第9話 「お前たちを狩る人間」
リウドはある種の戸惑いを感じていた。
「なぜ、彼らは逃げない……?」
おそらくはそれが「狩り」ではない、「戦」の本質。
熱狂の中、群れの猿たちが縦横に人間たちを蹂躙している。
もちろん、恐怖で固まっている者もいれば、中にはいち早く逃げ出す者もいる。
強者と弱者の関係。
雪深い山脈でよく見る光景だ。
だが、本隊は残っている。
彼らは逃げるどころか、弱く遅い武器で、果敢に攻めてくる。
倒されても、倒されても、次から次に攻めてくるのだ。
リウドはただ腕を組んでその様子を見ていた。時折、群れの猿たちに指示を出す。簡単な指示ではあるが、若い猿だけではなく、年長の猿たちもリウドの言うことを良く聞いた。
だからだろうか、遠めに人間の動きがつぶさに見て取れた。
それはリウドをして、どう考えても異様な光景であった。
なぜ、彼らは敵わない相手を前に逃げないのか。
彼らが馬鹿なはずはない。
人間の作った精緻を極めた、巧妙な道具の数々。
馬鹿に作れるはずがない。
それなのに、どうして生きと死生ける者全てにとって最も簡単であろう、強さ弱さが理解出来ないのか。
若い猿たちはもちろん、途中で合流したゴドウたち灰猿たちも気付いていない。ただただ熱狂の中、四肢を駆使し、丸太を振るい、拾った剣や槍を振るばかり。
体当たりを受け、その衝撃でショック死する者。足首を握られ、振り回される者。首や手足があらぬ方向を向いて絶命している者。
何と弱々しい生物か。
ゴテゴテと身に纏った鎧は、弱さを強調する為の装飾にすら感じられた。
リウドが子猿の頃遭遇した人間たち。ラモン村の人間たち。そしてまた今日、この場で遭遇した人間たち。
皆、一様に弱い。
100よりももっと大きい数の人間たち。
これだけの数のホワイトタイガーに囲まれたら、到底、勝ち目は無いだろう。
自分たちならきっと逃げる。
当たり前だ。
勝てないのに戦う意味がない。例えどんなに強い相手だろうと、逃げれば、生き残る可能性がある。
その可能性に賭けなかったこいつらは馬鹿なのだ。
それなのに、なぜ――
なぜ、足が震えるのか――
それはある確信。
足元に転がる人間の死体。
首が折れ、口から血のあぶくを吹いている。
彼が死ぬまで逃げなかったのはなぜか。きっと逃げない理由があったはずなのだ。
それは何だ?
それこそ、自分たちから全てを奪うものではないか?
「追えッ! 一頭も逃がすなッ!」
何かを振り払うかのように、思わずリウドは叫んでいた。
夥しい数の人間の肉が手に入った。
山の奥深くに隠さないと、腐らせてしまう。食べる前から腐らせる心配をする経験など、猿王種始まって以来だろう。
「年長の者たちは、肉を一箇所に集めろ!」
「「「「「オオオ!!」」」」」
リウドと若い猿たちは一番大きな部隊が逃げた方向に走る。
さすがに平らな場所が増えてくると、馬は速い。が、それも時間の問題。長時間は無理だが、四ツ足に なって追えば、追って追えない距離ではない。
「……」
まただ。
また、人間たちが逃げずに待ち構えている。
50頭以上いる。
逃げた人間の全員ではない。おそらく、先に逃げた者たちを無事に逃がす為に、目の前の人間たちは残ったのだ。
ヒナを逃がす為に勝てない相手に立ち向かう鳥を、リウドは見たことがあった。
リウドが立ち止まったまま命令をしない為、猿たちは攻撃に移らない。威嚇するだけ。
「無念だ。どうやら私はここで死ぬらしい。そこの黒いの。名は何という?」
「……リウド」
「リウドか。魔物本人から名を聞いたのは初めてだよ。俺の名はガニエ」
「お前が人間の長か?」
落ち着いて見えるのがその人間だけであったから。
他の人間たちは血走った目で睨んでいるが、足は震えているし、強者を目の前にした恐怖の色を隠せていない。
「長? まぁ、一軍の将なのだから長と言えば長だな。一つ訊くが、お前は魔人か?」
「マジン?」
聞いたこともない言葉だ。
「リウド、時間カセギだ。早く狩るベキダ」
注進したのはゴドウ。
目の前の人間が時間稼ぎをしていることくらい、リウドも分かっている。分かった上で、尋ねたいことが次から次に溢れ出てくるのだ。
「お前が逃げなかったのはなぜだ? 弱い人間を逃がす為カ?」
「それもあるが、まぁ、逃げない人間もいるということだろう」
「逃げる人間と、逃げない人間か。他にはどんな人間がいる?」
「いろいろいるさ。人間はお前たちと違って、数が多いからな」
「……」
現在、リウドの群れには猿王種が子猿も入れて60頭以上いる。確かに人間に比べれば、遥かに少ない。
猿王種ほど食べないにしても、人間だって食べるものが必要なはずだ。そうでなければ飢え死にする。今日だけでも数え切れないほどの人間を見、そして倒した。彼らは何を食べて生きているのだろうか。60頭でも食糧の確保は大変なのだ。
「だが、お前たちが次に出会う人間は決まっているぞ」
「どんな人間だ?」
「お前たちを狩る人間だ」
殿を務めた精鋭約50名だけあって、敵わないまでも、猿王種に小さな傷を負わせた者は多数。それでも、全員討ち死にするまで5分と掛かっていないだろう。
強者と弱者の戦闘とはそういうものだ。
「人間モ旨イが、この獣はモット旨そウだ。この太モモを見ろ!」
馬であった。
戦闘中こそ暴れはしたが、手綱を引くと大人しくなった。今ではもうブルッブルッと鼻を鳴らすだけで、全く逃げ出す気配はない。猿王種を新たな主人と認めたのか、あるいはただ恐怖しているだけか。
いずれにしても、リウドたちは生きた馬を20頭以上確保することに成功。人間たちのように乗り物にすることは出来ない(体格的に)が、餌さえ与えておけば、腐らずに済む。人間の肉が尽きた時に殺せば良いのだ。生きた大人しい獣はそれだけで価値がある。
それもガニエの作戦だったのかも知れない。
馬は一頭600kg以上ある。一頭で人間10人分近くある計算になる。現に、猿たちは食べがいのありそうな馬の身体をペタペタと嬉しそうに撫でている。
実際、リウドは逃げた人間たちの追跡を命じなかった。
殿を務め、討ち死にした50名余りの兵たちの命は無駄ではなかったのだ。
「四ツ足の獣の背に人間の死体を載せるだけ載せろ。残りは俺たちで運べるだけ運ブぞ」
「「「「「おゥ!」」」」」
猿たちは武器以外の鎧や衣服、ブーツなどの装備を手早く剥ぎ取る。そして、両肩に死体を二体ずつ。猿一頭で計四体の死体を運ぶのがバランスが良いようだ。拠点(ラモン村)に戻れば背負子があるが、今は持ってきていない。
武器はなるべく持ち帰るようクラドに言い含められている。
「(軽すぎて使いにくいが、確かに人間の武器は良く斬れる)」
指先で剣の刃をソッと撫でると、ザリザリと尖っているのが分かる。どうやったらここまで鋭利に加工出来るのか。
リウドは周囲の猿たちを見渡す。
身体のあちこちに浅い切り傷が散見された。白い毛が所々赤く染まっている。丁度、雪ヒョウなどを相手にした時に、爪がかすったような傷痕だ。一晩で塞がる程度の傷だが、傷は傷。
決して肉までは届いていないが、皮一枚程度裂く程度のダメージなら、弱い人間にも与えられるということだろう。
「(なるほど、服一枚が皮膚一枚だと考えレば、人間が服を何枚も着る意味が分かるな。お互いにこれほど斬れる武器を振るうなら、薄くても着る意味ガある)」
若い猿も、年長の猿も、皆、表情は明るい。
拠点に戻ったら、腹がはちきれるほどに肉を食える。その期待からか、一頭につき四体の死体を担いでいるのに、皆の足取りは驚くほど軽い。
「一度でハ運ベナいナ」
「広場に戻ったら、一箇所に集めて、頭と内臓を落としていく。それとアレを試してみたい」
馬車の荷台である。
敵物資の鹵獲は戦の最も重要な仕事の一つだ。1500人規模の部隊なら、残された糧食も期待出来るだろう。
そもそも倒した人間の死体がそのまま戦利品となるのだから、戦闘糧食など誤差に過ぎないのだが、リウドを始め、一部の猿たちは「酒」の存在を知っている。糧食の中には「酒」も含まれているだろう。
「何とも用意の良いことダ。ガヒッ、ガヒッ」
リウドたちが最初に戦闘が行なわれた開けた場所に戻ると、既に裸に剥かれた人間の死体が山積みになっていた。クラドの指示だろう。馬車の荷台には武器などもまた大量に集められている。
良く見ると、荷台の車輪が面白いのか、クラドが荷台を押したり引いたりしている。
「(木の輪切りを転がすことで、少ない力で物を運べるのだな)」
車輪の有用性をリウドは一目で理解した。
遠くからも「戦」の勝利が確認できたのだろう。カノウと共に山の中腹に隠れていた小猿たちも駆けつけ、キャッキャと騒いでいる。人間の死体を掲げ、楽しそうに追いかけっこをしている。
「大勝利ダナ」
リウドに気付いたクラドが一声かける。
「ああ、大勝利だ」
山積みの死体を見ていると、身体の内から勝利の喜びが湧いてくる。大きな獲物を狩れた時に感じる喜びとは桁違いの喜びだ。
積み重なった人間の死体を見るに付け、胸の奥がふつふつと沸き立つようであった。
もはや我慢の限界であった。
否、元々我慢するようなことではない。内に熱いものがあるなら、爆発させれば良いのだ。それが生きている証だろう。
山岳の王たる証を立てれば良いのだ。
「俺たちの勝利だッ!!」
リウドはそう言葉にせずにはいられなかった。
この勝利が誇らしい。
「「「「「ショうリだ!!」」」」」
「勝利だ!!」
この膨大な戦果が喜ばしい。
「「「「「ショうリだ!!」」」」」
両手を突き上げる者。その場で飛び跳ねる者。ガヒガヒと大笑いする者。人間の死体を振り回す者。
喜びの表現は猿それぞれだが、一様に湧き上がる喜びを爆発させていた。
ピレト山脈の一部、カレイニア王国はガレニア領ラモン村からさらに山を下った麓近く。
一帯に猿王種の勝ち鬨が上がった。
「「「「「ガヒッ、ガヒッ」」」」」
勝利に酔いしれる猿たち。
一点の曇りもない歓喜。
やはり、猿王種は山岳の王であった。
「(こんな喜び、生まれて初めてだ……)」
それなのに――
どうにもリウドの胸の奥に何かが引っ掛かる。
こんな時こそ、考えるのだ。
他の猿たちが気付いていないことがあるはずだ。
考えることでリウドは猿たちの王となった。
ならば、これから先も考え続けるべきだ。
その時、リウドの頭にふと、ある考えが浮かんだ――否、やっと気付いたと言った方が正確か。
逃げない人間を見た時の戸惑いの正体。
リウドはそれを振り払うように、大量の戦利品=人間の死体を見る。
数百体の勝利の証。永遠に食べきれないのではないかと錯覚するほどの肉。
だが、振り払えない。
むしろ、怒涛のようなイメージがリウドに押し寄せる。
それは仄暗く、気持ちが重くなるような、嫌な感じのものだ。
「ドウしタ、リウド。疲れタのカ?」
リウドの身に何かを感じたゴドウが気遣う。
「いヤ、何でモナい」
無意識に言葉がなまる。
山積みの人間の死体が、一瞬、白猿の死体と重なる。
山積みの白猿の死体。
それは魔眼やスキルといった類のものではない。立場を変えて想像してみる、という当然の思考。
「(ッ……)」
リウドの中で、リィーンという、あの澄んだ音が響いた。
人間を大勢倒したからレベルが上がったのだろうか。
それとも――
『お前たちを狩る人間だ』
あの逃げなかった人間はそう言った。
「(俺たちが狩られる?)」
山岳地帯における食物連鎖の頂点に君臨する猿王種。
体長は3mを超え、体重は500kgを超える個体すら珍しくない。
群れを率いるリーダーは若干15歳にして、全身の毛はほとんどが黒と化している。猿王種60頭余りを率い、1500名を超す軍隊を蹂躙。しかも一頭の被害すら負わず、完全勝利。
あの人間は逃げなかったが、弱かった。
しかし、もし、逃げない上に、強い人間がいたら?
『お前たちを狩る人間だ』
考えただけで胸が苦しくなる。
今まで考えたこともなかった。自分たちは狩る側だ。狩られる側であるはずがないと。
なるほど、山頂の穴にいたリュウは簡単には狩れないだろう。1vs1なら、どんなに工夫しても、絶対に勝てない。
だが、その時は数で攻めれば良いのだ。今日手に入れた人間の武器を使うのも良いだろう。人間の武器なら、リュウの固そうな皮膚も貫きそうだ。それでも尚、勝てないなら、逃げれば良い。
いや、そもそも狩らなければ良い。
放置だ。
あの穴に近付かなければ良いのだ。
それで一頭も死なずに済む。
リュウを狩らなくても、弱い人間を狩れば、飢えることはない。
何で苦労して、あんな巨大で凶暴で固そうなトカゲを狩らなくてはならないのだ。
『お前たちを狩る人間だ』
人間の中に、俺たちよりも強いやつがいるのか?
そんなことがあり得るのか?
こんな小さく弱い人間が、俺たちを狩る?
リウドの中で未知を探る為の思考が駆け巡る。
リウドの視界にクラドが入る。
クラドはリウドよりも身体が大きい。猿王種は白→灰→黒と毛色を変えることで上位種にランクアップするが、逆に、身体は小さくなる。10歳くらいの個体が、サイズ的には一番大きい。歳を取るにつれ、ランクアップするにつれ、無駄な部分が削ぎ落とされていくように身体は小さくなっていく。
それでも、リウドの身体は2m50cm近くあるのだが。
「(俺はクラドよりも小さいが、クラドよりも速くて強い)」
種としての特性だけではなく、個体差もあるだろう。
ならば、今日出会った人間よりも強い人間は間違いなくいる。
問題は、その人間が猿王種よりも強いのかということ。
猿王種よりも強い人間が一頭でもいれば、それはすなわち、猿王種にとっての脅威となりうる。
再び、リウドの中でリィーンと澄んだ音が響く。またレベルが上がったらしい。リウドにレベルが上がった自覚はないが、頭の中がクリアになる感じは、経験的に知っている。
「(いるのだな。俺たちよりも強い人間が)」
『お前たちを狩る人間だ』
「(あの逃げなかった人間は、俺たちよりも強い人間を知っていたんだ)」
先ほどまで、本当に沸騰しているのではないかと思えるほど熱かった身体が、一気に冷たくなる。
「(俺たちよりも強い人間が、俺たちを狩りに、来る……?)」
その恐るべき結論に至り、猿たちの歓喜の喧騒がやけに遠くに感じられた。
出会いがしらの戦闘ではない。
自分たちよりも強い人間に狙われるという恐怖。
自分たちよりも強い人間がたった一頭のはずがない。
あれだけの数がいるのだから。
人間は腐った肉に涌くハエよりも多くの数がいる。
そもそも、人間がどれだけの数いるのかさえリウドには分からない。
それはわずか8日後のことであった。
リウドはあの人間の言ったことが本当だったことを知る。
人間の中には、猿王種を狩れる者がいる。
それも、リウドの両手の指の数よりも多く。




