第41話:自己嫌悪
奥深く静寂な白銀の世界は、夕暮れ時にさしかかっていた。
はらはらと柔らかく積もった雪を踏みしめる小さな足音が一つ。
長い尻尾の先に灯る篝火が揺れ、どこか落莫とした影を落とす。
煤こけた紅い毛には幾つもの傷を負い、その重く昏い表情からは喪家の狗と表するのが適切に思われる。実のところ、その正体は狗ではなくカーバンクル。
……否、その真の顔を知る者は、誰一人としていないのだが。
尻尾でぐるぐる巻きにして宙に浮かせ、程よい炎で温めながら運ぶのは、瞳を閉じて気を失っている少女。黙々と歩む彼らの側に、かつて袂を連ねた鎧の眷属の姿はない。
「…………ぁれ……フラム?」
「目が覚めたかァ、主ィ」
と、彼の主であるエルウェが目を覚ました。
彼女は鎧の眷属の胸に短剣を突き刺した後、感情の昂ぶりからか箍が外れ、魔力枯渇となって気を失ったのだ。それから数時間しか経過していないため、まだ極めて疲労困憊の状態だろう。
特に彼女にとっては、心身ともに。
「ここは……どこ? 私ったら、どうして気を失って……ぁれ? ねぇフラム、エロ騎士はどこに行ったの……? もう、あの子ったら。目を離したら直ぐに馬鹿なことしでかすんだから……」
起き抜けのぼんやりとした頭では、記憶が混濁しているのだろう。
眠気と篝火の暖かさに細めた目を擦りながら、エルウェは独り言ちる。
それが今のフラムには、ひどく虚しく感じられた。
親が子に語り聞かせるように、口を開く。
「……主ィ、ここは《巌の森》だァ。じきにヒースヴァルムに着くゥ」
「そう……ね? そう、私たちは《亜竜の巌窟》に挑んで……それで――【暴食】のグラトニーに遭遇した……でも、やっぱりあなたたちはすごいわ。お父さんでも歯が立たなかったあのグラトニーに、違う眷属だけれど勝っちゃうんだもの……それで、エロ騎士は、レイリアは……あ、れ……レイ、リァ――?」
口籠もりながら、息んで、戦いて、それでも笑顔を浮かべて。
最後にその名を呼んで――違和感に気づいた。いや、思い出したと言うべきか。
ハッと息を呑んだエルウェに振り向くことなく、フラムは玲瓏な声で言った。
「新入りは、あいつは……もう合うことはねェ――死んだよォ」
「――――」
瞠られる白水晶の双眸には、怒濤の勢いで押し寄せる別離の情景が鮮明に映し出されていて……俯いたエルウェの表情を、バサリと荒んだ髪が覆う。
「…………ねぇ、ふらむ?」
「なんだァ」
震える声。無愛想に返すカーバンクル。
血色の悪い唇から、今にも泣き出しそうな、幼子のようなむせび声が溢れた。
「私は、ねぇ……! わたしはっ……間違って、たのかなぁあ……っ!?」
彼女らしからぬ、けれど年若き少女という幼い見目からすれば年相応の。
どこまでもどこまでも悲しい叫びに、フラムはしばし沈黙した。強い後悔を感じさせる、すすり泣く声だけが響き、ややあって前を見たまま答える。
「……間違ってなンかあるもんかァ。禍殃種になった魔物は碌な人生を歩めない、早めに芽を摘むのは世界の常識だァ……このオレが保証するゥ、あの選択でよかったんだァ。あいつにとってもォ、主の後生にとってもなァ」
「ひっく、でもっ、でもぉおぉお……っ」
しゃくり上げるエルウェに必要なのは、慰めの言葉よりも時間だろう。
このような状態になるエルウェを見ること自体稀であり、フラムは慣れない状況に戸惑いながらも言葉を探す。
「大丈夫だァ。主には原石のドラゴンがいるゥ……近いうちに孵りそうだって言ってただろォ? オレは確信してるンだァ、あいつは世界を轟かす力を持ってるってなァ。だからなァ、世界最強の魔物使いが遠のいたわけじゃ――」
「違う! 違う違う違うのぉっ! 私が強くなりたいのはっ、これ以上家族を失いたくないからなのよぉおぉ……っ!?」
「すっ、少し落ち着けェ主ィ……」
尻尾にくるまれながらジタバタと藻掻くエルウェ。
こうして諫めるの自分が不思議と腑に落ちる様な気もして、フラムは大きく嘆息する。
「ぅわぁぁぁん…………フラムっ、フラムぅ……」
「……ったく、何だァ主ィ」
泣き喚く主を引きずるように歩くカーバンクルは名前を呼ばれ、ついに振り返って――ピシリ、と硬直した。見返す赤く腫れた銀眼が、涙に装飾された白水晶が、フラムにはやけに眩しく思えたから。
彼女は言う。
「フラムっ、あなただけは、ずっと……私の側に、いてくれる……?」
「っ…………あぁ」
それは、奇妙な間の開いた返答だった。
エルウェは何か思うところがあるのか、一度目元をくしゃくしゃにさせると、その身を持ち上げる尻尾に縋り付くようにして強く抱きついた。そのまま顔を埋め、先の勢いで泣き始める。
「ばかぁ、ばかぁああぁっ!! ぅわぁあぁぁあぁあぁん、ぁぁああぁ、ぁあ、レイリア……ごめんね、レイリアぁ……っ」
「……………………」
フラムはヒースヴァルムを目指して黙々と歩く。
その間も、背後では悲しき旋律が不協和音を奏でていた。
「うわぁあ、ぁああぁぁぁん、わぁぁああぁああぁぁああああぁぁあぁあぁぁああぁぁぁああああぁぁあぁぁああぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁあ――」
エルウェは紅涙を絞って泣いた。
ヒースヴァルムに辿り着くまで、溢れ出る感情のままに泣き続けた。
****** ******
「……エルウェの様子はどうだった?」
事の騒動の発生から二日が経過した、夜も更け始めた時間帯。
珍しくラフな格好をしているヨキ・テューミアは自宅の居間に腰を据えながら、今し方音を立てぬように閉めた扉を背に抱えて隠すように立ってる、熟年の女性へと問いかける。
その扉の先は狭すぎず広すぎずの廊下があり、そのふんわりした身体付きの女性――ヨキの母であるサエは、そこから伝える少女の眠る一室へと足を運んでいたところだ。
「あんまりよくないわねぇ。眠ろうにも眠れないみたいで、起きては泣いての繰り返し。ご飯も喉を通らないし、水分だけはとらせてるけど……身体の衰弱もそう、何より精神的に参ってるみたいね……」
「そう、か……そりゃ、そうだわな」
ヨキは鷹揚に頷いた。
愛娘のこの荒んだ状況に、どうにかしてやりたいと思うが如何せん経験がない。手持ち無沙汰にカップを仰ぎ、鼻腔を擽る紅茶の香りが二日前の凄惨な情景を思い起こさせる。黄昏に染まる花園から始まった惨劇の。
憎き神薙教が枢要の七罪源【暴食】のグラトニーの出現、壊滅した迷宮都市、偶然とは言い切れないエルウェとの接触。まだ自分の足で歩き始めたばかりの小さき少女は、命こそ助かったもののひどい有様だった。
惜しくも命を終えた人々を荼毘に付す焔が上がる中、ヨキとエルウェがヒースヴァルムで再会した時。エルウェは魔力枯渇症と過度の疲労の蓄積によって死んだように眠っていた。
「無理もねぇよ。また【暴食】に襲われて危険な目に遭ったんだ。それに……」
先の続かない言葉に含まれるそれは、どこか空漠とした響きを感じさせる。
サエはヨキの前の席に腰を下ろすと、頬に片手を当てて寂しげな表情に。
「鎧の騎士さん、良い子だったのに……本当に残念ねぇ」
その魔物は、とにかく印象の強い眷属だった。
白と金の異彩を放つ鎧の魔物。野良だと言うが悪性の片鱗は欠片も見せず、仮契約でしか縛られていないエルウェにどこまでも忠実に尽くす。……いや、真心を尽くしてと言うよりは煩悩に突き動かされてという感じだったのは否めないけれど。
「あぁ……まさかあいつがこんなところで死んじまうとはな……いや、【七つの罪源】の一人からエルウェを守ったんだ。上出来すぎるくらいだが……実感が湧かねぇのも事実だ。ふとしたときにエルウェの太股に掴まってるんじゃないかって、そう思っちまう……」
「それはそれで、その、女の子としては問題があるような気もするけれど……エルウェも、もちろん私たちも、これから寂しくなるわねぇ……」
本人に自覚があったかは知らぬ所だが、冒険者組合テューミア支部内では時の人ならぬ時の鎧となっていた。なにせエルウェ自体が世にも珍しい幸を呼ぶ幻獣を連れた美人魔物使いとして名が知れ始めており、そんな人目を集める彼女の太股に年がら年中張りついているのだ。嫌でも目立つ。
会話からは高い知能を感じさせるし、その気さくで流暢な喋り方は鎧の中に人間が詰まってると言われた方が納得できる程だった。それなりに間柄を深めたヨキとサエだからこそ、そんな鎧の魔物が帰ってこないことが信じられないのだ。
「それに、いよいよ《風魔国テンペスト》も動き出すらしい。【炎龍王】様も捨て置かれた宣戦布告の書状に頭を抱えていたようだし……近いうちに戦争が起きることは間違いねぇ。中央広場に避難指示が出ると思うから、エルウェを頼むぞ、母さん……」
そして『通り魔事件』を始め、まるで機を見計らっているように不穏分子は重なる。
「ええ。あの子のことは私がしっかりと面倒を見ますよ。でも、そう。やっぱり戦争が……あなたも戦いに参加するのよね……? どうか無事に帰ってきなさいね」
「あぁ、わかってる……母さんとエルウェを残して死ぬ気なんかさらさらねぇよ」
不安そうな顔つきになるサエをさらに怖がらせたいわけじゃないが、近頃起きていることを報告し合うのは、エルウェの父とヨキの父も入れて四人家族であったころから続く慣例みたいなものだ。
ヨキは難しい顔で腕を組む。
「さらに言えば【暴食】の遺体は見つかっていない。準じる神薙教の動きもかなり怪しい……しばらく平穏な日々とはお別れだな。とにかく、フラムのヤツが側についてるとは言え、今回は立ち直るのに時間がかかるかもしれねぇな……」
「そうね……今はそっとしておいてあげましょう」
「そうだな……それしかない、か」
しみじみとした空気の中、二人して少女が眠る一室の方向へと視線を向ける。
大の拳を握りしめたヨキは、無力さを悔やむようにぽつりと零した。
「……間に合わなくて、すまない。エルウェ……」
****** ******
燃えるような紅い絨毯は、どこか荒んでいるようにも見える。
広大な城の一室、謁見の間。脇で燃ゆる篝火は小さく、本来であれば強者の立ち並ぶ紅絨毯の脇にも、今は誰一人として人影がない。
無論、その先の玉座も同様に。
「…………」
詫び寂しさの漂う室内を見渡して、細身の魔道士は無言のまま、片手で眼鏡を押し上げた。
最奥の壁に飾られた【風天】を称する旗に対し、今は相見えることが出来ない人物を思い浮かべ、敬意を表するように一礼。静かに踵を返すと退室した。
コツ、コツ、コツ――と無機質な足音が回廊に高く木霊する。
時たまリズムが乱れるのは、その手に持った大きな杖で地面を叩く音だ。
男はそのまま城を出ると、巨大な門を潜り、雑多な印象を受ける街を一人歩く。
通りすがる家々の扉はどこも固く閉ざされ、通りを行き交う住民も見当たらない。《風魔国テンペスト》からは、人の住む気配が完全に消失していた。
その代わりに、細身の魔道士が向かう先。
街を囲う背丈の高い岩壁の正面に設置された大門からは、荒い息遣いと蠢く足音、濃厚な殺気が発せられている。
細身の魔道士が近づくと、巨大な扉の前に恭しく畏まる黒装束の人物が見えた。
片膝をつき頭を下げるその黒ずくめの人物に、細身の魔道士は腹の底に響くような低い声で問いかける。
「これが最後の確認です……魔王様は、オラージュ様の行方は……?」
「恐れながら、魔王様の捜索に関しての進捗状況は芳しくございません」
「そうですか……わかりました、下がりなさい」
事務的な声色で返ってきたのは、想定内の内容であり、同時に細身の魔道士の頭をひどく悩ませるものだった。とはいったものの、既に事は静観しているだけでは収まらない。
巨大な扉を抜けると、そこには何万もの歪な魔物達が列を成して待機していた。
体格が数倍から何十倍とある彼らの間を歩いて通り過ぎる度に、闘志に溢れた視線が集うのがわかる。
「おぉ、来たカ! 儂は待ちくたびれたゾ! 早く《ヒースヴァルム》を火の海にしてやりたくテ、筋肉のうずうずが治まらヌ!! 早く向かイ、オラージュ様を助け出そうゾ!!」
大群の先頭。
屈強な全身鎧を身につけた鳥頭の大男が、猛々しく吠えた。
細身の魔道士は、《風魔国テンペスト》の参謀は一つ溜息を吐く。
次に面を上げたその顔貌は、その場の誰よりも鋭い殺意に溢れていて。
光り輝く杖を掲げ、腹の底から叫んだ。
「――戦争だッ!! 憎き【炎龍王】の卑劣な檻から、オラージュ様を我らの手で取り戻す! 全軍ッ、進めぇええッッ!!」
時系列的に第40話の末尾をこの話の最後に移動しました。ご了承下さい。
一章もそろそろ佳境に入ってきますので、今後ともよろしくお願いします。




