の感情や状況で意味合いが屈折する可能性がある。


 そうして少しの認識のすれ違いで、ぐるりと物の見え方が変わってしまう。


「すみません。ありがとうございます。ご心配をおかけして、ごめんなさい。チーフも、マネージャーさんも、事務所の人たちがいなければ、私は何も活動できません。いつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします」


 私はチーフとマネージャー、二人に頭を下げた。マネージャーが、「よろしくお願いします」と続いた。すると、チーフが目を細める。


「君、変わったな」


「そうですか?」


 私が、変わった?


 幽体離脱をしていた間、暗くなっていた。そこから明るくなったというのなら、理解できる。


 でも、チーフの知っている私の状態に変化はなかったはずだ。


「雰囲気が、柔らかくなった」


 思い当たる点は、ある。


 でもまさか、自分のファンの人の家に居候したり、不審者を捕まえようとしていたなんて、言えない。私は曖昧に首を傾げた。


「変化はいいことだ。今後に君に期待している」


 チーフは立ち上がって、ドアへと向かっていく。


 マネージャーはこちらへ振り返った。


「本当に、退院の送迎はいいんですか?」


「はい。どうしても寄りたいところがあるので。すみません」


 そう言うと、マネージャーはこちらに頭を下げ、病室を後にした。


 退院祝いに来てくれたといえど、緊張した。ほっと息を吐くと、すぐにまた扉が開いて気持ちを切り替えた。


「こんにちは! ここの警備やばいですよ! ザル! 先生にお願いしたら入れてもらえましたよ! 時間外なのにほら──ファンが入っちゃった! 推しの病室に一般人が入れちゃうのはちょっと複雑です!」


 縁川天晴が、自分の足を指さしてジェスチャー交じりに入場してくる。


 統括チーフとマネージャーの再入場ではなかった分、安心はするものの、別の意味で気が置けない。


「それはザルとは言わないしもう少し情緒整えてほしい」


「分かりました落ち着きます。でも僕たち普通に考えたら、ただのファンとアイドルじゃないですか。ザルじゃないですか?」


「噺田先生は知ってるからでしょう……外で話そう。声も大きいし」


「すみません病院通いは慣れてたはずなんですけど」


「返事し辛い事言わないで」


 私は起き上がって、ベッドのそばに置いてあったサンダルに足をかける。念のため、帽子も被った。髪も結んで眼鏡もかけて、変装を入念に行う。


「推しとデートか……」


「ここ病院だから。これから行く場所も、わかってる?」


 しみじみと目を閉じる縁川天晴に呆れながら私は病室を出る。彼が後ろを追いかけてきて、私たちはそのまま、病室を後にした。



◯◯◯



 晴れ渡った空のもと、縁川天晴と一緒にお墓が並ぶ通りを歩いていく。


 お墓のそばに咲いていた花は、色付きはじめ、生い茂った木々も徐々に姿を変え始めていた。


 私たちは、花が手向けられたお墓の前に立つ。遠岸楽のお墓だ


 そのまま手を合わせる。


 魂が安らかでいられるように祈って、私は頑張っていくこと、そしてありがとうを伝える。


 しばらくして、私たちはそっとお墓から離れた。


「いま、遠岸さんはどうしてるんだろう」


「三途の川めんどくせえって言って棒高跳びで飛んでたり、気に入らないやつにぶっ殺すぞとか言って好き勝手してると思いますよ」


「だといいな」


 遠岸楽は、いつも誰かを気遣っていた。どこかで自由に過ごしてほしい。今度は、本当に自分の人生を自分のために使って。


「まぁ、最初は彼のおじさんに怒られそうですけどね」


 遠岸楽は、おじさんの罪を自分がすべて受け入れる形で、おじさんの奥さんを守ろうとした。でもきっと、彼のおじさんは望んでいなかったことだ。


「そういえば、噺田先生。女性のお墓参りに行くらしいです」


 噺田先生は、病院を退職したらしい。緩和治療へと移るそうだ。ずっと先生を求めていた彼女と、ずっと女性が気がかりだった先生。どちらも形は違えどお互いのことを想っていて、だからこそ囚われていた。


「そして僕は学校、昨日行ってきましたよ」


「そっか」


「俺の時だけ反応軽くないですか?! それは嫌です! 強いノーを表明します!」


「いや、そうなんだなぁってちゃんと思ったよ。静かに聞いていただけだよ」


 別に縁川天晴が学校に行くことに興味がないわけじゃない。でも彼が学校に行くことは、命を削ることだ。


「体育見学でしたけど、楽しかったです! 体育!」


 はずんだ声音に、体育についてもっと聞いてくれという雰囲気をひしひしと感じた。


「聞かないんですか。体育について」


「……なにしたの」


「卓球です! あかりちゃん前に卓球選手権のアンバサダーやってたじゃないですか選手特別応援の!」


 だから卓球の話がしたかったのか。


 思えば部屋に卓球のラケットがあった。あれは趣味でなく、私のことがあってか。


「僕はあの選手権の時、ベンチにいた人の気持ちで見学していましたよ」


「なにそれ」


 相変わらず、ちょっと変だなと思う。


 前はアイドルを前にしたファンだからなのかと思っていたけど、いろいろ、根本的に。


 でも、怪訝な目で見てしまうにはあまりにも残酷なくらい、彼は晴れやかな笑みを浮かべた。


「何をするでも、僕の道の先には貴女がいます。貴女がいるから、この世界に興味が持てる」


 さらさらと、柔らかな秋風が私たちの間に吹く。


 彼にそうして想われることが、救われる一方でただただ苦痛だった。


 前は憧憬を抱かれるたび、苦しかった。水の底に沈められるような苦しさと、針金で雁字搦めにされているみたいだった。


 でも今は、誇らしい。


「だから僕──手術受けます」


「……ほんとうに?」


 縁川天晴の、手術の成功確率は限りなく低い。けれど、不安を感じさせないほど明るい、希望に溢れた声色だった。


「未来なんていらない。今の貴女を推せれば十分だと思ってました。でも、未来にかけてみようと思うんです。貴女をずっと見届けたいですし、推しのお願いは絶対なので」


 今度は偽悪的ではない笑顔で縁川天晴は笑う。私はポケットに予め入れておいたものを取り出して、彼の手に持たせた。


「なら──復活ライブのチケット──の予約券。最前席の、渡しておく」


 手作りのチケットだ。小さいころ親に渡すお手伝い券とか、小学校の行事であるような券だけど、ラミネートもした。


「まじっすか!? 最前? やっば! 俺死ぬほど匂わせそう。推しに座席ご用意されるとかヤバいっすね。吐きそう」


 やだー! なんて、縁川天晴は自分の肩を震わせている。私は「匂わせたらコンサート全部出禁にするから」と付け足した。


「えー! 気を付けます!」


「うん。あと……、新しく、曲も作ろうと思う。長めの」


「まじですか!?」


「うん。バンドの人って、想い出が残せるように曲にするんだって。私もそういう軌跡を、残したいなって」


「バンド……? あかりちゃんはアイドルじゃないですか」


「なんでも応援してくれるって言ったくせに細かいな」


 少し抗議を含めて返すと、「でも何か悪いバンドマンに影響されたのかなとかヲタク杞憂しちゃう」なんて、ぶりっ子まじりに嘘泣きをしてくる。


 私はため息をついた後、静かに息を吸ってから縁川天晴を見た。


「……アイドルとしての果崎あかりは、誰のものでもない。」


「はい。重々承知しております。存じ上げておりますよ」


「でも、一人の果崎あかりは、アイドルを卒業したら、縁川天晴と生きたい」


 アイドルは、恋をしない。ファンの人に恋をする。だから、アイドルでいる間は、誰かのものにならない。


 我儘で、自分勝手かもしれない。でも、私の正直な気持ちだ。


「……以上です」


「僕も、貴女が好きです」


 彼はそう言って笑う。くしゃっとした、満面の笑みで。


「ありがとう」


「これからもアイドルである果崎あかりを推しますし、貴女を愛します」


「なら、ずっと生きてて」


 やがて、ポケットに入れていたスマホのバイブレーションが鳴り始める。


 縁川天晴は行ってきてくださいと、私の背中を押した。


 私は「頑張る」と手を振って、彼に背中を向けて歩いていく。


 振り返らない。


 やることが多い。まだ体力もろくに戻ってない。


 髪の毛は荒れてるし、肌の調子も良くない。喉もこの間、軽く歌っただけでおかしくなりそうだった。


 最高のライブを見せなきゃいけない。最上級のパフォーマンスを披露したい。


 時間がない。後ろは振り返らなくていい。背中を押してくれる人は、ちゃんといる。


 私は赤い線の残る手首に視線を落とす、そして、空を見上げて進んでいった。







「本番三分前です!」


 熱気のこもった会場のバックステージ裏で、ぱたぱたとスタッフさんが準備に追われるのを横目に、私はマイクのスイッチに親指を当てる。


 ヘアセットも大丈夫。襟にも乱れはない。鏡に映る紫と青が重なるフリルドレスを纏った自分をじっくり見つめ、鏡の前で最終確認をして水を飲む。


「炎上を跳ね返した奇跡の歌姫再降臨……? 炎上はいささか字面が悪いので恐れ入りますがなしでお願いします……はい。奇跡の歌姫再降臨、復活ライブでお願いします。はい。よろしくお願いいたします。失礼いたします〜はい、失礼します〜」


 隣で電話をしていたマネージャーが、スマホから顔を話してこちらに振り向いた。


「すみません。 明日の新聞の見出しについて最終調整をしていまして……」


「いえ、ありがとうございます」


 私は頭を下げる。今日のライブを行うことに、事務所のトップたちは難色を示していた。 炎上によって、ファンクラブの会員の五分の一の人たちが、いなくなったから。


 コンサート会場を借りて本当に客席が埋まるのかと、何度も会議をしたらしい。


 けれど、マネージャーが何度も掛け合ってくれたそうだ。遥も、後半応援に駆けつけるから、このコンサートによって果崎あかりは完全復活をアピールするのだと、新しくなった統括チーフの家にまで押し掛けたと聞いた。


「本番一分前です!」


 スタッフさんの声が裏手に響く。私は登場装置の台にのった。周りをみると、スタッフさんたちは私に注目した。


 今日、この日を迎えるまで、ずっと尽力してくれた人たちだ。


 この人たちのおかげで、私は今からファンの人たちの前へ行くことが出来る。装置が起動して、ステージへと押し上げられていく。スポットライトのまばゆい光に包まれ、一瞬だけ目を閉じる。


 明滅が終わり目を開けば、目の前には何千、何万とファンの人たちが、私の色であるブルーのペンライトやうちわをもって、私に向かって歓声をあげてくれた。私は一歩ずつ前に進んでいって、マイクを口元にあてる。


「皆さん! こうして待っていてくれて、嬉しいです。ありがとうございます!」


 マイクを通して、私は今日集まってくれた人たち、私を待っていてくれた人たちに、声を届ける。わぁっと歓声がさらに大きくなり、まるで身体全部を元気に包まれているような、漲る想いを全身に感じた。


「ありがとうございます!」


 言葉にするたび、歓声が帰ってくる。大好きなコンサート。大好きなこの場所に、私は戻ることが出来た。皆のおかげで。


「私は、皆さんとお会いしていない間、色々な人たちと話す機会がありました。自分の行動について、見つめ直しました。そうして出会いや別れを重ねていく中で、出来た曲を今から披露します。この曲は、私の心のすべてを注いで書いたものです。どうか私の歌が、誰かの心に繋がることが出来ますように、そして──あなたに届きますように。それでは聴いてください」


 私は観客のみんなを見渡してから、最前席へ視線を向けた。うっすらと暗い観客席には、団扇やペンライトを持ってこちらを見る私を応援してくれる人で溢れている。その一番前に、さくらちゃんと共にラミネートされた手作りチケットを首に下げた姿を見つけた。

 

 一瞬だけ微笑み、私はまた前を見据える。


「タイトルは──」



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