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交差点

 この世界で一番、不愉快な存在をあげるとするならば、私は、きっと。




「──様っ」


 気怠い水曜日の最後の授業を終え、放課後になって早々、教室の隅から声がかかった。


 私は顔を上げ、鞄にしまおうとしていたペンケースに力を込めながら「どうなさいましたの」と笑みを浮かべる。


「あの、今度の月曜日、別の道から帰りたくて……!」


 大きな声で私を呼び止めていたはずの女は、今度はおどおどした調子で申し出る。ここは由緒正しき女学園だというのに、なんて無作法で品のないことか。平手打ちの一つでもしたくなるような声と仕草だ。谷か崖があれば、一思いに突き落としてしまいたい。


「……構いませんわ」

「ありがとうございます!」


 女はそう言いながら私の手元に視線を向け、「独下(どっか)ケイ先生!」と目を輝かせた。


「ケイ先生読まれるんですね!」

「……貴女も?」

「いいえ……好きな人が好きなので、名前だけ覚えてて、本は読んでないんですけど」

「好きな人」

「すごく好きなバンドの人が読んでて、共感して泣いてるって言ってたんで覚えてて……キーホルダーもつけてるんですよ……あ」


 女は自らの鞄を掴むが、ジッパーの部分には何もついていなかった。「どこで落としちゃったんだろう」と、今にも泣きそうな顔をする。教室で泣かれても面倒だと、私は話をそらした。


「その好きなバンドが、独下先生を?」

「はい! ボーカルのラジオも流行ってて、霧垣さんって言うんです! 恋愛の歌が多いんですけど、独下先生の小説に共感して泣いてるって言ってて」

「……独下先生、恋愛小説なんて書いてないけれど」


 該当の作家は様々な小説を書くけれど、バンドマンが好むような恋愛小説どころか恋愛に関する話は無いはずだ。あとがきにも、誰かに恋をしたことがないゆえに、恋愛は良く分からないとあった。


「……?」


 女は首をかしげている。女の好きなバンドマンは、ラジオのために適当な話をしていたのだろうか。


「あっ、ロックって聴かれますか?」


 そして唐突に話題を変えられ、嫌な予感を覚えた。


「クラシック以外はあまり聴く機会に恵まれなくて……」


 嫌な予感を打ち消すため、そう言ってみる。本当はCDを聴いて、好きになった高校生の天才ヴァイオリニスト──桜羽沙椰の存在が思い浮かぶ。


 私が彼女を見つけたのは、現役ヴァイオリニストとして活躍している頃ではなく、彼女が全国コンクールを体調不良で当日欠場して、定期的に行っていたコンサートも全て中止、ヴァイオリニストとしての人生を断った二十代の作曲家兼ピアニストの桜羽沙椰になった後だ。


 彼女は「ヴァイオリンはもう弾かないのか」「何かあったのか」という記者の質問に、笑うだけで答えなかったらしい。


 その一方で養護施設でヴァイオリンを弾いていた、なんて話もあるが、あくまで噂に過ぎない。


「もしよければCDお貸ししましょうか?」


 女の無遠慮な声に顔がひきつるのを必死にこらえる。


 やっぱり。


 やっぱりこうなると思った。


 女は、もしよければと言いつつも、期待の眼差しで私を見てくる。


 そんな彼女を遠巻きに眺めるクラスメイトたちは「馴れ馴れしいのでは」「誰か注意なさったほうが……」と、顔をしかめていく一方だ。


 無理もない。私は代々この国の経済に大きな影響力を持つ家の一人娘だ。


 政界に進出している親族も多くいる。芸能分野でも褒章を持たぬ人間は存在しない。


 周囲は私の能力のみならず、交友関係に至るまで、高い水準を求める。


 当然私も、その期待に応えている。だから敬われる。


 けれど、何をとっても不足して、周囲の最低限の期待一つ応えられないのが、目の前の女だ。


 挙句の果てにロックなんてクラスの九割が聴かないようなものを平然と話し私にすすめる始末だ。白い目で見られても仕方がない。


「ええ、今度の休日にでも」


 軽く微笑むと、女は「はいっ」と嬉しそうな顔をしてから不格好に自分のスカートをつまみ、会釈をした。


 相変わらず慣れてないカーテシーだ。こんなことパーティーでしたら笑いものにされる。とはいえ、今は馬車がそこらを走り回る時代ではないし、するとしてもイギリスやフランスの招待性のパーティーくらいだ。ブランドのレセプションで行っても問題は無いだろうが、きちんとした所作であることが前提だ。


 それでも、出来ないよりかは出来たほうがいい。この学園の中ではなおさらだ。


 近隣の学生にのっとり下品な言い方をすれば、この学園は「御嬢様学校」と呼ばれている。教師生徒問わず、政界、財界、古典芸能の血筋が揃う。


 今現在、大手芸能事務所を経営している刻井グループの総帥やその娘もこの学園の出身で、華道で最も権威と伝統を持つ古賀家も、この学園に通っていた。今代の娘は見聞を広める為にと公立高校に通っているが、それまで古賀家の女系血統はずっとこの学校に入学し、卒業していった。


 そしてどこもかしこも至らぬ女は、学園の中でも一般家庭に近いような末端の家の娘だ。目をかける価値もないが、邪険にしても品格が問われる。扱いづらい娘だった。


「あの、少々お時間よろしいでしょうか」



 欠点ばかりの女と別れ、帰り支度をすすめていると、クラスメイトの一人が声をかけてきた。大手食品会社の重役の娘だ。


「どうされたのかしら」

「あの、彼女……いかがですか? あまりに……付き纏うようでしたら、私たちがお守りして……」


 クラスメイトはそう言って、呑気に廊下を歩く背中を一瞥する。歩き方ひとつとってもあの女は上品さとかけ離れている。背筋も視線も足の動かし方もなってない。


「問題ないわ」

「でも」

「問題があれば、適宜対応するつもり」


 少し声を落として返す。不愉快だった。取るに足らない女の対処も出来ない女だと見くびられることも、私の意向を勝手に理解している気になっていることも。


「将来のことが一番大切だから……それより」


 私はこちらを心配そうに見つめてくるクラスメイトへ、そっと近づく。


「その鞄に入っているキーホルダー、貴女の趣味とは少し違う印象ですわね。随分とまぁ……エキセントリックと言いますか、中々見ないもので……異国のもの?」


 囁くと、クラスメイトはゆっくりと目を見開いた。


「異国のものは盗品も多いと聞きますけれど、そちらのお品物はいかがでしょうね」

「そ、それは」

「もう二度と、私に話しかけないでくださる? 貴女が鞄に入れているそのキーホルダーは、私が預かりますので」


 私はクラスメイトを睨んだ。「私は……」っと醜い言い訳を始めるそぶりを見せたため、「不愉快ですわ」と先手を打つ。もうこのクラスメイトと会うことは無い。でも、最後だからといって情けをかける義理もない。


 私はクラスメイトから安っぽいキーホルダー受け取ると、教室を出た。




「お父様、私のクラスに、食品事業を手広くやっている家がありますでしょう? そこのお嬢さんが、私に文句を言ってきますの。友達は選んだほうがいいって、それに、私のお友達のキーホルダーを盗んで……」


 家に帰ると、私は父の前で預かっていたキーホルダーを取り出した。安っぽいアクリル素材のキーホルダーは、宝石を原料としたシャンデリアの光を反射している。


 独下ケイの物語を、恋愛小説と読むバンドマンのキーホルダー。黒っぽくて、奇抜な書体で『RIKU』と書かれている。


「分かった。対処しておこう。学校にも連絡しなくては」


 父は穏やかに笑みを浮かべ、手元のスマートフォンを取り出す。


 連絡を取ろうとしている相手はきっと、私のクラスの担任ではなく、学園の理事長だ。


 選ばれし者を教育するにはお金がかかる。セキュリティにかける費用だって馬鹿にならない。特殊な学園の運営資金は、あればあるほど良い為、学費のほか、任意として寄付を募っている。


 そして私の家は、年間学園が生徒に求める学費の五倍を送金、他の行事ごとの寄付も惜しまない。金銭的な貢献度は最も高く、無視できない存在だ。


 そして私の感情は、私の家の経営方針にも影響する。父の言う対処は、うちのグループと該当する大手食品会社への契約見直しの打診、そして大手食品会社のライバル企業への融資や協力だ。


「よし、これで大丈夫だ」


 学園との連絡を終えた父が、こちらに振り向く。


「お父様、ありがとうございます。いつもいつも、お手を煩わせて……私、不出来な娘ですわね……」

「気にするな。私が望むのは、お前が生きていることだ。いい子じゃなくても、生きててくれたらいい。そもそも私はいい父親ではないからな」

「お父様、そんなことないわ」


 そう言うと、父は返事をせず、少し寂しそうに微笑んでから手元の資料に触れた。


「悪いが私はちょっと仕事を片付けてから向かう。先に二人で食べはじめていてくれ」


 今日は両親と私揃っての夕食だ。月の半分は海外にいる父と、経営や父を支えながら、人脈を広げ地盤固めをする母は、中々家に帰らない。私も習い事や勉強に忙しく、食事の場で家族が揃うことは稀だ。ただ、使用人がいるから普段から家に一人だけ、というわけでもない。


「御嬢様」


 父の部屋を出ると、三人の使用人が声をかけてきた。使用人と言えど、うちのグループと取引関係にある企業の家事代行サービス、防犯セキュリティ、教育マネジメントサービスの三つの部門で最も能力の高い人間たちだ。手伝いを雇っているというより、外部出向に近い経営形態でこの家に入っている。


「なに」

「今度、そのキーホルダーの持ち主であるご学友と、御嬢様、当主様、夫人の四人でお食事会をなさるのはいかがですか」


「この持ち主、一般家庭に近い家の娘なの。目をかけても意味はないわ」


「御嬢様がご学友のために、当主様へ働きかけをお願いしたのは、今年で八回目ですが」


「あの子のためではないわ。利用しているだけ」


 馬鹿でどこをとっても至らぬ女は、人間の本性を引き出すのに機能している。


 クラスメイトの繋がりは、将来の繋がりだ。悪事は構わないがすぐにバレるようなことをしたり、態度に出す愚か者は私の将来にいらない。どんなに優れていても、何かしらのスキャンダル一つが致命傷になるこの世界なら、なおのこと。


 時代が時代ならば死を持って罰せられる。そんなリスクもいらない。


 だから今回のことも、以前のことも、私が私の未来の為にしたこと。


「なら、そのキーホルダーはどうなさるのですか」

「明日渡すわ。学校の中であの子に親切にすれば、評価になるから」

「さようですか」


 使用人たちは承知しておきながら、どこか受け止めていないような生ぬるい視線を向けてきた。正気を疑う。今月は株主総会や決算期で忙しかった。疲れで気が狂ったのかもしれない。


 だってありえない話だ。あんな愚かで美しくもない女を大切に思えるはずがない。


 私は私の為に動く。あの女の為に動くことはあり得ない。


 それに私には、あの女を憎む理由はあれど、好む理由などないのだから。




 家族での夕食が終わり、就寝前、私は自室に鍵をかけた。パソコンを起動させ、履歴の残らないシークレットモードにしてから、明るいピンク調のサイトを開く。馬鹿みたいなロゴがぱっと表示された後、画面いっぱいに桜が散って、青空が広がる。


 所詮、ゲームのサイトだ。私はそのページにあるstoryタブをクリックした後、一通り眺めて、characterタブをクリックする。


 ディスプレイに表示されるのは、西洋美術や東洋美術、岩絵の具や油彩で出せない色みで描かれた、人物絵の数々。


 見ていると鬱屈とした気持ちになってきて、私は×ボタンをクリックしてタブを閉じた。


 くだらない儀式だ。ただ、あの女と関わっていると、無性にこのサイトを開きたくなる。開いたところで意味なんてないのに。


 次に私は、ヴァイオリニストの桜庭沙椰の公式サイトを開いた。新着情報にはもう何度見たか分からない公演中止のお知らせがトップに並んでいる。日付も同じまま動くことは無い。


 時間が止まっているみたいだと思う。ここだけ。発売されたCDは、何度聴いても褪せない。それでも、変化のない新しさが欲しい。


 私はしばらくサイトを眺めた後、至らぬ女から聞いたバンドマンの名前を入力した。動画サイトには、バンドマンのラジオの短縮処理した動画が並ぶ。


──小説家、会社員と謎パで養護施設を襲撃する霧垣陸。


 謎パという聞きなれない単語を検索する。


 謎のパーティー、仲間たちという意味だ。次に小説家、というワードが気になり、思わずクリックをする。始まった動画には、銀髪の不健康そうな男が出ていた。ゲーミングチェアに腰かけ、背後にはキーボードや音楽機材が並んでいる。


『この間、男四人で行って、子供達と遊んできたんだよね。楽しかった……遊んでもらった? いや違うちゃんと遊んであげた。あと、色々弾いた。今流行りのやつ。俺の曲じゃないからね、事務所のあれがあるから察してほしいけど、動画まわってるやつ一通りやったよ』


 暗い話し方だ。表に立つ人間なのだから、もう少しはっきり話せばいいのに。


『誰と? ケイくんと……独下ケイね、ケイくんと、俺と、俺のマネージャーのバンブーさん』


 ケイくん、独下ケイ。ラジオで好きだと言っていたけど、交流があってのことらしい。


『あ、ケイくんと仕事するとかじゃない、匂わせとかじゃないから。うちの事務所、そういうの厳しい。何月に大きなお知らせ出来ると思います~系全部駄目だしね……うちの事務所でやってる人いる? 人気ならその人が特別扱いしてもらってるだけ、そうじゃないなら漏洩、地獄の二択……で、今回は、元々、うちの事務所がイラストレーターさんとか漫画家さんのマネジメント事業っていうの? エージェント業やってて、それでケイくんの編集者さんと知り合いで、完全にプライベート、だからケイくんと仕事とかはない。出来たらいいけどね。日野氏主演でなんないかな、俺が曲作って、そしたら最高なのに』


 養護施設。霧垣陸の背にあるキーボード。


 桜庭沙椰の姿が頭をよぎる。慰問か何かが流行っているのだろうか。海外の企業は慈善活動に熱心だ。いかに自分が世界に貢献しているか発表に余念がないし、それらを隠していると、「していない」とみなされ、不道徳だと思われるケースも見られる。


 その一方で国内の慈善活動は、発表に対し否定的な反応を示す人間も多い。寄付や慈善活動を暮らしの一部としているか、特別なこととみなしているか、文化や価値観の違いだろう。


 影響力を持つ人間が発表をすれば、寄付や慈善活動の手段自体知らない人間への啓蒙になる。たとえ善意以外に目的があったとしても、誰も損をしない。


 そして霧垣陸の口ぶりは、営みの一つとして話をしているようだった。どこもかしこも至らぬ女の在り方と、少し似ている気がする。好意を抱かれるほうと抱くほう、似ているところがあるのかもしれない。あの女がこの男に影響されているとも考え難い。


『ケイくんとどうやって知り合ったか? 向こうの事情があるからあんま話せないけど、ケイくんが小説書き始める前の知り合いなんだよね、だから小説家になったときびっくりした』


 ぼそぼそとした声が、スピーカーを震わせる。ややあって、曲の紹介と共に流れた音楽は、ジャキジャキしていて、とても好きにはなれなかった。




 週末、教室の席が一つ減った。


「進級してすぐ転校って、あるんですね……」


 教室で、今日も今日とて至らぬ女が、間抜け面を晒しながら窓側先頭の座席を見る。分不相応にも私の教室での在り方に物申した人間は転校していった。


 父親の仕事の都合と表向きは処理されているが、実際のところ窃盗による退学だ。そして父親のほうは業務成績や資質を理由に父親が解任、左遷処理となった。


 該当生徒の家と繋がりのある家の娘たちは、窃盗は知らないまでも父親が左遷処理となったことは知っていて、自分の振る舞いが家の評判に影響するだけでなく、その逆もあるのだと、恐々としていた。


 もちろん、私の家の仕業だとは知られていない。


「そういえばこれ、廊下に落ちてましたわ。もう少し身の回りに注意を払うようになさったらいかが?」


 私は愚かな女に安っぽいキーホルダーを渡した。女は「あっ!」と大きな声を上げ、「探してくださったのですか!」と続ける。声が大きくて下品だ。躾がなってない。程度が知れる。


「たまたま見つけたに過ぎませんわ」

「ありがとうございます! 嬉しいです! これ限定品で……それに、見つけていただいたものという二重の大切が……! もう絶対落としません」

「大切ね」


 私は適当に返事をしながら、空席に視線を移す。私は将来に邪魔な存在を排除したにすぎない。この愚かな女は、私の人生の重要度において最も低い。


「あっ、CD! お持ちしました」


 女はそう言って私にCDを押し付けてくる。もう聴いたし、好きじゃなかった。ただそれをこの場で言うのも面倒で、「どうも」と適当に流しながら受け取る。独下ケイがこのバンドマンと交流が無ければ、事務所に圧をかけて潰せたのに。


「あと、この間、クラシックお好きってお伺いして……家にあるクラシックっぽいものお持ちしました!」

「クラシックっぽい?」

「はい!」


 女が元気な返事をしながら、自らの鞄に手を突っ込む。そして出てきた箱に、目を見開いた。


「乙女ゲームってご存じですか? っていうかゲームってされますか……? これ、発売してちょっと時期が経ってるゲームなんですけど……ゲーム機も持ってきていて」


 呼吸の仕方を一瞬だけ忘れるように、息が止まった。その後、無理やり酸素を奪い返すみたいに、心臓がぎゅっと詰まって、ぐるぐると喉のあたりに気持ち悪さが広がる。


「そ、れは」


 私が一番、見たくなかったもの。そして一番知りたくなかったもの。桃色の髪色の女と、それらを取り巻く男たち、下品で安っぽいハートのロゴ。


「パッケージには出てないんですけど、キャラの一人にクラシックが趣味の方がいるんです。人を虐めてる、悪い人で……でも、どうにも嫌いになれなくて……なのでこの子のことが駄目って方も、いると思いますが……」


 女は探るような眼差しを私に向ける。どうやら私が、人間に加害されたことが無いか気にしているらしい。浅はかだ。私の家を知っていて、私を知っていて、私を加害しようとする人間なんて存在しない。


 それに、私はそちら側じゃない。


「悪いけれど、先生に伝言をしていてもらえるかしら、今日、父の用事に同席しなければいけないことを、すっかり忘れていたと」

「わっ、分かりました」


 女に申しつけると、私は速やかに教室を出ていく。そのままお手洗いに駆けこんだ。鏡を前に、自分を見る。癖一つないまっすぐな黒髪、黒目、私は私だ。


「私は」


 声も違う。ちゃんと違う。


 違う。


 ぎゅっと手のひらを握りしめたあと、一気に血の気が失せて、手から鞄が滑り落ちる。


 外れた留め具から、教材と共にCDが飛び出す。桜羽沙椰の演奏音源だ。


「私の、もの、なの」


 ひとり呟く、鏡の中の自分の目が一瞬だけ赤く見えて、逃げるように私は学校を後にした。




 私は私だ。でも、たまに見る夢がある。


 舞台は中世の世界だ。ただ、いくつか歴史的な矛盾がある。そこでも私は恵まれて、絶対的な位置にいた。私が望めば何でも思い通りになる、文字通り夢のような世界。


 そこで、自分より大切だと、好きだと思う相手がいた。


 王子様みたいで、何でもできて、恵まれたものを持ちながらもそれに奢ることのない努力家で、でも、欠けのある人。


 夢の中のお父様やお母様は、現実の二人と同じように私を愛していた。


 私の願いはなんでも叶えてくれた。なのに不思議と、私を見ている気がしなかった。私がどんな人間でも、今の二人にとってはどうでもいいんじゃないか。たとえば私がある日突然別人になっても、分からない。そんな不安が常にあった。


 私は、私として求められたい。


 そうした中で、婚約者としてあてがわれたのが彼で、私を歓迎しながらも結婚という制度そのものに距離を取った姿に、この人は誰かを愛する、誰かに心から愛されるということを、自分の世界から切り離そうとしているのだと悟った。


 調べれば何故そういう結論に至ったか、良く分かった。彼の家は伝統ある名家ながら、経営に問題を抱えていた。資金に問題を抱える歴史ある家の娘、伝統を欲する真新しい経営者の男、互いに欲し、足りないものを埋め合う政略結婚の果てに生まれたのが彼だ。


 愛のない結婚。


 そうした世界で生きていたならば、誰かを想う想われることを切り捨てて生きるのも、仕方のないこと。


 彼はお母様を早くに亡くしたときですら、運命だから仕方がないと言っていた。自分に言い聞かせるような響きだった。


 風化することのない大切な存在の死を受け入れようとしていて、その一方でお母様と疎遠だったお父様を許せず、葛藤に苦しみ、絞り出すようにそう結論付けた彼の欠落を、私は満たしてあげたかった。


 私を見ていてくれたのは、彼だけだったから。


 でも、彼を求める存在は、私以外にも沢山いた。彼は誰よりも完璧で美しい。ただそこにいるだけで、人を惹きつける魅力がある。一方で彼は誰も求めない。気が気じゃなかった。彼は誠実だけど、ふいにどこかへ行ってしまいそうな儚さがある。繋ぎ留めなければと、出来ることは何でもした。彼に近づく人間を排除して、少しの好意を向けることも許さない。私の家を恐れる人間は多い。だから、あっという間に、彼を求める身の程知らずは去って行った。


 でも、家の権威を恐れない、無知ゆえに彼を求める存在が、桜の花びらと共に現れた。


「……は」


 私は学校から駅に向かう坂を下りていく。周りは住宅街で、車は殆ど通らない道だ。今、大通りでも通ろうものなら、間違いなく私は、線を越える。認めたくないけれど、認めるほかない。


 そしてあちらはあちらで、横断歩道や信号が渡り切れないから、という理由で裏道をとぼとぼ歩く老人とすれ違っていく。


 普段は挨拶くらいはする。でも、今日は声を発する気にもなれない。やがて、ゲートボールか何かのサークルのような老人の集団がやってきて、こちらを見た。


「あんた酷い顔色だね、学校かなにかに電話するかい」


 無言ですれ違おうとすると、一人の老婆に声をかけられた。老婆は自分のポケットから、丸みを帯びたスマホを取り出す。大体の機能が簡略化された、高齢者向けのデバイスだ。私は無言で首を横に振った。


「今女学校なんて言わないよ、女子高って言うんだ」

「名前なんか何だっていいだろ」


 周りの老人が口々に話を始める。このあたりの人たちではないのだろうか。うちの学園は、れっきとした女学園だ。


「あれだ、そこに子供110番のとこあるから、無理そうなら休ませてもらいな」


 人のいないところに行きたい。そんな私に助け舟を出すように、老人のうちの一人が言う。険しいながらに、優しい目をしていた。


「黒辺さんこのあたり詳しかったっけか」


 助け舟を出してきた老人は黒辺というらしい。高齢者集団のまとめ役を担っているのだろう。


「いや全く、孫二人もこの辺りでは遊ばないからな。向こうの観覧車のあたりは小さい頃よく行ってたが……孫いると防犯のシールみたいなの探すようになっちまうんだよ」


「ほあ、そういや孫いくつになったんだ」


「両方高校生になった。おかげさまで二人ともいいとこ行って」


「ああ、新しいところだろ、防犯しっかりしてるとかで、さすが黒辺さんの孫だなぁ」


「俺は何もしてない。頭の手術もしてたしな」


 口々に話をしている。このまま去って行ってもよさそうだと歩みを進めれば、「休めよ」と後ろから声がかかった。黒辺と呼ばれた老人だ。


「何も知らないが、しんどい時は休め、生きてる人間の特権だ」


 生きてる人間の、特権。


 私は会釈だけしてその場を後にした。


 坂を下りれば治るんじゃないか。とにかくあの女から離れればこの鬱屈は消えるのではないか。そんな私の都合のいい想像とは裏腹に、気分はどんどん悪くなるばかりだった。


 足が重くて、引きずるように進んでいく。でも、ちゃんと自分が前に進んでいるか分からない。駅までの慣れ親しんだ道は、まるで別の世界の道に見えた。


 この世界自体、別の世界で、私が住むべき世界じゃないのかもしれない。そんなことないと思いたい。でも、こんな時に限って頭の中を駆け巡るのは、夢の世界の終わりの日だ。


 夢の世界で私は、いくつもの許されざる行いをした。時代が異なっても死刑になる、そんな罪の数々だ。私の欲しいものを奪った女を潰すために。


 ゆえに、私は罰を受けた。自分の命を以てして。家族諸共。


 恋に狂った女だと周りは言った。くだらぬ嫉妬で身を滅ぼす愚かな女。あの夢の世界で私を好きだと思う人間なんていない。私は紛れもない悪であり、滅ぼされるべき存在だ。


 なのに私は、後悔していない。


 私は私を愛する人を、私が欲したあの人を奪ったあの女が決して許せなかった。死んでほしかったし、殺したかった。何度も何度も試みて失敗し、神があの女に味方するのを垣間見るたび、その想いは強くなった。


 神に愛され世界に愛され、両親からも愛され、皆にその人となりそのものを見てもらえる、本当に恵まれている女。


 誰からも愛される女が、私が欲しいものを横からかすめとろうとする。奪われていいはずがないのに、世界が勝手に物事を押し進めていく。だから抗った。


 でも何も得られなかった。彼は私から離れた。


 どうにもならなかった。


 夢の世界で死を迎えた日、悔しくて悔しくてたまらなかった。私は死ぬのに、あの女は私がずっとずっと一緒にいたい彼と、添い遂げることが辛かった。私は彼と永遠にお別れをするのに、あの女は彼と永遠に結ばれるのだ。


 そんな地獄が、頭の中をずっと巡っている。


「辛そうだね、休んでいく?」


 ふいにかけられた声に顔を上げる。すぐそばに、淡い色の髪の青年が立っていた。年齢は二十代前半くらいだろうか。どこか冷ややかで、人を人と思っていないような、全て俯瞰的に見ているような、独特な雰囲気だ。


「え……」


「ああ、僕はこの養護施設で働いてる職員だよ。ほら」


 青年は首から下げていたネックストラップと、側の門を示す。そこには子供が駆けこめることを示したステッカーが貼ってあった。黒辺と呼ばれた老人が言っていた場所はここかもしれない。


「でも」


「どうぞ」


 青年は有無を言わさぬ調子で門の中、平屋建てのカントリーハウスのような建物の中へと入っていく。私はまるで操られるみたいに、青年の後を追った。建物の中は温かみのあるウッド調で、家具の背が全体的に低く、床は段差が少ない。壁には子供が描いた絵のほか、カレンダーや献立の書いた紙が貼ってあり、手洗いうがいの啓蒙ポスターのほか、白い猫や黒髪の女性を描いた絵画もあった。


「今日はボランティアスタッフが多いから、少し騒がしいかもしれない」


 青年はこちらに振り向き、微笑みながら中へと進んでいく。子供たちが青年を見るたびに、「シロくんお絵描きしたい!」と声をかけ、青年は「うん、後でね」とのんびりした調子で返事をしていた。


「シロ、さん?」


 シロくん、ということは名前か苗字がシロ、ということだろうか。史郎や四郎の可能性もある。


「ああ、子供たちからのあだ名。白い木って書いて、シラキきって読むんだ。病院ではシロキさんって読み違えられることも多いし、ああ、彼の場合はまたちょっと事情が違うけど」

「え?」

「あの人もシロって呼ばれてるから。ただ、そう呼んでいいのは一人だけだけどね」


 そう言って、白木さんは外を差した。そこには気だるげな雰囲気を持つ二十代後半くらいの男性が、子供たちと遊んでいた。そして側には、黒髪の女性──桜羽沙耶が立っている。


「桜羽、沙椰……」

「ああ、知ってる?」


 知っている、なんてものじゃない。私はずっと彼女の演奏を聴いていた。でもそれを伝えたら彼女がふっと消えそうな気がして、ぐっと堪える。


「ええ、学園の授業で、楽器を弾くこともあるので」

「そうか、君も楽器を弾くのか。じゃあ、彼とも知り合いだったりするのかな」


 白木さんは、桜羽沙椰からやや離れた所で子供たちと遊ぶ青年を指した。


 こちらも気だるげな雰囲気を持つものの、桜羽沙椰のそばにいる男の人より若い。大学生くらいだろうか。子供たちに笑いかけ、楽しそうにしていた。大学生くらいだろうか。身体つきこそ男性なものの、かなり細く、アイドルの女の子よりも線が細く儚い印象を受ける。そしてもう気温はだいぶ暖かいのに、黒く分厚いパーカーの上から黒いモッズコートを羽織っている。


 そして左頬には、夏の大三角形のような小さな黒点がある。見覚えがある黒子だ。確かに私は彼をコンクールで見かけた気がする。まだ私が小さな頃だ。でも名前が思い出せない。じっと見ていると、青年は子供たちから離れ、こちらに向かってきた。


「白木さん、ちょっと電話してきていいですか」


 青年は子供たちに向けていた笑みをさっと消し、白木さんに話しかける。


「いいよ。今誰もいないのはプレイルームかな」

「ありがとうございます。電話終わったら昼作っておきますけど……」


 そう言って、大学生くらいの青年が私を見る。異物を見るような眼差しだった。


「この子のぶんもお願い」

「承知しました」


 青年は不本意なのか、無感情な声音で返事をする。


「あの、良くないのでは……」 


 私は白木さんに助けを求める。しかし彼は、一切調子を崩さず微笑む。


「大丈夫。あれが彼のスタンダードなんだ、仕事以外で愛想笑いしないっていうか……子供と大切な相手には、態度違うんだよね。初対面の君に理解を求めるのは良くないんだけど……少なくとも拒絶はしてないよ。拒絶してたら、もう少しちゃんとしてる」


 もう少しちゃんとしてる?

 意味が分からない。混乱していれば、今度はもうひとりのシロさんと……桜羽沙椰がこっちにやってきた。


「こんにちは」


 桜羽沙椰が私を見る。同じ空間にいることが信じられず、声が出ない。


「ご、ごきげんよう……」


 思わず学校向けの返事をしてしまった。するともう一人のシロさんが「女学園の生徒か」と呟いた。


「彼女、気分が悪そうだから休んでもらおうと思って」


 白木さんが説明する。なにか追及されたら嫌だと思ったけれど、もう一人のシロさんは「へー」と興味のなさそうな返事をし、桜羽沙椰は「大丈夫?」と私に視線を合わせてきた。


「御心配には及びませんわ」

「ですわガール第二弾じゃん」


 もう一人のシロさんが私を見て、桜羽沙椰が咎めるような視線を彼に送る。


「シロ」

「うい」


 二人の関係性は、いったいなんだろう。ただの知り合いのようには思えない。


「彼は高校の先生をしているんだ。今日は桜羽さんと一緒にサボってるけど」

「え、サボ……ど、どうして」

「学生時代、勉強勉強勉強勉強で無遅刻無欠席だったのに結果出なかった反動」


 桜羽沙椰にシロと呼ばれた男の人は、薄ら笑いを浮かべた。どこか病みや狂気を感じる自嘲的な笑みだった。


「えっと、ここはどういう場所なのでしょうか……」

「逃げ場、色々疲れた人向け」


 尋ねると、桜羽沙椰が応える。彼女が演奏をした噂の養護施設は、ここかもしれない。あまりの出来事の連続に混乱していれば、もう一人のシロさんが「それ」と私の鞄を差す。


「こいつのCDじゃん」


 指の先には、桜羽沙椰のCDがある。


「こいつのこと好きなの? クラシックヲタク?」


 続けられたクラシックのワードが、決定打だった。

 朝の出来事を思い出し、どう反応していいか分からなくなる。


「ご、ごめんなさい、お手洗い、お借りします……!」


 そして私は、朝の教室を再現するかのように、その場から走り去った。 




 あてもなく、駆けていく。どこに行くかも分からないまま。この先が地獄かもしれないままに。頭の中を巡るのは、夢の中の出来事ではなく、あの女とこの世界で初めて話をした──去年の春のことだった。


 元々私たちの通う学校では、防犯を理由に車での送迎通学が推奨されている。


 しかし私たちが入学した代から、近隣道路の交通渋滞緩和の為に、送迎は行事の日のみと限定された。最寄り駅から学校までの大きな坂を徒歩で行き来することを強いられ、不愉快に不愉快を塗り重ねた新学期、なんの巡り合わせか、私は朝の通学路、住宅街の隅で手を合わせるあの女を見かけた。


 そこは、前に交通事故があった場所だった。男の子を庇い女子高生が轢かれて死んだ。新聞には少しだけ記事がのり、全国区のテレビ番組には流れず、知らない人間のほうが多いニュースだ。トラックの運転手に落ち度はなく、男の子が飛び出したことによる不慮の事故と処理され、遺族もまたトラックの運転手や男の子の遺族に対し行動は起こさなかったという。確か妹がいる、なんて話があったから、もう一人の娘のことを鑑みてのことだろう。


 その現場で、あの女は手を合わせていた。外部進学かつ一般家庭の出身であることは早々に知れ渡っていたため、警戒し話をしたことはなかったけれど、クラスメイトを無視して通り過ぎた時の評価、女に声をかける面倒さ、二つを天秤にかけ、私は女に声をかけた。


 確か「お友達だったの?」という質問から始めたと思う。結果は赤の他人だった。他人ながら、同世代の人間が死んだことに心を痛め手を合わせていたという。


 女は花を手向けるか悩んでいた。適当に勧めると、花屋の場所が分からないと宣い紹介した結果、女の手持ちが三百五十円足りず、私がカードで一括払いしようとしたところ、支払いは現金決済のみ、もしもの為の財布で支払いをしたという忌々しい経緯がある。


 そして得たおつりと共に、貸し借りが嫌いな為に不要と言ったにも関わらず「足りない分は明日絶対に」と豚の貯金箱を押し付けてきて、交流が始まった。


 クラスの異物、悪い意味で目立つ存在。完璧な私のクラスの唯一の粗。それが彼女。


 でも、彼女は境遇以外でも、少しだけ人と異なるところがあった。


「赤の他人にどうしてそこまで出来るのでしょうか」


 女と初めての夏を迎えたころ、女は補習を言い渡された。


 そして学年で最も優秀な私に、彼女の補佐をしてほしいと白羽の矢が立った。女は集中力がない。興味のあることへの集中力──成果においての継続は見られるけれど、他の分野においては本当に持続性が無かった。なのに道路に花を供えることだけは、継続している。


「でも、同じ道を通って学校に通うわけですし、先輩ですからね」

「学校は別ですわ。それとも何? 隣の男子校で死亡事故があったらしいですけれど、そこにも花を供えにいくつもりですの?」


 そばにある男子校は、私たちの学校と異なり、進学校とは名ばかりの場所だった。学力は外部の塾に依存したもので、見せかけの合宿や、意義の分からないテストがある。以前カリキュラムをクラスメイトと見たけれど、教師の自己満足が透けて見える稚拙なものだった。


 そうした歪みにより生まれた死亡事故。場所は体育館。指導中に生徒が意識を失ったことで、しばらくの間、このあたりはマスコミが絶えなかった。にもかかわらず、女だけはせっせとあの道路でお供えをしていた。


「死亡事故……」


 女は呟く。駄目だ。この女の愚かさには限界が無い。行きかねない。


「言っておくけれど、男子校には入れませんわ。向こうもこちらに絶対不可侵であるように、こちら側も同じですから。それに貴女は少しは恥じらいを覚えたらどうでしょう。お育ちのことがあるとはいえ、貴女は異性に対して距離感に難があるのではなくて」

「ど、どういうことですか」

「ふしだらということですわ」

「ふしだら……? 私、そんなつもりじゃ……」


 気弱そうに女は視線を彷徨わせた。媚を売り、許しを求めているような声音に感じ、苛立ちを覚える。でも、女が意図してしているわけではないことも知っている。この話し方も、仕草も、この女の元々の話し方だ。


「とにかく、貴女がどんなつもりであっても、異性には控えるべきですわ」

「異性だけですか……? でも、ふしだらに接するのは、男女問わずいけないことでは……?」

「まぁ、そうですわね」


 馬鹿で不愉快、至らないところを探せばきりがない。それがこの女の特徴だった。

 でも一応、愚かなりに信念は持っているようだった。だからか、苛立ちのまま無視が出来ず、思うようにも動かない。


「気を付けます」


 女は痛恨の極みだと言うように、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。庇護欲を掻き立てる仕草だ。以前、女についてクラスメイトの二人が、「ヒロイン気取り」「名前もそれっぽいし」と誹っていた。こういう仕草だろう。私も嫌いだ。この仕草は。腹が立つ。


「ええ」


 私は手短に返す。


「あ……そういえば、今日、お供え用のクッキーを焼いてきたんです」


 本当に気を付けるのだろうか。反省しているのだろうか。女は小包を取り出し、私はため息を吐く。


「烏が来るでしょう。迷惑になりますわ」

「あ……」


 女はしまったという顔をした。感情が顔にすぐ出て、想像力に欠落のある哀れな女。同情のしようがない。欲することなどありえない。


「私が頂きます」


 面倒なので、私はクッキーを貰うことにした。そして、夢の記憶が蘇った。


 それが私の地獄の始まりだった。


 夢の中の私は、ある女を憎む。その女と、どこもかしこも至らぬ彼女は、おそらく生まれ変わり、転生という言葉が似合う。


 さらに直接的に示すのであれば、前世の記憶が蘇った、それに他ならない。ただ、疑念の余地がある。

 私たちの前世は、この現実にない。昔の中世ではなく、乙女ゲームの中の中世である気がしてならない。


 だからこそ、記憶がよみがえってから、どうしていいか分からない。


 私の見ているこの世界が、現実なのか。


 そして私の思考は果たして本当に私のものなのか。

 





「どうしましたか」


 思わず逃げ込んだ場所は書庫だった。養護施設だからか、児童書が並んでいる。しかし、そこに不釣り合いなラインナップがあった。独下ケイの小説だ。全部、三冊ずつ置いてある。その前で心を落ちつけていると、先ほど料理に向かった青年が書庫の入口に立っていた。


「あ……いや、その、すみません、今出ます」


 私は部屋を出ようとする。


「いや別に、そこ、立ち入り自由なんで、好きにしていただければ」


 青年が冷ややかな眼差しのままそっけなく答え、私の前にあった独下ケイの本が並ぶ棚を一瞥した。


「独下ケイ、読むんですか」

「あ、はい……好きで……」


 独下ケイは、ゲームの中にない。だから好きだと言える。


 でも、夢の中の私の趣味には、音楽に纏わるものがある。公式サイトにあった。だから前世を意識してから、自らの嗜好に忌避感を抱く。


 私は私だと思いたい。ただ、途方もなく共通項がある。


 過去の因果で音楽が好きなのか。私が音楽が好きなのか分からない。


 そして、私が今世のあの女に抱く感情は。


「ほー」


 青年は興味なさそうに相槌をうつと、黙った。沈黙が辛くなり、私は問う。


「あの、独下ケイ先生の小説、どうしてこんなにたくさん……」

「寄付の結果。こういう場所の本、買う時もあるけど大体寄付なんですよ、家に余ってるとか、読まなくなった本の寄付を募って。ああ、ぼろぼろとか、汚いのとか、子供に読ませられないやつはなし、エロとかグロとか……」

「なるほど……」



 相槌をうつ。青年はそれ以上話そうとはせず、また沈黙が訪れた。私はまた青年に問う。


「あの、桜羽さんにシロと呼ばれていた方は、なんてお名前で……?」

華室(かむろ)、下の名前が司朗(しろう)。職業高校教師、属性犯罪者」

「は、犯罪者?」

「別名、桜羽沙椰過激派クソキショの民」


 下品な罵倒だ。意味は通じるけど、ここまで汚い言葉は聞いたことが無い。


「お二人はどういうご関係なのですが……血縁関係とかは」

「どのパターンですか? クソキショと桜羽、桜羽と俺、クソキショと俺」

「桜羽さんと華室さんで……」

「赤の他人ですよ」


 桜羽沙椰と無関係でありながら、つかずはなれずの高校教師……そんな彼はサボりでこの施設に来たようなことを言っていたけれど……。


「……もしかしてボランティア繋がりですか……?」


 サボりとボランティアは結びつきにくいけれど、寄付を趣味と言う人間も一定数いる。本当に趣味の人間もいれば、寄付をしたことで集まる褒章等をコレクションするまでが趣味だったり。そう考えると、桜羽沙椰と華室さんはボランティア繋がり……という関係性が想像できる。


「白木さん以外全員ボランティアです」

「なら……貴方も……?」

「いや……俺は暇つぶしにボランティア向け飯炊きをしてるだけなんで」

「なるほど……」


 ならばこの施設は白木さんがまとめている場所、なのだろうか。


「あっお疲れ様です」


 ふいに青年の後ろに見慣れない男の人が立った。青年は「ああ」と、先ほどまでの気だるげな雰囲気を和らげる。


「お疲れ様です。丁度良かった。味見お願いします」

「味見?」


 青年の言葉に、男の人は首を傾げる。


「きったねえ中華屋の炒飯を作ってるんですけど、最終的な塩加減の調整が必要なんで」

「きったねえ中華屋の炒飯」


 青年の言葉に男の人が苦笑した。


「ご希望であればベンチャー成金がパパ活女か水商売の女連れてくようなおしまい鉄板焼き屋炒飯も作れますけど」


「やめてください」


 見慣れない男の人はくすくす笑った後、ちらりと私を見た。そして独下ケイの本に視線を移す。


「独下さんのお話読まれるんですか」

「はい、好きで」


 そう言うと、男の人は少しだけ嬉しそうな顔をした。青年が「趣味悪いですよね」

と付け足し、男の人から「なんてこと言うんですか」と苦笑がちに咎められる。


「独下先生のお話のどんなところがお好きなんですか」


 男の人が問いかけてきた。


「考え方、とか」

「考え方?」


 青年が怪訝な顔をする。


「あとがきで、その」


 どんな話が好きか、色々あって説明しづらい。私は悩みながらも、前世について考えるようになってから、何度も読み返している一節を口にした。


「創作活動として、物語や人物が思い浮かぶこと、精神疾患として診断が下りる、妄想や幻覚、幻聴の症状の線引きは何処にあるのか、ずっと考えています──その考え方とか、どんな結論を抱くのか、気になって」

「そういう独下ケイの考え方が好きなら、もっといい作家いると思いますけどご紹介しましょうか」


 青年が死んだような目で言う。

 また男の人が「だから」と苦笑しながら止めた。青年は男の人に咎められ、やや小馬鹿にするように視線を逸らし鼻で笑うものの、楽しそうだ。


「いえ、大丈夫です」


 私は首を横に振る。すると今度は男の人が嬉しそうに青年を見た。青年は「まぁ」と場を仕切りなおすように気怠げな雰囲気に戻る。


「全部個人の捉え方ですからね。面白いものだけを才能とするか、全て厳密な医学にのっとり疾患と定義するか、なので結論は独下ケイじゃなく、貴女のもので問題が無い」

「……私が?」

「はい。誰が誰であるか、そういうのも含めて」


 私は私、それを、私が決めてもいい。


「悪いことを、していてもですか」

「悪人なら悪人だからこそ自分で決めていいんじゃないですか。自分はなんなのか。それに、自分で決めるのが難しいなら、誰かに決めてもらっても、別に。そもそも悪いことしたなら、許すか許さないか決めるのは、加害者本人では絶対にないので」

「相手の意識が無い場合は」

「個人的な考えですが意識するまで待つのが罰です。苦しいと思いますが、何も知らない被害者に対して、私はあなたにこんな酷いことをしたと告白するのは、自己満足でしかありません。なので、苦しんでくださいとしか言いようがないです。それに、因果応報はありますからね、いい意味でも悪い意味でも。そしてその因果応報もまた、本人が定めることじゃない」


 青年はきっぱり言う。そして「別にスピリチュアルに傾倒してるわけじゃないですけど」と続けた。


「あの、独下先生の本読まれるんですか?」


 青年は独下先生みたいな考え方だと思う。彼は隣にいた男の人に視線を移す。


「いや……受け売りです。じゃあ……石橋さん、お願いします」


 青年は側にいた男の人に声をかける。石橋と呼ばれた男の人──石橋さんは、また「だから」と困ったような顔をして、部屋を去る青年の後を追う。そうして私は、一人になった。


 何となく私も部屋を出るとピアノの音が聞こえてくる。


 音色の聞こえるほうへ足を動かせば、小さな部屋で桜羽沙椰が子供用のピアノで演奏をしていた。


 彼女はヴァイオリン奏者だ。ピアニストではない。なのにピアノを弾く姿は、とてもしっくりくる。そしてヴァイオリンを弾くときよりずっと楽しそうだった。


 そばには華室さんがいて、ピアノを弾く桜羽沙椰を眺めていた。


 しばらくして、演奏が終わる。私は拍手をした。


「ありがとう」


 桜羽沙椰が微笑む。


「いいえ、こちらこそ素晴らしい演奏をありがとうございます。とてもいい時間を過ごすことが出来ました」

「ヴァイオリンじゃないけど大丈夫だった?」


 桜羽沙椰は、私の鞄を見て、悪戯をするように言う。


「ピアノ、初めて聴かせていただきましたが……美しかったです」

「それは何より。出来れば、ピアノも好きになって? 私、ヴァイオリンはもう、気まぐれにしか弾かないから」

「それは……怪我、とか」


 探りを入れることは本意ではない。でも、桜羽沙椰と話をする機会なんて二度とないかもしれない。そしてずっと、ずっと好きだった。彼女のヴァイオリンの音色が。それがもう二度と聴けなくなるかもしれない。その理由がどうしても知りたい。


「ううん。ヴァイオリンを弾き続けると、私はいずれ、人を殺してしまう。だからやめたの」

「人を、殺す……?」

「そうよ。その分、私はピアノを弾く。沢山。この男を横において」


 桜羽さんは華室さんを見た。


「自分のファンにそんなこと言うなよ」

「正直でありたいじゃない。この子の持ってるCD、かなり前に出した初回盤だし、当時から持っててもすごいけれど、今から手に入れるのも相当な苦労しなければならないわ。私ほら、消息不明扱いの天才ピアニストだし。いつまでも叶わないものを追い続けることは、辛いでしょう」


 更新のない最新情報、動かない日付、そして、かつて彼を見ていた記憶。


 それらを眺めていた自分を見透かすように彼女は言う。


「……でも、もしかしたら、ピアノを弾くようになるかもしれない。その時は、きちんと伝えるわ。連絡先を教えてくれる?」

「え」

「嫌ならいいけど」

「そんなことありません」


 私は慌てて持っていたルーズリーフに自分のアドレスを記す。華室さんが「古典的」と呟き、桜羽さんが「シロ」と咎める。さっきの青年と石橋さんみたいだと思った。性別も関係性も違うけれど。


「何かあればこのアドレスに連絡するわ。一生連絡しないかもしれないけど、その時は……私のこと、許せなかったら許さないままにして許さないでいいから」

「いいのかよ」


 今度は桜羽沙椰に華室さんが問う。


「当然よ。許す許さないは被害者が決めること。私の決めることじゃない。彼女は私を応援してくれた。私はそれに応えたこともあったかもしれない。でも、私は彼女の時間と好意を奪ったうえで彼女を裏切ってる。その罪を抱えながら、私は生きていくから。それに、彼女がたまたま目の前に立っているからこう言ってるけど、私は、今ここにいない、私が直接見てない、知らないけれど私のことを応援している人を、裏切ってるから」

「……辛くは、ないのですか」

「私は、酷い人間だから、周りの期待に応えなきゃって思って生きていくほうが辛い。評価されて天国で幸せになることより、この男が側にいるほうを選ぶ。地獄の底で、ずっとずっと、成功とはかけ離れて、順調や安定から逸れたとしても」

「俺は安定したい」

「裏切り者」

「冗談だろ、地獄に引きずり込むのは、俺の役目だから……ああ、こいつがヴァイオリンやめたの、俺のせいだから」


 華室さんが薄ら笑いを浮かべた。


「違いますよね」


 私は即答する。先ほどの桜羽沙椰の言葉に、偽りを感じない。ずっと彼女の音を聴いていたから分かる。嘘が無かった。


「桜羽さんは、選ばれたのでしょう……? 別の道に進むと」


 本当は認めたくない。彼女のヴァイオリンが聴けなくなるかもしれないことなんて。


「そうよ。だから私は地獄に落ちるの。ちゃんと地獄を地獄だと思えるように、この世界に生きて、幸せになってから、死んでその罰を受け入れるわ」


 でもその笑顔を見てしまえば、納得するしかなかった。

 私は、桜庭沙椰の演奏が好きだから。




 帰り際、白木さんにお礼を伝えた。


「ありがとうございました。だいぶ、元気になりました」

「それは何よりです。またいらしてください。良ければ……ボランティアでも」


 白木さんは優しい笑みを浮かべる。その眼差しは、私を映しているようで、なにか、漠然とした大きな何かをただ眺めているようにも見える。


「あの、大きな書庫って、どういう選び方で……置いてあるんですか」

「すべて寄付ですよ。書庫を作っているのは、僕の趣味ですけど。物語に触れるの、好きなんですよね」


 物語が好き。私は、ある質問をすることにした。


「もし、物語の世界の人間が現実に出現したら、どう思いますか」


 頭がおかしい人間だと思われるのは、百も承知だ。でも、家族には絶対に聞けない。勿論、学校の人間にも。


「空想が現実に侵食していない証明は誰にも出来ない」


 すると、白木さんがそれまで浮かべていた笑みを消し、呟いた。穏やかな空気が一転して冷ややかなものに変わる。怒らせたかもしれない、とたじろぐが、彼の目を見てわかった。


 こっちのほうが、本心なのだと。


「そもそも現実と空想の線引きは出来ない。自分たちが現実だと思っているこの世界こそ、誰かの物語かもしれない。よく、言うじゃないですか、皆が皆主人公、実際、そうかもしれない」


 白木さんは窓の外に視線を移す。そこでは、子供たちが楽しそうに遊んでいる。


「俺は、地獄のような退屈さえ紛れればいいんですよ、この世界がなんであろうと」


 そういう白木さんの眼差しは、どこか、とても遠くを見ているようだった。



 月曜日。私は約束通り、至らぬ女と一緒に帰った。


「体調、大丈夫ですか?」


 弔いの花束を抱えながら、女は私に問いかける。お前に心配される筋合いはない。自分の成績の心配でもしていろ。とは声に出さず、「心配には及びませんわ」と付け足す。


「でも」

「気もそぞろなのは故人に失礼でしょう」


 そう言えば、女は「た、たしかに……」と気を引き締めた顔をして、ガードレールのそばにしゃがんだ。手を合わせ、目を閉じる。私はそのまま手を合わせた。


 今、生きていて、生まれて、死んでいく人間がいる。同じ数だけ──いや、それ以上の物語があるのだろう。一人で何百と物語を生みだして死んだ人間もいる。人間の数え方は一人、命の数え方は一つ、生涯の数え方は一生、小説は一章とも一つとも言える。


 私はいずれ罰を受けるのだろう。前の世では死んだだけだ。苦しんでいない。悪しき行いには報いが来る。因果応報はある。私は幸せになれはしない。


 見過ごされている今を幸せにして、その日を待つ。何が起きるか、分からないけど。


 迎え撃つ。逃げない。私は私だから。夢の中の私と似ている思考かもしれないけど、似ているだけであの女のものではないはずだ。あの女はきっと、私が地獄に落ちるわけないと、最期まで思っていたはずだ。


 私は違う。


 私は地獄に落ちる。理解したうえで、この世界で生きていく。


「姉の、知り合いですか」


 至らぬ女の黙祷を待っていると、凛とした声が響く。目つきが悪い、セミロングヘアの女が立っていた。


「いえ、同じ通学路というだけです。彼女、感受性が強すぎるので」


 至らぬ女に話をさせると面倒くさい。私が代わりに答えた。とりとめもない返答だが、変な人間だと思われたほうが楽だ。姉と言った以上、親族だろう。関わりたくない。


「では……私たちはこれで」

「えっ」


 隣で愚か者が間抜けな声を上げる。「親族よ、邪魔をすべきでないわ」と耳打ちする。


「行きますわよ、ありすさん」

「あっ、霧華(きりか)様! 待ってください!」


 至らぬ女は大慌てで私を追う。


「この後、良ければお茶しませんか? あそこのハンバーガーショップで」


 すぐに追いついてきたかと思えば、図々しくもお茶に誘ってきた。視線を向ければ、大通りの向こうに女の言う通りの店がある。ただ、そばには弔いの花束があった。事故の多い場所なのかもしれない。道路の感じを見ていると、死角になりやすい場所がいくつもある。注意力に欠けるこの女を歩かせるのは良くない気がする。今までどうして気付かなかったんだろう。


「明日はテストがあることをお忘れになったの? 今日の復習があるでしょう?」


「復習得意なので」


「どこが」


 馬鹿みたいに自信満々な声に思わず返してしまった。


「何かを思い出しながらするのっていいなぁって最近思うようになったんです。苦しいこともあるんですけど、気付くこともあるので」

「気付き?」

「はい。例えば、古文? 心情をとかあるじゃないですか、復習して言葉の意味が分かるようになれば、ああここ、こういう気持ちで言ったのかなとか、辛いんだろうなぁとか……苦しいんだろうなぁとか、そう思うと、可愛いなって……」

「古文に可愛い?」


 女はどこまでも至らない、ゆえに理解が出来ないと思っていたが、それはそれとしてこの女自体がおかしいのかもしれない。


「はい。可愛いですよ、とても。守りたいって思います。前は守ってもらいたいと思っていたのに、不思議なくらい」

「ふうん」

「ずっと……ずっとですよ」


 女は私の隣を歩きながら言う。物語を守りたい、表現規制問題に取り組もうとでも言うのだろうか。私は首をかしげながら歩みを進める。


 私の行きつく先は地獄であると、理解しながら。




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