きみが隣にいてくれない
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【悪役令嬢ですが攻略対象の様子が異常すぎる公式ツイッター】
10月2日 オーディオブック①巻 ボイスドラマCD コミックス⑤巻 紅茶缶
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私は人を殺したことがある。
胸に包丁を突き刺したわけでも、首を絞めたわけでもない。心臓の動きは止まっていない。だからこうして陽炎を挟みながら、ゴミ箱に丸く膨らんだビニール袋を捨てた彼に見つめられているけれど、間違いなく三ヶ月前、私はこの人を殺していた。
自分の存在が誰かのストレス解消の道具でしかないと気付いたのは、小学校二年生のころだった。クラスに馴染めず本ばかり読んでいた私は、幼稚園は普通に通えていたことが幻だったかのようにそれはそれは虐められていた。
靴はゴミ箱へ、教科書は流し台へ、私の触れたものは皆ばい菌がついていると言って、菌を移しあい鬼ごっこの延長として廊下を駆けていく。
はじめこそ教室で泣いたり逃げ出していた私も、一向にこちらを助けてくれない教師を見てもうこの状況がどうにも出来ないものだと悟った。
両親に言う選択肢は当時の私になかった。両親は二人とも仕事漬けで、寝る暇もない生活をしている。兄は中学受験によって進学校に入学し、毎晩遅くまで塾に通っていた。
私へのいじめが始まったのは、兄が小学校を卒業して間もない頃だったから、兄によって私は守られていた可能性も、大いにありうる。
ただ、きっかけはなかった。ある日突然靴が隠され笑いものにされるようになった。
大体私を率先的に叩こうとするのは、二年生で初めて同じクラスになった内部あいだった。見目は良く溌溂とした明るい少女だった。クラスの人気者で皆彼女の言いなりだ。
私はクラス替えが終わればきっとこの地獄から解放されると思っていた。自分がいじめられていると認識したのが、二年の冬だったからだろう。
毎日明らかに変色した給食を食べ、擦り傷がお湯にしみ、激しい痛みを感じながら身体の泥を洗い流す生活をしても完全な絶望の中にいたわけではなくて、いつか誰かが助けてくれるんじゃないかと淡い夢を見ていた。
しかし私の希望に反して彼女と三年生、四年生、五年生、六年生と同じ教室の中で過ごすことになった。中学に入学しても何の因果か同じクラスになり、何も変わらぬ日々が続いた。
毎日毎日、内部あいはトイレに入った私に水をかけてみたり、筆箱を盗んで全く知らない人の家に放り投げたり、体操着を入れた袋を歩道橋から落としていた。
よく人に悪口を言われたりする人に「そんなくだらないやつ放っておきな」「そのうち飽きる」と助言をしている人を見るけれど、半分間違いで半分正解だ。どんなに彼女たちの存在を無視しても、筆箱は壊されるし私の身体の傷は増えていく。
ただ、彼女たちは私をただいじめることに飽きたらしい。
保険の授業で性的な内容に触れてからは、死んじゃえゲームと称して私が自殺をするよう仕向ける遊びが始まった。体育のために着替えているところをスマホで撮影し、ネットにアップするなど今までとはかなり違った攻撃手段に代わっていったのだ。
筆箱を壊され太ももをコンパスで刺されても、小説やゲーム、テレビの情報で社会に出れば内部あいと別れることができるという希望が心のどこかにあった。
小学校生活の地獄には、終わりがある。
永遠に小学生じゃない。だからいつかきっと大丈夫になる。それまで耐えればいい。そう思っていた私の最後の希望が消えた瞬間だった。
自分が裸の動画がネットにあげられている。
私がただ家でご飯を食べて、学校と切り離されている間にも、リアルタイムで素知らぬ誰かがブスと書き込んでいたり、可愛いと卑猥な文言をコメントしたりして勝手に争う光景。常に頭をゆすられ何をしていてもその光景が頭をよぎるばかりだった。
更に私を追いつめてきたのは動画のお気に入りの数だった。動画には、それがいいと思った人間の数が表示されている。
私がサイトを訪問するたびに、その桁の数は二ケタ単位で増加していた。
何がいいものか。コメントでは「まだ見てる人っている?」なんて仲間を探すようなコメントも見られ、今なおその動画を見ている生々しい数を思い知らされる。
この状況が、収まってほしい。そう願いながら、私は親にそのことが言えなかった。当時は仕事が落ち着いて両親も家にいるようになったけれど、自分の動画がネットにアップされていることをお母さんとお父さんになんて言えなかった。
言えるわけがなかった。何度も言おうとしたけれど、最終的には話をはぐらかすことしかできなかった。死んだ方がましだと思うより、とうとうその頃は死ななければいけないと義務感すら覚えるようになった。
そうして、私が本格的に死を意識し始めた時だ。
それはちょうど、夕日とともにひぐらしの鳴き声が広がっていた頃のこと。
ぼろぼろになって家に帰る私の前に、白い大きなワゴン車が止まった。知り合いの車ではない。通り過ぎようとすると、私は中へと引きずり込まれた。運が良かったのか、ちょうど車の中から死角だったところに人がいて、すぐに助け出され幸い犯人もすぐに捕まった。けれど、そこで思いがけない出来事が起きたのだ。
ワゴン車で私を誘拐しようとした男は、ネットで私の裸の動画を見ていたらしい。それを見て、私が好みで犯行に至ったと警察で語った。幼い子供の裸の動画をネットにあげることは捜査が必要になることで、内部あいはあっさりと捕まった。
初めに容疑者として真っ先に疑われた担任は、前科がつくことを恐れてか自分がいじめを見ないふりをしていたとぺらぺら話した。
内部あいが私をいじめ、それがエスカレートしていった。だから自分は一切関知していないと……後者のほうを強調して。
そして、あれだけ私に関心がないと思っていた両親や兄は、こちらが驚くほど私を守るよう動いた。
すぐさま私を祖母の家の近くに転校させることを決め、信じられないスピードで引っ越しが進められていった。当時兄はエスカレーター式の高校に入学していたけれど、自分は下宿をするから引っ越すべきだと強く主張していたし、普段成績についてしか聞いてこないお母さんもお父さんも、私に対し子供を甘やかすみたいに接してきたのだ。
私は大いに戸惑った。
だから祖母の家の近く……バスが二時間に一本しかない、送電塔が遠くに見える田舎へと引っ越しをしてすぐ、私は休むことなく中学に通い始めた。
学校に行くことは恐ろしいとは思ったけれど、裸の動画をネットにアップされたことを知る両親とどう話をしていいか分からなかった。遠方まで仕事をすることになった母を支えるため、仕事を辞め家にいることが増えた父を避けたかったのもあるかもしれない。
両親は共働きだったけど、仕事柄、夜から早朝にかけて働き日中は休んでいる父と、早朝から夜にかけて働く母では、圧倒的に母と接する機会が多かった。父と話をした記憶は、思い出そうとすれば時間がかかるほど、薄い繋がりだった。
なのに私に対して何かしらの負い目を感じていることが声色から痛いほどわかって、私は学校に逃げていた。以前ならば逃げ場として機能していなかった学校が、なんの偶然の巡りあわせか、ある存在によってきちんと機能したからだ。
「おはよー、まーた本読んでんのか。真面目だなー!」
まだ誰も登校してきていない教室で、朝日を光源にして本を読んでいると隣から声がかかった。カバーをかけてある私の本を体勢を何度も変え確認しようとしてくる馳川時雨は、同じクラスで席が隣の、このクラスに十人しかいない男子生徒だ。
といっても女子生徒は五人だけ。内訳も二週間前に越してきた私を追加しての数字だから男女共に少ない。
都内の中学校に通っていた頃は一クラス四十人で八クラスあったけれど、この田舎の中学校には十五人編成でクラスはたった一つだけ。幼稚園も小学校もまったく同じメンバーで構成されていたらしい。
私が転校してきた時、クラスは突然湧いてきた異物にかなり困惑していた。でも彼──馳川時雨は、遠目から様子を見る生徒と異なり、また窓際の彼の隣の席に私が定められたこともあって、隔たりを作ることなく接してきた。
「今日は何の本読んでんだよ」
「宇宙」
「すげえ雑な返し!」
簡単に答えると、彼は大げさに仰け反って見せた。がたがた椅子を引いて座ったかと思えば、私の隣に机を寄せると頬杖をついて私に身体を向ける。
「その本どんな内容なの」
「最後に人が死ぬ」
「お前そういうのネタバレって言って絶対やっちゃいけないやつだぞ。俺その本に興味あったらどうすんだよ!」
わき腹をつついてくるけど、私は馳川時雨がまったく本を読みたがらないことを知っている。
この学校では朝の読書時間が設けられていて、一時間目を始める前に必ず十分間持ち寄った本を読む。しかしその時間、彼はここ二週間同じ本を広げては視線を窓か私、もしくは時計、もしくは机に向けていてページをめくる素振りすら見せていない。
しばらく他愛ないやり取りを続けていると、まばらに生徒たちが登校してきた。彼女たちは私に視線を一瞥した後、それとなく離れて会話を始める。
「つうかまじでよく飽きないよな。毎日違う本読んでんの? 漫画とか読まない派?」
「持ってない」
「マジ? じゃあ俺今度おすすめ貸してやるよ」
「いらない」
「いるって、いるようになる。超面白いから」
馳川時雨はどんと自分の胸を叩く。自信満々のようだけど、その明るさに反して彼はクラスからはじかれていた。
もともと彼はクラスの中心人物だったというのは、今廊下で張り出されている数々の写真から分かったことだ。
新学期すぐに校外学習で向かったらしい川でのバーベキュー写真は、ほぼ全ての動画に彼がいた。
本来行事でカメラマンさんに撮ってもらう写真は、満遍なく全員の生徒が映るよう配慮されている。クラスの誰かしらと必ず映っている彼は、確かにあの時人気者だったのだろう。
この間回ってきた日直日誌にも、前半部分には必ずといっていいほど「面白いけど声が大きくてうるさい人気な馳川くん」の名残が残っていて、人間皆落ちるならとことん落ちていくのだと実感した。
ただ小学二年生の頃に理由なく転落した私と違い、彼には転落の明確な理由がある。
「つうか暑いな。水筒飲むか。なぁスポドリ今日は入れてきてねえの?」
「あるけどお金もらう」
「まじかよいくら」
「億」
「ぼったくりじゃん。俺の貯金二万くらいしかないから全然足りないんだけど」
彼は伸びをして机に突っ伏した。二日前、私の水筒の中身がお父さんの心配によってスポーツドリンクであることを知ってから、私の水筒は狙われ続けている。
やかましく「頂戴」を繰り返す彼の一方で、他のクラスメイトは会話をしたり、自由帳で絵を描いたりと各々すごしていた。
ただ共通しているのは、私の周りの席の子は全員、廊下側の席の子の方へ行っていることだけだ。
幼稚園生からずっと同じ顔触れで揃っていた面々は、七月に突然現れた異物に強い拒否反応を示したらしい。ある一人を除いて。
「ねえまじ一生のお願いだからスポドリ一口ちょうだい。まじで水筒の中麦茶しかないから死ぬ」
「ご愁傷さまです」
そしてその一人である馳川時雨が異物に接したことで、ばい菌を触った人間をばい菌扱いするみたいに、幼稚園から一緒だった彼を見限ってしまったようだった。
それから夏が終わり季節が秋に変わっても、馳川時雨は私に話しかけることをやめなかった。もっといえば、席だって変わらなかった。遠くに見える送電塔は、撤去の話すら出ているというのに。
夏休み中は学校がないから当然関わることはなかったし、休みが明ければ彼は私を他の生徒と同じように扱うかもしれない。それでもいいと一応覚悟してきたのに始業式の朝、登校すると既に私の机と自分の机をくっつけ、その上で両手を組み寝転がっている彼の姿があった。
宿題のやり残しがあるから写させてと土下座され、仕方ないのでノートを見せたら献上品のオレンジジュースで汚された。
木々が紅く染まった現在もなおそのシミは色濃く残っている。
「なあ」
うっすら色が変わっているページに気が散りながら板書をしていると、人差し指で肩をつつかれた。どうせ寝たいから後でノート見せてか、シャー芯くれ、教科書の挿絵の落書きだろう。
無視するとまたつつかれ仕方なしに振り向くと、「虫いる」と耳打ちされた。
顔を近づけることが躊躇われ馳川時雨のノートに「どこに」と書き込めば、彼はカーテンを示す。
はためくカーテンのそばに止まっていた蛾がは、羽ばたくことなくじっと止まっている。
ただ距離が近く、時折腹部をぴくぴく痙攣させるところにとてつもなく嫌悪を感じた。否応なく弁当に敷き詰められた死骸の群れを連想してしまい、ぐっと喉が詰まる。
もう秋の半ばで外から入ってくる風は冷たく乾いているのに、背筋に嫌な汗が浮かんだ。
「待ってろ。今何とかするわ」
ぽんと頭をたたかれ顔を向けると、馳川時雨はティッシュを片手にカーテンに傍へ近づいて行った。
「おりゃ」と変な掛け声をしたかと思えばジャンプをしてカーテンを握るそぶりを示す。がしゃんと窓にこぶしが当たったために大きな音が教室に響いて、先生を含む皆の視線が彼へと集中した。
「おい馳川、何してる」
「なんかでかい虫いて、殺してて。でも今捕まえたんでだいじょーぶっす」
「じゃあ席つけ」
「うぃーっす」
馳川時雨がわざとらしく頭を下げ、席に着いた。目で追っていると彼は「ほれ」とティッシュの中身をこちらに見せてきた。
「な、なんで見せるの……!」
「だって見せねえと安心できなくね?」
「何とかしてくれたのはありがたいけど、出来れば見せないで欲しかった」
「なんだよ我儘だな」
そう言って彼は笑うと私の頭に手をのせようとしてきて──やめた。「手え洗ってくるわ。この手じゃ嫌だろ」と立ち上がり、先生に「虫殺したとき変な液ついたんで洗ってくるっす!」と声をかけて教室を去っていく。
私はほっと安堵したと同時に、礼の一つも言っていないことに気づき、持ち主が不在のノートにありがとうと書き込んだ。その瞬間だった。
「すごい音だったよね。殺されるかと思った」
前の席の女子生徒が、隣の席の男子生徒に話しかけた。
男子は「やめろ」と首を横に振る。その声色がどうにも緊迫としたものを帯びていて、他愛ない話をしてるようには思えない。
かといって、転校しても変わらず異物だった私はどうすることもできず、授業に集中するしかできなかった。
馳川時雨の転落は、学年が二回変わり中学三年生になり、高校の進路について考えだす時期になっても続いていた。
幸いだったのは、私が前に通っていた学校とは異なり、異物を排除しようと動く生徒がいなかったことだろう。
私も彼も生徒たちから距離を置かれていたけど、授業のグループワークや先生の頼まれごとでは普通にクラスメイトとして話しかけられるし、先生の見ていない場所でも無視や暴力を振るわれたり、ましてや物を盗まれるなんてことは絶対になかった。
ただ、必要がなければ話し掛けられないし。近づかれないだけ。私にはそれがひたすらありがたいことだった。
今更誰かと友情を築いたり、学校を楽しもうなんて気には到底なれない。いかに自分がいじめられないように、いや、あのネットの動画のような目に遭わないようにするかが大切だ。人と関わる時間は惜しい。だから誰とも接さないことに、快適さすら感じていた。
一方馳川時雨は、教師たちの印象では今までクラスの中心にいた頃と変わっていないらしい。
クラスの頼れる男子生徒にするような頼みごとをされ、本人も自身の置かれている状況を知ってか、周囲に手伝ってと頼むこともしない。彼は一人で放課後、修学旅行のしおり作りに励むという事態に陥っていた。
「そのしおりページ本当に合ってる? 間違ってない?」
机に一ページずつ、印刷されたしおりの紙を置いて製本していく。けれど、こちらに語り掛けながら紙を束ねる為か、馳川時雨が今まさにホチキス止めをしようとしているしおりに、強い違和感を覚えた。
案の定調べてみれば、ページ数が一部抜けが見つかり、私は無言で該当ページを差し出す。
「まじ怒ると黙るのやめて。一番怖い奴だから」
「集中してって言ったのに、このありさまだから、態度で示そうと思って」
「悲しみの雨が降っちゃう。俺の心に。時雨だけに」
「時雨ってそういう雨じゃないし。いい感じのときの雨でしょ?」
「え」
自分から話題をふっておいて、馳川時雨はきょとんとした顔をした。
「スマホで検索しなよ。沢山出てくるだろうから。いい名前だろうに」
付け足すと、馳川時雨はきょとんとした。
「そう? 俺の名前いい名前?」
「綺麗な名前なんじゃない? 本人は……あれだけど」
「あれってなんだよ!」
馳川時雨は私の肩をばしばし叩いた。あれはあれだ。今日の昼休み明け教科書を貸したら「あれ、俺トイレで手洗ってたっけ?」と私に聞いてきたこととか、小学校のころ鉄棒に股間を強打してから鉄棒がトラウマな話を朝からしてくるとか、色んな部分が該当する。
彼は私を同性の友人位に思っているのだろう。
このクラスの十人しかいない男子生徒と彼が最後に会話をしたのは、先週のグループワークだろうから。その前は月単位で遡ることになるし。
「つうか修学旅行が終わったらもう受験とか始まるんだよな。推薦とか。お前もうどこ行くか決まった?」
「出家する」
「は? 坊主になんの? 俺丸刈りにしなきゃいけない系?」
「……ここ」
そっと自分のカバンからパンフレットを出す。
隣町の駅から大体一時間くらい電車に乗った後、さらに三十分かかるその高校は、偏差値も丁度よく校風も生徒たちも静かで穏やかそうな雰囲気だった。
ただ、この町には既に平均的な偏差値の国立高校が存在していること、また隣町までバスで一時間かかることで通学時間は片道二時間半、寝坊したら遅刻は免れないどころか一時間目は確実に葬られることから、この学校から通おうとするものは今までいなかった高校だ。
「じゃあ俺もそこにしよーっと。ここ学食とかあんのかなあ。屋上とか出入りできる? 俺そういうのまじで憧れてるんだけど」
「なにその雑な決め方」
「だってお前女子校選ばなかったってことは俺と一緒でもいいって意思表示だろ。完全に」
へへんと笑う姿に無言で憐みの目を送る。
結局それから志望校の希望票が配られた後も彼は嬉々として私と同じ志望校を第一希望に書き、あとは無しとかなりリスキーなことをしていて、私は慌てて全部埋めろと自分の希望票を見せたのだった。
中学校の間はずっと私は馳川時雨の隣にいた。
それはもちろん座席が隣だったからという理由でしかないけれど、別に席替えがなかったわけじゃない。
皆自分がその机から動かないことを前提としてあれこれ物を置いていたし、変えたところで十五席五列の席順は視力が悪い生徒六人の存在により、自由に与えられる席が九席しかない稀有な状態だった。
しかし残りの中学校生活もひと月と差し迫ったころ、最後くらいは思い出作りと、年度が変わってもこのクラスを担当し続けた教師の提案により席替えが開かれることになった。
九人の反応といえば、面倒くさそうにするもの、思い出作りかとしみじみするもの、純粋に席替えのイベントに浮かれるものとまちまちだ。
そしてイベントごとでは毎回「修学旅行じゃん」「おい体育祭俺絶対一位になるからな見てろよ。ジュースおごってくれ」「文化祭PTAが焼きそば作るって、大盛りは三人分らしいからそれ分けっこな!」などと声高々にしていた馳川時雨は難色を示し、鼻をぐっと眉間のほうへ寄せ「うぇー」と蛙が潰れたみたいな奇怪な声を発していた。
「なに。馳川、席替え嫌なの?」
「当たり前だろ。お前寂しいこと言うなよ」
「ただ座席が変わるだけじゃん」
「俺が隣じゃなくなるかもしれないんだぞ? いいのかよ?」
「別にクラスが変わるわけじゃないじゃん。っていうかどうせあとひと月もすれば卒業だし」
「だってお前、高校いっても同じクラスかわかんねえじゃん。八クラスあんだぞ俺らの高校」
きんきん声で話す彼から身体を逸らし、読書に集中しようとする。視線を教卓に向ければ教師が黒板に座席の番号をふってた。小学校の頃はランダムに数字をふっていたけど、懇切丁寧に右から順番に一二、三四と割り振られている。
「つうかお前こんな時に何の本読んでんだよ」
「綺麗な景色集めてる動画集」
「小説ですらねえし。なに? いいのあった?」
私はぺらぺらページをめくった後に、とあるページを開いて差し出した。ここからやや離れた地方の山奥にある湖の動画が見開きで載っている。
水は美しい青色をしていて、夜には光を纏う虫が舞い幻想的な景色へと変わるらしい。「蛍の眠る場所」とされたそこは、立ち入り禁止エリアで、撮影は許可なくしては出来ないそうだ。
「綺麗だな」
「でしょ」
「今度一緒に行ってやろっか?」
「ワァイ」
感情も込めずで返事をすると、「俺は本気だけど」と不機嫌そうな顔をされた。
でもくじ引きの順番が回ってくると、すぐに顔色を変えて立ち上がり黒板へと向かっていく。先生の用意した紙を引いて番号を見た後、「同じじゃん!」と叫んでこちらに帰ってきた。
「次お前の番だって。俺の隣か正反対のほうかどっちかだぞ。きてるぞお前の波」
ばしばし背中を叩かれ、手で制すると馳川時雨は「うわぁ骨折したぁ!」と机に突っ伏した。くじ箱を持つ先生が教卓に立つ私に「大変だったなお前も、二年間」と憐みの目を向けてくる。私は頷きながらくじ箱に手を差し入れた。
箱は突貫工事で作られたのか、すでに七人ほどが手を差し入れたことで穴が広がっており、中に入れられたカードの数字が見えてしまっている。
私はどうするか迷ったあと、手前にあったカードを引き抜いて、最初から中身を知っているとばれないようカードを確認するふりをした。
「どうだ、いけそうか」
「駄目ですね。卒業まで頑張ります」
そう言って私は先生にカードを渡して自分の席に着く。あれこれ結果を問い詰めてくるかと思えば馳川時雨はたいそう静かで、この男のせいで怪しまれてしまうと、私は意味もなく彼の薄いわき腹をつねったのだった。
もしも。
もしも、願いが一つだけかなうなら。前は内部あいと会わない世界に行きたいと願っていたと思う。
でも、高校の入学式を迎えた私の願いは、確かに違っていたはずだった。変わっていた。このままでもいいから、せめて──、
そう、式を祝うように桜を眺めていると、一緒に通った中学校の二年間、ほぼ毎日どこかしらの時間に居眠りをするも寝坊はしなかった馳川時雨は、珍しく待ち合わせに五分遅れた状態でやってきた。
「なんか制服着てるとさぁ、高校生になった感じすんな」
自分のブレザーを何度もぐいぐい引っ張りながら、馳川時雨が私に笑いかける。
遅れてきたといえど、何かあった時のために私たちは学校に到着する時間をかなり早めて設定していてよかった。
駅の構内はまだまだ通学や通勤客は少なくて、ホームに至っては人は私たちしかいなかった。
「間違わねえようにしねえとな。ここ真ん中にホームある駅だから右と左で進む場所違うし」
「そうだね」
私たちの入学する高校は右側の一番線。左側の二番線は反対方向に向かってしまう。急いで飛び乗ったら逆方向だ、なんてこともあるだろう。
電車が来るのを待っていると乗ってはいけない方、二番線の電車がやってきた。私たちの乗るべき電車はまだ来ない。時計を確認しているとブレザーの裾が引かれた。
「何」
「今日あれ乗ってどっか行かねえ?」
「は?」
「それか、あそこに見えるじゃん。送電線。あそこ登って、目的地決めて、どっか行こう」
彼が指すところには、真っ青な空を切り込むような高い送電線が見えた。確かにあそこはずっと人がいるような場所でもなさそうだし、突拍子もない作戦も実行できてしまうだろう。
しかしその突拍子もない発案の声色が、あまりに本気だった。彼の顔を見ると、彼は切なそうな苦し気な顔をしていた。意味が分からず戸惑ってる間に、彼は私を押すようにして電車へと向かってく。
「入学式どうすんの」
「さぼる。ずっと行かない。それでさ、俺中卒で暮らせるとこ探すから、二人で学校行かないでどっか行く」
「無理でしょ。学校行くの嫌になったの?」
「今日今までのお年玉全額持ってるし、一週間は確実に弁当食えるよ」
会話のやり取りが出来ている気がしない。馳川時雨の急激な変化に驚いた私は、彼の腕をゆすった。
やがて彼は虚ろだった目をはっきりさせ「なーんちゃって」とつぶやく。
「冗談だし。つうか一番線まもなくだってよ、ほら」
ぽんと彼は私の背を、今度は一番線に向かって押した。何となく彼がどこかへ行こうとしている気がして、肩に触れる手を取りぎゅっと握る。
「なんだよ」
「道連れにしようとしてる」
「まじ? 愛じゃん。俺ってそんな求められちゃってる感じ? 罪な男だわ時雨くん」
「本当にするよ」
「俺は別に、お前と一緒ならどこでもいいから、本気になったらいつでも誘っていいからな」
「考えとく」
電車がホームに到着して、扉が開かれた。中学の時ずっと窓際にいたみたいに、私たちは扉が開いた反対側の扉へと寄り窓を背にして並ぶ。もう馳川時雨の表情はいつも通りに変わっていて、私は安堵しながら車内を見渡した。
確認はもうしてあるとはいえ、同じ中学の人間が私たちと同じ制服を着て乗り込んでいないか気になったからだ。
高校では中学と異なる新しい生活がしたい。したいというかさせたいだけど、それはどうも上から目線のような気がしてしまう。
「やっぱお前俺のために志望校離したんだろ。みんな行くとこと」
きょろきょろあたりを見渡していると、ぶすりと頬を指で刺された。つつくなんて可愛いものじゃなく、刺すと言ったほうが正しい力だ。人の頬を刺している張本人は、白昼堂々行った蛮行を反省する素振りを見せず、へらへらとこちらを見て笑っている。
「は?」
「中学の人間いないとこ選んだんだろ。俺が合わせると思って」
「入学式早々に妄想を聞かされるとはきついなあ……」
「いや妄想じゃねえし」
「妄想してる人はみんなそう言うんだよ」
生温い目で見ると、彼は「してねえし!」と否定する。ただ車内ということを気遣い小声だ。私が視線だけで反論すると彼が変顔を始める。
くだらなさに冷ややかな目を送っていると、高校まであと三つというところで電車の扉が開いた。
「あ、今乗ってきた奴、同じ制服じゃん」
ぼそりと馳川時雨が私に耳打ちしてきた。不安に思った私は視線をそちらへ向ける。そして視界に入ってきた光景に、握っていたカバンを滑り落としそうになった。
「なんか都会的なやつだなー」
馳川時雨が都会的だと称するその生徒は、間違いなく今年入学の一年生だ。髪は栗色に染められショートカットだった髪は、鎖骨まで伸びているけれど面立ちは全く変わっていない。今まさに隣の車両で空席を見つけ、スマホをいじりながら座った女はかつての同級生、内部あいだ。
その姿を見た瞬間どっと汗が吹き出し、自分がきちんと立っているかの感覚が曖昧になる。
猛烈な吐き気がこみあげてきて、車内だからと口元を押さえじっと耐えた。どうしよう、なぜと考える間にも電車はどんどん高校に近づいていき、ようやく一つ手前の駅に到着したときだ。やっとの思いで私は彼に気分が悪いことを伝え、電車を降りた。
「大丈夫か?」
吐くこともできずホームの椅子に座りうずくまる私の背中を、馳川時雨がさする。すでに持っていたらしいペットボトルの水を差し出されたけど、飲むことすらできず、ただお守りのように握ることしかできない。
「吐きたいならいつでも吐いていいぞ」
「出ない……」
「まじか。きついな。安心しろお前のこと置いて行ったりしないから」
ぽんと頭をさすられ、涙が出そうになった。しばらく風にあたっていると、だんだんと吐き気はおさまってくる。ただ頭の痛みと動悸は止みそうになくて、結局私は駅で二十分ほど休んでから、入学式に向かったのだった。
高校にたどり着く前、何度も最悪の想像した。内部あいと同じクラスだったらどうしようか、という私の不安は、私が一組内部あいが八組という結果で終わった。
しかし、この世界に存在するかもしれない神様というものは、どうやっても私を苦しめたいらしい。
八組は内部あいが在籍するクラスであるとともに、馳川時雨の在籍するクラスでもあったのだ。
一組と八組には大きな隔たりがあり、合同の授業が一緒になることもなければ、体育館での集会も端から端とその姿が認識できることはない。けれどその事実が、私を大いに苦しめた。
「俺一組が良かったなぁ、それか二組。全然会えねえよな学校来ちゃうと」
全校集会が始まるまでの待機時間、私のクラスの列にわざわざやってきた馳川時雨は、伸びをしながら当然のように私の隣を陣取っていた。
中学の時は背の順で並べられていたけれど、高校の集会の並び順は出席番号順だ。今まで自分より後ろに人がいたためしがなかった環釣わづりという苗字だけど、それは高校でも同じらしい。私は和田さんの後ろの最後尾が立ち位置だ。
一方馳川という、明らかに出席番号中央に立ち位置を与えられているはずの彼は、あろうことか全く反対方向のクラスに来てしまっている。幸いなのは入学式からまだひと月も経っていないことで、教師は皆名前と顔が一致しておらず、一組と二組の狭間にあえて立つ彼の存在を誰も気にしていなかった。
「なぁ、俺の話聞いてる? なんか上の空じゃん。体調不良?」
そう言って、馳川時雨は私のおでこに手を当てようとする。それを私は即座にかわした。
教師たちは彼に関心がない。しかし生徒たちは例外だ。
男子生徒は感心した様子で、女子生徒はみな馳川時雨を見てこそこそ会話をしては、「話し掛けに行ってきなよ」「なんでこっちに来てるのかな」と浮き立つ様子だった。入学して分かったことだが、どうやら彼は人目を惹く容姿をしているらしい。
中学の時点では他の四人の女子生徒にいないものとして扱われていた。他の学年にもだ。だから馳川時雨の外見がどんな印象を持たれているかわからなかったし、私自身彼のおかしな発言が先行して容姿に何かを思うことはなかった。
中学時代異物に話しかけ、クラスの輪から外されてしまった彼を知るものは現在私しかいないし、外された理由だって閉鎖環境からきたものだ。もともとクラスの中心でいた彼は、高校で男女問わず人気者として有名人となり、注目を浴びる存在になっていた。
だからこそ、皆が集まっている場で話しかけられると困る。内部あいがこの学校内に存在する以上、彼の影響を受ける形で目立つことは避けたい。
私のクラスでは、彼と私が同じ中学だろうとやんわり認識されているから見慣れた光景になっているけど、今現在、私と内部あいの接点はこの高校と彼だ。
「でも四月っていうのにくっそあちいよなあ。なぁ海開き始まったらさ、どっか遠くの海とか行かねえ?」
「行かない。泳げないから」
泳ぐという言葉に、必然的に脳裏にネットにアップされた動画が浮かんだ。今、内部あいは以前ほど影響力を持っていない様子だった。
かつてクラスの女王様だった彼女は、この高校において取るに足らない存在だったのだ。
八組には彼女のほかに目立つ女子生徒がたくさんいて、見ている限り「中間層からその下の立ち位置」にいるようだと、休み時間遠目から観察して分かった。
けれど、あの動画が馳川時雨に見られるかもしれない可能性を考えれば、まったくもって私の心は穏やかになれない。
「この後委員会決めだよな。お前なんか委員入るの?」
「何も入らない。部活もしないし、早く帰りたい」
「おっけ。じゃあ俺寝てようかなぁ」
ふわぁ、と馳川時雨は欠伸をした。やがて先生がぞろぞろ点呼を始めていて、私は彼の背中を押し自分のクラスに戻るよう促してから前を向く。
でも、一瞬だけ八組のほうに視線を送ると、彼がこちらを向いてスポドリ後でひとくち頂戴のジェスチャーをして自分のクラスの担任に怒られる光景を見ることになったのだった。
結局、馳川時雨は委員会に入ることはなかった。ただその一週間後、委員名簿が配られ内部あいが体育祭委員会に入ったことを知った私は、大きく動揺した。
これから始まる六月の体育祭が恐ろしく、ひとつの大きな化け物のように思えて、五月半ばの体育祭の練習が始まる前から、私は頭痛と倦怠感に襲われるようになった。
「なんかすげえ食欲減ってねえ? ダイエット?」
お昼休み、誰も使わない中庭で馳川時雨とともにお弁当を食べる。といっても私が半分食べたお弁当を、彼が処理する形だ。私が半分ようやく食べ終えるころにはいつも彼は自分のお弁当を平らげている。
私はクラスが離れたことでもう食べる機会もないと思っていたけれど、昼休み込みの六時間授業が始まった当日から、彼は当たり前のように彼は私の教室に迎えに来た。そのまま教室に居座ろうとする彼を押し出し人目のつかぬ場所を探して、たまたま見つけたのがこの場所だ。
あたりは雑木林に近く、花一つ咲いていない。地面にはところどころ大きな石が転がっていて、中庭というより資材置き場というのが正しいだろう。
夏場はきっと虫が大量に湧いてこの場所で食事をとることは不可能だから、きっと梅雨が終わるまでしか使えない。
「つうかお前のお父さんの飯マジで上手いよな。中学の時も思ってたけどさ」
「ん」
「弁当小さくしてって言わなくていいのか?」
「馳川が処理するからいいよ」
お父さんのお弁当は、中学のころと違いもう半分以上が冷凍食品だ。ずっと都会で働き、夜が明けるまで働いてそのまま眠るお父さんと、朝に働き夜に眠るお母さんの生活や認識のズレは、田舎に引っ越してきて決定的なものに変わったらしい。
静かで淡々と生活をしていた父は段々母に対して投げやりな、自分が見捨てられていると被害者意識の強い言動に変わっていき、母は泊りがけの仕事が増えていった。本当に仕事かどうかわからない。
兄は大学受験に失敗し浪人をはじめしばらく経つ。私が引っ越したことでお金がかさみ、トップの予備校に入れなかったと恨み言を言っているらしいと父に聞いた。言った直後父がはっとしていたから、本来私に言うつもりはなかったのだろう。
きっと、父は自分が今傷ついているから、別に自分だって人を傷つけてもいいんじゃないか、みたいな奇妙な万能感に浸っているのだと思う。話しかけてくるのだから、少しくらい雑に扱っても許されるだろうと、そういう認識なのだ。
前の私と同じだ。
「ごめんね。食べてもらって」
馳川時雨に謝ると、「じゃあ今度お前が俺に手作りしてよ。一回もお前の作ったもん食べたことないし」と笑う。
その笑顔に救われているのに、ありがとうと言えない。手のひらを握りしめていると、「馳川くん?」と声がかかった。その声を聴いた瞬間、身体が固まり私は顔があげられなくなる。
「なに?」
「あのね、選手決めなくちゃいけないんだけど、朝配った希望表間違っててね。正しい紙持ってきたの」
顔が見えないように、ひたすら俯く。手が震えそうで、ただじっと息を殺し力を込めた。
「馳川くんって普段ここにいるんだね。教室にいないから探しちゃったよ」
「用があるなら机にでも紙置いておいて。ここに来ないで」
「あはは。ここ学校だよ? それに私委員だし、彼女さんとの時間邪魔しちゃったのは悪いけど……はじめまして。私八組の内部です」
声色も言葉も、内部あいが私に話しかけていることを如実に表している。私は顔を上げず、そっと頭を下げるだけにとどめた。彼女が顔を覗き込んでこようとして、ぎゅっと目をつぶる。
「あんま見んな。つうか前から思ってたけど馴れ馴れしいよお前。何?」
「私クラスのみんなと仲良くなりたいっていうのが高校の目標でさ。馳川くんいっつも教室にいないでしょ? だから少しでもどんな人か知りたいって思って」
「あっそ。俺クラスとか、そういうくくりどうでもいいと思ってるから。あと今飯食ってるし用がないなら帰って」
彼が不機嫌そうな声で注意したことで、内部あいは驚きながらも教室へと戻っていったようだ。
私はほっと安堵して、ため息を吐く。そしていなくなったか確認するため振り返って、すぐに後悔をした。
「馳川くん、選手の希望表ちゃんと出してね!」
大きな声で内部あいが言う。彼女の姿を確認しようと振り返ったことで、ばっちりと目があってしまった。
彼女は私を見て目を見開いている。知らないふりを続ければよかったのに、また思い切り彼女から視線をそらしてしまった。
「なんだあいつ。やっと行ったな……悪いななんか」
馳川時雨の言葉にはっとして、私は震える手で彼の腕をつかんだ。今まで無意識の間に呼吸を完全に殺してしまったようで、突然入ってきた酸素に盛大にむせてしまう。
「おい大丈夫かよ。っつか、あいつ入学式んとき電車にいたやつだよな? なんかされた?」
彼の問いかけに、ぶんぶん頭を振る。結局私は一人になりたくなって、昼を切り上げそのあとは女子トイレでえづいていた。
しかし、体調が悪いからと言って、家族の環境が変わるわけではない。家に帰った私を待つのは、作ったばかりであろう夕食を一人分だけ流しに入れる父だ。
「母さん今日も帰ってこないだろうし、捨ててもいいよなもう。どうせ帰ってこないんだし」
三角コーナーへと、揚げたての唐揚げやタルタルソース、彩りあるサラダが無残にも捨てられていく。
父は炊き立てのご飯も、わかめの入ったみそ汁とともに乱雑に投げ込んだ。まだ熱の残るみそ汁は、シンクから跳ね返り私の頬をかすめた。
「なんでこうなったんだろうなぁ。もう父さん、生きてる意味あるのかな。死にたいよ……」
どんなに乱暴にお茶碗を投げても、皿を割っても、お父さんは絶対に私に向けてそれを投げることはなかった。黙って私が片づけを手伝うと、ごめんなと言って泣いて謝る。
それから三日後くらいに、また出来立ての母の夕食を捨ててしまうのだ。かといって、母がその日偶然帰ってくるなんてこともない。
父は心のどこかで自分が夕食を捨ててしまった日に、母が帰ってくることを望んでいる気がする。早く帰ってこないから夕食が捨てられてしまうと、遠回しに母に早く帰ってきてほしいとアピールをしているのだ。
きっとその日に母が帰ってきたとき、訪れるのは破滅だろうけど。
そうして夕食の片づけをしている間にも、父のエプロンのポケットに入ったスマホはずっと振動を続けている。
兄からの連絡だ。ちょうど私が帰ってきたころを見計らい、兄は父へ当たり散らす電話を入れる。こんな家に生まれたせいで大学一つ受からない。今更希望を落とせるわけないと父を罵倒する。
そして最後に私を出せと言う。
父は時折どうしても耐えられないのか、スマホをスピーカーにしてこちらに聞かせてくるけど、私を出すことは絶対にしない。その線を超えないよう、日々耐えているようだ。
「もういいから、お前は勉強をしていなさい」
お父さんに言われ、私は自分の部屋のある二階へと上がっていく。私は自分のスマホを取り出して、アダルトサイトへアクセスした。小学生、着替えと検索して、違法にアップされた動画を一つ一つ確認していく。
元の動画はすべて削除された。でも、転載されてしまえば話は違ってくるし、海外のサイトにあげられてしまえば削除はずっと難しくなるそうだ。そして結局のところ、どんどん枝分かれして、全部無くすことは限りなく不可能になってしまう。
この世界からあの動画がなくなれば、私のこの息苦しさはなくなるのだろうか。けれどこの苦しさがなくなったところで、母と会社が同じ男の人は、母とおしゃれなカフェに行ったことをネットにのせることをやめないし、父が夕食を捨てることもやめない。兄が怒鳴るのだって終わらないだろう。
これから先、これ以上悪いことが起きるだろうかと思うけれど、悲しいことにこれからいくらでも状況が悪くなる想像は出来てしまう。
今日、内部あいに顔を見られた。もう、駄目だ。彼女は馳川時雨に関心を持っているようだし、相手は理由なく人をいじめる人間だ。なにより今回は私を排除して死んでもらう立派な理由がある。
もう、今日は本当に駄目だ。縋るようにスマホを開き母の会社を検索する。そこでヒットした新人二年目と記されるアカウントは、「会社の人とランチ!」と母の照れた顔をまたアップしていた。
時間は今日、私が内部あいと出くわしたあたりだ。私はスマホを放り投げ、机に突っ伏したのだった。
私は、終わりを始めることにした。
馳川時雨を個別に呼び出して、もう学校では関わらないでほしいと頼んだ。誰かと一緒にいることが苦痛で、馳川時雨だからこそ会話をするのが苦しいこと、苦しむ姿を見せて迷惑をかけることが辛くて堪らないのだと。
内部あいと動画に関すること以外、私のすべてを伝えた。
反対をされ、引き止められるかもしれない。
不安を抱いたけれど、それはまさしく驕りであった。彼から見ても、私が高校に入学してから精神の限界を迎えていたことはひしひしと分かったらしい。何かあれば必ず連絡して、大丈夫になったら絶対教えてと言われ、彼は私の元を去った。
以降、私と馳川時雨が会話をすることも、一緒にお昼を食べたり学校に行くことも、手を繋ぐこともなくなった。私が一本早いバスに、あちらが一本遅いバスに乗り込むことは暗黙の了解としてあり、通学路で会うこともなく関わりの何もかも全てが消失した。
でも人目を惹く容姿をしていた馳川時雨の動向は筒抜けで、何もしていなくてもただ休み時間本を読むふりをしていても、彼の成績がいいことや、いかに体育で活躍したかは彼を形容する言葉とともに私の耳にすぐ入ってきた。
馳川時雨がかっこいい。
彼女はいないらしい。
でも、好きな人はいる。
そう初めて聞いたとき心臓を鷲掴みにされるような感覚がした。そして、彼が体育祭の長距離走で一位を取り自分のクラスに貢献したニュースの続報として耳に入ってきたことは、私の感覚の答え合わせに申し分ないものだった
「馳川時雨、内部あいと付き合い始めたらしいよ」
学年で注目を浴びる男が誰かのものになったニュースは、学年の中で瞬く間に拡散された。
私は内部あいを恐れる一方で、過去、クラスの女王様であった彼女に馳川時雨を奪われることを恐れていたのだろう。
彼は私のものでもないのに、身勝手な理論で彼を身内枠にいれていたのだ。
以降、私が醜くなっていくのに時間はかからなかった。六月いっぱいは、二人が帰っていく道すがら気付かれないように物陰から見てひたすら彼女を心の中で呪った。
馳川時雨は、四月の頃が嘘だったかのように彼女に柔らかく接していて、胸が痛くて仕方がなかった。優しさを与えないでほしいと思った。
なんて浅ましいのだろう。ずっと胸の中に巣くっていた自己保身には、さらに悪質な子供じみた独占欲まで付随していたのだ。
それから七月に入り夏休みの話題が出るようになった頃、私は二組の溝井という男に呼び出された。夏休みが始まる前のことだ。彼は髪の毛をワックスで固め香水の香りの強い人で、高校生活の三年間を花火みたいに大きく散らすことを求めている人のようだった。
溝井曰く、私は誰とも話さず氷から生まれた氷人間と二組の中で言われていて、もれなく私と夏の間付き合うと賭けで勝ててお金がもらえるらしい。
一人五千円で六人が負けるに賭けたから、私と付き合うと彼は三万円もらえるそうだ。だから付き合ってることにしてほしいと土下座された。夏が明けたら、振られたことにしてくれていいからと。
「普通、そういうのは私にばれないようにすべきじゃないんですか」と言ったら、「だって絶対俺のこと好きになってくれなそうじゃね? 普通に頼んだほうがよくね? 三万欲しいし」とあっけらかんと返してくる。
私は馳川時雨が内部あいと付き合いだしたことで判断力もぐちゃぐちゃになっていて、自暴自棄になり断ることもなく、むしろ自分から突き進むように付き合うことをお願いした。
溝井は、三万円を求めている。私はこの夏休み、とても家にはいられない。だからいいかと、何がいいのか不鮮明なままで私は彼と交際をスタートさせたのだ。
「環釣さんさあ、案外図々しいところあるよな」
「どうしてですか」
夏休み半ば、盆の真っ只中。私は溝井の家にいた。最初の初日に家に来てほしいといわれ、証拠の動画を撮った。
といっても台所で二人で仏頂面なピースサインを撮っただけだ。私は壊れた父が台所に立つ家にいれなくて、「いつでも来ていいよ」という彼の言葉に甘え、週に一度家に置いてもらっている。
「いや普通三万欲しいから付き合ってくれって言った男の部屋なんて入る? ヤッたら六万貰えるからさせてって言われたらどうする気?」
「そんな賭けもあるんですか?」
「いや。周りはマジでびっくりしてるよ。俺の顔にそこまでのパワーがあんのかって」
六畳間、バンドのポスターが無造作に壁に貼られ、ギターが並び、漫画雑誌があちこちに転がり、ついでに教科書が平積みされている部屋の中央で溝井がクーラーのリモコンをいじっている。
私はちらりと視線を向けた後、また持ってきていた文庫本に視線を落とした。
「つうか俺、お前と馳川と付き合ってると思ってたんだよな?」
投げかけられた言葉に、反応しないよう努める。
「付き合ってませんよ。ただ中学校が同じだけです」
「まじ? ヤってないの? キスも?」
「何もしてないですけど」
「マジか! 驚きだわ」
大げさな反応に、私は文庫本から顔を上げた。
「なぜ」
「俺さぁ、お前らが一緒に飯食ってるとこ一回だけ見たことあるんだけど、馳川お前のことすげえ目で見てたから」
その言葉に、ページをめくる手が止まった。その変化を、彼は見逃さなかった。
「なんでお前ら付き合わなかったの? 俺のせいなら全然馳川に言っちゃっていいよ。三万の賭けに慈善事業として付き合ってるって。なんかマジでさ、俺殺されんじゃないかなって思うときあるし」
「別に必要ないです。っていうかあっち、彼女いるでしょう」
「いるけど明らかに合ってなくね? 俺初めて聞いたときフェイクだと思ったし! つうか馳川まだお前のこと好きだと思うよ。絶対あれだろあいつ、嫉妬してもらいたいとかじゃねえのお前に」
嫉妬して、もらいたい。そんな簡単な理由なら、私だったら理解しているはずだ。でも、今の馳川時雨が何を考えているのか、さっぱりわからない。わからないということは、馳川時雨が、内部あいを好きである証明になってしまう。
だって、そんなこと、理解したくない。
「……何がしたいんですか? 仮に私があの人と付き合ったら、あなたは三万もらえなくなるんですよ」
「いや三万は貰うけどさ、俺、馳川時雨みたいなイケメンには内部あい選んでほしくねえんだわ。あいつ中学一緒だったんだけどさあ、転校生で、なんか私頑張ってます! 笑顔! みんなで団結! みんなに優しく! みたいな感じ大嫌いっつうか。うすら寒いっつうか……」
私はここにきても、内部あいの呪縛からは逃れられないのか。
彼の話が本当なら、内部あいは小学生のころと何も変わっていないらしい。彼女は教師や周囲の前では、元気ではつらつとした、リーダーシップのとれる正義感の強い女の子だった。
私に対してだけ、異常なふるまいをしていただけで。
「合唱コンの時にさ、あいつ転校してきたばかりのくせに、前の学校で指揮者だったんだけど、私! 小学校の頃にひどいことを友達にしちゃったの。取り返しのつかないこと。それから人に優しくなろうって決めたの! クラスのみんなの役に立てる存在になりたくて! だから優勝できて嬉しい!って泣いたの。びっくりじゃね? さりげなく優勝自分の手柄みたいに言ってるしさ、自分語りまで決めてて、ねーわみたいな。だから同中組はみんなあいつら別れねえかなって話してんの」
「そう」
「だから奪ってくんね? マジで。痛い目見せてやりてえ。動画でよくあんじゃん。広告。クソからイケメン奪うやつ」
溝井はグラスに入った炭酸を飲むと、ゲームでもする? とベッドの下からコントローラーを二つ取り出した。
私はしばらく考え込んだ後、何かをぼこぼこにしたい気持ちになって文庫本を閉じたのだった。
溝井と対戦型のゲームを小さなテレビ画面でプレイし、何回か負かしているといつの間にか外は赤く染まっていた。
彼は「そろそろお開きだな」と言って腰を上げた。溝井家は両親と祖父母、小学生の弟妹で構成されている。私は彼以外の家族がいなくなった隙に家に入るという、まるで泥棒のような過ごし方をしていた。
そして日没前後に彼の祖父母が帰ってくるから、私はいつもそれまでに家を出るようにしている。
「今日は送ってってやっから」
靴を履ていると、いつも去り際玄関に立っていた溝井が、サンダルを履き始めた。不思議に思っている間に彼はさっさと扉を開いてしまう。
「なぜ」
「うるせえな。気分だよ気分」
外に出てみると、日は沈もうとしているけれどまだまだ気温は高く、夏独特の湿った風が頬を撫でつけた。
溝井の家の近くには夕顔を育てている家があり、赤や紫の花びらが提灯みたいに生垣に浮かんでいる。それらを眺めていると、彼の足が止まった。
「なぁ、俺と付き合って、みまーせんか?」
「何故」
「何故何故うるせえな。付き合うかって聞いてんだよ」
「……既に付き合ってますよね? 三万円契約」
「じゃなくて、本格的にってこと」
不機嫌そうな声色で、溝井は眉間にしわを寄せた。
「さっき馳川と付き合えって言ってたのは一体」
「だからあれは、お前に馳川に気がないか確かめたかっただけ! それに、内部あいが嫌いなのはガチだしさぁ、別れねえかなとも思ってるけど、お前と付き合いてえなって思ってるよ」
「……何故」
「だから何故何故やめろ! お前家にこんだけ遊びに来てて、普通にゲームとかしてくれるのに好きにならねえわけがなくね? 俺健全な男子高校生だぞ? 多感だぞ」
「それ自分で言うんですね」
「……返事は、来週とかでいいから。今は言うな」
それきり、溝井は黙ってしまった。
スマホを持ってきているのに全くいじろうとしないから、私もいじりづらい。彼と、本当に付き合う。期限が夏休みから延長されたこと以外、何か変化があるのだろうか。
手をつないだり、キスをしたりすることが解禁される? そういうことを彼としたいとは思わない。
彼と一緒にいるのは楽だ。
あちらは三万円が、私は逃げ場所がほしかった。でもこれから付き合ってしまえば、その関係は違うものになる。
そう考えているけど、心の中で浮かぶ顔は馳川時雨の顔だ。
私はなんとなく溝井を突き飛ばし、どこかへ逃げたい気持ちになって、ぐっと手のひらを握りしめる。
「もうここでいいよ、ばいばい」
敬語をなくしたことに、溝井は目を見開いた。少し嬉しそうな顔から目をそらす。私が敬語を外したのは、彼が考えているであろう意味合いじゃない。もう会わないからだ。
手を振って、私は彼から離れる。
人と約束をすれば、少しは一日一日を生きる気力になるかと思ったけど、結局は延命でしかない。
人の心を消費して、明日を生きながらえようとしているだけだ。
父親と母親と、一緒。
きっと今日家に帰っても父親は夕食を捨てていて、母親は夜勤の後に新人社員とどこかへ出かけている。
兄は当たり散らしていて、内部あいは馳川時雨とメッセージを送りあうか、一緒に会うかしているんだろう。
くだらない。私含めて、みんな。
いや、私だけがくだらないのか。
駅とは少しだけ離れた方向へ足が自然と向いていく。夕焼けは恐ろしいほど赤いのに、遠くの空はべったり塗りつぶしたみたいに真っ暗だ。
高いところに行きたい。絶対に、助からないような。そんなところに。
かといって、行ける場所は限られてくる。学校の屋上は、内部あいに関わるから駄目。駅は、内部あいに関わるから駄目。家は家族が関わるから、駄目。
送電塔なら。
送電塔なら、人が立ち寄らない。あの場所に、馳川時雨が内部あいを連れてる可能性もある。でも、学校も駅も内部あいが関わるからいやだと思ったのに、送電塔で死ぬことは、とてもいいものに思えた。
入学式、馳川時雨と行かなかった場所。そこで。
私は踵を返して、送電塔へ向かっていった。
想像通り、送電塔は立ち入り禁止と立札が書かれているだけで、簡単に登れた。それも、ある程度の高さまでは点検のためか、立ち止まって作業もできるスペースもあって、私は淡々と赤に浸食されていく空を眺める。
風が強くて、飛ばされそうだなと思った。今じゃなく、ここを離れたとき。
なにか馳川時雨に送るべきか、それとも、父親に? 兄に。メッセージの内容に困った。いっそ、コンビニで何か買ってくると伝えて、私が望んだことではないと、罪悪感を減らすほうがいいのだろうか。
考えていると、馳川時雨から電話がきた。思えば一度も電話したことなかったな、なんて思いながらとると、『なにしてんだよ』と、不機嫌な声が響く。
「なにしてんだよってなに? 唐突に」
「何でそんなとこにいんだよ」
風が止んで、やけに生々しく聞こえた声に、振り返った。
それと同時に掴まれた手が懐かしくて、涙が出そうになる。三か月前に自分から離した手だ。
スマホを片手にもった馳川時雨が息をきらして、私の腕を掴んでいた。
「何で、入学式ん時は行ってくれなかったのに、ここにいんだよ」
「……ごめん」
「全部聞いたぞ。内部あいがなにしたか」
その言葉に、きゅっとのどが詰まった。おそるおそる顔を向ける私に、彼は背負っていたリュックから、コンビニ袋を差し出す。
「教えてくれなかったし、嫌な思い出って話すときで二度傷つくじゃん。だからお前に聞くの無理かなって思って、こいつに聞いた。付き合うとこいつ口軽くなるタイプだったぞ」
そう言って、彼は持っていた袋を揺らした。ちゃぷ、ちゃぷと水が揺れる音がする。真っ白なコンビニ袋は、鈍い赤色の液体を包んでいた。
「一応見ないと安心できないだろうと思って持ってきたけどさ、見るか?」
恐る恐る袋の中を覘く。
本当に、さっき直感で思い描いた通りの光景だった。所々黒ずんだ液体に浸った、皮膚。手首にはリストバンドがついていて、爪にはラインストーンが飾られていた。
何も、何一つ変わっていない。内部あいを構成する、一部だったもの。
馳川時雨は、教室で虫を殺して、ごみ箱に捨てるみたいに、送電線からその袋を放り投げた。彼女の手首は、送電線を囲む木々の群れへと、落ちていく。
「俺、ずっと考えてたんだよ」
「え……」
「どうして突然、お前が俺を拒絶し始めたのか。お前んちの家族がなんか悪さしてると思ってたんだけど、あの女が悪かったんだよな」
今まで聞いた馳川時雨の声で、一番冷ややかだった。彼はチャンネルを切り替えるみたいに、あたたかな眼差しで私を見る。
「ごめんな、気付いてやれなくて。俺が小学校の頃のお前に会っていたら、そんなことさせなかったのに。ごめん」
馳川時雨は、私の手を掴んだ。間違いなくがっしりしていて武骨な手なのに、子供みたいという感想が浮かぶ。
「私、溝井と夏過ぎまで付き合うんだよ」
「三万の契約だろ。ボランティアじゃん」
「いいの?」
「なに? ヤッたの?」
「なんもしてない。溝井も気にしてたよ。それ」
「ちゃんと時雨と、どろっどろのを、ごってごてにしたって言った?」
「虚偽じゃん。あとね、今日告白された。返事は来週に聞きたいって」
「まぁ、答えはいずれはニュースか新聞で結果分かるだろ。つうかボランティアお疲れ」
彼がへらへら笑いながら、私の手を引く。
「あの泉、今からなら大体日付が変わるころには着くな」
「……いいの?」
「俺は別に、お前と一緒ならどこでもいいって言ったろ」
貯金を全部おろしてきたと言う馳川時雨の言葉通り、彼の財布には私と彼、二人分の電車の切符や新幹線のチケットが既に入っていた。
何度も乗り換えをして、泉に向かう最終バスに乗って山のふもとで降りる頃には、すでに辺りは真っ暗だった。幸い夏休みという時期もあって、交通機関の人たちは私たちが帰省しに来た誰かの家族だろうと声をかけることもなかった。
「このあたりで警察に捕まるとばかり思ってたけど、結構来れたもんだね」
「泊まりの約束して呼び出して、昼にバラしたから明日の夕方までは大丈夫だろ。余裕余裕」
手をつないで、山へと入る。星明りがわずかに照らしていて、目を凝らしながら奥へと進んでいく。私は馳川時雨にもたれてみると「おんも」と彼はおどけてみせた。
馳川時雨に別れを告げて間もないころ、父が私に教えてくれたことがあった。彼のお父さんとお母さんが、人殺しだってことを。
お父さんは他人の家に押し入ってお金を盗んだあと、家主の女の人に見つかって殺して、死体をもてあそんだらしい。彼のお母さんは責任を取って夫を殺し、今刑務所の中にいるそうだ。そんな事件が私が引っ越してくる二十日前に起きたらしい。
みんなが人気者だった彼へ腫物のように触れる中で、私だけがそれを知らず、彼と接していたのだろう。私と一緒にいたことで彼は輪から外れたのではなく、最初から輪から外れた。
転落した馳川時雨には、私だけだった。
もっと早く知っていれば、私はあの時別れの選択をしていなかったのだろうか。そうしていれば、彼は内部あいを殺していなかったのだろうか。今となってはわからない。全部知っていれば、こうはならなかったのだろうか。
今わかることと言えば、私たちは何もせずとも、最初から二人きりだったということだけだ。
「内部あいとキスした?」
「なんもしてない。手もつないでないよ。俺草食シャイボーイで通ってたから」
「……最後に、全部してみる?」
「薬効くまで時間あるだろうしな」
そう言って、馳川時雨が私に顔を近づけてきた。夜光虫の瞬きを受ける瞳には、私しか映っていない。きっと私の瞳にも、彼しか映っていないのだろう。やがて、唇が重なる。
もういい。私には馳川時雨しかいないように、彼にも私しかいないのだ。こんなに幸せなことなんて、ないじゃないか。
ああ、私は今、世界で一番幸せだ。




