外れた梯子は海の底[男主人公]
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【悪役令嬢ですが攻略対象の様子が異常すぎる公式ツイッター】
10月2日 オーディオブック①巻 ボイスドラマCD コミックス⑤巻 紅茶缶
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【あらすじ】
四十歳、独身、未だ誰かと付き合ったこともなければ、恋をしたこともない。孤独死は怖いけど、今から恋愛をするくらいなら、普通に働いて美味しいものを食べたい……。そんな安定した暮らしを望むおじさん……査竹は、ある時、行きつけの居酒屋で自分によく話かけてくる、年下私立高校教師を鞠住を駅まで送ることになる。女性と帰るなんて初めてだと恐怖と惨めさに苛まれ鞠住と歩く査竹であったが、そんな査竹にはある魔の手が迫っていて……。
おじさんは、社会の弱肉強食三角形の、下のほうにいる。
そう思いながら、なじみの居酒屋で焼酎をほんの少し飲む。
暖かな色の照明に少しざらついた木のテーブル、そこに並ぶ枝豆や豆腐の数々を見ていると、昔はから揚げや鉄板焼きをおつまみにし、時には白米と一緒にがつがつ食べて、飲んでを繰り返していたことを思い出し、少し悲しくなった。
身に染みて、自分の立場の弱さに気付いたのはいつだろう。
三十代半ばを過ぎた頃は、まだそこまで自分について考えていなかった。
若い頃は仕事が忙しくて、上司に怒られながら営業に駆けずり回っていた。靴の底がすり減り、靴の買い替えを考えて冬の寒さを感じる。春になって新人が来て指導をして、街の汚い中華料理屋の「冷やし中華はじめました」の看板を見て夏を知った。そして、気付けば秋になっていた。
瞬きのように、四十になったけれど、あれだけ遠く見えていた「おじさん」になった時、まるで夢から覚めるように自分と言う現実に引き戻され、自分の身分の低さを身に染みて感じるようになった。
学生は夜道を歩いていたら心配される。社会人は残業を心配される。おじさんは。ただ散歩をしていただけなのに、不審者がいると通報される。
だからおじさんは、人に迷惑をかけないように、そして疑われないように、安全に、安定して、安らかに。三つの安を大切にして生きている。
だというのに、最近はさっぱりついていない。
映画を見に行けば、いかにもカツアゲと暴力が得意そうな男子高校生が隣に座った。
ずっと楽しみにしていた時代劇の映画で、あまり人気がないために上映している場所も時間も少ないから、一生懸命予定を合わせた大好きな映画。
映画が楽しみだからくる動悸や息切れではなく危機を知らせるように心臓が鼓動して、つい買ってしまったポップコーンを自分の身を守るように抱えながら上映を待っていると、男子高校生の隣の女の子が男子高校生が何かを話そうとする度に、おじさんと同じように抱えたポップコーンを男子高校生の口へと詰めていく。
それは映画が始まっても続いていて、無言で繰り返されるわんこそばのような行事に気を取られ、楽しみだった映画は、映画館を出た直後だったにも関わらず記憶がほとんどなく終わってしまった。
部下に連れられたお洒落なレストランでは、怖い目にあった。
その日はずっと追われていた大型案件が片付き、残業はあったと言えどそれも想定よりずっと早く終わった。だからいそいそと帰り支度を始め帰ろうとすると部下たちに「夕飯おごってください」と頼まれた。
おじさんは出来れば誰かと飲みに行きたいけど、部下は上司と飲みに行くのは疲れるものだしなあなんて昔の経験から思って敬遠していたから、嬉しいなあと思って部下の行きたいお店に行くと、どう見てもそこは高級なレストランだった。
完全に、おじさんの入ってくる場所じゃない。
その店の店主もよく行く居酒屋のような気前が良さそうで明るく、ほんの少し清潔感からは欠ける気安いおじさんじゃなくて、女の子が絶対放っておかないような爽やかな青年だった。
どことなく居心地の悪さを感じながら部下と共に席に案内され、メニューを見てもよく分からないおじさんは部下にそれとなく助けを求めると、部下が全部注文してくれた。
そして緊張と注文が終わった脱力感からかトイレに行きたくなり向かうと、丁度レストランの特別室らしき廊下のところで、先ほどまで穏やかに笑っていた青年が一点を見つめ「ハルチャン……ハルチャン……」とどこか恍惚とした顔で呟き続けていたのだ。
全身に鳥肌が走り、トイレへ駆けこんで心を落ち着けて用を足し、また戻っていくと丁度料理が運ばれてくる途中で、店主の青年とすれ違った。
青年は先ほどまでの恍惚顔が幻であったかのようにさっぱりとした顔をしていたけれど、あの恍惚顔の恐怖やうすら寒さによって、部下たちが美味しい美味しいと喜ぶ料理の味は一切分からなかった。
こうして、日常的な嫌なことに付け足していくように嫌なことが続くと、なんだかもう全部上手くいかなくなってくる気がしてくる。
今日だって、婚姻届けは役所で貰うものだとばかり思っていたけれど、今は雑誌でかわいいものが、しかもきちんと提出できるものがついてくる時代だと部下にさんざん馬鹿にされた。そんな中、唯一の救いと言えば、そんな話を熱心に聞いてくれる人がいることだろうか。
「本当災難でしたね……」
おじさんの隣で、熱燗のお猪口を両手で包み込むように持ち、ふわふわとした栗色の長い髪を揺らしてこちらを労わるように見るのは鞠住知頼さんだ。
年齢は僕と十くらい違くて、高校の先生で生徒たちに生物を教えているらしい彼女はその小さな顔には不釣り合いなくらいの大きな眼鏡をかけている。どことなく都会で溌溂としている子というより、静かに本でも読んでいるのが似合うお嬢さんで、この居酒屋の常連客だ。
鞠住さんと出会ったのはもう二年も前のことになる。
いつもカウンターで飲んでいると、突然「これってどうやって食べるんですか……?」と尋ねられた。店主に聞かないのか疑問にも思ったけど、とりあえず答えると、それから彼女はおじさんを「話しかけてもいいおじさん」と判断したらしく、いつしかおじさんが座っていると隣に来るようになった。
でも、おじさんは若い子と飲むのはあまり好きじゃない。
なんだか周りを見ていると、わざわざ若い子を捕まえて武勇伝を語ったり、お説教をしたりしてるおじさんたちがいて、自分もあんな感じになるのかなあと思うと、若い子と話すこと自体気後れしてしまう。
だから聞き役に徹していたら、「こっちの話聞いてくれるのに何も話してくれない……!」と鞠住さんを不機嫌にさせてしまった。若い子は難しい。それからは少しずつ自分の話をするようにしている。でも今日は話し過ぎてしまったかもしれない。
テーブルに並ぶおつまみを口に放り込む気にもなれなくて、また焼酎を一口飲むと、ランプに照らされた彼女のレンズがきらりと光ったような気がした。
「そのレストラン……部下の人に女の人は何人くらいいたんですか……? 何人中何人女の人だったんですかあ……?」
「八人中二人とかかなあ。おじさんの部署はほぼほぼ男だからねえ」
「ふぅーん……」
どうやらおじさんの答えの何かが気に入らなかったらしい。彼女はぐいっとビールを一気飲みすると、自分の前にあった煮魚に箸を向ける。いつもはきちんと一口分ずつ切り分けて食べるはずの所作は手荒で、まるで何かを振り切るようにも見えた。彼女は煮魚を食べ終えると、店主に「焼酎! 瓶でください!」と豪快に言い放つ。
「鞠住さん、そんなに飲めたっけ……?」
「いぃーんですぅ……! 今日は何杯でも飲める日なんでぇ……」
彼女は自信満々に答えるけれど、普段優しくて聞き取りやすいと思っている声は今日はやたらに幼く感じるし、もう現時点で相当酔いがまわっているようにも思える。
店長に目を向けると、彼は網にのせた焼き鳥に、ハケでたれを付けながら静かに頷いた。
彼女をこのまま、飲ませていてはいけない。
しかし、食器にぶつかったりグラスを落とさないよう彼女の傍にある食器類を片付けていると「なあんで片付け始めるんですかあ! まだ飲みますよぉ!」と言って、鞠住さんはおじさんのテーブルにあった焼酎を掴み、そのまま口をつけ傾けた。中に半分ほど入っていたそれはどんどん彼女の口に吸い込まれていき、最後の一滴まで収められていくと彼女はドン! と音を立てて木目板に瓶を置く。
「もう一本お願いします!」
「瓶はもう無いよ。水割りで我慢しな」
店長がそう言って彼女の置いたジョッキを回収し、新しいグラスを差し出した。中には水の水割りだ。要するに水。ほぼ酩酊状態の鞠住さんは「仕方ないですねえ……!」なんて彼女らしくない横柄ともとれる態度でグラスを傾けると、勢いよくそれを飲み干していった。
「もう終電なくなっちゃいましたかあ〜……?」
夜がさらに深まったころ、転々と飲み屋が立ち並ぶ通りを歩いていると、隣を歩く鞠住さんが、舌ったらずな、甘えるような口調でこちらを見た。その目はどこか据わっていて、虚ろなようにも見える。
本当に、ここまで来るのは大変だった。あれから鞠住さんは店を出るまで「査竹さあああん」と酒気をたっぷりまとった声で唸り、おじさんの首に腕を回してみたり、もたれかかったりしていた。何か疑われてはいけないと両手を机に出し、学生時代によくやっていた前ならえのような状態で椅子に座っていると「もう酒も飲まないんだしさ、その子連れて帰ってくんない?」と言われ店から追い出されてしまったのである。そしてまた彼女をタクシーの中に詰めてしまおうと考えていれば「気持ち悪い」「吐きそう」と彼女は顔色を悪くし俯いた。これでは、しばらく彼女をタクシーに乗せることが出来ない。そう思いこの時間でも比較的人通りがある道を歩いて、駅まで向かうことにしたのだ。駅にはタクシー乗り場がある。今は危ない世の中だ。おじさんだって夜道をうろつけば狩られてしまう。だから駅まで、タクシーまで送り届けて帰ろう。
「大丈夫だよ、タクシー呼ぶから。ここまで飲んだのもおじさんの責任もあるし、お金も出すから」
「えええ〜……送っていってくださいよぉ〜……!」
「いやいや、ははは……」
しっかり断っても暴れられそうだから、曖昧に返事をする。すると、また鞠住さんはむすっとした表情に変わって、わかりやすく不機嫌になった。
若いなあと、思う。
この子のように、かつておじさんにも若い時があった。仕事ばかりでこの子のように趣味に情熱を傾けたりはしていなかったけど、ただただ仕事は好きだった。毎日毎日忙しかったけど今よりずっと輝いていた気がする。生活は楽になった。でもどこか毎日失っていっている気がする。あの頃よりお金も、時間もある。でも決定的な何かが空っぽな気がして仕方ない。それにすら気付けない。
もしその頃であったなら。
もし若ければ、送っていったのだろうか?
「今日は月が綺麗ですねえ」
「そうだね……」
空を見上げるとまん丸の饅頭みたいな月が浮かんでいる。それを見て、いくら若くても送ろうとはしないなと思いなおした。元々工業高校出身ということもありクラスに女子は数人しかいなかった。小学校中学校は男女の隔たりをあまり感じなかったし、だから大学に入って女の子を見た時は、まるで別の生き物みたいに感じてしまって、授業で話をすのも一苦労だった。それが社会に出てようやく自然に話せるようになったものの、何一ついいところのないおじさんはお付き合いなんて夢のまた夢で、結局この歳になるまで一人できてしまった。家族には憧れるけど、今更恋愛をして、結婚したいとも思わない。そういったことをするくらいなら、毎日そこそこ仕事をして、三食ご飯を食べて、今の暮らしをそのまま続けているほうがいい。
「吐きそう……」
「え!?」
月を眺めていると、鞠住さんが口元を押さえ始める。どうしようと考えていると、道の先にちょうどランニングコースやトレーニングにも使われるような公園が目に入った。
「あそこまで我慢できそう?」
そういうと彼女は口元を押さえながら頷く。本当は身体を支えて走ったほうがいいのだろうけど、いくら救援目的でもおじさんに触られるのは気持ち悪いだろうし、より吐かせてしまうかもしれない。苦しむ鞠住さんをちゃんと助けられないもどかしさを感じながら、おじさんは公園に向かって鞠住さんと走っていった。
光を発し、暗がりの中で自己主張をするような自販機のボタンを押すと、軽快な音の後に商品が重く落ちる音がする。取り出し口からペットボトルの水を取り出すと。機械の中でかなり冷えていたらしく、水滴がぽたぽた滴り地面に吸い込まれていった。おじさんのハンカチで拭われるのも嫌だろうな、洗濯済みで綺麗なやつだけど……と考えながら少し振って滴を落とし鞠住さんの元へ向かえば、彼女は街灯に照らされたベンチに座り、睨むような目で地面を見ていた。そっと水を差し出すと「どーも、ありがとうございます……」と言って受け取り、少しずつ飲み始める。
「気分はどう?」
「全部出たので楽になりました……」
おじさん、もらい酔いするタイプだから、あんまり直接的な単語はちょっときつい。冷たい夜風に顔を当てるようにして鞠住さんから視線をそらすと、公園には高校生のカップルが楽しそうに話をしていたり、会社帰りの人間が飲みなおすように飲んでいたり、トレーニングをするジャージ姿の青年が転々といた。みんな、暗がりの中でもしっかりと輝いて生きているのが見えて、少し眩しく思っていると、静かに、唸るような不満をのせた声が聞こえた。振り返ると鞠住さんがこちらを睨んでいることに気づく。
「鞠住さん?」
「……さんは」
「?」
ゆらり、ゆらりとゆらめくように立ち上がる鞠住さん。心なしか怒ってるような……?
「査竹さんは……ご結婚されてないですよね……?」
「え。うん」
「どーして私のこと……奥さんにしてくれないんですかあっ!」
え?
突然叫びだした鞠住さんの咆哮が公園に木霊する。それが耳に入った周囲の人々は一斉にざわつき始めた。心なしか「不倫?」という言葉もぽつぽつ聞こえてくる。確かにおじさんは傍から見れば結婚していてもおかしくない年代だ。というか普通に子供がいたっておかしくない。そんなおじさんが若い子に結婚について話されていれば疑うのも無理はない。無理はないからこそ、とてもまずい!
「わたしぃっ、すきなんですぅ……。どうすれば女として見てもらえるんですかぁ!」
子供のように、鞠住さんはぼろぼろとその瞳から涙を流す。本来ならきちんと話を聞いてあげたいけれど、泣いている理由は何故かおじさんだ。酔っているのだろうけど、意味が分からない分どうしようもできない。この場をどう納めればいいのかわからずパニックになっていると、追撃が放たれた。
「どーして結婚してくれないんですかあ!」
鞠住さんの絶叫に公園にいつのまにかたむろしていた高校生たちが「泥沼なうじゃん!」と大声で言い、慌ててこちらを見て口を押える。
「ちょっと鞠住さん!?」
「や! こんな時だけ触ろうとしないで!」
「いやいやいやいや!? 待って! 鞠住さん!?」
一歩近づくと、鞠住さんは大きくこちらを威嚇するように睨む。そして、悔しそうに俯いて、ぽつりと呟いた。
「既成事実から作ろうと思っても……全然査竹さんのってくれないしぃ……」
「いや、いやいや……」
「今だっていやしか言わないじゃないですか! もう私どうしていいかわかりません!」
「どうしていいかって……そんなこと言われても……」
「じゃあ結婚してください、結婚してくれなきゃ動きません。それでも駄目なら……」
「うん、駄目だからね。駄目に決まってるからね」
酔いに任せて、アルコールで脳をおかしくされてしまった若い女性を自分と結婚させるなんて最低だ。おじさんは断れる立場にいないことはもちろん分かっているけれど、そもそもそういう問題じゃない。とにかく今は何とか落ち着けさせて鞠住さんを家に帰してしまわなければ。
「分かりました。脱ぎます」
「は?」
「査竹さんが結婚してくれないのなら、今この場で脱ぎます」
そう言って、鞠住さんは自分の服に手をかけようとする。そんな彼女に外野から「まず離婚届出さなきゃじゃん」という突っ込みが入るけれど、おじさんまず結婚してない。結婚してないよ。というか今は鞠住さんを止めないと……。
「わかった、しよう、結婚しよう、ね?」
鞠住さんはどうせ酔っている。大丈夫だと高をくくっていると、彼女は「じゃあ」とつぶやいて、鞄から何やら重たそうな雑誌を取り出すと、それを開き中から一枚の用紙を取り出した。
「これ書いてぇ……出しに行きますよ……! 区役所開いてますからあ……!」
その紙は、間違いなく婚姻届だ。しかも鞠住さんは記入済みで、嬉しそうにペンとその紙をおじさんに押し付けてくる。周囲で見物していた人々は、他人事のように「すげー」とこちらを感心するような目で見ていた。全然すごくない。一体、なんだ、これは。
「うそ……でしょ?」
何度瞬きしても、その紙とペンは鞠住さんの手元にある。ここは、現実だ。鞠住さんはやがて焦れたようにして、おじさんにペンを握らせた。そのペンがやけに熱く感じ、耳元では、どこか、安定していた暮らしがすべて、崩れ落ちていくような音が聞こえていた。