4話
体の節々の痛みを宥めつつ闘技場から出て行くと、疲れた足取りのまま宴会場へと戻る。誰も居なくなった宴会場では皿の上に食い散らかされて残った食事と飲み掛けの酒が散乱していた。
「どっこいしょ……っと」
適当な椅子に腰掛けると皿の上に残されたトマトを見つけて齧った。瑞々しさと甘味が何よりも癒してくれた。
ふと眼前で小突くような物音が聞こえ、顔を上げるとそこでは机の上に乗った鶏が余った食事を啄ばんでいた。
「さっきはありがとな。ほらこれ返すぜ」
鶏に話しかけ、持っていたレーヴァテインを手渡す。しかし鶏は差し出されたそれをみて静かに首を振ると「持っていろ」と告げるように顎を杓った。
「そうか。ところで何でこんなところに居るんだ? ……って聞いても仕方ないか」
「それは貴様の祖父が私の父の恩人だからだ」
「そうか……ん?」
突如鶏の口の方から聞こえた美声に周囲を見回す。しかしその場には誰も居らず、目の前の鶏しかいない。耳がおかしくなったと自己診断を下す前に鶏は話を続けた。
「かつて父はある神の女性と共にこの地を去り、ミズガルズへと訪れた。しかし異国人の風貌である女性はミズガルズでは受け入れられず差別と迫害をその身に受けた」
「……ちょっと殴られすぎたか俺?」
鶏が発しているとは思えないほど通る声とインテリジェンスな口調に気圧されながらもその話を聞く。
「だが貴様の祖父である新田善次郎は違った。行き場のない我々に衣食住を提供し、分け隔てなく接する慈愛の心に満ちた存在だった。女性と我が父はその場に留まり、女性は新田善次郎の伴侶となり共に過ごすことを決めた」
「ばあちゃんもあいつらと同じ存在だったのか」
「その後、私の父も伴侶となる相手を見つけ、生まれたのが私だ」
「長生きなんだな」
「当然だ。私とて神話の存在の血を引くものだからな」
鶏はさらりと告げると残った酒を少し口に含んでから再び話を続けた。
「此度の茶番に身を投じたのは、貴様の姿がかつて父から耳にした新田善次郎の姿が重なったからだ。その剣は父がいない今、私が持っていても仕方あるまい。貴様にくれてやる。役には立つだろう……ではさらばだ!」
鶏は大きく翼を広げるとその場から跳び、僅かな間バタバタと浮かぶと地面に着地し、そのまま足早に走り去っていった。
暫くして今度は速い歩調の足音と共に金髪の少女、トールが心配した顔で現れた。
「……探したぞ! 何故こんなところにおる!」
「他に場所を知らないからな」
「怪我は無いか? 大丈夫か?」
「痣と打撲くらいだ」
「そうか……」
トールはその豊満な胸を安堵で撫で下ろすと、その赤い瞳で邦弘を見つめた。
「一つ聞きたい。何故、貴様はあれほどまで戦ってくれたのだ?」
「……男の子だから」
「そうか。ならば約束通り貴様をもとの世界へと送ろう」
「ああ、そうしてくれ」
トールがその場で金槌、ミョルニルを掲げると上空に巨大な雷雲が吹き荒れ、次第に筒のような中心に穴が開いた形に変容していく。
「では今からミズガルズへと送る」
「おっと、言い忘れてた」
「どうした?」
「火事から助けてくれたことだ。ありがとな」
「いや、こちらとて様々なことに巻き込んでしまった。すまん」
「気にするな。良い思いもしたからな」
アースガルドでは様々な出来事があった。ベッドの上での濃密なキスに蜜酒の口移し。巨人との大喧嘩に喋る鶏、じいちゃんの過去も知ることが出来た。
その殆どが巻き込まれ振り回されるばかりの出来事だったが、それでもこうしてトールと話しているのだから決して嫌なことではなかったのだと今頃になって実感する。……とは言えガチムチ共の口移しは早めに忘れたい。
雷雲の渦が回転速度を増し、帯電する稲妻がバチバチと轟く。トールのこれが何なのかは一切わからないがまるで出発を急かしているようにも感じた。
「暇なときは来てもいいぜ。部屋も余ってるし、一応夫婦って扱いだしな」
「うむ。伺わせて貰おう!」
「じゃあな」
「また会おう……クニヒロ!」
トールが名を呼ぶと同時に雷が直撃し、邦弘の身体を雷雲の中へと吸い込んでいく。誰も居なくなったその場でトールは静かに胸の前で拳を握った。
「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀……」
燃え落ちて墨の瓦礫と化した廃墟の前で何人かの喪服を着た村人が坊主の念仏に合わせて合掌する。その参列者の中には邦弘が助け出した子供達も混ざっていた。
念仏の中、一人一人が花を瓦礫の元へと供えていく。遺体は見つかっておらず、豪華と不可思議な雷によって焼けたのか、それとも瓦礫の下に埋まっているとのことである。
参列者の悲しみに同調するかのように暗雲が空を覆い、しとしとと小雨が降り注いだ。誰もが花を手向けてその場を後にしようとする時、雷による轟音が鳴り響いた。
「おっちゃん……ごめんなさい」
子供の一人が瓦礫に向かって謝罪の言葉を残し、立ち去ろうとした時、がたんと瓦礫の中から音がした。大人は瓦礫が崩れたのだと気にも留めなかったが、子供はじっとその音の方向へと目を向けた。
「……で同じ場所にするんだ。あいつは」
しとしとと降る雨と距離が離れたからかはっきりとは聞き取れなかったが、人の声が聞こえ、少年はその方向から目を離せなくなっていた。
瓦礫の中から少しずつ近付いてくるそれは灰と墨を被り、白と黒のコントラストを不気味に纏った人影だった。
「ぺっぺっ、家帰ったら風呂沸かさないとな……おっ、よう。元気か?」
「ぎゃあああああああっ!!」
少年は邦弘の姿を見ると絶叫し、その場から走り出した。その声を聞いた大人達も振り返って邦弘を見ると同様に悲鳴を上げた。
こうして暫くの間、村では火事で死に損なった青年が今でも彷徨っているという怪談が作られることとなり、村の子供が廃墟に近付く事はなくなったという。
俺が生きているという話はすぐに広まり(むしろ広まってくれないと困るが)周囲の人間から何故助かったのかを尋ねられたが神話の世界の出来事を話すわけにもいかず、良く覚えていない。という形で何とか収まりはついた。
静まり返った家に帰ると唯一の同居人であった鶏の姿は無く、置き土産としてなのか卵が三つ置いてあった。今になって思えばあの鶏のおかげで助かったのだが、あの鶏は卵を産めなくなったらから揚げにする予定でいたから、これでその機会は失われたわけだ。
よくよく考えれば二回も虚偽の冠婚葬祭を行ったことになるが、今となっては人に話せないが良い笑い話だ。別れ際にはトールとも案外名残惜しさがあってそれっぽい雰囲気を作れたのだから、まあ良いだろう。
帰宅後、残っていた仕事を片付けると完成品を梱包し、発注元へ送る準備を済まして小屋から出ると風呂に浸かった。全身に痣や打撲の後が残っていたがしばらくすれば消えるだろうし、火事から助かったのに無傷では疑問があるが、この痣のおかげで納得させることはできた。
衣服に関してだがトールによって捨てられ、火事の際着ていた服と今の服では違うが、その違いを知っているのは火事の際に外に居た一人の子供だけだからその辺は誤魔化せるだろう。
濃厚な一日を振り返りつつも、その疲労に誘われながら独り静かに布団へと入っていった。
翌朝。窓から射す穏やかな朝日が目覚まし代わりとなり目覚める。前日の疲れが布団へ引き戻そうとしたが、それを振り払い煎餅布団から身を起こす。
軽く首を回し、大きな欠伸をする。重い目蓋を引き摺りながらはふと自身の布団に不自然な膨らみを目にし、首を傾げる。
「あん?」
怪訝な表情を浮かべて布団を捲って確認するとその正体を見て全身が硬直した。辛うじて目蓋だけはぎこちなく開閉していたが、その正体から目を放せないでいた。
「むう……もう朝なのか……」
「え、は?」
布団に居た相手はどこから手に入れたのか、肩幅に合わないTシャツを着用し、その豊満な胸が布地を張っていた。その下は短パンのみという寝巻きに相応しいラフな格好ではあるが、童貞である邦弘には刺激が強すぎた。
ウェーブの掛かった金髪はところどころ跳ねており、赤い瞳も眠気を感じさせる。相手は動揺する邦弘を無視して布団から起き上がると小首を傾げた。
「どうしたのだ、そんな呆けた顔をして?」
「なんでここに、いや、俺の布団にいるんだ!?」
頭から煙が上がりそうなほどに混乱しながらも問う。頭の中では一晩の過ち、責任、避妊と様々な単語が浮かび上がるがそんな経験をした覚えは一切無い。
「何を言うのだ。いつでもこいと招いたのはクニヒロ、貴様だろう?」
「確かにそうは言ったが、あんたは自由がどうとか言ってただろうが!」
「うむ。貴様の助力により我は自由だ。であるからこそ貴様の家へ参ったのだ!」
にかりと屈託無く笑って告げるトールを目にし、混乱が一層増す。理屈はわかったが理由がわからん。
「よし。朴念仁の貴様にもわかるように告げてやろう。我は貴様のことを気に入ったのだ! 勿論これまではライクであったが、その、昨日の闘技場での貴様の宣言を思い返す度な……」
「……あれか」
これまで良くも悪くも豪快で感嘆符が後に付くような口調だったトールが、顔を仄かに赤くさせて歯切れを悪くさせて言い澱む。
闘技場での宣言と聞いて頭に浮かぶのは白ゴリラを叩きのめした時、分泌する興奮物質と確信した勝利に滾っていた。だからこそ柄にも無く「俺が誰か言ってみろ」と世紀末救世主の偽者のような発言をしてしまった。
「というわけで、我が嫁クニヒロよ。暫く世話になるぞ!」
何がというわけなのか、一切理解できなかったがこの豪胆なトールにそれを説いても仕方が無い。
しかしこの家はじいちゃんも死んで鶏も居なくなってしまったのだから一人で使うには広すぎて寂しい。ならば神話の世界の住人をホームステイさせても良いかもしれない。
だが……。
「一つ言いたいことがある」
「何だ?」
「普通男性は嫁じゃない、婿だ」
「ならば女性が嫁なのか?」
「ああ」
「そうなのか。ならばクニヒロ、貴様の嫁は誰だ?」
ふふんとどこか意地の悪い笑みを浮かべながらトールは尋ねる。それが先程も言っていた宣言を意識していることは容易に受け取れた。
羞恥心が腹の底から湧き上がりつつも、笑みを浮かべるトールへ向かって応える。
「――北欧神話の雷神、トールが俺の嫁だ」と。
ソーよりキャプテンの方が好き。