8話 スタート地点
「し、死ぬかと思った!!」
川沿いを駆け抜けていく兵士たちを見下しながら、ステラは大きく息を吐いた。
身体中はびっしょり水に濡れ、服が張り付くさまが気持ち悪くてたまらない。
「まあ……第一関門突破、ってところかな」
ステラは服を軽く絞りながら、ゆっくりと息を整えた。
昨日、ステラは姉と遠乗りに出かけた。
表向きは、「明日、ピクニックをする場所を下見したい」という名目で。
実際は、「無事に逃げるポイントを探すため」。
馬に跨り、近くの川沿いを駆け巡った。
その際、ここの川沿いには身を隠すのにちょうど良い森があり、川辺には草が茂っていることを発見する。ただの草なら上陸した痕跡が残ってしまうが、馬に踏ませてもすぐに起き上がる強い草だった。
故に、ステラは川の速度が滝に向かって増し始める手前、その草が茂る辺りに這い上がり、森に息を切らしながら全速力で駆けこんだ。その頃には、すっかり草は起き上がり、何事もなかったかのように風にそよいでいた。
だから、兵士たちも気づかずに滝の方へ駆けて行った、ということだ。
「さてと、ここから上手く行動しないと」
下流から滝壺にかけて、痕跡が見当たらなかったら、この周囲も散策することになるかもしれない。
「そのまえに、街まで降りないとね……あ、あったあった!」
木の幹に捨て置かれた茶色の鞄を発見する。
これも遠乗りの際、ルイーズが周囲の関心を別に向けている隙に、ステラが投げ捨てたものだ。
「身分証に財布、その他もろもろ……うん、全部そろっている」
これさえあれば、ひとまずは安心である。
計画通りに進めば、だが。
「ルイーズ姉様、ありがとう」
ここが、スタート地点。
ステラは鞄を抱きしめながら、地図を頼りに街まで歩き始め、そして―――
「……テラ、……ステラ!」
やっとの思いで街に着いてから新しい服一式を買いそろえたが、すぐに乾かさなかったからか。そのあと、ずっと鼻水が止まらなくて……なんて、思い出に耽っていると、耳元で叫ばれてしまった。
「ステラーッ! ぼやっとしないで、手を動かしなさい!」
「は、はい、ノートン夫人!」
ステラは、ぴんっと背筋を伸ばした。
慌てて現実に意識を戻せば、小太りのおばさんが肩を落としていた。
「まったく。私はこれから留守にするから、ここまで終わらせておきなさい」
「はい、分かりました」
ステラが答えると、ノートン夫人は少し怒ったような顔のまま部屋を出て行った。
ノートン夫人が消えていった扉を眺めていると、くすくす笑い声が聞こえてくる。ステラは笑い声を上げている少女に向かって、少しばかり湿った視線をぶつけた。
「リリス、貴方の手も止まってるわよ」
「っくっく、だって、ステラが毎度毎度、繰り返すからじゃない」
焦げ茶色の髪をきゅっと結わいた少女は刺繍糸を握りながら、押し殺すように笑っている。
「腕はいいのにね。その癖さえなければ、もっとお給料良くなるわよ」
「……別に。偉くなりたくないし」
ステラは呟き返すと、針に糸を通した。
いまは、帽子職人をしている。
型紙から布を裁断し、帽子の形に仕立て上げるのが仕事だ。形を整えた後は、生地の色合いを確認しながら縁に刺繍を施したり、飾りを編み込んだりする。
ステラがしているのは、その最終工程だ。
「リリスだって、筋が良いじゃない」
ステラは赤い生地の帽子に数種類の羽飾り当て、色の映え具合を確認しながら会話を続けた。
「レースの編み込み、この店で一番でしょ」
「刺繍はあんたが一番じゃない。っていうか、こんな下町の帽子屋じゃなくても、もっと良い仕事に就けたんじゃないの?」
「女性物の帽子を作りたかったの。それに、住み込みで雇ってくれるのはココくらいだったから」
ステラは口を動かしながら、一枚の羽を手に取ると縫い付けを開始する。
帽子の生地は堅いし、しっかり付けないと飾り羽が落ちてしまう。かといって、強く結び付けすぎると、糸が強く残り、恰好が悪くなる。
ステラは力の加減と縫い具合に注意しながら、針を動かしていた。
「そっか。ステラってボーミアン王国出身だっけ?」
「そっ。下手な部屋を借りるより、ここの方が安全でしょ?」
「まー、そりゃそうか」
「でも、いいなー。私も外国、行ってみたーい」
リリスの隣に座っていた女の子がうっとりと頬を緩ませる。
「ボーミアン王国、硝子工芸が盛んなんでしょ? 硝子の間に赤い花や金が埋め込まれてるの観たことあるわ。とっても綺麗だった……」
「買わなかったの?」
「金貨10枚よ? 買えるわけないじゃない!」
「あれは、埋め込まれてるんじゃなくて、挟み込んでいるのよ」
「どっちも同じ。綺麗で高いってことには変わりないわ」
「高いと言ったらさ、南町の喫茶店のシトラパイ。あれで銀貨1枚とか、ありえなくない?」
「んー、場所代なんじゃない?同じ銀貨1枚でも、青馬通りのパイの方が美味しいわよ」
「青馬通りにまで、行くのが大変じゃない」
「あたしは、シトラパイよりも、フルフルのフルーツタルトが好きだなー」
針子の女子たちは、おしゃべりに花を咲かせていた。
もちろん、せわしなく指先を動かしながら。
女主人がいないこともあり、まったりと仕事を進めている。ステラは自分の話題から菓子へと話しが変わったことで、少しばかり安堵した。
よっぽどのことがない限り、ころっころ話題が変わっていくのが、女子の会話における良い所である。
ステラはもっぱら聞き役に徹している。
下手な話題を提供して、下手に身バレしてはいけないし、ここもあと半年で移動する。深入りせず、かといって、距離を置きすぎず、微妙な線を維持するためには、この立ち位置が理想的だ。
それに、聞いているだけでも情報収集に役に立つ。
貴族のお茶会同様、彼女たちも様々なことを良く知っている。
「そういえばさ、昨日の新聞みた?」
斜め前の女の子が、また新しい情報を投入してきた。
「西方戦線で大きな勝利が上がったんだって」
心臓の音が、どきんと大きく鳴る。
当然、それを全力で表に出さないように押し込めた。だから、ステラの動揺には誰も気づかず、みんな新しい話題に喰いついていた。
「敵国側が白旗あげて、講和を持ち掛けてるみたい」
「やったー! 戦争が終わるのね!」
「モニカ、あんたの彼氏、帰ってくるんだね」
「でも、大丈夫かしら? 女軍人とデキてたりして」
「そ、そんなことは、ないもん! ありえなってば!!」
モニカはかあっと顔を茹で上がらせると、みんなで揶揄うように笑った。
ステラも笑いながら、頭の冷静な部分で算段を確認する。
ステラ・ヘイスティア・クレイン伯爵令嬢、改め、ボーミアン王国出身のステラ・アドラー。
狂言自殺から半年後。
ステラ・アドラーは、母国の王都に戻ってきていた。