魔女っ子は魔女集会に遅れてやってくる
「とかげ?」
小さな茂みの中に身を横たえていたのは、真っ黒で、なぜか羽の生えている、うり坊くらいの大きさの、大とかげの子供だった。
ちいさな魔女のダフネは、そっとその不思議な大とかげを抱き上げると、家へまっしぐらに走っていく。
「とかげさん、ケガしてるね。痛いね」
「おはなしできる? どこからきたの?」
大とかげは一言も発さない。グルル、ゴロロ、と弱々しく鳴き声を上げるだけだ。
「……森の子じゃないんだね。大丈夫、いつまでうちにいてもいいんだよ」
ダフネはそっと大とかげの頭を撫でた。
ダフネは森の魔女だ。まだ122歳なのに、ひとりでこの森を守っている。
ふつう、魔女は200歳で成人する。そして、自分が住み、守るための土地を手に入れる。
けわしい山に住む魔女。広大な花畑に住む魔女。毒の沼地に住む魔女もいる。とうぜん、みんな、200歳以上だった。
つまり、ダフネになにが起こったかというと。
ダフネは、100歳になったばかりの時に、両親が亡くなったのだ。
ふつう魔女は、人間と結婚する。だから、魔女の子が80歳になるころには、父親はすっかり老いてしまって、たいてい、病気か怪我か、老衰かで、もういない。だから、最初からずっと母親だけに育てられるものだ。
ところが、ダフネの父親は魔法使いだった。ダフネが100歳になるころになっても、ふたりともほんの340か350歳そこらなのだ。
だから、ダフネの曽祖母の代から大切に守っていた立派な森で、三人仲良く暮らしていた。
しかし、ダフネの100歳の誕生日のその日、森に黒くて大きな怪物がやってくる。
森に生えている草木を倒しては、森に生きている動物をぺろりと食べる。いたずらに殺しては、そのまま放り出す。赤い瞳で睨みつけられて、恐ろしすぎて動けなくなったたくさんの生き物たちを、食べて、殺して、踏みつけていった。
もちろん、ダフネもダフネの両親も、それはそれは大変怒った。
森の動物も、木々も、みんなダフネと両親の仲間で、友達だった。「食べてもいいよ」「使って欲しい」というまで、食べちゃいけない、使っちゃいけないものなのだ。ましてや、食べるわけでも使うわけでもなく、本当に何の意味もなく殺してしまいすらするなんて。
だから、ダフネの両親は、怪物を追い払うために、魔法を使うことを決めた。
森の魔女である母親は戦う魔法を使うのが苦手だ。かつて街の魔法使いだった父親も、戦う魔法は専門外だ。
それでも、二人は戦った。森とダフネを守りたかったからだ。
そして二人は、怪物がいなくなっても、ダフネの元には帰ってこなかった。
ひとりぼっちのダフネに、洞窟に住む、魔女たちを取りまとめる長はこう言った。
「ダフネが大きくなるまで、他の魔女に森を預けてもいいのですよ」
ダフネにはもうなんにもなかった。両親も、友人も失ってしまった。森だけは、森だったところだけは、手放したくなかった。
だから、ダフネは首を横に振り、まばらにしか木が生えていない、荒れ果てた森へとひとりで帰っていった。
人間の感覚をお持ちのみなさんにはわかると思うが、20年もあれば、森はそれなりにまた元の姿へ戻っていこうとするものだ。
かつて荒れ果てた森だったそこには細くも逞しい若木が茂り、生き残った木々の間をかつての友達の同胞らが飛び交うようになった。
ダフネが120歳になる頃には、かつての姿とまでは行かないまでも、まだ少女のダフネにふさわしい、若々しくみずみずしい森になっていた。
ダフネは、すっかり具合が良くなったと見える羽の生えた大とかげを連れて森の中を歩く。
家にいる間に「ちいさな生き物は脅かしてはいけない」「食べて良いよと答えるまで食べ物を食べてはいけない」「使って良いよと答えるまで草木を手折ってはいけない」などの森での基本的な暮らしを伝えていたのをよく聞いていたのか、むやみに草木を食したりすることもなく、ダフネの後ろを良い子でついて回っていた。
「ダフネ、ダフネや」
「おじいさん」
幹に傷の残る木がダフネに話しかける。若木や動物たちから「おじいさん」と呼ばれるその木は、その怪物の襲撃から生き残った木のうちの一本だった。
「その子には名が必要だよ」
「お名前? とかげさんは、お名前が必要なの?」
ダフネは小首をかしげて問う。大とかげをちらり、と見て、また「おじいさん」を見る。
「ダフネと同じように、名を必要としている生き物だ」
「そうなのね。うーん……何がいい?」
「こらこらダフネ。初めての名なのだから、君が祝いとともに与えておやり。立派な魔女なのだから」
「あぅ、うん、そうだね。うーん……」
ダフネは大とかげを抱きしめた。くすぐったそうに大とかげは身じろぎする。
「ノワールはどう? 黒くてかっこいいから」
「良い名だね。どうだいノワール?」
「……のわー、る」
ぐるぐる鳴いていた声と同じ声で、ぽそりと大とかげは答える。
「しゃべった!」
「のわーる、なまえ?」
「そうとも。これで君は今日から森の仲間だ」
「そうなの?」
ダフネが顔を上げて反応する。大とかげ、ノワールは口の中でその名を反復させながらダフネの腕の中に収まっている。
「ダフネは名前をあげるのは初めてだったのか」
「うん」
「名は特別な意味を持っているんだよ。ときには隷属関係すら結んでしまう恐ろしいものだ」
「れーぞく……? や、やだ! ノワールはしもべじゃないもん!」
「おやおや。怖がらせてすまないね。ダフネがノワールの意思を優先する気持ちを忘れなければ大丈夫だとも」
優しそうな声色で「おじいさん」は語りかける。
「ひとつだけ。その子の成長はとても早い。すぐに育ち、大人の姿で千年を生き、そして死ぬ……そういう生き物だ」
「千年……? わたしとおなじ?」
「そうとも。森で最も長生きの生き物が、私と、ダフネと、ノワールになるだろう」
「うれしい! ノワール、いつまでここにいてもいいんだよ」
「いつ、まで……」
「ただね、ダフネ。大人になるのはノワールの方が早い。ノワールが大人になるまでの間に……たくさん、森のことを教えておやり」
「うん!」
帰り道。
ノワールはダフネを見上げて、たどたどしく、ぽつぽつと喋り出した。
「だふね」
「どうしたの、ノワール?」
「ここ、いる。いつ、まで? いつまで、も?」
「いつまでも……もちろん、ずっといてもいいんだよ」
「……いつ、までも」
「でももし、どこかへ行きたくなったら……心配するから、どこに行くのか、今度いつ会えるのか、ちゃんと言ってからね」
「ん、ちゃんと、いう」
「ありがとね、ノワール」
ダフネは跪いてぎゅうっとノワールを抱きしめる。
両親を失ったダフネにとって、ノワールは、新しい家族——弟ができたような、そんな気持ちでいた。
それから10年。
若木が育ち、実をつけるようになり、動物たちは幾度かの世代交代を繰り返し、132歳になったダフネの身長も少しだけ大きくなった。
そして、ノワールは、とても大きくなった。10年前にはうりぼうくらいの大きさだったノワールは、大人の熊よりも大きくなっていた。
「おはようノワール!」
「……お早うダフネ」
「……ここのところ、ずっと元気ないね。どうしたの?」
「ダフネは、小さいからわからないよ」
「む! ふーんだ、それでもノワールよりずっとお姉さんだもん!」
「……大きさの話だよ」
「……?」
ノワールは悲しそうな顔でぽつぽつと話す。
ダフネは朝ごはんの支度をしながらそれを聞いていた。
「もしかして、おなかが空いているの?」
「ううん。ワタシはダフネと一緒にいるだけで、ご飯を食べなくても元気なんだ。ダフネは生きているだけで魔力を出しているから、ワタシはそれを吸っているだけで生きていけるんだよ」
「そうなの? 全然知らなかった……」
ダフネは食事をそっと持ち上げて、見せるようにして聞いた。
「もしかして、これも、ほんとはいやだ?」
「ううん、嫌じゃない。ご飯を食べると魔力だけじゃ足りない栄養を補給できる。とても元気になる」
「ほんと? よかった。一緒に食べてくれる?」
「勿論」
いつのまにか太く逞しく伸びたツノを揺らして嬉しそうに頷くノワール。
その嬉しそうに歪められた目が赤いことに気づいていても、少なくともその時は、ダフネはノワールと幸せな食事を楽しんでいた。
森の生き物たちは、大きくなってきたノワールを、本能的に避け始めるようになっていた。避けきれないもの、動けないものは——
「ああ……踏んでしまってごめんなさい」
——うっかり踏んでしまうことも、よくあるようになっていた。
「……大きさの話って、もしかしてこういうこと?」
「うん。ダフネは小さくて軽いから、みんなが痛くないように歩けるのに……ワタシは沢山踏み殺してしまってばかりなんだ」
「どうしたらいいんだろうね」
憂鬱そうにうつむくノワールの背を、ダフネのちいさな手が優しく撫でる。
そしてその手は、何かに気づいたように羽の付け根あたりで止まる。
「……ノワール、このへん、なにか魔力の流れが変わった?」
「そう、かな? ワタシにはわからない」
「ノワールも魔力の使い方を覚えたら、なにかできることが増えるかもしれない。もしかしたら……りっぱな羽があるから、飛べるようになったら、つぶさずに移動できるかも!」
「本当……? 本当なら、とても嬉しい。ダフネの森のお友達たちを、踏み殺したりしなくてよくなるのは、とても嬉しい」
ふふふ、と小さく笑いながら、赤い目を細めて嬉しそうに揺れるノワール。
ダフネは少しずつ、かつてとても怖かった赤い目を、怖くないと思い始めていた。
その日から少しずつ、ノワールは魔力の使い方を練習し始めた。
吸うだけでなく、代謝させ、どこかに集めて、魔法を使う。魔法についても少しだけお姉さんだから、と、ダフネは嬉しそうにノワールに教えていた。
空を飛ぶことを考えて、風の魔法を中心に、そこから色々な属性も満遍なく。
危なくないように土だけの広場を用意して、疲れたら果物を木から貰ってきたりして。
二人は数ヵ月ほど、共に練習に励んでいた。
——そうして、その日は突然やってきた。
「あっ、」
ふと、羽の付け根の間、以前ダフネが撫でていたところに魔力を集中させてみたノワールは、不思議な、ぷすんと両足から力が抜けるようなおかしな感覚におそわれた。
二人はそのまま、ノワールの身体を中心とした、少し暖かい闇に覆われる。
「な、なに? どうしたの、ノワール? 大丈夫?」
「い、生きている。生きてはいるよ。腰が抜けてしまったみたいなんだ」
「大丈夫!? 今起こしてあげ……」
ノワールは、闇が晴れて、転んだだけではそこまで低くならないだろうという己の視界に違和感を覚えた。
ダフネはもっと驚いていた。
「え、えっと、ノワール? ノワールだよね?」
ノワールのいたところに居たのは、黒い髪に赤い目、浅黒い肌、りっぱなツノと羽の生えた成人男性にしか見えない、全裸の誰かだった。
「ワタシはノワールで間違い無いけど……わっ? 何これ? 毛?」
ノワールも、やっと驚いた。鱗に覆われているはずの自分の頭に、ダフネの髪のような毛が生えている。立ち上がろうとして、尾がないことに気づき、もう一度驚いた。
「わわ、なんだこれ、尾がない」
「ええと、ふく! ごめんね、ふくとか初めて着るよね」
「フク? ダフネの着ているそれ?」
「私のじゃちっちゃいよ! お父さんの服があったはず」
わたわたとダフネが走り回る。なにやら複雑そうなクロゼットの封を解いて、そこから丈の短い服を取り出してノワールに差し出した。
「ああっズボン! ズボンもいるよね。ぱんつもいる」
「ズボン? ぱんつ?」
「ヒトガタの生き物はだいじなところが丸見えになっちゃうから、ふくで隠して守ってるの。なくなったら困るところや、ケガすると痛いところ、子どもを産むために使うところとかを服で守ってるの」
「ダフネも?」
「そうだよ、」
やっとの思いでノワールが立ち上がる。両足で立って腹の中程ほどまでだったダフネの頭が、今はみぞおちより少し上になっていた。
「あ! 立ち上がっちゃうとズボンが履きにくいかも」
「わ、わ、これ本当に体の外にあるの? ぷらぷらして落ち着かないよ」
「ぱんつをはくと少し落ち着くかな? 私は女の子だから、その、それ、ないからわかんなくて」
ダフネはどことなく緊張した様子で「ぱんつ」をノワールに渡す。膝丈のものだ。筒に足を片方ずつ入れて腰まであげて履くようだ、と、今までダフネの父親が残した本をこっそり読んでいたノワールは、何となく理解した。ズボンも似たような形状なので、同様に履く。
「は、履けた?」
「履けたよ。その、怖かった?」
「こわくないの。でも、ニソクニワンの、ひとがたの生き物の大人はそこを見せたり、見たりするのはフーフだけって聞いてたから、ちょっとはずかしくて」
「……夫婦、」
一瞬、ノワールは、どことなくヘンな笑顔を浮かべた。
人型に初めてなったのだから、人型で表情を表すのも初めてなんだろうと思ってダフネは話を続ける。
「ごめんね変なこと言って。ノワールは初めてふくを着るんだから、気にしなくていいんだよ。ひとがたもふくを着ないで生まれてくるし」
「ううん。ありがとうダフネ。最初に渡されたこれはどう着るの?」
「羽の上からそでを通して着るといいよ。寒かったらマントやこしまきもあるよ」
「色々あるんだね。寒かったら、あとでもらうよ。……ええと、ワタシも今のワタシを見たいんだけど、鏡を借りてもいいかな?」
「もちろんいいよ!」
そうしてノワールは、鏡を見て、やっと改めて、もう一度、とっても驚いたのだった。
それからノワールは、眠る時以外はその姿で過ごすようになった。
小さな生き物も足の下から逃げ去りきれるようになり、草も踏まれてもまた伸びられる、そんな体躯になった自分を心から喜んでいたようだった。
そしてそれを、ダフネも同じように喜んだ。
ダフネにとって、ノワールは大切な家族だったから。
——その姿がどんなに黒くて、おおきくて、赤い瞳をしていても。
ノワールは、人型になってから、手を繋ぐことを求めるようになった。
大きな手だった。五本指で、皮膚で覆われたその手は、父親を思い出して、少し涙ぐむくらいには、暖かくて優しかった。
おかしいな、私がおねえさんなのに、と、少しだけ思うようになってきて、やっとおじいさんが言った「大人になるのはノワールの方が早い」の意味が、少しだけわかった気がした。
——ノワールは、多分もう、大人なんだろう。
ダフネは少しだけ置いていかれた気になった。少しばかりすねて、よく、指組みのように繋がれた手を爪の先でちょいちょいとつついたりした。
そしてその度に、これからずっと一緒ということを思い出しては、ちょっとだけ元気になった。
ああ、そのまま平和な日々が続けば良かったのだが。
なかなかどうして、生きることには波乱が付きまとうものだった。
その年の秋。
母親の妹に当たる、険しい山にすむ叔母が大きなフェニックスに乗ってやってきた。
「ダフネ! あのドラゴンが近くまで来ているん……ヒィッ!」
叔母はノワールを見て悲鳴をあげる。正確には、黒々とした角と、大きな羽を見てのものだ。
ダフネは叔母に駆け寄る。ノワールは気まずそうな顔をしていた。
「おばさん! だ、大丈夫? ノワールは羽が生えた不思議なお兄さんに見えるかもだけど、こわくないの」
「……そう、ダフネはその子を育てたのね。それなら話が早い。おまえの名前はノワール、そうね?」
「そうだよ、ワタシがノワールだ」
「名を与えたのはダフネね?」
「そうだよ」
叔母はダフネをそっと抱き寄せて、ノワールをしっかりと見つめてこう言った。
「おまえには縄張りを守る義務ができた、といえば話が早いかしら? 黒きドラゴン」
「どらご、ん? ……ノワールは、大とかげで、羽が、」
「おまえがダフネの家族と言うのなら、ダフネの森はおまえの縄張りだよ。しっかり守りな」
「……勿論り、貴方に言われずとも、ダフネはワタシが守る」
ダフネにとっては、初めて聞いた声のようだった。ダフネに向けられたことのない、素っ気なく、冷たさすらある言葉だった。
「そうかいそれならよかったよ。私はもう行くよ、洞窟の長様のとこまでメレックと一緒に避難する。うちにドラゴンはいないからね」
「……ね、ねえ! ドラゴンって、」
「本人に聞くといいよ! じゃあねダフネ、生きるんだよ!」
希少そうな羽根を散らばらせながら、メレックと呼ばれたフェニックスと、それに乗った叔母は去っていった。
ダフネはそれを見送ったあと、うかがうようにノワールのほうを見上げる。
「ノワールは、ドラゴンっていう生き物なの……?」
「……そうだよ」
ノワールは、悲しそうな顔でそっと答えた。
ノワールは気づいていた。
ダフネが昔に話していた、大きくて黒くて、赤い目をした怪物が何者であるか。
どうして自分がここにいるのか。ダフネに拾われなかったらどういう者になっていたのか。
「もしかして、ノワールはあの怪物の、」
「ううん」
ノワールはそっとダフネを抱きしめた。
隠して、誰にも見せないかのように羽を広げて姿を覆う。
「ワタシを育てたのはダフネだよ。誰から生まれたかなんて関係ないよ」
「でも、」
「大丈夫」
ノワールはすっと跪いて、ダフネと目を合わせて話を続ける。
「……どこに行くのか、今度いつ会えるのか、だったよね。近くの山まで来てるそうだから、そこに行ってくるよ。すぐに戻ってくる。少なくともクルミの実が落ち終わる前には帰ってくるよ」
住み慣れた家に、小さく鼻をすする音が響いた。ぽたぽたと落ちる涙を長い指がそっと拭う。
「ぜ、ぜったい帰ってくる?」
「うん。すぐだよ。本当にすぐ」
話しながら、ダフネはノワールに抱えられて、玄関までたどり着いていた。ノワールは腕の中のちいさな魔女を、名残惜しそうにそっと下ろす。
「ほ、ほんと? ほんとのほんと?」
「ほんとのほんとだよ」
最後に、ノワールはそっとダフネの目尻に口を寄せて、ちう、と涙を吸って、にこりと笑った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
そう言うと、ノワールは人型の姿のまま高く舞い上がり、あの時見た怪物とよく似た姿になると、一目散に山へと向かっていった。
——黒竜が山の上で羽ばたく。
高山は荒らされて、多くの命だったものが散らばっていた。
もう一体、小柄な黒竜がそこに現れて声をかける。
『——森の魔女の領域は我の領域になった。立ち去るが良い』
『森の魔女の領域だと? そこは主無き領域。子捨ての領域』
大柄なドラゴンはくつくつと笑うように揺れ、逃げ遅れた一羽のキジを食らいながら続ける。
『捨てられた子は親を見つけなければ死ぬ。主無き領域ならば、親を見つけることは叶わぬ』
『然り、竜は親の姿を真似て育つ。生みの親に似ることが叶わなければ——』
小柄な黒竜は、こちらもくつくつと笑うと、闇を纏いその姿を人型へと変化させる。
豊かな角の生えた筋骨隆々の男が、両腕に魔力を纏わせてそこに立っていた。
『——身も心も育ての親に似るまでよ』
『……人間、いや、魔の者か』
『もう一度言おう。森の魔女の領域は我の領域になった。暗き風に身を裂くことを恐れぬのならば、留まるが良い……我は喜んでその身を裂き、森の糧とするだろう』
『小癪な小童め。母に敵うと思うたか?』
『生み捨てたことには感謝しているとも』
凶悪そうに顔を歪めて、男は「母」と名乗った黒竜へと両掌を向ける。
「だってダフネに会えたから」
『……人型の言葉、か? 何を唱えたかわからんが、余に当てられると思うなよ』
黒竜は身構える。
その鱗は、一般的な人間の魔道士ならば、貫くことなき硬度と魔術的防御を兼ね備えているものだ。故にその黒竜は身を固めさえすれば、魔法など怖くはないと考えていた。数十年前の魔法使いと魔女は確かに脅威であったが、そのとき生み捨てた子がそれ以上のもののはずがないと、黒竜は高をくくっていた。
『精を奪っては子を生み捨てる。なるほど貴様にはわからぬだろう』
男の腕から発せられた収束した魔力は、風の鞭となって強かに黒竜を打つ。
竜に魔法を教えれば——元来高い魔力を有する生物が、魔法を使えるようになるとどうなるか。答えは明白だった。
『ぐ、ぬ!?』
強く打ち据えた風の鞭は、衝撃波で鱗に傷をつけた。魔法使いと魔女に食らわされたそれよりも、深い、痛みを伴う傷だった。
「ワタシはダフネをおかあさんだと思っている」
『何を、何を唱えている! やめよ!』
「同時に、ワタシはダフネにつがいになってほしいと思ってもいる」
『やめろ! その呪文は一体何だ!! 何だこれは、動くことすらままならぬ!!』
「ワタシとダフネを引き合わせてくれたことは、とてもありがとうと思っているよ」
『帰る、帰るとも! この地に来ることはもうしない! 余が、余が悪かった! 余の身を引き裂くのはやめよ!』
『それが聞きたかった。賢い貴様を見ることができて我は幸せだ』
『二度と、二度と許さぬ。だが、ここには二度と来ぬ』
息を荒げながら森と反対方向へ向かう黒竜。その身は久しく受けた傷に薄暗い血を流していた。
『わが子よ。賢しく育ってしまった哀れな子よ。子捨ての領域は貴様にくれてやる。せいぜい魔女と良く暮らせ……竜の長にもそれを伝えておく』
男は最後に、小柄な竜の姿に戻り、黒竜へと声をかけた。
『竜よ。同胞よ。我を生んだ者よ……竜の領域を示すには、これが最も最善と聞いていた。我は間違いを犯してはいないか』
『何も過ちはない。余は決闘を挑まれ、それを受け、そして無様に負けた。貴様は竜の掟に則って、持てる力の全てで領域を誇示した』
『……』
『余は敗北をもってそれを認めた。主無き領域を実効的に支配していた存在が認めるならば——それは新たな主として竜の掟に認められる』
『……そうか』
小柄な方の竜は目を細めて、やっと優しげに笑った。
『そうだな、我は新たなこの地の主だ。子を産むならば、よそに棄てよ』
『二度と捨てぬわ。余は余の領域で、静かに暮らす。勝手に達者にしておるが良い』
大柄の黒竜は、もう塞がりかけている傷をすこし庇いながら、翼を広げて山から去っていった。二度と来ることはないだろう。
そしてそれを見て小柄な竜は、おかしな——凶悪そうな、という言葉がよく似合う笑顔でつぶやいた。
「ああ、やっとダフネとずっと一緒にいられる」
別れからほんの翌日。
玄関に、人型のノワールがにっこり笑顔で立っていた。
「えっ、」
ダフネはそれを見て、朝食のスープをすこしこぼしそうになって——こぼさないように、でも急いで木さじと器を置いて玄関に駆け寄った。
「思ったより早く終わったよ。ダフネのおかげだね」
「そ、そうなの? その、これからずっと、森で一緒に居られるの?」
「そうだよ。ちゃんと、この辺一帯はワタシの縄張りになった。魔女の領域を侵してはならないって約束したよ」
「ケガは? ケガしてない?」
「どこもしてないよ、大丈夫」
昨日と同じように抱きしめられる。
でもそれは、会えるかわからないいってらっしゃいじゃなくて。
「……おかえり」
「うん、ただいま」
大切な家族への、おかえりの挨拶だった。




