第51話:殺意の濁流に紛れる、その記憶の持ち主は
走れ。走れ。走れ。
面甲の隙間から漏れる白い息の尾を引きながら僕が駆けつけた時、小さな岩肌の上から見下ろした光景は最悪の展開だった。
何が最悪って、地形すら変わってしまった土地に蠢く異形な魔物達の図がってわけじゃない。確かに阿鼻叫喚の地獄絵図のような景観と化しているまであるが、今はそれすら度外視できる程僕は焦燥に駆られていた。
翻る黒の影。目を見開き小さな悲鳴を漏らす少女。
そう。異形の闇へと変貌を遂げたフラム先輩が、たった今エルウェをその手で殺めようとしてるのだ。
――それだけは。
――それだけはダメだ、ダメだダメだダメだダメだダメだ!!
僕は知っている。
彼は心の底からエルウェを愛しているってことを。尋問した時に尻尾が揺れたのは、死霊種の殺戮を求める本能にそそのかされていただけなんだって。自分が『偽物』だと悩み葛藤し、押し寄せる衝動に抗い、エルウェにとって何が最善なのか常に探っているだけなんだって。
負けちゃダメだ。
呑まれちゃダメだ。
今ここでエルウェに手を出しちゃダメだ。
フラム先輩が度々口にしていた「主は自分にとっての全て」という言葉は紛うことなき本物だった。だから、正気に戻った時、きっと彼はまともじゃいられなくなる。
そんなこと、僕がさせない!
させるかよッ、させるわけないだろ……ッッ!!
「――それだけはダメだよ……フラム先輩」
咄嗟に『武具創造』で創り出した大剣を『飛翔する魔力』で飛ばし、フラム先輩の純粋な殺意に濡れた攻撃を防ぐ。彼の黒の燐光と擦過時の火花が散る中、遅れて厚い剣に着地した僕は柄を片手にフラム先輩を見下ろした。
一時の静寂。フラム先輩の虚ろな血瞳と眼が合った。
シェルちゃん特有の、黄金色の魔素が舞う。
「なん、で――――――レイリア」
背後からか細い声が聞こえてきて、ぞくぞくと背中が震えた。
禍殃種となった今、関わる権利なんて僕にはない。現に、フラム先輩に生かされたあの日から、これより先に彼女と言葉を交わすつもりはなかった。交わせるとも思っていなかった。ただ覇道への障害となる害敵をこの手で排除して、悠々と歩みを再開する彼女の背中を見送れるなら……それで、よかった。
――振り向くな。
ぴくりと傾きかけた意志を叱咤する。
彼女にもらった大事な名を呼ばれ、それでもぐっと我慢する。
――振り向いても、悲しくなるだけだ。
わかっているのに。
彼女の顔を近くで見たくて仕方がない。おちゃらけたことを言って叱って欲しくて仕方がない。それでちゃんと謝って、「まったく、もう」と抱きしめてもらいたくて仕方がない。
「ぇ、レイ、リアよ、ね……? 何で、どうして……ッ!? だってあの時に、し、死んじゃった、はずじゃ――」
「…………ッ」
拳を握りしめる。
こうして強がってはいるけれど、願うならばもう一度。凜と澄んだその声だけでも聞きたいと、密かにそう思っていた彼女の声が鎧の耳に当たる部位を聾する。
揺らいだ。自分の意志の柔さには自信がある。
咄嗟に何を言うべきか悩んで、とりあえず挨拶でもしておこうかと脳天気な思考になっていた僕は――次の瞬間には思考を瞬転させる。
「グァァアアァガァァアァアァッッ!!」
「――――っと」
闇に蠢く両腕を鋭利な大鎌の形状に変化させて、フラム先輩は我を忘れた怒号で以て剣閃を奔らせる。悲鳴を上げて尻餅をつくエルウェ、彼女の前に突き立っていた水晶を纏った黄金の剣は粉々に切り裂かれた。
――そうだ、今は望まれぬ再開に浮かれている場合じゃない。
シェルちゃんが鎧の中で警鐘を鳴らし、ルイがぶるりと震えて教えてくれなければ危なかった。それほどの速度、それほどの気迫、それほどの殺意。今回は相手が相手だけに劣勢だが、種族等級Sは伊達じゃない。
格上相手に油断したら、即――死ぬぞ。
「『硬化』『武具創造』!! 天翔る翼を授け、蒼穹の大空を割け――」
足場が崩れる前にフラム先輩を超えるように跳躍していた僕は、空中で逆さになりながら魔力を乗せて詠唱する。
硬質化する全身鎧。手元に発現するは二本の細剣、そしてフラム先輩の周囲を円形に囲い矛先を一斉に中心へと向ける金色の剣――その数、三十は下らない。
「『飛翔する魔力』」
「ガァアアアァァアアッッ!!」
激昂した黒の魔力と沈黙した黄金の魔力が幾重にも錯綜する。
全方位から高速で飛来する水晶の細工が施された金剣、その悉くを両腕の大鎌と身体から発した黒の魔力、足場に広がる影から真上へと突き立った黒槍が迎え撃った。
その間にも僕への攻撃が絶え間なく迫り、全神経を集中してどうにかいなす。
フラム先輩の注意を霧散させていなかったら瞬殺だ。それ程の力量差が今の僕とフラム先輩にはある。
ていうか階級Aと種族等級Sとの間には決して超えられない壁が立ちはだかっているのだ。普通は勝てない。普通は挑まない。普通は尻尾を巻いて逃げ出すことも叶わない。普通に考えて、勝機は――ゼロだ。
――それで素直に負けるくらいなら、僕はこんな場所にまで来たりしない!!
「――ぁぁあぁあああああぁぁぁああぁあッッ!!」
集中しろ。刈り取られる前に、全力で命を燃やせ。
圧倒的な膂力の前に真っ向から力でぶつかっては勝機はない。
大事なのは角度、タイミング、程よい力加減――右から迫った二段の大鎌の剣撃、右手に握っていた細剣を操作しいなすことに成功。直後に振り下ろされた影の大槌を左手に握る細剣をあてがい、跳ね上がるように回避。
猛烈な風圧、破砕する大地。その際に左の細剣は粉々に砕け散った。
宙に浮かぶ死に体の僕、左手は無手、右手の細剣はひび割れて今にも崩れそう。
殺った――顔面を裂くように、フラム先輩がにやりと笑った。
残像ずら眼に捉えられない速度で、命を刈り取る闇が迫る。
「――『武具創造』」
僕に表情があったなら、きっと彼と同じように笑っていたに違いない。
空になった左の籠手、人差し指をくいっと曲げて操作する。
その瞬間、禿げた地面から二本の金剣が交差するように斜めに突き立ち――フラム先輩の影の足を絶ち斬った。
「――――ガァアァアッ!?」
理性をなくした血色の瞳が驚愕に瞠られる。
空中に金属片を生成して足場を拵えた僕は、素早く腕を伸ばし崩れ落ちるフラム先輩の頭部に触れた。
そして、殺戮本能に囚われたフラム先輩を呼び覚ます。
「其の理を繋ぐ『共鳴』――ぐぁッ!? こ、れがフラム先輩を蝕むっ、殺戮本能……やば、いな……直ぐ、に呑まれそうだ……ッ! こんなに苦しいのを、君は……くそっ、フラム先輩! 戻ってこいッ! 早く正気に戻れッ!!」
「グァ、ガッ、ガァアアアァァ……ッ!? ヤメッ、ガァアッッ、オ、レはァ……!?」
スキル『共鳴』――手に触れた対象へとスキルの効果を伝播する技能だが、その根幹は他者の魂との共鳴にある。僕はこの白金の手で触れたフラム先輩の衝動を感じ取り、根こそぎ奪うつもりで殺戮に染まった黒の衝動を身に纏った。
殺せ、苦しい、痛い、吐きそうだ、殺せ、焼けるように熱い激情が、殺せ、腹と脳を焼くほど渦を巻いて、殺せ、何度も何度も囁いて、殺せ、殺せ、殺せと――こんなの神経がおかしくなる。一秒たりとも我慢できるものじゃない、正気でいられるわけがない。
「――――これ、は……ッッ!?」
それに、なんだ?
フラム先輩から流れ込んでくる、濁流のような殺意に紛れるように僕の中へと入ってくるこれは……記憶? 走馬灯でも見ているような、様々な場面の情景が僕の脳裏を過っていった。
これは――フラム先輩の、記憶?
だとしたら、猛烈な違和感がある。
映っているのは、若干幼いエルウェ、彼女の父と母と思わしき二人の人物、そして――気持ちよさそうに撫でられているカーバンクル。
そう、カーバンクルだ。
俯瞰的な記憶もあるにはある。でも、これは……カーバンクルが見ている情景を映した記憶なんかじゃない。他の誰か、他者がその目に映した記憶。思い出せ、何かが足りない、誰かが欠けている。エルウェはなんと言っていた、失った家族、父と母とフラムと、あと一人――誰だ? 君は、誰だ?
――――まさか。
「ガァアァアアアアァッァアアアアア!?」
苦しげな咆哮が思考を打ち破る。
併せて、僕の身に奔る殺戮が一段と濃くなった。まるで魂までもが黒く染まっていくような。
こんなに、こんなに苦しいものを、フラム先輩はずっと堪えて――そんなの、酷すぎるじゃないか、あんまりじゃないか……ッ!!
「――ッ! ぐぅ、フラム先輩、君は言ってたじゃないかッ! 『主はオレの全てだ』って!! フラム先輩はエルウェことが何よりも大切なんだろ!! 大好きなんだろっ!? それは嘘じゃないはずだ! その気持ちは『偽物』じゃないはずだッ!!」
「――――」
言いながら、彼のドス黒い衝動を半分ほど分かち合えただろうか。
今にも意識が飛びそうだ。けれどここで手を離せば、取り返しがつかないことになる。僕は追放された身だけど、そんなの易々と見過ごせない。
何よりも、僕はフラム先輩のことを本当の家族のように、そう思ってるんだ。だから届け。黒く染まっていない部分が、あと僅かでも残っているのなら……届け! 届けッ!!
「そんな君がエルウェを傷つけたら、もう後には戻れない!! この先だって絶対に『本物』になれなくなるんだぞ!! それでもいいのか――フラム先輩ィッッ!?」
叫ぶ。大声に想いを込めて、共鳴のスキルを通して、全力で。
薄まった本能から目を覚まし、胡乱な目と歪んだ口だけしか認識できない影に刻まれたフラム先輩の表情が、苦痛に軋む。
そして。
「オレ、は、オレはッ、ヤメロォ、これ以上傷つけるなァッ!? オレは――主を……守るゥ……ッッ!? ハッ、ハァッ、ハァッ……!!」
ぶわ――っと。
風圧を感じる程の勢いで黒い衝動が霧散するのがわかった。蝶を象った魔素が幾重にも羽ばたいて、悲惨な破壊跡に残ったのは青い炎を灯したカーバンクルと傷だらけの全身鎧。
互いが密着しながら、荒い息を吐いた。
知性の光を灯す紅眼と紫紺の双眸が交錯し、何を思ったのかフラム先輩は開口一番にこう言った。
「お前ェ、なんでそンなに馬鹿なンだァ?」
「なっ、し、失敬だなぁ。こうして助けに来たってのに!」
僕は驚いたというより、呆れが勝った口調でそう返す。
死ぬかと思って超怖かったし、分かち合った衝動は全身が引き裂かれそうなほど苦しかったし、僕ってば割と頑張ったと思うんだけどなぁ? 最初にかけられる言葉がそれなんてあんまりだ!
「いやァ、馬鹿だよォ、お前は……本当に、馬鹿だァ……ッッ!!」
それでも僕を馬鹿呼ばわりするフラム先輩。
ちょっとだけむっとしかけて、でも彼の声音が少しだけ湿っていることに気がついた。触れていた子猫の身体も、小刻みに震えている。これは……
「…………泣いてるの?」
「っ、泣いてねェよォ、馬鹿野郎がァ……!!」
ズズ、と鼻水を啜る音が盛大に響く。
それで泣いてないっていわれてもねぇ。
今の彼は尻尾に青炎を灯しているとはいえカーバンクルの姿だ。これまで共に過ごしたその姿の彼との記憶の中に、ここまでぼろぼろと涙を流していたページはあっただろうか。
「あは、はははっ、フラム先輩が泣くと何だか渋いね? ちょっと、面白いっ、つぼった……あはははっ」
ない。彼が涙を流している姿を見るのは初めてだ。
男らしくて渋い声、それなのに嗚咽を漏らして子供のようにないていて。意外というか、虚を衝かれたというか、少しだけくすっときた。いやかなり面白かった。
「クソがァ、笑うンじゃねェよォ! あぁああァ、やっぱりあの時、殺してやれば良かったァ………いや、すまねェな……助かったァ、ありがとゥ」
「はは、はははっ……別にいいって、僕が勝手にやったことなんだから」
前足で涙を拭いながら、悪態をつくフラム先輩。
僕は込み上げる場違い感のすごい笑いを堪えながら、自分も少しだけ涙を流していることに気がついて指で拭った。多分、笑いすぎて泣いちゃったんだと思う。そういうことってよくあるよね。
僕が一人納得していると、フラム先輩が真面目な表情を作って深々と頭を下げた。
「それでも、だァ……あと少しで、主まで殺してしまう所だったァ……」
「……フラム先輩、君は――――」
――君は、もしかして。
先の共鳴で辿り着いた真理を、口にだそうとした――その時。
「ダメぇッ、逃げてぇええぇえ――――ッッ!?」
「「――――」」
空気を裂かんばかりの悲鳴が荒野と化した森に轟いて。
すぐに辺りが暗くなった。いや、これは……影。
ハッと、遅ればせながら僕とフラム先輩が見上げた先――巨躯、血のように赤い、底の見通せない黒が中心に、回りはぎざぎざで白い、歯?
待て、待て待て待て待て待て待て――っっ!?
「ふひひひひひぃいいぃっ!? 汝らにぃッ、果て無き【暴食】の嘆き苦しみをぉ――『道徳ナキ世界二空腹ヲ』ぉ! 飢えと無我の無限地獄にぃいらっしゃぁ~いっ!? がぶがぶ」
待――――ばくり、と。
そこで視界が、意識が、自分という存在が――全てが暗闇に閉ざされた。
咄嗟のことで動くことが出来なかった僕とフラム先輩は。
グラトニーの眷属である百頭の獅子に、あっさりと捕食されたのだった。




