第17話 「魔王ミハイル・セドワ」
【魔大陸・西部スタブロクライ】
王が逗留する仮宅に伝令を飛ばしたのはほんの5分ほど前。
直線距離にして10kmも離れていない。
だが、先ほどから周囲はピリピリとした空気が張り詰めている。
「魔王」ミハイル来訪のタイミングが不明だからだ。
ならば、常に緊張して待っていれば良い、と現在の在り様となっている。
隊列を組み、整列した魔族の数、およそ80騎。
人間と似ている者もいれば、どこかで見たような魔物に似た者もいる。四本足の魔物すら。
ただ、いずれにも共通するのは、圧倒的な存在感と、高い戦闘力である。
それこそ、高位魔族の証明。
彼らを率い、ミハイル・セドワが魔大陸を平定したのは、魔神暦6118年。コーカ暦なら1721年。
ミハイル・セドワが魔大陸に天降りした後、魔王となるまでに要した期間、わずか4年半。
獅子王種の子として生まれたミハイル、旧名リオは彼が16歳の成人の日、天降りの儀の際、突如覚醒する。
彼は名をミハイル・セドワと改めると、すぐに軍を組織し、息つく間もなく各地の豪族たちを潰していった。
「ミハイル陛下こそ、魔大陸史上最強の魔王である」とは歴史学者ヘロストスの言。
魔窟守であるガスパがこの仕事に就いておよそ20年。
その間、伝令のハルピュイアを飛ばしたことなど一度もない。
魔王ミハイル・セドワの治世の元、100年近く平和な世が続いているからだ。
魔族の中でも飛ぶことに特化したハルピュイア種は、本来なら肋骨が浮くほど痩せているのが常だが、この魔窟に待機するハルピュイアの場合、でっぷりと贅肉を溜め込んでいた。
お陰で、昨晩伝令に飛ばした際には、「風に落トサレテ死ンダら、お前ヲ恨ンデやル!」とガスパに捨て台詞を吐く始末である。
「(あの馬鹿鳥め、陛下に仰せつかった仕事を何だと思っているのだ)」
それほどに西部方面、特にこの町の守備は暇だったのだ。
だが、それも一昨日、猿王種の死体が送られて来た時まで。
しかもその翌日、つまり昨日のことだが、子猿の死体が大量に届くに至っては、町は蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。
地名はスタブロクライ。
魔大陸において、「クライ」と呼ばれる地域単位の中でも西部の端に位置し、本来なら特に何もない辺境である。
『どうして陛下は何もない場所にまで名前を付けるのか』
と当時は誰もが疑問に思ったものだ。
それがこの騒ぎ。
魔窟『死猿』周辺には噂を聞きつけた魔族が、「魔王」ミハイルを間近で一目見ようと続々と集結していた。
「魔王」ミハイルを信仰する者たちからは、魔神の生まれ変わりとさえ言われている王である。
人気のほどが窺い知れよう。
「(しかし、未だ役目も完全には果たしておらんと言うのにこの騒ぎか……。はぁ……)」
ガスパが大きく息を吐く。
魔窟『死猿』。
名称通り、この魔窟は猿王種の死体のみが時折送られてくる、かなり特殊な魔窟である。
しかし、それだけでは魔窟『死猿』の特殊性の説明にはならない。
『死猿』の特殊性は、魔窟自体は全く魔力を集めない点にある。
自身で魔力を集めないので、当然、成長することも、階層を作ることもない。
つまり、魔窟とは言っても、単なる転移板のような、何とも奇妙な魔窟なのだ。
その為、『死猿』の魔窟守ははっきり言って閑職である。
にも関わらず、魔族の中でも特に「魔人」と呼ばれ、優秀な個体であるガスパが『死猿』の魔窟守に任命されたのには二つの理由がある。
一つは、「魔王」ミハイルが魔窟『死猿』に大変な興味を示したからだ。
約50年ほど前に『死猿』を発見したある魔族は、北部ペルミアクライの町で、王より下賜された財により、今尚、裕福に暮らしているという。
二つ目の理由。
「魔人」ガスパがスキル『完全記憶』を持っていたからだ。
『ガスパ、お前のスキル「完全記憶」を余の為に役立てよ』
その時、ガスパは生まれて初めて、全身が歓喜に震えた。
思い出しただけでも、頬の肉が緩み、牙を剥いてしまいそうであった。あの日のことを思い出し、何度、満たされた気分を反芻したことか。
ガスパには「魔王」ミハイルより、直接役目が与えられた。
それは、『死猿』が猿王種の死体を召喚する際、祭壇(のような台)に一瞬だけ現れる「転移魔法陣」を記憶すること。
言葉にすれば簡単だが、実際に記憶するとなると、並大抵のことではない。
現に、ガスパは約20年この役に就いているが、一昨日までに記憶した魔法陣は全体の15%ほどである。
『余が「完全記憶」を持っておれば一番なのだが、条件が不明で、どうやっても取得できぬ。余には才がないのだろう』
『滅相もございません』
『しかし、余の「時限記録」で、フレーム数は判明している。転移魔法陣が出現する時間は2フレームだ。たった2フレームな上、交代要員が見付からず、苦労をかけるが、任に励んで欲しい』
『ははッ! この命に代えましてもッ!』
2フレームとは、60分の2秒。
いくらガスパが『完全記憶』を持っていようと、いつ出現するかも分からないのに、突然現れる直径2m近い魔法陣を、わずか60分の2秒で記憶することは不可能だ。
当時のガスパの『完全記憶』のレベルは2。
だが、もし、いつ転移してくるか、およその傾向が絞れれば?
実際、20年の間に『死猿』の解析はかなり進んでいる。
『(おそらく、猿にとっての「死者の為の祭壇」か何かなのだろう。猿にしてみれば、黄泉送りのつもりかも知れん)』
当初、「供物台」として利用している可能性も考えられたが、干からびた死体や、虫がたかっている死体が召喚されるにつけ、その可能性は無くなった。痛んだ死体を供物として捧げるのはおかしいからだ。
さらには――
『(送られてくる時間は14時から朝4時までの間。おそらく、猿たちの活動時間なのだ)』
この情報を報告した際には、喜んだ「魔王」ミハイルより褒美が届けられた。
ガスパには理解出来ないことだったが、ミハイルの側近から聞いた話だと、およその「時差」が判明したからだという。
魔王より送られた褒美を見たガスパの妻は周囲に夫のことを自慢して回った。ガスパとしては嬉しいやら恥ずかしいやら、何とも居心地の悪い思いをしたものだ。
「(猿のおよその活動時間が判明してから、10年以上が経つ。その後はなかなかチャンスが訪れなかったが……)」
今回は大きなチャンスである。
何しろ、二日連続で猿の死体が送られてきたからだ。
「(数から言って、戦争の可能性が高い。子猿が虐殺されたのだろう。戦争なら一日や二日では終わらない)」
つまり、今日も送られてくる可能性がある。
「(現在、魔法陣の記憶済みの箇所はおよそ40%。20年近く遅々として進まなかった「解析」が、たった二日で20%以上進捗したことになる。くふふふ)」
『何とか50%まで頑張ってくれ。50%を超えれば、後は余が「解析」で未解明部分を予測して組み上げてみせる』
「(おそらく陛下ならそれが可能だ。あの魔神の生まれ変わりと言われるお方なら……)」
こうして、昨晩のうちに仮宅へ移動していた魔王の元へ、伝令のハルピュイアを飛ばすことになり、ついに「魔王」ミハイルの『死猿』来訪となったのである。
「控えよ! ミハイル陛下の御なりである!」
旗持ちの声が周囲にビリビリと轟く。
『死猿』前に整列する近隣に住まう約80騎の高位魔族たちのさらに内側に、魔人近衛隊50騎が両サイドに分かれ整列する。
50騎全員が戦闘特化の「魔人」格。
その戦闘力はわずか3騎で、40m級の古代魔竜すら討つという。
居並ぶ威容は壮観である。
「「「「「おおおお!!!」」」」」
「魔王」ミハイルを一目見ようと集まった魔族たちから期せずして歓声が上がる。
ただし、彼らはなぜ「魔王」ミハイルがこの地を訪れたのかは良く分かっていない。
「おお、ガスパ! 久しいな!」
「魔王」ミハイル・セドワが八本足の魔馬、スレイプニルより飛び降りる。
スレイプニルは草食の馬型の魔物。体長は5mを超え、地竜並み。体重は4t以上。一本一本の肢が、人間ほどのサイズである。
「魔王」ミハイルの身長は約2m50cm。
手足が太く、毛は短めの獅子王種。
全身が赤黒く、角が耳の上に生えている。
黒いマントの背には赤く古代魔竜の脳天に剣が突き立てられた意匠が描かれている。魔王軍のシンボルである。
堂々たる体躯は、まさしく「魔王」であった。
「ははッ! 光栄に存じます!」
「固いわ! それよりも、早く案内せよ!」
◇
ミハイルの手元にあるのは約15%の転移魔法陣の写し。
一昨日までに記憶済みであった分である。
「そして、これが最新の写しか」
「はッ!」
「40%近いな。でかしたぞ、ガスパ」
「ありがたきお言葉!」
だが、「魔王」ミハイルの表情が明るかったのはここまで。
「……」
「(陛下はどうしたというのだ?)」
こうなると、ガスパとしても、不安で仕方がない。
20年前はわずかスキルレベル2であったガスパの『完全記憶』だが、現在ではスキルレベル7。
しかも、慎重を期して、記憶が曖昧な部分は最初から排除している。
つまり、写し自体に不備はない。
たっぷり、30分は写しと睨めっこをしていただろうか。
やがて顔を上げると、ミハイルが悔しそうな表情で言葉を吐き出した。
「ガスパ。良い知らせと悪い知らせがある。悪い方からいくが、ようは、この魔法陣は使えない」
「なっ! どういうことでしょうか?」
一瞬、ガスパが詰め寄ろうとした為、付きの近衛兵が反応するが、「魔王」ミハイル自らがそれを制する。
「うむ。王城に戻ったら、もっと時間を掛けて『解析』する予定だが、これは多分、受信側の魔法陣だ。余が予想していた、いわゆる召喚魔法陣ではない」
「受信側?」
「そうだ。『転移』するには、送信側と受信側が必要だということだ。で、この魔法陣は受信側の魔法陣となる。送信側の魔法陣が分からないと、『転移』は発動せぬ」
「な、なるほど。何となく理屈は分かりますが……。あっ、い、良い方の情報をお聞かせ下さい!」
ガスパは学者ではないので、それほど魔法陣に詳しいわけではなかったが、それでもミハイルの言っていることは理解できた。
「うむ。良い方も実は今言った通りだ。『転移』の仕組み自体は理解できた。受信側と送信側で別の魔法陣が必要だということだ。余もいくつかアイデアが浮かんだ。40%近い写しがあれば、残りはかなりの部分が予測可能だ。総当りで試す箇所もありそうだし、時間は掛かるがな。ガスパ、この部分を見よ」
ミハイルが写しの右端の一角を指し示す。
ガスパがまだ記憶が済んでいない部分で、空白になっている箇所だ。
「この部分が分かれば、余の予測と合わせて受信側の魔法陣は完成する」
「しかっ、しかし、受信側の魔法陣だけでは、『転移』の展開は不可能なのでは……?」
「まぁな。ただ、さっきも言った通り、予測は出来るのだ。受信側の魔法陣のパターンが分かれば、送信側も似たようなパターンになるはずだ。基本的には表と裏だからな」
「左様で、ございますか……」
「もう少し時間が掛かる、というだけで計画自体が頓挫したわけではない。案ずるな。お前は良い仕事をした」
「あ、ありがたきお言葉……」
「褒美を楽しみにしておれ、ガスパ! はははは! それと、あと2~3日は近隣の町を周ってみようと思う。この辺りはこんな機会でもなければ、訪れることもないからな。良い機会をくれたことに感謝するぞ」
「ありがたし……」
もし、猿たちが世界のどこかで戦をやっているのなら、死体はまだ送られてくる。
それも今日明日中に。
「魔王」ミハイルが知りたいと言った箇所を改めて確認する。
右端の部分。
ガスパはミハイルの後姿を見送りながら、命に代えても、転移魔法陣が浮かぶ一瞬を見逃さない覚悟を決めた。
◇◆◆◆◇
石が抜かれている?
猿たちが混乱する。
意味が分からないからだ。
石とは当然、魔核のことである。
魔物であることの証明であり、魂の在り処。
しかし、その存在こそ猿たちにとっても常識だが、猿たちに獲物となった魔物の魔核を有り難がる習慣はない。
だから捨てる。
食べられるものではないし、見た目は骨のようでもあるが、齧ったところで骨のように味が染み出すわけでもない。
ただ固いだけの白い石。
そういう認識だ。
周囲の石化したカルシウム分を研磨すれば複雑な光沢を示すが、当然、猿たちにそんな知識はない。
だが、リウドだけは直感――否、理解していた。
石のある位置、すなわち性器と肛門の間を中心に「猿王の力」が発動するのだと。
「石が抜かれた死体は死者の世界にハ送れナい」
「お、長、どウシテそんナことが分かルのだ?」
「分からん。だが、お前も心当たりがあるだろう。毛の色が変わると、俺たちは賢くなる」
「黒毛の王になっタかラ分かッタ……ノカ?」
「多分な」
クラドが興味を惹かれた理由は、単純に知的好奇心からだろう。
だが、他の猿たちも同じだとは限らない。
「マサカ、人間タちハ俺タチが死んデモ……、死者ノ世界に……送レナイように石ヲ抜イタ?」
「死者の世界ニ行ケナケレバ、死んダ俺タチの魂は山ヲ彷徨ったママなのカ?」
白猿たちの体毛がざわりと総毛立つ。
「ソンナ……」
「許サレルのか? ソンナことが……」
仲間の死体を冒涜したことへの怒り。
それとともに湧き上がるのは、人間たちへの恐怖。
「悪意」の存在。
もちろん、人間たちにしてみれば、魔核が有用だから抜いたに過ぎない。
猿王種の魔核ともなれば、子猿であってもその辺のオーガの魔核などより余程価値がある。まして、成体の魔核なら。
肉や毛皮は手間や重量の問題で諦めても、腹を割いて、腕を突っ込めば抜き取れる魔核を放置するなど、冒険者としてはあり得ない。
もっとも、今回の場合、冒険者たちは撤退のタイミングが急だった為、子猿の魔核は諦め、雌猿の魔核だけを抜いたようだが。
そのことが猿たちを余計に混乱させる結果となったようだ。
魔核には死者を死者の世界に送る力がある。
つまり、価値がある。
もしかすると、他にも利用方法があるのかも知れない。
だから人間は魔核を抜き去った。
石を抜いたのにはきっと理由があるのだ。
人間は賢いので、おそらくは魔核の利用方法を知っているのだと。
そのことをリウドとクラドは即座に理解した。
だが、他の猿たちにそこまでの理解力を要求するのは酷だろう。
他の猿たちは、単純に人間の「悪意」と受け取った。
「ムチャクチャだ」
「人間は狂ッテイル……」
食べる為ではなく、猿を殺したいから殺す。
それだけでも恐ろしいのに、死体から石を抜き取り、死者の世界へ送れないようにするという非道。
その行動原理は邪悪そのものだ。
20数頭の猿たちが、人間への恐怖と、寄る辺のない怒りを持て余し、震えている。
やがて、一頭、また一頭とリウドへ縋るような視線を向ける。
王よ、何か言ってくれと。
リウドにもそれが痛いほど伝わっていた。
だが、何と応えれば良いのか。
この明日のない群れをどう率いれば良いのか。
「森王を討とう」
白猿たちの目が大きく見開かれる。
食糧など腐るほどある。
森王を狩ることと、食糧の多寡は何の関係もない。
食べる為に狩るのではない。
証明するのだ。
山岳の王たる猿王種の威を示すのだ。
いずれ、また人間が攻めてくるだろう。
だが、それまではせめて山岳の王らしく。
リウドは「秘密袋」に大事にしまっている絵本のタイトルを思い出していた。
もしかしたら今なら一冊丸々読めるかも知れない。
ふとそんな気がした。
『勇者ジョージの竜退治』
表紙には、弱い人間がたった一頭で竜に向かっている絵が描かれていた。
リウドの脳裏に記憶が鮮明に蘇る。
文字どころではない。
シワや汚れの一つ一つまで鮮明に。
急に頭が良くなったような気がする。
やはり毛の色と賢くなることは関係があるのだ。
そうだ。
あのリィーンという、何とも言えず心地の良い音。
あれは賢くなった時になる音なのだ。
リウドは自身が一体どれほど賢くなったのだろうかと考える。
「リュウを討とう。俺たちなら討てる」
何の為に?
無意味は問いだ。
そんな問いなど、今の猿たちには不要のものだ。
理由があろうと無かろうと、今の猿たちには何の意味もないのだから。
生きるために生き、内より湧き出る本能の赴くままに生きた。
その結果、絶滅する。
「(何だ、俺たちには最初から理由などなかったのだ)」




