理想郷で恋を編む
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【悪役令嬢ですが攻略対象の様子が異常すぎる公式ツイッター】
10月2日 オーディオブック①巻 ボイスドラマCD コミックス⑤巻 紅茶缶
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私の幼馴染である真木くんは生きるのに不器用だ。特に朝は、ほぼ命がけである。
「真木くん、そっち車道だから、ガンガン車通ってるから!」
もう十月にも入ったというのに残暑が残る通学路、バスを待ちながら幼馴染である真木くんのゆるゆるパーカーの袖を引っ張る。長い黒髪からのぞく彼の気怠げな瞳は、ゆっくりと私を映した。
「え……、あー、そうだ、ねー……。だる……ねむ……おやす……、おっと」
真木くんは歩道側に進路を変更しようとして躓く。慌てて受け止めると、その拍子で彼が持っていた体操着とジャージの入った袋が地面に落ちた。もう先の信号からはバスが見えていて、私は慌てて体操着とジャージを拾い、袋に詰める。
「地面にお洋服が落ちたから、今日体育出なくていーい?」
「出なきゃ駄目だよ! 出席点ちゃんと貰っておかないと、真木くん進級できなくなっちゃうよ」
「えぇ……めんどい……」
彼のぼんやりとした欠伸を眺めている間に、バスがやってきた。私たちは一緒に乗り込み、窓際の席に座る。閉所が苦手な彼のため、私は座席に座って早々に窓を開いた。
私はいつも、すぐ窓が開けるよう、そして真木くんが窓から落ちたりしないよう窓際に座っている。
同い年、しかも高校生同士なのに世話を焼きすぎ、と言われてしまうかもしれないけど、本当に真木くんは生きるのに不器用だから、私が気を付けないと彼は死んでしまうのだ。
歩けば転び、転ばなければ彼のゆったりとした足取りは、自然と車や自転車に向かう。階段なんて何度も落ちかける。靴紐は秒で解けるし傘の差し方も下手で、気付けば両肩がびちゃびちゃになる。昨日の雨でも凄まじく濡れていた。
基本飲み物はこぼしお菓子の袋は破裂させる。とにかく何でもかんでもひっくり返すし、料理も裁縫も芸術も何もかも壊滅的で、特に料理は指じゃなくて手首を切り落としかけるくらいだ。裁縫も酷い時は服にいくつも針が刺さっている。
そんな真木くんと私は幼馴染で、小さい頃からずっと一緒だった。そしてたぶん、これからも私は彼の世話を焼き続ける――と、思う。
◇◇◇
「はあだるい……動きたくない、土の中にかえりたい……」
学校に辿りつき、校門をくぐると真木くんは大きくあくびをした。彼は目をこすりながら、そのままゆっくり瞼を閉じていく。
「真木くん、寝るなら教室まで我慢しないと。それに洋服も汚れちゃうし、ここまで来たんだから授業受けよう?」
「えぇ……疲れたよ……もう動きたくない」
真木くんは下駄箱まであと少し、というところでしゃがみ込んでしまった。昇降口へ目を向けると、生徒たちはさっさと靴を履き替え教室に行っているし、自販機の業者さんも忙しなく飲み物の入れ替えをしている。皆が教室へ急ぐ中ただ一人蹲る真木くんの様子は、視線を集めるには十分で、私は彼の手を引っ張った。
「ね、下駄箱まで手繋いでてあげるから。行けそう?」
「……ありがと、よろしく……」
「真木くん駄目だよ! ここは寝たら駄目なところ!」
私に引っ張られた真木くんはこれ幸いと眠ろうとするから、慌てて肩を揺する。
いつも真木くんは気怠げだけど、彼の誕生日が近いこの時期は、本当に人間としての生活がままならなくなる。
転んだり、躓いたり、途中で寝るのがめちゃくちゃ酷くなって、大惨事を起こしていく。その理由を思い出して私は胸がきゅっとしながらも、彼を引きずるように校舎まで連れていったのだった。
◇◇◇
「おはよ、芽依菜ちゃん。お疲れ様」
教室に入り真木くんを自分の席に座らせ、一息ついてから自分の席に戻ろうとすると、私の一番の友達の瑞香ちゃんがやってきた。彼女は料理が上手な女の子で、私が調理実習の時に真木くんのお世話をしている間に、課題の料理を作ってくれる優しい子だ。
だから料理実習の時、洗い物は私の役目だ。本当にいつも洗い物だけで申し訳ないと思うくらい、いつもいつも任せきり。本当に申し訳ない。
「おはよー、ねえ瑞香ちゃん、先月替わってくれた掃除当番の二回目、今日やっておくね」
「え、悪いよ。この間の一回だけでいいって」
瑞香ちゃんには先月、放課後の掃除当番を替わってもらっていた。その日真木くんが鞄を壊して、付き添わなきゃいけないけど掃除当番が……と困っていたところ、救いの手を差し伸べてくれたのが彼女だ。
ただでさえいつも迷惑をかけている瑞香ちゃん。一回きりの交代制じゃ到底釣り合いが取れない。
「いやいや、そのうちテスト期間に入ってお掃除なくなっちゃうし」
「うーん……」
「五十嵐さんおはよ、園村さん、真木くんも」
考え込む瑞香ちゃんの後ろから、すっと日野くんが現れた。真木くんも……? と振り返ると、いつの間にか真木くんは私の隣に座って眠っていた。
「真木くん、他の人の席に座っちゃだめだよ」
「大丈夫だよ。その席、佐々木さんでしょ?」
私の言葉に、日野くんが首を横に振った。夏休みが終わってすぐのこと、同じクラスの佐々木さんは停学になって、その後すぐ退学になった。
噂では、パパ活なるものをしていたことが原因らしい。学校のホームページのサイトで公開しているアドレスに匿名の通報があって発覚したそうだ。
佐々木さんはキラキラした子で、いつもお洒落で可愛いものを持っていた。特にお金に困った様子とかは全然なくて、本当に普通の子。あまり話をしたことがなくて、他に知っていることは、モデルをしている日野くんを追いかけていたことくらい。
「いくら座っても、もう来ないんだから誰にも迷惑かからないよ」
端正な顔立ちで日野くんは微笑んだ。なんだかその笑顔にうすら寒いものを感じて、私は真木くんに視線を戻す。
佐々木さんは、他のクラスの人も誘ってパパ活をしていたらしい。彼女に誘われて始めた子は四人いて、その内二人は不登校になってしまっているそうだ。
「っていうか俺、二人の話聞いちゃったんだけど、五十嵐さん掃除当番替わって貰えば? 今日の五十嵐さんの当番って真木くんの掃除当番の場所に近いから、そのほうが園村さんも安心だと思うよ」
「でも……」
「それに今日土鍋買いに放課後お出かけするんじゃなかったっけ?」
日野くんが瑞香ちゃんに問いかける。彼女は「え? そんな話いつ……?」と口ごもった後、顔を赤くして、こくこく頷き始めた。
「う、うん、そ、そう……ごめん芽依菜ちゃん、お願いしてもいい?」
「勿論だよ!」
瑞香ちゃんは頷きながらも、日野くんをちらりと見る。日野くんも瑞香ちゃんを見て柔らかく微笑んだ。
この二人は仲がいい、と思う。
教室では二人で話すことはない。でも瑞香ちゃんが誰かと、というか私や先生と話をしている時、日野くんは絶対に会話に参加する。
そして瑞香ちゃんはといえば日野くんについてクラスの誰かが話をしていると、そわそわする。私は瑞香ちゃんの恋を応援していきたいけど、彼女は私に何も言ってこない。だから様子見をしているけど、もしかして二人は付き合っているんじゃ、と思うこともままある。
「そういえば隣のクラスでパパ活して不登校になった子、二人とも行方不明らしいよ」
眠る真木くんの背中を撫でながら三人で他愛も無い話を続けていると、日野くんが心配そうな声色で話を切り出した。
でも不思議とその瞳は、何かを期待しているようにも感じる。何でそんな風に見えるんだろう。
「心配だね」
「うん。でもまぁ近所に言いふらされて夜逃げしたとか、黙って引っ越しして退学届けだけ郵送で送ろうとしてるとか、そういう感じだと思うけどね」
不安がる瑞香ちゃんを、言い出した本人である日野くんが慰める。
確かに佐々木さんがパパ活をしていたことは、凄まじい速度で学年中に知れ渡った。親に話す子もいただろうし、近所の人に広まるのも無理はない。
「案外死んでたりして」
ぼそ、と呟く声が聞こえ、驚きながら真木くんを見る。聞こえてきた声は確かに真木くんのものであったはずなのに、彼は顔を伏せてぐっすりと眠っていた。
◇◇◇
「あー終わった……。めーちゃんお疲れ様」
「うん、お疲れさま、真木くん」
放課後の公園で、二人並んでベンチに座る。真木くんが地面に向かって伸びをしながら、ふぅ、と一息ついた。俯く真木くんは肩にかかる髪の長さも相まって、女の子に見える時もある。彼は髪の長さにこだわりがあるようで、もうかれこれ五、六年はこの髪型だ。
私は真木くんのふわふわした猫っ毛に触れながら、赤くなっていく夕焼けを眺める。
バスの乗り換えの中継地点であるこの公園は、私と真木くんの家から学校までの中間地点でもある。そして天気のいい日の帰り道はここのベンチに座り、適当な話をしてから帰るのが習慣だ。
大抵第一声は、お疲れさま。さっきまで一緒に歩いていたけれど、なんとなく染み着いた癖のようなもので真木くんもつい言ってしまうし、私もつい言ってしまう。
「今日も一日だるかった……」
「あ、真木くん。昨日ね、懐かしい写真が出て来たんだよ」
「しゃ……し……ん?」
「うん。真木くんと私が出会って少し経ったくらいの写真」
昨日、家のクローゼットを整理すると、私と真木くんが写った写真が出てきた。小学校三年生の頃に遊園地へ行った時の写真で、私と彼がアトラクションを楽しんでいたり、一緒にパフェを食べている写真だ。
「じゃー、明日見に行ってもいーい? ちまちまのめーちゃん見たい」
「今日でもいいよ?」
「今日はねえ、お母さんが何かするから、その手伝いしなきゃいけないんだって、だるい……」
「そうなんだ。じゃあ明日ね」
「んー……」
最近真木くんはよくお母さんのお手伝いをしている。なんでも、お母さんが新しく使いたい部屋が埋まっていて、そこの掃除をしているらしい。彼はよく物を壊すから、お母さんのお願いは聞かなきゃいけないと言っていた。
「ねぇ、私も手伝おうか?」
「いーよ。物壊す償いみたいなものだしねぇ……ん?」
真木くんは溜息を吐いた後、周りをきょろきょろ見渡したかと思えば、さっと立ち上がった。
お水でも飲みたいのかな、それともトイレかな。この公園、自販機はあるけど公衆トイレがないから、トイレなら近くのコンビニに行かなきゃいけない。
「どうしたの真木くん?」
「……もう、帰る」
「え」
「お腹痛い、おうちでトイレする。漏れちゃう」
「わ、分かった」
顔色が悪くなった真木くんを支え、私は足早に公園を出て行こうとする。でも彼は私をぐいっと引っ張り、自分の顔を私の胸に押しつけた。
「真木くん?」
「お腹痛いよ……めーちゃんたすけて……」
「い、今から病院に……きゅ、救急車呼ぶ?」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられ、真木くんの心臓の音が聴こえる。規則正しく、だけど少し速い彼の鼓動に不安と違和感を覚えていると、彼は私から身体を離した。
「痛いの治った……でも帰りたい、漏れちゃう。トイレ行きたい……」
お腹を押さえて真木くんは俯く。私は彼を支え直すと、家へ急いだのだった。
◇◇◇
真木くんの体調不良は、一時的なものだった。その日、コンビニに立ち寄ってトイレを借りていたけど、彼は体調不良が解消されたのかすっきりした顔をしていて、次の日になっても腹痛がぶり返すことはなかった。
「はい、これが昨日言ってた写真だよ」
放課後になり、約束通り私は真木くんへ昔の写真を見せることになった。でも、やっぱり昨日の腹痛が心配だったから、集まったのは私の家ではなく彼の家だ。
床にごろんとうつ伏せになって顔だけをこちらに向けている真木くんに、私はアルバムを渡した。写真は彼が私の隣の家へ引っ越してきた時の写真から、だいたい小学校三年生くらい頃のもので構成されている。全て私と真木くんのツーショットだ。
「んー懐かしいねえ、いつ頃だろ、昨日くらい?」
「七年前の写真だよ! 昨日じゃないよ、真木くんも私も小さいでしょ?」
「ほんとだ! めーちゃん小さい、かわいー」
もそもそと真木くんはアルバムを手に取ると、まるで宝物を見つけたように両手で掲げる。そのページには運動会で一位を取った真木くんと私がいた。二人とも元気に笑っていて、ピースをしている。
「ちまちましためーちゃん食べたら美味しそう。ケーキの上にのってるやつみたい」
「いや、私は普通にまずいよ? 人間だからね」
「そうかなあ?」
ふと、真木くんの部屋に並ぶ数式の本に目を向ける。あれは正真正銘、彼が読む本だ。私には一切理解できない。
真木くんが日常生活で失敗し始めたあたりから、彼は数学への関心を爆発的に持つようになった。難しい証明をしたり、こういった難しい数式の本を読んだり。
数学の試験なら、上位の成績をとる実力は確実にある。もしかしたら、学年トップを取れるかもしれない。けれど毎回彼はケアレスミスを連発し、数学の成績は平均よりちょっと下に落ち着いている。他の主要教科は、基本赤点ぎりぎりだ。
「ねぇ、真木くん。数学さ、もう少しミスをなくせば、もっといい大学とか目指せるんじゃないかな……」
「やだよ。頑張ったら、連れてかれちゃうから……」
「真木くん……」
「頑張ったら、嫌な目に遭う。めーちゃんにほっとかれて、俺は」
真木くんが俯いて、がたがた震え始めた。頭を押さえ、怯え始める。私は慌てて彼を抱きしめ、落ち着けるように背中をさすった。
「うう、ううううう」
「ごめん。ごめんね真木くん」
「……やだ。許せない。めーちゃんのせいだもん……」
「ごめん真木くん、もう言わない、もう言わないよ」
「めーちゃんのせいだ。俺が連れてかれたのめーちゃんのせい、めーちゃんのせいなんだから、めーちゃんは俺を守ってくれなきゃ駄目なのに、何でそういうこと言うの? めーちゃんは俺を守ってくれるんじゃないの……?」
「守る。守るよ」
根気強く背中をさすると、落ち着いてきた真木くんは私の肩にぐりぐり頭を押し付ける。そして、「じゃあ、償ってよ」と、呟いた。
「な、なに真木くん。私はどうすればいい?」
「首、ぎゅってやって、絞めるみたいに」
「は……?」
絞めるみたいにって……もっと抱きしめてほしい……とか? 冬場の真木くんは寒いと私のポケットに手を突っ込んだり、脇に手を差し込んだりする。私はおそるおそる、抱きしめる力を強くした。
「もっと強くして」
「こう?」
「もっと」
「こんな感じ?」
「もっとがいい、もっとぎゅってして、殺す気でして、首を絞めるんだよ」
「でも……」
「償ってよ。早く」
真木くんは冷たい声色で、判決を言い渡すみたいに耳元でその言葉を口にした。私は震える手で彼の首へと手を回す。
「めーちゃんがちゃんとぎゅってしてくれるまで終わらないよー……」
私は意を決して、彼が苦しくないよう力を込めた。彼は満足気に笑って、私を見る。
「そーそー、じょーず……、おやすみ」
「駄目だって真木くん、起きて!」
ぐん、と体重がかかってきて、私は真木くんの首から慌てて手を離し、抱き留めた。彼はそのまま私の膝に縋りつき、ぐっすりと眠ってしまった。
◇◇◇
十月も半ばに差し掛かり、テストが近付いてきた。私はいつも平均点で過度な心配はないけれど、試験が近づいているだけで気持ちが憂鬱になるのは、言わずもがな真木くんが理由だ。
真木くんは解答欄さえ正しければ、赤点の成績には決してならない。でもそのミスがやらた多い。彼によく確認するよう伝えてはいるけれど、それでも毎回半分以上ケアレスミスで点を落とす。名前を書かず、答案を集めた先生に注意されるなんてしょっちゅうだ。
だから、せめて解答欄を間違えなかったところは正しい答えであるために、試験前はいつも二人で勉強をして、真木くんの苦手を潰すようにしている。
「ふーむ」
でも、真木くんは私の部屋で歴史の教科書を興味無さげに眺めては、溜息を吐き肘を掻いた。
彼は数学以外は基本ぐっすりと眠っている。歩いてても眠り始める。この間の体育の帰りだって、自販機で飲み物を買おうとしたら彼が眠り始め、慌てて更衣室に運び、日野くんに引き渡したくらいだ。
「むぅーん」
真木くんは先程からずっと肘の方を掻いている。どうしてだろう、虫に刺されたのかな。それとも草にかぶれた? もしかしたら何か良くないものに触ってしまったとか……? 考えてみると思い当たる節が多すぎて混乱してくる。
「真木くん、虫に刺された? それとも草かぶれ? どこか触っちゃった?」
「んー……わかんない。めーちゃん掻いて。昨日爪切っちゃったから、かゆかゆできない」
差し出された真木くんの腕は、わずかに赤くなっていた。蚊にさされたり変な虫にやられたようには見えないけど、掻いたら炎症になるだろうし……。
「駄目だよ真木くん。掻かないで冷やさないと」
「じゃあ、めーちゃん一回だけ掻いて。そしたら冷やす……」
じと、と真木くんは私を見つめてくるばかりで、腕をひっこめようとしない。
「じゃあ、一回だけだよ?」
「やったー……よろしくお願いします」
顔を綻ばせる真木くんの腕に、軽く爪を立ててなぞる。彼は袖がだぼだぼの長袖を好むから、色が白くて肌も綺麗だ。そんな肌に爪を立てるなんて、何だか最悪なことをしている気がする。
「んー、ちょっと弱いけど、まぁいいや。めーちゃんも掻いてあげる」
真木くんが私の腕を掴むと、優しく爪を立てながら撫でてきた。痒いところも別にないから、違和感は覚えるけど別に痛くはなくて、どうしていいか分からず真木くんの綺麗な指を見つめる。
あれ、真木くんの爪……大分伸びているような。彼は面倒臭がりだけど、爪を切るのは好きでよく短く切り揃えている。っていうか、さっき爪を切ったって言ってなかったっけ?
「爪伸びてない? 私切る?」
「んー。ちょっと伸ばしてるだけ。だいじょぶ」
伸ばしてる? 首をかしげると、真木くんは私の頬に触れた。
「安心して、めーちゃん。大丈夫だから」
「そう?」
「うん、大丈夫だよ、めーちゃん」
真木くんの声を聞いていると、なんだか本当に大丈夫な気がしてきた。私はなんだか頭がぼーっとしながらも、勉強を再開したのだった。
◆◆◆
「うー寒い……」
真木くんとの勉強会の翌日、私は昇降口近くにある自販機を目指していた。この間まで暑い暑いと汗をかいていたのが嘘みたいに、木枯らしが吹き荒れる渡り廊下は酷く冷える。最早真冬だ。早くポタージュを買って教室に帰りたい……。
「だーれーだ……」
聞きなれた低音で囁かれ、後ろからぎゅうとコアラのようにお腹へ腕を回される。間違いない。真木くんだ。
「真木くんでしょ。後ろから悪戯しないの」
「ふふ、ばれちゃった」
楽しそうに笑う真木くんの頬を軽くつねると、彼は私の裾を同じようにつねった。
「それでめーちゃんはどこ行くの?」
「ちょっと自販機にポタージュ買いに行ってくるんだ、真木くんもほしい? それともお水? りんご?」
尋ねると、一瞬だけ真木くんの顔が強張った。彼は私の袖をくいくい引っ張る。
「だあめ。日野が急ぎの用があるってめーちゃん呼んでたもん……だから俺、めーちゃん探しにきたんだよ?」
日野くんが私を……? 一体何の用だろう。思い当たる節が全くない。
「ぽたあじゅは俺が買ってくるから、めーちゃんは日野のとこに行っておいで……」
「分かった。でも、大丈夫? 一緒に教室戻る?」
「だいじょぶ。お金もあるし」
ぐいぐいと真木くんに押され、後ろ髪を引かれながら踵を返す。振り返ると、彼はゆったりと手を振りながら「はーやくう」と少し張った声をあげ、私は教室へ急いだのだった。
◆◆◆
日野くんの姿を探すと、彼は人気のない廊下に立ち一人でスマホを弄っていた。いつも輪の中心にいるはずなのに、今の彼は人を拒絶しているように見えて酷く近づき辛い。
でも呼ばれていたわけだし……と恐る恐る近づけば、彼は顔を上げた。
「ああ、園村さん。どうしたの?」
「真木くんに、日野くんが私を呼んでるって言われて……」
「え……?」
日野くんは驚いた。どうしてだろう、呼んだのは日野くんの方なのに。
「何か、間違い……かな?」
「あ……ごめん。ぼーっとしてた。間違いじゃないよ。真木くんなら園村さんのことすぐ探せると思って、頼んでたの忘れてた」
「ううん。こちらこそ忙しいところ話しかけちゃってごめんね」
「気にしないで、それで用事なんだけどさ、最近園村さんの家の近くにレストランが出来たよね?」
日野くんの言葉に記憶を手繰り寄せていくと、確かに一か月くらい前に、大通り沿いに新しいお店が建った覚えがある。
窓のステンドグラスが綺麗だったことと、女の人が沢山並んでいたことが記憶に新しい。ああ、「イケメンオーナーシェフ」がいるとか取り上げられているのも見たような。
「うん、あるよ。人気な感じの……」
「店員とか店長って男? 店の人間の男女比どれくらいか分かる?」
「え……多いかどうかは分からないけど、店長さんは男の人だよ。あとお客さんは女の人が多いみたいで、店の前結構並んでたかな……」
「へぇ……じゃあナシかなぁ……」
日野くんの瞳は酷く冷たいもので、身体が強張る。一歩後ずさると、彼はパッと表情を明るくした。
「実はさ、ちょっと気になってたんだけど、ネットで検索しても店員の情報が出なくてさ」
「そうなんだ……」
「園村さんは行ったりした? 女の子同士で行きたいと思う?」
「うーん、あんまり思わないかな」
「そっか。ならいいや」
私は、あんまり食事に興味もないし、正直な所、男の人がそこまで得意じゃない。真木くんは特別だけど、他の人は身構えてしまう。何か特別嫌なことがあったわけじゃないから、恐怖症とまではいかないけど……。
「そういえば、これも前から聞きたかったんだけどさ、園村さんは真木くんとはどれくらいの付き合いなの?」
「真木くんと私? 小学校二年生の頃からだから、十年になるかなあ」
「そうなんだ、じゃあもうこれから一生一緒なんだね」
「一生ってことは無いんじゃないかな?」
「なんで? 生まれてから小二までって、誤差じゃん」
誤差ってことは無いと思うけど……六年とかそのくらいはあるし。
「で、でも、これからのことは分からないし」
「そうかな? 園村さんなしじゃ生きていけないでしょ、真木くん」
日野くんは当然のようにそう言い放つ。その言葉に少しの安堵を覚えてしまったことで、じわじわと身体が冷えた。
「そんなことないよ……そんなことない」
真木くんが不器用になる前……小学校の頃、私はクラスメイトの女の子に言われたことがある。
真木くんがあなたと仲良くするのは、家が隣だからだよ、と。
小さい頃の真木くんは何でも出来ていて、私はどこまでも平凡だった。彼は皆の中心にいて、私を輪の中に引っ張ってくれたくらいだ。でも、女の子にそう言われた日、私はいつも一緒に帰っていた真木くんを置いて
帰ってしまった。
そしてその日、真木くんは一人の帰り道で誘拐された。
警察の人の話によれば、車を使って三時間ほど連れ回されたらしい。その間に何をされたかは分からないけど、信号が赤になった時、とっさに車から逃げ出した彼は近くの交番に駆け込んだそうだ。事件の詳細を私は未だに知らないけれど、保護された直後の彼に会いに行くと、彼はがたがた震え人と話せる状態じゃなかったことは確かだ。
私は何度も真木くんの両親に謝って、彼に会いに行った。でも彼は何をするにもままならず、気力を失い毎日ぼんやりしていた。私があの時、彼から目を離したからだ。
「いつか真木くんだって一人で生きていける日が来るよ」
最近の真木くんは出来ることが増えてきた。中学の時は校舎の中を一人で歩くことなんて出来なかったし、着替えだって空き教室で一緒にしていたくらいだ。
でも今は、きちんと男子更衣室と女子更衣室に分かれて着替えられている。飲み物だって一人で買いに行けた。この高校には同じ中学の人も同じ小学校の人もいないから、昔のことを思い出さずに済むからというのも、もちろんあるだろうけど……。
「……真木くんは失敗も減って来たし、いつかは私がいなくても大丈夫になるよ」
「あはは! そんな日なんて一生来ないでしょ!」
日野くんは声をあげて笑った。でもその笑顔は真木くんを馬鹿にするような感じは一切しない。
「だってどう考えても真木はさぁ……あ、噂の真木くん帰ってきたよ」
不意に日野くんが私の後方を見る。振り返るとポタージュの缶を二つ抱えた真木くんが立っていた。
「おまーたーせー……」
少し息を切らせて缶を差し出す真木くんに、缶を渡され首を傾げた。あれ? こんな感じのパッケージだったっけ……? 真木くんが買ってきたものは、学校で見かけたことがないコーンスープの缶だ。
「真木くん、どこまで行って買ってきたの……?」
「こーばいのおばさんに会って、新しく売りたいとか? で買ったの……駄目だった? 怒る?」
「怒らないよ、ありがとう真木くん」
「えへへ……」
真木くんはふにゃりと笑う。優しい笑みに私も嬉しくなっていると、日野くんは「じゃあ俺はこれで」と軽い足取りで去っていった。
◆◆◆
「ほしゅー、面倒だなあ」
「駄目だよちゃんと受けないと」
「んー……めんどう……」
季節外れのぬるい風が吹き、さらに小雨が降る十月下旬。私の裾を引っ張りながら、真木くんが下駄箱を目指して歩いていく。
真木くんは今回の試験で補習に引っかかった。でもテストの結果が悪かったのではなく、授業中よく寝ていることが理由だった。そして彼が私を運んでいるのは、少しでも身体を動かし眠気を覚ましたいから、らしい。
「めーちゃん、喫茶店で俺のこと、ちゃんと待っててね」
「うん」
今日、私は瑞香ちゃんと学校近くのカフェで過ごす予定だ。最初は真木くんの補習が終わるのを校舎の中で待とうとしていたけど、私が校舎内にいると頼りたくなるから外に出ていてと彼に頼まれてしまった。
どうしたものかと考えていたら、瑞香ちゃんが一緒に過ごそうと誘ってくれて、カフェへ行くことになった。
「めーちゃん」
「ん?」
「めーちゃんはさ、日野のこと、かっこいいって思う?」
真木くんは歩きながら、はっきりした瞳で私を見た。そこに気怠さは感じられない。いつの間に下駄箱に辿り着いていて、彼は私の靴を出しながらじっとこちらを見上げている。
「日野くん? かっこいい人なんじゃないかな。モデルしてるわけだし」
「違う。めーちゃん個人の話……」
「うーん……私、男子自体好きじゃないからなぁ」
正直聞かれても、答えようがない。かっこいい顔なんだろうなとは思う。そうじゃなきゃ芸能界で活躍しないし。でも、知識としてそう思うだけで、特に何も思えない。
「俺も……男だけど……?」
「それは分かってるよ。真木くんは男の子だよね」
「なら、俺は特別なの?」
「うん」
「ふふふ……」
真木くんは何だか嬉しそうに頬を染め始め、くすくす笑う。だぶだぶの袖から指先だけ出して、頬にあてていた。
「めーちゃんに、告白、されちゃった……」
「えっ」
何だそれは。どうしてそんな理論になる?
でも、私が驚くと真木くんは笑顔から一変、とたんに顔色を悪くした。
「違うの……?」
「え、真木くん? 全然分かんないんだけど」
「分からなくないよ、めーちゃんは俺以外の男子に興味ないんでしょ……?」
「うん」
「それって、めーちゃんは俺のこと……好きだってことだよ? 幼馴染だとか、友達だからとかじゃなくて……結婚する意味で好きだってことなんだよ」
ふふふ、と袖を口に当てながら笑う真木くん。どう反応していいか分からず止まっていると、彼は目を潤ませ始めた。
「ええ、めーちゃん、俺と一生一緒にいるの……嫌? 結婚とか、絶対したくないくらい嫌いなの……?」
「いや、絶対したくないわけじゃないけど……話が唐突すぎない?」
「でも、俺を好きならいいよねぇ? 話唐突でも」
真木くんは悪戯っ子みたいに笑った。さっきから、話を振られているとは思うけれど、答えを受け取られていないような変な感じがする。
「ねえ、めーちゃん。結婚してよ。俺めーちゃんしか欲しくないんだから」
ぎゅ、と真木くんが私の手を握る。彼の手はとても冷たくて驚いてると、彼はぐいっと引っ張ってきた。
「俺、めーちゃんが好きだからお世話してもらってる……こんなに生きにくい……世界でもね?」
視界いっぱいに真木くんの顔が、長いまつげが映り込む。真っ黒な瞳に吸い込まれそうになっていると、唇に柔らかいものが触れた。
「何でも出来るようになる……魔法のちゅーだよ? ねぇ、これから俺が何でも出来るようになったら、けっこん、してね?」
歪んだ弧を描く唇は、ぞっとするほど綺麗で、真木くんから目が離すことが出来ない。
呆然とする私に、彼は靴を取り出し履かせてきた。「いってらっしゃい」という言葉に、自然と足が動き出す。後ろから、「いいこ」と昏く囁く声が聞こえた。
◆◆◆
真木くんと別れた私は、特に問題が起きることもなく喫茶店で瑞香ちゃんと合流することが出来た。
「ごめん、芽依菜ちゃん。ちょっとお手洗いに行ってくるね」
店員さんに注文を済ませると、瑞香ちゃんはハンカチを手に席を立つ。
ぼんやりとその後ろ姿を見送っていると、カランと来店のベルが鳴り、彼女が去った席に誰かが座ってしまった。二人席だし移動してもらおうと視線を向ければ、そこにいたのは――、
「え……日野くん? 何でここに?」
「近くで撮影があって、五十嵐さんの姿が見えたから来たんだ。何注文したの……ああ、五十嵐さんはやっぱりみかんオレか……絶対不思議なやつ頼むと思ったんだよね……ふふ」
瑞香ちゃんの席に勝手に座った人……日野くんは注文の控えを見て口角をあげると、徐に頬杖をついて私に顔を向ける。
「ねぇ、最近どう? 真木と」
「え」
突然投げ込まれた直球の質問によって、顔に熱が集中した。日野くんはそんな私を見て、さらに口角を上げた。
「なに? キスでもされた?」
「……」
「なるほど。で、やっと付き合うの?」
真木くんと、付き合うか。私は真木くんのことが好きだけど、きっと真木くんは同じ好きじゃない。依存だ。というか、なんで日野くんは何でこんなに私と真木くんの関係に突っ込んでくるんだろう。
「私と真木くんは、そういうんじゃないよ」
「え? キスだけする幼馴染なの? 変わってるね」
あっけらかんと言われて、飲みかけのお水を吹き出してしまいそうになる。見返すと、彼は平然と私を見下ろしていた。
教室での日野くんは機械的な印象を受けるけど、今は人間っぽい。でも、今のほうが苦手だ。
「……真木くんは、私しかいないと思ってるから、私のことが好きなんだよ。頼れるのが私だけだから……依存っていうか」
「だから?」
「だからって……」
「利用できるものは利用すれば? 依存だろうが」
「そんなこと……」
していいはずがない。真木くんの依存心を利用して自分の心を満たすなんて、絶対にやっちゃいけない。なのに日野くんは笑っている。
「依存してるから何? 依存は愛じゃないの?」
「……」
「俺はめちゃくちゃ依存されたいけどね。俺なしじゃ生きられなくしてやりたいし」
「……日野くんは瑞香ちゃんのことが好き、なんだよね?」
「そうだよ。俺は瑞香に依存されたい。縛り付けて外に出したくない。誰とも話すなって瑞香が頼んでくることを、いつだって望んでる」
誤魔化されると思っていた質問を、即座に答えられてしまい私は怯む。それを察してか、日野くんは畳み掛けてきた。
「ようは幸せにすればいいだけでしょ? 相手が幸せだって思ってれば、後はもうどうでもいいでしょ? 園村さんだって、真木が幸せだったら何でもいいんだから」
真木くんの幸せ、それは一体どこにあるんだろう。今まで真木くんの幸せは一人で何でも出来るようになって、前の真木くんに戻ることだと思っていた。でも、今日キスをされて、もしかして本当に私が必要なんじゃないかと思い始めてもいる。
「俺さ、園村さんにはわりと感謝してるんだ。園村さんは男と徹底的に絡まないし、瑞香に男近づけないしね。あと素行態度も抜群にいいし。どこかの誰かと違ってパパ活とかしないし、俺に興味もないしさ。あはは」
吐き捨てるような日野くんの言葉には、おそらく佐々木さんへの憎悪が込められている。佐々木さんと、瑞香ちゃん。二人の間に何かがあったのかもしれない。思えば佐々木さん、瑞香ちゃんのマフィンを貰ってなかったっけ……。
「俺の職業柄、俺を狙って瑞香に近付くこともあるだろうけど、園村さんはその点絶対に安心だしね。俺は園村さんのことを心から応援しているんだよ」
日野くんはにっこりと笑って、すぐに表情を削ぎ落とした。
「でも俺、この間瑞香の両親と話をして気付いたんだけど、親だろうと友達だろうと、同性だろうと? 瑞香に近い人間全員、殺してやりたくなるんだよね」
「え」
「だから、まぁ園村が結局真木を優先させる所、ありがたいっていうか。信用はしてるんだけど、お揃いとかはやめて。なくしたり壊れたりしたら瑞香ショック受けるだろうし、可哀想でしょ?」
彼は「友達同士で買ったりするでしょ?」と笑う。完全に牽制だ。この間、レストランの話で感じた直感は正しかったのだろう。
でも日野くんは危ない人だけど、なんとなく瑞香ちゃんもこの狂気を薄々感じ取っている気がしてならない。私にこれだけ牽制をしてくるのだ。一欠片ほどは、本人の前で狂気を出していても、不思議じゃない。
「あれ、ひ、日野くんどうしてここに?」
いつの間にか瑞香ちゃんが戻ってきた。自分の席に座る日野くんを見て、目を丸くしている。
「うん、五十嵐さんの姿が見えて、でもいなくなっちゃったから待ち構えてたんだ。ストーカーってやつ?」
「ななな何言ってるの日野くん、きょ、今日撮影は? お仕事どうしたの!?」
「今は休憩中。でも、もう行かなきゃ。じゃあね園村さん。またね、五十嵐さん」
日野くんは満足気に席を立つと、お店から出ていった。瑞香ちゃんは顔を赤くしながら椅子に座り、私の様子を窺いはじめる。
「ひ、日野くん何か変なこと言ってなかった?」
多分脅迫受けたよ、とは流石に言い辛い。言葉を選んでいる間に、瑞香ちゃんの顔はどんどん青くなっていく。
「あの、なんか、へ、変なことを……」
「いや、瑞香ちゃんと仲良くしてね、みたいな内容だったよ」
「え、えー……? ああ、でもそっか、私も前に……」
「付き合ってるんでしょ、二人」
「えっどっ、だっ、ええ?」
瑞香ちゃんが目に見えて取り乱す。喫茶店に迷惑をかけないよう全力で口を手で覆い、声は私にしか聞こえないけど、ぷるぷる震えていた。
「大丈夫。誰かに広めたりしないよ」
日野くんの様子を見てはっきりとわかった。二人は付き合ってるんだ。というかこれで二人が付き合っていなかったら、両想いと言えど完全に日野くんは頭のおかしな人だ。警察に行った方がいい人になる。
「芽依菜ちゃん……隠しててごめんね……」
「気にしないで、相手はお仕事してる人で色々あるだろうし」
「ありがとう芽依菜ちゃん……!」
瑞香ちゃんは何度も私にお礼を言ってきた。隠していることへの重圧があったのだろう。それだけ大切に思ってくれていることは嬉しい。ただ……日野くんは危うい人だけど……。
「あれ、芽依菜ちゃん電話?」
「え?」
彼女に指摘され、私はスマホを手にとった。画面に表示されていたのは着信を知らせる通知と、真木くんのお父さんの番号だ。
「どうしたの?」
「うん、真木くんのお父さんから電話があって……」
「出た方がいいよ」
「ごめん、ありがと」
瑞香ちゃんに謝りながらカフェの外に出て、通話ボタンをタップした。スマホをあてた右耳からは、息を切らせた真木くんのお父さんの声が聞こえてくる。
「もしもし芽依菜ちゃん!?」
「はい、おじさんどうしたんですか? 何かあったんですか」
直感的に、嫌なことが起きたと分かった。
取り返しのつかない何かが起こっている。
真木くんのお父さんは一度黙ると、意を決したように口を開いた。
「実は朔人が、今病院に運ばれた」
◆◆◆
瑞香ちゃんに事情を説明し、急いで病院に向かった私は真木くんの運ばれた病室へ急いだ。転がるように部屋へ飛び込むと、最悪な事態は免れたらしい。真木くんはベッドに座り、気怠げに足をぶらぶらしていた。
「やっほ、めーちゃん」
「ま、真木くん、襲われたってどうしたの」
病院に向かうまでの間、真木くんのお父さんから話を聞いた。
真木くんは補習に向かう前、学校に出入りする自販機業者の人に襲われたらしい。引っかかれ、腕を捕まれ、首を絞められたそうだ。
「なんかねえ、あの人悪いことしてたらしくて……俺が目撃者? だと勘違いしてねえ、首絞めて来たんだあ……」
軽い口調で言う真木くんの首には、包帯が巻かれていた。白い腕にもところどころガーゼが当てられている。きっと抵抗した時犯人に傷つけられたもの、そして、犯人が真木くんを殺そうとしてつけたものだ。
「真木くん……」
「めーちゃん、泣かないで……画鋲踏んだり、舌噛む方が痛いから」
「でも、首を絞められるなんて……」
「だいじょーぶ。そこまで痛くも苦しくもなかったよ。それより、めーちゃんじゃなくて良かった」
私の心配をかわす真木くんの言葉。でも、そんなはずない。絶対に痛かったし、苦しかったはず。それなのに真木くんは、大丈夫と私を宥め、慰める。
これじゃあどちらが怪我をしたのか分からない。真木くんを慰めなきゃいけないのに。
「良くないよ、真木くん」
真木くんは、いつもそうだった。彼が転んだり怪我をしたりして、私が焦るといつも慰めてくれた。私を元気づけようとしてくれた。
私はずっと、真木くんの優しさに救われて、そして惹かれて生きてきたのに。
「大丈夫だよ、俺はこれくらいへーき。なんともない」
「……でも」
「めーちゃんが元気なら、それでいいの。それだけで、俺は幸せなの」
柔らかく笑う真木くんを見て、もうどうしようも出来なくて、どうにもならなくて、私は彼に縋るように抱きついた。
真木くんがいる。生きてる。動いてる。抱きしめた真木くんの身体が温かくて涙が止まらない。真木くんが生きて笑ってる。無事だった。今もこうして、私の前にいるのだ。
「っ、真木くん、結婚しよ。真木くんが依存してるとか、誤解して私を好きだとかどうでもいい。今の真木くんが、私と結婚して幸せなら結婚しよ」
突拍子もない言葉だと思う。でも、病院に向かうまでずっと考えていたことだった。今まで私はずっと真木くんが好きでずっと一緒に居たかったけど、私は彼を幸せに出来ないと思っていた。
だから、真木くんが私を好きだと言った今日、了承はしたけど信じられなかったし、冷めた目で見ている自分もいた。将来的には断るつもりでいた。それが彼の幸せだと思い込むようにしていた。
でも、病院に向かうまで、真木くんが死んじゃうかもしれないと思っている間ずっと、私の頭は後悔でいっぱいだった。彼の気持ちにちゃんと向き合わず、自分が傷つきたくない。怖いから、彼の気持ちから一歩引いて別れを計算に入れていたことが、どれほど独りよがりだったかを思い知ったのだ。
「いいの? 芽依菜は、それで」
「いいよ。もう何でもいい。私じゃ真木くんを幸せにしてあげられないとか、真木くんを置いていった私なんかが、とか、そういうの考えるのはやめる。ちゃんと私が真木くんを幸せに出来るように頑張るから、どうやったら私が真木くんを幸せに出来るか考えるようにして、そういうので悩むようにする」
試すような真木くんの言葉に深く頷く。私じゃ真木くんが幸せになれないじゃない。私が真木くんを幸せにする。もう考えるのはそれだけでいい。悩んで自己嫌悪して、傷付かないように真木くんの言葉を信じないのはやめだ。もう傷付いてもいい。閉じた世界でも、私は二人で幸せになりたい。
◆◆◆
真木くんが襲われてから一週間が経過した。
「はーあ、ごはんごはん……」
食堂の座席につくと、真木くんはシチューの置かれたトレーを置いてぐったりと突っ伏した。私は彼の隣に煮魚定食を置いて席につくと、手を合わせる。
事件のことは報道されたけど、暴かれた事件の顛末は惨いものであった。あの自販機の業者の男はただの変質者ではなく、色々な高校を回っては生徒を攫って殺す殺人鬼だったのだ。
さらに犯人は真木くんを襲った末に自殺したらしい。犯人の家から死体がいくつも出てきて、十年ほど前の未解決事件とも類似点もあり、まだまだ余罪がありそうだった。
「真木くん、口開けて」
「んー……」
シチューをスプーンで掬って、真木くんへと持っていく。
「真木くん美味しい?」
「んー……」
真木くんはぼんやりしながらシチューを食べている。彼の怪我は幸い骨に異常はないけれど、服で擦れて痛かったりするだろうからと、食事などは私がお世話するようにした。
「めーちゃん……」
「なに?」
「今日一緒に寝て?」
シチューが熱かったのかと思っていたら、突然の言葉にスプーンを滑り落としそうになった。
え、一緒に寝る?
「暗いの怖くて、今日おうち、俺以外いないんだー……ひとりぼっち、こわい」
「じゃあ寝るまで! 真木くんが寝るまでは居てあげるよ」
真木くんが怖がってる。それはしっかりなんとかしたい。寝るまで一緒にいて、彼が寝たら帰って来よう。
「そしたらめーちゃんが危ない……。ねーえ、今日めーちゃんち行ってもいーい? 夜になるまで皆帰ってこないから、めーちゃんちで寝る」
「うーん、じゃあお母さんとお父さんに聞いてみるね」
たぶん、真木くんがうちで泊まるのは問題ないだろう。私はスマホを操作して、お母さんとお父さんにメッセージを送ろうとする。でも、後もう少しのところで、真木くんがぎゅっと私の手を握った。
「俺、めーちゃんを幸せに出来るよう頑張るからね」
「うん。私も、真木くんを幸せに出来るよう頑張るよ」
ふわりと優しく笑う真木くん。私はそんな彼の目を見て、しっかり頷いたのだった。
◆◆Parasite makes the perfect world◆◆
幼少から、俺は何でも出来る子供だった。言語を早々に習得し、暇さえあれば本を読み、知識を頭の中に仕舞い込む。頭にあった知識を応用し身体を動かせば、俺の身体はそれに見合った動きをした。
そう話せば、なんて恵まれているのだろうと万人には思われるかもしれない。
けれど自分の年齢に見合った教育と、俺の脳が物事を処理をする速度は決定的に違っていて、社会から与えられる教育は拷問に近いものだった。理解していることを何度も繰り返され、人の会話は多分、常人の六倍遅く聞こえている。
苦痛しかない世界の中、惹かれたのは自分の年齢を何周も回った人間が、生涯をかけて導き出した理論や定理だった。それ以外の言葉は聞くだけでも疲労した。悲しいことに両親を相手にしても同じで、どんなに親切で優しい関わりも、俺の身体には毒にしかならなかった。
かといって、人間として生きる以上社会と関わることは必須だ。否が応でも人と関わり過ごさなければならないし、そこで目立つ行動を取ってはならない。気まぐれに感情に流され逸れてしまえば最後、自然に排除されていく。
よって小学校一年生までは、普通でいることに努めて生きてきた。しかし、自分を抑えつけた分だけ、その反動は強く、俺の精神や身体を蝕むように戻って来る。
身体は異常な反応を示すようになり、俺は眠ることが出来なくなった。夜は眠れず、二日ほど眠らないまま活動を続けると、ふとした拍子で昏倒し、丸一日眠り続ける。
死に近い生活を繰り返して、生活を共にする両親が気付かないはずがない。俺は病院で身体の隅々まで検査した結果、重度の精神的疲労により、細胞が破壊されていると医師は診断した。
そんなこと、自分でとうの昔に診立てがついていた。
医者に心当たりがないか尋ねられ、俺は答えなかった。結果、両親は「いじめ」があると判断をし、俺は転校した。
答えなかったのは、周りのレベルが違い過ぎて疲れると言えなかっただけだ。いくら自分の両親とは言え、自分の子供が異常だと知れば不和が訪れるのは明白だし、言ったところで両親は解決策を提示できない。
結果的に両親が俺から抽出した情報は、俺が小学校に入学して身体に異常が現れたことのみ。考察材料が限られる中、俺の不調の原因に学校が関わっていないと判断する方が無理な話だった。
両親の中で俺がいじめられたという絵空事は事実となり、県外に引っ越しをして、俺は芽依菜と出会った。
芽依菜を一目見た時、何故か強く、強く心惹かれた。俺にとって容姿はただの間隔や比率の組み合わせと、細胞組織でしかない。しかし彼女に対しては、愛おしさというものを感じた。
音声としか認識していない声もずっと聞きたくなって、レベルの低い会話も思考の愚かさも、全てを許容することが出来た。
だからもっと芽依菜と一緒にいたくて、好かれたくて、関係性の発展を望んだ俺は自分の能力をセーブするのを緩めた。
優れている種は好まれる。ある程度目立っても芽依菜に好かれるならいいことだろう。それから俺の身体は彼女と一緒に過ごすうち、徐々に正しく睡眠が取れるようになった。
身体も治った。もう不安材料はない。俺は普通の人間を演じて生きていける。そう思った矢先だった。
芽依菜が誘拐されたのは。
俺が少し目を離した隙に、女子生徒の一人が芽依菜へ悪口を言ったらしい。それは些細すぎる嫉妬だった。しかし、芽依菜はその言葉によって俺から距離を取り、一人で下校し、誘拐され、三時間犯人と空間を共にした。
俺は芽依菜が帰宅していないと母から聞いた時、現場の状況を調べ、周囲に誘拐の可能性が高いと伝えた。後から聞けば、大体彼女が誘拐され、一時間しか経っていない時間帯だ。しかし警察も周りの大人も誰一人俺を信じてはくれなかった。
結局芽依菜はそれから二時間後、決死の覚悟で犯人の元を逃げ出し、交番へと駆け込んだ。
皆は芽依菜が戻ってきたことを喜んだ。でも俺は、手放しに喜べなかった。何故なら彼女の心は、三時間にわたり危機的状況に陥っていたことで、完全に壊れていたからだ。
事件以降、彼女は誰も寄せ付けず部屋から出ることも叶わず、男の声が聞こえれば泣き叫び自傷を繰り返した。
俺は、芽依菜にこれ以上傷ついてほしくなかった。もうきっと、彼女が元通りになることは不可能だ。だだ死ぬこともできず、永遠に苦しみ続けることしか出来なくなってしまう。
俺は芽依菜に伝えた。優しく、舌っ足らずで、性別を感じさせない声で、誘拐されたのは俺だと。
始めこそ、芽依菜は聞く耳を持たなかった。でも俺は、扉の向こうの彼女に根気強く話しかけた。
誘拐されたのは、俺。芽依菜のせいで俺は誘拐されてしまったけど、俺は怒ってない。芽依菜を許してあげるから出てきて。芽依菜は俺を守らなくちゃいけないんだよ。償って。そう、何度も、何度も、何度も。
それから一年後。芽依菜の中で俺と誘拐についての記憶が完全に再形成されたらしい。
ずっと閉じていた扉を開いた芽依菜は、一人にしてごめんねと謝ってきた。彼女の両親には、何をしたか伝えてある。やはり自分を傷つけ死の淵に立つ娘を見ることは辛かったのだろう。俺を許し、あまつさえ感謝した。
俺は芽依菜のトラウマを刺激しないよう、髪を伸ばし、間延びした声で話をするようになった。さらに失敗を繰り返し、庇護欲を刺激して守るべき存在であると彼女の脳に俺を刷り込んだ。
芽依菜は嘘の記憶を元に、償いとして俺の世話を焼く。俺を優先し、俺の元へ駆けつけ俺を助ける。
俺が居なくても、俺の姿を探し困っていないか考える。それはもう、完全に無意識のレベルに到達したと言っていい。
そうして、日々、丁寧に糸を編むが如く芽依菜へ重ね続けた嘘は、思わぬ副産物を生み出した。
俺の容姿は人目を惹く。周りは俺に近い芽依菜に嫉妬し、嫌がらせをしようとする。でも俺が怪我をしようとしたり、危険な目に遭いそうになると芽依菜の関心をいじめから逸らすことが出来たのだ。
だから俺は芽依菜が傷つかないよう、車道に出てみたり教室で転んだり、馬鹿な道化を毎日演じている。
かといって、芽依菜への悪意は現実だけではなく、ネットの世界で向けられることも当然ある。
俺は芽依菜を監視し、芽依菜がその悪意に気付く前に、俺が見つけて消せるシステムを構築した。
芽依菜が持っているスマートフォンのブラウザも、アプリも何もかも仮想のものに変えた。サイトで見ることの出来るネットニュースも個人に届くメッセージも、一旦俺が検閲して彼女に届くようになっている。彼女の電脳世界には、無関係の芸能人への誹謗中傷すら存在しない。完璧な優しい世界。理想郷がそこにあった。
「あー終わった……。めーちゃんお疲れ様」
「うん、お疲れさま、真木くん」
いつも通りの公園で芽依菜と並んでベンチに座り一息つく。彼女の後方、公園を囲う様にした道路の奥に視線を向ければ、汚らしい男が立っていた。学校の自販機で、定期的に在庫の入れ替えをしている業者の男だ。
男の仕事は、マニュアル通りであるならば、一日に一度来校し、ゴミ箱のゴミを捨て、自販機に飲み物の補充をすること。とくにこの時期なんて、大して売れるわけでもないから日に六度訪れる必要なんてまったくない。
定期的にチェックしている学校の監視カメラによってその事実に気づき、俺が別途校内に設置しているカメラで確認すると、男は七月の段階から、後に行方をくらます生徒の後をつけるなど妙な動きをしていた。
そしてその男が今、芽依菜を見ている。
自動販売機の管理会社のサーバーに入り男について調べると、住まいは学校近くの音大生向けボロアパート、二階の角部屋だった。老朽化が進み、音大の寮が新設されたことで、男の隣と下の階層の部屋に住人はいない。人を監禁しておくには適した立地であった。
女子高生行方不明事件は当然警察も捜査をしている。しかし警察は彼女たちが援助交際により、反社会的な世界に足を踏み入れてしまった線で捜査をしているようだった。
確かに行方不明になった人間たちのもっともな共通点ではある。他に停学にされた二人の生徒を保護しようとしている動きもあるらしいが、それは全く違う。
男は幼い頃、児童相談所に何度か虐待の通報があった。その記録によれば両親から日常的に育児放棄を受けていたらしい。性格面では引っ込み思案で、何をするにでも姉に頼りきりだということが記録されていた。そして戸籍を調べると、一年前に姉は死んでいた。
次に姉を調べてみれば、姉が絵画コンクールで入賞したことを祝う写真が出て来た。その顔は行方不明の二人の顔の系統と一致して、さらに髪型、そして写真の構図や周囲の配置から算出した身長や体型なども似ていた。おそらく姉への歪んだ愛情により模倣品を集めようとしているということだろう。
あの男の姉が芽依菜と似ているとは決して思わない。芽依菜の代わりは他にいないし、誰の代わりにも芽依菜はならない。ただ黒髪で身長だけが共通しているだけ。でも俺を世話する芽依菜を見て姉への面影を重ねた可能性は極めて高い。
「お腹痛いよ……めーちゃんたすけて……」
「い、今から病院に……きゅ、救急車呼ぶ? 」
姉と弟ではなく、男女の関係を匂わせるように芽依菜にすがりつく。彼女は心配そうに俺の背中をさすった。
――めーちゃんだけは、絶対幸せにするからね。
心のなかで呟き、俺は芽依菜に縋りつきながら、自分でも驚くほど昏く笑っていた。
家に帰り、鍵をつけた納戸に入ると、四台のモニターが煌々と光を伴いこちらを照らした。一台は使用するメイン画面、他は学校を監視する為のもの、芽依菜の家の周りを監視する為のもの、この街全体の監視カメラに繋げているもの、そしてただトップ画面が表示されているもう一つは……、
『違う、違う、違う、違う』
パソコンを軽く操作してとある場所のカメラへとつなげると、トップ画面から小汚い六畳間の映像に切り替わった。
ざらざらとしている壁には、ところどころ黒くなった血痕が放たれ、畳は削られた痕とそれに沿うような赤が画面越しでもはっきり見える。中央には、人間二人を包んだカラフルなピクニックシートが無造作に置かれていた。小汚い男がその隣で、キャンバスに向かって赤い絵を一心不乱に描いている。
初めて男の部屋のノートパソコンのカメラに接続したとき、生徒二人は既に殺された後だった。二人は男に血を抜かれている途中で、何のためかと思えば絵の材料にされていた。
「もうそろそろ潮時かな」
本来ならば芽依菜を狙う前に、奴が確実に死刑で裁かれるよう泳がすことも視野に入れていた。
でも、奴は芽依菜に照準を定めた。
芽依菜は奴の姉にも、絵の材料にもさせない。
だから、この男は邪魔なのだ。
◆◆◆
「俺、あなたのお姉さんのギャラリーを見に行ったことがあるんです。素敵でしたよね」
五十嵐と待ち合わせをした芽依菜を見送ってから、俺は男を空き教室に呼び出した。男は「姉」というワードだけで、見ず知らずの俺にのこのこついてきた。それほどこの男にとって姉の存在は大きいのだろう。
「ああ、自慢の姉だ」
「なのに一年前、亡くなってしまった。残念でしたね」
指摘すると、男の醸し出す雰囲気がひりついたものに変わる。
「亡くなった? 君は何を言っているんだ」
「死んだでしょ、一年前に。ご自慢のおねーさん」
「何が目的だ」
「死人は戻ってこない。代替えなんて無意味って、教えてあげようと思って」
挑発するように簡潔に提示すれば、男は目を細め始める。
「……どこまで知ってる?」
「姉恋しさに無関係の人間捕まえて、監禁して血を抜いて殺したところまで」
「全部じゃないか」
男は驚いたように目を見開いた後、真顔で俺を見た。怯まず見返すと、男は淡々と口を開いた。
「だって、姉さんは世界で一番美しかった。だから、姉さんみたいな描き方で姉さんを描きたかったんだ。そうすればきっと、僕だってコンクールで入賞が出来て、個展だって――」
「理由はどうでもいいよ」
本当に、どうでもいい。聞いていても疲れるだけだろう。会話は相手に理解してもらう為に努めて話すべきだ。しかしこの男はまるで理解を求めていない。自分が話をしたいから話すだけ。対面である意味がない。
「悪いけど、俺全然興味無いからね」
「……君、なんだか僕をすごく馬鹿にするような言い方するけど、何様のつもりなの」
「別に何様でもないよ。ただ馬鹿にはしてる」
「はあ?」
「俺はお前と違って証拠残したりしないし、凶器どころかあんたの死体だって倍の人数で警察に探されても絶対見つからないように出来るから」
目の前の男を、殺したい。俺なら完璧に凶器も死体も処理できる。誰にも見つからない。捜査の手だって届きはしないだろう。
「言っておくけど、お前の姉だってお前に興味なんてもうないよ。お前のこと気持ち悪いって思ってるよ。自分の代わりに二人も殺して、心底軽蔑してるよ。最悪のゴミ、あんたなんて生まれてくるんじゃなかった。死ねばいいのに。気持ち悪いって、さっさと死ねって思ってるよ。案外生きてる間も思ってたかもね」
男のコンプレックスを全て刺激する文言を抑揚なく並べると、想定通り男は呻き叫びながら飛び掛かってきた。しかし、俺が懐から出した姉の絵が描かれたキャンバスを見て、大きく目を見開く。
「姉さん……姉さんっ!」
俺はキャンバスを窓へ放った。男は目を大きく見開きながら、窓の外へと飛び出し、そのまま五階から落ちていく。
ああ。これできっと芽依菜の平穏は、変わることなく保たれるだろう。俺は溜息を吐いて、その場を後にしたのだった。
「はーあ、ごはんごはん……」
ぐったりとしながら、いつも芽依菜と座っている学食の座席につく。食堂は相変わらず賑わっていて、周囲の視線が煩わしい。それに俺が事件の被害者になったことで、より注目が集まってる気がする。
犯人を警察が回収して一週間。事件は連日報道され、学校にはマスコミが群がり通学もままならない状態だったけど、学校に来る人間は落ち着いてきた。犯人についての情報がネットで特定されたことで、マスコミも動画配信者も、高校生を映すより叩かれずに済む加害者の関係者へ向かっていったからだ。
「真木くん、口開けて」
「んー……」
軽く口を開けると、芽依菜がシチューを掬ったスプーンを差し出してくる。学食のシチューはいい。粘度が無くさらさらしている分相手の口に入れる時に集中力が必要になる。こぼさない為と言えど、芽依菜の頭の中が俺でいっぱいになっていることは気分がいい。
「真木くん美味しい?」
「んー……」
間延びした返事をして、芽依菜が口に入れてくれたシチューの味を充分に噛み締めた後、飲み込む。ああ、美味しい。平穏で幸せだ。でも俺は欲張りだから、もっとその先が欲しい。
「めーちゃん……」
「なに?」
「今日一緒に寝て?」
首を傾げてそう言うと、芽依菜は目を見開き、どうしていいか分からない表情に変わる。俺を心配しているのだろう。事件のことがトラウマになって俺が眠れなくなったという想像をしているに違いない。
「暗いの怖くて、今日おうち、俺以外いないんだー……」
「じゃあ寝るまで! 真木くんが寝るまでは居てあげるよ」
「そしたらめーちゃんが危ない……。ねー、今日めーちゃんち行ってもいーい? 夜になるまで皆帰ってこないから」
「いいよ」
「ありがと、めーちゃん。大好き、絶対結婚してね」
不自然にならないようにそう言うと、周囲の視線がこちらに集まった。思い知ればいい。芽依菜の代わりになれる人間なんてこの世のどこにもいないことを。俺は彼女しかいらないことを。
芽依菜に顔を向けると、彼女は戸惑ったように顔を赤くしている。嬉しさ反面、俺の弱みに付け込んでいるのではと罪悪感を持っている。そんな感情は持たなくていいのに。
「俺、めーちゃんを幸せに出来るよう頑張るからね」
だから俺の傍に一生いようね。危ないことも、怖いことも何も知らないまま。
魔法をかけるように、呪いをかけるように心の中でそう囁いた。