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【悪役令嬢ですが攻略対象の様子が異常すぎる公式ツイッター】
10月2日 オーディオブック①巻 ボイスドラマCD コミックス⑤巻 紅茶缶
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「松井さんは色んなお店をご存知なんですね。この間紹介してくださったオーガニックスイーツのお店も素敵でしたし」
「ここ、よく家族で来るお店なんです。是非怜さんと来たいと思ってて……」
水のせせらぎを聞きながら切子のグラスに手をかける。視界の端から見える障子の向こうは竹柵に囲まれ、紅の葉がはらはらと舞い散った。都会の中心である最寄り駅から十分程しかかからないような場所なのに都会の喧騒から離れ、京都の料亭で修行をした職人の手によって最良のもてなしを、というホームページの知識通り、この料亭で出された食事は見目も良く、全て窯で焼成されたらしい器を使い完璧な味付けがされている……のだと思う。
「とても美味しいです。こんなに美味しいものを食べたのは久しぶりです。あっ、この間のスイーツももちろん美味しかったのですが……その、普段あまりゆっくり食を楽しむ機会がなくて」
「ははは。お気に召して頂いたようで何よりです。それに、怜さんは働きすぎに見えるので、是非身体にいい食事を取っていただきたくて……ほら、やっぱり僕らは仕事上、ジャンクなものばかり食べているじゃないですか」
「はい。体調が悪い時とか、どうしてもコンビニのお弁当を……ってなりがちですよね。」
「でも、食は人を作る。だから例えば、コンビニのお弁当やスナック菓子、それこそ安い工場で量産されたビールを美味しいという生活は、身体に悪い。だからこそちゃんと味覚を取り戻す瞬間を作ってあげないとなって、僕は意識的にここに来るようにしてるんです」
「なるほど、確かにこれからを考えると、そうなりますよね……」
松井さんとは母の会社の繋がりで知り合った。二人きりで会うのは今日で四回目になる。食事は毎回芸能人がひっそりと誰かを伴い訪れるような隠れ家的な場所で、今日来た料亭も同じだった。
彼が誘ってくる店を事前にサイトで調べてみれば、記念日に特別な時間を過ごしたい方は是非、と書かれ味は全て五つ星評価だ。
「でも、この煮しめは本当に美味しいですね……」
「はい。少しだけお酒が欲しくなってしまうかも知れません」
「結構飲まれるんですか?」
「いえ、実はグラス半分程度しか……ただ、お酒を飲みながら食事をすることにちょっと憧れが……」
そう言うと、彼は「では今度おすすめのバーを紹介しますよ」と笑いながら手元の皿に箸をつける。正直、何を食べていても分からない。オーガニックも、興味がない。煮しめだってただの物体を飲み下している気持ちになってくる。
でも私は相手の機嫌を損ねないよう、そのまま笑みを浮かべ食事をしていたのだった。
◆◆◆◆
食事を終え、私は松井さんと別れてタクシーに乗った。自分の家より三つ先の駅を指定して、特に渋滞に捕まることなく駅に到着し、スマホを開いてため息を吐く。
スケジュールアプリを開くと、一週間後の日付に松井家顔合わせとあり、胃がどうしようもなく重くなった。まるで追い打ちをかけるように冷えた風が頬をかすめ、私は目的地へと足を早めていく。
二十四歳、秋。結婚と引き換えに、プロジェクトが決められそうだ。
刻井翼――私の母が設立した芸能事務所アビスノットは、十代から二十代の女子に絶大な人気を誇りながら、多数の受賞経験がある日野珱介、配信者としてインフルエンサーのふわせ、現役女子大生アイドルユニットメアフレイなど、若者が注目するアーティストたちを多数在籍させている。
けれど、設立した経緯に問題があり、古くからの大御所俳優や女優など、安定的に数字を稼ぐ人間の在籍は殆どない。
そこで著名なバイプレイヤーを多く在籍させている事務所に、業務提携をしないかと持ち掛けているけど反応はどこもよくなかった。
しかし、先日ある事務所の社長息子――松井さんが私に興味を持ってくれ、話を聞いてもらえることになった。そして松井さんのお父さんは、結婚を前提とした交際と引き換えに業務提携について考えると言ってくれたのだ。
だから私は、ずっと隙間を埋めるように一緒にいた人間との、別れを決めた。
「健、お疲れ」
「おー早かったなぁ、駅ついて電話してくれたら迎え行ったんにぃ、怖い目ぇ合わんかった?」
夜の二十時ちょっとすぎ、駅から十五分ほど歩いたワンルームのマンション。赤みを帯びた髪をなびかせ、レンズを通した涼やかな瞳で私を出迎えるのは、健だ。
名字は知らない。私より年下で、いわゆる新卒に分類されることは知ってる。職場は知らない。でも甘いものと辛いものが好きで、苦い味は嫌い。
そんな断片しか知らない彼と出会ったのは、週末のバーだった。
「大丈夫だったよ」
「良かったわぁ。てっきりメッセ来る思うてずうっとスマホとにらめっこしてたわぁ、もう今度はちゃんとメッセ送ってなぁ?」
「んー……」
薄暗い店内の中、お互いのスマホを取り違える。ドラマみたいな出会い方をきっかけに、私たちはバーやカフェ、はたまた温泉と、お酒やその後どこかで泊まれる場所で会うことが増えた。
そして互いの名前が本当かどうかも確認せず、職業すら明かさぬままに、ずるずる暇を合わせる日々が続き、彼は私を家に招くようになった。
「今日なぁ、多分もう今年最後やと思うんやけど、帰りに祭りやってんの見つけてなぁ、焼きそばと、たこ焼きと、お好み焼き、りんご飴、ポテトも買ってきてん、食べよ」
がさがさと健は硝子のローテーブルに真っ白なビニール袋をのせた。確かに、ソースや野菜の香ばしい匂いがうっすら漂ってくる。彼は「ビールでええ?」と冷蔵庫から缶ビール、そしてオレンジジュースを取り出した。
「健は飲まないの?」
「うーん。まだええかな」
健は私の頬にぴたりと缶ビールをつけて渡してくる。「冷たいんだけど!」と抗議しながらテーブルを挟んで座り、一緒に割りばしを割ると気持ちのいい音がした。
◇◇◇◇
「それにしても、怜ちゃんがビール飲んで焼きそば食うんやって、一緒に働いとる男らは絶対思わへんやろうなぁ」
「何それ?」
「だって完全にフレンチとかイタリアンとか食べて、焼きそばとか作ってるおっちゃんゴミみたいな目で憎んでそうやんか」
「そんなことないよ」
「でも絶対そう思われてるで」
くだらない会話をしながら、焼きそばを口に運ぶ。ソースと青のり、ふりかけられた鰹節の匂いが鼻先をかすめ、落ち着くような、それでいて泣きたい気持ちになった。
今日で、健とは会わない。
こうして縁日の醍醐味みたいな食事をしていると、一緒にそういう場所へ行きたかったなと、切なさや後悔に似た感情が湧いてきて、それを誤魔化す為に私は焼きそばを頬張った。美味しくて味がすることには、目をそむけながら。
買い物に行くのは、いつも健の近くのコンビニやスーパーだけだった。家具や雑貨を見に行ったりはしないけど、一緒に温泉に行ったり、同じ部屋には泊まる。付き合ったりするより気軽だし、芸能事務所に勤めるということは、人が休みの日に働くということだ。
誰かと付き合っても、約束は破りがちになる。だから会いたいときに会って、お互いが忙しい時は干渉しない。この関係が理想で、最良だった。
「私、今度のプロジェクト成功させたら、たぶん昇進だと思う」
「えっほんまに? めでたいやん」
「うん、成功したらだけど」
「えー、そんなん先に言うてくれたらええのに。そしたら焼きそばやのうて高いケーキとシャンパンこーてくるのに」
「私ケーキよりこっちのが好きだし、お酒だってビールでいいから」
「ほんまに? ならええけど……じゃあもう外回りずっとやのうて、ビシ―って会社の中に座ってる感じになんの?」
「どうなんだろ、でも、休みは増えるかもしれない」
先方は、共働きで良いと言っていた。家事は一緒にやっていこうと。でもあちらの母親は、家に入ってほしいらしい。「俺の意見じゃなくて母さんの意見」と強調されたそれは、不安を覚えるには十分なニュアンスだった。
でも、私はこのチャンスを逃すわけにはいかない。
「まじかぁ、なら今度はちょっと遠い温泉行ってみいひん?」
「ううん、行けない」
「え〜何で? この間俺が無理させて湯あたりさせたんが不安なん? なら今度はちゃあんと俺が……」
「もう健とは会わないから、行けない」
箸を置いて、空になった焼きそばやポテトのパックを見つめる。本当は、食べる気なんて無かった。チャイムを押したら話があると言って、そのまま別れ話をする気だったのに、健の顔を見た瞬間離れがたいと思ってしまった。
私は意を決して、彼をまっすぐ見る。
「私、結婚する」
「……え」
「だから、身を固めるっていうか、こうして健に甘えるのやめようと思って」
ぎゅっと手のひらを握りしめて、震えないように声を発する。彼はまるで子供みたいに目を丸めて、「ほんまかあ」と呟いた。
「え、誰か付きおうてる奴おったん?」
「ううん、ほぼお見合いみたいな感じ」
「なんやのほぼお見合いって。ほぼて何」
わりと、自然な流れだ。自分から一方的に会わないと言っているのに、引き留めてくれないのかと胸が痛んで、自分の身勝手さにどうしようもなくなる。
「母親の知り合いの息子さん、なんだよね。それで、なんていうか、お互い独身だからってことで」
「へぇ、そんな出会いもあるんやなぁ。じゃあ、あっちの奴のことあんま詳しくないん?」
「まぁ……でも、お互い親は知ってるし、変な人ではないからさぁ、いいかなって」
「ほぁ……怜ちゃん結婚かぁ。驚いたなぁ。入籍とか結婚式はいつなん? 来年?」
「そういうのはまだ全然……結婚の流れに持っていきたいねって感じではあるんだけど、お互いの両親はその気だからさ」
「なら、無くなる可能性もあるん?」
ひやり、と冷えた声に一瞬違和感を覚えた。でも彼は「今、色々物騒な感じやん?」なんていつも通り笑っていて、気のせいかと腰を浮かせて座りなおす。
「それはないと思うよ。特にお互い問題ない感じだし」
「へぇ」
健は手に持っていたオレンジジュースを置いた。そして「なんや寂しなるなぁ」と天井に顔を向ける。
「なぁ」
「ん?」
「一回でも、俺と結婚したいって思うてくれたこと、あった?」
その言葉に、胸を巣食われる思いがした。それと同時に、私に背を向ける母親の姿が思い浮かぶ。あの人は、いつも私に勉強しなさい、一番になりなさいと言っていた。完璧でいなさいと。
「ど、どうだろ」
母は、アビスノットと敵対している事務所、フォリアイアンの元社長――女帝明志麗華の秘書をしていた。
しかし、飛行機事故で明志麗華は早くにこの世を去り、しばらくは代理で彼女の夫が社長を務めていた。その間に母はクーデターを起こし、アビスノットを設立したと聞いた。今のフォリアイアンは、麗華の望んだ場所じゃない。私が明志麗華の意思を継ぐ、そう言って。
そうして革命を進める間に、母は私を産んだのだ。女帝の子供である礼一、礼二とも異なりながら、女帝の音を持つ怜という名前を私に付けた。そして母は、アビスノットを世界一のグループにして、フォリアイアンの社長を継ぐことが出来なかった礼二に明け渡すことを望んでいる。
だから私は政略による結婚をして、母の会社を一番にする。私の使命だ。そこに私の感情は必要ない。そうしなければ、母に認めてもらえない。
「……どうして、そんなこと聞くの?」
「あんなぁ、俺なぁ、怜ちゃんのこと嫁に貰いたいなぁって思っててん」
「え……」
「まぁ、健くんは引く手数多やし、気にせんとってや。ただ、結婚してしんどなったら言うてな? いつでも相談とかのったるし」
「うん、ありがとう」
涙が、出そうだ。前を向いていられない。私は俯きながら声を振り絞った。
「……ありがと、健」
「なにが?」
「今まで楽しかったから、本当に。健がいなかったら駄目だった時とかいっぱいあるし、本当にありがとう」
「おー」
「本当に、突然でごめん」
「ええよ全然。そんな泣かんといてや、えらい御託並べとるけど結局俺のこと捨てるんやから、そんな善人面して綺麗な思い出にっ〜て頑張らんでもええて」
ぽん、と頭に手をのせられ、顔を上げる。いつの間にか健は私の前ではなく隣にいて、しゃがみながらこちらの顔を覗き込んでいた。
「高校生と何べんも寝るような女が問題ないわけないやろ、アホか」
ぽん、と捨てるようにテーブルに投げられたのは、学生証だ。そこに映った写真、そして名前を見て私は愕然とした。
「加狸、健……って? これ、なに」
「見たらわかるやろ。高校三年生の学生証やん。加えるに狸で加狸。いずれは絶対お前の名字になるんやからちゃあんと覚えとき」
「こ、高校生って、う、嘘でしょ……?」
「俺なぁ別に高校生やないなんて言うてへんよ。そっちが勝手に自分より二歳くらい下って思い込んでただけやで」
私の脳裏に、健と一番最初に会ったときの様子が思い浮かぶ。彼は確かマスターと会話をしながら、グラスを傾けていたはずで――、
「でも、ば、バーで飲んで……」
「あっこなぁ、知り合いの店なんよ。そんで飯食うてただけやってん。グラスに注がれてたんはただのジュースや。お店に迷惑かけるわけにもいかへんしな。ちゃんとレシートもあるで」
「ジュースって……」
「でも、お前と家で飲んでた時はちゃあんと酒や。未成年に酒飲ませて一泊した方が世間体悪いからなぁ? まぁ、口移し何べんもやったから分かるか、お前最初は渋るわりに最後いっつもノリノリやし」
健の言う通り、彼は家で会う時お酒を飲んでいた。私が別のを飲んでいると必ず一口、とせがんできたし、私がもらったこともある。
「そういやバーで思い出したんやけど、お前俺に時計くれたよなぁ? ええやつ」
――ところで、売春って言葉、知っとる?
そう問いかけられて、全身に鳥肌がたった。健とした数々のことを思い返して、愕然とする。一方彼はいつも通り、バラエティ番組を見るようにケタケタ笑っていた。
「大変よなぁ、この間もアイドル事務所のおっさんが若い子に手え出して、なあんも悪いことしてない女の子たち、デビュー出来ひんくなったやんか」
確かに、その事件は先月何度もニュースやワイドショーで取り上げられていた。だから私もその報せに憤っていた。預かっている子たちを守らなきゃと思っていた。
いや、待って。何でデビューできなくなったアイドルの話を、彼は、して……?
「日野珱介映画出るよな? 今。怜ちゃんがマネージャーやっとるメアフレイ……やったか。アレはごっつい監督のアニメの主題歌担当言うてたっけ? 大変よな、映画ってスポンサーめっちゃおるんやろ? どないするん? アビスノットの刻井玲ちゃん」
「な、なんで私の仕事、ぜ、全部知って……」
「俺なぁ、好きな子のこと、ほんまはなんでも知りたいタイプやねんで。まぁ、俺も自分こんな奴やったんかって思ったん、怜ちゃんと会ってからやねんけど」
健が、私の髪をさっと指ではじいた。
「髪のな? 一本からつま先んとこまで、全部調べつくさんと気が済まんわ。細かいこと何も気にせんタイプに見えてたやろ? あれ、嘘。ぜえんぶ演技。健気やろー?」
どこから、漏れたのか。相手は高校生のはずなのに。後をつけられていたにしても、そこまで分かるはずない。スマホから情報を抜かれた可能性だって、低いはずだ。
「そんなにママに自分のこと見てもらいたいんか?」
「え……」
「ママがずぅっと追いかけとった女の息子と同じ名前やから、お前は怜って名前なんやろ?」
「何で……そんなことまで」
「調べた言うとるやん。ああ、探偵雇ったんやないから、調べても無駄やで」
思いついた可能性が瞬時に潰され、言葉が出ない。健はかけていた眼鏡を拭きながら、私を見上げた。上目遣いのはずなのに、冷え切った瞳からは圧が感じられ、私は息をのむ。健はぺたり、と私の頬に手をあてた。
「小さい内から悪いことに慣れて傷の舐めあいしとるとなぁ、ふつーに生きとったら絶対見れんもん見させられる代わりに、沼の底這ってる者同士のネットワークっちゅうもんができるんよ。せやから、俺が周りにおらんでも、怜ちゃんが何してるんかはお見通しやねんで。俺なぁ、ぜえんぶ知ってたんよ? 見合いも、なんもかんも。怜ちゃんの会社、立ち上げでけじめつけんとかったせいで他から嫌われてんのやろ? せやから何とか古いところと仲ようしようと頑張ってたやんか。俺も応援してたんやで。怜ちゃん仕事好きやもんなぁ。別れよ言うてくるかなぁ覚悟してたんよ。でもなぁ、いざ言われてみるとなぁ……全然許されへんわ。絶対別れへん思うてても。俺初めてやったんやで。一緒に物食うんもなぁ、この胸のとこあったかい気持ちになってなぁ。一個一個のメッセージも保存したい思うて、こんな好きになるなんて完全に運命やん。御伽噺みたいやろ。ハッピーエンドしか許されへんやん。でもお前は俺と別れて、自己犠牲で結婚しようとしてたんやろ。姑はうっさいけど私が仕事辞めれば会社の為になる。やれオーガニックだの喧しくて価値観全く合わんけど、我慢すればええだけやし何よりママの役に立てた、はっぴぃ、ってしたかったんやろ? それが幸せや思うたから俺と別れる言うたんやろ? そんな幸せぶっ壊したるわ。どこまでもついてったるからな。まぁ別に、逃げても構わんのやけど」
健は立ち上がって、玄関へと向かっていき鍵を開けた。そしてこちらに振り替えると、扉を半開きにして暗い瞳を向けてくる。
「怜ちゃん逃げても、警察が俺の代わりに追いかけてくれるからなぁって、今大きい声で言ってもええ?」
「だ、だめっ!」
私は慌てて扉を閉め、鍵をかけた。健は私の頭をぽんぽん撫でながら、唇を私の耳元に近づけてくる。
「あはは。自分で鍵閉めてもうたやん」
「や、やめて、もう、こういうことは……」
「できひんよなぁ、生徒に手え出した女教師も捕まってたし。未成年は大人に誑かされてしまう繊細なお年頃やから、どんなに酒飲もうが抱いてくれ言われようが、大人には止めなあかん義務がある、よなぁ? お前はしたけどな。なんべんも、俺と」
彼はポケットからスマホを取り出して、こちらに見せてくる。そこには隠し撮りらしい映像が再生されていた。
「どうとでも出来るよなぁ、俺、嘘吐くんだけは昔から得意やったし、デビューしてもらう約束でずーっと寝てた言うたら、それが本当か分からんままにマスコミは食いつくやろうなぁ」
「ど、動画、ま、周りには、言わないで……!」
「やめえや、俺が脅してるみたいなるやろ? 俺はただ別れとうないって我儘言うてるだけやん。それより俺の将来の話聞いたってよ。ほら、座り」
健は私を引っ張り、床ではなくベッドに座らせた。そしてそのまま私の膝の上を跨るように座って、自分の両手を私の両手に絡ませてくる。いつのまにか私のすぐ傍に放られていた健のスマホは、延々と二人の動画を再生し続けている。いっそ奪ってしまえたらと思うのに、彼の指はびくともしないし、私が力を籠めるたび彼は嬉しそうに笑っている。
「高校はなぁ、まぁそのまんまにしようと思うんやけど、大学はバッチバチの点数やろ? めっちゃええとこ行ってなぁ、アビスノット受けよ思てんねん……ええよなぁ、アビスノット、所属してる芸能人みんなテレビとネットで見るやん。受かったら、俺と怜ちゃん、部下と上司になるんかなぁ。まぁ、怜ちゃんがクビにならへんかったらの話やけど。どう怜ちゃん、仕事順調? ちゃあんと俺が入るまで、会社に居場所ありそう? 別に俺なぁ、ここで怜ちゃんのこと刺し殺して自分も死んだってええんやで。でもなぁ、生きてな出来ひんこともあるやろ。だからなぁ、手加減なしでいかせてもらうわ」
健が私の手をパッと離した。そして、いつの間にか私のスマホを手に取り勝手に操作して、私の耳に当ててくる。放されていたはずの手は片手で拘束されていて、耳元で無機質なコール音が響き始めた。
「待って、どこかけてるの、ねぇ、やめて!」
「俺が上手いように始末つけといたるから、もう会わへんってちゃんと言うとき」
「ま、待って、そんな急に出来るわけない、プロジェクトだって……」
「お前の人生と会社潰れて、関わっとる人間の夢ぶっ壊されてええなら、間違い電話って逃げてもええで」
その言葉に、頭が真っ白になる。でも、気が遠くなる前にコール音が途切れて「はい」と今日会ったばかりの声が聞こえてきた。
「どうされました刻井さん。こんな突然……」
「わ、別れてください」
「え?」
「も、もう、会えないです。結婚も出来ません」
震える声で、言葉を紡ぐ。すると目の前の健が声を発さず『もう連絡するなって』と伝えてきた。
「……もう」
「え?」
「もう連絡、しませんので……」
「ど、どういうことですか? 刻井さん、何かあったんですか? もしかし――……」
「はぁい。おつかれさまー!」
健は上機嫌な様子でスマホを切り、私の頭を撫でて笑みを浮かべる。「ようやったなぁ」と顔を綻ばせ、一瞬にして凍てついた表情に変わった。
「会えん連絡しませんってなんやねん。会いたくない、連絡すんな言えって俺言うたやろ、分からんかった?」
「そんなこと、さすがに……」
「まぁええわ。代わりに俺のこと愛してるって言うて」
「え……」
「なんで戸惑ってるん? この間まで普通に言うてたやろ。俺の背中にしがみついて何べんも言うてたん忘れたんか? 思い出せるように動画送ったろか? お前の上司にもついでにおすそ分けして」
「……してる」
「愛してる……」
「誰を? まさか結婚しようとしてた男のこと言うとる? そんなんされたら俺悲しすぎて警察行ってしまいそうなんやけど、どの動画見せたろ」
「健のこと……」
「聞こえへんよー!」
「健のこと、愛してる……!」
「はい、おおきに」
健がうっとりした顔で、私にキスを落とす。そして「横のうさちゃん見て」と囁いてきた。
「今の完全に撮ったからな。もう〜本当に怜ちゃんは大事なとこが抜けとるっってぇ! 俺が悪い男に騙されんよう墓場まで見といたるわ。良かったやん」
健が横にあるぬいぐるみを指さす。そして「おめめ可哀想やったけど、くりぬいてカメラつけてん。最近は物騒やし」と私の頬をぺろりと舐めた。
「悪いけど、お前のこと泣いて叫んでも離したないんよ。人生崩壊、おめでとうなぁ」




