6話 大きく育ち過ぎた子ども
「……ねえ、エル君。こんなこと止めよう」
ステラは言葉を零す。
「あ? なんでだ?」
「だって、その……私、初めてだし」
すぐ近くで熱を感じる。
相手の鼓動が伝わっているのだから、きっと、ステラ側の心臓の音も聞こえているのだろう。それを想うと、さらに緊張感が増す気がした。
なんとか力を入れようとするが、そのたびに重たい鎖が手元に絡みつく。
「誰だって、初めてはあるもんだって」
「いや……でも、本当に無理」
ステラは力を抜いた。
ずっと抵抗していたが、もう限界だった。腕が疲労を訴え、重くて辛かった。指も力が抜けたからか、じゃらんと鎖の音が部屋に木霊する。ステラは疲れ果て、息を長く吐くと、第二の弟に向かって文句を垂れた。
「チェインメイルを編むとか、不可能だよ」
と。
ステラが匙を投げると、エルは少しばかり驚いたように赤い眼を見張った。
「なんだよ。俺は編めたぜ? いつもの編み棒で」
「いやいや、私には無理だって。ほら、こんな重い鎖を長時間持てないし」
「だから、手伝ってるじゃないか。俺が鎖を持っているだろ?」
エルは鎖をジャラジャラと鳴らした。
すぐ近くで鳴る鎖を見て、もう一度ため息をついた。
「だからといって、この体勢はないでしょ」
ステラは現在の体勢について不服を述べる。
ステラはエルの膝に乗っていた。ステラは彼を見上げながら、言葉を続ける。
「だって、重くない?」
「ん? まったく。鎧の方が重い」
「普通に対面じゃ駄目?」
「ステラだって、昔はこうやって教えてくれてじゃないか。立場が逆になっただけだろ?」
「それはそうだけど……」
エルは無邪気に笑う。
いつも夏の太陽のように眩しく笑う。子どもの頃と何も変わらない。こうしてみると、やっぱり可愛らしい。彼のことを恋愛対象として、まったくもって見れなかった。
「ステラ?」
「え、ああ、うん。まさかコレを編むことになるなんて、まったく思わなかったから」
「ステラが『チェインメイルなんて無理』って言ってたじゃないか。だから、教えている」
「……うん、言った」
だろう? と彼は頷いている。
彼が鎖を持参してきたときは、正直引いたが、そのような理由があるなら仕方あるまい。
これが、彼の家や別の場所で鎖を持ってこられたら、モリーが口にしていた「束縛」とか思い出していたかもしれないが、ここはステラの自宅だ。そのような狂気に奔るわけがない。
こうして昔のように、サロンのソファーに腰を掛けて編み物をしている。
今回のステラは、ソファーに座ったエルの膝の上で、だが。
「しかしさ、こんなもの着て、よく戦場を奔れるわね」
途中まで編まれた鎖からびらを揺らす。
まだ半分も編めていないが、ずっしりとした重さが指にかかった。そして、ずっと昔、兄の剣を持った時のことを思い出す。簡単に握っているものだから、軽いとばかり思っていた。だから、あまりの重さによろめいて転んでしまったのは、笑い話になっている。
「重い剣を握って、重い鎧を着て……」
人を殺す。
目を伏せながら言葉を飲み込むと、ステラは別の言葉を重ねた。
「辛くない?」
「全然。重さなんて気にならない」
「そっちじゃなくて……はあ、なんか、突っ走ったまま帰ってこない感じがする」
まるで、夏の青空に吸い込まれていくように。
ステラは幻想を払うように首を振り、もう一度、彼を見上げた時、心臓が止まった。
彼は相変わらず口元に弧を描いていたが、ぞっとするくらい真剣な眼で、ステラを見下している。顔が陰になっているので、切れ長の赤い眼だけが爛々と輝いているように思えた。
「ステラ」
囁くような声だった。
彼の声が昔と変わっていた。とうに子どもの声の名残もなくなり、低く艶めいて大人っぽく聞こえる。むしろ、大人の男性の声だ、と気づいたとき、ぞくりと震えが奔り、ステラは動揺した。
「俺が、先に死ぬと思ってるのか? ましては、殺されると思ってるのか?」
「それは……」
「俺は死なない。ステラより先に死なない。ステラに寂しい思いは絶対にさせない」
どこまでも痺れるような甘い声で、どこまでも残酷なことを口にする。
瞬間、先日の夜会の記憶が蘇ってきた。
甘く蕩けるような声と仕草。先ほどまで感じていた子どもっぽさから一変した姿に対し、ごくりと嚥下する。
ステラは沸き上がって来た感情を心の奥に押し込めると、まっすぐ赤い目を見返した。
「……エル君、いえ、エルキュールは、本気で言ってるの?」
ステラは疑問を淡々と口にした。
口に出さなくても理解していたが、確認したかった。
「正直に答えて。私と結婚したいって、本気で言ってるの? あなたの中で、私は婚約者?」
「当然だ」
間髪いらずに、彼は答えてくれた。
「ずっと好きだ。初めて会った時から、あんたは誰よりも輝いて見えた」
赤色の瞳をすがめながら、切り裂くように鋭い声色で言葉を重ねた。
「ステラがどこにいるか気になるし、声を聞きたい。ステラが他の男と話してるところを見ると心臓を熱した鉄棒で刳り貫かれるような気分になるし、相手を頭から斬り殺したい。ステラをずっと腕の中に閉じ込めておきたい。
それとも、やっぱり……ステラは俺を捨てる気なのか?」
静かな声色の問いかけだったが、近くに置かれた剣で足を切られると錯覚する異様な熱を感じた。
彼の言葉、視線、顔の表情、仕草――……いずれも、呆れるほどに真剣で嘘をついているようには見えなかった。
その真っ直ぐ過ぎる性根は、子ども時代と全く変わっていない。
「……そっか」
ステラは理解した。
あの夜会の時に感じたように、きっと「策士」として、城を囲い込み、攻め落とそうとしているのだろう。
だが、これまで自分に見せていた無邪気な子どもっぽい顔は本物であり、鉄で熱したばかりの剣を喉元に突きつけられるような鬼気迫る大人の顔も本物なのだ。
こうして言葉で確認し、すとんっと実感として落ちる。
やっぱり、彼は本気で「ステラは婚約者で恋人」だと思っているのだ。
「俺は正直に答えた。今度は俺の番だ。
あんた、俺から逃げようとしているだろ?」
大きく育ちすぎた少年は、喉を低く唸らせながら尋ねてきた。
「その通りよ」
ステラも正直に答える。
ここで嘘をつくのは公平じゃないし、性分に合わない。たとえ、嘘をついたところで、彼に看破されてしまうに違いなかった。
「私は、貴方と結婚したくない。恋愛結婚をしたいんだ」
「これから、俺に恋して愛を育めばいいだろ?」
「うーん、そうじゃなくてね。私が軽はずみな約束をしたから、貴方の人生を縛ったって思ってるんだ。
エルキュールが約束に縛られて、他の子に眼もくれず、まっすぐ突っ走ったんじゃないかなって。
だから、私は逃げるつもり。
貴方の前から消えれば、他の子にも目が行く。私と結婚するより、もっともっと幸せになれる」
その道が、彼にはある。
彼は、この国でも超一流名家の長子だ。しかも、王族の血まで引いている。
伯爵家のぱっとしない行き遅れ間近な娘を嫁にするより、たとえば、モリーみたいな侯爵家の令嬢や強い騎士を輩出する名家、財力を蓄えている商家の娘など、美しく気高く家同士の繋がりも深められる婚姻があるはずなのだ。
5歳の子が幼い頃の遊びめいた約束に縛られて、そのまま人生を終えるなんて、可哀そうな話だ。
「あんたは俺の婚約者だって、ずっと昔から思っていた。この気持ちは、俺の気持ちだ。
俺はステラとの約束に縛られたつもりはない」
「でも、私はそう思っている」
「……そうか。ステラがそのつもりなら、こっちにも考えがある」
彼は何かを考え込むように黙った後、ずいっと顔を近づけてきた。
彼の筋の通った鼻とステラの低い鼻が、ほとんど突きそうなほど近づく。心臓が跳ね上がるくらい至近距離まで迫ると、彼はにやりと口を歪めた。
「いいぜ、ステラちゃん。逃げろよ。
あと2年間、逃げきれたら、俺は別の女と結婚する」
「……婚約を破棄してくれるわけね?」
「ああ。だが、俺は必ず探し出す。そうしたら、名実ともに、俺の婚約者になる。どうだ?」
「ふーん……それ、大丈夫?」
ステラリアはくすっと微笑んだ
「私、かくれんぼは得意よ。忘れたの?」
「鬼ごっこなら、俺の連戦連勝だったぜ」
エルキュールは笑った。
鋭い犬歯が口の隙間から覗き、獰猛な猟犬のようだ。
「残りの2年、俺の約束に縛られてもらう」
「でも、エル君。反則はなしよ。ルールに則った、正々堂々な勝負はどう?」
ステラは先手を打つ。
「鬼ごっこにかまけて、仕事を蔑ろにしない」
「ああ、心得た」
「それから、貴方が直々に私を捕まえる。諜報部隊とか配下の者ではなくてね」
「もちろんだ。その代わり、範囲は指定させてもらうぜ。
仕事を蔑ろにして、長期間、国を空けるわけにはいかないからな」
エルはステラを抱えると、どこまでも優しい手つきで床に降ろした。
「そうだな。ここからここまで、ってのはどうだ?」
彼はポケットから丁寧に折り畳まれた地図を取り出し、近くにあったペンで線を囲っていく。
ほとんど大陸の全土だった。この国はもちろん、姉の嫁いだ隣国や今争っている敵国まで含まれている。
「へー、けっこう強気じゃない」
「さすがに、大海を越えられちゃ、手続きやらなにやら大変だからな」
エルは地図を放り投げるように渡してくる。
ステラはキャッチすると、互いに口元を緩ませて微笑んだ。
「それじゃあな、ステラ。必ず迎えに行くからな!」
「エル君、残念。私は、ちゃんと逃げ切るからね」
これが開始。
これから、2年間。
エルキュール・シーゲルソン・カヴァス侯爵子息は、逃げた婚約者を探し出す。
ステラリア・ヘイスティア・クレイン伯爵令嬢は、婚約者から逃げるために全力を尽くす。
「私は、絶対に逃げ切って見せる」
目指すは、婚約破棄。
そして、恋愛結婚をしてみせる!
可愛い可愛い弟のために、それから、自分の幸せのために。