第45話:サーベラス
彼に名はない。
故に、悲しみに濡れた幻影――『悲影』と呼ぶことにする。
『悲影』はこの世に生じた時から、自分という存在を持たない『偽物』だった。
産まれた原理も原因も共に不明。世界に関する知識は粗方ある、一方で記憶と呼べるものはない。いや、ちらちらと過るこの情景は……とにかく、気がつけば『悲影』がいて、それでもそれは自分じゃなくて、唯一理解できるのは、本能に強く強くどこまでも強く訴えかけてくる――殺戮衝動。
本能に促されるまま、生まれたその日に『悲影』は一人の人間を殺した。
『この……偽物がぁああぁ……ッ!!』
夥しい血を流し眼を剥く男は、最後に憎たらしくそう告げて絶命した。
小さな息を吐き血色の瞳を細める『悲影』は、当初はただただ無感動に男の命の昇華を見つめているだけだった。その言葉に首を傾げ、無理解を示す。しかしすぐに飢えと渇きが押し寄せ、次の獲物を求めて夜の街を彷徨う。
また、一人殺した。
黒い殺意が詰まった身体中を奔る、恍惚とした感覚。
『悲影』はにやりと口角を上げた。
続いて二人。さらに三人。四人。五人。六人。七人。八人。九人――それ以上は、数えることも馬鹿らしくなってやめた。もしかしたら、命を苅ることでしか心を満たせない自分じゃないナニカが、『悲影』にとっても悍ましく感じられたのかもしれない。
『――お前は偽物だ』
幾度も幾度も凶行を繰り返し、数多の命を吸った。
殺人はいつしか快楽へ、死者の嘯きは病むべき劣弱意識へ、『悲影』の脅威は『連続殺人事件』として《皇都》を騒がし始める。
「…………オレは、誰だァ? 何者なんだァ……ッ!?」
この生き方が自分ではないナニカにとって正しい道だと解する一方で、あやふやな偽物の器の中では醜い劣等感と鋭い懐疑心がむくむくと肥大化していった。気づけば命を殺める度に『悲影』は喘ぎ苦しみ、莫大な葛藤を抱えるようになる。
血が愛おしい。苦しい。殺してやる。痛い。死体を愛でてやりたい。あぁ、吐きそうだ。生ある全てを壊したい。オレの中にいるのは誰だ? 命を奪うことこそが至福。いつになったら本当の自分になれる? 偽物、オレは紛い物。闇から産まれた怨念の模造品。では何のために生じた、誰のために命を根絶やしにする、自分のため? 自分が何者なのかもわからないのに。オレは、オレは、オレは――
いつしか。
孤独に月夜を見上げた『悲影』が望む、たった一つの願いは。他の誰でもない、空虚な紛い物などではない――『本物』の自分を手に入れることになった。
渇望は際限なく。殺戮は止め処なく。
殺して。殺して殺して殺して。悩み葛藤しながら、『悲影』は生きる意味を見いだせぬまま膨大な命を殺め続けた。
そんな彼の生活が変化したのは、それから数年が経過した頃だ。
厚い雪雲に遮られた太陽は光を届けられなくとも、それなりに明るい日中。ヒースヴァルム全域を囲う城壁の外、辟易した様子で白化粧をした森に潜んでいた時だ――その少女に出会ったのは。
冬の森に溶け入るような髪はどこか人間離れした神秘的な輝きで、その造詣も見る者を見惚れさせる美しさ。外套のフードを外すと、襟元から華奢な肩に出てきたのは紅い毛色をした子猫。互いに頬を擦り合わせる様子からは、種は違えど通じあっている印象を受ける。
「…………な、んだァ?」
ドクン、と心臓が脈打つような感覚を得た。
常ならば美しく強い命の輝きを見るほど、滅茶苦茶にしたくなる殺戮衝動が湧き上がるというのに、その時の『悲影』の胸中を満たしたこれは、ほんのりと暖かいこれは。
――懐か、しィ?
涙が出そうになるほど、悲しい音色を奏でる郷愁で。
どうして。どうしてこんなにも。
溜息が出るほど懐かしく思う? 痛ましいほど愛おしく感じる?
その瞬間。
偽りの自分への疑義と不透明な存在理由、無慈悲に命を喰らう殺戮本能。これら負の感情とも呼ぶべき要素でぎゅうぎゅう詰めだった『悲影』の器の中に、初めて暖かいナニカが注ぎ込まれた気がした。
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――《巌の森》
《龍皇国ヒースヴァルム》の東部に位置する大森林。
木々が深く繁茂し、冷たい雪の冠を被る。昏い昏い森の中、悍ましい程の黒に染まった外套を纏う集団が無作為に立ち並んでいた。
その集団の中心で異様な存在感を放つのは、引きずる長い紫髪を曝け出す、彫りの深い顔が隔たりを感じさせる小柄な男だ。
彼は両手を天に掲げ地面に膝をつくと、見えざる何かを授かったように戦慄かせた手を組み合わせて胸に当て、大きく白い息を吐き出す。
「はあぁぁあぁあ――たくさんの餌が死んでるぅ、濃厚な血の香りがするねぇ? あちしは好きだよぉ、魂っていうのはぁ潰える瞬間がぁ一番美しいものぉ。げひげひ」
彼らの正体は悪の組織、『神薙教』
率いるは枢要の七罪源――【道徳なき暴食】。
彼らは頃合いを見て大規模な作戦を決行に移さんと、息を潜めている所だった。
「でもでもぉ、あちしが一番見たいのはぁ【炎龍王】の魂がぁぐっちゃぐちゃになるぅ瞬間なんだけどねぇ? いひっ、いひひひっ……今から改造するのがぁ楽しみで楽しみでぇ昇天しちゃいそうだよぉお? うずうず」
予定通り魔の国とヒースヴァルムの戦争が勃発した。手薄になっている防備を突破し、背後に控えている切り札で彼の炎のドラゴンを討ち取る計画だ。
それさえ成し遂げれば、グラトニーの長年の悲願であった『ドラゴンの基』が手に入る。その冷酷なまでの権能で魔改造してしまえば、どれほど世界にとって脅威となる怪物が誕生するかは言わずと知れているだろう。
「それにしてもぉ、カーバンクルとぉ新種の鎧を捕まえられなかったのはぁ残念だなぁ。あの青ってぇすっごいびっくりしたけどぉ死霊種のだよねぇ? あの子が食べたカーバンクルがぁお化けになっちゃたとかぁ? それってぇ……何それぇ最高じゃぁあんかぁ!! わくわく」
独り言ちっては大仰に一喜一憂するグラトニー。
その面妖な容姿を抜きにしても、見る者を不気味がらせること待ったなしだ。
「――え。なになにぃ? 暴走気味で抑えが効かないぃ? まぁ、まぁまぁまぁあの子ってぇ階級がぁ既にSSに達してるからぁ、契約の力だけでぇねじ伏せるのもぉ無理があるのかもねぇ? ぼそぼそ」
黒外套の一人がグラトニーに耳打ちする。
その内容は、切り札の状態に関するもので、どうやら興奮状態で抑えが効かなくなってきているらしい。
魔物使いとして最も必要とされるのは、眷属との『絆』の醸成だ。その証拠に種族等級SSの真龍などと契約を結べた魔物使いは存在しない。それどころかドラゴンは総じてプライドが高く、子竜といえど魔物使いが使役できた記録はないのだ。
その点、権能の力だけでねじ伏せてきたグラトニーに使役できる眷属の階級はSが限度。オルカと命名した怪物を喰わせ、SSに至った切り札は御しきれないのも必然だ。
「――え。だからぁどうするのかってぇ? そんなのぉ決まってるでしょぉ? きっとあの子はぁお腹が空いてるんだよぉ。これからぁ食べちゃうメインの前にぃ軽く腹拵えしたいんじゃないかなぁ? ぺこぺこ」
言って、グラトニーはにまっと気味の悪い笑みを浮かべる。
「だからぁ、ねぇ君――餌になってくれるよねぇ? にんまり」
次には彼の背部から一本の黒い触手が生え、たった今耳打ちした黒外套の胴体に食らいつき、そのまま背後の暗い茂みへと引きずり込んでいった。
悲鳴はない。だが、肉が絶たれ骨が砕ける惨たらしい音が響いた。
「うんうん。有象無象のぉ君らでもぉ少しはぁ役に立つじゃん!! ぱちぱち」
仲間と思わしき人物が一人犠牲になったというのに、黒ずくめの集団は誰一人として気にした素振りは見せない。それが妙な不気味さを醸していた。狂人は諸手を打ち合わせ、ぴょんぴょんと無邪気に跳ねる。
と、そんな狂人の集いに声をかける者がいた。
「――相も変わらず気味の悪い集団ね」
美しく凜とした音は、声量がそれほどなくとも森の中に高らかに響く。
「こいつら雑魚共に仲間意識なんざねェよォ。あるのは盲目的な神への信仰ォ、それで罪を犯し続けてるンだァ。グラトニーのやってることは一見して無慈悲だがァ……こいつらにとって、殺してやるのが救いだろうなァ」
次に発せられたのは、可愛らしい見目とは反してやけに低い音。
黒の集団の前方、森の暗がりから姿を現すは、一人の少女と一匹の眷属だ。
「そう……残念な人達ね。でも、私たち家族を引き裂いたあなたたちに、私から大切なものを奪っていくあなたたちに、容赦なんか最初からするつもりないわ――フラム」
森に溶けいるような薄緑の髪を払った少女――エルウェ・スノードロップは朗々と告げる。彼女にしては咎めるように低く、唾棄するような声音だった。
眷属たるカーバンクルは一頻り嘲笑い、感慨深そうに数度頷くと、
「クハハッ、今の主に慈悲を期待するなァ? あァ、あァ。仰せのままにィ、主ィ。穿ちィ、悉くを灰燼に帰せェ――『憤怒を告げる焔楼』」
まなじりを裂いた燃えるような紅色の――いや、血色の瞳を、爛々と輝かせた。
巨大な炎塔が大地を、冷え切った空気を、厚い雲を――貫く。
まるで地殻運動のようなエネルギーが迸り、轟々と世界が炎の色に染まった。
黒煙が晴れ、残ったのは円形に硝子化した地面と、人だったモノの燃えかす。
そして全身焼け爛れた様子で地面に倒れ伏し、それでもなお満面の笑みを張り付けた彫りの深い顔面をこちらを向ける憎き【暴食】――グラトニー。
エルウェとフラムは同時に吠えた。
「覚悟しなさい!!」
「覚悟しろォッ!!」
****** ******
冒険者組合テューミア支部に隣接する、薄暗い建物。
内部で揺れる蝋燭が淡い光を発しており、薄らと白い布をかけられた物体を照らし出す。
それはかつて人だったもの。命を終えた悲しい亡骸だった。
いくつも並ぶ亡骸のうち一つに近寄り、白布を捲った死体をまじまじと観察する老人がいる。彼の名はオウル――死霊魔術師兼学者をしている、ギルドが雇った事件解決のための協力者だ。
「むぅ……何度見ても酷い熱傷ですじゃ。無事な箇所がどこにも見当たらないのも、実にレアなケースですじゃ。悍ましき執念を感じさせますじゃ。何か手がかりがあれば……む?」
その死体に肌と言えるものは残っておらず、ほぼほぼ黒炭と化していると言ってもいい。風でも吹けばさらさらと灰と化して舞ってしまいそうな死骸を、魔術で宙に浮かし観察していると――訝しげな点に気づく。
「これは……――まっ、まさか! 神々を奉る十字架ですじゃ!?」
くわっと目をひん剥いてありありとした驚きを表するオウル。
彼が視線を送る先は死体の黒焦げになった腕。
そこに、薄らと黒ずみが薄くなっている十字のマークがあった。まるで装飾品をつけていたような跡……そして、それが神々を敬虔に奉る十字となれば、オウルが思い浮かべることの出来る対象は限られてくる。
「な、ななな何てことですじゃ! これは早急に知らせなければならない案件ですじゃ!!」
オウルは汗を流すと、慌てて建物から飛び出した。
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三日月を横にしたような、口を裂いた笑みを浮かべるグラトニー。
「あはぁ、後回しにぃしようとぉってたんだけどぉ? カーバンクルの方からぁ来てくれるなんてぇ!? あちし感激ぃ~~~っっ!? 来てぇ、いっぱい来てぇ教徒の皆さぁん。にたにた」
彼は心底嬉しそうにフラムを見つめるていた。人間であるエルウェの姿はもはや目に入っていない。それが何だか悔しくて、エルウェは唇を強く噛みしめた。
グラトニーが言うや否や、ドデかく円形に禿げた地面の外、木々が残った森の影から黒外套を纏う人間が生じる。目立つ丘陵に立っていたエルウェ達は前後左右から囲まれる形に。
「おいおいおィ……うじゃうじゃと沸きやがってェ、気持ち悪ィ。神薙教の教徒は無尽蔵なのかァ?」
「補助はまだ温存よ……いけるわね、フラム?」
「当たり前だァ!!」
小さな猫は鼻面に皺を寄せ牙を剥き、激しい橙色の業火を纏う。
地を揺るがす爆発。耳を劈く擦過音。感情が剥き出しになった怒号。雪空の下、少女と眷属は確固たる決意のもと、踏み外せば即落下の死地で舞う。
数々の因縁の錯綜する戦いが今、始まった――
「――『混沌招来』」
教徒が数に物をいわせて時間を稼ぐ間、グラトニーは権能を用いて徐々に壊れた組織を再生していく。黒焦げになった全身が泡立ち触手が出現、数十本にも及ぶそれは先の攻撃の範囲を外れ、生きている森から命ある物を搾取してはグラトニーの基へと運んでくる。
【暴食】の権能によって、まずは肉体の内部が健常な物へと再生。次に固い皮膚やちりぢりに焦げた紫髪が修復。教徒のものとは一風違う外套まで治り、その見た目は完全に元通り。
「いひっ、いひひひひぃいぃい……【炎龍王】の前にぃ、軽い準備運動だよぉ。カーバンクルなのかぁ死霊種が化けてるのかぁわかんないけどぉ……それはぁ後でいじくり回せばぁ万事解決って感じぃ? へらへら」
のそりと立ち上がると、俯き両手をだらりと下げた格好のまま背後に聳える森に向かう。熱せられた地面についた足からは煙が上がり引き摺る髪は発火するも、何が面白いのか独特な笑い声を響かせながら歩く様は幽鬼のようである。
彼は声を大にしてその怪物の名を呼ぶ。
【炎龍王】にすら匹敵しうる、正真正銘の化け物の名を。
「だからやっちゃおぅ。出番だよぉ――『不死百頭の冥犬』」
その瞬間、犬の遠吠えにしてはあまりに歪な重低音が鳴った。
森が、空が、世界が――震撼する。




