1話 11年後の昼下がり
それから、11年後。
「……はあ、良い男がいない」
ステラはテーブルに伏していた。
ステラリア・クレイン伯爵令嬢は、今年で21歳になる。結婚適齢期が差し迫ってきているのに、良縁がまったく結ばれない。
「レベッカ、なにが駄目だと思う?」
「夜会では良い感じなのにねー」
レベッカは不思議そうに首を傾げた。
女学校の友だちはだいたい結婚し、レベッカ以外に一人、二人しかいない。
「レベッカはいいよね。何もしてなくても、男の人が群がってくるもの」
「うん、ありがとう」
レベッカは、のほほんと微笑む。
彼女は結婚できないのではない。結婚をしないのだ。「夜会の蝶」として男たちを選りすぐりしている。とはいえ、最終的に「この人」というのは決めているらしく、結婚内定していることには変わりがない。
「わたしは、ぎりぎりまで遊んでいたいの」
「うぐぐ……羨ましい!」
どんどんっとテーブルに両拳を打ち付ける。
「私だって、夜会では清楚清純を意識して振る舞っているのに!」
「そうねー。わたしも不思議に思ってたの」
レベッカは、指を折り始めた。
「清楚だし、ダンスも社交の話も上手だし、振る舞いも淑やかで美しい。うん、惚れ惚れするくらい猫を被ってるわよ」
「努力してるもの」
所作振る舞いは隣国の王家に嫁いだ姉から叩き込まれ、完璧だと自負している。
結局、胸は成長しなかったが、つるぺたーな身体を着飾ることで「清楚でスレンダー」と偽っていた。
「それに、クレイン伯爵家は名家よ。地位だってあるわ」
「上のお姉様は隣国の側妃だし、下のお姉様は騎士団の副団長に嫁いだのよね? お兄様も財務関係のエリートで、奥様は末姫とはいえ王族。
弟君だって……ねぇ」
レベッカは言葉を濁してくれたが、言われなくても分かっている。
ステラの弟のアルフレッドは、夜会に出るたびに黄色い歓声を浴びている。アルフレッドは邪険に扱っているが、内心はまんざらでもないらしく、最近では、
『姉さん。不味くない? このままだと、僕が先に結婚しちゃうんだけど』
と、哀れみの眼を向けられる始末。
「このまま、私だけ独り身で終わるのかなー」
「独り身で終わるわけないだろ?」
ステラが落ち込んでいると、両頬を温かい感覚で包まれる。それが掌だと認識する前に、ぐいっと上を向かせられた。
「……エル君、首が痛い」
ステラは、こちらを覗き込んでくる赤い瞳を不服そうに見上げる。
「おう、すまない」
ぱっと手を離してくれる。
ステラは首筋を擦りながら、第二の弟を面倒くさそうに見つめた。
「何しに来たの?」
「ん? 離れ山の賊退治が終わったからな。ステラの顔を見に来た!」
「見に来たって……はぁ、先触れくらい寄こしなさいよ」
「先触れより、俺の方が速い」
「そういう問題じゃない」
ステラは、やれやれと頭を抱える。
見かけは変わったが、内面は何も変わっていない。
外見に関してだけ言えば、ステラの想像を超えるくらい成長していた。顔のふくらみが取れて、すっと細い面持ちになっている。かなりの偉丈夫で、14歳で初陣した際、頬に鋭い傷を作ってしまったが、その痕が野性味を醸し出し、彼の色気に花を添えていた。
「カヴァス侯に領地の一部を任されているっていうのに、どこまでも子どもなんだから……。
頬、血が付いているけど大丈夫?」
「返り血だから問題ないって!」
「そういう意味じゃ……はぁ、ほら、レベッカに挨拶は?」
「ミッドフォード伯爵令嬢、ステラがいつも世話になってる」
「エル君、ちょっと言い方!」
「いいえ、ステラとは長い付き合いですから。カヴァス君も素敵になったわねー。今度の夜会に出ます? 一緒に踊り明かしませんか? ゆったりと大人の時間を過ごしましょう」
「レベッカ、年下を誑かさない!」
「悪いな。ステラ以外とは一回しか踊らないって決めてんだ!」
「あんたもなに言ってるの!」
ステラは互いにツッコミを入れながら、大きく肩を落とした。
「まったく……まあいいわ。ちょっと屈んで。そこ拭いてあげるから」
ステラはハンカチを取り出すと、軽く水で濡らす。
エルは素直に屈むと、ステラの為されるがままになっていた。こうして素直なところは、実弟も参考にして欲しい。
ステラは肌を傷めない程度の強さで、精悍な顔を拭っていく。一通り綺麗にしたところで、エルは満足そうに鼻を鳴らした。
「ありがとう、ステラ」
「血を浴びてから、風呂に入る時間くらいあったでしょうが」
「すっかり忘れてた!」
「そういうところを忘れない。ほら、さっさと帰って風呂に入りなさい」
「一緒に入るか?」
「入らない」
「ま、あと2年したら一緒に入っても良いよな」
「何を言ってるんだか。ほら、早く帰りなさい」
ステラが促すと、ようやく彼は帰っていった。
本当に会いに来ただけで、特に用事はなかったらしい。
「ごめんね。あの子、いきなり来るなんて……レベッカ?」
ステラはここで、レベッカが口元に指を添えて考え込んでいることに気付いた。
「ねぇ、ステラ。
カヴァス君の髪の話、もう一度聞かせてくれる?」
「別にいいけど」
今度は、ステラは首を傾げる番だった。
「子どもの頃、エル君が前髪が邪魔って言ってから、ゴムで止めてあげたの。しばらく前髪を止めていたんだけど、数年経ってからかな。私が
『さすがに、子どもっぽいよ』
って言ったら、それなら後ろで結わくって……それで、今に至るって感じかな」
前髪は目にかからないように切り揃え、後ろは一つに結わいている。濃青色の髪はは、今では背中の中程まで伸びていた。まるで大型犬の尻尾のようである。
「ステラがあげたものよね?」
「まあね。ゴムが切れるたびに『新しいのくれ』って」
「もう一つ、質問していい?
彼、『あと2年』って言ったけど、それってなに?」
「それは、子どもの頃の口約束」
ステラは11年前の約束について、冗談っぽく話した。
「エル君、冗談で言ってるのよ。ふざけてさ……レベッカ、どうしたの?」
レベッカの白い顔が、さらに白くなっている気がする。ゆるふわっとした表情を引き締め、いつになく真剣な表情になった。
「ステラリア、あなたヤバいよ」
「やばいってなにが?」
ステラがきょとんとすると、レベッカは素早く周囲に目を奔らせ、こちらに額を寄せてきた。
「カヴァス君って、とってもモテるの」
「アルフレッドと夜会を二分しているものね」
「それでね、いろいろな女の子が、新しい髪ゴムやリボンを贈っているの」
「それも、知ってる。現場を見たこともあるし」
エルが受け取るところを見たのだが、それを使った姿を見たことがない。
「ねぇ、カヴァス君って最初は女の子と踊らなかったんじゃない?」
レベッカは更に囁くような声で話を続けた。
「そうね。私にべったりだったから。
『女の子の誘いを断るのは可哀そうでしょ。男としての器が小さい』って。そこからは心を入れ替えて――」
「入れ替えてない。ステラが言ったからよ」
レベッカは、一段階声を潜める。
ステラにしか聞こえないほど小さな声で、最後の言葉を囁いた。
「断言する。貴女が結婚できないのは、カヴァス君が邪魔しているからね」
ステラは親友の言葉を理解するまで、瞬き二回ほどの時間がかかった。
「それはないよ。あの子が策を練るなんて」
「彼、お父さまの領地の一部を引き継いでいるのよね? そこに悪い評判は聞かない。それって、領地を経営するだけの頭脳があるってことでしょ?」
「それは、そうかもしれないけど……」
ステラは反論できなかった。
レベッカは溜息をつくと、ステラの肩をとんっと叩いた。
「彼の中では、貴方を『婚約者』だと断定しているわ。
おめでとう、ステラ。二年後は、貴方は『ステラリア・ヘイスティア・カヴァス侯爵夫人』ね」
「え、ええっ―――!?」
春ののどかな空気を突き破るように、ステラの悲鳴が木霊した。