砂がすべて落ちるまで
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【悪役令嬢ですが攻略対象の様子が異常すぎる公式ツイッター】
10月2日 オーディオブック①巻 ボイスドラマCD コミックス⑤巻 紅茶缶
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【あらすじ】
高校で数学の教師として働いている久目征吾は、「モテそう」「きっとモテるはず」という勝手な印象の元、同僚であり生物教師の鞠住知頼に恋愛相談を持ちかけられる。しかし彼女の相談は、久目にとって非常識で常軌を逸しているとしか考えられない相談で……。
「皆さんは、世界の人口がどれくらいか、知っていますか?」
深淵のような黒い瞳が、教室を見渡すように動く。今は数学の授業中、そして、今教卓に立っているのはその担当教師でもある久目先生だ。久目先生は軽く息を吐くと、鼻あての位置を整えて、こちらを見据える。私たちが半年後に卒業を控え、大学受験があと三か月後に迫っていることから、生徒たちは皆どこか引き締まっていて、それでいて落ち着かないような雰囲気が漂っている。
「では、手は上がらなそうなので、日直を指名しましょうか。……では東さん、今地球には、何人くらいが生きていると思いますか?」
「約七十五億人……?」
同じクラスの生徒……生徒会の会長である東さんが、疑問を交えた声色で回答する。彼女は、もう海外の大学に合格しているらしい。前生徒会長の後を追ったと聞いた。羨ましい、相思相愛。そんな彼女の返答に久目先生は頷き、やや丸みを帯びた字で、黒板に彼女の回答を書き記した。
「はい。その通りです。では、阿須川さん、七十五分の一の確率で、思い当たるものは何かありますか?」
先生の目が、こちらに向けられ、まっすぐに私を見た。少し見とれてから、自分が回答を求められていることに気付き、私は慌てて口を開こうとする。けれどそれを遮るように、授業の終わりを報せる鐘が鳴った。
「では、本日の授業はこれまで。お疲れさまでした」
先生は笑ってから、私に背を向け、教室から去っていった。
周りが教科書を閉じ、出していたペンをポーチにしまう中、じっと私は先生の背中を見つめる。
この高校に入学して、三年が経とうとしている。先生は私が一年生の時から授業を受け持っていて、頻度は週に三回。一年は、五十二週間。長期休みもあるからその分を差し引いて、大体私はこの背中を、一年に百五十回見ることが出来る計算だ。でも卒業まであと半年、卒業式の予行練習も受験もある。きっと私に残された回数は、五十回にも満たないはず。きっちりと目に焼き付けるようにしてその背中を見送ってから、私は片づけを開始した。
こうして、私が周囲から遅れるようにして片付けを始める理由と、私が東さんを羨ましいと思う理由、カウントを続けている理由は共通している。
それは私が、久目先生のことを好きだからだ。
「そういえば」
緩やかな夕日が差し込む数学準備室で、資料を整理する私を横目に、呟く。放課後、私はいつもこの数学準備室で先生の手伝いをしている。というのも、私が日直の時に先生が私に手伝いを求め、それが今日に至るまでずるずると続いているだけで、他に深い意味はない。先生の方は、だ。
私は、この時間を好機だと思っているし、他の生徒が私と同じような立場でいたらやっぱり嫌だなと思う。丁寧に整頓されたクリアファイルの中身を確認しながら視線を移すと、先生は小テストの答案用紙に顔を向け、黙々と赤を引いていた。先生が腕を動かすたびに空気を含んで揺れる癖毛は、根元まで柔らかな白色をしている。お祖父さんかお婆さんが外国の人で、その血を受け継いだものだから、染髪ではないと初回の授業で言っていた。
「生物の毬住先生、ご結婚されるそうですよ」
「それは、おめでとうございます……」
毬住先生は、この場にいない。そもそも接点もあまりない。毬住先生は一度だけ休んだ先生の代理で授業をしてもらったことがあるけど、どこかおどおどしていて、気弱そうな先生というイメージだった。同じクラスの野球部の男子が揶揄うと、パニックに陥り、可哀想な印象を受けた……だけだ。だからどう返事をしていいか分からないし、先生から、他の先生……それも女の先生の名前が出てきたことに、焦燥する気持ちを抱えしまう。そして私がそんな想いを抱いていることを知らない先生は、「気をつけくださいねと」言葉を続けた。
「え」
「世の中には、外堀から……強固な制度を用いて、結婚をしてから恋愛を始めようという、恐ろしい人たちもいますから」
「はあ」
先生の話をしている意味は、よく分からないことが多い。それは抽象的だから、という理由もあるし、どこかの論文からの引用が混ざっている時もあり、その都度理解できない理由は様々だ。だから私は先生の話を少しでも理解したくて、数学の勉強ばかりしている。私はもとより、数学は好きじゃない。先生が別の教科の先生であったならと思う時もあるし、私の得意科目が数学だったならと思う時もある。そんな思いを知ってか知らずか、先生は私がいい成績をとると「よく頑張りましたね」と褒めてくれる。でも私が欲しいのは、いつだって違う言葉だ。
「実は以前から毬住先生には、恋愛相談をされていたんですけど、中々興味深いものでしてね。婚姻届けでも渡して迫ってみたらと言ってみたら、上手くいったようでして。ははは」
そんなことでこの恋患いが上手くいくのなら、私だって先生に渡している。俯くと、机の上に置いてある砂時計が視界に入った。硝子を包むような金属には蝶のレリーフが刻まれており、その羽の模様を彩るように石がはめ込まれている。これはずっとここに置かれているものだけど、硝子に収められて流れていく白い砂はいつも同じような減り具合で、いつだって時間が今で止まっているようにも思えてならない物だ。
「それ、高価ですから気を付けてくださいね」
「はい」
きっと、私のお小遣いじゃ、到底弁償できない額なんだろう。じっと見つめていると、先生は立ち上がり、砂時計を手に取った。
「この砂時計、特注で作って頂いたものなんです。途中で逆に傾けても、そのあと止まった分だけ流れて、きちんと一度決めた時間を測れるように出来ているんですよ。ほら」
先生の言う通り、硝子の中の砂は一度止められた分を取り戻すように多く流れ落ちていく。すると先生は「愛情と同じですよ。止まっていた分だけ、取り戻そうと多く求めてしまいたくなるものです」と内緒話をするように呟いて、砂時計をまた机の上に置いた。ただ物を置くだけの動作なのに、やけに色っぽく見えて誤魔化すように先生と話す話題を探す。すると丁度世間話になりそうな……それでいて空気が変えられそうなものを発見した。
「……あの、今思ったんですけど、この部屋って、時計が多いですよね……、集めてるんですか?」
初めてこの教室に訪れたときに言いそびれ、そのままになっていたけれど、、この部屋には時計が多い。
もともとここにあっただろう壁掛け時計はそのままに、先生の時計には砂時計のほかにも木製のからくり時計や小さな水時計、いつの時間を示しているのかわからないタイマーまで置かれている。
「ええ。趣味……みたいなものですね。正直に言えば僕は待つことはあまり得意じゃないんですよ。でも、こういうものがあれば幾分か気が楽になると思って。ほら、これなんかは自宅のリフォームが終わる日取りです」
先生の家……想像がつかない。先生自身どこか浮世離れしているようにも見える。深く聞いてみたいけれど、あまり質問をするのも良くないかもしれない。追及はせず相槌を打っていると、先生は窓側にあるポットの蓋を開いて、残量を確認し、マグカップを二つ取り出しながら話し始めた。
「祖父の家を譲り受けて、僕が色々と作り変えているんですけどね。外観は、洋館に近い作りで……、ところどころ和の伝統工芸を用いてみたり冒険していまして。ああ、座敷牢なんかもあるんですよ。扉は格子状になっていて、閉じこもっていても、開放的な空間を感じられるようになっているんです」
「座敷牢……」
確か昔、人を閉じ込めたりする為に作られるとか、聞いたような……。先生の家に、どうしてそんな場所が必要なんだろう。
「どうぞ」
考えている間に、目の前にマグカップが差し出されていた。マグカップには半透明の円がくるくると流れるような模様が描かれていて、ふわりといい香りが立ち上る。
「ダージリンです。お砂糖は不要でしたよね」
「はい。ありがとうございます……」
カップを受け取り、一口飲むと、じんわりと温かさが喉を通っていった。私が顔を綻ばせるのを確認するみたいに先生はこちらをじっと見つめた後、鞄から白い箱を取り出す。
「実は昨日、パウンドケーキを焼いたんです。君は以前ラズベリーが好きだと言っていましたよね? 沢山入れましたよ」
そう言って先生は白い箱の蓋を開いた。すると赤い果実に染められたように綺麗に焼けたケーキが、均等に切り分けられて並んでいる。毎回手伝いをすると、そのご褒美に、こうして先生の手作りのケーキが食べられる。きっと先生は、私がこのお菓子目当てにこの教室で手伝いをしていると考えているのだろう。
全く、違うけれど。
好きになったきっかけは、とりとめのない出来事だった。体調が悪いことを隠していた私に、気づいてくれた。ただ、それだけ。でもそれから、先生の声を聞けば振り返るようになって、気づけば視線で追うようになって、足が先生に向かって動き出すようになっていった。誰も見ていない私を、先生は、見つけてくれた。先生だから、当然だって言われていると思う。でもあの時先生は私を見つけてくれた。だから、先生が悪い。
先生に恋をするなんて幻想で、きっと大人になれば忘れてしまうというのが周りの大人の見解らしいけど、そうなるなら今この想いを消してほしいと思う。
「はい。大好きです」
カップを持ち、先生の目を真っすぐ見て答える。きっと先生は、ケーキのことだと思ったはずだ。もしかしたら、このカップに入っている紅茶のことだと思ってくれるかもしれない。どちらにせよ、きっと私の想いなんて先生には届かない。だから、だからこうするしかない。
脅して、嚇して、一回だけでも、抱きしめてもらいたい。先生に、触りたい。
先生の方へ手を伸ばす。すると先生は、驚きながらもひそかに笑った気がした。気のせいだろう、幻覚だと考え直してそのままキスをする。そうして、唇を離してから、私はテーブルの隣へ、指を指し示した。
「今の、撮影、してますから」
「ええ」
先生は、驚かない。こんなことされてるのは、もしかしたら日常茶飯事なのかもしれない。そう考えると胸がずきりと痛んだ。そして、先生とそういうことをした人に対してぐらぐらと、揺れるような感情があふれる。
「先生を、続けたかったら、卒業まででいいです。私の言うこと聞いてください」
「嫌ですけど」
即答に、目を見開く。そこまで私のことが嫌なのか。それとも先生は、教職にこだわりがない? 混乱していると先生は静かに砂時計を指さした。
「あれを、見てください。あと三千六百二十時間と……十分です。待てますか?」
「はい?」
「君が卒業するまでの時間です。どうせなら秒でも知りたいですか」
先生は、私を真剣なまなざしで見つめ返す。どう返事をしていいか分からないでいると、先生は「君がこれから待つ時間です」と、こちらに優しく諭すように言い直して、からくり時計の裏側を動かし始める。
「それまでちゃんと待てて、先生と生徒じゃなくなって、それでもまだ僕に想いを渡してくれるのならば、楽しく一緒に、そして一生僕と過ごしましょう」
「うそ……」
「嘘じゃないです。そしてこれは、僕の家の鍵です。だからまぁ、君のスマホの動画は、初めての記念ということで、僕にも後でコピーを送ってくださいね」
そうして私に差し出された、鍵。銅製の、重たそうなそれを、先生はこちらに見せつけるように揺らす。
「きみが卒業して、この鍵を取りに来たらあげます。でも、この鍵を手に取ってしまったら、もう二度と僕から離れられません。逃げられなくなるんですよ。いいんですか?」
まだ大人じゃない。でも先生の言葉の意味が分からない程には、子供でもない。隠していたつもりでも、先生はお見通しであったということなのかもしれない。でも、それでも目の前の光景は、信じられない。
「先生、私の気持ちをいつから……」
「いいえ。きみの気持ちなんて、知りません。知らないまま、僕はこのカウントを始めました。そういう人間であると、僕は君と出会って知りました」
先生の視線は、授業の時とは全く異なるものだ。いつも通りの優しい表情ではあるけれど、眼の底は深く深く、昏いところにあるように思えるし、声色もどこかこちらを誘うように感じる。
「返事は、この砂時計の砂が落ちたら聞かせてください。でも、逃げるなら、その間に逃げておかないと、君は酷く怖い目にあいますよ」
先生は、巣食うような瞳をこちらに向ける。その瞳が昏くて、あまりに昏くて、息をのみながらも、喜ぶ気持ちが押さえきれず、強く強く頷いた。