第42話:偽物を自称する猫
紅い結晶のはびこる路地裏。
連日して発生している事件の関係上、人気はまったくと言っていいほどない。
動いているものといえば、揺蕩う魔素や虫、塵や汚れで雑然とした景観の中に馴染む廃れたゴミ箱の上で、暢気に欠伸をする野良猫くらいだろうか。
大口を開けて眠気を飛ばしていた野良猫は、その直後たまゆらに吹き抜けた突風に素っ頓狂な声を上げて眼を剥く。同時に警戒。何かが側を通った気がしたのだ。
しかし野良猫の目には何も映っておらず、きょろきょろと見回した感じでは誰もいない。気のせいだったかもと再び丸まって眠り始める、その遙か先。
桃色と褐色の輪郭がぼやけ、もはや斜線となっていた風がききーっと静止した。
あまりの速度からか足元の石畳は捲れ、生じた風圧で散乱していた塵が舞い上がった。
そして、そこには頭部に角を生やした一人の少女がいて。
彼女は上下左右見渡すと、不思議そうな顔でこてんと首を傾げる。
「……もしかしてボク、迷ってるのだ?」
迷ってる自覚はない。少しだけ帰りが遅くなってる気はする。
さらに言えば、お腹はかなり減っている。今にも倒れそうだ。
「お使いには失敗しちゃったし、お腹も空いてきたから早く帰りたいのだ……それにジーヴルとデューンの魔力もちょっとだけ怒ってるきがするのだ! お菓子抜きにされるのはこりごりなのだ!」
一度しゃがみこみ、冷静になってじっくり考えてみるも結論は出ない。
ぐぅと腹の虫が鳴って、褐色の少女――オラージュ・ヴァーユは再び前を向く。
「道はこっちであってるはずなのだ!! 風がそう教えてくれているのだー!」
高らかに叫んだ直後には既に、彼女の姿はなく。
蹴られたであろう、砕けた石畳だけが残った。
それからしばらくして「……もしかしてボク、本当に迷ってるのだ?」と立ち止まるのを繰り返しているのだが、果たして彼女は無事に帰り着くことが出来るのだろうか。
武に恵まれ、文に見放された覚醒魔王が一柱。
風の神の寵愛を受けし彼女は、その無鉄砲さによって引き起こされようとしている惨事を、まだ知らない。……というか最後まで知らない。
****** ******
微睡みの世界。
自分の輪郭も、意識も、視界に映る情報も、全ての境界線が曖昧で、何も考えないでいられるから……少しだけ、気が楽になる。
『…………其方、其方』
身体の内部で反響する声に、ピクリと。
斃れていた白金の鎧の籠手先が動く。
『其方……我の声が聞こえてるであろ?』
そんな曖昧な世界から目を覚ますと、途端に現実の情報が押し寄せてくる。
肌を刺す冷気、吹き抜ける風、二重に重なる心臓の鼓動。季節特有の寒風に揺れ動かされた草や常緑樹の葉が擦れる音はどこかこそばゆく、夜を彩る鈴虫の音色は耳障りの良い子守歌のようだ。まだ、眠っていたいのに。
「…………なにさ」
無愛想な声とともに開かれた面甲から、紫紺の瞳が瞬いた。
スキルで異次元へと収納されている黄金のドラゴンは呆れたように言う。
『……そろそろ元気を出すのじゃ。そう塞ぎ込んでいても仕方がないであろ。死んだように眠りこけておってからに……命が助かっただけ御の字であろ』
進化を経て身長が五十センチ程度まで伸びた僕は、背丈の低い切り株の上で死んだように夜空を仰いでいた。月を隠し闇夜に浮かびあがる雲とまばらの白。面白みのない空。
その間もしんしんと降り注ぐ雪が白金の鎧へと積もり、もはや僕は景色の一部と化してきている節まである。たまにすれ違う魔物も僕を素通りするので、なかなかのサイレント技術だ流石です。
「いいんだよ。僕はこのまま自然の一部になるのさ……そう言う定め、自然の摂理。食物連鎖って知ってる? 強者が弱者を喰う。その強者をさらに上回る強者が喰う。こうやって世界は回ってるんだよ」
そう、僕は森の一部になったのだ。
運命に敗北を喫し、そして大自然に喰われたのだ。あぁ、何言ってんだろう僕。
ここ二日はこうやって空を仰いでいる。飲まず食わずでも生きていける身体だからか苦にならないし、今はぼーっとしてる方が気が楽だ。何より無気力。立ち上がる気力もなければ、喋る気力だってあんまりない。
『其方は金属のそれとは違う不可思議な物質であろ? どう頑張っても森の養分にはなれぬのじゃぁあ……そんな馬鹿なことを言ってないで、本当にいいのかえ? ……あの小娘を放っておいても』
「それはっ、……よくないけど。でも……」
『でも……?』
シェルちゃんが言いたいことは理解してる。
僕だって同意見だ。あのままエルウェを放っておけば、いつの日か必ず殺人鬼の毒牙にかけられる。それでも歯切れが悪い返答しか出来ないのは、僕自身悩んでいる真っ只中だからだ。
二日前、忽然と訪れた別離の日へと記憶を遡る。
****** ******
「さようなら――私の可愛い、レイリア」
そう言って胸の太陽とドラゴンの紋様へと短剣を突き立てる少女は、その身に纏う莫大な魔素も相俟って、僕の目にはひどく神秘的に映った。まるで天使のようだと、誇張抜きでそう思った。
別れ、名を授かる。鎧生の中で最悪にして最高の日。
すーっと力が抜けていく感覚に併せて、契約の印である六芒星が胸から消失した。これで正真正銘、僕はエルウェの眷属ではなくなった。
ただ一匹の禍殃種の魔物――全世界の敵だ。
「――レ……リァ…………」
「主ィ? ……無理させすぎたかもなァ。まァいィ、今は少し眠れェ」
だがエルウェは魔力が枯渇したためか、はたまた精神的なショックのあまりか、瞳の輝きを喪失させた僕から短剣を引き抜いた辺りではたと倒れ気を失った。咄嗟に尻尾で支えたのはカーバンクルのフラム先輩だ。
「後はオレに任せろォ。――さてェ? 新入り、何か言い残すことはあるかァ?」
エルウェを丁寧に寝かせると、ニヒルに笑うフラム先輩。
殺される時が来た。抵抗するつもりはなかったけれど、そもそも僕は全く動けない。その時点で修復不可能なまでの致命傷を負っていた……訳でもないけれど。
エルウェの用いた短剣は戦闘用ではない。
魔物使いと眷属の目に見えない繋がりを生成し、そして断ち切るための魔物使い専用の魔導具――『契約の短剣』だ。実質的な肉体ダメージはゼロ。精神的にはかなり抉られてる感じはするけれど、熱いだけで痛みもない。
ただ、指先一つだって動かせなかった。
美少女といちゃいちゃするという、至上の目的を半ばにして息絶えることが。
禍殃種となり、エルウェに嫌われ契約を解消されたことが。
それでも最後にと、世界に一つだけの特別な名前をもらえたことが。
同じ主に仕える仲間だと思っていた彼に、素気なく裏切られたことが。
エルウェすら欺きいつかその手にかけようとしているその凶行を、止められないまま終わってしまうことが。
悔しいのか。
悲しいのか。
嬉しいのか。
腹が立つのか。
やましいのか。
何度も何度も重なって交わってぐちゃぐちゃになった感情は複雑で。
錆付いた魔導人形のような動作で、蒼白となったエルウェの寝顔を見やり……僕はたどたどしく口を開く。泣いてなんかない、泣くものか。
先に逝く僕に出来る事と言えば、情に縋って懇願するほかないだろうと。
「ねぇ、フラム、先輩……お願いだよ。エルウェを……殺さない、で…………」
何かを吟味するように、しばし沈黙するカーバンクル。
返ってきたのは、意外にも静かで弱気な答えだった。
「オレだって主を殺したくなンかなィ……だがァ、お前も見ただろォ――オレは死霊種。常に何かを傷つけたいと心が叫ぶゥ、神以て悪性の塊だァ」
「……そ、っか……種族本能。フラム先輩は、いったい……?」
想起されるは先の青の炎。
あれは一度その命を終えた死霊種しか扱えない不浄の炎だ。
そして死霊種と言えば、魔物であれば少なからず持つ悪性がトップクラスで多い。召喚獣を正とするならば、死霊種は悪として相反する、そんな存在だ。だからこそ、エルウェを始め周囲から召喚獣だと認識されていたフラム先輩が死霊種だなんて、本当に信じられない。
「それは言えなィ……なぁ新入りィ。お前はよォ……偽物の気持ちがわかるかァ?」
一瞬だけ尻尾の篝火に青が揺らめき、フラム先輩は顔を伏せた。
強調されたその言葉には、長きにわたって蓄積してきた情の重さを感じさせられる。『偽物』――その言葉の真意は、未だに掴めていない。
「偽物……一度、死んだからって、こと……?」
「オレに死ンだ記憶はねェよォ……だが、気がついたらオレは死霊種だったァ。そして本能の囁くままに命を殺めてきたンだァ……二年前のあの日までは、なァ」
「……? 二年前って、そうか……グラトニーに遭遇して死にかけたっていう、その時に……って、え? 違う。それ以前から、フラム先輩は死霊種だった、みたいな言い方……どういう、こと?」
頭がズキズキと痛む。
途方もない違和感が膨れ上がり、僕は混乱しながら必死に思考を回転させた。僕はフラム先輩を二年前の『連続殺人事件』と最近巷を騒がせる『通り魔事件』の首謀者だと考えている。何らかの要因から、フラム先輩は道を違えた召喚獣だと思っていた。
でも、召喚獣ではなく死霊種だと、ついさっき知ることになった。
それならば、彼が死霊種へと堕ちたタイミングは? 一瞬だけ二年前に【暴食】に襲われて死にかけたという話を思い出したが、それだと『連続殺人事件』の犯人はフラム先輩じゃないことになる。でも何よりも本人の口からは、多くの命を殺めてきたと、そう零している。
いつだ? いつ、彼は生者をやめた?
何かがおかしい。何か大事な部分が抜け落ちている。
強烈な違和感が、拭えない。
怖々とした気持ちで考え込む僕。いつの間にかフラム先輩の尻尾は完全に青の炎へと変化し、次にはその炎を全身に纏いながら苦渋に満ちた顔で吠えた。
「それでも忘れられねェ。毎晩のように殺人衝動が溢れて、その度に手にかけてきた死者が脳裏で囁くんだァ――お前は『偽物』だってなァ! その苦しみが、お前にわかるかァ!? オレだってなれるなら『本物』になりてェよォ!! だけどなァ、オレはどこまで行っても紛い物ォ……時々何よりも大切な主でさえ殺してしまいたくなるゥ、そんな醜い化け物なんだよォ!! わかるかァ、お前にオレの気持ちがよォッ――!?」
「――――」
その迫力に、僕は何も言うことが出来ない。
ただ、フラム先輩が毎晩何処かへ出かけていた理由はわかった。エルウェの側にいると殺したくなってしまうから、だから彼は距離を取って。それでも最近までは衝動を耐えていて? ついに爆発して、堰を切ったように人殺しを始めたのか? それが『通り魔事件』の真実……? 違う、何かが違う。
「ハァッ、ハァ、ハァッ……クソッ。少し、喋りすぎたかァ……」
目を血走らせ、激しく肩を上下させて荒いい息を吐くフラム先輩。渦巻く闇が爆発寸前だった彼は、どうにか青炎を抑え込むと――何故か僕に背を向けた。
「……本当はなァ。オレがいなくなった後、お前に主のことを任せるつもりだったンだァ。だがそれもォ、お前が禍殃種となった今、全てが帳消しだァ……失せろォ。二度とオレの前に、主の前に姿を見せるなァ」
エルウェを大事そうに尻尾で巻いて持ち上げ、そう残して歩き出した偽物を自称する幸を呼ぶ幻獣。尻尾の先に灯る炎は、先より一度たりとも揺れていない。
呆気にとられた僕は、片目に宿った紫紺の輝きをぱちくりと明滅させた。
「――僕を、殺さない、の……?」
彼は言う。
「……オレは偽物ォ、悲しき憤懣に溺れた影だァ」
悲しみに満ちた顔を、無理矢理笑みへと変えて。
「いつかきっと、同じ深淵に堕ちたお前ならァ。オレが主に出会った意味を、偽物として生きた意味を……本物のオレを。ふとした拍子に呆気なく、見つけ出してくれるかもしれねェ……そう思ったまでだァ」
どう見ても、引きつった笑みで。苦しそうな笑みで。泣きだしそうな笑みで。
フラム先輩が、心の底から笑うから。
「クハハッ! なぁ、死霊種のオレが言うのもおかしな話だがよォ」
僕は息を呑んで。
その拍子に、つうと一掬の涙が滴り落ちた。
「死ぬなよォ――レイリア」
****** ******
そうして僕は、生き残った。
開いていた面甲を閉じ、隙間に指を突っ込んで独り言ちる。
「くそ……僕はただ美少女といちゃこらしたかっただけなのに。どうしてこうなるんだよまじで意味わかんないよ何がどうなってるんだよ……」
『カーバンクルがいいこといった風なのに、其方は薄情なやつじゃなぁあ……』
シェルちゃんが何か言っているが、僕だって何も感じていないわけじゃない。
ただ、掴み所のない違和感が拭えなくて、あれからずっと考えてた。覚束ない足取りで《巌の森》の奥地へと進み、人気のない場所で呆然と。
『それにしてもあの蠢く闇……どこかで見聞きしたことがあるような気がするのじゃがなぁ……はて、何だったか』
《巌の森》は人の行き来が激しい。多分死んだことになってるだろう僕が見つかってしまったら、フラム先輩の粋な計らいも無駄になるってものさ。それに、グラトニーとあの怪物が本当に死んだかどうか……怪しいっていうか、多分生きてるだろうからね。その場から離れるのは必須だったけれど。
繁茂する氷雪草の隙間から顔を出すのは、この季節に咲く凍晶花だ。
蒼の燐光が雪とは反対側へと昇っていく。白と蒼の交錯――美しく幻想的な光景は気持ちを落ち着かせてくれるよ、ほんとに。
「…………(ぷるぷる)」
「……何だよルイ、またお腹空いたってのか? ちょ、出てくるのはいいけど、口だけはやめ――がばばばっ」
ついと僕の兜の頂点から生えてきたのは、黄金の色合いの強い細剣。
頭から剣を生やすなんて原理がどうのこうのと考えるのはもう放棄して、とにかくシュールな絵面になるからやめて欲しいんだけどな。
僕が言うとすぐに、剣は立派な意匠の施された輪郭を失い、同時に白金の鎧から滲み出るようにしてドロドロとした液体が流れ出る。面甲の中からも出てくるのは虐めだろうか。おえっ。
「き、気持ち悪っ、吐いてる気分だよほんとに……いくら出入りが自由かつ楽になったからって、口からだけは出てくるなって言ってるだろ! ねぇ、ほんとにやめてくれないかなぁ!?」
「…………(ぷるぷるぷるっ)」
流れ出た流動体は楕円の形に纏まり、そうして現れたのはゴールデンスライムのルイだ。
なんと彼女、進化の際に鎧の中にいたからか、僕の身体へと順応してしまったのだ。多分同じ系統に進んでるって言う理由もあるんだろうけど、今では鎧の内部に入るのではなく、鎧に溶け込むことが可能になっている始末である。
今思えば確かに、沸騰した液体が混ざり込む感覚もあったっけ。
「くそ、本当にわかってるのか……? 禄に戦えないくせにご飯だけは要求する囓り虫め……まぁいい。ふひひ、ほらぁご飯だよ、たんとお食べ」
身勝手に行き来する彼女に、紫紺の瞳を厭らしく細める僕。
ちょっと意地悪してやろうと、面甲を開いて『鎧の中は異次元』で出したのは――見るだけで悍ましい大きな蜘蛛の脚。
黒くて毛むくじゃらで緑の血が滴ってて……もう、おえっ。
「…………♪ (ぷるぷるるん♪)」
「……なんでそんなに嬉しそうに食べるんだよ」
『スライムは雑食だからであろ』
しかし、僕の思惑通りにはいかないみたいだ。
蒼宝石の瞳を爛々と輝かせて、蜘蛛の脚へとむしゃぶりつくルイ。僕のつまらないとばかりの愚痴に、シェルちゃんが淡々と事実を述べた。
「うるさーいっ!! 知ってるんだよそういうことじゃないんだよっ! ルイは女の子でしょ? そこはきゃーって姦し過ぎるくらいの反応を見せないと! 今はまだ良いよ!? でも人化してからの食事光景は想像するだけでヤバイ気しかしないからね!? もう、おえっ、おえーっ!?」
僕は将来を見据えている男だ。人化したルイが僕を取り囲むハーレムの一員になることは大前提として、脳内には隣の美少女が蜘蛛の脚を丸かじりしている絵が浮かぶ。
緑色の血飛沫が僕に飛び散った。
嫌だ! そんなの女の子じゃない! 女の子だとは断じて認めない!!
「…………っっ(ぷるぷるぷるっっ)」
「……何だよ、くそ。そんなに嬉しそうにするなよ……ほら」
でも。
やはりというべきか、ルイは心底嬉しそうな顔をする。その無垢な笑顔と仕草が、今の僕にはちょっとだけ眩しくて。
多分これはおかわりを要求してるんだろうとわかってしまうから、今度は魔熊族の肉を出してやった。邪な考えばかりしている僕が、何だか惨めになってくる。
『な、なんということなのじゃ! まさか其方が素直におかわりに応じるとは……魔物使いの小娘と関わって、其方は随分と優しくなったのじゃなぁあ……』
「あーうるさいうるさい。早く食べろルイ、そろそろ出かけるぞ」
シェルちゃんが余計な感嘆の声を届けてくるから、喧しくなって上体を持ち上げる。ばさりと身に積もった雪を落としながら、切り株から地面に降り立った。
「…………? (ぷるぷる?)」
『出かけるって、どこに行くのじゃ?』
不思議そうな顔で身体を震わせるルイ。
彼女の言葉も代弁して、シェルちゃんが問うてくる。
「どこにって、そりゃあ……ヒースヴァルムの観光に、だよ」
僕は頬をポリポリと掻きながら答えた。
ま、物珍しいものがいっぱいあるあの国を離れるには早すぎると思うからね。あと少しくらいは満喫してから旅立ちたいものだ。生憎、独り身となった今黄金は使い放題だしね。
『なるほど。小娘の様子が気になるのじゃな』
「うるさいわっ!?」




