運命の二人
月空の下に、二人の男女がいる。
「愛してるよ、○○さん」
男は一世一代のプロポーズを気の利いた場所で決めようと、
夜景が素敵な展望台という発想の墓場のような場所を選び、安い愛をささやいていた。
「嬉しい。□□さん」
一方女も、こんなシチュエーションでプロポーズされる幸せな女は私くらいなものだろうと、同じ場所で愛を誓った男女がすでに百何人といて、その三割が破局していることも知らずに悦に入ったのだった。
「寒くないかい」
男がウールのマフラーを女の首に回した。
するとマフラーが、女のウールのセーターに絡んだ。
ウールと言えば羊の毛。
羊。羊。羊。
羊と言えば思い出すのは500年前、時は大航海時代。
中米メキシコのインディオたちは、スペインによる侵略の嵐に晒されていた。
槍と弓の抵抗は、スペイン軍の火器を前にして無力だった。
偉大なるアステカの大地は血に染まり、悲劇の波が寄せては返した。
見よ。今ここにも、スペイン軍の凶弾を浴び、スローモーションで馬から投げ出される一人の男がいる。
地面に叩きつけられ、血だまりを作る男を、誰も気に掛ける余裕はない。
するとどうだろう、とことこ男に歩み寄る二頭の羊がいるではないか。
あれは男が飼っていた雄羊ココリと雌羊ククリだ。
二頭は男がすでに事切れているとも知らず、なんとかしたい一心で鼻を寄せていた。
だが、無防備な二頭に忍び寄る影がある。
「こいつはいい羊だ」
二頭が振り向くと、白豚のような巨体を震わせるスペイン人がいた。
「戦利品としてこいつらを故郷に送ることにしよう」
スペイン人は雌羊ククリを軽々と担ぎ上げた。
「べええ」ククリは叫んだ。
「べぇぇえ」ココリが答えた。
スペイン人はココリにも手を伸ばす。「おまえもだ」
「べえええ」ククリは叫んだ。
「べえええぇ」ココリも叫んだ。
なんと悲しい二頭の別れ。
その会話を人の言葉で表現する力を、残念ながら愚生は持たない。
雄羊ココリは逃げるだけで精一杯だった。
毛をもつれさせながら走るココリの脳裏を、思い出が駆け巡った。
――親を亡くした者同士、兄妹のように寄り添って生きてきたククリ。
――そんな迷い羊だった自分たちを、まるで実の子のように育てくれた主人。
夏の日に「暑いだろう」と毛を刈ってくれた主人の優しい手が思い出された。
将来を誓い合った夜の、愛らしいククリの声が思い出された。
「べえぇぇ」ココリは哭いた。
「べえぇぇ」
一方、ククリは大西洋の船上にいた。
船には戦利品の動物たちが、アウシュビッツ行きの列車のようにぎゅうぎゅう詰め込まれていた。
甲板から見た海に、アステカの大地はもうなかった。
初めて見る海は神秘的であったが、果てしない昏さも帯びていた。
その抗えない広さと深さの前に、ククリは絶望した。
――わたしはもう二度とアステカの土を踏むことはできない。
――もう二度とココリと言葉を交わすこともできない。
「べえぇぇ」ククリは哭いた。
「べえぇぇ」
繰り返されるココリの悲しげな咆吼は、アステカ全土に響き渡り、土漠の大地を涙で濡らしめた。
カカンゴ酋長が泣いた。ティム坊が泣いた。
羊のみならず、馬、鳥、虫、サボテン、生きとし生けるものがおおむね泣いた。
よって、一人の神も涙した。
「べえぇぇ」と叫ぶココリの眼前の虚空が、突如どんでん返しのように開いた。
奥から舞台装置に押し出されるようにして現れたのは、一人の老人だった。
「私は時間の神。哀れな羊を救済してやろう」
「べぇ!」
「未来のある時点に、お前とあの雌羊が一緒になれる特異点がある。そこにお前たちを飛ばしてやる」
「べぇ?」
言葉の意味はよくわからないが、とにかくココリは喜んだ。
神がはてなマークのような杖を振ると、周囲が一瞬で暗闇になった。
空間が歪み、闇がうねうねと蠢いている。
神の姿はもう見えない。
完全なる暗闇の中、ココリには前に向かって飛んでいる感覚だけがあった。
顔に当たる風が徐々に強くなる。
全身の毛がきんとうんのように後ろに流され、ストッキングをかぶった銀行強盗の顔になった。
自分はどれほどの速さで飛んでいるのだろう。
空気抵抗の摩擦で、顔が、体が、激しい熱にさらされていた。
熱い。
もう止めてくれ。
すると今度は、全身が洗濯機のしっかり洗いのごとくもみくちゃにされた。
暗闇の中、体があちこちに引っ張られ、全身の関節が軋み始める。
痛みがじりじり鋭くなり、ついに腕をつなぐ関節がぶちりと千切れた。
声にならない痛み。
肘、膝、肩、首、ありとあらゆる関節が引っ張られたまま、回転が加えられる。
ぶちりぶちりと音を立てて身体から離れてゆく節々。
それらを見送りながら、ココリは悲しく思った。
――ククリも同じ目に遭っているのだろうか。
彼女も今、神によって未来の特異点に運ばれているはずだ。
彼女はこれに耐えてまで、自分に逢いたいと思ってくれるのだろうか。
こんな目に遭うくらいなら、ククリは自分に逢おうとしてほしくなかった。
ククリは、自分のことなどすっぱり忘れ、五体満足のまま新たな幸せを探してほしかった。
やがて、ココリの身体中の骨が砕け、五臓六腑が引き裂かれた。
痛みの感覚は通り過ぎ、ただ体中が燃えるように熱かった。
肉が溶け落ち、砕けた骨も溶けて消えた。
残されたものは、もはや意識と体毛だけだった。
毛だけとなった体でよちよち歩きながら、ココリの意識は涙を落とした。
もうおしまいだ。
血も肉も骨もはらわたも失ってしまった。
ククリに逢えたとしても、毛と意識だけじゃ何もしてやれない。
俺は騙されてしまったんだ――
ついに意識も遠のき始めた。
いま引き返せば、元の時間と体に戻れるのではないかと一瞬考えもしたけれど、
ココリにそれをするつもりはなかった。
例えこの先にククリがいなかったとしても、自分は進むべきなのだと思った。
全てが嘘で、騙されていたのだとしても、ククリに逢いたいと思い進んできた気持ちだけは嘘にしてはいけないのだと思った。
辺りにオーブのような光がちらちら舞い始めた。
現実の光なのか、今際の幻なのか、もうわからない。
光は徐々に数を増し、やがてひとかたまりとなった。
全ての感覚を失いながら、ココリはその光を暖かいと思った。
あたかも月のようだと思った刹那、ココリの意識はぷつりと途切れた。
無音の闇に漂う月。
月。月。月。
月と言えば、時は進んで500年後。
月空の下、愛をささやきあう二人の男女がいる。
「寒くないかい」
男がウールのマフラーを女の首に回すと、マフラーは嬉しそうに女のウールのセーターに絡んだ。
ウールと言えば羊の毛。
タグを見ると、二つの生産国は別のようである。
これ以上を書くのは無粋であろう。
二人が幸せであらんことを。