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意図して省いている注意書きがあります。懸念のある方はご了承ください。








 一緒に死のうと言って、いいよと返す人間が、この世界にどれくらいいるのだろう。


 たいていの人間は言葉を濁すか、そんな悲しいこと言わないで、と否定するかだ。いいよとは言わない。巻き添えになりたくないから。どんな関係性であっても。


 それでも受け入れてしまうのはもう、狂気の沙汰としか言いようがない。


 でも、そんな幸福なことは、無いと思う。




「去年おらんかったから全然分からんのやけど、文化祭のクラスポスターって絶対出さなあかんやつ?」


 カーテンがはためく放課後の秋の教室。メタルフレームの眼鏡の男子生徒が、教卓に立つ。ふわふわしたマッシュヘアに柔和な面立ち、こっちには無い訛り言葉で構成されている──廻田(まわた)(なお)。そんな彼を助けるために、クラスの皆はあれこれ助言をし始めた。


 その光景を見た人間は、誰しもこのクラスの中心は彼だと言うだろう。しかし彼は、夏の終わり、新学期の始まりと同時に現われた転校生だ。


 西で随一の進学校からやってきたらしい彼は、瞬く間にこのクラスの中心に君臨した。さらには文化祭委員の手伝いという、とても転校してきた人間では務まらないはずの役割を担い、男女問わず頼りにされている。女子生徒たちの話によれば、全国を規模とした作文コンクールで度々賞を取っていたらしい。


 一方の私といえば、4月からきちんと居たにも関わらず、無だった。


いじめられているわけじゃないし、話し相手もいなくはない。ただ、頼りにしたりされたりする相手がいない。ふんわり、無だ。たとえば移動教室でなんとなく集まる人はいる。でも、私が欠席すれば、その人たちは、別の人を探す。


いてもいなくても、問題のない存在。


文化祭も同じだった。私がいてもいなくてもいいし、私も、文化祭があってもなくても構わない。


 とはいえ文化祭まで、残り二週間。


最初はやりたい人だけ手伝いに参加すればいい、という緩い雰囲気が徐々に「準備に参加してないなんて」と強制じみたものに変わってきた。


そろそろ逃げ続けるのも無理かと参加したものの、準備の場は廻田直を中心にエモを凝縮した青春空間が広がっていて、とても居心地のいい空間ではない。


 頃合いを見て立ち去りたい。


出し物はお化け屋敷で、私の任された仕事は、段ボールをひたすら黒く塗っていく作業だ。塗り終わったものは、窓に貼って光を遮るのに使うらしい。


正直、生物室や科学室にある日光を遮断できるカーテンを使えば、と思う。でも、私の考えつくようなことを、他の人間が思いつかないはずもなく、カーテンは先輩たちが早々に借りていったらしい。


 面倒だなと思いながら、ペタペタと段ボールを黒く塗りつぶしていく。


他にも同じ係を任命された人間はいるけど、誰かが持ってきたクッキーやポテチを食べ、話をしながらの作業だ。食べかすが絵具を塗った表面にぽつぽつと落ちていっているけど、どうせ見えない。表面がザラザラしていたり、何度も同じ所を塗ったりして色ムラになっても、結局、照明を落とす。


これ、黒いガムテープを貼るだけで良かったのでは。絵具の無駄では。


いやでも、ガムテープを貼れば後々の分別が面倒になるのか。


暇すぎて、そんなことばかり考えてしまう。とはいえ作業ペースを速めれば、やる気があるとみられ、必要以上に仕事を投げられる。


 ああ、早めに帰りたい。鬱々としていると、手元に真新しい上履きがカットインしてきた。顔を上げると、廻田直が立っていた。


「めっちゃめちゃ綺麗に塗るなぁ。大理石やんこれ」


 廻田直は私の塗っていた箇所を見つめながらしゃがみ込む。いつの間に近づいてきたのか、さっぱり分からなかった。


「君、素井(もとい)さん……よな?」


 廻田直は恐る恐る問いかけてくる。


「……うん」


「もしかして美術部だったりする? 絵描くん?」


「入ってない。絵も、描かない」


 先ほど、廻田直はクラスのポスターについて言及していた。この学校では、文化祭に向け、各クラス、廊下に出し物のポスターを貼らなくてはいけない決まりがある。


普通はどこのクラスにでも絵が上手かったり、上手くなくても絵を描くことが好きな人がいる。でも、該当する人間がうちのクラスでは無だった。そのため文化祭二週間前の現在、ポスターの完成どころか、そもそも、描く人間すら決まっていない。危機的状況だ。


「これを機に描いたりせえへん? ポスター」


 描かないと言っているのに、廻田直は口角を上げる。「美術、成績1だから」と続け断れば、彼は納得した様子でこちらから離れていく。


「廻田くん、顔良くない」


「めっちゃ分かる」


「うわ、めっちゃって、エセ方言、廻田くんに影響受けてんの?」


「めっちゃは普通に使うでしょこっちでも」


「本当にかっこいいよね、訛り」


 お菓子を食べながらペンキを塗る女子たちが盛り上がる。私は盛り上がる彼女たちを横目に、目の前の作業を片付けていた。






「めっちゃって西の方言なんですか」


 油彩の香りが色濃く漂う木造りのアトリエ。そこが私のバイト先だ。


住宅街から少し逸れたところに建ち、午前と午後の二部制で、油画日本画デザイン問わず学ぶことができる。夜は自主制作向けに開放され、集まる人間も、昼間とは、がらりと変わる。


 昼は、主に年金暮らしの高齢者。夜は、美術予備校に行くお金のない受験生や浪人生や、制作場所が確保できない絵描き──平均年齢が一気に下がる。


 昼も夜も来たことがあるけど、昼は賑やか和気あいあいとして、夜の空気は少しだけピリつく。その何とも言えない空気は、人によっては居心地が悪いと感じるかもしれない。でも集中したい、今から目を逸らして、ただ目の前の対象だけを見ていたいと考える人間にとっては、居場所になる。


「めっちゃ? めっちゃって関西弁なのか?」


 カッターで鉛筆を削りながら戸惑うのは、椙成(すぎなり)さん──椙成琥珀(こはく)さんだ。私と同じ高校二年生なものの、彼女はスポーツ系の進学校の特待生。両親は教師の血筋で、家族全員身体を動かすことを好み、休日は家族みんなでランニングをするらしい。


 そんな彼女が何故アトリエにいるかといえば、美術の成績が絶望的だから、らしい。きちんと毎日出席し、美術史にまつわるテストは悪くないにも関わらず、5段階評価で2。先生が厳しいのではと思ったけど、彼女の絵を見ると……テストの評価で2を与えるのは、かなりの恩情だと思う。


椙成さんも、自分の状況を理解しているらしい。なんとかしたいとここにやってきた。努力と向上心の人だ。性格も朗らかで裏表がない。


「なんか今日、クラスの女子が話をしていたんですよね」


「めっちゃ……私も使うけどなぁ。でも西の言葉なのか、今日家帰ったら聞こうかな? 母さんか父さんが分からなくても、現代文の先生とかなら分かりそうだし」


 椙成さんは、どうして自分の学校の現代文の先生に同じ質問をしないかとか、そういうことを聞いてこない。彼女と接した誰もが、彼女を明るくいい人だと言うだろう。でも、人の痛みに鈍くない。そこが、普通の明るくいい人とは違う。だからアトリエでは、異質な気質なのに、彼女の存在はよく馴染んでいる。私自身、彼女のことは結構好きだ。


「転校生が、西のほうの出身で、クラスメイトで訛りがうつってる人とかいて、女子が言ってたんですよね」


「へ~転校生かぁ、夏休み終わり、丁度その時期かぁ、でも二年で転校してくるって、大変そうだな……もう、グループとかできているだろうし」


「元々いた私より全然馴染んでますよ」


「そうなのか? すごいなぁ」


 廻田直がすごい。確かにその通りだと思う。でも椙成さんは少しだけ不正解だ。正解は、廻田直もすごいけど私も私で駄目すぎるに尽きる。


「じゃあ、今日聞いておくから、次会ったとき、報告するな」


 椙成さんがはにかむ。太陽みたいな表情だ。きっと彼女は家に帰って、両親に聞くと思う。忘れっぽいところがあるけど、彼女は約束を守る人だから。そして彼女の両親と会ったことがあるけど、娘の質問にきちんと答える、誠実そうな両親だった。


 私の家と、違って。




 バイトが終わり、家に帰る。


そこから私の試練が始まる。足音を殺しながら玄関を開け、細心の注意を払いながら自分の部屋を目指す、試練。我ながら泥棒みたいだと思う。実際、変わらない。金食い虫だから。


 頭の中は最悪の想像が駆け巡る。会いたくない。喉の奥がぎゅっとなり腹痛を覚えながら、考え方を変えていく。これはゲームか何かだ。発見されるとゲームオーバーになるタイプの、ゲーム。だから現実じゃない。


そうして暗い廊下を進んでいると、うめき声が響いた。私は即座にすぐそばの風呂場に身を隠す。すると、ばたばたと足音が廊下から響いた。


「もう静かにしてよ!」


 母親の声だ。苛立ちの滲んだ声に、一気に気持ちが沈んでいく。イヤホンをつけたいけど、つけたら母親とうめき声の主──祖母が何をしているか、どこにいるか分からなくなってしまう。


私は見つかりませんようにと祈りながら、持っていた鞄の紐を握りしめた。


やがて、人の気配が消え、しんと家の中が静まり返る。私は深呼吸をしてからお風呂場を出て、自分の部屋に辿り着き、部屋を閉じてからイヤホンを耳につけ、音量を最大にして、良く知りもしないロックバンドの曲をかけ、無になる。


 ゲームクリアだ。


 私は目を閉じながら、今日は運が良かったなと息を吐く。


今日は朝も夜も、会いたくない人間の顔を見ずに済んだ。


 母親、もう敵も味方も分からず自分でトイレに行くこともままならない祖母、働きながら自分の母親の世話をし続け心が疲れきった父。


 三人の顔を見たくない私。


 我ながら、酷い人間だと思う。


 元からだけど、酷さが増したのは二年前にさかのぼる。


 遠方に一人で住む父方の祖母が倒れた。引き取り手がうちしかなく、施設に入れるのは可哀そうだと、父親も母親も祖母をうちに迎え入れた。


 でも、新しい環境のストレスのためか、祖母は急速に衰えていった。足腰も認識機能も、何もかも。


 父親は働きながら、介護をした。母親はパートをしていたけど、祖母の出来ないこと、それとは引き換えにやってしまうことが増えるにつれ、辞めざるを得なくなった。


 祖母の年金が家に入ってくるから、辞めても問題が無いと言っていたけど、最低限の生活が出来ると言うだけで、今までどおりの暮らしてができるわけではない。


 むしろ母は自給なしに介護士と同じことをするようになり、父親は父親でパートをやめた母の代わりに休日出勤と残業が増えた。そのうえで、家族全員で祖母を支えた。


 でも祖母が、「財布がなくなった、お前が犯人だ」と、私を犯人扱いするようになったことで、私の手伝いとしての機能は失った。


その代わりに家事をした。でも、祖母が私が毒を混ぜようとしていると、また機能を失った。


 男女問わず、ヒステリックな声が家の中で響く。断続的に。


暴言や徘徊、近所を巻き込むトラブルは、月に一度だった頻度が週に一度に代わり、やがて毎日、日常を侵食していく。


 施設に入れようにも、助けを求めようとも、公的に祖母は数多居る支えが必要な高齢者のうちの一人で、むしろ私たち家族がいることが救いとなり、家族のそばが居場所だった。


 世界には、祖母よりもっと辛い境遇の人がいる。


だから、出来る限り、家族の中で努力をしなくてはいけない。自助努力だ。


 でも、努力が実るのは一握り。


努力が必ず報われる世界なら、毎年毎年、自分から死ぬような人間は出ない。自殺なんて言葉はこの世界から無くなっているだろうし、命の相談をする電話なんて、無駄だと廃されているはずだ。


それが在るということは、必要な人間がいるから。


 要するに、父が崩れた。感情が消え、身体を動かすのもやっとで、視線もずっと同じところを向いている。感情の起伏が一切なく、暴れることもない。だから祖母の世話をするより楽だと思ってしまったのが駄目だったのかもしれない。


 そうした父の感情全てを引き継いだのか、暴れるようになったのは母親だった。


 そうして、今に至る。


 私の機能は、暑くても長袖を着る、なるべく家に帰らないようにして、家に居ても、誰とも会わないように気を付ける、それくらいだ。


 だからこそ、薄情だと思うけど、家族の誰のことも、見たくないのが正直なところだった。


 今日も、興味もない、ただただうめき声も怒鳴り声も聞こえないからという理由で聞いているロックバンドの曲に集中する。それ以外、やることがない。


 対策が無い。未来もない。






 教室で進路希望調査のプリントが配られた。


「なんかこういうのって始業式のすぐ後のイメージあったけど」


「事件があったからじゃない?」


 前から順番にプリントが配られる中、そばにいたクラスメイトが話をする。


 夏の終わり、高校生の男女による事件が起きた。地方の事件ながら、世代や影響を鑑み、休み明けの教室では命の大切さの授業が行われた。


 校長先生だけではなく、学年主任が学年ごとに生徒を集めて話をし、何度も何度も何度も、「辛いことがあったら周りの人に相談して」「一人で抱え込まないで」「命は尊い」と繰り返した。


 数えてはいなかったけど、両手では絶対に数えきれない。


 でも、辛いことがあって、周りに相談したとき、どうしてくれるかを、先生は言わないと思う。話を聞く気は多分ある。でも、学校で出来ることなんて限られていて、勉強を教えることが生業の先生は、死にたさの対処なんてしてくれない。そもそも仕事じゃない。困らせてしまうなんていい子なことは思えない。だってちゃんと、認めさせようとしてくるから。


『出来ることはしてる』


『やれることはしました』


 結局学校側が伝えたいメッセージは、こんな感じだろう。


もしかしたら本当に人間全員の命が尊いと思っていて、誰にも死んでほしくないと思う先生もいるかもしれない。ただ、皆が皆そうじゃない。


 相談したところで、相談してくれてありがとうとお礼を言って、うんうん頷くだけ。無理解の共感や傾聴の後は、苦しくても辛くても我慢して生きてねを丁寧に丁寧にラッピングして渡してきて、私は生徒の心のケアに対応しましたと、小学校の頃にやったような課題提出スタンプの押印をこちらに求めてくるだけだ。


 面倒だな、と思う。


 何もかも。






 休み時間、私は教室を出た。


 人気の少ない廊下で、進路希望のプリントに命のあれこれを一枚にまとめた紙を重ねて、紙飛行機にしていく。


当たり障りのないことを書いて出すか、そのまま捨てようか迷ったけど、なんとなく、気分が軽くなりそうな手段がそれだった。


「それもっと飛ぶ折り方あるで」


 紙飛行機を手放す矢先、手を止める。振り向くと廻田直が立っていた。


「なんか紙分厚ない? あ、重なってもうてるやんか」


 廻田直はそう言うと、私の手から紙飛行機をぱっと取り上げる。広げられた二枚重ねのプリントを一瞥すると、首をひねった。


「進路希望、なんでこんなんしよる」


「未来なんかないから」


 頭のおかしい人だと思われても、構わなかった。


この先廻田直と関わっていくことになっても困る。そう思う一方、これから先関わる要因なんて、どこにもないのに。


「俺もや、仲間やん」


 なのに廻田直はありえないことを言った。


誰よりも明るい未来に溢れてそうなのに。


彼は「俺も飛ばそかな」と、ポケットからぐしゃぐしゃに丸められた何かを取り出した。繊細な指先で、彼は丸められたものを広げていく。力いっぱい固めたようなそれは、進路希望調査票だった。


「お前もしてはったやろ、なんでそんな驚いてねん」


「でも、ど、どうして、そんなこと」


「そうしたなったから」


 彼は平然と言って、「で、折り方やけど」と、ぐしゃぐしゃにしたプリントを引き伸ばしていく。


「ちゃんと折り目つけて」


「えっと……」


 言われるがまま、私は紙飛行機を折っていく。あまり見ないやり方だ。


「に、西のほうではその折り方が有名なの?」


「こっちのほうではせえへんのか?」


「しない」


「ならそうやんな。自分ではよう分からへん。こっちもんかあっちもんかなんて、ずっと西におったしな」


 確かに、その場所にいなければ、その場所特有のものかは分からない。


修学旅行の時見ていたテレビ番組は、その地方特有のローカルものが多く、バラエティ番組のノリもその場その場で独特だった。


 でも、廻田直の存在も、話も言葉もノリも、こちら側の人間を惹きつけながら、教室に馴染んでいるように思う。訛りは目立つけれど、浸透圧のように上手く調整しているのだろうか。


個性の塊のような存在感を持つのに、透明で澄んで、色は無い。


「てか絵描くやんけ自分」


 紙飛行機を折っていると、唐突に冷ややかな声が響く。彼の視線は、教室を出る時一緒に持っていた私の鞄、そしてその中にあるクロッキー帳に注がれていた。


「これあれやろ、絵の練習する奴やろ、隠しても無駄やで、俺の知り合い、実家の和菓子屋継ぐ言うてな、でも絵、絶望的に下手で、図案書かれへんから練習する言うてこれ買うてきたん俺見てん……あ、やっぱり、絵上手い」


 廻田直は私の鞄からクロッキー帳をさっと手に取ると、ぱらぱらと勝手にめくり始めた。


「画家とか目指しとるんか」


「え、いや」


「美術部とか入っとらん言うとったけど、方向性の違い? 俺の前おったとこ、美術部言うても漫研と大差ない感じやったし、そんな感じなんか、ここ」


「いや……」


 私は言葉を濁す。


廻田直はクロッキー帳から視線を外すことなく、「で」と付け足した。


「何で嘘ついたん。絵描かへんって」


「……」


「クラスのポスター描きたないだけか」


 今度は鋭く刺すような視線が向けられる。


「クラスのポスター問わず、学校で、絵を描きたくない」


「なんで、こんな上手いのに」


 正直、クラスの人間よりは描ける。


そもそも、美術の授業に熱心な生徒自体がいない。


やる気が無くても、大体の基礎力は分かる。下手なふりをしていても、描けないふりをしているのは分かるし、逆に、作品を見てこの人は別のこういうものも描けるな、というのも分かる。


描かない人間には一生分からない感覚だと思うし、説明もしづらい。でも、分かるとしか言いようがない。


 だからこそ、私が絵を描けることを、クラスの誰も分からなかった。


「描きたくないから」


「気変わる予定ない」


「ない?」


「なんしたら変わる?」


 廻田直は続けざまに問いかけてくる。得体の知れない圧を感じた。中途半端な言い訳は許さない、それでいて、なにがあっても絶対に描かせる、自分の意思を貫くと言う覚悟に、肌がひりつく。


「一緒に死んでくれたら」


 だから私は、突拍子もない言葉で迎えうった。


それしか、切れるカードが無い。これで頭がおかしいやつだと思われたほうがいい。ポスターなんて描きたくない。何を馬鹿なことを言っているんだと、呆れられるほうがいい。なのに。


「よし決まりやな。決行は文化祭の日でええか」


 廻田直は、クロッキー帳を閉じると、清々しい調子で私の絶対的な要求を受け入れた。




6日前




 一緒に死のうと言って、いいよと返す人間が、この世界にどれくらいいるんだろう。


 たいていの人間は言葉を濁すか、そんな悲しいこと言わないでと否定するかだ。いいよとは言わない。巻き添えになりたくないから。どんな関係性であってもだ。


 家族友人恋人その他もろもろ、名前がつけられ親交が認められる関係性だってそうなのに、2回しか話をしたことのないクラスメイトの命に関わる申請を受理するのは、約束を守る気がないのか、それとも……自分の命に執着が無いのか。


「信頼関係の構築もまだやからな、持って来たわ、昨日突貫で書いたもんやけど、ほら」


 私が死の要求を廻田直に突き付けた翌日のこと、彼は教室に来るなり、「ちょっと顔貸し」と私に声をかけると、昨日の廊下で白い封筒を渡してきた。


 そこには達筆な字で、遺書と書かれていた。初めて見る、他人の遺書だ。


「お前の分は」


 試すように見られ、私は慌てて自分の鞄からスマホを取り出す。パスコードで解除して、メモ帳アプリを起動させた。


「これに、書いてるけど……」


「印刷しといたほうがええで、パスコードかけとんのやったら」


 廻田直は昨日突然、たいして話しもしてないクラスメイトから死の打診を受けた。


はずなのに、彼はそんなクラスメイトに対して丁寧にアドバイスまでしてくる。これでは用意した遺書が本物か偽物かなんて、疑う余地もない。


「で、ポスターのスケジュールやけど、貼り出しの締め切りが前日の放課後までやってん。そっからスケジュール切るとなると、ラフ1日、下書き1日、色塗り……多めに見積もって3日、要するにこの5日でどうにかせな。お前も予定あるやろうから、実働3日、あぁこんがらがってきた、とりあえずこれ渡すから明日ラフな」


 次に廻田直はクリアファイルを取り出してきた。


「遺書第二弾?」


「遺書二本立てにするわけないやろ、イメージやイメージ、あと、描くんに必要そうな資料」


 クリアファイルの中には例年のポスターファイルのほか、クラスの出し物のお化けのラインナップ、本当に簡単な完成ラフまであった。


「ラフ入ってる」


「俺の頭ん中とお前の頭ん中同じか分からんからな、それにお前絵上手いやん。怖すぎたら、貼られへんくなる。せっかく描いたもん、無駄になってまうやろ」


「あぁ」


 確かに、お化け屋敷のポスターとはいえ、場所は高校の文化祭、遊園地やホラー映画のポスターと違う。怖すぎるものは学校側でアウトになるかもしれない。


「こういうもんは出すより入れるほうが時間かかるやんけ。調べもんはこっちでやっとく、お前は描く、なんか欲しい資料あったら教えぇ」


「分かった……けど……あの……一つ聞いてもいい」


 どうして、心中打診を受け入れたのか。


 本当はそれが聞きたい。だって廻田直には死にたい理由が見つからない。たとえ途方もない困難に打ちひしがれて辛い状況に陥っていたとしても、私みたいな状況だとしても、どうとでもなれるような気がする。


「なに?」


「……前に、絵描いてたことある? こういう、事前調べしてきたりとか、なんで」


「いらんかった?」


「いやむしろ、助かったから、なんでかなと思って。そういう人は、少ないし」


「……作文、話、全部、調べな書かれへん」


 痛みを受け入れるように廻田直は話す。私は頷くと、それ以上追求せず彼の元を去った。




5日前




 私は廻田直のイメージをもとに、アトリエで自前のクロッキー帳にラフを描いた。


元々の方向性が見えているから、廻田直の拙さを補うだけでいい。骨があるぶん、肉付けと皮膚貼りに集中できる。しかし翌日渡したラフは、一刀両断された。


「俺のまんまやないか、お前なりになんか足せや」


 廊下で、廻田直は不満そうに私のクロッキー帳を差す。鉛筆線に触れてこないところに理解を感じる一方で、彼の意向が理解できなかった。


「いいの?」


 具体的なイメージを持ってきたということは、なるべくそれに沿って欲しいという要望ではないのか。


「ええから頼んだんやろ」


「でもポスター係、足りないわけで」


「だからなんや、描くだけで誰でもええなら適当にパソコンのフリー素材寄せ集めて俺が一日でやっとるわ。お前に頼んでる時点でお前が欲しい言うとるんやこっちは」


「……そっか……じゃあ、ちょっと待って、今、直す」


 私はクロッキー帳にそのまま描き始める。廻田直はその横に立ち、私が修正していくのを見ていた。


 誰かに見られながら描くことは慣れている。


小学校の頃は、絵を描くたびにクラスメイトが私の机のまわりを囲んでいた。


あれ描いて、これ描いて、自由帳や国語のノート、低学年から高学年に上がっていくにあたって、表紙は写真から無機質なものに変わっていく。皆のノートの表紙は、私のキャンバスになり、私は右はじに赤ペンでサインを描いていた。私の作品だという主張だ。今思えば、痛かったと思う。黒歴史だ。


 ただ、家族が自分の好きに生きられなくなってから、私は、全部やめた。何もかも。


 アトリエにいるのは、あくまでバイト。コンビニで働くより、新しく覚えることが少ないから選んだ。


描いてはいないし、オーナーも私が絵を描けることを知らない。絵のことや道具が分からないと出来ないことをしているだけだ。


 私は少しだけ胸にひっかかりを感じながら鉛筆を動かす。




「今日中に本描き入れそうやんな、もうこれラフやなくて明らか下描きやし」


 ラフを完成させると、廻田直は「これええなぁ、ずっとようなったわ」と顔を明るくさせた。


教室で他の生徒と話をする彼を何度か見たけど、そうした時に見た笑顔のどれとも違う、小さな子供が宝物を見つけたみたいな笑い方だった。


「良かった……」


 安心しながらふいに気付く。


ただでさえ静かな廊下が、しんと静まり返っている。


嫌な予感がして、私は携帯を取り出し、時間を確認した。


「え……授業もう、えぇ……」


 廻田直に呼び出されたのは朝、でも今の時刻は10時ちょっと過ぎ、二時間目の授業は既に始まっているところだった。


「ご、ごめん」


 過集中という言葉が頭をよぎる。絵を描くといつもこうだった。


「俺のせいやろ、ごめんもなんもないわ」


 なのに、廻田直は悪戯っぽく笑う。


「頼んだ俺のせいやし、俺としてはお前の作画作業間近に見れて、中々出来ひん体験できて、ありがたい限りやわ」


 その言葉に同意が出来ない。


私の絵を間近で見るよりも、授業を受けたほうがいいだろう。彼にはこれからがある。そう考えて、ああ、廻田直は私の死ぬ提案を受け入れているのだと思い出す。


 死ぬから授業を受けるなんて、どうでもいい、そう思っている? 


 いや、彼は文化祭のポスター制作を頑張っているわけだし。


 その謎の矛盾の重なりが、良く分からない。


でも廻田直が私の死にたい理由を聞かないように、廻田直が何故私の死の打診を受け入れたか、聞けない。


 そもそも、死の打診を受け入れたか、信じがたい。受ける理由が見当たらないから。


「お前、甘いもん食える?」


「うん……食べれる、けど」


「ならこれ、ラフ完成おめでと記念と下描き頑張らなのチャージ用な」


 そう言って廻田直は自分の鞄から小さな桐箱を出した。


「なにそれ」


「前言うたやんか、和菓子作りしか興味ない知り合いおるって、知り合いってか、まぁ従兄弟やねんけど、俺向こう居たときずっとそいつの味見係やってん。こっち転校するなったらお役御免思うてたら、普通に送ってきてん。頭おかしい奴やから」


 ──一緒に食べよう。


 それが答えだった。廻田直は授業に出る気が無い。桐箱には、いろとりどりの金平糖が詰まっている。


「金平糖?」


「おん、カラフルなん好きそうやな思って」


「うん」


 高校生、二人、授業をサボって廊下で金平糖を食べる。


 全部がちぐはぐだなと思う。そして、前より話しやすく、受け答えも自然に出来るようになってきた。ポスターという、共通目標や話題があるからあるからだろうか。それとも、終わりが見えているからだろうか。


「きらきらして星みたいやろ」


「うん」


「夏の終わりに死んだ高校生も、こんなふうに星見てたんかな……あぁ、オーロラやったっけ、現場」


 廻田直は金平糖を摘まみ、太陽の光にかざす。夏の終わりに起きた男女の心中事件。うち、男子生徒は同じ学校の女子生徒を殺害した。


 そして手首を切り落としたらしい。その上で、クラスも違う、女子生徒と心中した。


 猟奇殺人鬼ではないか、女子生徒二人を殺して自分はただ自殺しただけではないか、ネットは一時その話題で持ちきりだったけど、もう今、そのことを話している人間は誰もいない。検索すると、びっくりするほど誰も触れてない。


「ポテチとかのが良かった?」


 廻田直がちらりと私を見る。


「いや、あんまりスナック系は食べない……というか、食べたことない。ポテチ」


「親厳しいん?」


「それに近いかも。なんか、小さい頃あったじゃん、スナックになんか、異物入ってた、みたいな。それ過剰に気にした結果で。だから、それっぽいやつだけ駄目みたいな」


 お母さんやお父さんは多分、色々気にする性質だったと思う。


テレビアニメが犯罪者を作り上げるとやれば、アニメが禁止になった。


工場での異物混入のニュースが流れれば、スナック菓子が禁止になる。


アニメと犯罪に因果関係が無いとされても、スナック菓子の工場が再開しても、家の習慣は変わらない。


 だからか、アニメは禁止のままだったし、小さい頃人の家に行くとき、持たされたのは果物が多かった。


 でも、学校で話題になるのはアニメの話だし、子供の嗜好の前で果物はポテチに勝てない。


 そして私はアニメを盗み見ることも、よその家で出されたポテチを食べることも出来なかった。


アニメも見たかったしポテチも気になったけれど、勇気が無かった。


 だからか若干クラスで浮いていた私と、クラスメイトと繋いでいたのが絵だったと思う。見てないアニメに、読んでない漫画を描く。そうして、誰かと繋がっていたつもりになる。


「なら死ぬ前にポテチ食べよ、何の味にするか、考えとってな」


 廻田直は唇のはしについた金平糖のかけらを親指で拭いながら笑う。


 ふわりと秋風が頬を撫でた。冬は寒くなりそうだと思う。


 でも私に冬は来ない。そう思うとちょっと嬉しい。冬の風呂場は寒いから。




4日前




「そういえばこれさ、骸骨? 幽霊の女?」


「どっちでもないわ、和風ホラーのちびっこ枠やろどう見ても」


「そうだったんだ……」


 朝、廻田直と廊下に集まるのが日課になった。


昨日のサボりは、廻田直が上手く誤魔化し不問だった。


元々私がクラスメイトと話をしないことが、うまく機能したらしい。


病弱なクラスメイトを介抱してあげた廻田直、体調が悪くなった可哀そうなクラスメイトのモブFとして、先生も周囲も結論付けた。


 そして私は、廻田直に下書きを提出した。


一発OKで、今日から着彩に入れる。作業期間は三日だけど、下書きの時点で配色も決めてきたから、あとはもう、塗りこむだけでいい。締め切りに余裕はないけど、完全に不可能というわけでもない。


「みんながみんな絵描ける腕も目も持っとんのんちゃうで」


「まぁ、確かに。でも、練習してればある程度はいくよ」


 ある程度は、いける。そこからが難しい。多分練習すれば、クラスメイトの誰でも、教室で二番目に絵の上手い子になれる。


ただ、一番絵の上手い子、皆に望まれるようになる子、仕事に出来る子になるには、色々、求められる。


 努力ではどうにもならないし、努力でどうにも出来る領域は、努力出来る環境がないと、もがき足掻くことすら許されない。 


「文章、書ける腕とかのが、いいと思うよ。何にでも必要だし」


 廻田直は、文章の人らしい。昨日の午後の授業で、廻田直の読書感想文が取り上げられていた。英語のスピーチでも、先生が褒めている。


 文章で表現。


いいなと思う。私は自分の言葉で何も伝えられないから、絵を描いていた。


なにかを説明するくらいなら、図で説明するほうが楽だった。


でも廻田直は、文章で表現が出来る。


生きていくうえで、絵でしか説明出来ない人間と、言葉でしか説明出来ない人間、どちらが生きていきやすいか。


「文なんか場所選びまくりやん。日本語は日本語にしか届かん、翻訳がなきゃどんな名作も、メモすらできん紙やで、紙。絵は、場所も選ばん、デジタルは難しいけど、油絵も日本画も触れる、目え見えんでも、分かるやんか、俺は、どっちもええと思うで。まぁ、俺には絵心ないけどな」


 ──それに文才も、なぁ。


 廻田直は暗い響きを滲ませた。


「読書感想文、褒められてたじゃん」


「あれ身内の本やし、我斎善児って作家、俺の家の大爺やから」


「え、すご」


 廻田直の選んだ本は、歴史小説だった。我斎善児は80歳くらいの作家で、本を読まない私でも知ってる作家だ。


「だからやな、ちっさい頃の娯楽、全部本やってん。アニメもあんま、見られへんかった」


「あれ、犯罪者になるとか」


「おん。血出るもんは残酷言うてな、対象年齢八歳くらいのもんしか駄目やって」


「いつまで」


「今も」


廻田直は真顔だった。でも、ぱっと表情を明るくする。


「まぁ今はめっちゃ見とるけどな。反動やろ」


 廻田直は、アニメを禁止されていた。その反動で見ている。そう聞くと、遠くで淡く見えていたはずの存在が、少しだけ、彩度を増した。


「私も、アニメ見てなかった」


「でも描けそうやんな、なんでも、女が好みそうなやつも、男が好きなやつも」


「うん」


 描けると思う。でも、私の描く絵は、ポスターが最後になる。




 ポスターの着彩にあたって、必要になってくるのは絵具だ。


でも私は、授業以外で絵は描かないと決めたばっかりに、それらを家の物置にしまっていた。


学校で使う絵具セットは12色だけど、ポスター制作で必要になっていたのは蛍光色だ。似たような色を作ることも出来るけど、やっぱり、混ぜていくにつれ鮮明さが失われてしまう。デジタルなら話は違ってくるけど、パソコン室には、ペイントソフトはあってもイラストソフトはない。グラデーションは、簡単なスライドを作るためにしか機能しないものだ。残るは場所はアトリエだけど、そこでは蛍光色の絵具は置いてない。元々、私が描きたいものを描くために、遠くの画材屋で買い求めたものだ。


 妥協はしたくなかった。その一方で、帰り道、家に近づくたびに、「こだわりを捨てながら、自分を殺しながら生きていくのがプロの仕事」と死んだような目で言っていた画家のインタビューが、頭をよぎっていた。


 それは多分、虫の知らせだった。思い至ったときには、全てが手遅れだったけど。


「もう少し早く帰ってきて、家のこと、手伝ってくれない?」


 物置から、絵具を取ること自体は出来た。 


 でも、気が抜けたのかもしれない。それか、母は自分を殺しすぎて、気配すら悟られないまでになっていたのか。絵の具をポケットに詰め込み部屋に戻ろうとする私の後ろに立った母親が、そう言った。


「でも、おばあちゃん、泥棒って言うし、暴れるの、酷くなるから……」


「気にしなければいいじゃない、そんなの」


 母親は私の言葉を遮った。感情もすり減り、限界だということが痛いほど分かる。


「……無理だよ」


 でも、もう私も限界だった。


夏休み中、ずっと私を泥棒扱いする祖母の世話をしていた。大学なんて考えられない。専門学校も、就職もなにも考えられない。選択肢が無い。多分、家族の最適解としては、私は祖母の介護をしながら、祖母の介護のできる時間の丁度いいバイトをすることだ。


 でもそれが終わったら何が残るんだろう。


 何もないまま大人になることを、この世界は許してくれるのだろうか。


 普通じゃないことを、大丈夫と言ってくれないこの世界で。


「無理だ」


 私はそれだけ言って、自分の部屋に駆けだす。扉をしめ鍵をかけ、イヤホンをつけて、最大まで音量を上げ、どうでもいいロックバンドのミュージックビデオを再生する。ドラムの音と、断片的に母の怒鳴り声が聞こえる。ぎりぎり、言葉は分からないことに安堵する。最悪な気持ちで絵は描きたくない。悔いなく描きたい。


 悔いなく死にたい。


 私は震える手で携帯をいじる。廻田直は作文のコンクールを取ったり、色んな賞を受賞しているといった。ひとつくらい、その文章がのっているかもしれない。


 祈るように私は廻田直と入力する。でも、ひとつもヒットしない。代わりに検索に引っかかったのは、下の名前だけ同じの、苗字が違う高校一年生の作文だった。横には校長先生と撮った写真が掲載されている。今よりちょっと幼い廻田直。一年でここまで雰囲気が変わるのかと、少し驚く。離婚か何かが原因でこっちに来たのだろうか。


 でも、苗字が変わった経緯なんてどうでもいい。PDFと書かれた部分をクリックし、作文をダウンロードする。


 タイトルは『夢を見る権利について』だ。思想が強い気がする。同級生がこんなこと書いてたらちょっと怖い。苦笑しそうになって、目の前の苦痛が少し和らぐ。


その後、私は一晩中、廻田直の作文を読んでいた。




3日前




「作文読んだ」


「そんな暇あったらポスター描けや」


 教室で示し合わせることもないまま、自然な形で廊下に集まると、私は廻田直にそう言った。


「昨日はちょっと、絵の具の確保に時間がかかって」


「あと二日やで、いけるんか」


「いける」


「ならええけど、もう読むなよ」


 廻田直は当初もう少し丁寧な話しの仕方だったと思う。でも、今は少し荒っぽい。作文を読まれて機嫌が悪いというより、自然な感じがする。


「なんで」


「なんでもや」


「文は読むためにある」


「どうしても書かなあかん、どうにもならん時あんねん、俺はそれや、読まれたいなんて大層な思いで書いとるんちゃうわ」


「好きに書いて、受け入れられるっていいと思うけど」


「それはお前やろ、むしろお前の得意分野やんけ」


「そうかな」


「おん、勿体ない、もっと描いて見せつけえ」


「……それはこっちも思ってる。なんか、感想文とかじゃなくてさ、小説とか書けば」


「無限に言われたわそんなん」


 廻田直は不機嫌そうに返す。


「作家になる気とかないの、我斎先生だっけ? 身内に作家いるんでしょ」


「だからじゃ、怠いわ、大爺が悪いかもしらんけど、知れば知るほど無理なったわ」


「知れば知るほどってことは、興味あったってこと?」


「まぁ、話は好きやからな。それにこういうポスターみたいに、お前にああせえこおせえ言うて出来るんやったらええけど、そうはいかへんから」


 そこまで言うとなると、このポスターは、良い仕上がり──廻田直の望みを叶えているということなのだろうか。私の色をだいぶ加えたと思うけど、それを、気に入っているのか。


「ふうん」


 なら、蛍光絵具を妥協せず手に入れたのは、間違ってなかったのか。


私の独りよがりじゃなかった。


少し安堵して、息を吐く。


「ため息吐くなや」


「違う、良かったなと思って」


「なにが」


「なんでも」


 良かったなと思う。


死ぬ前に廻田直に会えて。


 まだ、話をするようになって一週間も経ってないけど。




 帰り道、アトリエには向かわず、廻田直の身内という我斎先生の小説を探しに本屋に向かうと、椙成さんとばったり会った。


「あ、素井さんじゃないか!」


 ジャージに身を包んだ彼女は、私を見つけるなり、周囲に気を付けながらも走ってくる。


「会えてうれしい、今日はラッキーだ!」


 私なんかにも会えてうれしいと言う彼女の朗らかさがまぶしい。


世辞じゃないから嫌みが無い。彼女の手元には選手の名鑑のほか、トレーニングについての雑誌があった。


「あ、我斎先生じゃないか」


「知ってるの?」


「父さんが好きなんだ、この作家さん」


 椙成さんは微笑む。我斎先生について調べたけど、大体読者層は40代すぎの男女らしい。


八十歳くらいだと思っていたけど、本人は還暦で、コンスタントに作品を発表しているものの、公の場に姿を現すことは少ない。コメンテーターの仕事は全て断っているらしい。検索ワードに死亡とあり一瞬驚いたけど、学生結婚した妻を40代の頃に亡くしており、そこからずっと独身を貫いているようだ。授賞式の写真の中には、夫婦の写真もいくつかあった。夫婦の写真は年相応だったけど、妻を亡くしてから急激に老けたとネットで書かれていた。


「どんな感じの話が多いの、我斎先生って」


 我斎先生の小説を読んだことが、たぶん、一度だけある。


小学生の頃、本屋さんでちらっと読んだのがそうだった、という気がするだけだ。でも、1ページくらいで、挫折した。


基本、どんな小説でもそうだから、我斎先生の本が読みづらいということはない。それに、ベストセラーらしいし。廻田直の文が特例なのかもしれない。廻田直の文は、つっかえる感じが一切なかった。私が、読むのが駄目すぎるのもあるけど、廻田直の文は読みやすいというのも関係している気がする。


「我斎先生の本……和風、だな。鬼とか刀とかが出てくるらしい。ゲームみたいな設定も多いみたいだ」


「ゲーム……」


 椙成さんからゲームという単語が出てくることに、少し驚いた。そういうことより、身体を動かすほうが好みそうなのに。


「椙成さん、ゲームとかするんだ」


「いやしない、単語が難しいから」


「単語が難しい?」


「クイックセーブとか? クイックロードとか、クイックセーブは途中で時間を止めるみたいに、休むことで、クイックロードは始めるとか、覚えることが多くて私には出来なかったんだ、それにゲームのキャラが走っているのを見ると、遅いと思って、私が走ったほうが早いなって……」


 椙成さんは目をぎゅっと瞑った。子供みたいな仕草で、可愛いと思う。彼女は「それに酔う、コマーシャルとかで見るのも、くらくらするからだめで」と続ける。三半規管が弱いのだろうか。


「バス酔いとかもする?」


「する。それに父さんと母さんはお酒にも酔うんだ。お酒の入ってる菓子も、食べられないんだよなぁ……」


「へぇ……」


「だから私は成人したら、お酒は飲まないでいようと思う。何か間違いがあったら大変だから……あ」


 椙成さんはそこまで話して、ハッとした顔をする。


「めっちゃ、あれ、西の言葉らしい。色んな地方の言葉がこっちで当たり前になったり、逆にこっちの言葉が向こうで当たり前になったりするのは、よくあることみたいだ」


 ──話せて良かった、ずっと言いたかった!


 朗らかに続けて、椙成さんは去って行く。


 良かった。私も、椙成さんに会えて。


 死ぬ前に。




2日前




「ゲームってどう」


 翌日、私は廊下で廻田直に告げた。


「なんやねん急に、それよりポスターどないしたん」


「ポスターが順調だから聞いてる。駄目だったら、ここに来てない。音信不通になってる」


「バックレのプロかお前」


 ポスターは、順調だった。明日、特に問題なく完成する。なにも、問題は無い。


「……小説は嫌がってたから、ゲーム作るのはどうかなって」


「今日明日でか」


 廻田直は低い声で問う。心なしか視線も鋭い。


 文化祭は、明後日。つまり明後日、私は死ぬ。


「お前ちゃんと遺書印刷しとるんやろな」


「昨日、本屋行ってきたついでに」


 私は鞄から封筒を取り出す。廻田直に揃え、白い封筒に入れた。


「ついでってなんやねん、ってっか字きったないなぁ! なんで? あんな絵上手いのに、何が起きてん」


 廻田直は大きく目を見開いた。


「レタリングと筆記は違う」


「はぁ?」


 文字を書くのと、デザイン的に字を作ることは違う。字は、正直読めればいいと思うし、デザインの一つとして描くことはできるけど、書くとなるとどうにも上手くいかなかった。


「そっちは、書道とかしてたの」


「書道だけやないで、茶道華道ぜえんぶやったわ、どーれも才能無かったけどな」


「文の才能あるじゃん」


「お前俺の高1の作文気にっとるだけちゃうんか、なんやねんお前、俺の作文読んだ言い出したときから変やぞ」


「絵描きは皆おかしいよ、普通に生きてて絵描こうとは思わない」


「お前それめちゃくちゃな理論やで、モナリザもゴッホも巻き添えやん」


「モナリザは画家じゃなく作品だよ」


 私は笑う。無知を馬鹿にするのは好きじゃない。知らないことがあって当然だから。問題は、知ろうとしないこと。それと、無理やり知ろうとすること。


 だからこそ、死にたさを聞いてこない廻田直の距離感は、ありがたい。もうじき死ぬ安らぎだけ、享受できる。


 だから、今に至るまでずっと、家の中が滅茶苦茶なことも、忘れられる。



1日前



「めっちゃめちゃええやん、特にこのピンク! ホラー言うたら赤や思うてたけどピンクでも怖なるんやなぁ」


 翌日、私は廻田直に完成させたポスターを提出した。


「修正ない? 一応、絵の具も持ってきたけど」


「ないわ。完璧やんこれ、客入り一位、ポスターコンテストあったら優勝決まりやな」


 廻田直がはしゃいでいる。良かったなと思う。同時に彼と一週間ほどしか関わっていないのが、嘘みたいだなと思う。


「あ、今、絵の具持っとんのやったら、ちょっと書き足ししてもらってもええ?」


「どこ」


「ここ、サインせえ」


 廻田直はそう言って、ポスターの左下を差した。


「なんでそんな画家みたいなこと」


「あほか、今ネットに絵アップしたらちゃんとID入れんと何されんか分からん時代やぞ、防災せえ」


「それ防災っていう?」


「災い防いでんのやから変わらんやろ、備えあれば憂いなし、聞いたことないんか」


「あるけど……」


「ほれ」


 そう言って廻田直は私に赤い絵具を渡してきた。


「何で」


「何が」


「何で赤」


「サイン言うたら赤やろ」


 廻田直は当たり前のように言ってくる。茶道華道書道、いずれかの常識なのかもしれない。ピンポイントで赤を取ってきたから、驚いてしまった。私は右はじに小学校の頃していたようなサインをして、ポスターから筆を離す。


「じゃあこれで印刷して、貼りだしやな」


「うん」


 終わった。悔いはない。


「あれ、直じゃん! どうしたのここで」


 ほっと肩の力を抜いていれば、女子生徒が通りかかった。今までずっと、この廊下は私と廻田直しかいない、いわば二人きりの状況だった。奇跡だったと思う。誰も通らない、誰も見つからない場所なんて、中々無い。特に学校の中はなおさらだ。


「じゃ、私はこれで」


 私はその場を離れる。ポスターを貼るのはクラスメイト達がするだろう。


「明日、朝、七時にここやからな、ポテチと封筒ちゃんと持って来てな」


 そう声をかけられ、救われた思いがした。私は振り返り、廻田直の目をはっきり見て、無言でうなずく。


 



 文化祭当日の朝、コンビニに寄った。食べたことは無いけど、ポテチ売り場は知ってるし、うすしお、コンソメ、後ほかに色々味があることも知ってる。


 どれにしようか悩んだ結果、廻田直が好きそうな味を選んだ。


 好きかどうかは分からないけど、ご当地ポテチシリーズみたいになっていたから、それを選んだ。


まぁ、嫌な味があったら言うだろうし、なんでもよかったんだろうと思う。


一緒に食べるのであれば。


 私は決めていたことがある。


今日は、廊下に行かない。学校に行かない。


廻田直を連れて行かない。


 廻田直の才能は、潰していいものじゃないから。


 私は、コンビニ袋を手に、学校に向かうホームとは正反対の場所で電車を待つ。


 各停で向かうのもいいけど、狙うのは特急か快速だ。飛び込むことはしない。携帯を開いて、廻田直の作文を読む。


 絵の良し悪ししか分からない。文章を読むにも才能が必要な気がする。でも、私にとって廻田直は、間違いなく天才だと思った。どうしてそう思うのか、上手く説明が出来ない。私のこの感覚に、納得がいかない人間はたくさんいると思う。私自身、どう折り合いをつけていいか分からない。


 でも、計画が全部狂った。廻田直の書くものを読んでから。私は廻田直の書くものをもっと読みたいし、彼はもっと、書くべきだと勝手に思った。


巻き添えには出来ない。一人で死ぬのは怖いけど、廻田直を巻き添えにして死ぬことのほうが、今の私には途方もなく怖い。


 一緒に死んでくれなんて、頼まなかった。でも頼んだことで、いい思いが出来た。途方もない幸せを、最後に私は手に入れた。


 だから、その報いが来る前に、死にたい。


「お前待ち合わせ場所変えんのやったら言えや」


 しかし、耳元で響いた声に頭が真っ白になった。


振り向くと、廻田直が不機嫌そうに立っていた。彼は「お前調子のんなや、絵上手いからって何でも許される思うたら大間違いやぞ」と、私の隣に座った。


「なんでここに」


「朝からお前ん家の前見とったわ、コンビニ行ってふらふらして、出汁味こうて、学校来る思うてたら別のホーム座り出して、この裏切りもんが」


「ストーカー」


「なんぼでも好きに言うたらええ、実際そうやからな、ぼけ、なんなら証拠見せたろか」


「え……」


「ほれ」


 廻田直は自分の鞄からクリアファイルを取り出した。でも、この間のラフを入れていたものとは異なる、真っ赤なクリアファイルだ。


「覚えあるやろ」


 渡されたファイルを確認する。そこには、私が小学校の頃、クラスメイトのノートに描いた絵があった。


「なんで、え、クラスにいた?」


「おらんわ、こっち来たの今年、それまで来たことなんかない。だからお前のストーカーするんも一苦労やったわ」


「え、じゃあ何で……?」


「こっちいた奴で俺のいる小学校転校してきた奴おってん、で、一目ぼれした」


「その子に」


「バカタレが、お前の絵に決まっとるやろうが、話の腰折るん生業にでもしとるんか」


「いや……え、もしかして赤い絵の具、渡してきたのって」


「素井言えば赤やろ、赤サイン、中学のコンクールの類もなんもかんも全部赤でサインして」


「よくご存知で……」


「お前の絵のことなら何でも知っとるわ。で、高校入ってすぐ一切絵描かんようなって……まぁ、俺のことはええやろ、何で置いて行った、約束したやろ、死ぬの嫌なったんか」


「違う……巻き込みたくないから」


「はぁ?」


 廻田直は信じられないものをみるように驚いている。


「勿体ないと思う、死ぬの、廻田直を、私の死にたいに巻き込みたくない」


 なんとなく、廻田直の目的が分かってきた。彼は、信じられないけど私のファン、そして私が死のうとしているから、死のうとしている。死ぬ理由が無いのに。


「俺の気持ち勝手に決めんなや」


 地を這うような低い声に息をのむ。彼は私をじっと見つめた後、静かに続ける。


「……なんで俺、転校してきたん思う?」


 投げかけられた質問は、どこまでも抑揚が無く、静かだ。


「分からない」


「俺の家、おかんが父親刺してん。浮気で、前言うたやろ、和菓子作って送りよる親戚、頭おかしいって。そんな状況のやつに和菓子の味見せえ言うくらい、頭おかしいねん。和菓子に狂いよる」


「え……」


 状況が、理解できない。廻田直は平然と続ける。


「興信所雇おうか言うて、でもそんなん面倒やしな~って、話しとった矢先におかんが現場抑えてもうてな、こら興信所雇わんで済んで一石二鳥や裁判で慰謝料ぎょうさんぼったろなる前に、すぐ刺してしまってん、捕まった。俺色々話ししてたんよ、おかんに、あんな男よかええ男なんぞ腐るほどおるやろって、でも全部、無駄やった。なんも、伝わらんで、全部おしまいなった、それが経緯」


 高校生二年生で転校。そうしなければいけない経緯としては、誰もが納得するくらい残酷で、受け入れがたい経緯だった。


「丁度こっちでは高校生の心中事件で持ちきりで、俺の家のニュースは何もやっとらん。でも、近所でええとこのお家騒動起きたら、そっちも気になるやろ。だから、生まれて、育って、高校の間はここにずーっとおって、いつか社会出たら、盆暮れ正月くらいには戻ってくるんやろうなぁ、って場所に、永遠におられへんくなった、俺結構、成績良かったけど、高校も変えなあかんくなった。ああ、1年の時の作文読んだ言うてたけど、苗字別やろ、そういうんが理由」


 ──分かった?


 優しい声で廻田直は質問してくる。


「うん……」


「で、転校先で好きな画家と運命の出会い果たして、なんとか死ぬ前にそいつの絵見たい思うて声かけたら、絵は描かん、一緒に死んでくれ頼まれて、めっちゃ幸せやん思うとったら裏切られた俺の気持ち分かるか」


「……」


「優しし~よ、嫌われんとこ、丁寧な言葉遣い心がけよ~思うとったのに最後の最後で情緒ズタズタやわ、挙句お前、俺の書くもん好き言うて、訳わからんこと言うて、ボコボコにしたるからなお前、何で憧れの画家にボコボコにしたるなんて言わな……ああ」


「……ごめんなさい」


「謝って済むことにも限度あるやろ、これ完全にあかんやつやからな」


「死んでほしくないと、思うのも、駄目かな」


「じゃあお前も死ぬなや、一緒に苦しめや人生。お前自分は死ぬけどお前は生きろなんて絶対許されへんからな」


「これで許してほしい」


 私はコンビニ袋からポテチを取り出した。


「なんで百円ちょっとでええ言うと思っとんねん」


「好きそうだから」


「禁止にされとるやつの視点やからなそれ、ポテチ作っとる会社も言うで、うちのポテチは上手くて最高やし、生きる理由にしてほしいけど、ポテチに命のやり取りの効果ないて」


 廻田直は荒々しく言う。でも、死ぬなとか、命は尊いとか、そういう説得よりずっと効いたし、すっと、心に入ってくる。


 今日やめても、明日、多分今日死ななかったことを後悔する。でも、廻田直と、こうしたやり取りを手放すのは惜しい。


「なら、一緒に、苦しむから許してほしい」


「ぎりぎり許す」


「あと」


「ん?」


「遺書、交換しない?」


「なして」


「相手が死んだら、出す」


「ええで、でもお前、今逃したら俺より先に死なれへんくなるで」


「え」


「大爺の爺があほほど子供こさえて親戚多いねん。相続だのなんだの。遺書出持ってきても、相当手間かける。その覚悟、お前にあるんか。俺としては、素井が俺の遺書出す、触っとるってのは大名誉やけどお前には大迷惑かけることなるから」


 逆だ。私が廻田直の遺書を出す大名誉を享受している。


「私は、描いた絵を燃やして貰わないといけない」


「はは、売りさばいて金にせな、遺作でよう儲かりそうやわ。仕事なんも見つからんでも、なんとかなりそうな気するけど……でも、まだデビュー前やしなぁ、先、長いなぁ……短なるかもわからんけど、おとんみたいに」


「重い」


「女の間で重いん流行っとるやないけ」


「そういう重いじゃないと思う」


「まぁなぁ、愛情やからな、深いのがおうてるような気ぃするわ、愛情深い言うしな」


 はは、と廻田直は笑う。快速列車も特急も、私たちの前を何本も通り過ぎて行った。




「まぁ、命は無理やったけど、他はぼちぼち無くしていかんとなぁ」


 軽い音が響く。椅子と椅子の間の腰かけあるポテトチップスが半分になったころ、廻田直が言った。


「消す?」


 私の問いかけは、バリバリと軽快な音にかき消される。私は再度、「消すって何?」と重ねた。


「喋り方? 絵の具みたいにこっちに染めて、こっちのもん思わせとかんと、俺、加害者家族被害者家族の欲張りセットやから、名前もそのうち変えなあかんし」


「もしかして、俺とか俺とかお前とかお前とかぐちゃぐちゃなのもそれ?」


「もともと俺お前で生きてて、で、喋りのテンポとか、こっちと違うから、俺とかお前のがええのかなって、そういうのも込みでどうにかせな」


「……変える必要あるのかな」


「あるやろ、バレたら終わりやで」


「名前、検索に引っかからなかったし、訛りはいいと思うよ」


「生きづらさすなや」


「ごめん」


 でも、惜しいと思った。彼の今後の負債になるかもしれないけど、完成にはほど遠くなるかもしれないけど、彼を彩る色が、変わってしまうことが。


「ならお前の前でだけ、普通に話すわ。ああ、お前の前でだけやったら、普通やのうて特別なるけど、スペシャルサービス」


「いいの、私で」


「ファンやで俺、好きな画家追いかけて死ぬくらいの、終わっとるファンや。自分で言うのもなんやけど」


「信者感ある」


「せやな」


 廻田直が、ふっと笑う。私も笑った。すると彼は「お前わろてん場合ちゃうぞ」と少しドスのきいた声で睨んだ。


「なんで」


「裏切りもんやんけ。お前俺に話かけ言うたけど、そうなったらお前の名前つこたるからな」


「どういうこと」


「素井有栖(ありす)、お前とは似ても似つかん奴に有栖って名前つけて復讐したるからな」


「ファンじゃなかったの」


「ファンかて想像できひん変な行動とるのおるやろ」


 じっとりとした瞳で睨まれ、私は言葉を選ぶ。


でも、返す言葉が見つからない。そもそも廻田直に言い返すこと自体、とても難しい。


「そん時お前、絵描けや、表紙」


「ど、どういうジャンル」


「お前一番苦手で描いたことないもんある?」


「……れ、恋愛とか」


「じゃあそれやわ、覚えとけ、それさすまで俺よか先に死のうとしても許さへんからな、俺から逃げられる思うなよ、血筋やからな、代々執念深いねん。とんでもなくえぐいタイトルにしたら」


 廻田直は「覚悟しとけ」と私を睨む。その目は、多分好きな画家に向けるようなものではない。ただ、途方もなく、安心した。


 多分今日家に帰ったら、また母親に色々話をされるし、悪い状況は続いていく。何も変わらないし、今より酷くなるかもしれない。


 それでも、一応、自分は廻田直の遺書を預かる人間として、いたいと思った。


 廻田直が死ぬときに、死ぬ。それを夢見る。


 だから今日も明日も生きるんじゃなくて、その日が来るまで、死ぬのを休む。



▲◆▼◆日後



「後どんくらいで出来るー?」


 液晶ディスプレイに向かい、黙々とペンを動かしていると、これまで無限に聞いてきた訛りが聞こえてくる。


「あとちょっとー」


「倉庫漁っとったらめっちゃ懐かしいもん出てきたんやけど見てー!」


 その言葉に、ペンタブを動かしていた手を止める。振り返ると、懐かしいピンクの蛍光塗料を使ったポスターが目の前に突き付けられた。


「うっわ、まだ持ってたのそれ」


「うっわってなんやねん初めての共同作業やろ」


「そうだけども……」


 まさか廻田直がまだそんなものを保管していたとは。


 学生時代の遺物を前に、げんなりとした気持ちになる。この時はこの時でベストを尽くした。でも、絶対今のほうが上手いし、粗が見える。塗りムラはあるし、少し歪んでるし、もう少し平行に線が引けた。


「六年前のだしさ、なんていうの、小学校卒業の時、小学校一年生の時の絵、見てる気持ちになるっていうか」


「お前小学生の時から絵上手かったやろ、俺がファンなっとんのやからけなしなや、ズタズタにしたるからな」


「口が悪すぎる、本当にファンなのか疑わしいレベル」


「当たり前やろ好きなもん貶されて怒らんほうがおかしいやんけ。それに無い側からしたらめちゃめちゃ腹立つんよ、才能あるのに自分にはない言いよるやつ」


「廻田直には才能あるだろ」


「張り合ってくんなや、俺は努力してん、才能と努力のお前とはちゃう、俺は努力一本」


 廻田直は本当に変わらないなと思う。一方で、当初、高校の教室での廻田直は、あくまで生きていくうえで廻田直を演じているに過ぎないと知った。


「でも、小学生の頃の絵見てファンになるって、中々無い気がする」


「お前の小学生の頃の絵、そこらの大学生並みやったぞ」


「そうかな」


「おん、丁度、今夜受けるインタビューでポスター見せよ思てたけど、小学生の頃のカバーも見せたろか」


「それいつぞやの復讐になってない」


「そうとらえても別にええよ、こっちはただ、素井有栖の過去作持っとる自慢したいだけやから、マウントやマウント、最近多いやんか、にわかだの、古参だの、俺がてっぺんやで、地上の争いに終止符うったるわ」


 廻田直はうっすらとした笑みを浮かべる。


「あとあれやな、お前の一人称が学生時代わたしやったことバラしたろうかな」


「いいでしょ一人称が私でも。社会出たらみんな私になるんだから」


「お前は黒歴史にしとるやないか、親に言われたまんまやってもうた言うて」


 学生時代、というか高校の頃まで、僕は一人称を「私」にしていた。親の言いつけだ。


 丁寧な言葉遣いをしていれば、危ない人間にならないとでも、テレビでやっていたのだろう。


 そして僕はその言葉に忠実に従っていた。男子生徒で自分のことを私というのは、僕だけだった。


「どこまで言うつもり?」


「遺書以外のことは全部、全部言ったるわ」


 遺書はずっと持っている。いつか来たその時に、適切な対応が出来るように。


 今までずっと、休み続けてきた。辛いことも、しんどいことも、生きるのが途方もなく辛くなる出来事も、たくさんあった。


 でも、僕には遺書がある。それがある限り、なんとかなりそうな気がする。


「じゃあ、なんか良い仕返し考えとく」


 そう言うと、廻田直は勝気な笑みを浮かべる。


「なら、楽しみにしとくわ。だからまだまだ苦しめや、裏切り者」


 はたから見れば、間違っているんだろうなと思う。僕らの考え方も何もかも。


 でも、僕の幸せはここにある。

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