第40話:離別の日、君がくれた名は
この種へと至った個体は、例外なく強大な力を得る。
そして災害よりも恐ろしい害を齎す。
原戒種にまで登り詰めれば世界規模で討伐隊が組まれ、禍殃種やその上位の種は、発見次第早期に芽を摘むことが必須だと誰もが教わって大人になる。
まさに世界の敵、言うなれば『神薙教』と同列の害悪さなのだ。
「――殺そゥ、主ィ」
多分。
世界で一番、痛くて辛い静寂が破られた第一声は、そんな容赦の欠片もない棘だらけの言葉だった。極当たり前のことを当たり前に成すような、静かな声で。
「っ……う、嘘っ、嘘よねッ!? 私は信じないんだから!? そうよ! きっとこれは、何か悪い夢でも見てるんだわ! じゃないと、そうじゃないとっ! エロ騎士が、禍殃種だなんて……ッ!?」
堰を切ったように取り乱し始めるのは、僕が超克種、所謂『正』の系統へ進化すると信じて疑っていなかったご主人様――エルウェだ。
白いヴェールのかかった薄緑の髪を乱雑に掻きむしるその異様な姿は、前にも目にしたことがある。
《ラズマリータの街》で原戒種の話題を出したときと同じだ。
そしてそこまでの拒絶反応を示す理由は、全ての元凶である【暴食】のグラトニーが原戒種に属する眷属を使役して、エルウェとフラム先輩の命を脅かしたから。
――それなのに。
「何で、僕が――禍殃種……なんかに……?」
他の誰でもなく、僕自身が道を外れた種族に堕ちてしまうなんて。
何よりも大好きなエルウェにとって、何よりも忌み嫌う存在になってしまうなんて。なんてひどい、ひどすぎる業なのだろうか。
進化を遂げた自分の白金の鎧を愕然と見下ろし、その事態の深刻さに手が脚が震えていることに気づいた。まずい、まずすぎるだろそれは。フラム先輩がどうのこうのと言う前に、まず自分の立場が危う過ぎる。
「ちゃんと現実を見ろ主ィ! こいつは紛う事なき禍殃種だ、今より世界そのものの敵になったンだァ! もちろンそれはオレ達の敵でもあるってことだろうがァッ!?」
平静さを失ったエルウェを大声で怒鳴りつけるフラム先輩。
鬼の形相と化した彼が僕を始末しようとするのは、ややこしい私情を抜きにしても無理はない。避けられない、誰もが当然視する純然たる顛末なのだ。
「っ…………」
言い訳のしようなんて、これっぽっちもなかった。
怒らせた四脚で僕の前に歩み寄り、鋭く吊り上げた眦で睨めつけてくるフラム先輩を見下ろす。自分でもどんな顔をしているのかわからなかった。いや、元々鎧に表情なんてないんだけれど。
「ま、待ってよフラム!? それは、そうだけどっ! エロ騎士は、エロ騎士でっ……殺すなんて、そんなこと……ッ!? だからっ、きっと大丈夫よ! そう、そうよね!? この子は種の本能なんかに、呑まれたりなんかしないんだからっ!?」
あまりの事態に頭の回転が追いついていないのか、今にも襲いかかってきそうなフラム先輩をエルウェが必死に宥める。しかしフラム先輩は耳を貸さず、その矮躯に轟と橙色の焔を纏った。
「いやァ、オレ達だからこそ、ここでこいつを始末しなくちゃならねェ……主は二年前ェ、【暴食】の眷属に受けた傷を忘れたのかァ?」
「――ッ……そ、れは……」
一度ビクリと肩を揺すぶると、次には消沈したように落とした。
現実を遠ざけようと塞ぎ込むエルウェの目の色が、昏く濁ってゆく。
「主の父親を殺しィ、故郷を滅ぼしたのもォ、原戒種に連なる魔物だったんじゃねぇのかァ!?」
「っっ……ぉとうさん……?」
透き通った水底が遠のいていく。泥沼へと変貌してゆく。
記憶の底に眠る恨み辛みが渦を巻くように、彼女の美しい白水晶の瞳は徐々に輝きを失ってゆく。
「――? ま、待ってよ……これは、何かの間違いで……っ」
僕は些細な違和感を感じながらも、彼女の側を離れたくない一心で訥々と言い訳になっていない釈明を連ねる。口をついて出てくるのは縋るような言葉、僕から言えることはほとんど何もない。
それでも、それでも! それでも!!
「母親だってそのせいで死んだも同然だろうがァ!? なのにこいつだからって許すのかァ!? 許されていいのかァ!? どうなんだ主ィッ!?」
「…………ぉ、かぁさん……ぉにぃちゃん……ぃや、いや、いやいやいやいやいやいやいやぁあぁあぁあ……ッ!?」
勘違いじゃなく、やはり小さな突っかかりを感じる。
何だ? 何かがおかしい。やけに他人行儀な言い方だからか……?
でも今はそれどころじゃない。
早急にこの事態をどうにかしなくては、このままだと疑う余地もなく殺される――そんなの嫌だ! 僕はまだ生きていたい、生きてエルウェと一緒にいたいんだ!!
「待ってってば! ねぇ、エルウェならわかってくれるでしょ!? 僕は何になろうと僕だ! エルウェのことが何よりも大好きな眷属だ! それは変わってない! この先だって絶対に変わらないから!! お願いだよ、ねぇっ、エルウェッ!?」
虚しい叫びが開けた森の戦闘跡地に木霊する。
何をいってもからぶっている気しかしない。エルウェの表情も昏くなる一方だ。
それでも黙っていては、悪化の一途を辿るだけ。
今のフラム先輩に何を言っても無駄だ。どうにかエルウェとの間に築いた絆に縋って語りかけるも、先の恐喝とは一転し、囁くように言ったフラム先輩の言葉がとどめだった。
「……どの道ィ、いずれこいつは世界から消される運命なンだ。せめてオレ達の手で、楽に終わらせてやろゥ……なァ、主ィ?」
その次の瞬間には。
「っ……ねぇエルウェ! 僕はこの目で見たんだ! フラム先輩は隠し事をしてる! さっきだって青の炎をっ、あれはアンデ――ぅあッ!?」
先端に盛る炎が灯った尻尾が胴体に巻き付き、重力とは反する方向へと猛烈な勢いで引っ張られる。躊躇なく宙へと投げ出された僕は、空気の層を突き破る圧と浮遊感を肌で感じながら、流れる景色の中でエルウェとフラム先輩を、実に憐れな表情で見据えた。
心から信頼を寄せていた主と友の瞳には、既に。
優しい光は、灯っていなくて――
「…………そう、ね――――殺して、フラム」
「――あァ、主が願うままにィ」
ミシミシミシィ――と。
巨影が過る。右側面から、全身鎧に亀裂が奔る音がした。
「『伸縮自在の火鞭』」
例えるなら、煩わしく飛び回る小虫を巨大な棍棒で叩き落とすような。
そんなスケールのぶっ飛んだ威力と衝撃に、僕は黒い尾を引く彗星の如く吹っ飛んだ。空気を引き裂く重音が耳を聾し、息もできないほど歪に軋む軋む軋む。
金属の砲弾となった僕は焼失した森の境界線に聳える巨木に突っ込み、多大な噴煙を巻き上げて静止した。激しい空気との摩擦に熱を帯びた鎧からは湯気が上がる。
「ぅ……ぁあ……ぐッ……?」
体積の数百倍はあるような、超重量の尻尾でぶん殴られたのだ。
痛いなんてもんじゃなく、感覚すらなくなって。身体がぴくりとも動かない。
やけに眩しい光に照らされて、見上げた先。
爆風で吹き飛んだせいで垣間見えていた最後の青空を、厚い曇天が今にも覆い隠そうとしていた。
鈍色の世界に差し込む光の柱は、僕を中心として徐々に細くなってゆく。
「ぁぐ……や、めろ、よ……お迎え、なんかッ……いらなぃッ! 僕は、まだ、何も、まだ…………あぁ。でも、もう、疲、れたかも……僕の、物語は案外、これで……へへっ、いいのかも、しれな、いなぁ……?」
僕はもう、起き上がる力がないどころか、その気力すら残っていなくて。
首だけを幹にもたれかけさせ、仰向けになっていた僕のひび割れた視界。向かい側から一人の少女とその眷属が歩んできていた。
彼女は俯いたまま、途切れ途切れに口を開く。
「ねぇ、エロ騎士……私ね、本契約を執り行う時に、あなたに名前をつけてあげようって……そう思ってたの。でも、こんなことになっちゃって。私、どうしたらいいのかわからなくて……ッ!! でも、でもね、あなたのために考えた、この名前だけは……最後にあげたいって思うっ、からぁ……っ!」
最後の方は、嗚咽混じりの苦しげな声だった。
こんな状況だというのに、エルウェを慰めてあげたい衝動に駆られた。何を馬鹿な、と戒める。彼女にそんな顔をさせているのは誰だ――この、僕だ。
彼女を裏切り、彼女を泣かせ、彼女に嫌われ。
世界からも疎まれ、運命すらも誑かされた。
「…………ごめん、ね……エル、ウェ……ご、めん……」
もう、完全に。抵抗する気は失せていた。
完膚なきまでに、心はへし折られていた。
慰めることすら叶わないから、誠心誠意謝るしかない。
為すがまま、為されるがままに。この命、もったいぶっても仕方がない。
この『人外』としての鎧生に終止符を打ってくれるのが、旅の目的とし求めて止まなかった『少女』だとは、些か皮肉めいているけれど。
「まぁ……? 僕らしい、っちゃ、僕、らしいし、なぁ……?」
僕を殺すのが、他の誰でもなく、彼女だから……エルウェ・スノードロップだから。そう考えることが出来れば、僕のちっぽけな鎧生にも少しは華があるってものだ。
「りがとぉ……今、まで……あり、がとぅ……」
「っっ…………」
不思議と、無意識に口をついて出るのは感謝の言葉だった。
エルウェは目元に溜まる涙をこぼすまいと、口を引き結び斜め上を仰ぐ。複雑極まりない感情が吹き荒んでいるのか、その拳はわなないていた。
「ぼく、ね……君の、ことが、エルウェのことが――大好き、だったよ……」
「~~~~~~~~っっ」
恥ずかしげな台詞だって、今ならいくらでも言える気がした。
エルウェはもう、涙を隠せていないどころか、ぼろぼろと溢れ出た雫が頬を伝って顎で渋滞し、きらきら輝く涙の宝石が地面に飛び散っていた。
「聞い、てっ……あなたのっ、あなたの名前は、ね……?」
フラム先輩は、嗚咽を漏らすエルウェの横で静観している。
本当は彼が死霊種だって伝えたい。けれど今となっては、何もかもがどうでもいいか。エルウェは一度大きく息を吸うと、涙混じりの声で訴えてくる。
「ぼ、くの……名は……?」
聞き返す。そう、ようやくだ。
ようやく『名』をもらえるんだ。
それがこれから死ぬ者への手向けだとは言え、ずっとずっと欲しかった僕の名前。エルウェにつけてもらえる日を待って待って待ち望んで……やっと、今日。
「あなたの名前は――――『レイリア』」
「――――」
鈍く鋭く響き始めた痛みが、その瞬間だけはなくなった。
春風が鎧の隙間を吹き抜けていくような、すごく良い心地がしたんだ。
「レイリアよ、あなたの名前は、レイリア。私の、レイリア。レイリア、レイリアレイリアレイリアぁあ……ごめんねっ、ごめんねぇえレイリアぁ……ッッ!?」
何度も何度も。その名を呼ばれる度に、心が軽くなった。
柵がほどけ、底に溜まっていた憤懣が溶けて消えて。代わりにこれとない充足感が満ちていく。もっとその名を呼んで欲しい。そう思ってしまう。
「レイ、リア……かぁ……」
エルウェがぎこちない動作で腰に佩いていた短剣を抜き放つ。
豊満な胸の前に大事そうに掲げた短剣は、エルウェの魔力を吸うように眩い光を発し始めた。左手の親指を薄く裂き、透き通った刀身に掘られた葉脈のような溝に彼女の血が通い、その短剣はさらに多くの魔素を吹き出す。
美少女が血の滴る短剣を持って、その周囲を幾千の光が包み込む。
飛び交う蝶を象った魔素が、いっそう幻想的で。可愛いから、やっぱり絵になるなぁ……なんて、最後までそんな事を考えていた僕は、少しだけ笑うことができた。
「いい、名前だね……へへ、気に入ったよ……僕……」
そして。
離別の為の短剣は、僕の胸へ。
太陽とドラゴンの紋様が描かれた、心臓に――ス、と音もなく突き刺さった。
「さようなら――私の可愛い、レイリア」
天から注ぐ日差しの筋は、光を失った僕の兜を最後に照らして。
世界は、灰色に包まれた。




